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エンゲルス批判からマルクス主義の否定へ

宇野の“純粋論理”主義
「商品経済史観」への空っぽな批判
林 紘義

1、価値と「生産価格」2、資本主義への「移行」の契機3、いわゆる「流通形態」と「単純商品生産」社会4、宇野学派の面々――エンゲルス批判もしくは理論と歴史の「一致」


 商品生産から資本主義的生産が「成長」してくるという見解、あるいは商品生産を私的所有関係に基礎づける見解、そしてまた、「冒頭の商品」を「単純な商品」と理解する見解は、宇野学派によって「商品経済史観」と呼ばれて非難されている。宇野学派にあっては、「商品」とは何よりも「流通形態」である、つまりただ単に資本主義の表面の「流通」に現われたままの「商品」、どんな生産関係とも無関係な、それから独立した存在としての「商品」である。我々は宇野学派のエンゲルス批判の根底となっている上記のような観念を、いくつかの契機に分けて検討していくことにしよう。まず、「価値は生産価格の先行者である」という観念に反対する彼らの理屈を見ることにしよう。この点でも、彼らはエンゲルスのみならずマルクスをも攻撃するのである。

1、価値と「生産価格」

 宇野は、その「演習講座」風にまとめた著作において、ゼミの学生から、「(エンゲルスが)価値法則は単純商品生産のもとでのみ十全に妥当し、資本主義のもとでは生産価格の形成によって修正されるというが、この点はどう考えるか」と質問されて、次のように答えている。彼はすでにエンゲルスを“超えて”、マルクスにこそ問題がある、と主張している。

 宇野学派が非難するのは、エンゲルスの次の文章である。

「一言でいえば、マルクスの価値法則は、いったい経済法則が行われるかぎり、一般に、単純商品生産が資本主義的生産形態の登場によって変形を受ける時まで行われる。その時まで、価格は、マルクスの法則によって規定される価値という重心に向かって運動し、またこの価値を中心として振動する。したがって、単純商品生産が完全に展開すればするほど、外部からの強制的撹乱によって中断されない、比較的永い期間の平均価格は、無視しうべき範囲内において、ますます価値と一致する。マルクスの価値法則は、こうして、生産物を商品に転化する交換の当初から紀元一五世紀にいたる期間にたいして、経済的に一般的に行われる性質を持っている。そして商品交換は、あらゆる正史以前の時代に始まる。エジプトでは、少なくとも紀元前二五〇〇年、おそらく五〇〇〇年、バビロニアでは紀元前四〇〇〇年、おそらくは六〇〇〇年の古きにさかのぼる。すなわち価値法則は、五〇〇〇年から七〇〇〇年の時代を支配した」(『資本論』三巻補遺、岩波文庫九分冊一三六頁)

 もちろん、エンゲルスはここでは、商品の価格を規定するものは何か、という限界内で議論している、つまり資本家的商品が、“冒頭の商品”とは違って「価値通り」に(つまりそこに対象化されている社会的労働に基づいて)ではなく、生産価格(価値からずれる、費用価格に平均利潤を加えた価格)に基づいて交換されるという問題に回答を与えるために、こうした説明をしているのである。だから「価値法則」という言葉も、その限界内で、つまり価格が「生産価格」にではなく、「価値」に収斂する傾向があるという意味においてのみ、理解されなくてはならないだろう。そのことは、引用文の前後で展開している文章からも明白である。

 さて宇野はまず、価値法則は「生産に基礎をおいて」、つまり労働者(労働力という商品)によって商品が生産されるということによって「論証」されるべきであるという、例のドグマを述べ、マルクスがそうしないで「二商品の交換関係からの推論」として価値法則を与えているということでマルクスを非難し、さらに、エンゲルスの「価値法則は資本主義以前の数千年の社会において妥当し、実際に行われてきた」という文章については、「それにしても商品経済が部分的に行われる資本主義に先だつ諸社会で『妥当』し、商品経済が全面的に行われる資本主義社会、とくに原理論の対象となる純粋の資本主義社会で、価値の生産価格化で、そうでなくなるというのでは、価値法則の貫徹の意味がかえって不明瞭にされる」、価値法則は、そもそも資本主義的生産のもとで、「価値の生産価格化によって全面的に『妥当』することが論証される」のである、と主張するのである。もっともらしい言葉の陰に隠れた一つのたわ言だが、彼は次のように断言してはばからない。

「商品がその直接の生産者によってたがいに交換されるのでなく、労働力の商品化によって資本によって生産され、資本家と労働者とのあいだも表面的には商品交換をもって結ばれるとき、商品はかならずその価値を基礎にして交換されざるをえない、というのは、そこではじめて商品経済があらゆる社会に共通の経済過程をその特殊な形態のもとに全面的に包摂して一社会をなしていることを明らかにするからであって、価値法則もその点で全社会的な『妥当』性を明らかにすると同時に、価値の実体が労働であることも論証されるのである。
 資本家的商品が、価値を基礎とする生産価格で売買されるということは、価値法則に反するどころか、価値法則はそういう形でしか貫徹せしめられないことを示すものである。生産価格が価値にもとづくということもそれでこそ意味がある。
 価値の生産価格化は価値法則そのものを修正するものではない。エンゲルスは歴史的事実によって価値法則の妥当性を説くのであるが、この法則の必然性ないし労働価値説自身を論証しようとはしていない。
 なお『資本論』の第三部でマルクス自身も、エンゲルスが引用しているように『価値を単に理論的にだけでなく、歴史的にも生産価格の先行者と見ることは、全く適切である』と言っているが、そしてこのマルクスの説明はなおいろいろに解せられると思うが、それはともかく、マルクスにも労働価値説の論証は『資本論』の最初の『商品論』でなされているのであって、問題はすでにそこにある」(『新訂・経済原論』二五〇頁、読みやすくするために、文章をいくつかの段落に分けた)。

 つまりエンゲルスが悪いのは、マルクスにそのもとがあるからだ、というのである。宇野は少なくとも、エンゲルスの見解について、マルクスと違っているとは評価しないのであって、二人とも同じであり、二人とも間違っている、というのである。

 ここで宇野が言っていることは、価値法則の「必然性の論証」は(宇野は価値法則の「論証」を、「価値法則の必然性の論証」にすり替え、それが「価値の実体を明らかにする」ことだ、などと珍奇なことを主張しているが、差し当たり、それは問わないでおこう)、労働力の商品化を媒介にすることによって、つまり労働力の商品化を前提にすることによって(「(労働力)商品が(一般的な)商品を生産する」という事実を媒介にして)始めてなされるということ(何たるたわ言か!)、
したがって、「労働価値説の論証」は冒頭の商品ではなしえないし、なすべきではない、ということ(冒頭の商品はただ“実体をもたない「流通形態」”としてのみ規定されるべきこと)、
価値法則がそれが部分的に行われる社会でのみ「妥当」し、それが全面的に行われる社会(資本主義社会)では行われない(修正される)ということは不合理であるということ(むしろ価値法則は「価値の生産価格化によって全面的に『妥当』する」とすべきであること)、資本主義社会において直接的に妥当すると考えるべきこと、
そして、問題は単にエンゲルスにあるのではなく、「価値を単に理論的にだけでなく、歴史的にも生産価格の先行者と見ることは、全く適切である」と主張するマルクス自身にあるということ、つまりマルクスが価値を理論的だけでなく、現実的、歴史的にも生産価格の先行者とみなしている(同じことだが、商品生産を資本主義的生産の現実的、歴史的な先行者、出発点とみなしている)ことこそ問題であり、間違いのもとであるということ、等々である。

 「価値の実体」の論証は、労働力の商品化を媒介にすることによってのみ、つまり「(労働力)商品が(一般)商品を生産する」という事実を媒介にすることによってのみ「論証される」といった宇野のドグマ(まさにマルサス的な俗論だ、というのは、宇野はただ「商品がその直接の生産者によってたがいに交換されるのでなく、労働力の商品化によって資本によって生産され、資本家と労働者とのあいだも表面的には商品交換をもって結ばれるとき、商品はかならずその価値を基礎にして交換されざるをえない」といった、空疎な“循環論的”ばか話を持ち出すからである)、今の議論とは直接に関係ないので、ここでは触れない。

 ただ一言、宇野は、商品の価値が抽象的人間労働によって規定されるということ(価値の実体は抽象的人間労働であるということ)を、労働者が(資本のもとで)商品を生産するという、もっとも卑俗な現実と関連づけて――どんな内的な必然性もなく、ただ表面的に――大騒ぎしているだけであって、その空疎と支離滅裂は余りにひどすぎる、ということだけは指摘しておこう。

 宇野の「論証」が言わんしていることは必ずしも明瞭ではないが、少なくとも価値の概念を「冒頭の商品」つまり単純な商品の分析から得るのは間違いである、それは不可能である、と主張していることだけは明らかであろう。つまり、彼は直接に資本家的商品から、それを獲得すべきである、と主張するのである。

 宇野はまずエンゲルスを非難するが、しかしマルクスもまた、さすがに「価値法則は資本主義以前の数千年の社会に当てはまる」とまでは言わないが、基本的にエンゲルスと同様に語り、単純商品生産を資本主義的生産の「先行者」として承認し、また「価値通りの」交換を「生産価格」での交換に歴史的にも先立つものとして認めているのである、だからこそ、宇野学派は、エンゲルスに対して始めた非難をマルクスにまで“及ぼ”し、徹底させざるをえなかったのであり、またそうしたのである、つまり結局はマルクス批判家としてのいやらしい本性をさらけ出したのである。

