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第二形態から第三形態への「逆転」に難くせ
貨幣は価値形態論の範囲外か
富塚のマルクス「価値形態論」批判
(田口騏一郎)


 富塚の再生産論、恐慌論については、これまで本紙で何回か取上げられてきた。ここでは、富塚の価値形態論を取りあげよう。彼は、恐慌論に関して、商品流通から貨幣が如何に生じるかを正しく理解することなしには、「恐慌の原基形態」をも正確に把握することはできないが、現行『資本論』の価値形態論では、第二価値形態(展開された価値形態)から第三価値形態(一般的価値形態)への移行についてのマルクスの展開の仕方は問題があると論じている(未来社刊、『増補・恐慌論研究』所収、「価値形態論と交換過程論」)。以下では、この問題について検討しよう。

◆どこが問題か

 まず、富塚の主張を見よう。マルクスは『資本論』において、展開された価値形態から一般的価値形態への移行について次のように書いた。

 「とはいえ、展開された相対的価値形態は、単純な相対的価値表現すなわち第一の形態の諸等式の総計から成っているにすぎない。たとえば、
 20エレのリンネル=1着の上着
 20エレのリンネル=10ポンドの茶
などの総計からである。
 しかし、これらの等式は、それぞれ、逆にすればまた次のような等式を含んでいる。すなわち
 1着の上着=20エレのリンネル
 10ポンドの茶=20エレのリンネル
などを含んでいる。
 じっさい、ある人が彼のリンネルを他の多くの商品と交換し、したがってまたリンネルの価値を一連の他の商品で表現するならば、必然的に他の多くの商品所有者も彼らの商品をリンネルと交換しなければならず、したがってまた彼らのいろいろな商品の価値を同じく第三の商品で、すなわちリンネルで表現しなければならない。――そこで、20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 =etc.という列を逆にすれば、すなわち事実上すでにこの列に含まれている逆関係を言い表してみれば、次のような形態が与えられる」(全集版、第一巻87〜8頁)

 そして、一般的価値形態としてマルクスは次の等式を書いているのである。

 1着の上着      =
 10ポンドの茶    =
 40ポンドのコーヒー =
 1クォーターの小麦  =  20エレのリンネル
 2オンスの金     =
 1/2トンの鉄     =
 x量の商品a     =
 等々の商品      =

 このマルクスの叙述に対して富塚は、次のように批判している。

 「問題は『開展された価値形態』(富塚が「開展された」としているのは訳の違い)を構成するところの・同一の商品についての単純な諸価値表現を示す諸等式のそれぞれが『同一の等式〔関係〕を逆の関連でも含んでいる』とされている点にある。だが20ヤールの亜麻布=1着の上着と言うイコールで結ばれた等式関係における左辺と右辺との意味の相違を考慮すれば、そうはいえないだろう」、「20の亜麻布=1着の上着という等式関係と1着の上着=20の亜麻布という等式関係は決して同じ等式関係なのではなく、相互に別個の・本質的に異なった等式関係なのである。前者の等式関係が後者のそれを当初から『含んでいる』とすることはできない」(243頁)

 マルクスが『資本論』で、展開された価値形態から一般的価値形態への移行に関して、展開された価値形態の等式の左辺と右辺を「逆転」させたことについて、富塚は左辺と右辺との意味の区別を無視した叙述であると批判しているのである。

◆マルクスによる「逆の関係」の意味

 勿論、等式における左辺すなわち相対的価値形態と右辺である等価形態とでは意味は異なる。たとえば、20エレのリンネル=1着の上着という等式において、20エレのリンネルは、自分は価値として1着の上着に等しく、いつでも上着と交換できるとして自分を上着に等置するという形で自らの価値を表現するのではない。リンネルは、上着は価値として自分と等しくいつでも交換できるとして、上着に自分に対する交換可能性の形態を与え、価値物という形態規定を与えることによって、上着を価値物として自分に等置する。こうして上着の使用価値がそのままリンネルの価値を現している。これがマルクスのいう価値表現の「回り道」である。右辺の上着は、リンネルの価値を現しているのであって、自らの価値を表しているのではない。

 このように、リンネルと上着が同じ価値を持つものとして直接等置されるのではなく、リンネルの価値を表現するためには「回り道」を必要とするのは、商品生産社会においては、労働が直接社会的なものとして行なわれるのではなく、私的労働として行なわれるからである。

