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現代の過少消費説論者をも撃つ

山本二三丸の山田盛太郎批判
山田理論は“共産党経済学”の最後の牙城
(林 紘義)


 我々の中で、“スターリン主義経済学”――これはとりあえず、スターリン(スターリン主義者)の片言隻句のドグマを、何らかの“体系的”理論に仕立てあげる傾向、と規定しておこう――の最後の権威的理論家たち――いわゆる“富塚派”つまり富塚良三の「恐慌論」、したがってまた「資本主義論」のもとに結集する一団の“学者”たち――に対する闘いの決意が高まっている。彼らは“学会”(ブルジョア大学)の中で、宇野学派などと並んで一定の影響力を持っている、“マルクス主義経済学”の一派であり、政治的には日本共産党と結び付いている。ここで取り上げようとする山本二三丸の山田盛太郎に対する批判は、同時に富塚派に対する批判でもある、というのは、富塚らは基本的に、山田を自らの理論的先達とも出発点ともみなし、今なお高く評価するからである。山本の山田批判は、本人が意識することなくして、“スターリン主義経済学”の一傾向――決して、重要でなくもない――に向けられた、最初の断固たる、しかも根底をつく暴露としての意義を獲得している。山本が問題にするのは、山田の主著の一つ、『再生産表式分析序論』であり、これは一九三一年、改造社の「経済学全集」一二巻「『資本論』体系〔中〕」の中で発表された。他方、山本の著書は『恐慌論研究』の名で、戦後まもない一九五〇年に現れている。

◆再生産の「決定的条件」

 山本の理論はもちろん、厳密に見ればあれこれの欠陥がないことはない――例えば、彼は理論を「法則」としてとらえるが、しかしその意味は、法則的関係(再生産表式に表される関係など)は「現実には存在しないもの」(九九頁)であると理解されているかである、等々。現実から抽象された諸法則、諸概念を、「現実には存在しない」と言うのは正しくない、というのは、それらはある意味で、一層深い、一層深刻な現実だからである――、しかしこうしたことは山本が、山田に典型的に現れた“スターリン主義経済学”に対して、明白な抗議の声を最初にあげたという“功績”に比べれば、差し当たりは“些細なもの”であろう。

 さて、まず山本が問題にするのは、山田が出発点では、『資本論』第二巻は、決してそれ自体「恐慌」を説明するものでも、その本当の原因を示すものでもない、「真の恐慌」の根拠を明らかにしないと言いながら、論を進めるうちに、この自らの原則をあいまいにし、捨て去って、実際には、第二巻から現実的恐慌を規定し、説明している、ということである。見られるように、山田の理屈には富塚理論の“原形”がある。

 ところで、山田が要約する、『資本論』第二巻の内容、性格は、恐慌の抽象的可能性を規定する第一巻、「恐慌の一層具体的な形態が分析される」第三巻と区別されて、次のような特徴を持つのである。

「『資本が種々なる段階の下において採り、その循環を反復しつある間にある時は保存し、ある時は破棄する種々なる形態』の研究の際、特に第三編『社会的再生産並びに流通』において、資本の『生産過程と流通過程との統一』が分析せられ、その場合に右の『両形態(恐慌の第一形態、第二形態)が単に反復されるか、あるいはむしろここで初めてその形態が内容、すなわちそれが表示され得るところの基礎を得る』ことが証明されている。したがってここでは、『恐慌の内容の規定は拡大』せられ、あるいは『恐慌の発展せる可能性』が示される。しかしなおまだ『可能性、すなわち抽象的形態』が示されているにすぎない」

 この文章で見る限りでは、山田は第二巻(したがって再生産表式)は「真の恐慌」とは直接に関係がないとして、そこから恐慌を説く見解を退けているかに見えるが、しかしすぐに、マルクスの再生産表式は「一般的」運動の問題であって、「一層詳細への分析の一つの段階」にすぎないと限定し、その上で「表式の性質を問題にすることは可能であり、必要である」と主張し、それはレーニンも問題にしている「実現の問題」である、等々と言い始めるのである。