 マルクスは次のようにはっきり語っているのであって、マルクスの観念は余りに明らかであろう。

「かくして、その価値通りの、または近似的に価値通りの、諸商品の交換は、資本主義的発展の一定の高さを必要とする生産価格での交換よりも、はるかに低い一段階を必要とするのである。
 相異なる諸商品の価格が、最初まずいかにして相互に確定または規制されるにせよ、価値法則は、諸商品の価格の運動を支配する。他の事情が不変であるかぎり、諸商品の生産に必要な労働時間が減少すれば、価格は低下し、この労働時間が増加すれば、価格は上昇する。
 したがって、価値法則による価格と価格運動の支配は別としても、諸商品の価値を、単に理論的にのみでなく、歴史的にも、生産価格の先行者と見ることは、全く適切である。このことは、生産手段が労働者に属する諸状態に当てはまる、そしてこの状態は、古代世界においても近代世界においても、みずから労働し土地を所有する農民や手工業者において見出される。これはまた、……諸生産物の商品への発展は、相異なる諸共同体のあいだの交換によって生ずるものであり、同一の共同体の諸成員のあいだの交換によって生ずるのではない、という見解とも一致する。それは、この原始的状態に当てはまると同様に、奴隷制や農奴制に基づく後代の諸状態にも、また手工業の同職組合組織にも、当てはまる。すなわち、各生産部門で固着された生産手段が容易には一部面から他部面に移転されえず、したがって、相異なる諸生産部面の関係が、ある限界内で、異なる諸国相互または共産的共同体相互の関係のようであるかぎりでは。
 諸商品が相互に交換される際の価格が、諸商品の価値と近似的に一致するためには、次のこと以外の何ものをも必要としない。(1)種々の商品の交換が、純粋に偶然的なものや単に臨時的なものであることをやめること。(2)われわれが直接的商品交換を見るかぎり、これらの商品が、近似的に相互の欲望に対応する比例量で、生産されること。これは相互に販売経験のもらたすことであり、したがって、継続的交換そのものからの結果として生ずることである。(3)われわれが販売について言うかぎり、自然的または人為的独占によって、取引当事者の一方が価値以上に売ることを可能にされたり、価値以下で手放すことを余儀なくされたりするようなことのないこと。われわれが偶然的独占というのは、需要供給の偶然的状態から、買い手または売り手にとって生ずる独占のことである」(『資本論』三巻一〇章、岩波文庫六分冊二七六〜八頁)

 見られるように、マルクスはエンゲルスとともに、はっきり商品の生産と流通は資本主義的生産の「先行者」であることを認めているのである。

 マルクスやエンゲルスが、価値法則は歴史的な「単純な商品」にも妥当すると主張し、「価値は論理的だけでなく、歴史的にも生産価格の先行者とみなすことは正当だ」と主張するのは、商品の「価値」をまさにその最も抽象的な形で理解しているからである。つまり、価値の実体は人間の社会的「労働」であり、したがって商品は、そこに対象化されている「労働」の量に比例して交換されるのである。ある量の人間労働が対象化されている一商品は、それに等しい量の人間労働が対象化されている他の商品と交換される、あるいは、一〇時間の労働が対象化されている商品は、一時間の労働が対象化されている商品の一〇単位と交換される、等々。

 マルクスやエンゲルスが問題にしているのは、「価値」に基づいて交換される単純商品と違って、資本主義的商品では、この意味での価値法則が修正されるということ、つまり商品は価値によってではなく、その修正を受けた形態である、費用価格+平均利潤(これをマルクスは「生産価格」と名付けたのだが)によって交換される、ということである。資本家的商品のこの法則は、単純な商品の交換法則である「価値通りの交換」とは直接に一致しないから、それを問題にしているのである。マルクスがそれを問題にするのは、リカードら古典派経済学がそこで理論的に「つまずいて」しまい、破綻してしまったからである。マルクスは資本主義的商品が生産価格で交換されるということは、実際には価値法則と何ら矛盾しないということ、それが価値法則の単なる修正であり、価値法則の貫徹の形式でさえあるということを示し、古典派経済学が理論的解決に失敗した問題に回答を与えているのである。

 そしてマルクスは(そしてエンゲルスも)「価値は生産価格の歴史的先行者」だと主張するのだが、それはまた単純な商品(単なる商品、『資本論』の冒頭で分析されている商品)が資本主義的商品(つまり『資本論』の第三巻で論じられている資本家的商品)の「歴史的先行者」だと言うのと、完全に符合しているのである。

 もちろん、現実的に言うなら、“前”資本主義的商品は必ずしも「価値通りに」交換されるわけではない。間に商業資本が介在するなら、そしてそれが極めて“中間搾取的”であるとするなら、古代や中世の商品が「価値通りに」交換された、などと言ってみても余り意味がないであろう。

 しかしここでの問題は概念であって、必ずしも歴史の実際ではない。これらの“前”資本主義的商品は、現実には、「価値通り」に交換されたかもしれないし、されなかったかもしれないのである。大塚史学が想定するような関係があれば、それは「価値通り」に交換されたかもしれないが、反対に、胡椒など嗜好品のアジアとの貿易において、商業資本が高い利潤をむさぼったなら、それらが「価値通り」に売買された、などと言い張っても余り意味はないだろう。

 しかし単純な商品は夾雑的関係がなければないほど、「価値通り」に売買される方向に収斂するのであり、他方、資本家的商品は決してそうならないのである、というのは、それは平均利潤を得て売られなくてはならないから、つまり直接に「価値」ではなく生産価格に収斂するしかないからである。これが、概念的説明(つまり正当な「理論」)というものである。

 一体、宇野は、“前”資本主義的商品を規定する法則は何だと言うのだろうか、価値法則ではないとするなら、その交換は当事者の全くの恣意や、その時々の偶然的な契機だけによってなされているとでも、あるいは資本主義以前の商品は商品ではないとでも思っているのだろうか。宇野のように、“歴史的な”商品は価値法則によって規定されない、などと言うこと自体が途方もないことに思われる、しかし“学者”という連中はドグマのためには「何でも言う」のであり、徹底して暗愚に、そして破廉恥に振る舞うことができるのである。

 問題は概念である。問題は単純な商品の概念であって、こうした概念に向かって、歴史的な商品は必ずしも価値に基づいて交換されたわけではない、などと宇野のように言うことは、まさにドンキホーテ的な愚かしさ、というものであろう。こうした“理論家”といった連中は、ただ軽蔑にのみ値するのであって、ただ見捨てる以外ないのである。そんなことを言うなら、資本家的商品もまた、現実には必ずしも生産価格で売られるわけではない、といくらでも言えるのである。あるいは、資本家的商品もまた「価値通り」に売られるとも、間違いなく言えるのである(例えば、平均的な有機的構成の資本によって生産された商品、あるいは全体としての商品)。とするなら、宇野は単純な商品について、価値通りの交換を否定したと同様に、資本家的商品についても、その生産価格での交換を否定しなくてはならないのではないのか。

 宇野は、どんなたわ言でも、マルクス批判でも並べることができるのだか、それは彼が概念というものを全く知らない皮相浅薄なインテリ――資本主義の表面的な現象にとらわれるプチブル俗流学者――だからであり、それ以外では全くないからである。

 さらにまた宇野が強調することは、社会の一部分しか把握していない単純な商品から、価値法則が明らかにされ得るはずはない、といったことである。

 確かに資本主義的生産とともに、商品生産もまた全社会的なものとなる、というのは、直接生産者が賃金労働者に転化するとともに、それまでは多かれ少なかれ、直接生産者が自ら生産し、自ら消費した生活資料、消費資料もまた全面的に商品として生産されるようになるからであり、かくして社会の全体の生産物が商品に転化するからである。直接生産者もまた全面的に“市場経済”に繰りこまれ、包摂されるのである。

 そしてそうなるとともに、商品は価値を目当てに生産され、また一般的な競争のもとに置かれるようになり、かくして商品はもっぱら価値法則の支配のもとに置かれる(価値に基づく交換が一般的となる)、しかしそれは同時に、商品が価値ではなく、生産価格に基づいて交換される、ということでもある。

 宇野がマルクス主義批判を仕事とするブルジョア学者(ベーム・バヴェルクら、日本では小泉信三や高田保馬ら)と一緒になって騒ぎ立て、マルクスの労働価値説は破綻したと言いはやしているのはこのことである。

 しかし、単純な商品という概念は、商品が「全社会的な」生産の形態となっているか、いないかといったこととは全く別であり、どうでもいいことである。単純な商品として抽象された瞬間から、それは“全社会的”(資本主義的生産の全体)といった関係からも抽象されているからである。

 しかしこのことは、冒頭の商品が社会的関係一般から抽象されている、ということを決して意味しない。というのは、二商品の交換関係は、狭い範囲だとはいえすでに商品の社会的関係だからであり、したがって単純な商品の概念は、決して社会的関係一般からの抽象ではないからである。単純な商品の“社会的関係”はこのように非常に狭いもの、初歩的なものであり、だからこそ、それは単純な商品の概念なのである。このことを宇野は決して理解しないのであり、しようともしないのであり、商品は資本主義的商品としてのみ、つまり“全般的な”社会的関係としてのみ商品である、といった世迷い言を持ち出すのであるが、そんなことは商品の価値規定そのものにとっては“外的な”関係であるということがわかっていないのである。

 確かにマルクスは『資本論』の冒頭で、「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、『膨大なる商品集積』として現われ、(したがって)個々の商品はこの富の成素形態として現われる」と書きだしている。

