富塚良三の「余剰生産手段」と
「均衡蓄積率」の観念
それが過少消費説とケインズ主義に帰着する必然性
林 紘義
1、富塚の問題意識
富塚良三の「均衡蓄積率」の理論は、「マルクスの拡大再生産表式こそ恐慌論の基礎になるものだ」、という戦前の“講座派”(“スターリン主義経済学派”)の代表的な論客、山田盛太郎の“伝統的”な理論的見地を受け継ぎ、それをいわば“精密に”仕上げ、完成させたものであり、まさに恐慌を“論理必然的に”論証するものである、と持ち上げられている。それはローザ的、過少消費説的欠陥――恐慌を再生産表式から“直接に”説明するやり方――と共に、恐慌論において再生産表式を“軽視”もしくは“無視する”欠陥をも、つまり両極端の欠陥を止揚する、まさに完璧なものだそうである。我々は、ここでは、彼の“蓄積論”(拡大再生産論)の根底である、「余剰生産手段」と「均衡蓄積率」の観念を取り上げる。
なお、マルクスの再生産表式の理論は、資本主義的生産様式における、年々の再生産を(単純再生産の場合も、拡大再生産の場合も)総体的かつ概念的に(法則として)一つの表式で明らかにしたものあり、そこでは、年々の再生産が「価値的側面」と「素材的側面」において――その相互関係と絡み合いにおいて――全体的に示されているのであって、極めて重要なものであること――資本主義の全体像の理解にとって、そしてまた将来、労働者階級が権力を奪取し、社会主義的社会を組織して行く上で――に、読者の注意をうながしたい。なお、記号は断わりなき場合、cは不変資本、vは可変資本、mは剰余価値、Wは生産物価値を示すものとする。
さて、富塚が『資本論』第二巻の「拡大再生産表式」にこだわるのは、それが「恐慌の必然性」を論理的に明らかにするカギを握っていると思い込んでいるからであり、ただそれを契機にしてのみ恐慌論を論じることができると信じているからである。彼の問題意識の根底は、以下のようなものである。
「かくして『敵対的分配関係』の基礎上での蓄積と生産の盲目的・無制限的拡張への傾向という『恐慌の究極の根拠』をなす基本関係そのものは、『資本論』第一部『資本の生産過程』、とりわけその第七篇における『蓄積の内的作用』の解明によってすでに基本的に明らかにされているのである。だが、それは社会全体としてみた『価値及び剰余価値の実現』が問題となる資本の総=流通・再生産過程においてはじめて、『恐慌の要素』として現われる。それによってまた、恐慌の『一般的・抽象的な可能性』ないしは『抽象的形態』は、『十分な内容をもった動因』を含むものとして、『自己を表明する基礎』を得たものとして現われことになるのである。だが、その点をただ指摘するだけでは十分ではない〔こうした言い回しはマルクスへの批判?……林〕。
また、『再生産の諸条件』は『生産過程と流通過程の統一』の諸条件であると同時に、その『分裂』の諸条件であることを強調するだけでも決して十分ではない〔?〕。さらにまた、資本流通と所得流通・生産的消費と個人的消費の交錯=連繋を制約する両部門の均衡関係に絞って、恐慌はその等式関係の『貫徹形態』であると論じるだけでは、『不均衡の均衡化は暴力的形態をとり得る』と述べるにとどまる〔?〕。
恐慌の可能性が現実性への転化の実在的基礎を与えられ、『根拠づけられた内容』を得たものとして把握されうるためには、『生産と消費の矛盾』によって全生産物の実現が制約される次第が、再生産表式分析によって明らかにされなければならないであろう」(『資本論体系九巻・〈恐慌・産業循環〉上』、二三〜四頁)。
ここには、『資本論』の第二巻の理論の性格やその内容、そして意義についての根本的に間違った観念が表明されている。富塚にとっては、第二巻とりわけその拡大再生産表式は、恐慌論にとってこそ決定的な意義をもつのであり、「恐慌の必然性」を論証するものなのである。そして、「恐慌の必然性」の論証は、「『生産と消費の矛盾』によって全生産物の実現が制約される次第」を明らかにすることによって可能となる、と言うのである。別の言い方をすれば、消費制限によって恐慌が起こるという説を論証するためにこそ、「再生産表式」が、その分析、検討が必要であり、本質的な意義をもつのである。
しかし、富塚に言わせれば、こうした自分たちの観念は決して悪名高い、いわゆる“過少消費説”ではない、というのは、消費による制約といっても、それは直接的ではなく間接的であり、「究極的である」と主張するにすぎないからだそうである。
富塚は、マルクスやエンゲルスの言葉を、ただ言葉だけを散りばめることによって、自らの論理を飾り立て、権威づけようとしている。しかし、それらの言葉は、資本主義のどんな側面を、どんな視点から分析し、解明しているかで異なった意味内容を持ってくるのであって、他の理論的課題において意義をもった概念や言葉を、勝手に「再生産表式の分析」に持ち込み、そこに直接に“はめ込み”、適応させてみても、とんでもない、間違った結論に――ある場合には、反対の結論にさえ――行き着くだけであろう。
例えば、富塚は「社会全体としてみた『価値及び剰余価値の実現』が問題となる資本の総=流通・再生産過程」という言葉を盛んに用いるが、しかし再生産表式において問題になるのは、価値と使用価値の両側面において、再生産が行われるために、いかに素材的な相互補填が社会的に行われるかという意味での「価値及び剰余価値の実現」であって、それ以外の意味に“拡張して”理解することはできないのである。ここでは、「需給関係」といった意味での「実現」は一切問題になっていないのである。
だから、富塚が次のように言うのは、全くの的外れであり、ナンセンスである。
「われわれにとっての課題は、『価値及び剰余価値の実現』が問題となる『資本の総=流通過程または総=生産過程』において現われてくる『恐慌の要素』、『充分な内容』をもった動因を含むものとしての『恐慌の可能性』を、再生産表式分析、とりわけ拡大再生産表式の積極的に展開によって、どのように解明すべきかを明らかにし、さらに、その『可能性の現実性への転化』の内的論理・〈必然性〉の論定を行うことである。この肝要な課題において、マルクスの恐慌論は未完成のままに残されている〔?〕。この点をまず明記すべきである」(同二五頁)。(〔 〕内は林、以下同じ)
しかし、『資本論』の第二巻では、つまり“再生産表式”では、恐慌の『可能性の現実性への転化』は基本的に問題にはならないこと、あるいはむしろ問題にすべきではないことは、マルクスが余りにもはっきりと、繰り返して述べている。マルクスは第二巻の段階では、「恐慌の可能性」は拡大し、さらに内容を深めるが、それでも『資本論』の第一巻と同様に、やはり「恐慌の可能性」を明らかにする限界の中に留まることを強調している。富塚もまた、それを知らないはずはない、だからこそ、彼はマルクス批判に乗り出し、マルクスの再生産表式理論は不十分である、「未完成だ」などと思い上がって中傷するし、せざるをえないのである。彼の主張によれば、マルクスの理論は、第二巻や再生産表式によって、それを根底にして「恐慌論」を打ち立てようとせず、また「恐慌の必然性」を明らかにしようともしなかったがゆえに、「未完成」であり、中途半端な“傷物”だと言うのである。
しかしこれはまた何というつまらない、そして思い上がったマルクス批判であることか。こうした俗物どもは、プチブル的で奇妙な観念にこり固まりながら、自分らの方がマルクスよりも、資本主義についてより深い、そしてより“正しい”洞察力や理解を持っているとうぬぼれることができるのであるが、実際には、一文の価値もないような、空虚なドグマをかつぎまわっているにすぎないのである。我々はもちろん、マルクスの理論が――まして、その草稿が(そこから出発したエンゲルス版『資本論』が)――「完璧な」ものであるなどと主張するつもりはないが、しかしだからといって、富塚のような意味で「未完成」であり、ナンセンスであると決して考えないのである。
『資本論』が「完成されている」か、いないかといった議論は全くくだらないものである、というのは、どんな壮大で体系的な理論といえども、一定の課題と限界の中でのみ真実なのであって、そのことを忘れて「未完成だ、完成している」などというのはもともと意味がないからである。ある一つの理論もしくは理論体系でもって、世界中の(全宇宙の)真実を論じ尽くすことは全く不可能であろう。マルクスの『資本論』は人類社会の歴史的な一段階としての、資本主義的生産関係の理論として真実なのであって、それが「未完成」だなどと言う前に――何たる増長慢か、何たる思い上がりか――、その理論から学ぶことこそ必要であり、労働者の課題なのである。
そしてまた、マルクスの理論は、富塚の言うような意味でなら、決して「未完成」ではないのである。もちろん、マルクスの理論であれ、誰の理論であれ、一定の意味で欠陥のない理論、「未完成」でない理論といったものはないであろう。しかし富塚は一体どんな意味で、マルクスの理論(ここでは、拡大再生産の理論もしくはその表式)の欠陥や未完成について騒ぎ立てているのであろうか、それが問題である。富塚はマルクスが自分のつまらない俗見と一致していないからということから、マルクスの理論は「未完成」などと言いはやし、マルクス理論を中傷するのだが、それは自らの理論的立場の根底的な歪みとプチブル性と卑俗さを暴露しているにすぎないのである。
我々はこのことを、富塚の「蓄積理論」の根底である「余剰生産手段」と「均衡蓄積率」の観念を取り上げることによって明らかにしよう。
富塚の「余剰生産手段」と「均衡蓄積率」の理論がドグマであるのは明らかだが、しかしその“論理構造”がいかなるものであるかを明らかにし、それを“内在的に”批判するのはそれほど簡単なことではない、というのは、そもそも富塚が何を言おうとしているのかを“合理的に”理解することからして困難だからである。
2、「投下総資本」と「総生産物価値」
まず問題になるのは、彼が「投下総資本」と「総生産物価値」を概念的だけでなく、量的にも違ったものとして持ち出していることであるが、これは社会の総生産とその循環について論じる場合――つまり再生産表式について議論する場合――には全くナンセンスであり、間違っている。ここで問題になるのは、「総生産物価値」であって、それとは区別される「投下総資本」――資本家の最初の投資額という意味での――ではない。富塚は、社会的な再生産表式について議論する場合、初期投資としての「投下総資本」といったものは問題にならないこと、あるいは年々の「総生産物価値」と一致する限りで問題になり得ることを知らないのであるが、これは彼が概念というものを理解する能力が全くないからであるにすぎない。彼は、再生産表式は当然にも「商品資本の循環」として考察されなくてはならない、というマルクスの方法とその意義を全く理解していないのである。
彼が持ち出す再生産表式は以下のようなものである。彼はそれを二つ提出するのだが、それはマルクスがいくつもの再生産表式を提出していることとは全く別の意味をもっている。つまり二つの再生産表式は本質的に違った内容を持つのである。
まず、「社会の投下総資本の構成」が問題だが、両部門とも、その有機的構成は一〇対一とする、つまり不変資本は可変資本の一〇倍である(F=固定資本、R=流動資本。なお、アルファベットは富塚のまま、すべて大文字)。
T 15000K(うち固定資本10000F、流動資本5000R)+1500V
U 5000K(うち固定資本 3333F、流動資本1667R)+ 500V……(1)
この「投下総資本(二二〇〇〇)の構成」と区別された、「総年生産物W’(一二〇〇〇)の価値的・素材的構成」は、以下のようである。彼は以下の式に基づいて、「余剰生産手段」と「均衡蓄積率」の観念を提出する(もちろん、こちらの(2)式こそ正当なやり方だが、しかし富塚は一貫することができず、ここに(1)式の観念を密輸入して混沌としている)。
T 6000C+1500V+1500M=9000W1
U 2000C+ 500V+ 500M=3000W2……(2)
資本構成においては、第T部門の固定資本は一〇〇〇〇であるが、年総生産物における固定資本は一〇〇〇にすぎず、あとの五〇〇〇は流動資本であるとされている(したがって、不変資本全体は六〇〇〇である)。これは固定資本の年間価値移転分が、その一〇分の一と前提されているからである。固定資本一に対し、流動資本五というわけである。第U部門においても同様であって、固定資本三三三三のうちの三三三のみが、再生産表式に記され、流動資本の一六六七と合計されて二〇〇〇の不変資本を構成している。
富塚は、以上の前提に立って、したがって、「余剰生産手段」が一〇〇〇である、と主張し、さらに生産力などの諸条件が変化することなく蓄積が行われるとするなら、この「余剰生産手段が過不足なく吸収されるべき蓄積」(追加的資本投下)が行われなくてはならないが、それは一一〇〇(一〇〇〇+一〇〇、この一〇〇は、一〇〇〇の追加資本が投下される場合の可変資本の大きさである)である。したがってこの一一〇〇を、総剰余価値の二〇〇〇で割って、均衡蓄積率は五五%と計算される、というのである。