「この資本の諸形態、すなわち『実現』の諸条件は、一応、一般的に取り扱われる必要がある。以下、問題を次の二点に限定して検討する。問題の一。条件と一層発展する恐慌の可能性との連繋。問題の二。条件と狭隘な『消費』限界との連繋」

 そして山田は、この第一の問題は、再生産表式に表される価値補填・素材補填であるが、その「決定的条件」となるものは、第一に、第T部門の可変資本および剰余価値部分と、第U部門の不変資本部分の交換であり、第二に、第U部門内部における、生活必需品と奢侈品の交換だというのである。

 山田の言う二契機が再生産の「決定的契機」だといった見解のナンセンスは一目瞭然だが、問題は、なぜ、何のために山田はこんなドグマを持ち出したのか、それを必要としたのか、ということであろう。

 山田の見解がナンセンスだというのは、もし「実現」を問題にするなら、山田があげた契機だけでなく――というより、基本的に――、マルクスもいうように、三つの契機が――つまり、「(1)第U部門内部におけるv(可変資本)とm(剰余価値)との補填、(2)両部門の転態、T(v+m)対Uc(不変資本)、および(3)第T部門内部におけるcの補填、でなければならないからである」(山本、四〇頁)。

 さらに問題なのは、「山田氏は右の二つの『決定的条件』と並んで、『二連の貨幣回流』をもって『再生産の条件』と規定されているが、この『条件』の理解は、極めて重大な問題を含んでいるように考えられる」(同四一頁)ことである。

 そして山本は、山田の「恐慌は再生産の諸条件、すなわち一層発展せる恐慌の可能性を通じてのみ現出する」という主張を捕らえて批判する。

「恐慌が、その本来の形態において、一層発展せる恐慌の可能性を通じてのみ現出するということは、おそらく異論のないところであろう。だが、『恐慌は再生産の諸条件、すなわち……』と規定されるのは、どんなものであろうか。……ここにもまた、『再生産の条件』という言葉が、さきの『決定的条件』と規定されて、『再生産の法則』と理解されない欠陥が現れているように考えられる。『決定的条件』であれば、恐慌は『条件』の阻害の結果として現れる。だが『法則』であれば、恐慌は『条件』を貫く一つの特殊な形態としてあらわれる」(四四頁)

 山本が問題にするのは、山田が再生産表式から恐慌を「直接」説くことはできないと言いつつも、他方では、再生産表式の「決定的条件」なるものを持ち出し、それが阻害もしくは破壊されると恐慌となると主張していることである。山田の言うことは一見してもっともらしいが、しかし恣意的な議論でしかない、というのである。恐慌が再生産表式が表す均衡の破壊であるというのは、ある意味でその通りであり、当たり前のことだが、それは何も語っていない(均衡の破壊は均衡の破壊である、という以外には)と同様だ、ということである。

 山本の批判は、山田が挙げる「決定的条件」といったものが奇妙な内容を持っていることに対してであり、さらにより根本的には、再生産表式の意義を「再生産を保証する決定的条件」といったものとして規定することに対してである。再生産表式は総資本がいかにして再生産されるのかの概念を与えるのであって、「社会的総資本の再生産と流通」の問題である。山本は、山田の言う「条件」というものを検討する。

「そもそも再生産論の課題とするところは何であろうか? それは、いうまでもなく、社会総生産物の各価値部分がどうなるか、を明らかにするところにある。いいかえれば、社会的総資本の再生産と流通とがいかに行われるか、ということを示すことにある。そこで再生産過程は、社会総生産物の個々の構成部分の価値填補および質料填補の立場から考察されなくてはならないということが、当然、引き出されてくるし、この見地にもとづいて、生産において消耗された資本はその価値から見ていかにして年々の生産物から填補されるか、またこの填補の運動は資本家による剰余価値の消費および労働者による労賃の消費といかに絡みあっているか、という本来の問題が明らかにされることになる。

 それゆえ、社会的再生産の条件とは、まさに、この社会的総資本の再生産と流通がいかに行われるかということ、そのこと自体でなければならない。いいかえれば、社会的総資本と流通の条件とは、その法則を意味するものである。『資本論』第二巻第三篇、すなわちいわゆる再生産論が明らかにしているのは、まさに、この社会的総資本の条件、その法則にほかならないのである。この、再生産の条件=再生産の法則、ということを明確に認識することは、決定的に重要である。実現理論の意義は、まさにこの再生産の条件=法則にこそあるのである」(九二〜三頁)