 しかしここでは、資本主義的社会の富は膨大な商品として「現われる」という現実から、マルクスは「個々の商品」を抽象しているのであって、後半の「現われる」は、すでに我々の意識に現われる個々の商品、つまり単純な商品であるにすぎない。これを直接に資本主義的流通の表面に「現われる」商品と理解することは、マルクスの真意を理解するものではない。マルクスのこの何でもない文章の背後には、リカードを始めとする、古典派経済学の理論に対する、深い、全面的な総括が、分析と検討と抽象の過程が秘められているのである。

2、資本主義への「移行」の契機

 宇野は、エンゲルスが、そしてマルクスが、商品生産が資本主義的生産に「成長する」といった観念を「商品経済史観」であると攻撃する。この観念は、唯物史観の公式に反するという“恐ろしい”罪さえも犯している、というのは、唯物史観は、資本主義社会が封建的社会から生まれて来ると説いているその理論に背くからであり、また資本主義を単なる商品生産の“自然発生的な”成長、発展、あるいは転化として描き、封建社会から資本主義社会に移行する重大な契機、その出発点である「原始的蓄積」――これこそが、生産者を土地から切り離し、“無産の”労働者として生み出すのであるが――を無視し、否定してしまうからである。要するに、人類の封建社会から資本主義社会への移行を、「体制」もしくは生産関係の交代としてでなく、“のっぺらぼうの”商品経済の成長、転化の歴史として描くのは問題である、というわけである。宇野は「商品経済史観」を非難する。

「封建社会の崩壊なんていうのは、もう問題にならんわけか。逆にこういう資本主義の発生があって、つまり単純商品から資本主義の発生があって、商品経済が封建社会に侵入していくとでもいうのだろうか。もしそうだとすれば、それは資本主義的生産が旧生産方法を破壊し、分解するということで、資本主義の発生そのものではない」(講座『資本論研究』第一巻二二九頁)
「歴史的に封建的な土地所有から近代的な土地所有への移行が何らかの形で行われなければ問題にならない。その大問題を商品経済の発生過程に解消するわけです」(同二三〇頁)
「単純商品生産から資本主義への発展には、マルクスもそう考えていたようだが、私的所有が商品経済自身によって確立され、それが一定の発展の過程のうちに商品経済で分解されるという考えがある。しかしまたマルクスは、他方では原始的蓄積を説く。……そういうようなことから、経済史を原始的蓄積抜きの経済史として商品経済の合理性というので貫きたいんじゃないだろうか。ぼくのいわゆる商品経済史観ということになる」(同三一四頁)

 この愚昧な男は、商品生産が資本主義的生産に「成長する」と言えば、原始的蓄積を無視し、封建社会から資本主義社会への歴史的転化を忘れたことになる、というのである。では宇野に聞くが、原始的蓄積を言えば、商品生産なしに、資本主義的生産の誕生や発展を説くことができるというのか。しかし商品生産の発展のないところで、資本主義的生産の誕生や発展について語ることができるなどというのは、つまらない贅言でしかないだろう。そんなことをしようとしても、空虚で無意味な屁理屈以外の、何ものも生み出すことはできないだろう。

 そしてまた封建社会から資本主義への移行を画するブルジョア革命もまた一定のブルジョア階級の成長を不可欠とするが、それはまた商品生産の発展によって規定され、生み出されてきたのではないのか。宇野学派はどんな意味でもブルジョア階級の成長を条件としない、奇妙な「ブルジョア革命」といったものを抽象しようというのか(それは果たして日本の明治維新でしょうか、それとも三つのロシア革命あるいはそのうちの一つでしょうか、一九四八年の中国革命のことでしょうか)。

 宇野は、「純粋の資本主義社会を理論的には必ず想定しなければ、資本主義社会の原理は解明しえない」(『経済学方法論』二五頁)として、次のように主張している。

「『資本論』の理論的展開は、歴史的発展に照応するというように、しばしば解説されてきたのであるが、また実際『資本論』自身にもそういう解説をなさしめるような面があるのだが、……
 元来、資本主義の発展は、旧来の封建的な社会関係を排除しつつ行われてきたのであって、その歴史的過程は、単なる資本家的商品経済の発展とはいえない。いわば異質的な要因を多かれ少なかれ含む過程である。したがってまた純粋化の傾向自身は理論的体系の展開の内に含まれないのがむしろ当然といってよい。
 マルクスも『資本論』第一巻で『貨幣の資本への転化』を論じて、資本家的生産方法の展開をなすにあたっては、資本主義の発生期の歴史的過程を取り上げないで、後にその巻末に『いわゆる原始的蓄積』としてこれを別個に取り扱っている。ところが、資本主義の発展も一定の段階に達すると、理論的に想定されるような純粋の資本主義社会にますます近似してくるとは、必ずしもいえなくなるという事実を明確にしないで理論的展開が行われると、異質的要因のこの歴史的過程における意義は、過小評価される傾向を免れえない。それは資本主義の運動法則を不明確にする単なる撹乱的要因として理解され、理論的研究はかかるものを捨象することによって純粋化されるもののように考えられるからである。
 その最も顕著なる一例は、いわゆる単純商品生産社会からの資本主義社会への発展の想定である。いいかえれば、それは旧社会、ないし初期資本主義社会における歴史的過程から、異質的要因を捨象して得られる、単純商品生産社会から資本主義社会の発展を論じるのであるが、それは実は資本家的商品経済から逆に商品経済を推論し、そこから出発したものにほかならない。……歴史的過程とするものが、実は理論的な推定から得られたものなのである。これをもって論理と歴史との照応関係を片付けることは、極めて危険なことといわなければならない。資本主義に先立つ諸社会は、決して、商品経済だけで構成せられるものではない。また資本主義の発生・発展・没落の歴史的過程は決して資本家的商品経済だけで片付けられるものではない……。
 そればかりではない、こういう方法による限り、理論的展開にあたって、理論的想定とは関係のない現実的関係が混入してくることを避けることもできなくなる。論証の代わりに事実にたよることになる。『資本論』さえそういう欠陥を免れていない」(同一九〜二一頁)

 要するに、『資本論』は“純粋理論”として理解されなくてはならず、資本主義の歴史的な傾向を明らかにしたものではない、というのである。“純粋”資本主義を想定し、それを分析し、理論として展開せよ、そしてこの“純粋”資本主義とは歴史性を有するものでなく、永遠に自己運動する「資本」なるものを写すものでなくてはならないのだそうである。だから、商品生産が資本主義的生産に「成長する」などという論理を“混入”してくるのはもってのほかであって、資本主義はまさに封建社会の解体と原始的蓄積によって、“それ自体”で確立され、“自己運動”を開始したのである。

 また、資本主義が社会主義に「移行する」とか「成長転化する」なとど言うこともご法度であって、それは『資本論』の論理、つまり永遠に自己展開し、循環すべき、“純粋”資本主義の論理に反するのである。

 この珍奇な男は、商品生産の発展が資本主義の出発点であるというのは、「実は資本家的商品経済から逆に商品経済を推論し、そこから出発したものにほかならない。……歴史的過程とするものが、実は理論的な推定から得られたものなのである」などと、全く転倒した観念論を振りまいて平然としている。彼にあっては、現実的な歴史的過程が理論からの「推定」であり、理論的展開こそが反対に歴史的現実であり、過程なのである。

 また、当然、エンゲルスのみならず、マルクスの次のような文章も非難の対象になるのである。

「賃労働がその基礎となるとき、商品生産は自己を全社会に強制する。またそのときはじめて、商品生産は、その一切の隠されていた力を発揮する。賃労働の介入が商品生産を不純にする〔なぜなら、資本と賃労働の交換は「不等価交換」だから――林〕というのは、商品生産は、不純になりたくないならば発展してはならない、というに等しい。商品生産が【それ自身の内的諸法則にしたがって――エンゲルスの挿入文】資本主義的生産に成育していくのと同じ程度で、商品生産の所有法則は、資本主義的領有の諸法則に転化するのである。
 されば、資本主義的所有に対抗して、――商品生産の永久的所有法則が働くのをそのままにして、資本主義的所有を廃止しようとするプルードンのずるさに驚く!」(『資本論』一巻二二章、岩波文庫三分冊一三六頁)

 亀崎氏は労働者セミナーで、エンゲルスが「それ自身の内的諸法則にしたがって」という一句を挿入したことを――ただ、それだけを――非難したのだが、しかし仮にエンゲルスの挿入文をなくしても、マルクス自身、事実上、同じことを言っていないであろうか。実際、このマルクスの文章そのものが、宇野学派や亀崎氏に反撃している、というのは、マルクスははっきり、純粋理論としての「転化」ではなく、まさに歴史的な、現実としての「転化」について語っているのだから、プルードンがこの「転化」の必然性を理解しないで、商品生産を残しながら資本主義を廃絶しようと主張しているが、それは幻想だと非難しているのだから、である。マルクス自身が、亀崎氏に都合の悪い、「商品生産が資本主義的生産に成育していくのと同じ程度で、商品生産の所有法則は、資本主義的領有の諸法則に転化する」という文章を記しているのを、亀崎氏も否定することはできなかった。そして、こうしたマルクスの言葉は、決して資本の“純粋”理論といったものではなく、まさに歴史的な過程についての叙述であることは、余りに明らかであった。

 エンゲルスのみならず、マルクスもまた、単純商品生産を資本主義的生産の現実的な「先行者」として承認し、また「価値通りの」交換を「生産価格」での交換に歴史的にも先立つものとして認めているのだから、エンゲルスに対する非難は直接にマルクスに対する非難でもある、だからこそ宇野学派は、エンゲルスに対して始めた非難をマルクスにまで“及ぼ”し、徹底させざるをえなかったのであり、またそうしたのである、つまり結局はマルクス批判家としての、いやらしい本性をさらけ出したのである。