一〇〇〇の不変資本に対して、一〇〇の可変資本というのは、この追加投資が“初期投資”と考えられているからであり、したがって、有機的構成が四対一ではなく、一〇対一とされるからである。つまり先に述べた「密輸入」である。
かくして、富塚にあっては、「蓄積」(つまり拡大再生産)の概念とは、「余剰生産手段」が「追加的資本投下」によって「実現」されることである。問題は、こうした概念にこそあるのである、すなわちまず「余剰生産手段」が前提され(まさにアプリオリに)、それとは別個に、どこかで「追加的資本」が蓄積され(当然に、これは貨幣資本として、である)、その貨幣資本によって、「余剰生産手段」が「実現される」(購買される、“需要”される)ことによって、初めて現実の蓄積が行われるのである、つまり蓄積(拡大再生産)の概念が得られるのである。
こうした観念自体、途方もないものだが、しかしその批判的検討に入る前に、まず、富塚がここで、不変資本を固定資本と流動資本に分けて問論じていることが正しいのかどうかをしておこう。もし富塚のやり方が、つまりその理論的前提が正しくないなら、富塚理論はその入り口において、すでに破綻しているのである。
富塚の投下総資本(二二〇〇〇)の意味は、当初の資本投下額という意味での「投下総資本」であって、一定の期間における投下総資本の意味ではない。例えば、一年間にそれだけの資本が投下されたということではなく、一年の最初にそれだけの資本が投下されたという意味であって、だからそれは、一年間に投下される総資本とは違っている。例えば、流動資本は一年に何回も回転し、再度投下されるなら、一年の総資本投下額はただそれだけでも初期資本投下額と異なって来る。
固定資本の比率が大きいなら、初期資本投下はふくれ上がるだろうが、それは次年度以下、同じ規模の生産をする場合でさえも投下総資本は減少し得るということであり、固定資本の耐用年数の平均投資額と比べるなら、初期投資額は大きくなっている。耐用年数一〇年の一億円の機械なら、年々の平均資本投下額は一千万円であって、再生産表式の概念においては、それこそが実際の資本投下額として評価されるのである。そしてこの計算によれば、個別資本の場合でさえ、総資本投下額プラス剰余価値と、年間の総生産物価値は一致するし、することができ、概念的に考察することが可能になる。
富塚の例でいえば、当初に固定資本一〇〇〇〇と流動資本五〇〇〇が投下される。しかし次年度からは流動資本の五〇〇〇のみが投下され、かくして一〇年間の総不変資本投下額は六〇〇〇〇、そして可変資本は一〇年間で一五〇〇〇であろう。全資本投下額は七五〇〇〇であり、その年平均額は七五〇〇だが、これは固定資本の年平均償却額一〇〇〇と、流動不変資本五〇〇〇と、可変資本一五〇〇の合計に等しい。そして十年間という期間をとって、この資本の運動を考察するなら、年平均の資本の運動を考察する場合と、諸問題は全く同一のものとして現われる。
彼は「社会の投下総資本」(二二〇〇〇)と総生産物の「価値的・素材的構成」(一二〇〇〇、「資本」だけなら一〇〇〇〇、というのは、ここでは剰余価値二〇〇〇が加えられているから)を区別し、再生産表式は後者において問題にする、つまり彼にあっては、再生産表式の問題が、総資本の再生産と流通という意味では理解されていないのである。総資本と「価値的・素材的構成」とは切り離され、別のものである。
だから、第T部門の剰余価値の蓄積分八二五は、不変資本と可変資本に分割されるが、その場合、“元の”資本構成によってなされるので、四対一(再生産表式における資本構成の割合)ではなく、一〇対一の割合でなくてはならない、つまり不変資本七五〇に対して、可変資本七五であり、第U部門も同様に、二五〇対二五でなくてはならない。
なぜこんな途方もない観念が生じるかというと、富塚は、社会的総資本の「投下」と、その循環を別のものと考えているからである。前者は固定資本の全体が算入されるが、後者においては、ただ固定資本の中の年々の「磨損・価値移転物」のみが考慮される、と言うのである。確かに、個別資本にあっては、年々の総資本と総生産の規模は違ってくるかもしれない、しかしいま問題になっているのは個別資本の再生産ではなく、総資本の再生産であり、この場合には、総資本の規模と総生産規模は一致しなくてはならない、またそうでなければ、資本家的生産は単なる不合理に帰着するしかなく、再生産問題――単純再生産であり、拡大再生産であれ――など一切“科学的に”考察できない、ということになるだろう。
富塚は事実上、二二〇〇〇は一〇〇〇〇に等しいと言うのであり、最初からこんな不合理を犯して平然としているのである。彼にあっては、「総資本」と「総価値」の再生産と流通は別のものだと言うのである。だが、資本家的生産にあって、総資本は総価値であり、総価値は総資本であり、それ以外ではない(もちろん再生産の最初と、その後では違っているが、ここではそんなことを論じているのではない。おかしな言い掛りを付ける人がいるので、念のため)。
つまり、彼は「総資本」の観点からではなく、個別資本の観点から、社会的総資本の再生産と流通を考察しようとするのであり(何というトンマなやり方か!)、それゆえに、社会的総資本(彼にあっては、「総生産物」)の再生産と流通を論じると言いながら、そこに個別資本の“論理”を常に密輸入し、混入してくるのである。
個別資本においては、確かに固定資本の年々の移転分があるため、投下総資本と年々の運動資本は異なり得る、しかしそれは資本の運動を個別資本として見るからであって――ここでは確かに、固定資本は年々、その価値の一部のみが移転され(その耐用年数に従って)、その限り不均衡が現れるが――総資本として見るなら、個々の資本のこうした不均衡は均され、いわば平均化されるのであり、可変資本に対立するものとしては不変資本として総括されれば十分であって、固定資本と流動資本の区別は不要なのである。不要であるばかりではない、ここで、固定資本と流動資本の問題を何か本質的な契機として持ちだすことは根本的に間違いであって、社会的総資本の再生産の問題を考える上で余計な契機を持ち込み、問題を混乱させ、どこか正しくない道に導くだけであろう(事実、富塚にあってはそうなっている)。
仮に十人の資本家がいて、それぞれ十年の耐用年数の固定資本を投下するとする、しかし彼らが毎年、一人ずつ順番にそれを投下するなら、固定資本の年々の移転といったことを、流動資本と特別に区別して考慮する必要がないということ、そして固定資本と流動資本は不変資本として“一括され”、可変資本に対置され、「区別される」だけで十分だということ(年々の総資本の再生産と流通を考察するという問題においては)は余りに明らかであろう。
だから、富塚にあっては、再生産表式は、「総資本」の再生産と循環ではなく、「総生産物」の再生産であり、循環であるにすぎない。彼にあっては、この二つは区別されるのであり、されなくてはならないのである。マルクスにあっては、「総生産物」は社会的な「“総”商品資本」として考えられている、つまりここでは「総生産物」は明瞭に「総資本」であり、その循環、再生産である。
しかし――我々は富塚に問わなくてはならないのだが――、一体、「総資本」の再生産や循環と区別された、「総生産物」の再生産(単純再生産、拡大再生産)や循環とはどんなものなのか、そんなものをいくらかでもまともなものとして想定し、規定することができるのか、また、そうしたことにどんな意味があるというのか(我々の対象は資本主義的生産であり、その「運動」であると、富塚は言わなかったか)。そんなものを想定しようとするなら、それは開始した途端に破綻するしかない試みとなるであろう。もしくは、せいぜい総「貨幣資本」の再生産や循環といった方向――典型的なブルジョア的で、不合理な試み(ケインズ主義などに見られるような)――にそれ、あいは帰着していくしかないだろう、あるいはそうしたことと区別がつかない、珍奇な試みに堕していくだろう。
富塚は、固定資本の補填の「困難」の意味について語っている。
マルクスも固定資本の補填における「一大困難」について語っているが、もちろん、それは富塚らが言うような意味とは根本的に違った意味においてである。固定資本は流動資本と違って、年々、その一部のみが価値として、生産物に移行し、貨幣として実現する。したがって固定資本の現物的補填と価値的補填は実際的、時期的に一致しない。かくして、そこに一定の不均衡が生ずるのであり、マルクスはそれを「一大困難」と表現している。しかしもちろん、この「困難」は実際には表面的なものである。マルクスは固定資本の補填の問題について、次のように語っている。
「しかし、この不合理〔固定資本の補填における〕は外観的なもにすぎない。第二部類は、それぞれの固定資本が、全くその再生産の期限を異にする資本家たちから成っている。ある資本家にとっては、その固定資本が全部現物で補填されるべき時期に達している。他の資本家にとっては、その固定資本は、多少ともこの時期までには間〔ま〕のある状態にある。後の方の部類の資本家に共通なことは、彼らの固定資本が現実には再生産されず、すなわち現物では更新されず、または同種の新品によって代置されないということであり、その固定資本の価値が逐次貨幣で積み立てられるということである。前の方の資本家は、彼がその事業の創設当時にある額の貨幣資本を携えて市場に現われ、一方ではこれを不変資本(固定及び流動)に転化し、他方では労働力、すなわち可変資本な転化したとき、全く(または、ここではどうでもいいことであるが、部分的に)同じ状態にある。当時と同じく、今や彼は再びこの貨幣資本を、したがって、不変流動資本及び可変資本の価値とともに、不変固定資本の価値をも、流通に前貸しせねばならない」(『資本論』第二巻、岩波文庫五分冊一七八頁、原典四五五頁)。
また、マルクスは拡大再生産の場合の、資本蓄積にともなう貨幣(貨幣資本)の積立てについても、次のように語っている。
「しかし、単に一方的な諸取引が、すなわち、一方におけるいくつかの単なる購買、他方におけるいくつかの単なる販売が行われるかぎり――そしてわれわれの見たように、資本主義的基礎の上での年生産物の正常な取引は、この一方的な諸変態を規制する――均衡は、一方的諸購買の価値額と一方的諸販売の価値額が一致するという仮定のもとにのみ、存立する。商品生産が資本主義的生産の一般的形態であるという事実は、貨幣が単に流通手段としてのみでなく、貨幣資本としてそこで演ずる役割を、すでに含んでおり、そして、正常な取引の、したがって、単純な規模なり拡大された規模なりにおける再生産の正常な進行の、この生産様式に固有な特定の諸条件を産み出すのであるが、この諸条件はまた、それと同じく多数の、変則的な進行の諸条件に、恐慌の可能性に、一変する。というのは、均衡そのものが――この生産の自然発生的態容にあっては――一つの偶然だからである」(同二三八頁、原四九〇頁)。
「第一部類の労働者階級の側からの労働力の不断の供給、第一部類の商品資本の一部分の、可変資本の貨幣形態への再転化、第二部類の不変資本の現物要素による、第二部類の商品資本の一部分の代置――すべてこれらの必然的前提は、相互に制約し合うのであるが、しかしまた、相互に独立的に進行しながらも相互に絡み合い三つの流通過程を含むきわめて複雑な一過程によって、媒介される。この過程の複雑さ自体が、変則的進行への誘因を、それだけ多く与えることになる」(同二三九頁、原四九一頁)。
これらのマルクスの文章は、資本主義的な総生産と流通における「正常的な進行」の諸条件、その独立化と相互的規制が、それ自体、無政府的な資本主義的生産のもとでは、不均衡の条件に、恐慌の条件に転化することを明らかにしている。マルクスにあっては、「正常な進行」の概念がある、だからこそ、それからそれていく「変則的な進行」について語ることができるのであるが、他方、もともと資本主義的再生産の「正常な進行」、つまりその概念を欠く富塚が、いかにして、そこからそれていく不均衡、つまり「変則的進行」について、あれこれ述べることができるのであろうか。
資本主義のもとでは、固定資本の補填、更新は、一つの無政府主義的要素ではあるが――多くの他の要素、他の契機と共に――、しかしそれ自体、決して無政府主義的要素ではない(そうであったら、そもその社会主義の概念は成立しないだろう)。だが、富塚にあっては、まさに固定資本の補填は、それ自体として無政府主義的契機なのである(事実上、そうならざるをえない)。
3、「余剰生産手段」と「蓄積」の概念
我々は富塚の「投下総資本」による表式を、「再生産表式」の課題とは全く無関係のもの、一つの“夾雑物”として退けたので、次に、もう一つの富塚の表式に向かうことにしよう。果たして二番目は、「再生産表式」の課題に答えるもの、いくらかでも“マルクス主義的”なものであろうか。それが問題である!