 マルクスが展開された価値形態から一般的価値形態への移行について、展開された価値形態の左辺と右辺を「逆転」させたことは、富塚が言うように相対的価値形態と等価形態の違い、すなわち価値表現における「回り道」の意味を無視したということではない。

 実際、マルクスは等式は「逆の関係」を含んでいるということを単純な価値形態のところでも次のように述べている。「もちろん、20エレのリンネル=1着の上着 または20エレのリンネルは1着の上着に値するという表現は1着の上着=20エレのリンネル または1着の上着は20エレのリンネルに値するという逆関係を含んでいる」(同前、66頁)。そしてこれに続けてマルクスは「そうであっても、上着の価値を相対的に表現するためにはこの等式を逆にしなければならない」(同)といっているように、相対的価値形態と等価形態との違いは明確である。ここで「逆関係を含んでいる」というのは、等価形態にある上着側から見れば、上着の価値はリンネルによって価値が表示されている、すなわちリンネルも上着も同時に価値を現しあっているという意味ではない。上着の価値を表示するためには、上着はリンネルを等価形態に置かれなくてはならないのである。「逆関係を含んでいる」というのは、上着もまた商品としてリンネルの場合と同様に相対的価値形態の立場にたって、リンネルを等置することによって自らの価値を表示することができるということを言っているのである。

 マルクスが、展開された価値形態から一般的価値形態への移行に際して、「逆関係を含んでいる」と言ったのは、単純な価値形態で述べたのと同じ意味なのであって、左辺と右辺の違いが不明確になっているという富塚の主張はマルクスの言うことを理解していない。富塚の言うように、「逆の関係を含んでいる」という言い方が間違いだとするなら、単純な価値形態のところでのマルクスの言っていることも否定されなくてはならないだろう。しかし、今みたように、単純な価値形態のところでは左辺と右辺との違いについて明確なので富塚はここについては問題にしていないし、できないのである。マルクスを素直に読めば、「逆の関係を含んでいる」といっても何の不都合もない。首尾一貫していないのは富塚であってマルクスではない。

◆「逆転」について

 マルクスが展開された価値形態を「逆転」させて、リンネルを等価形態に置いたこと、すなわちリンネルでもって他の商品の価値を示す一般的価値形態について、富塚は次のように批判している。

 「もし、……マルクスの言うように、20ヤードの亜麻布=1着の上着あるいは=10ポンドの茶あるいは=等々、という、亜麻布にとっての展開された価値表現の形態を構成する価値表現の系列のうちに、『事実上すでに、逆の関係が含まれている』とするならば、展開された価値形態はあらゆる商品について同時に成立しうるのだから、あらゆる商品が同時に『一般的な等価形態』に立ちうることになり、あらゆる商品が同時に『等価物』として他のすべての商品に対する『直接的な交換可能性の形態』をうることとなる。かくて、『貨幣』は、せいぜいのところ、『交換の不便』をとりのぞくための便宜的な手段にすぎないこととなる。だが、各個の諸商品がそれぞれに展開しまた展開せざるをえない『開展された価値形態』が『逆の関係』を含みえないこと、各個の商品にとっての・相互に異なる展開された諸価値表現をひっくり返した形態が、同時的には成立し得ないこと、すなわち、全ての商品が同時に『一般的等価物』となり、すべての商品に対して『価値物』たることはできないこと、そこにこそ、諸商品の全面的な交換関係に固有の形態的矛盾と困難があるのである。この矛盾は、それに独自の『運動形態』をうることはできるが、商品生産の基礎上では決して解決・解消されることはできない。まさしく、商品(生産物の商品形態)に内在的なこの矛盾が、その『運動形態』をうるものとして、『貨幣』成立の必然性が論証されなければならないのである。前掲の『資本論』における第二形態から第三形態への移行に関する論述は、むしろこの矛盾の所在を不明確ならしめるものというべきではなかろうか」(245〜6頁)

 富塚は、マルクスが展開された価値形態を安易にひっくり返して、亜麻布を一般的等価形態においたのはおかしい、亜麻布が一般的等価物となりうるとしたら他の商品もまた一般的等価物になりうるというべきであり、ここに一般的な価値形態の矛盾があり、一般的等価形態の叙述はこの矛盾を明らかにすべきであった、ところがマルクスは、一般的な等価物――事実上の貨幣形態――について語っているのは言い過ぎたと批判しているのである。