 もちろん、封建社会の支配的な「生産関係」は“単純な商品”の関係ではない――つまり封建社会では、商品生産は支配的な関係ではなかった――というなら、その通りであろう。しかしここで問題になっているのは、商品生産が全社会的で支配的な関係になっていたかどうかということではなく、封建社会の中で、それがもつ意義であり、働きである。商品経済の発展は封建的関係に対して、それを掘り崩し、解体し、破壊的に作用するのであり、封建社会の崩壊と資本主義社会の到来につながるのである。宇野学派はこうした単純な歴史的な事実さえも知らないのである。そして、原始的蓄積がなくては、どんな資本主義もなかった、資本主義の入り口では、原始的蓄積――つまり直接生産者を生産手段(土地等々)から切り離す過程――が不可欠であったといった、誰もが知っていることを何か大した真実を語っているかにはやしたてるのである。しかし、原始的蓄積自体もまた、商品経済の発展によって規定されているのであるが、それはブルジョア革命自身がそうであるのと同様であろう。

 どうしても、「マルクスが言ったこと」が必要だという人々のためには、『資本論』第二巻の以下のようなマルクスの文章を紹介しておこう。

「資本が形成されて、生産を征服しうるためには、商業の、したがって商品流通とそれとともに商品生産の、ある程度の発展段階が前提されている。なぜならば、物品は、売られるためには、すなわち商品として、生産されないかぎり、流通に入りえないからである。しかし商品生産は、資本主義的生産の基礎の上で、初めて生産の正常的支配的性格として現われるのである」(『資本論』第二巻第一章、岩波文庫第四分冊五三頁)
「G〔貨幣〕―A〔労働力〕。賃金労働者は、労働力を売ることによってのみ生活する。労働力の保存――賃金労働者の自己保存――は日々の消費を必要とする。それゆえ、彼の受ける支払いは、彼がその自己保存に必要な購入――A―G―W〔商品〕またはW―G―Wなる行為――を反復しうるように、比較的短い期間をもって、たえず反復されなければならない。したがって、資本家はたえず貨幣資本家として、また彼の資本は貨幣資本として、賃金労働者に相対していなければならない。また他面では、多数の直接生産者、すなわち賃金労働者が、A―G―Wなる行為をなしうるためには、必要な生活手段が、買われる形態で、すなわち商品形態で、たえず彼らに相対していなければならない。したがって、すでにこの状態は、商品としての生産物の流通が、したがって商品生産のひろがりも、高い程度に達していることを必要とする。賃金労働による生産が一般的となれば、商品生産が生産の一般的形態でなければならない。商品生産が一般的として前提されるならば、それはまた、社会的分業の不断の進展を、すなわち、一定の資本によって商品として生産される生産物の特殊性の不断の進展を、相互に補足しあう諸生産過程が、たえず独立化された生産過程に分裂していくことを、必至とする。したがって、G―Aと同じ程度にG―Pm〔生産手段〕が発展する。すなわち、同じ範囲で、生産手段の生産が、それらを生産手段とする商品の生産から分離する、そしてこれらの生産手段が、各商品生産者自身にたいして、彼が生産するのではなくて彼の特定の生産過程のために買う商品として、現われる。これらの生産手段は、各商品生産者の生産部門から完全に分離されて独立に経営される生産部門から出てきて、商品として彼の生産部門に入るのである。したがってそれは買われねばならない。商品生産の物的諸条件は、彼にたいして、ますます広い範囲で他の商品生産者の生産物として、商品として、現われる。同じ程度で資本家は貨幣資本家として現われねばならない、すなわち、彼の資本が貨幣資本として機能せねばならない規模は拡大される。
 他面では、資本主義的生産の根本条件――賃金労働者階級の存在――を産み出すのと同じ事情が、すべての商品生産の資本主義的商品生産への移行を促す。資本主義的商品生産の発展するにつれて、それは、すべてのそれ以前の生産形態に、すなわち、主として直接の自己需要に向けられている生産物の余剰だけを商品に転化する生産形態に、分解的解消的に作用する。それはさしあたり目に見えて生産様式そのものに触れることなしに、生産物を売ることを主要関心事となさしめる。たとえば、シナ人、インド人、アラビア人等のような諸民族にたいする資本主義的世界貿易の最初の作用がそうだったようなものである。しかし第二に、それが根を張ったところでは、それは、生産者の自己労働に基づくかあるいは単に剰余生産物を商品として売ることに基づく商品生産の諸形態を、ことごとく破壊する。それは、まず第一に商品生産を一般化し、それから次第にすべての商品生産を資本主義的なそれに転化するのである」(同五七〜八頁)
「すべての商品生産経営は、同時に労働力搾取の経営となる。しかし、資本主義的商品生産に至って初めて、一つの画期的な搾取様式となるのであって、この搾取様式こそは、その歴史的発展の途上で、労働過程の組織と技術の巨人的発展とによって、社会の全経済的構造を変革し、そしてすべてのそれ以前の時代の上に、比較を絶してそびえ立つのである」(同五九頁)
「G…G’の単なる終局としてのG’にしても、すべてのこれらの循環の内部で現われるW’にしても、それだけとして見れば、運動を表現するものではなく、運動の結果を表現している。すなわち、商品形態または貨幣形態で実現された資本価値の増殖を、したがって、G+gまたはW+wとしての、その子なる剰余価値にたいする資本価値の関係としての、資本価値を表現している。これらは、この結果を、増殖された資本価値の異なる流通形態として表現する。しかし、W’なる形態においてもG’なる形態においても、行なわれた価値増殖過程そのものは、貨幣資本の機能でも商品資本の機能でもない。産業資本の特殊な諸機能に対応する特殊の相異なる形態、存在様式として、貨幣資本はただ貨幣機能のみを、商品資本はただ商品機能のみを行ないうるにすぎないのであって、それらの相互の区別は、貨幣と商品との区別にほかならない。同様に、産業資本は、生産資本としての形態においては、すべての他の生産物形成的な労働過程と同じ諸要素からのみ成り立ちうる。すなわち、一方における対象的労働諸条件(生産手段)、他方における生産的に(目的に合致して)働く労働力から。産業資本が生産部面の内部では、生産過程一般に、したがって非資本主義的生産過程にも適合する構成でのみ存在しうるのと同様に、それは流通部面では、商品と貨幣というこの部面に適合する両形態でのみ存在しうる。しかしまた、労働力は他人の労働力であって、資本家がその生産手段を他の商品所有者から買ったのと同様に、労働力の独特の所有者から買ったものであるということによって、生産諸要素の総体が初めから生産資本として告知されるのと同様に、したがって生産過程そのものも産業資本の生産的機能として現われると同時に、貨幣と商品は、同じ産業資本の流通形態として現われ、したがってそれらの機能も、生産資本の機能を導くものであるか、またはそこから生ずる産業資本の流通機能として現われる。産業資本が、その循環過程の種々の段階で遂行せねばならない機能形態としてのそれらの関連によってのみ、ここでは貨幣機能と商品機能とが、同時に貨幣資本と商品資本との機能なのである。それゆえに、貨幣を貨幣として特徴づけ商品を商品として特徴づける特殊の属性と機能を、それらの資本性格から導きだそうとするのは、背理であり、また逆に、生産資本の諸属性を、生産手段としてのその存在様式から引き出すのも、同様に背理である」(同一一九〜二〇頁)

 もちろん、似たような引用をいくらでももってくることができるだろう。

3、いわゆる「流通形態」と「単純商品生産」社会

◆流通形態についてのおしゃべり

 宇野は冒頭の商品は、「流通形態」として純化されるべきである、と強調し、この奇妙な概念をマルクスの冒頭の商品論に対置する、マルクス以上のマルクス主義、真実の理論として。

 彼は、資本家的商品から資本家的生産関係を捨象し、貨幣形態自身をも捨象した商品は、「単なる流通形態として規定されることになる」と断言してはばからない。そしてその「流通形態」としての商品が、いわゆる単純商品とも「共通する」ことになる、というのである。

 なぜ「商品」そのものは「流通形態」であり、また「流通形態」として規定されなくてはならないのか。商品は資本主義からだけでなく、奴隷制社会からも、あるいは共同体社会からも、要するにどんな生産関係ともかかわりなく生まれてくるから、というのがその理由である。いかなる生産関係とも無関係だとするなら、商品は単なる「形態」であり、また商品が流通においてしか存在しないとするなら、それはまた単なる「流通形態」である。

 要するに、商品がいくつもの異なった歴史的社会(奴隷制、封建制、資本制、さらには社会主義の各社会に、あるいは原始的社会にさえ端緒的に)見出されるという事実から、商品はどんな歴史的生産関係にもかかわりなく生産されるのであり、どんな歴史的生産関係も反映せず、したがって単なる「流通形態」である、と結論するのである。宇野は言う。

「例えば奴隷の生産したものと封建的農奴が生産したものと交換されても商品でしょう。そういうときにどういう生産関係があるというのか。そういう場合には農奴の生産から奴隷を抜いて、農奴の生産から農奴を抜いて、そして商品生産という生産関係があるということになるのではないか」(『資本論研究』一巻二二二頁)

 宇野はもちろん、そんなものはないと言いたいのだ。宇野は、仮に奴隷社会や封建的社会で商品を生産する場合があるにしても、「それは社会なのか。それは部分的社会ではないか」(同二二三頁)、基本的な「生産関係」は奴隷制であり、封建制ではないか、と息巻いている。したがって、奴隷制社会や封建制の社会が生んだ商品をもってきて、それから「生産関係」を抽象することはできない、というのがトンマの宇野が主張したいことである。