 こうした観点に立って、山本は、山田の「決定的条件」のドグマを批判する。

「それゆえに、もし、再生産の条件をば、再生産過程が円滑に、『均衡的に』、『理想的に』行われるための条件と理解するならば、いいかえれば、『均衡的な』実現を保証する条件としてとらえるなら、これは、全く経済法則の何たるかを理解しない、逆立ちした議論と言われるべきものでしかないだろう。科学的理論における法則とは何か? それは、現実の経済諸現象を、終局において支配するもの、それらの不断の諸変動がたえずそこにおちつこうとしてはそこから反発する中心的、平均的基準、をあらわしている。別の表現を借りれば、経済法則とは、たえずそれから乖離する諸現象、諸変動を通じて、それらの変動のうちに、実現されるものなのである。そういう意味で、資本制社会における経済運動法則を研究する『資本論』の中で、『平均的型』、『理想的平均』等の言葉が用いられているのであり、また、法則の『抽象性』が説明されているのである。実に、経済法則の『抽象性』とは、その法則たるゆえんを示すものにほかならない。この法則の意義、法則の『抽象性』は再生産の諸条件=諸法則に関しても、全く同じである」(九五〜六頁)

◆「狭隘な消費制限」批判

 次に山本が槍玉にあげるのは、山田の「狭隘な消費制限」の理屈である。山本は、山田の理論が、この「狭隘な消費制限」の理屈を媒介に、結局は「過少消費説」に転落していく――過少消費説反対の見せ掛けのもとに――ことを暴露するのである。

 山田は、「決定的な条件」を阻害するものとして、労働者の「狭隘な消費限界」というものを持ち出して来るのだが、その内容は、労働者の賃金が、その「価値以下に引き下げられる」といったものである。

 山田は、「かくのごとき『労働者たちの消費資料の価値』以下への『労働者たちに支払われる労働賃金の総額』の低下は、労働者階級のいわゆる狭隘な『消費』限界を形成し、この限界は恐慌において一定の役割を演ずることは自明である。狭隘なる『消費』限界と恐慌との連繋はここで正当に把握されねばならぬ」と強調し、この理屈を過剰蓄積に、過剰生産に、つまり恐慌(論)つなげていくのである。

 もちろん山田は、このように理解された「消費限界」から恐慌を「直接」に説くような愚は犯さないのであり――そんなことをすれば、マルクスやレーニンによって厳しく否定され、非難された過少消費説の誤りを犯すことになる――、ここに重要な意味をもって再生産表式が登場するのであり、しなくてはならないのである。

 山田は、「消費限界」から恐慌を説くにしても、「直接に」は説かないのだから、いわゆるローザなどの過少消費説論者と自らを区別することができ、他方では、「消費限界」を重視するのだから、「消費」問題、実現問題を捨象して恐慌を説く論者や、蓄積の自己運動を説くツガン・バラノフスキーらと自らを切り離すことができるのである。とするなら、この両極端を批判した、山田の理論はどんなものであろうか。

「マルクスは、資本家的生産様式における、生産力を無制限的に発達せしめんとする一傾向と、労働者階級の狭隘な『消費』限界との矛盾を確信している。そのことはマルクスよりの諸引用によって文証せられる」

 つまり山田は、「消費限界」なるものは、労働者の賃金の価値以下への引下げであると理解し、こうした観点と、拡大再生産表式を結び付け、「直接」には過剰生産、過剰蓄積は生じないが、拡大再生産の事態が進行するなら、過剰生産、過剰蓄積になるのは明白であり、この矛盾は「恐慌」として爆発するし、せざるをえない、というのである。だからこそ、山田にあっては、恐慌は「再生産の諸条件」を通してのみ現れなくてはならないのである。現実の恐慌は、第二巻(再生産表式)から「直接には」説明されないのだが、しかしまた、そこからこそ、規定され、説明されなくてはならないのである。