しかし富塚は最初からマルクスの概念に批判的であり、それは「不十分」であると勇ましく宣言する。
だが彼は一体いかなる意味で、マルクスの理論は「不十分」であり、また、それはいかに修正され、補強されなくてはならないと主張するのか。富塚がマルクスの不十分さを“補う”ものとして持ち出すのは、(2)式として示した再生産表式であり、「余剰生産手段」と「均衡蓄積率」といった奇妙な観念である。
まず、富塚と言うところを聞こう。彼は、自分の式(前掲の2)では、一〇〇〇の「余剰生産手段」が存在するが、それを「過不足なく吸収されるべき蓄積」が行われなくてはならない、それは一一〇〇であり、この一一〇〇を、総剰余価値の二〇〇〇で割って、「均衡蓄積率」は五五%であると主張する。かくして、「拡張再生産の正常的進行のための価値・素材配置」は次のようになる(アルファベットは、富塚の使用法とは違って、マルクスの形に戻す)。
T 6000c+1500v+675m(資本家消費分)+825m(蓄積分)=9000W1
U 2000c+ 500v+225m(資本家消費分)+275m(蓄積分)=3000W2
……(3)
彼はこの自らの表式を説明する。
「蓄積総額は一一〇〇で余剰生産手段は過不足なく吸収され、またT(一五〇〇+六七五+七五)=U(二〇〇〇+二五〇)で部門間均衡条件は充たされ、さらに蓄積額の両部門への配分比率は元投下資本の部門比率と等しく三対一であり、両部門とも蓄積率五五%、資本の増加率五%であるから、右の表式に示された価値・素材補填の運動がそれに照応する貨幣の流れ(流通・回収)の運動に媒介されながら正常的におこなわれる場合には、拡張過程は、部門間の技術的・経済的な関連性を保持しながら、なんらの撹乱もなしに進行する」(『恐慌論研究』、九一頁)。
これが、富塚の拡大再生産論の根底であり、出発点でもある「余剰生産手段」と「均衡蓄積率」の概念である。
彼が出発点にするのは、一応は、マルクスの再生産表式である。彼によれば、「均衡蓄積率」の概念はマルクスの表式から出てきたものだそうである。マルクスもまた、「余剰生産手段」の概念から出発している、つまり単純再生産から出発し、そこでの「余剰生産手段」を前提にして資本の蓄積、つまり拡大再生産の問題を論じるのである。富塚が「余剰生産手段」と呼ぶものは、マルクスが拡大再生産のための「物質的基礎」とか「物質的前提」と言っているものであり、いわゆるマルクスの「第一例」(同二六三頁、原五〇五頁)の表式において、第T部門の五〇〇という数字で示しているものであるという(第T部門のv+mの二〇〇〇から、第U部門のcと交換される一五〇〇を引いた数字だと、富塚は理解する)。富塚はこの自らの一〇〇〇について、次のように主張する。
「部門Tにおける生産手段の生産総額九〇〇〇のうち、一〇〇〇だけが余剰生産手段として『質的規定』を受け取る。総生産物の価値的・素材的構成=『諸要素の機能配列』となっている。この余剰生産手段量は、それだけの生産手段が蓄積用に利用可能であることを示すと同時に、均衡が維持されていくためには、それだけの余剰生産手段を過不足なく吸収すべき大いさの蓄積が行われなければならない、ということを示す」(『資本論体系・四巻、資本の流通・再生産』、五六頁)。
見られるように、富塚は、現実の蓄積が行われるためには、「それだけの生産手段が蓄積用に利用可能であることを示す」余剰生産手段が存在し、他方では、それを「過不足なく吸収すべき蓄積」(当然に、これは貨幣資本である)が存在しなくてはならない、と主張するのである。だから、彼にあっては、再生産表式はそれ自体が「蓄積」を、つまり拡大再生産を(その概念を)明らかにするものではなのである。富塚はマルクスに似せて再生産表式をもてあそぶが、しかしマルクスとは全く別のことを、マルクスの与えた拡大再生産の概念規定とは何の関係もない空論を持ち出しているにすぎない。
しかし富塚が「余剰生産手段」と呼ぶものは、マルクスにあっては決して「余剰生産手段」といったものではなく、すでに再生産の出発点としての商品資本の内部で、拡大再生産のために素材的に生産され、準備されている部分であって、これから「蓄積」が行われるための生産手段といったものではない。その意味では、拡大再生産の表式では、すでに蓄積という事実は前提されているのである(概念的に、そして実際的にも)。したがって、もう一度蓄積する(「余剰生産手段を過不足なく吸収すべき大いさの蓄積」云々)、などという富塚の表現は途方もない混乱、矛盾であり、ナンセンスの極みなのである。
彼においては、「余剰生産手段」は、拡大再生産の「物質的前提」とは別のものとして理解されているのである。しかし「余剰生産手段」なるものが、素材的に蓄積を表現するもの、拡大再生産のための「物質的基礎」だとするなら、それをもう一度「蓄積する」とは一体どういうことであろうか。
富塚の「蓄積」の理論とは要するに、「蓄積」はただ貨幣資本によってのみなされ、そしてその貨幣資本によって、たまたま偶然に形成された「余剰生産手段」が「資本」に転化させられる――それが、最初の「蓄積」と区別される、実際の「蓄積」である――という理屈以外ではない。富塚の頭脳の働きに即して言うなら、貨幣(の蓄積)を媒介にして、この転換(富塚が好む、俗流経済学的な表現によれば、「貨幣による購買」)が行なわれることである。彼にあっては、資本の蓄積とは、まず貨幣の蓄積であり、それを媒介にして初めて、実際の蓄積が行われるのである。
つまり富塚は結局、「拡大再生産」という言葉で、「貨幣を媒介とした」素材転換(売買、あるいは需要供給)のことを語っているのである、つまり総商品資本の各要素がそれぞれ「素材転換」(売買)されて、次の年の生産の出発点が与えられることを実際的な「蓄積」、拡大再生産であると観念しているのである、そしてそのように理解して初めて、富塚の奇妙な観念が意味を持ってくるのである。だから、彼は拡大再生産表式とその素材的置換そのものが蓄積の概念を与えていると思い込んでいる、あるいは事実上そのように主張するのである。
だから、富塚は、マルクスの表式自体が、拡大再生産の概念を前提にして提出されているとは考えない。それは単なる不均衡な表式、わけのわからない「余剰生産手段」を含む表式、偶然的で恣意的な表式、無概念の表式である。
マルクスの主要な関心は(少なくとも、二一章における)、拡大再生産の概念にふさわしい数式を見出すことであった。マルクスはすでに単純再生産においてそれをなしたのだが、また拡大再生産もそれに倣おうとしたのである。そのためにこそ、マルクスはいくつもの数式を持ち出し、検討しているのであって、拡大再生産の概念を見つけるためにそうしているのではない。つまり、マルクスにあっては、拡大再生産の概念はすでに獲得され、前提されているのであって、問題はただその数式的表現であったにすぎない、と言うべきであろう。マルクスの多くの数式の試みについての議論や検討はこの限界の中でのみ行われなくてはならないが、しかし実際には反対に、概念をそっちのけにして、“数式論”のひとり歩きが、その“絶対視”がはびこってきたように思われる(とりわけ山田盛太郎とか富塚良三らの“スターリン主義”学者の間では)。だから彼らは、マルクスのいくつかの数式をあれこれ“解釈”し、そこに拡大再生産の概念を見出そうという無意味な試みに時間を浪費し、空虚なおしゃべりにふけって来たのである。
富塚の「余剰生産手段」の理論など、その最たるものであり、まさに無概念そのものである。それはマルクス主義的な意味における、つまり合理的な形における拡大再生産の概念とは何の関係もない想念として提出されており、ただ、単純再生産の内部で、なぜ、いかにしてかもはっきりしないままに、形成されたものだそうである。そんな膨大な「余剰生産手段」が何のために、いかにして誕生し、存在しえるのかといったことは、一切明らかにされないし、説明もされないままに、突如、そんな奇妙で不合理な関係が存在すると一方的に宣言されるのであり、拡大再生産論の出発点であると通告されるのである。
しかし富塚はなぜ、一〇〇〇の「余剰生産手段」だけを問題にするのか、この式はまた一〇〇〇もの「不足消費手段」の存在をも語っていないのか。つまりそのものとしては、単なるおそるべき不均衡の表式でしかないのである。
マルクスにあって、拡大再生産の表式は最初から拡大再生産の表式として、その概念を明らかにする表式として提出されている。つまり、それは与えられた条件のもとで、蓄積率六二・五%(修正された富塚の式、(4)式)、あるいは我々が越村信三郎から学んで提出した式において(後述、五章(8)式)〔注〕、蓄積率五〇%、さらには後に説明するが、マルクスの「a式」、つまりすぐ後に紹介する(6)式の場合には、四五・四五……%の蓄積率をすでに前提として提出されているのである、つまり蓄積(同じことだが、拡大再生産)を前提とした式なのであり、だからこそ、部門間の(あるいはもちろん、部門間内部の)素材的な相互置換が行われるのであり、行われなくてはならないのである。
そうでないとするなら、いわゆる拡大再生産の表式は単なる不均衡の、無概念の表式、どんな意味も持たない表式であるにすぎない。
蓄積分もまた“初期資本”と同様に、一〇対一の比率で不変資本と可変資本に分かれなくてはならないという富塚の不合理な観念でなく、マルクスの正しい概念(蓄積分もまた、四対一という有機的構成の比率で、不変資本と可変資本に分かれる)によって計算するなら、「所与の生産物の種々の要素の異なる配列、または異なる機能規定」(同二五六頁、原五〇一頁)によって、富塚の式は以下のようになるはずである。
T 6000c+1500v+(937・5c+562・5m)=9000W1
U 2000c+ 500v+(312・5c+187・5m)=3000W2……(4)
そして第T部門の蓄積分九三七・五は、四対一の割合で、七五〇の不変資本と一八七・五の可変資本に分かれ、また第U部門の三一二・五もまた同様に、二五〇の不変資本と六二・五の可変資本に分かれる。かくして、以下のようになる。
T 6750c+1687・5v+562・5m=9000W1
U 2250c+ 562・5v+187・5m=3000W2……(5)
この式もまた形式的には拡大再生産の関係を示している、というのは、第T部門の可変資本と剰余価値の総量(二二五〇)は、第U部門の不変資本の総量(二二五〇)に等しいからである、つまり両者は価値的に、そして素材的に相互的に置換され得るからである。
富塚は蓄積率を五五%と想定したが、しかし一一〇〇を二〇〇〇で割るのではなく、(4)式におけるように、一二五〇(蓄積分)を二〇〇〇(総剰余価値)で割るなら、正しい(概念に即した)「蓄積率」は五五%ではなく六二・五%になる。
そして、総生産を一二〇〇〇、有機的構成を四対一、蓄積率六二・五%として、均衡式を求めるなら、それは、富塚の式と同様のものとして現われ得る(式の計算は越村の公式による)。つまり、富塚の式(もちろん、概念にふさわしいように、我々が修正した式)は、それ自体、合理的な均衡式として現象するのである。
〔注〕
《ここで、拡大再生産の表式を越村がいかにして導き出しているかを紹介しておく。彼は拡大再生産の一般的諸関係を、代数式を解くことによって、次のような関数として明らかにしている(『図解資本論』第二巻下、二八二〜五頁を参照)。
W2 (c+1)×(1+m)−cma
―― =―――――――――――――――
W1 c(c+1+ma)
ここで、W1、W2は、それぞれ第T部門、第U部門の生産物価値であり、mは剰余価値率、aは剰余価値の蓄積率、cは有機的構成(いずれも両部門とも等しい)である(剰余価値率が百%ならmに1を、有機的構成が四対一ならcに四を代入する。蓄積率が五〇%なら、aはもちろん二分の一である)。越村は、この公式を適用し、拡大再生産の表式を導き出しているのである》
もちろん、形式的には、富塚のやり方でも、越村のやり方でも、同じ蓄積率が導きだされ得る。それを説明するために、『資本論』二巻二一章三節「蓄積の表式的説明」の最初にある式、いわゆる「表式a」(同二五五頁、原五〇一頁)をもって来て見よう。マルクスの式は以下のようなものである。
T 4000+1000+1000=6000
U 1500+ 375+ 375=2250……(6)
我々は第U部門の数字を少しだけ修正した(計算の都合のためと思われるが、マルクスがvとmを三七六としたのを、三七五に戻した)。
まず、富塚のやり方で「均衡蓄積率」を計算する。余剰生産手段は六〇〇〇−(マイナス)五五〇〇=五〇〇、したがって「均衡蓄積額」は五〇〇+五〇〇×四分の一、で六二五、これを総剰余価値の一三七五で除すると、富塚の言うところの「均衡蓄積率」は四五・四五……%になる。
そして越村の公式を用いても、一一分の五、つまり四五・四五……%という蓄積率が出てくる(この数字は、マルクスが想定した五〇%ではないが、しかしそれに近い数字ではある)。もちろん、こうした蓄積率を経験主義的、実際的なやり方で見出すことは困難なことであったろう(マルクスが“富塚的な”無概念の計算方法を思いつくことは、天地がひっくり返ってもなかったろうから)。
富塚は、蓄積率は部門間構成(生産力の水準)によって一義的に規定されると主張するのだが、もちろん、蓄積率は決して部門間構成によって決定されるわけでもないし、また、富塚の式においても、蓄積率は六二・五%(富塚に言わせると五五%)に“決定”されているわけでもない。一定の部門間構成のもとでは、蓄積率は一定である(一定でなくてはならない)、などという観念の不合理性は一見して明らかである、というのは、部門間構成によって、蓄積率がア・プリオリかつ絶対的に規定され、決定されるなどということは現実にはあり得ないからである。
結果として見るなら、蓄積は一定の部門間構成に相関するものとして現われるかもしれない、しかしそれは結果として見ているからであって、実際の蓄積は、部門間構成によってではなく、基本的に資本家の蓄積衝動――これもまた、一定の客観的な諸条件を持つことは言うまでもないが――や、他の諸条件、例えば労働者階級の抵抗や闘い等々によっても左右されるのであって、蓄積率が五〇%になるか、六〇%になるかといったことは、決して部門間構成や生産力水準によって規定されるものではない。富塚は拡大再生産や蓄積の概念を欠いたままにマルクスの表式に接近するので、“表式病”に取り付かれ、表式についての形式的な議論に幻惑されて途方もない観念的ドグマをひねりだすのである。
富塚の表式における一〇〇〇、あるいはマルクスの「表式a」や「第一例」の表式における五〇〇(第U部門のcから第T部門のvとmを引いた数字。あるいは富塚が計算しているように、第T部門の総価値から第T部門と第U部門のcを引いた数字)は偶然的、恣意的な「余剰生産手段」といったものではなく、またそうしたものとして評価することは正しくないのである。したがってまた、部門間の相互補填の問題は、「余剰生産手段を吸収し、解消するための蓄積」といったようなチンプンカンとは全く異なった契機なのである。