 しかしそうだとするなら、資本主義的商品を持ってきても同じことで、そこから直接に「生産関係」を、つまり資本家と労働者の関係を抽象することはできない、とするなら、宇野が冒頭の商品(宇野にあっては“冒頭の”流通形態)を、いかにして資本主義的生産関係から抽象することができるのか。宇野は自らのジレンマを、資本家的商品は「労働者つまり“商品”によって生産されたものであるからこそ」、それが可能になる、と主張することで「回避」するのである、つまり、資本家的商品は、根底に資本家的な生産関係を持つが、いわゆる単純商品は、「中心的軸点」にこうした「形態」を持たないがゆえに、商品の「流通形態」として抽象することができない、というのである。彼にあっては、「商品が商品を生産する」という“関係”が、資本家的生産関係なのである。つまり、この意味は、資本主義的生産では、労働力「商品」によって一般「商品」が生産される、ということである。この点については、後に考えよう。

 商品自体は、どんな歴史的な「生産関係」とも関係がないとして、彼は次のように問いかける。

「たとえば奴隷によって生産されたとか、あるいは手工業者によって生産されたとか、あるいはまた農民が生産したものが農民によって、あるいは領主によって商品となったというような種々なる場合に、それらの商品を単純に商品として抽象するということになると、その商品の生産された生産関係は、どのように抽象されるのだろうか。この場合、商品は単なる流通形態として規定されるということにはならないで、種々なる生産関係から分離された、いわば商品として生産されるという抽象的関係が想定されることになるのではないだろうか」(『価値論の問題点』、八頁)

 宇野は、資本家商品は、それを抽象すると資本家的に生産されたという規定性が残るが、それ以外の商品は生産過程を抽象すると、生産関係とはかかわりなく、ただ「商品として生産されたという抽象的関係」しか残らない、と言うのである。

 奴隷制的生産関係は、そのものとしては決して商品を生産しない――商品を生産する歴史的体制、もしくは生産関係ではない――のであって、だから奴隷制の生んだ商品から、その生産関係を捨象しても、その商品は生産関係に戻っていく契機を持たないのである。他方、資本家的商品から抽象された「流通形態」は違うというのである。資本家商品から資本家的生産関係を捨象しても、その「流通形態」は、貨幣から資本へと進んでいくことができる「流通形態」である、というのは、それはもともと資本家的生産関係から抽象されたものだからである、云々。

 こうした空虚な議論こそ宇野の本性である。要するに、宇野は、商品を生産する生産関係が、その労働の社会的、歴史的性格がまったく分かっていないのである。生産物が商品として現れるなら、それはその生産物を生産した社会的な労働が共同体的労働としてでなく、私的労働として支出されたということであって、こんなことは全くの初歩的な常識でさえあるのに、宇野大先生は理解することができないのである。ここで決定的なのは、共同体的に支出された労働であるか、私的に支出された労働(しかも同時に、社会的労働でなくてはならない労働)であるか、ということである。

 しかし宇野は、小農民の労働はさておくとしても、奴隷の労働をどうして私的労働と言えるのか、と息巻くのである。あるいは、マルクスは商品は最初、共同体と共同体との間で生まれたと言っているが、そうだとするなら、ここで商品形態を取っているのは、私的労働ではなく、共同体的労働ではないか、とまるで鬼の首でも取ったようにはしゃぎまわるかもしれない。

 だが、こうした反論は、宇野がただ概念を理解する能力がない俗学者であることを暴露するだけである。もし奴隷の労働が商品を生んだとするなら、その限り、その奴隷の労働は私的労働として評価され、現れるということである。もし共同体と共同体で生産物交換が行われ、、生産物が商品に転化し始めるとするなら、それは共同体の労働が、他の共同体の労働に対して、私的労働として現れた、ということである。もちろん、共同体の労働は直接に私的労働ではない、だからこそ、マルクスは共同体と共同体との間で始まった生産物の商品への転化は、すぐに共同体の内部に跳ね返り、共同体の分解を促し、その“商品経済化”の契機となると言っているのである。

 だから、宇野が奴隷労働や、共同体間の交換を持ち出して、単純商品を生産するのは私的労働であるという観念に反対し、単純商品はどんな生産関係も反映するものではない、その背後には「特定の」生産関係はない――したがって、それを商品として(宇野にあっては、「流通形態」として)措定することはできないと叫ぶのは、自分がどんなに概念というものを知らないかを、つまり学者にあるまじき無知蒙昧ぶりと愚鈍さを暴露するだけなのである。「理論」をわめきたてる宇野は、概念をないがしろにして、「現実の」関係を、現実の最も皮相な関係を持ち出し、それに固執するのである。

 彼は要するに、「商品」について、その概念について何も知っていないのである、あるいは知ろうともしないのであるが、それは彼が私的労働の社会を、したがってまた資本主義的社会を実践的に克服しようする自覚した労働者ではなく、ブルジョア社会に寄生するいやしいプチブル学者であるからにすぎない。

 この珍奇な男は、商品を生産する労働が私的労働であると言えば、奴隷制とか封建制とかいった「生産関係」を曖昧にするのであり、「危険だ」とのたまうのである。一体何が「危険」なのか、ブルジョア大学に寄生する、極端な日和見主義者たちである宇野学派のインテリたちの屁理屈の方がよほど「危険」であろう。

◆「商品による商品の生産」

 宇野は、封建的社会の商品は「根底から商品形態」をもたないと叫んで、資本家的商品と区別しているが、その論拠は以下のようなものである。

「例えば、中世紀的な生産者がその生産物を商品として販売するために生産するというような場合のは、その生産は、根底から商品形態を持っているとはいえない〔つまり、「商品によって商品を生産する」ということになっていない――林〕。そしてまたこの小商品生産者の商品生産からは必ず資本形態が展開されるということにはならない。商品、貨幣、資本の形態規定を展開する商品形態を端緒として初めて、資本家的生産の規定が展開されるということになる。商品から貨幣、貨幣から資本への論理的展開は、端緒の商品にそういう展開動力があるものとして初めて論理的になされるものと思う。いわゆる単純商品論では、これに対して歴史的にも商品生産の自己分解で資本主義社会が発展してきたかのように、この展開を理解することにもなる。僕のいわゆる商品経済史観になるわけだ。いわゆる単純商品では、繰り返していうが、商品形態を純粋に抽象化しえない。労働力自身が商品化していないと、たとい生産自身が商品を目標としてなされたとしても、商品形態が直接に生産とむすびついているとはいえない」(同一五〜六頁)
「いわゆる単純商品社会というのは、生産関係を捨象しないで商品経済を機械的に抽象したものになるが、ブルジョア的生産関係を捨象して流通形態を得るという場合はそうではない。それは必ず資本主義社会でないとできない抽象といってよい。『資本論』はその点を曖昧のままに残している。それで問題になるのだ」(同三五頁)
「二つの商品が交換される背後に、資本家でもない、労働者でもない私的生産者を想定しているところに問題がある。『資本論』にも、たしかにそういう考え方があるといっていいと思うのだが、しかし、それはわれわれがどうしてもそれを受けつがなくてはならんということにはならない」(『資本論研究』一巻二二四頁)

 「生産関係を捨象しないで商品経済を機械的に抽象した」とは、つまり、封建的な社会における商品は、封建的な生産関係が生み出したものでないから、その商品からは封建的生産関係を捨象するということはありえない、というのである。「機械的に」、ただ「商品経済」を抽象しているにすぎず、そのような「流通形態」は、もとの生産関係に戻る「動力」を持つことはできない。しかるに、資本家的商品から抽象された「流通形態」なら、元の資本家的生産関係にもどる「動力」を持っている、だからこそ、冒頭の商品の資本家的商品(そこから抽象された「流通形態」)であって、単純商品ではないし、あってはならないのである。

 冒頭の商品は「流通形態」だという見解は、資本家的商品は(宇野にあっては「流通形態」は)「商品によって生産された商品だ」という奇妙な見解に結び付いている。実際こんな風に、冒頭の商品に資本と賃労働との、つまりブルジョアジーと労働者との関係を見て取る見解は全くナンセンスで、珍奇なものに見えるが、宇野は本気でそんなことを強調してやまないのである。

「商品、貨幣、資本の形態的発展は、資本形態が生産過程を把握しないかぎり、古代でも、中世でも、しかもまた種々なる地域で、それぞれ独立に繰り返して現れるものにすぎない。それは一定の歴史的事実には相違ないが、それ自身で社会を歴史的に決定するものではない。いわば繰り返される歴史性を有するものといってよい。資本主義社会が古代、中世の社会に対して一定の特殊歴史性を有する社会をなすのは、この商品形態が社会の基本的関係を律するからであって、そこに始めて歴史の具体的発展を基本的に決定する意義が認められなければならない。またそうでなければ資本主義社会の社会主義社会への転化の過程など理解されるものではない。宮川氏のごとく単純商品生産――資本制生産の『歴史的発展』が社会主義社会への発展系列と解される限り、資本主義が従来のあらゆる社会形態の前史の終末をなすという意義も見失われ、同時にまた社会主義も一面的に理解されることにならざるをえない。それは全く商品経済史観とでもいうべきものに堕することになる」(『原理論の研究』三六頁)

 宇野は、資本主義的生産関係の「特殊歴史性」を「商品関係が社会の基本的関係を律する」ところに見ている、つまり資本家同士だけでなく、資本家と労働者の間の関係も「商品関係によって律されている」ところに、資本主義的社会の「特殊歴史性」を見ている。