 リンネルを一般的等価形態としたことについては、久留間が述べている(『貨幣論』)ようにマルクスは限定して言っていると理解すべきだろう。すなわち「じっさい、ある人が彼のリンネルを他の多くの商品と交換し、したがってまたリンネルの価値を一連の他の商品で表現するならば」と断っているように、もし仮にリンネルが他の多くの商品と交換されるとするなら、あらゆる商品の価値はリンネルによって示されるといっているのである。

 ここで、リンネルが一般的な等価形態に立つということはできない、リンネルが一般的等価形態に立つことができるとするなら、リンネル以外の商品もまたそれぞれ一般的等価形態に立つことができるのであって、こうした一般的等価形態の矛盾の指摘にとどまるべきだという富塚の批判は価値形態論の独自の課題を理解していないといわざるを得ない。

 価値形態論の課題は、商品の価値の表示を通じて「如何にして」して生まれまれながらにして自らを価値体として諸商品の価値を示す貨幣が生じるのかということを明らかにすることである。単純な価値形態においては、相対的価値形態にある商品の価値は等価形態に置かれた商品の自然の姿、使用価値によって現される。それはまだリンネルと上着という二つの商品の関係だけを問題にしている。しかし、リンネルの価値は、上着によってだけではなく、その他の商品によっても示される。単純な価値形態から展開された価値形態への移行は、リンネルの価値を現す商品の系列を続けたものになる。展開された価値形態ではリンネルのみならず、他の商品について、自らの価値を現すために自分以外の全商品を等価形態に置いた等式が成り立つことはいうまでもない。

 ある商品の価値をその他の商品で示されるとすれば、次の段階は全ての商品の価値をある特定の一つの商品で示すことである。一般的価値形態は展開された価値形態の発展として導かれているのである。マルクスは、一般的等価形態に置かれた商品をリンネルで示した。それはたとえばのことであって、リンネル以外の商品でもかまわない。諸商品の価値をある特定の商品で統一的に示すということが問題である。そして、この展開された価値形態から貨幣形態への移行は困難な問題はない。一つの商品が自分以外の全ての商品の価値を統一的に示すとすれば、それは事実上の貨幣であり、一般的等価形態と貨幣形態との違いは、リンネルに代わって金が一般的等価形態の位置を占めているということ以外ではないのである。

 商品の価値表現の発展として、貨幣は必然的に生まれた。マルクスは価値形態論でこのことを明らかにしているのであって、二つの商品の関係を問題とした単純な価値形態から進んで一つの商品が他の商品の価値を統一的に示す一般的価値形態、さらに貨幣形態を明らかにした。一般的価値形態においては、価値形態の発展として諸商品の価値をある一つの商品で示すということが明らかにされればいいのであって、富塚のいうような「諸困難」はさしあたり問題ではないのである。

◆初版本との関係

 ところが、富塚は価値形態論では、この「困難」をこそ明らかにすべきであって、貨幣形態まで論じることは間違いで、貨幣がなぜ生じるかを不明確にすると言うのである。

 富塚がその根拠としているのが、『資本論』の初版本でのマルクスの叙述である。そこでは、一般的等価形態に続いて、一般的等価形態で示された等価形態におかれた「リンネルについて当てはまることは他の商品についても当てはまる」として「第4」の形態として次のような等式を掲げている。

 「20エレのリンネル=1着の上着 または=u量のコーヒー または=v量の茶 または=x量の鉄 =y量の小麦 または=等々.
 1着の上着=20エレのリンネル または=u量のコーヒー または=v量の茶 または=x量の鉄 =y量の小麦 または=等々.
 u量のコーヒー=20エレのリンネル =1着の上着または=v量の茶 または=x量の鉄 =y量の小麦 または=等々.
 v量の茶=等々」(国民文庫、『資本論第一巻の初版』75〜6頁)

 そして、これに続いて次のような説明が行なわれている。

 「しかし、これらの等式のそれぞれは、逆の関係にされれば、上着、コーヒー、茶、等々を一般的な相対的な等価物として現われさせ、したがってまた上着、コーヒー、茶、等々においての価値表現をすべての他の商品の一般的な相対的価値形態として現われさせる。一般的な等価形態は、つねに、すべての他の商品に対立して、ただ一つの商品だけのものになる。しかし、それはすべて他の商品に対立して、どの商品のものになる。しかし、どの商品でもがそれ自身の現物形態をすべての他の商品にたいして一般的な等価形態として対立させるとすれば、すべての商品がすべての商品を一般的な等価形態から除外することになり、したがってまた自分自身をもその価値の大きさの社会的に認められる表示から除外することになる」(同、76頁)