 こうした山田の理論に対して、山本は次のように批判する。

「マルクスの見解は、『狭隘な消費限界』を総流通=総再生産過程の条件にあてはめて、ここから恐慌を引き出そうとするような理論をあらかじめ完封している。これに対して、過少消費説は、生産と消費との矛盾から、いいかえれば、生産拡大に対する無限の志向と人民大衆の限られた消費との間の矛盾――『内在的矛盾』――から恐慌を引き出そうとするものである。それは決して〔山田の言うように――林〕『v(可変資本つまり労働者の賃金分)の1500だけの問題として』恐慌を把握しているのではなくて、まさしく『資本主義の歴史的な使命としての社会的構造に対応しているところの、消費の拡大なき生産の拡大』という矛盾において、恐慌をとらえているのである」(八五頁)

「マルクスの見地は、恐慌の説明は、生産の社会的性質と領有の私的性質との矛盾によってのみ可能であり、『大衆の消費制限』によって説明することは正しくない」(八六頁)

 山本は、山田が過少消費説を極めて矮小に、“直接態”においてだけ批判し、その結果、自らも事実上、いくらか別の形態で――より“巧妙”で、“複雑”で、“緻密”な形で、つまり一層手の込んだ理論的ごまかしによって――過少消費説を“復活”させ、導入していることを告発しているのであるが、これはまさに富塚らの現代の共産党系の俗学者たちを直接に“撃っている”かである。

◆山田の理論は転倒している

 かくして、山本は山田批判を総括する。

「問題は、再生産の条件である。これらの条件を、『均衡的』『理想的』実現を制約する『条件』と理解する諸『理論』にある。これらの『理論』は、条件をば丸っきりあべこべにしてしまうのである。……この点についての無理解からして、マルクスの理論は抽象的には正しいであろうが、現実の経済諸現象は説明できないという誤った非難、あるいは、彼の理論は静態論であって、抽象的な、非現実的な法則として『純粋』には妥当しうるかもしれぬが、現実の諸変動には役立ちえない、だからして、それは動態論にまで補完されなければならないという、誠しやかな修正、等々が生まれてくる。これらの誤った『理論』によれば、再生産の条件とは、『均衡状態』が達成されるための条件であり、もし、この条件にしてかなえられなければ、『均衡状態』は実現されず、したがって総生産過程が必然的に崩壊してしまうというほどのものなのである。つまり、この『条件』とは、前提条件が達成せられるための『条件』、『均衡条件』なのである。ところが、これらの諸『理論』がその『条件』として挙げるもの、実に再生産の条件=法則そのものに外ならない。それゆえ、客観的に見るならば、これら諸『理論』は、再生産の法則をもって、この法則を把握するための前提条件が行われるための条件となしていることにもなるのである」(九九頁)

 こうした山本の理屈が、山田の欠陥の根底を正しくついているかは問題だが、しかし山田が客観的な資本主義的再生産の総過程の抽象としての再生産表式の意義を理解せず、何か恣意的な“かくあるべき”といった要請として理解し、そこから再生産表式を『恐慌論』に結び付けていくことのナンセンスを暴露している。山本は、「以上の三流れの運動の構造の基調は、両極の交錯における第一部門の1000v+1000mと第二部門の2000cとの相互取引される過程である。……ここに単純再生産の決定的条件が存立する。この条件が確保せられぬ限り、単純再生産の円滑な進行は不可能である」という山田の文章を引用して結論する。

「それは再生産の条件=法則ではなくして、再生産の円滑な進行のための『条件』であり、円滑な再生産の成否を左右する『決定的条件』なのである」(一〇六頁)

「『資本家的生産の全機構震憾が、社会の総生産物合計9000の価値補填=素材補填の過程における《一層発展せる恐慌の可能性》を通じて、強力的に爆発するものとして、恐慌に把握』すべきと言われるとき、これによって、『いかに恐慌を把握すべきか』に対する氏の見解は、すでに決定的に示されたものということができる」(一〇七頁)