 だが、資本家と労働者の単なる「商品関係」はそれ自体、階級関係ではなく、流通において結ばれる形式的な関係にすぎず、両者の本当の関係は生産過程において実現されている、つまり資本による労働の搾取として実際的な内容を獲得している。宇野が、資本家と労働者の間の関係もまた「商品関係」としてしか見ていないこと、そこに資本主義の「特殊歴史性」を見出していることは、宇野の“非プロレタリア的な”階級性を暴露するものである。彼は資本家と労働者の関係を単に流通においてのみ理解するのであるが、しかしそこでは資本家と労働者は“対等な”商品所有者として相互に現われるにすぎず、資本と賃労働の階級関係、搾取・被搾取の関係は隠蔽されているのである。宇野学派は、資本主義的生産関係の「特殊歴史性」についておしゃべりはするが、その本質的内容を、その搾取のカラクリを何一つ理解していないのである。資本と賃労働の関係が脱落し、単なる“対等の”商品交換者の関係に解消される。

 資本主義的生産関係における資本家と労働者の間の関係を「律する」ものは資本と賃労働の関係、支配、被支配の関係、搾取、被搾取の階級関係であって、形式的な商品所有者相互の関係ではない。それは、封建的社会や奴隷制社会の階級が、生産における搾取、被搾取の関係であるのと同様であって、宇野は、封建社会、奴隷制社会と対比して、資本主義社会を論じながら、そして封建社会、奴隷制社会にも商品生産は存在するが、それは階級社会を特徴づけるものではないと言いながら、資本主義的生産においてだけは「生産関係」もしくはその根底であるかに言うのだが、まさに混沌であり、自己矛盾そのものであろう。

 宇野は、労働力商品によって商品が生産されると言えば、資本主義を「生産に基礎づけた」、と思っている。しかし生産過程では労働力は決して「商品」ではなく、したがって「商品によって商品を生産する」などということは、そもそもありえないのである。そもそも資本家と労働者の階級関係を根底的に規定する生産過程において、「商品によって商品を生産する」といった外面的な関係しか見出しえないとするなら、宇野理論の隠された意図は何なのか。

◆宇野学派の「価値法則」

 そもそも、宇野は「価値法則」について、途方もない観念を抱いている、だから、彼のどんな「価値論」も「冒頭の商品論」もろくでもないものであり、そのどんな切れ端も信用できないのである。

「価値法則を商品交換の法則にしてしまわないで、むしろ資本家と労働者の関係とするとき、生産過程にもとづいて商品価値の実体がとける。それではじめて商品交換の法則も明らかになる」(『資本論研究』四巻二五五頁)。

 我々は、価値法則は商品交換の法則でなく、資本家と労働者の関係であるなどと大まじめで論じる、愚劣な“学者”とかかわりを持つのが、どんなに時間の浪費であり、むだ事であるかを確認するのである。これはまさに“マルサス主義”――彼はまさに「資本家と労働者の間の関係」に“価値法則”の根拠を求めたのであるが、それは今“支配労働価値説”という名で呼ばれている――でしかないだろう。マルサスがこんなおかしな「価値論」をひねり出したのは、少なくとも資本家と労働者のとの交換は不等価交換であるという意識があったからであるが、しかし宇野には、そんな意識さえもなく、ただ「資本主義では、商品(労働力)によって商品(一般)を生産する、それが価値を“実体”から基礎づけたことである、それがマルクスを超える“価値論”だ」といった、蒙昧なる意識、つまらないドグマがあるだけである。思い上がってマルクスを批判する宇野は、実際には、マルサス以下の俗学者にすにぎない(ところで、マルサスは、マルクスによって“くそみそに”言われるような卑しい人間ではなかったか)。

 ここで、宇野が持ち出す決まり文句の一つは、資本主義的生産は生産物を部分的ではなく一般的に商品として生産するということである。そのことを抜きにして、価値法則を論じることはできない、というのである。

 生産物を一般的に商品として生産するのは、確かに資本主義的生産の特性でもある。しかし生産物を商品として生産するのは別に資本と賃労働の階級関係が前提されるわけではない。生産物が商品として現われるのには、ただ社会的な労働が私的に支出されるという契機だけが必要なのであって、別に賃労働が前提されるわけではないのである。宇野は、前者の事実――資本主義は生産物を一般に商品として生産する――は知っているが、後者の事実――商品は私的労働を前提するだけで十分であって、別にその労働が賃労働である必要はない――を知らない、あるいは忘れるのである。このように、宇野学派は一般に最も基礎的な経済的概念において無知であり、盲目である。

 例えば、宇野の卑しいたいこもち学者である大内秀明は、“商品”は私的所有あるいは私的労働(と分業)から生まれるという見解に反対して、次のようにわめいている。

「それ(私的所有)は生産関係になるのか。たとえば奴隷社会なら奴隷社会における生産関係、封建社会なら封建社会における生産関係、これは階級関係の基礎になるわけです。そういうものと、私的所有一般や分業を生産関係という言い方自体に非常に不明瞭な面があると思うのです。もっとその点を考えていわなくちゃいけない。その点を不明瞭にしたまま生産関係ということは、階級関係をあいまいにするもので、極端にいえば、生産関係にもとづく階級関係の把握を見失わせる危険な考え方だと言わざるを得ないと思う」(同二二三頁)

 実際、我々は宇野学派に対して(上記の大内の言葉を借りて)言ってやらなくてはならない、「奴隷社会なら奴隷社会における生産関係、封建社会なら封建社会における生産関係、これは階級関係の基礎になる」のであって、商品生産自体は決して「階級関係の基礎」にはならない、と。それなのに、資本主義では商品生産が一般的になるということから、商品生産を「階級関係の基礎」に据えるとは一体どういう了見か、言行一致しないではないか、まさに「生産関係にもとづく階級関係の把握を見失わせる危険な考え方」そのものではないのか、と。

 確かに、生産物を一般に商品として生産するのは、資本主義的生産様式の顕著な特性ではあるが、しかしそのこと自体が、労働者と資本との階級関係を規定するのではない。ただ「労働力」が商品として資本に買われるようになるとともに、資本家的搾取が必然化し、現実のものとなるのである。

 宇野らは封建社会や奴隷制社会について語ったことを、資本主義生産に対しても適用すべきなのだが、しかしご都合主義をこととする彼らは、資本主義的生産の場合になると、突然、階級的関係をどこかに忘れ、資本主義は商品生産である、という契機にのみ固執するのである、つまり彼は資本主義的搾取の秘密、そのからくり、その根底を知らないのである。彼はひょっとして、商品生産とその交換がそれ自体、労働の搾取をもたらすとでも妄想しているのではないだろうか、もしそうだとするなら、これこそ正真正銘の“商品経済史観”というやつであろう。

 宇野のこの空っぽの“高弟”は、「資本主義で私的所有が確立すると考えるべきである」などと知ったかぶりでおっしゃるのだが、しかし私的所有が決して資本主義とともにあるのでないのは、余りに明らかであろう。宇野学派の連中は、こうしたごく初歩的な歴史的、経済学的知識も欠くほどにナンセンスな連中なのである。それとも、彼らは「私的所有の確立」について語っているのであって、私的所有そのものについて語っているのではないなどと言い抜けるつもりであろうか。しかし資本主義は、私的所有関係の発展であるととともに、その否定――私的所有の枠内での、その止揚。例えば、株式会社(共同資本)の発展とか、独占の形成による資本と労働の集中、集積を見よ――でもあるのだ。

 そもそも、資本主義において「私的所有が確立する」とはどういうことか。私的所有は階級社会とともに古いのであって――いかなる私的所有もない階級社会を、宇野学派は想定するのか、できるのか――、私的所有の登場がすなわち階級社会の誕生であった。古代の原始的共同体はまさに「私的所有」の出現とその深化、発展によって掘り崩され、変質して行ったのであって、その場合でさえ「私的所有の確立」について云々することができるほどである。一体、宇野学派はどんな意味で、「私的所有の確立」について語っているのか。「曖昧」なのはマルクスではなく、宇野学派の連中である。資本主義的生産が最高に発展した私的所有の社会であるというなら、それはある意味で正しいだろう、しかし資本主義によって「私的所有が確立された」などといったことをまじめに主張するなら、それはつまらない一面化であり、自らの無知を暴露することでしかないだろう。

 要するに、宇野学派は商品が生産されるのは、どんな生産関係、所有関係とも無関係である、つまり偶然的である、と言うのである、あるいはそう信じているのである。というのは、彼らは商品を生産する労働はどんな形態の社会的な労働とも言えない、それは分からない、と言うからであり、言わなくてはならないからである。彼らは、商品とは「流通形態」であると言うことによって、それがどんな社会関係、生産関係のもとで、どんな種類の労働によって生産されたのかという、最も本質的な問題をどこかに追いやってしまい、かくして“商品”を神秘化してしまうのである。しかし商品とはまさに資本主義的生産関係の根底であるから、その認識を放棄することは、資本主義的生産関係の認識を放棄するのと同様であろう。宇野学派はまさにブルジョアのために、労働者の意識の蒙昧化に努めるのである。

◆商品と資本主義以前の社会

 商品及び貨幣流通が、まだ生産が主として直接の消費のために行なわれていて、交換のために行なわれていないような資本主義以前の社会にも現われることができ、多くの諸生産様式を媒介しうることは、宇野に言われるまでもなく、マルクスのよく知っていたところである。一体誰が、資本主義以前にも商品流通、貨幣流通があったことを、そして商業が発達し、すでに古代においてさえも「商業民族」が活躍したことを知らないであろうか。エンゲルスは、商品の流通は、すでに数千年の歴史を持つと語っている。しかしこのことは、はたして商品形態がどんな歴史的生産関係にもかかわりがない、ということを意味するであろうか。