マルクスも言うように、第二巻二一章の拡大再生産の議論では、すでに物質的、素材的に、拡大再生産に適合した「商品資本」の存在は前提されているのであって、だからこそ、第T部門と第U部門との間で(またそれぞれの部門の内部でも)、相互的に素材転換が行われるのであり、また行われ得るのである(したがって、それを理論的に展開し得るのである)。
富塚はこうした再生産表式の意義と課題を全く理解してもおらず、知ってもいない。拡大再生産の表式を表面的に、価値的側面においてのみ見て、そこに「余剰生産手段」がある、などというのは見当違いのナンセンスであり、根本から“ずれている”と言わなくてはならない。
まして、この「余剰生産手段」を解消するために蓄積が行われるのだ、などと“断言する”に到っては、過少消費説論者にふさわしい妄想、転倒した観念と言うしかない。蓄積はすでに前提されているのであり、問題は、その上での拡大再生産の表式的説明なのである。ところが、彼は部門間の相互補填を実際的な「蓄積」そのものにすりかえ、ここに需要供給関係などを持ち込むのであり、もた持ち込まなくてはならないのである(こうして、過少消費説といったプチブル経済学、あるいはケインズ主義といった、ブルジョア俗流経済学の水準に転落していく)。
転倒した観念であるというのは、富塚は例えば、第T部門と第U部門の比率が(そして、有機的構成つまり不変資本と可変資本の比率とか、搾取率などが)、蓄積率を決定すると考えていることであるが、しかしこんな観念は非現実的であって、彼がそう思い込むのは、まず一定の第T部門と第U部門の比率を前提にして、蓄積率を逆算しているからにすぎない。
確かに、他の条件を等しいものとするなら、蓄積率と第T部門と第U部門の比率は関連するが、それは蓄積率がその比率を左右し、決定するからであって、逆ではない。例えば、我々が後述する五章の八、一一、一二の各表をとって見よう。そこでは、同じ有機的構成と搾取率のもとで、蓄積率二五%、五〇%、七五%の場合の“均衡的な”拡大再生産の表式例をあげたが、それぞれの第T部門と第U部門の比率は、二五%の場合は七対三、五〇%の場合は七三・三対二六・七、そして七五%の場合は七六・七対二三・三となって、蓄積率が高いほど、第T部門の比率が大きくなっている。
ここでは、拡大再生産において、部門間比率は蓄積率にしたがって規定されていること、そしてまた蓄積率は有機的構成(つまり生産力)や剰余価値率によって全然支配されていないことが明瞭に見て取れるのである。確かに、蓄積率が高いに従って、第T部門の比重は大きくなるが、それは蓄積率の高いことの結果であり、その現われであって、その反対ではないのである。つまり、第T部門の比重が高く、第U部門の比重が相対的に小さいから、蓄積率が高くなるのではない、つまり蓄積率が部門間の構成比率によって規定されていることを示すものではない。
しかし富塚は、この関係を転倒して理解するのであり、例えば、第T部門と第U部門の間に、五〇%の場合を取れば、七三・三対二六・七の比率があるから、蓄積率は五〇%に決定されるのだと主張するのである。かくして彼にあっては、部門間比率(や有機的構成?)は蓄積率に先行して前提され、蓄積率を規定するのである。蓄積率は部門間比率の“従属”関数として現われ、それによって確定しているよう見えるのである。
これはちょうど、他の諸関係が同じなら、転倒した観察者には、利潤率によって剰余価値率が規定され、決定されるようにも見えるのと、あるいは価格変動によって「価値」が規定されるように見えるのと、同じようなものであろう。
だから、彼は蓄積率を有機的構成(生産力?)や搾取率や部門間比率の結果として、つまりそれらの諸要素によって“客観的に”――奇妙な客観主義があるものだ――決定される「余剰生産手段」や「均衡蓄積率」の観念として提出されるのである。表面的な現象に幻惑されて、認識が転倒しているのである。
彼には、同じ有機的構成(すなわち、同じ生産力)や搾取率であっても、いくらでも違った蓄積率があるし、当然あり得るということ、こうしたごく“常識的な”ことが分かっていないのである、あるいは彼のドグマはこうした現実と抵触し、“不整合”をきたしているのである。
そもそも我々は、「余剰生産手段を解消するための蓄積」といったチンプンカンプンを合理的に理解することができない。蓄積はまるで、「余剰生産手段」なるものが社会の中に形成され、それを一掃するために行われるかではないか(まさに、ケインズ主義的妄想だ!)。しかしそもそも富塚の言う「余剰生産手段」とは蓄積のこと、その可能性、もしくは現実性のことではないのか、それなのに、なぜそれを解消する必要があるのか。
4、「余剰生産手段」の無概念批判
前章を受けて、富塚の「余剰生産手段」の理論の批判を、さらに展開する。いくらか前章と重複するところも出て来るかもしれないが、お許しを願いたい。
富塚は、一〇〇〇の「余剰生産手段」があり、それに追随して二五〇(富塚のもとの式では一〇〇)の可変資本が「必要とされる」というが、しかし蓄積は第T部門、第U部門の双方で行われるのであって、素材的に一〇〇〇の新しい生産手段が想定される、つまり一〇〇〇の生産手段と二五〇の消費手段がすでに生産されていると言うべきであって(すでに、拡大再生産の表式として与えられた最初の商品資本の構成部分として存在しているのであって)、蓄積は両部門で行われ、そして素材的には生産手段とともに消費手段によっても表現されるのである。
結局、富塚の表式は最初から全く空虚で無意味なものとして現れ、総資本の(したがってまた、社会的総生産)の再生産とその流通を、したがってまた総生産物の諸階級間の流通および資本、収入の補填をも表現しない、というのは、社会的総生産とその流通は最初から、アンバランスで成り立たないものとして示されるからである。彼は初めから膨大な「余剰生産手段」が生じるような表式を“でっちあげる”、あたかもそんな資本主義社会があり得るかのように、概念的に想定できるかのように(もちろん、無概念的にやるなら、どんな社会関係も、どんな再生産関係を――したがって再生産表式も――想定することはできる、しかし問題は、概念的にどうか、である)。彼は同じように、絶対的な「過少生産手段」の社会も想定することもできたであろうが、なぜかそうしようとは全くしていない。
マルクスの再生産表式とは、再生産(単純であれ、拡大であれ)の概念に適応した表式を見出す(作成する)という問題であって、決してそれ以上ではないのである。先に概念があって、それから再生産表式が問題になるのであって、概念もないのに、マルクスが再生産表式を作ったり、壊したりしている(「試行錯誤」している)などと考えるなどは途方もないことであろう。マルクスは“表式遊び”をしているのでも、暇つぶしをしているわけでもないのだが、「試行錯誤」に終始しているといった評価が、富塚によって、不破哲三によって、そして多くの人々によって与えられてきた。
マルクスが概念もなく再生産表式“遊び”にふけっているとしか考えないような俗な人々には、マルクスの表式はそれ自体、恣意的なもの、勝手に想定されたものに見えて来るのであり、またそこで、何が問題になっているかも忘れることができ、自分も思うがままに自分の想念を、つまり偏見やつまらない思い付きなどを盛り込んでもいいように思われるのであり、また富塚のように、実際に盛り込むのである(マルクスの表式だけをまねて、マルクス主義の理論を装って)。
社会的総生産が最初からアンバランスなものとして想定されるなら、そんな再生産表式にどんな意味もない。富塚の表式にあっては、最初から一〇〇〇もの「余剰生産手段」が前提されている、つまりその限り、絶対的な過剰生産が前提されているのである。それは再生産表式の中ではどんな部門のどんな部分とも交換され得ない部分、つまり絶対的に過剰な部分である。
富塚はこんな途方もないものをまず前提し、そこから再生産表式を組み立てようというのだから、彼の理屈が全くの恣意的なものになるのは一つの必然であろう。問題は資本家的生産と生産諸関係の再生産であり、その“法則”である。富塚が最初から、一〇〇〇もの「余剰生産手段」を含むものとして、再生産表式を提出するのは、彼が再生産表式でマルクスが問題にしている課題が何であるがを全く理解していないからである。だから、彼は常軌を逸しているとしか思われないような混乱した、見当違いのことを言い始めるのである。
富塚の「余剰生産手段」なるものは、例えば、単純再生産から拡大再生産に「移行する」場合に、単純商品生産の素材的、価値的再編によって生じるといったたぐいの「余剰生産手段」では少しもない。また、第T部門の「優先的蓄積」――それがマルクスの“方法”であるかどうかはさておくとして――といったことから生じる「余剰生産手段」でもない。
マルクスの表式もある意味で、「余剰生産手段」といったものを想定しているかに見える(ただ見えるだけだが)。例えば、いわゆる「第一例、B、拡大された規模における再生産のための出発式」(同二六三頁、原五〇五頁)を見れば、第T部門において、五〇〇の「余剰生産手段」が形成されているかであり、富塚のやり方や理屈を正当化しているかである。しかしマルクスにあっては、それは拡大再生産において、すべて同一部門内の交換、あるいは第T部門と第U部門との交換によって“解決”され、解消されて行くたぐいの「余剰生産手段」であって、マルクスの表式にあっては少しも「困難」ではないのである。つまり、マルクスの五〇〇は、マルクスの表式にあっては、少しも「余剰」ではなく、そのうちの四〇〇は、第T部門のなかで、その不変資本部分cに「合併」され、残りの一〇〇は第U部門の蓄積によって「均衡」させられるのである。
マルクスの表式において、第T部門に五〇〇の「余剰生産手段」が想定されるのは、マルクスがすでに拡大再生産を前提して論じているからであって――したがって、問題は決して「単純商品生産から拡大再生産への移行」といったことではない――、この五〇〇は、富塚が言うような「五〇〇を過不足なく吸収する蓄積論」といったものによってではなく、そのうちの四〇〇は第T部門の内部での交換により、さらに一〇〇は第U部門との交換により、すべてまさに「過不足なく」解決されているのである(もちろん、マルクスはわたしが提出している(8)の表式――後出、五章――として、それを提示したならよりよかったであろう。(8)の表式は、第T部門の「余剰生産手段」は五〇〇ではなく、五四六として表されているが、それは単に、この数字だとすべてが“均衡的”に示されるからであるにすぎない。そしてこの場合、五〇〇を「過不足なく吸収する蓄積論」など一切必要としない、というのは、すでに「過不足」の問題は解決されている――というより、そんな問題はそもそも存在しない――からである)。
また、マルクスもまた確かに、富塚と同様に、第T部門の蓄積から初めているように見え、その限り、富塚の“方法”と同じ恣意的なやり方をしているように見える、しかしマルクスがそうするのは、その展開の中で、均衡ある社会的な拡大再生産がいかに行われるかを探るためであって、マルクスにあっては、例えば、最初から拡大再生産や、そのいわゆる“均衡条件”は前提されているのである(だから、第T部門の蓄積に対応して、第U部門の規模や蓄積等々も与えられる等々)。だから、富塚のように勝手に、恣意的に一、〇〇〇もの「余剰生産手段」を設定する(そんなことが可能である)などということは、マルクスには思いもよらぬことであった。富塚の表式は、最初からどんな「均衡」とも社会的に不可避な相互依存関係とも無関係に提出されている、つまりそれは純粋に恣意的なものであって、どんな歴史的な社会関係も表現しないのである。それはマルクスが提出した、再生産表式の「均衡条件」とは全く別のものである、つまり社会的総資本の生産と流通の諸関係、その補填を明らかにするものでは全くないのだ(全然、していない)。
拡大再生産が前年の生産に比べての「拡大再生産」である限り、当然、生産手段も(したがって生産手段生産部門である第T部門の規模も)前年に比べて増大していく、しかしそれは生産手段が「余剰」になることを少しも意味しないのである。生産手段の規模も(またその総価値額も)、前年のそれに比べれば「過剰」であると言えるが、それは単に前年の規模を超えるという意味以上ではなく、富塚が言いはやしているような、「市場で売れない」とか、「実現が不可能」だとか、そこに需給問題が提出されているとかいった意味では全くないのである(だが、富塚はまさにこうした“ケインズ主義的で”、皮相浅薄な観念から「余剰生産手段」を持ち出して来る)。マルクス的な意味でなら、生産手段の膨張がどんに継続的に続いたとしても、それ自体、“均衡”ある拡大再生産を撹乱するのもでも、また資本主義的生産の“困難”を意味するものでもない(そんな風に理解するなら、社会主義社会においても、資本主義的生産様式と同様な矛盾や“困難”が存在する、ということになってしまうではないか)。拡大再生産においては、確かに前年に比べて「生産手段」は増大していく――拡大再生産の概念からして、全く当然のことだが――、しかしそれはその生産手段が「余剰生産手段」であることを少しも意味しないのである。
富塚が限りなく愚かであるのは、マルクスの拡大再生産の表式の第T部門において、五〇〇の「余剰生産手段」があると理解し、それが「実現されえない」と思い込んだことである。だからこそ、彼は次の年に、この「余剰生産手段」を解消させる「均衡蓄積率」といった、奇妙なものを“でっちあげ”なくてはならないのである。しかしマルクスにあっては、それは最初から「実現」され得るものとして想定されている、つまりここでは富塚の言うような「実現問題」などは一切問題になっていないし、存在してもいないのである。
さらに、富塚は、蓄積率は「生産力」の水準から計算すれば五五%だと言うが、しかし仮に「生産力」がその水準だとしても、そのもとでの実際の社会的蓄積率が、他の率、例えば一〇、二〇%、五〇%、七五%等々にならないと、どうして富塚は断言できるのか。全く奇妙なことであると言わなくてはならない。我々は一定の「生産力」のもとでも、いくらでも違った蓄積率を想定することができるのであって――そして、現実もまたその通りであって――、ある「生産力」なら、ある蓄積率になる、などというのは富塚の間違ったドグマ以外ではない。