 また、相原茂を批判して、次のようにも言っている。富塚派批判としても意義があるので、引用させていただく。

「いわゆる再生産の『条件』なるものは、単に、社会的総資本の再生産ならびに流通の『条件』を、すなわち、その『法則』を示したものにすぎない。それは、相原氏のいわれるごとく、再生産の円滑な進行が行われるか否か、その成否を左右する『均衡条件』では決してありえない。氏の言われる『等式』は、もしそれが『不等式』になれば、総じて『再生産の撹乱と中断』が惹起されるごとき『決定的条件』ではなくして、反対に、現実の『不等式』関係が、すなわち不断の『動揺』が、終局において『平均的に』帰着するところのものなのである。それゆえ、もし『等式の不等式』への転化をもって、いいかえれば、『条件』の破壊によって、社会的再生産の円滑な進行が『撹乱と中断』にさらされるとなすならば、これは精々のところ、文字通りのトートロギー以上の何物をも意味しえないであろう。けだし『等式』は単に社会的再生産の一法則を示すにすぎないのであるから、この『等式』が成り立たなければ『再生産過程の撹乱と中断』が惹起されるというのは、法則が行われないところには法則は行われないというだけのことしか意味しえないからである。これは別の表現を用いれば、資本蓄積の行われないところに、資本蓄積は行われないということになるのである。それゆえ、社会的再生産の条件=法則の中に単に一『等式』関係のみを抽出し、これを円滑に再生産の進行のための『絶対に必要な』『基本条件』と解して、この『等式』の『不等式』への転化をもって、恐慌=『再生産の撹乱と中断』を説明しようとするならば、どうしても、氏の試みられたごとく、『等式』をば、一方において『資本蓄積の法則の展開』のための『条件』に据えると同時に、他方において、『資本蓄積の法則の展開』自体をもって『等式』非実現の『条件』と定めざるをえなくなる。ここにおいて、『資本蓄積の法則』自体も、ついに歪められざるをえないという、結果にも到達せざるをえない、というように考えられるのである」(一五九〜六〇頁)

「要するに、『等式の不等式への転化』をば、恐慌の説明の主要な『モメント』として取り上げることは、恐慌を説明しえないばかりでなく、総じて、資本制的生産過程は通常(恐慌以外は)『技術的に』発展しつつあるものであり、例外的に、または周期的にのみ『不均衡』がもたらされるにすぎないという『均衡論』的見地を暴露するものであるように考えられる。そのような『均衡論』的解釈は、現実の資本制生産の本質を、客観的には歪曲しているものといわなくてはならない」(一六二頁)

 これらの山本の相原批判は、直接に現代の“巧妙な”過少消費説論者たち(富塚派等々)に向けられているかの感にとらわれる。最後は長い引用ばかりになって申し訳ないが、山本理論の紹介ということで、ご了承を願いたい。

 最後に触れておきたいが、最初にもちょっと言ったように、我々は山本の理屈を全面的に是とするものではなく、そこに重大な欠陥があることを確認する(例えば、具体的に紹介する紙面的余裕はないが、九八〜九頁あたりでは相当にひどいことを言っており、もちろんそれは偶然ではない等々)、我々が主張することは、ただそこからも――山田盛太郎の理論からさえもそうだが――学ぶべき重要なものがある、と言うことだけである。

 私が山本の著作を紹介するのは、一昨年の労働者セミナーで田口騏一郎氏の拡大再生産表式の理解で議論したが、そのさい、田口氏を批判して、「過不足がいろいろあって不均衡の中の均衡だというのはその通りなんですが、法則として把握するということは、不均衡をなくせば均衡だということではなく、概念的な把握の問題です。不均衡をなくせば、概念だということは、価格変動という現実があって、その価格変動をなくせば、その中心が「真の価格」だ、「価値」だというのと同じに聞こえます。そんなことを言っても価格について説明したことならないし、資本主義的な生産あるいは拡大再生産について語ったことにはならない。不均衡がなくなれば均衡だといっても仕方ない」(『プロメテウス』四六、七号合併号、一七頁。なお、一六頁〜一七頁の議論は重要な意味を持つと思うので是非参照されたい。ついでに誤植を訂正させていただくと、一七頁一行の「概念が」は「概念を」の間違いです)と述べたのと、同じ思想がそこにあると考えるからでもある。

『海つばめ』第1003号(2005年11月13日)


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