 マルクスは、商品生産があれこれの歴史的社会にも現われ得ることを確認して、次のように言っている。

「産業資本が貨幣または商品として機能する流通過程の内部で、貨幣資本としてにせよ商品資本としてにせよ、産業資本の循環は、きわめて多種の生産様式の商品流通と交錯している、それらが同時に商品生産である限り、商品が奴隷制に基づく生産の生産物であろうと、あるいは農民(シナ人、インドのライオット)の、あるいは共同体(オランダ領東インド)の、あるいは国営生産(往古のロシア史に現われる農奴制に基づくそれの如き)の、あるいは未開狩猟民族その他の生産物であるとを問わず、それらは産業資本が表示される貨幣や諸商品にたいして、商品や貨幣として現われ、そして産業資本の循環にも、商品資本によって狙われる剰余価値が収入レヴエニュとして支出される限り、その循環にも入る。すなわち、商品資本の両流通部門に入る。その商品が出てくる生産過程の性格は、何でもかまわない。それらは商品として市場で機能し、商品として産業資本の循環に入り、産業資本によって担われる剰余価値の流通に入る。すなわち、産業資本の流通過程を特色づけるものは、諸商品の出所の多方面的性格であり、世界市場としての市場の存在である。外部の商品について言いうることは、外部の貨幣についても言いうる。商品資本がかような貨幣にたいしてただ商品としてのみ機能するように、この貨幣は、商品資本にたいしてただ貨幣としてのみ機能する。貨幣はここでは世界貨幣として機能する」(『資本論』第二巻第四章、岩波文庫四分冊一六二〜三頁)

 資本主義的生産の下でも、商品資本、貨幣資本は、極めて多くの生産様式で生産された商品と交錯する(そればかりではなく、労働力商品とか土地とかという、本来労働生産物でもないものまでも、商品として包摂する)。この事実は、商品流通の一特性を明らかにしている。しかしだからといって、商品が「流通形態」だということになるであろうか。確かに、『資本論』の冒頭で分析されている商品は、使用価値を目的として生産されたが、たまたまその一部が商品となったといった類の商品ではないし、またそう考えるべきではないにしても、しかしそれがいわゆる「単純商品」であって「流通形態」といったわけのわからない、珍奇なものでないことを、我々は明確に確認しなければならないのである。

 そしてマルクスはまた、共同体の生産物や封建社会の生産物が商品に転化するに当たっての、つまり前資本主義社会における商業資本の意義も強調している。

「商人資本としての資本の独立、優勢な発展は、資本のもとへの生産の非従属と同義であり、したがって、資本にとって外的であり、資本から独立している、生産の社会的形態の基礎の上における資本の発展と同義である。かくして、商人資本の独立の発展は、社会の一般的経済的発展に逆比例するものである。
 独立した商人財産は、資本の支配的形態としては、流通過程がその両極にたいして独立することであり、そしてこの両極は交換する生産者である。これらの極は、流通過程にたいして独立したままであり、またこの過程も、これらの極にたいしてそうである。生産物はここでは、商業によって商品となる。ここでは商業が生産物の態容を商品にまで発展させるのであって、生産された商品の運動が商業を形成するのではない。したがってここでは、資本としての資本は、流通過程において初めて出現する。流通過程において、貨幣が資本に発展する。流通において、生産物が初めて交換価値として、商品及び貨幣として、発展する。資本は、流通過程の両極を、流通によって相互の間を媒介される種々の生産部面を、支配する術(スベ)を知る前に、流通過程において形成されることができ、またそこにおいて形成されねばならない。貨幣流通と商品流通は、その内的構造からすれば、なお主として使用価値の生産に向けられている、極めて多種多様な組織の諸生産部門を、媒介しうる。諸生産部面が流通過程において、第三のものによって相互に結合されるのであるが、この流通過程の独立化は、二重のことを表現する。すなわち、一面では、流通がまだ生産を我がものとするに至らず、これを与えられた前提として迎えるということを。他面では、生産過程がまだ流通を単なる契機として、自己のうちに取り入れていないということを。これに反して、資本主義的生産にあっては、この二つのことが行なわれている。生産過程は、全く流通に立脚し、そして流通は、生産の単なる一契機であり、その一流通段階であり、単に、商品として生産された生産物の実現であり、その商品として生産された諸生産要素の補填である。直接に流通から出てくる資本形態――商業資本――は、ここではもはや、資本の再生産運動における資本の諸形態の一つとして、現われるにすぎない」(『資本論』第三巻第二〇章、岩波文庫六分冊五一四〜五頁)

 宇野の「流通形態」とは、例えば、マルクスの言う「流通過程の独立化」といったもののことであろうか、あるいはただそうしたものとしてのみ、いくらかでも合理的なものとして理解することができるということか。宇野のいわゆる「流通形態」としての商品を、もしいくらかでも合理的に理解しようとするなら、資本主義的生産のもとにおける商品ではなくて、「商業によって商品となった」ような商品、「商業が生産物の態容を商品にまで発展させた」ような、そんな商品であろう。マルクスも言うように、独立した商業資本によって「交換する生産者自身」が結びつけられるのである。

 だが、これは明らかに資本主義的生産のもとで、資本が流通を自己の再生産過程の単なる契機として「取り入れて」おり、かくして生産物の商品形態は内的な必然性を持っている、そんな商品ではない。ここでは生産物は初めから商品として生産されるのであり、流通は最初から商品として生産された生産物を実現するにすぎない。

 だから、宇野のいう「流通形態」は、こうした資本主義的商品であることはできない。強いて言うなら、宇野は、自らの「流通形態」としての商品の概念を、ただ資本主義的生産以前の商品からしか得てくることはできないだろう、というのは、それはどんな「実体」もしくは「生産関係」とも無関係で、ただ商品の形式だけを持つにすぎない、と言うからである。こうした商品の概念を想定することはできる(かなり無理をしてだが)、しかし今度は、このことが、宇野が「冒頭の商品は資本主義的商品である」と規定することと、直接に矛盾する。

4、宇野学派の面々――エンゲルス批判もしくは理論と歴史の「一致」

◆スターリン主義はエンゲルスのせい?――大内秀明

 最後に、宇野学派のおえら方の理論を見ておこう。彼らは宇野“大先生”の粗末な理屈を繰り返しながら――というのは、それが大学でポストを得る最も容易な手段であり、一番の近道だったから――、それぞれ結構な“味付け”をほどこすのである。

 まず、宇野の“高弟”の一人である大内秀明は、スターリン主義の根底にエンゲルスの理論を見出している。彼が問題にするのは、エンゲルスの「生産の社会的性格と所有の私的性格の矛盾」という観念であり、それに基づく恐慌論である。

「単一市場の崩壊による資本主義の停滞論についていうなら、これまたスターリンの史的唯物論とその適用による資本主義についての理解に由来するとみていい。しかもそれは、さらに周知のエンゲルスの基本矛盾『生産の社会的性格と所有の私的性格の矛盾』を前提にしているのであるが、このようなエンゲルス流の矛盾の設定では、資本と賃労働の生産関係と階級関係にそくした矛盾の設定にはならない。なぜなら右の基本矛盾には、先資本主義社会=私的生産・私的所有→社会主義(共産主義)社会=社会的生産・社会的所有という史的唯物論のシェーマが前提されている。したがって資本主義の基本矛盾は、生産力の発展による社会的生産が私的所有に矛盾するということになるわけだが、この私的所有関係は先資本主義社会での私的所有関係、つまり小商品生産者の市場関係におけるそれを継承したものにすぎないからである。それゆえ、こういう基本矛盾からは、資本―賃労働関係ではなく、社会的生産による生産力の発展が市場における実現不能というかたちで矛盾が発現することにならざるをえなくなるのである。
 こうして、エンゲルスの基本矛盾からは、生産力の発展による過剰生産が実現不能というかたちで恐慌をもたらす、いわゆる実現恐慌論が帰結する。スターリンの単一市場の崩壊による停滞論は、こうした実現恐慌論の一変形にすぎないのであり、それゆえエンゲルスの基本矛盾の設定につながる史的唯物論の理解そのものに、スターリンの誤謬の根源が求められなければならないのである。そのような史的唯物論に結びついて、価値法則を商品生産に、剰余価値および平均利潤の法則を資本主義に、そして最大限利潤の法則を現代資本主義の法則とするスターリン論文『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』の周知の命題も提起されているのであるが、これもまたエンゲルスの『資本論』第三巻の補遺における論法、つまり価値法則を商品生産に、平均利潤を資本主義にそれぞれ設定する論法に由来していることは明白である。
 そして、このエンゲルスの価値と生産価格の理解こそ、価値から生産価格への論理的展開を商品生産から資本主義的生産への歴史的発展に解消するものであり、さらにこれがマルクス批判家へのヒルファーディングなどによる公式回答だったことを忘れることはできない。とすれば、スターリンの誤謬は、ほかならぬ論理的展開と歴史的発展との併存を主張する、いわゆる歴史と論理の弁証法的統一というマルクス主義のドグマにもとづいていることが明白であろう。言い方をかえるなら、そうしたドグマをそのまま温存させてきたところに、スターリンの理論的ならびに実践的誤りが生まれたとすれば、論理と歴史の安易な統一を図ろうとする一切のこころみを拒否することなしに、反スターリン主義の出発もまたありえないというべきなのである」(『宇野経済学の基本問題』一一四〜五頁)

 まことにお粗末なエンゲルス批判であるが、しかしこんな文章は普通の人には決して理解できないのである、というのは、宇野学派の連中は、「恐慌は利子率の高騰と、利潤率の低下から生じる、そして利潤率の低下は労賃の上昇から生まれる」という、単純なドグマに基づき、エンゲルスは(そしてマルクスも)、恐慌を過剰生産から説いているからおかしい、それがスターリン主義の恐慌論につながったと非難しているにすぎないからである。