 初版本では、第1章「商品」は、現行本のように三つの節に区分されていないで、価値値形態は「商品」の中で論じられている。そして、価値形態のところでは貨幣形態については論じられることなく、貨幣は交換過程で登場する叙述になっている。しかし、「第1章への付録」として、あらためて価値形態が取上げられ、論じられている。ここでは現行本のような四つの価値形態として、「V」の一般的価値形態形態に続いて「W」の形態として「貨幣形態」が論じられている。マルクスは、版を改めるに際して、本文の「第4」の形態の代わりに付録の「W」の貨幣形態を入れた。現行本の価値形態は、初版本の「付録」の価値形態論を採用している。そして、本文の価値形態「W」で述べられたことは交換過程に移された。そこでマルクスは次のように述べている。

 「どの商品所持者も、自分の欲望を満足させるため使用価値をもつ別の商品とひきかえにでなければ自分の商品を手放そうとはしない。そのかぎりでは、交換は彼にとってただ個人的な過程でしかない。他方では、彼は自分の商品を価値として実現しようとする。すなわち、自分の気にいった同じ価値の他の商品でさえあれば、その商品の所持者にとって彼自身の商品が使用価値をもっているかどうかにかかわりなく、どれででも実現しようとする。そのかぎりでは、交換は彼にとって一般的な社会的過程である。だが、同じ過程が、すべての商品所持者にとって同時にただ個人的でありながらまた同時に社会的であるということはありえない。
 もっと詳しく見れば、どの商品所持者にとっても、他人の商品はどれでも自分の商品の特殊的等価物とみなされ、したがって自分の商品はすべての他の商品の一般的等価物と見なされる。だがすべての商品所有者が同じことをするのだから、どの商品も一般的等価物ではなく、したがってまた諸商品は互いに価値として等置され価値量として比較されるための一般的相対的価値形態をもっていない。したがってまた、諸商品は、決して商品として相対するのでなく、ただ生産物または使用価値として相対するだけである」(同前、109〜110頁)

 すべての商品所有者が自分の商品を他の商品に対して一般的等価にしようとすることによる矛盾は、全ての商品所有者が自分の商品についていだく願望とは反対の関係が成立することによって解決される。すなわちすべての商品のうちから一つの商品を除外して、それに一般的等価物としての形態を与えて、その一般的等価としての商品との関連を通して相互に諸価値として関連することになる。

 すべての商品は商品として等価形態になることができる可能性をもっているが、その可能性を捨てて、一つの商品に与えるという社会的に共同作業を行い、こうしてそれを一般的等価として、そしてその商品の数量において、諸商品は相互に比較されるようになる。

 以上のことが行なわれるのは交換過程である。マルクスは先に引用した文に続いてこう述べている。

 「われわれの商品所持者たちは、当惑のあまり、ファウストのように考えこむ。太初(はじめ)に業ありき。だから、彼らは考えるまえにすでに行なっていたのである。商品の本性の諸法則は、商品所持者の自然本能において自分を実証したのである。彼らが自分たちの商品を互いに価値として関係させ、したがってまた商品として関係させることができるのは、ただ自分たちの商品を、一般的等価物としての別の或る一つの商品に対立的に関係させることによってのみである。このことは、商品分析が明らかにした。しかし、ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を除外して、この除外された商品での他の全商品が自分たちの価値を全面的に表すのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品は――貨幣になるのである」(同前、116頁)

 現行『資本論』第1章「商品と貨幣」の第3節「価値形態または交換価値」では、前節で明らかにされた商品の価値の実体は社会的抽象的労働であるということを受けて、商品の価値はいかにして現象するか、如何なる形態で示されるかを分析することであった。ここでは商品の価値は直接示されるのではなく、他の商品の使用価値をもって現わされること、そしてそれ自身が他の全ての商品の価値を現わす一般的等価物としての貨幣が明らかにした。これに対して第2章の「交換過程」では、なにによって貨幣が生まれるかを明らかにしているのである。マルクスは、商品所有者たちの商品交換を通じた共同の行いが、ある特定の商品を一般的等価物とすると述べているが、このことを明らかにすることが交換過程の課題である。交換過程の貨幣についての究明は、「価値形態または交換価値」での貨幣形態の分析を前提としているのである。富塚の初版本の叙述を取り入れ、貨幣は交換過程で論じるべきだという主張は、マルクスの『資本論』をより完璧にしようとする意図がわかっていないことを示しているというべきだろう。

『海つばめ』第1016号(2006年5月7日)


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