富塚が一定の「生産力」のもとでの一定の蓄積率を想定できるのは、それをもともと前提しているからであって、彼は単に論証されるべきものを前もって提出しているのである。つまり一〇〇〇もの「余剰生産手段」のある総生産を想定し、それを埋め合わせることのできる蓄積率はいくらか、と問うのである。この一〇〇〇もの「余剰生産手段」は決して「生産力」によって規定されるのではなく、ただ富塚が、そうした「余剰生産手段」があると、どんな根拠もなく設定した条件なのである。富塚に表式において、一〇〇〇の「余剰生産手段」はただ、それだけの「余剰生産手段」があると宣言されているだけであって、それがいかなる意味で「生産力」の結果であり、“与件”であるかは明らかにされていない(され得ない)。
彼は二年目には「余剰生産手段は過不足なく吸収される」などと言うが、しかし第二年目には一、〇五〇の「余剰生産手段」がまた“再生産”され、存在するというのだから、どこに「吸収」されたのか、全くちんぷんかんぷんであろう。富塚にあっては、常に「余剰生産手段」は存在し、それを「埋める」べく拡大再生産が、つまり資本蓄積が行われるのだが、その結果は、この「余剰生産手段」の解消ではなく、一層の拡大である。そしてこの「余剰生産手段」とその拡大が存在しなければ、資本蓄積は不可能になる、というのは、このギャップを埋めるためだけに、資本蓄積は行われるのだからである。永遠に埋められない「余剰生産手段」こそ、資本蓄積の唯一の動機であり、推進力である。しかしはたして、こんな資本主義が現実に存在するであろうか、こんなものがはたして“正しい”資本主義的再生産の姿であり、資本の実際的な“運動”の反映と言えるであろうか、こんなものが資本主義的再生産過程の「正常な進行」と呼べるであろうか。単なる“理論遊び”に、頭の中だけの概念操作つまり単なる“思弁”にふけっているとしか思われない。ここには労働者にとって、何の役にもたたない(というより、有害な)、最悪のドグマ、観念的インテリのひとりよがりがあるだけである。
富塚は、こうした「均衡蓄積率」を超えた蓄積(いわゆる「過剰蓄積」)が資本主義の本性であり、そしてそれは恐慌として「必然的に」爆発するというが、彼の「均衡蓄積率」自体が無意味なドグマだとするなら、その「過剰蓄積」といったものも何の意味もない空辞であり、たわ言でしかない。資本主義的生産は結局、「消費」(労働者の過少消費)のよって制約されているのであり、「過剰蓄積」は反転せざるをえないのだそうだが、しかし富塚の「均衡蓄積率」自体が、どんな「消費による規制」も、それとの相互的依存関係もなく設定されているのだから(つまり一〇〇〇もの「余剰生産手段」を有する、全くの不均衡そのものとして提出されているのだから)、「消費による制約」も何もあったものではない。勝手に、「消費による制約」といったものを護符よろしく持ち出したところで、そんなものは富塚にあっては、何ら「論証されていない」のである(できるはずもないのだが)。
そして、富塚が「拡張再生産の正常的進行のための価値・素材配置」として提示する表式は、どんな「拡張再生産の正常的進行」を保障していないし、そもそのこの表式は「均衡」さえ示していないのである。(そしてもし仮にもし「正常的な進行」つまり「均衡」を示すなら、この表式はここで終わってしまう、というのは、次年度の拡大再生産への動力を失うだろうから)。それはただ、不均衡の――富塚が恣意的に持ち出した不均衡の――永続的進行という不合理を表現しているだけである。
富塚の表式は全く恣意的に提出されたものであり、どんな実際的な根拠もないもの、単なる観念的構築物である。マルクスの表式も俗学者の目には、マルクスが勝手に作り、提起したものであって、富塚の表式とどんな違いもないように見える、しかしマルクスの表式は、資本の総生産と総流通の概念的総括として、客観的であり、また現実的な諸関係の抽象として内的な真実である(つまり、現実の理論的反映であり、現実そのものの概念である)。富塚におけるような、頭脳の恣意的な、勝手きままな産物とは本質的に別のものなのである。
しかし富塚は、自らの再生産表式の意味を次のように語って、マルクス主義とは違っているのだ、それでいいのだと厚かましくも宣言する。
「『均衡蓄積率』ならびに『均衡蓄積軌道』なる概念の設定は、(それへの収斂のではなく、)それからの乖離の内的傾向を析出把握するための基準としてのみ理論的意義をもつ。この点、いわゆる『均衡理論』的思考と筆者のそれとは根本的に異なるのである」(『恐慌論』一〇五頁)。
つまり、現実の資本主義的蓄積は、「均衡」へと収斂する傾向をではなく、それから「乖離する」傾向を持つのであり、それを明らかにする拡大再生産表式が確定されなくてはならず、そしてそれが確定されるなら、恐慌は「必然的に」――実際には、機械的に――論証される、と言うのである。だから必要なのは、均衡式ではなく、むしろ“不均衡式”であり、そうでなくてはならないのである。
だが一体、資本主義的再生産が――単純再生産も、拡大再生産も同様に――その内的な法則性において明らかにされないところで、どんな、それからの乖離や収斂や「不均衡」が問題になり得るのか、意味をもち得るのか、我々がそれを認識し、確認することができるのか。その法則的な理論的獲得を、恣意的な関係にすり変えるなら、それは経済科学の代わりに、空虚な“現象論”を、意味のないおしゃべりを持ち出すことになるであろうし、事実、富塚にあってそうなっている。かくして我々はマルクスの拡大再生産の概念を明らかにしなくてはならないのである。
富塚はまた、すべての蓄積が第T部門でなされて、第U部門は全く蓄積がない場合も想定できる(彼の「均衡蓄積率」の観念と矛盾しない)、などといった“極端な”ことまで主張している(同五六頁)。何のためにこんなことを言うのか理解しがたいが、とにかく彼は自分の観念を擁護して強調する。
「総生産物の価値的・素材的構成=『諸要素の機能配列』によって、部門Tにおいて生ずる蓄積のための『超過分』たる余剰生産手段量があり、それを過不足なく吸収すべき《均衡蓄積総額》が決定されるのであり、個々の資本の蓄積の総結果としての現実の蓄積総額がこの《均衡蓄積総額》に一致するか否かによってまた二部門間の均衡条件の成否如何が制約される。この関連を把握することが肝要なのである」(『資本論体系』九巻一、五七頁)。
「再生産の『条件』は、再生産過程を結果として貫く『法則』としてのみ把握すべきものであって、それは再生産の均衡が維持されてゆくための『条件』・『均衡条件』として把握すべきではないとする主張、また、再生産論においては事実上『セー法則』が前提されているのであって、それによって明らかにされるのは部分的過剰・過少にすぎないとする見解、これらの諸説は一つの共通する思考によるものであり、また、表式分析において蓄積率はもっぱら『独立変数』として、部門間比率(部門構成)はその蓄積率の変化にともなって変化する『従属変数』にすぎないものとして把握すべきだとする立場もまた、これらと事実上、同様の考えによるものである。こうした思考のもとでは、第二部第三篇の再生産(表式)論は、恐慌論に対して極めてネガティブな意味しかもちえないものとなる。再生産過程の全面的撹乱を帰結すべき不均衡化の諸条件そのものの析出を表式分析に求めることは、はじめから断念すべきだとされる」(同五九頁)。
ここにあるのは、スターリン主義者が振りまいてきた“伝統的な”諸観念であるが、事実上、マルクスの再生産表式の意義を曲解し、多くの理論的な混乱と、不要な理論的、現実的な騒乱を、歴史的にもたらしてきたものである。「再生産の『条件』」がどうのこうのとか、「第二部第三篇の再生産(表式)論は、恐慌論に対して極めて」積極的な意義をもっている――すなわち、「恐慌の必然性」は第二部第三篇の再生産(表式)論を媒介にして論証されなくてはならない――とかの理屈はこれまで共産党の運動の中で、いわば“公理”として幅を利かせてきたものであった。
そして富塚の方式は、必然的に、「第T部門優先の」蓄積理論である。彼にあっては、「余剰生産手段」一〇〇〇は基本的に、第T部門に形成されるのであり、それに応じて、第U部門において一〇〇(正しくは、二五〇)の蓄積が“付随的に”生じるのであって、第T部門、第U部門において“並行的な”蓄積が想定されているわけではない。富塚は、第T部門において九三七・五の蓄積が(これは七五〇cと一八七・五vに分かれる)、第U部門において三一二・五(これも二五〇cと六二・五vに分割される)の蓄積が生じる、つまり両部門に“並行的に”蓄積がなされると理解しないのである。彼の表式は、まさにスターリン主義者の“伝統的な”ドグマにそったものであり(それの一つの適用としての、歪んだ理論である)、だからこそ、彼の「均衡蓄積」の理論は混沌とした、まやかしものとして現われながらも、共産党系の運動の中で受け入れられ、もてはやされるのである(例えば、不破の“経済”理論、“恐慌”理論などに少なくない影響を与えている等々)。
しかしレーニンも言うように、「マルクスの表式から、第U部門に対する第T部門優先などという結論は、いささかも引き出すことができない」のである(『いわゆる市場問題について』、全集一巻八〇頁。ついでに言えば、スターリン主義者たちは、自分たちに都合の悪い、こうしたレーニンの言葉は決して引用しないか、あるいはレーニンが後に捨て去った、間違った理論として言及するのである)。
マルクスは第二巻の草稿(いわゆる第一稿)において、第T部門からではなく第U部門から分析を開始している。このことは、マルクスにあっては、少なくとも「再生産表式」の課題を論じるに当たっては、両部門が“対等な”地位を占めていたことを示唆しているように思われる。「第T部門優先」という観念は極め“スターリン主義的”なものであり、日本においては山田盛太郎以降の“悪しき”伝統というべきであろう。
富塚は、第T部門優先の理屈を否定しているかであるが、実際にそれに極めて深くとらわれているのであって、それは彼が「過剰蓄積」についておしゃべりを始めるとき、余りに明瞭に現われてくるのである。彼の「過剰蓄積」の理屈とは、すなわち第T部門優先のドグマのバージョン、一変種以外ではない。
我々はかくして、富塚のたわ言とは全く無関係の、それとは独立している、マルクスの拡大再生産表式と、その意義を明らかにしなければならないのである。
5、拡大再生産のマルクス主義的概念
拡大再生産の表式もまた、“均衡的な”ものから出発しなくてはならない。その点では、単純再生産の表式と同様である。
参考のために、ここで単純再生産の表式を提示しておく。マルクスは基本的に、単純再生産の表式ただ一つだけ持ち出しており、それで十分だと考えていた。
T 4000c+1000v+1000m=6000W1
U 2000c+ 500v+ 500m=3000W2……(7)
これは単純再生産の表式であり、均衡式として提示されるが、拡大再生産の表式もまたそうでなくてはならない(富塚のものは、全く不合理である)。
拡大再生産においては、剰余価値の一定の部分が資本に転化される(資本の蓄積とは、剰余価値の資本への転化以外の何ものでもない)が、その比率は富塚が主張するように、決して「生産力」によって決まるのではない。蓄積率は、剰余価値の中から蓄積にまわされる部分であり、したがって他の条件が同じなら、資本家の蓄積欲――もちろん、これを単に個々の資本家の恣意と考えることはできない、というのは、彼らの社会的行動は諸資本間の競争、その他の社会的条件によって規定されているからである――と資本家的消費の大小によって規定されるのである。資本家の消費が五〇%なら蓄積には五〇%がまわされ、また資本家が享楽的に剰余価値の七五%を消費すれば、蓄積には二五%しかまわらないことになる。他方、資本家がひたすら“節欲”し、二五%しか消費せず、蓄積にまわせば蓄積率は七五%になる、等々。だから、蓄積率が「生産力」によって決定されるなどいうことは決してないのである。生産力が一定であっても、いくらでも蓄積率は異なり得るし、また違った「生産力」の段階でも、同じ蓄積率もあり得るのである。蓄積率は「生産力」によって一義的に決定される、などということはありえないのであって――そんなことをいくらかでも本気で言う人がいるとするなら、彼は蓄積について(一般に経済学についてさえ)何も分かっていないのであるが――、五〇%もあり得るし、またそれより高い七五%も、より低い二五%もある(我々はある意味で、百%さえも想定できるが、この想定は全く意味がないわけでも、純粋に空想的だということでもない。後述12式)。
例えば、我々は蓄積率を五〇%として、以下のような“均衡的な”(すなわち概念にマッチした、あるいは“法則的な”)再生産表式を想定することができる。総生産の規模は(そしてまた、総資本の価値も)、マルクスの単純再生産表式と同じ九〇〇〇(総資本は七五〇〇)、他の諸条件も同一であり、ただ単純再生産ではなく、拡大再生産であることだけが(したがって、価値構成と素材構成はすでに変化していることが)違っている。この表式は越村信三郎が戦後、早い時期に提出したものである(計算方法は、三章〔注〕を参照)。
T 4400c+1100v+1100m=6600W1
U 1600c+ 400v+ 400m=2400W2……(8)
参考のために、次年度の表式を示すと、以下のようになる。
T 4840c+1210v+1210m=7260W1
U 1760c+ 440v+ 440m=2640W2……(9)
となり、総価値は九〇〇〇から九九〇〇にまで増大する。以下、単純再生産の場合は、何年経過しようが、総生産規模は九〇〇〇のままに留まるが、拡大再生産では、一〇八九〇、一一九七八と年々膨張して行くことになる。
富塚は、蓄積率は「生産力」によって(一義的に、あるいは規定的に?)決まるかに言うのだが、もちろんそんなことはナンセンスであろう。様々な水準の「生産力」のもとで同一の蓄積率があり得ると同様に、同一の「生産力」のもとで、無数の蓄積率を想定することができるであろう。例えば、我々は前出の式(「生産力」などの諸条件のもとで)で、蓄積率五〇%を想定したが、もちろん五〇%でなくてはならない、あるいは五〇%に“一義的に”決まるということではなく、どんな高さも可能である。
例えば、蓄積率が資本の停滞などにより、二五%という低い社会などの場合には(いわゆる“高度資本主義”の、すでにブルジョアジーが頽廃し、蓄積衝動が低下した、停滞する社会を想定されたい)、越村の表式を修正すれば、以下のようになる(総生産の規模はいずれも九〇〇〇で、他の条件は同じとする)。
T 4200c+1050v+1050m=6300W1
U 1800c+ 450v+ 450m=2700W2……(10)
他方、蓄積率が七五%と高いなら――こうした場合としては、例えば資本主義の初期において、資本の蓄積衝動が非常に大きい場合などを頭に描いてほしい――、以下のような表式が得られる。
T 4600c+1150v+1150m=6900W1
U 1400c+ 350v+ 350m=2100W2……(11)
以上、三つの式を見れば、蓄積率が高ければ、蓄積率が低いばあいにくらべ、第T部門がより拡大しており、反対なら、第U部門の方が相対的に膨張するということになるが、それは蓄積という概念から当然に出て来ることであって、ここには不思議なこと、当惑させられるようなことは何もない。
また、参考のために蓄積率一〇〇%で拡大再生産が行われる場合の均衡式は、以下のようになる。
T 4800c+1200v+1200m=7200W1
U 1200c+ 300v+ 300m=1800W2……(12)
もちろん、資本家の個人消費がゼロということは、このブルジョア社会においては現実にはありえない、しかしこれは極端に資本家の蓄積欲が強い場合として、近似的に想定することはできる。少なくとも、表式的には可能であり、資本主義的生産はこの場合でさえ「均衡を保って」――つまりいわゆる「市場問題」、つまり「需給の困難」「実現の不可能」等々など引き起こすことなく――発展していくことができるのである。
そればかりではない、この表式は、マルサスやケインズのばか話をも根底から粉砕している、というのは、ブルジョアや寄生階級の浪費が――浪費どころか、どんな消費さえ――一切なくても、社会的生産はいくらでも「均衡を保って」発展して行き得ることを示しているからである。つまりこれ事実上、社会主義的生産(の概念)であり、その順調な、調和の取れた「拡大再生産」を表現しているのである(もちろん、価値の「実体」は社会的な抽象的人間労働である等々の必要な変更――したがって剰余価値は剰余労働として現れ、あるいは剰余価値率、つまり剰余労働の割合は社会的な諸条件や必要性を考慮して、社会が好ましいと思い、また妥当であり、合理的と考えられる水準に定められる等々の――がほどこされれば、であるが)。
以上、蓄積率が「生産力」によって決定されるかに言う富塚の理屈がどんなに途方もないばか話であるかが証明されるのである。
ついでに言っておけば、これらの正当な拡大再生産の概念――概念であって、それ以上ではないが――にあっては、拡大再生産の「物質的基礎」が「実在していない」場合も無ければ、それを「いかにして新たに作りあげるか」といったばかげた問題もなく、あるいは「蓄積は独立変数で、部門間比率は従属変数」と言わなくてはならない理由もなく、さらにまた、資本主義的拡大再生産における「独立的契機としての可能的貨幣資本の蓄積」が第T部門で「どのように行われるか」といった的外れの問題も、一切存在しないということである(こうしたたわ言を並べているのは、例えば前畑憲子である)。
もちろん、単純再生産から拡大再生産への「移行」といったこと(あるいは一般的に言えば、蓄積率の大きな変動)がもし実際に行われるなら、それは平穏無事な過程としてではなく、大きな経済的激動や恐慌を伴うのであって、単なる表式上(もしくは観念上)の操作といった問題では全くない。エンゲルスは『資本論』に、マルクスが単純再生産から拡大再生産への「移行」を課題にしているかの文章を書き加え、そこで「この移行は、必ずしも困難なく遂行されるものではないが、第一部類の一群の生産物が両部類の生産物における生産手段として役立ち得るという事情によって、容易にされる」(同二四一頁、原四九二頁)といった、言わずもがなの卑俗なことを書いている。
しかし以上すべての表式において、「移行」といったことは本質的には問題になっていないばかりか、生産と消費のバランス、あるいはブルジョアたちが(そして富塚派ら俗流学者が盛んに気にする)「需給のバランス」等々は完璧に保たれているのであって、それは当然のことである、というのは、前提として、我々は資本主義的再生産の総体(単純再生産の場合も、拡大再生産の場合も)を、抽象的な“均衡状態”において、つまり法則として見ているからである。もちろん、資本主義のもとでは、こうした法則は、ただ資本の無政府的な諸運動によって媒介され、無意識の過程として、恐慌や不断の動揺のなかで、それを通して貫徹されるのであって、あらかじめ生産と交換に先だって存在しているわけでは決してないのだが。
富塚は我々の表式(に表されている諸関係)がすでにそれ自体で、「消費」と「生産」との関係という問題を、その“均衡”を明示しているということに気がつかない(あるいは、気がつかない振りをしている)。だから彼は、「過剰蓄積」が進行すると「消費」に引き戻される(そうならざるをえない)、それこそが恐慌であり、その「必然性」だと叫ぶのだが、しかしどんな関係に規定された「消費」に引き戻されるのかを語ることは決してできない、というのは、彼にはその概念がないからである(というより、その概念を拒否して、珍奇な「均衡蓄積率」といったもにすり替えてしまったから)。彼にあっては、この「均衡蓄積率」は「消費」と「生産」の関係を合理的な形では示していないのである(示すことができないのだが、とするなら、彼は何という無政府主義者であることか)。富塚派は結局、社会主義社会にまで「恐慌」(とその「必然性」)を事実上持ち込む、極端にとんまな連中であろう。
さて、これまで蓄積率の異なる表式を検討した際、我々は資本の有機的構成を同一と想定したが、しかし蓄積率が七五%と高い、初期資本主義の社会では、当然有機的構成は低く、他方、蓄積率が二五%と落ちていく社会は、爛熟した資本主義社会であり、当然に資本の有機的構成は高くなっているはずである。そこで、その点を考慮して、別の表式を考えて見よう。
初期資本主義における拡大再生産表式の例
T 2813c+1406v+1406m=5625W1
U 166八c+ 844v+ 844v=3375W2……(13)
この表式例においては、資本の有機的構成は二対一、蓄積率は七五%である。つまり有機的構成は低く、他方、蓄積率は高く設定されている。
次に、高度資本主義における拡大再生産表式の例
T 5243c+ 874v+ 874m=6991W1
U 1507c+ 251v+ 251v=2009W2……(14)
この表式例においては、資本の有機的構成は六対一、蓄積率は二五%である。有機的構成は高く、他方、蓄積率は低く仮定されている。
初期資本主義における、資本の年々の拡大率(膨張率)は、二五・一%と劇的に高くなっており、まさに初期資本主義における資本主義の特徴をはっきり映しだしている。
他方、高度資本主義における資本膨張率はわずか三・六%であり、これもまた、高度資本主義の停滞していく本性を暴露している。
参考までに言及すれば、拡大再生産の“モデル式”(8)では、資本膨張率は一〇%であり、ここでの二つの例式の率の中間に見事に収まっているが、それはことの本質からして当然である。
拡大再生産表式の意義や役割は、こうした分析に用いられる等々にあるのであって(もちろん、これは一つの例にすぎない)、恐慌論の論証の根底になるとか、あるいは「第T部門の優先的発展を証明する」ためにあるのではない。今や、こうした百年ほども“マルクス主義理論界”を支配してきた、“スターリン主義経済学”の決まり文句あるいは固定観念と決定的に訣別すべきときなのである。
拡大再生産表式の議論は第T部門から始めるべきであり、その蓄積率によって、再生産表式の全体は左右され、第U部門の蓄積率も決定される、と富塚も言いはやしているが、ナンセンスな空論であろう。
確かにこれまではこうした観念が支配的であった、つまり第T部門(生産手段の生産部門)優先の観念であり、その蓄積によって、第U部門(消費財の生産部門)の蓄積が規定されるというのである。
しかしマルクスが第T部門の蓄積から始めたのは、いわば便宜的なものであって、仮に第U部門から始めたとしても、拡大再生産の概念の獲得にはどんな違いも生じなかったであろう(というより、問題はそもそも、第T部門優先とか、第U部門から始めなくてはならない、とかいうことではないのだ)。マルクスが第T部門から始めたのは、両部門の蓄積(拡大再生産)を“同時並行的に”考えることができなかったからであって、むしろそれは拡大再生産の概念を表式として表す上での“技術的な”問題と言うべきであろう。
問題は、拡大再生産の概念であり、その獲得である。そしてその概念はまず、単純再生産と同様に、第T部門のv+m(可変資本+剰余価値)が、第U部門のc(不変資本)と交換され、置き換えられるということであって、その点では単純再生産の場合と、原則的には何ら異なるものはないのである。マルクスの拡大再生産の「第一例」について言えば、「蓄積の目的で変更された配列」の式によって示されているように、第T部門の1600(1000vと100v’と(資本家の)500消費原本)が、第U部門の1600c(1500cと蓄積分の100c’)とが、相互に補填し合うという関係である。拡大再生産が実際に行われるためには、この相互補填が存在しなくてはならない、というのは、第T部門の「1100vと500消費原本」は、素材的には生産手段であるにもかかわらず、実際には、労働者と資本家によって消費されなくてはならないからであり、また反対に、第U部門の1600cは素材的には消費資料であるにもかかわらず、再生産のためには、不変資本でなくてはならないからである。かくして、資本主義的な拡大再生産にあっては、第T部門と第U部門のこの相互補填が実際に存在するのであり、またそのことによって拡大再生産は可能になるのである。このことこそが、拡大再生産を規定する内容であり、拡大再生産の最も根底的な“概念”である。
マルクスの表式・第一例(『資本論』同二六二頁、原五〇五頁)においては、以下のように、第U部門において消費手段の“過剰生産”が現われるが(拡大再生産が前提したがって継続するなら)、しかしそれを本質的な問題と考えるべきではない。というのは、ブルジョア階級はいくらでもそれを“過剰に”消費することはできるのであり、ただ第U部門のブルジョアの奢侈やぜいたくの拡大を意味するにすぎないからである。問題はそれが第U部門のブルジョアたちだけに生じて、第T部門のブルジョアには生じないことであり、その意味ではマルクスの表式の「欠陥」や「不十分性」を示すと言えないこともないが、しかしこの「欠陥」は拡大再生産の概念にとって本質的なものではない。“数表的に”すっきりしていない、というだけのことであって、“概念的に”不都合だということではない。
U 4000c+1000v+1000m=6000
T 1500c+ 750v+ 750m=9000……(15)
2年目の蓄積のために「変更された配列」は以下のようなものである。
U 4400c+1100v+ 500m=3000
T 1600c+ 800v+ 600m=9000……(16)
そしてまた、この「第一例」においては、第T部門と第U部門の蓄積率は大きく異なってくるが(T部門は五〇%、U部門は二〇%)、これもまた本質的な「欠陥」ということだと言うこともできないだろう、というのは、部門間で、資本の蓄積率が異なるということはあり得るからである。
さて反対に、第U部門の蓄積から始めるとすると、どういうことが生じるであろうか。例えば、以下のような第U部門の蓄積から始める表式を考えることができる(マルクスは、『資本論』第二巻の第一稿では、再生産表式の考察を第T部門からではなく、第U部門から始めている)。
U 1500c+ 750v+ 750m=3000
T 6000c+1500v+1500m=9000……(17)
第U部門の蓄積率は五〇%とすると、「蓄積の目的で変更された配列」は、
U 1750c+ 875v+ 375m=3000
T 7000c+1750v+(250)m=9000……(18)
となり、第T部門では二五〇の生産手段の“過剰生産”が生じることになる。計算は以下のようになされる。
U 1500c+ 750v+(〈250+125〉+375)m=3000
T 6000c+1500v+(〈1000+250〉+250)m=9000……(19)
すなわち第U部門の一七五〇cに対応するように、第T部門でも蓄積がなされなくてはならないが、そのためには、剰余価値のうちの一二五〇だけが蓄積にまわり(うち、不変資本一〇〇〇、可変資本は二五〇である)、資本家には二五〇だけの剰余価値が残ることになる。しかしこの二五〇を第T部門の資本家は個人的に消費してしまうことはできない、というのは、それは素材的に生産手段であって、消費手段ではないからである。もちろん、単純に廃棄することによって、“問題”を解決することができるが、それは、第T部門から始めた表式で、第U部門の剰余価値がふくれ上がり、第U部門の資本家の“過剰消費”が要請されたのと、本質的に同じことである。第U部門の資本家は、“過剰な”消費手段を廃棄することも、もちろん可能であった。
もちろん、反対に過少生産が生じるように式を作ることもできるだろうが、しかしいずれにせよ、過剰生産、過少生産を無視するなら(ちょうど、第T部門から始めたとき、第U部門の消費手段の“過剰生産”を無視したように)、第U部門から始めても、このように、いわゆる“均衡条件”を満たす式をつくることは可能である。
この場合も、第T部門、第資U部門の蓄積率は決して同一ではなく、第U部門の五〇%に対し、第T部門では八三%と高いが、これもまたマルクスの前記の「第一式」において、第T部門の方が高く、第U部門において著しく低いのに照応している。
もう一つの例を想定する。
U 3000c+1000v+1000m= 5000
T 9000c+3000v+3000m=15000……(20)
マルクスのやり方にならって、ただ第T部門からではなく、第U部門から始めるとしよう。第U部門の蓄積率は四〇%とすると、「蓄積の目的で変更された配列」は、
U 3300c+1100v+ 600m = 5000
T 9900c+3300v+(1800)m=15000……(21)
となり、第T部門では一八〇〇の生産手段の“過剰生産”が生じることになる。計算は以下のようになされる。
U 3000c+1000v+(〈300+100〉+600)m=5000
第U門のcは三三〇〇となり、これに対応する第T部門のv三三〇〇、資本家の消費に当てられるべき剰余価値は一八〇〇となるが、この一八〇〇は、素材的には生産手段であり、決して素材的に相互補填され得ないし、また個人的に消費し得ない生産物部分である、つまり“過剰生産”として現象する。
このように、第U部門から初めても、第T部門から始めるのと同様に、拡大再生産の表式を与えることはできるのであるが、このことはとりもなおさず、第T部門から始めるか、第U部門からにするかといったことが、全く本質問題ではないことを教えているのである。蓄積すなわち拡大再生産の概念を与えるためには、そもそも、第T部門から始めなくてはならないとか、その蓄積率こそが先導的であるとかいったことはないのである。そういうことは、“スターリン主義”学者が長年言いふらしてきたことだが、ドグマ以外の何物でもないのである。今や我々はこうした“スターリン主義的”汚物の一切から決定的に解放されなくてはならないのだ。
6、ケインズ主義をマルクス主義に翻訳して語る?
富塚のケインズ批判は奇妙である、というのは、彼自身が「『蓄積』を埋め合わせるだけの『投資』さえあれば《実現》の問題は生じない」ということを、懸命になって論証しようとしてきたからである(まさに、その言い回しまでも全く同じであった、つまり富塚はケインズと問題意識を完璧に共有していた)。彼は自分の理論のケインズ主義的本性を決して否定できない、だから、問題は程度問題であるとか、ケインズにあっては、生産が「最終的に」消費に還元され、帰着されることが自覚されていないとかいった批判でもって、自分の理論の“親ケインズ主義的”本性をごまかすのであり、ごまかすしかないのである。
富塚の理論的出発点は、「余剰生産手段」の理論である、つまり単純再生産の内部に(あるいは、前年の総生産物の内部に)「余剰生産手段」が形成され、それが過不足なしに「吸収」され、解消されるような「蓄積」が行われるのが、“均衡的な”拡大再生産である、という奇妙な理屈である。そしてこうした理論は、第T部門優先の理論とか、再生産表式や過少消費説を恐慌論に結び付けようとする“スターリン主義者”たちの長年のドグマの延長線上にあるものであった。
我々はいまや、「余剰生産手段が蓄積される、それが拡大再生産である」といった奇妙な富塚の観念において、「余剰生産手段」と呼ばれているものが、事実上、ケインズが「貯蓄」と呼んでいるものと同一であるとことを確認することができる、そしてそう理解してはじめて、「余剰生産手段を過不足なく蓄積する」という、彼の奇妙な観念も理解できるのである。マルクス主義理論に立ち、それに依拠しているかに装いながら、彼はケインズとともに、「貯蓄」が「過不足なく投資される」かどうかといったことを心配し、あれこれ論じているのである、あるいは「貯蓄」が、それに対応する投資場面、つまり需要なくして拡大し行ったらどうなるか(恐慌が「必然的に」やってくる!)、といったことを気にかけるのである。まさにこれは、“伝統的な”過少消費説論者の理屈であり、“心理”であろう。
結局、富塚が問題にするのは、余剰生産手段なるものが形成され、それがつつがなく、無事に「実現されるかどうか」といったことでしかない。ここで言う「実現」とは、市場問題、需給問題の次元で言及されているにすぎない。要するに、「生産もしくは“蓄積”に対する需要があるかどうか」といった、ケインズらブルジョア学者と全く同じ、卑俗な問題意識である。だからこそ、彼は「均衡蓄積率」を超える「過剰蓄積」について盛んにおしゃべりし、「均衡を超える蓄積が過剰蓄積」であるといった、空虚な同義反復を大層な理論、マルクスを超える“究極的な”理論であるかに売り出すのである。資本主義では、この「過剰蓄積」は本性であり、「必然」であるとどんなに“がなって”見ても、彼の理論の空虚さは止揚され得ないのである。
余剰生産手段は蓄積されなくてはならないのだから、それは少なくとも蓄積されたものではない。とするなら、それは一体何であろうか。そしてもし、余剰生産手段が蓄積されたものだとするなら、その蓄積されたものをさらに蓄積させるとはどういうことであろうか。こうした不合理な理屈は、ただ、余剰生産手段を「買う」ための貨幣を(つまり“需要”を)問題にせよ、と富塚が叫んでいるのだ、と読み取ることによってのみ、いくらかでも“合理的に”理解することができるであろう。
そして富塚はケインズを批判するふりをしながら、ケインズと全く同レベルの次元にたって、この“需要”についてあれこれ語るのである。そしてそうすることで、富塚は、「余剰生産手段を蓄積する」という奇妙な見地の本当の意味を、自ら暴露しているのである。つまり、それは“需給”の問題であり、「蓄積」するとは貨幣で余剰生産手段を「買う」ということだ、と言うのである。そうでなかったら、「余剰生産手段を蓄積する」という観念は全く理解できない空文句ということになるであろう。
しかしとんまの教授大先生は、わけの分からない「余剰生産手段」といったものを“でっち上げ”、それをもって自らの“学問的”体系の根底に据えようというのである。ただこのことだけからも、“富塚学説”の荒唐無稽さを我々は結論することができるだろう。
拡大再生産においても、その表式が与えられるとするなら、それは“均衡的”でなければならない、つまり生産の全体が“均衡をもって”継続され、拡大し得るということが示されなくてはならない。だが、富塚にあっては、最初から表式は全く不均衡なもの、正常ならざるものとして、つまり第T部門が“不均衡に”膨張したものとして提出されるのである、つまりそれはどんな社会的必然性も現実の社会的諸関係も反映しない(そこから抽象されたどんな社会関係も示さない)、全く恣意的で、純粋に偶然的なものである。だから、富塚が彼の再生産表式が一定の段階の「生産力」を表しているというのもぺてんであろう。
彼はこうした全く不合理な前提から出発しつつ、こうした不均衡を解消させ得る「蓄積率」を探し出そうと言うのである。しかし仮に、そんなものが見つかるとして、その後の再生産はいかにして継続するのであろうか、することができるのであろうか。
しかし実際には、富塚は、その均衡は実は不均衡であり、「余剰生産手段」を前提とする再生産が続かなくてはならない、と強調するのである。かくして彼にあっては、均衡は永遠に存在せず、ただ均衡への努力――シジフォスの努力――のみが現実的だ、とおっしゃるのである。むしろ、不均衡への衝動のみが現実的だ、均衡の諸条件から不均衡が発展する――これはもちろん、マルクスが資本主義的生産のもとでは、均衡諸条件はそれだけ不均衡の諸条件に転化する等々と主張するのとは、別の観念である――などと分けのわからないこと強調してやまないのである。一〇〇〇の生産手段の過剰を埋めるために、一一〇〇の資本蓄積が行われたが、その結果は(次年度には)、やはり一〇五〇の資本過剰が生じるというのである。彼は不均衡の継続こそが均衡的生産の継続である、とでも考えるのだろうか。一般に、彼には社会的生産と再生産の概念がない、だからこそ、彼はマルクスの再生産表式の意義を全く間違って理解し、こんな途方もない再生産表式を――おそるべきドグマを――提出して平然としていられるのである。
しかし、一〇〇〇の「余剰生産手段」を解消するための資本蓄積とは、一体どういう観念であろうか。そんなにも大きな「余剰生産手段」が存在するなら、必要なことは、資本蓄積ではなく、反対に、資本削減であろう。そして一〇〇〇の「余剰生産手段」が存在するときに、さらに一一〇〇の資本を蓄積するなら、「余剰生産手段」の量の増大は、単に五〇で済むはずもないではないか。我々は、彼がブルジョア的“需給論”(例えば、ケインズ主義)の妄想的観念に囚われていると結論するしかないのである。実際、富塚の頭脳を支配しているのは、「総有効需要の不足」という観念から出発する、ケインズ主義そのものであり、その単なる亜種、変種であるにすぎない。
ここにはあからさまに、富塚の徹底的に“ケインズ主義的な”問題意識――全く卑俗で、根底においてブルジョア的な――が暴露されている。彼がここで「有効需要」とか「貨幣の流れ」を持ち出すのは特徴的である。ただこうした観念を持ち出すことによってのみ、富塚は、一,〇〇〇の「余剰生産手段」のあるところに、膨大な資本蓄積を行うことによってのみ、それを解消できるのだという、例のたわ言のつじつまを合わせることが可能になるのである。
「部門構成の観点を明確に導入した以上の表式展開を基礎として、総有効需要の二つの構成要因たる『生産財需要』と『消費財需要』とが、所与の生産力水準のもとにおいては、ある一定の構造連関をもつべきことを推論することができ、従って、『貯蓄』(意図される蓄積基金の設立)がいかほど大であろうとも、それを埋め合わすべき、『新投資』さえ与えられるならば、なんらの実現の問題も生じないであろうとするケインズ的論定が、一般的には成立しがたいことが、明らかになるであろう。元来、いうところの『有効需要』の問題は、総生産物W’の各構成部分相互の価値・素材補填の運動を媒介する貨幣の流れの問題として、把握されなければならない。『生産財需要』は再投資のうちの不変資本補填部分〔C〕と新投資のうちの追加不変資本投下〔Mk〕とからなり、『消費財需要』は再投資のうちの可変資本部分〔V〕と新投資のうちの追加的可変資本投下〔Mv〕とによって媒介されるところの・労働者階級の消費需要と、剰余価値のうちの消費支出へのふり当て部分たる資本家階級の消費需要〔Mβ〕とからなり、これら有効需要の構成諸要素は、表式分析から知られるごとく、相互に緊密な構造連関をもち、この構造連関は、所与の生産力水準に照応すべきものとして、これを任意に変更せしめることはできないのである。
もとより、すぐれて流動的な資本制的拡張過程においては、総有効需要の構成要素間の相互連関もまたかなり弾力的でありうるのであるが、しかし、転倒的な資本制的再生産過程といえども、その実体的基礎においては人間と自然との物質代謝の反復過程たることに変わりはない以上、すべての生産の流れは最終的消費財生産のそれへと結実してゆくべきものであり、一切の生産は『終局において消費と関連し、消費に依存している』という事実自体は覆しえないのであって、生産諸部門の技術的=経済的関連性とは、この生産と消費との連繋の表現にほかならないのである。
この連繋を再生産表式論のうちに導入するには、いわゆる『部門間の均等条件』T(V+Mv+Mβ)=U(C+Mk)の設定だけでは充分ではない。この条件さえ充たされれば第T部門の蓄積額(ならびに蓄積率)は任意の大きさでありうるというならば、第T部門の自立的発展は無限界であるとするトゥガン・バラノフスキー流の謬見に対する批判の論拠は不明瞭とならざるをえない。
生産力水準にして変化なきかぎり、資本構成・剰余価値率とともに、またそれらとの連関において、部門構成もまた(原則として)不変でなければならず、したがってまた総有効需要の構成諸要素相互間の構造連関も不変でなければならない。その場合にのみ、過剰蓄積・素材の両面からする拡張過程の均衡が現実に保持されうる。『生産財需要』と『消費財需要』とは、所与の生産力水準に照応する一定の比率関係を保持しながら拡大してゆかなければならない」(『恐慌論研究』九三〜四頁)。
要するに、資本主義的生産は「生産のための生産」であるが(そしてこのすう勢は、たちまち、均衡蓄積率を超える強蓄積、過剰蓄積に帰着するのだが)、しかし結局は(あるいは終極的には)、「生産は消費によって制約されている」のであって、一定の限界を超えることができない(超えて行くからこそ、恐慌は必然となる)、そして拡大再生産表式はその“需要供給の関係”を見事に図示するのだ、というのである。
再生産表式は、二部門間による、素材的、価値的な両契機による相互補填関係を規定する、そしてこれは基本的に価値の関係として示されるのだが、しかしここで富塚らがしゃしゃり出て、この価値関係に需要供給の関係であるというご高説を付与せられるのである。価値関係が需要供給関係であるというなら、それにあえて異を唱えるつもりはないが、しかし一体そんなことを言ってどんな意味があるというのか。どんな意味もないこと、そしてそんなたわ言は、再生産表式の意義を全く混乱させ、意味不明なものにするしかないのは、余りに明らかであろう。
しかし富塚は、「余剰生産手段」がいかに解消されるかが、蓄積であり、拡大再生産であると言ったのだから(正確には、余剰生産手段が「過不足なく」蓄積されるべきだ、それが均衡蓄積率だと言うのだが)、当然、単なる価値関係では済まないのであって、それはあくまで需要供給の関係でなくてはならないのである、つまり貨幣による購買であり、貨幣を求めての販売である。それらがいかにして均衡するのか、しないのかの理論である。
これは事実上、科学的な理論の課題を、資本主義の経済的諸現象の卑俗な叙述にすり替えるものであり、事実、富塚の理論も結局、そこに帰着していくのである。彼は過剰生産・過剰蓄積とは過剰生産・過剰蓄積であるとしか事実上言わないのであり(“均衡”蓄積率を上回る蓄積が“過剰”蓄積である、それが“必然的に”恐慌をもたらす、云々)、それにもっともらしい理論的、“学問的な”粉飾をほどこすだけである。 富塚は得々として、次のように説明している。
「生産手段および消費手段に関する需給均等関係が成立し、また部門間均衡条件も満たされている。生産手段の補填需要八〇〇〇(億円)、新投資需要一〇〇〇、計九〇〇〇の生産手段需要と、再雇用労働者の消費需要二〇〇〇、追加雇用労働者の消費需要一〇〇、資本家階級の消費需要九〇〇、計二〇〇〇の消費資料需要という、一定の配分比率と構造連関をもった有効需要(「投資需要」プラス消費需要」)があれば、拡張過程は均衡を維持しながら進行することができる。所与の生産力水準とそれに照応する生産関係の表現たる投下資本総体の資本構成・部門構成・剰余価値率などの相連繋する諸条件によって規定されるところの、総生産物W’の価値的・素材的構成によって《均衡を維持しうべき蓄積総額=並びに平均蓄積率》が決定され、それにともなってまた拡張過程の均衡を維持しうべき総有効需要の構造が規定される」(『経済原論』二六七頁)。
みられるように、富塚は再生産表式における価値補填と素材補填の関係をすべて「需給関係」に置き換えて説明するのだが、まさに富塚理論の隠された真実を、その秘密を暴露するものであろう。表式関係は、富塚にとっては資本主義的生産の経済的諸要素の「需給均等関係」を明らかにするものなのである。彼はこうしたケインズ主義的な問題意識から、マルクスの再生産表式を理解するのであり、ケインズ主義によってマルクスを「読」み、「解釈し」ようとするのである。
そして、富塚理論にとって決定的なものは「最終的消費」であり、すべてはそこに帰着するのであり、再生産表式の意義もまた、この真理――もちろん“真理”にも、いろいろあろうというものだが――を明らかにするところにこそある。彼は、すべての生産が「同時に、いっせいに、同じ割合で拡大されなくてはならない」という「生産諸部門間の比例的均衡」という命題を引用し、承認しながらも、「その場合、生産物の『最終の姿』は、『直接的な最終の消費』すなわち『個人的消費』の対象たる諸々の消費手段であるか、あるいは種々なる労働手段であろうが、後者は再び『新たな生産過程に入ってゆく』べきものであって、『段階的序列』をなす生産の流れがそこに到り着いて止む『最終の姿』は前者すなわち最終的消費財のそれである、と解するのが妥当である」、と“付け足す”のである(『資本論体系』九巻一、四九頁)。
彼はこうした矛盾した二つの見解を何とか調和させようと苦心惨憺するのだが、しかしそれらの意味を、それらが述べられた理論段階――何を明らかにし、何を論証しようとしているか――と結び付けないので、その試みは決して成功することができないのである。
もちろん、再生産表式もまた「生産と消費」の関係を、あるいは「生産が消費によって規定されている」ことを明らかにしていると言って悪いことはないが、しかし他方では、再生産表式は単に「生産か消費によって規定されている」ことを教えているだけではなく、また同時に、「消費が生産によって規定されている」ことをも明らかにしているのであって、むしろこうした相互的規定性こそが再生産表式にとって本質的であり、根底的である。富塚は、再生産表式のこの特殊性を、その独自の意義を決して理解しないのであり、したがってまた、他の理論課題について言えば正しい「生産は(最終的には)消費によって規定されている」という命題を(ある意味では、分かり切った命題を)、何とかの“一つ覚え”のように繰り返すだけなのである。彼は、「再生産表式の分析」において、「生産は消費によって規定されている」という命題を持ちだすことは正当ではないばかりか、むしろ正しい「分析」を妨げるだけであり、有害ですらあり得る、ということが分からないのである(もっとも、これは山田盛太郎以降の“スターリン主義経済学”の、そして“過少消費説”の一つの本質的特徴であり、傾向なのであるが)。
富塚が、「余剰生産手段」とか「均衡蓄積率」とか、さらに「過剰蓄積」やその「過程」などについて空虚なおしゃべりをあんなにも熱心に繰り返すのも、再生産表式によって、それを利用して、「恐慌の必然性」を論証することができる――というより、しなくてはならない――という観念に取り付かれているからである(こうした観念が発達する、階級的基盤や根底については、ここでは触れない)。こうした富塚のドグマからするなら、もちろん、マルクスの理論(この場合は、拡大再生産表式の理論)は不十分で、試行錯誤の混乱したもの、「未完成」なものであり、批判の対象である(さすがに、富塚はマルクスは「間違っている」とは言わない、というのは、彼は今のところは――かつてのいやらしい宇野学派の連中と同様に――マルクスの陰に隠れながら、マルクス批判をこととしているからである。だが、こんなマルクス批判を続けていれば、富塚の行き着くところは余りに明白であり、宇野学派の後を追うしかないのである。宇野学派はマルクス主義者を装うマルクス批判家として出発したが、結局全体として、ありふれたブルジョア俗流経済学派に堕してしまった)。
富塚もまた宇野学派に倣って、自分の無知蒙昧やひどい俗流意識を棚上げして、つまらないマルクス批判に血道をあげているが、そうした卑しい試みがどこに行き着くかを、我々は完全に推測することができる。
「『経済学批判要綱』以来、『一八六一〜六三年草稿』、『資本論』第二部初稿と、マルクスが一貫して保持し続けてきた問題意識――〈過剰蓄積〉による『再生産過程の撹乱』・『全般的過剰生産』の視点は、しかし、現行『資本論』第二部第三篇『社会的総資本の再生産と流通』においては具体化されてはいない〔当たり前だ〕。
その理由は、そこでこそ当面の問題が主要テーマとされるべきであった〔勝手に決めるな〕第二一章『蓄積と拡大再生産』が、文字通りの『未完の草稿』である『第八稿』(一八八〇年ないし一八八〇〜八一年に書かれたと推定される)によるものであることによる。肝要な、拡大再生産における総資本の総生産物の構成諸部分の相互補填の態様を解明すべき再生産表式の展開自体が、未だ手さぐりの試行錯誤と暗中模索の跡をそのまま伝えるに止まるものになっている。
だがしかし、その反面では、当面の問題を解明するがための立脚点となり得べきいくつかの重要な論点が鋭く提示されている。これを拠り所として、『再生産過程の撹乱』・『全般的過剰生産』を帰結すべき過剰蓄積傾向の再生産表式による析出と過剰蓄積過程すなわち不均衡の累積過程の構造と動態の解明が行われなくてはならない。
『未完の草稿』をそのまま祖述するのでは実は解説にもならないし、また『未完の草稿』をもってあたかも完成されたもの、絶対不動のものであるかのように考え、そこから一歩も踏み出すべきでないとするのは決して妥当な研究態度ではなく、真に古典を尊重する所以でもない」(同五二頁、読みやすくするために、原文では一続きの文章を四つに区切っている)。
仮にマルクスの『資本論』第二巻第三篇が、「未完の草稿」であり、多くの欠点や不十分なところ、曖昧なところを含んでいるからといって、マルクスの科学的で合理的な観念が否定されるというわけではないし、また富塚のドグマ的な立場が正当化されるわけでも決してない。というのは、第二巻は基本的に「『再生産過程の撹乱』・『全般的過剰生産』を帰結すべき過剰蓄積傾向の再生産表式による析出と過剰蓄積過程すなわち不均衡の累積過程の構造と動態の解明」といったことを「理論的分析」の課題にしているなどいうことはありえないからである。そんなものは、山田盛太郎以来のスターリン主義経済学の“伝統”に基づいて、富塚が勝手に、恣意的に“でっちあげた”空虚な理屈であり、憶測であるにすぎない。マルクスの「草稿」の不十分さが仮にあるとするなら、それは富塚が言うのとは全く違った方向において理解され、“止揚”されなくてはならない。
富塚のドグマの“秘密”は、彼が事実上、ケインズ主義を展開し始める――ブルジョア理論家に追随して――ときに明らかになる。彼はここに過剰生産と、それを一掃するケインズ主義的な“需要拡大”の問題を見ているのである、つまり過少消費説的立場である。
富塚は、自らの拡大再生産表式をもって、「需給均等関係」が成立している、すなわち「拡大再生産過程は全部面における、しかも価値・素材の両面からする、実体的な意味での均衡を維持しながら進行してゆくことができる。しかし、そのことは同時にまた、所与の生産力水準に照応する一定の供給構造と一定の需要構造とが相対しあわなければならなうことを意味する。それが資本主義的拡大再生産過程の基本的構造連関である」(同六〇頁)と自慢し、ケインズ主義的なたわ言をつらね始める。彼はケインズ主義を批判し、自分の理屈はそれとは違うと言いたいらしいが、しかし結局はケインズ主義的空論に帰着して行くし、そうなるしかないのである。
富塚は、拡大再生産表式の意義は一定の「生産力水準」に対応した「供給構造と需要構造」を明らかにするところにある、と主張するが、まさにこれこそ過少消費説論者、あるいは事実上のケインズ主義者にふさわしい、卑俗な見解であろう。彼はケインズ主義を批判し、自分の理論がそれとは違うと、必死で弁明しなくてはならないのである。
「ケインズの有効需要論の考え方からすれば『所得』に対する『蓄積』の割合がいかに大であっても(したがってまた『所得』に対する『消費』の割合がいかに小であっても)、その『蓄積』を埋め合わせるだけの『投資』さえあれば《実現》の問題は生じないということになるが、しかし問題を流通の現象過程に局限された視角からでなく、再生産の実体的基礎との関連において把握するならば、そうは言えないことが明らかになる。
ここに生産物W’の価値的・素材的構成=『諸要素の機能配列』によって規定される《均衡蓄積額・均衡蓄積率》決定の論理との不可分の関連において、総=有効需要の構造の問題が浮かび上がってくるのである。拡張過程が価値及び素材の両面からする真の意味での均衡を維持しながら進行してゆくためには、その再生産過程の内的構造(ならびに、それに応ずる拡張速度)に照応する・一定の配分比率と構造連関をもった有効需要の継続的増加がなければならないのである。……〔ここで、再生産表式によって、分かりきった――というのは、それはある意味で、前提されているものだから――様々の均衡的な「需要関係」がもったいぶって説かれる〕。
社会のいっさいの生産が『互いに関連しあい、相互に条件づけあい』ながら最終消費財生産へと結実してゆく『段階的序列』をなし、『同時的並行』として行われる・全体としての生産の流れと社会的消費との関連を把握する視点、すなわち、《生産諸部門間の比例均衡性》と《生産と消費の均衡》を重ね合わせてとらえる視点から、両部門の蓄積率均等の、均等発展過程の想定の妥当性がまず確認され、それが理論的基礎として確定された上で、『再生産過程の弾力性とその限界』、その再生産過程の弾力性による許容度の範囲を超えての部門T主導の過剰蓄積の展開の問題が論じられなければならない。この基本点を明確にしないならば、部門Tの生産が部門Tそれ自体のために拡大してゆく部門Tの『自立的』発展過程もまた『均衡過程』であるとする、ツガン・バラノフスキー説を批判すべき論拠は全く失われるのである」(同六五〜六頁)。
「だが問題はむしろ、部門連関の許容度の範囲をはるかに超えて、『過剰蓄積』が推し進められていく・内的=不可抗的傾向が、資本制的生産の本質そのものによって規定される資本制的蓄積機構それ自体のうちにあり、前述の諸要因による再生産過程の弾力性はまた、それを促進するものとして作用するという点にある」(同六八頁)。
大山鳴動してネズミ一匹、とはまさにこうした理論について言うのであろう。ここにあるはの、つまらない同義反復をいくらかでもまともな理論に見せ掛けようとする、むなしい努力だけである。
富塚は、部門間の比率に規定されて、「余剰生産手段」なるものが形成される、そしてそれを「吸収する」蓄積が行われればすべては順調に進行するが、もしそれが不可能になれば、過剰蓄積・過剰生産が、つまり恐慌が「必然的に」勃発する、しかるにケインズはこの「構造」を理解せず、「所得」に対する「貯蓄」がどんなに大きくても、それを埋め合わせ、吸収する「蓄積」があれば、いくらでも資本主義的発展が可能であると主張する(これは事実上ツガンの立場であろう)、蓄積を究極的に規定する「消費」の役割が無視されている、といつた形でケインズを攻撃するのである。ここでは、ケインズは過少消費説論者としてではなく、その対極に立つ、ツガンと同様な理論家として告発されるのであるが(何という、事実からかけ離れた、ばかげた批判であることか)、それはもちろん、富塚がケインズとの同一性を自覚するからであり、その「汚名をそそぐ」ためには、何が何でも(ツガンと一緒だといった、中傷的発言をしてでも)ケインズを否定しなくてはならないからである。
しかしケインズの言う「貯蓄」とは、富塚のいう「余剰生産手段」と、どれだけ違うのか、そして、両者共に、それを「吸収する蓄積」(“購買力”? “有効需要”?)があれば資本主義は安全であり、平穏だと言うのだから、両者の理論的立場の根源的な同一性は余りに明らかではないのか。しかも、両者共に、「消費」によって、この「貯蓄」(富塚にあっては「余剰生産手段」)を解消しようというのだから、ますます彼らの立場は接近するのである。富塚は、ケインズは直接的に「消費」による救済を呼び掛け、自分は「間接的」であり、あるいは資本主義的再生産の「構造的連関」を知っていると強がってはみても、そんなものは実際には(実践的には)大した違いとして現われてはこないのだ。「構造的連関」とは再生産表式に表現される諸関係のことであろう、しかし、富塚もまたその意義を正しく理解していないではないか、とするなら、この点でもケインズと違うと自慢することはできないであろう。
そしてまた、一般に、社会的生産が全体として消費のために行われるということ、生産手段の生産さえもそうであるということについては、マルクス主義者なら(あるいははマルクス主義者でなくても、いくらかでも人間社会の本性を知っている人なら)誰一人として異議を唱えることはないであろう。しかしこのことと、再生産表式は、直接には関係ないのである。そこでは、第T部門も第U部門も全く平等の部門として現われ、第U部門のために第T部門が存在する(「最終消費財生産へと結実してゆく『段階的序列』」云々)、などということは全くどうでもいいことなのである、というのは、ここでは社会的総生産がいかに行われるかが問題になっているにすぎないらかである。富塚が常に(ケインズとともに)「消費」を強調するのは、過少消費説を持ちだす意図を持っているからである。彼はそのための一つの伏線とし、何が何でも、「消費」を強調しておかなくてはならないのである。
資本主義は第T部門(生産)優先であるが、本来の社会では第U部門(つまり消費)優先である、だからこそ、資本主義の矛盾は「生産と消費」の矛盾、つまり“過少消費”として根底的に理解されなくてはならないし、恐慌もまたその矛盾から生じるものとして、その「必然性」が規定されなくてはならない、というのが、彼らの“究極の”観念であり、その思想的(したがって、理論的)根底である。資本主義的生産が「消費」によって究極的に規定されているにもかかわらず、第T部門つまり生産をやみくもに発展させるという「本性」を持っているがゆえに、資本主義の矛盾は「生産と消費」との矛盾として表面化するのであり、結局は恐慌として爆発するのだ、というのが富塚ら「過少消費説」論者の“お決まりの”理屈である。
しかし資本主義的生産が「生産のための生産」であったとしても、その矛盾はただ「消費」(個人消費)との矛盾として表面化し、爆発するものではない、だからこそマルクス主義者は一貫して、過少消費説の単純さ(機械的な単純さ!)と一面性に反対して来たのである。資本主義的な一般的過剰生産の特徴、その本性は、「消費」(生産的消費とは区別されたものとしての消費、個人消費)との比較において過剰生産であるというとろこにないことは、マルクスが繰り返して強調してきたことであるが、今また、共産党系学者の中では、事実上、過少消費説が大流行である。このことはもちろん、共産党が日和見主義的、改良主義的(小)ブルジョア政党に堕落してしまったことと不可分に関係している。
マルクス主義同志会理論誌『プロメテウス』49号●2006年10月
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