 要するに、エンゲルスもマルクスも彼らのドグマに反しているから間違っている、というのである。

 だから、宇野学派のドグマを知らない人は、彼らのエンゲルス批判も理解できない、というわけである。そして宇野学派のドグマと、ナンセンスさを知る人は、また彼らのエンゲルス批判の空虚さと途方もなさを知るのである。

 宇野学派は絶叫する、資本主義社会の本質を私的所有(もしくは私的労働)に置き――矛盾の根源は「労働力の商品化」であるべきなのに!――、それと「生産の社会的性格」の間の矛盾を説き、そこから社会主義への移行を主張するのが間違っているのである、それは「実現論的な」恐慌論に帰着し、また「商品経済史観」にもつながっている、すなわちこうした傾向は一言でいえば、「論理的展開と歴史的発展との併存を主張する、いわゆる歴史と論理の弁証法的統一というマルクス主義のドグマ」であって、まさにスターリン主義の根底となっているものである、マルクス主義はよろしくエンゲルス・スターリン主義的な誤りを克服して、宇野学派的な“純粋論理主義”に帰衣しなければならない、と。

◆価値概念を攻撃――鈴木鴻一郎

 価値通りの交換と生産価格での交換の「矛盾」の問題については、鈴木鴻一郎も次のようなたわ言をつらねている。

「マルクスはこの難問にたいし、よく知られているように、『労働者たち自身がそれぞれの生産手段を所有していて、彼らの商品を相互に交換しあう』ような、いわゆる単純商品生産を想定し、そこでは『諸商品の価値を理論的にのみならず、歴史的にも生産価格の先行者とみなす』というかたちで、解決を与えようと試みているわけであるが、そしてこの解決は、これまたよく知られているように、エンゲルスによって『資本論』第三巻への補遺のなかで、さらに詳細に敷衍されているわけであるが、しかしこのような解決のしかたはさきの難問にたいする解決をなすものとはいいがたいであろう。
 まず第一に、マルクスは、自らの生産手段を所有するいわゆる単純商品生産者のあいだにおいて、『価値通りの、または近似的に価値通り、諸商品の交換』がおこなわれるとしているが、果たしてそういえるかどうか、疑問とされてよいであろう。なぜなら、単純商品生産者はみずからの生産手段を所有しているのであり、したがって労働力の再生産に必要な労働量さえ確保されれば、かれの生産する生産物は支出された労働量を基準として交換される必要はないからである。
 第二に、マルクスは、諸商品の価値による交換は単純商品生産のもとにおいておこなわれ、これにたいして生産価格による交換は資本主義的生産のもとにおいておこなわれるとして、単純商品生産と資本主義的生産とを歴史的に単純に対比しているといってよいが、しかし単純商品生産なるものはもともと一社会を支配した歴史的事実はないのであり、また資本主義生産も単純商品生産からの移行によるというよりも、むしろ本源的蓄積を母体として成立したものであり、したがって両者を簡単に対比することはできないといわなければならない。
 このようにマルクスの解決にはいろいろの疑問が抱かれるのであるが、それは、しかし、もとはといえば、マルクス自身の問題の設定のしかたに疑問があったからであるといってよく、これをさらに立ち入っていえば、一般的利潤率または生産価格の成立を説くにさいして、諸商品の価値通りの交換を前提してかかったことにそもそもの原因があったといってよいであろう。そしてそれは、労働による商品価値の実体規定が第一巻の冒頭で等価交換と不可分のかたちでもちだされていたこととけっして無関係ではないことは、あらためて指摘するまでもないであろう」(鈴木鴻一郎、『経済学原理論』下二九八頁)

 つまり、鈴木は、単純商品生産者は小生産者であり、自らの商品を「価値通り」で売らなくても生産を継続し、生活して行くことができるのであって――というのは、彼らは利潤を獲得する必要はなく(あるいは利潤ばかりでなく、「労賃部分」さえも犠牲にすることができる)、したがってそれだけ商品を「価値通り」でなく、それ以下で販売できるから――、単純商品生産者を持ち出すことで、「価値通り」の交換を説くことはできないからである。

 また、マルクスやエンゲルスは単純商品生産から資本主義的生産への移行や成長を説くが、しかし単純商品生産の社会が支配的な社会として存在したことは歴史的に一度してあったことはなく、したがって、歴史的に存在しない社会から資本主義社会への移行を説くことはできない。

 鈴木はこんなくだらない理屈を並べて、まるで鬼の首でも取ったかにはしゃぎ回り、“にっくき”マルクス主義を粉砕できたかに浮かれるのであるが、しかし実際には、自らの愚劣さと低俗さを暴露しているだけである。

 小商品生産者が自らの生産した商品を「価値通り」でなく売る場合があるのは、資本家が自らの商品を必ずしも「価値通り」で売らないと同様であって、鈴木は、なぜ小商品生産者にのみ「価値通り」での交換の不可能性を説くのか、資本家についてはそれを言わないのか。もし鈴木が、資本家は自らの商品を「価値通り」に(あるいは「生産価格」で)売ると思っているとするなら、この男は全く現実を知らないのであって、「現実に即して」論じるという、自らの立場を裏切るものであろう。資本家は場合によっては、いくらでも「安売り」に走るのであって、それは小商品生産者がせっぱつまって「安売り」をするのと同じようなものである。

 そしてまた、小商品生産者がいくらでも「価値通り」で売る――あるいは、価値以上に売る――場合があることは、誰でも知っていることであって、小商品生産者が価値以下で売る場合があるということは、彼らがまた価値通りあるいは価値以上で売る場合があることを少しも否定しないのである。そして小商品生産者は「価値通り」で、あるいはそれ以上で売ることによって、資本蓄積を図り、ブルジョアになり上がることもできるのであって、鈴木はこの事実をいかにして否定できるのであろうか。全く奇妙な「経済学」であり、歴史学であろう。

 単純商品生産が支配的な生産関係として存在したことはなかった、だから、それが資本主義社会に転化するなどということはありえないといったつまらない理屈について、我々は何と言うべきであろうか。そもそもそんな理屈を述べている人は誰もいないのであって、マルクスが言っていることは、商品生産が資本主義的生産に「成長する」ということであって、単純商品生産が支配的な社会といったことはどうでもいいのである。この過程は、封建社会の内部でも容赦なく自己を貫徹するのであって――そして封建社会を解体していく、決定的な契機の一つとなるのであって――、マルクスはただその事実を確認しているにすぎない。

 資本主義を生み出したのは「原始的蓄積」であって商品生産ではない、といった宇野学派がやっている対置ほどナンセンスで荒唐無稽なものはない。そもそも原始的蓄積自身が、封建社会の内部で発展してきた商品経済によって規定されているのである。「支配的な単純商品社会といったものは、歴史上存在したためしはない」ということで、商品生産の発展のない資本主義的生産の誕生や成長を論じることができると考えるとは、宇野学派というものは何というとんまな連中であることか。

 鈴木はまた、エンゲルスの「一言で言えば、マルクスの価値法則は、いったい経済法則が行われるかぎり、一般に、単純商品生産の全時代に行われる。……すなわち価値法則は、五千年から七千年の時代を支配した」という、くだんの文章を引用した後、次のように批判している。

「だが、そのようなエンゲルスの解説は、マルクスにおいて疑問とされるところをさらに拡大し、敷衍するものといってよいであろう。元来、『生産手段が労働者に属する』ような『商品生産』が一社会を支配したというようなことはなかったし、また資本主義的商品生産はそのような『商品生産』の転化したものでもなかったというばかりではない。ここではすでに『資本の生産過程』と『資本の流通過程』が説かれた上で、剰余価値からの平均利潤率の展開が問題になっている筈であるといってよく、したがってその理論的展開も資本主義的生産そのものの現実の過程に即してなされねばならぬであろうことは改めて説くまでもないであろう。
 先にも見たように、マルクスは必ずしも平均利潤率を個々の生産部面の個別的利潤率の平均から導き出しているわけではなく、また生産価格における価値法則の貫徹を総生産価格=総価値、総利潤=総剰余価値のうちに、いいかえれば価値と剰余価値の関係によって利潤率を中心とする資本の競争が社会的な全体的枠をはめられるということのうちに、見出しているにもかかわらず、平均利潤率形成の前提として、あくまで価値通りの交換による異なった利潤率の成立に固執せざるを得なかったのは、もともと、彼が価値実体を単に商品相互の交換関係から導き出し、したがって価値法則を等価交換と不可分のものとしていたからであるといってよいであろう。けれども、価値法則をもって、平均利潤として分配されるべき利潤の総量が、資本と労働の価値関係にもとづく社会的総剰余価値によって制約される法則にほかならないとするならば、マルクスは、平均利潤の形成のために、あえて価値通りの交換を前提して異なった利潤率の形成を説くべきではなかったといってよいであろう。むしろ、個々の資本にとってそうあらわれるように、価格関係を外的前提とした上で、費用価格超過分を説き、そしてこの超過分を利潤率の形態に転化せしめ、利潤率を中心とする資本相互の競争が資本と労働の価値関係による社会的剰余価値の関係によって制約されるものとして説くべきではなかったか、と考えられる」(『続マルクス主義経済学』、三四八頁)

 鈴木の言うことは、まず、エンゲルスの発言はエンゲルス固有のものというより、マルクスの欠陥を拡大したものであるということであり、次いで、資本主義以前には、商品生産が「一社会を支配したということはない」という、ごく当たり前のことであり、さらに、資本主義的生産は、商品生産が「転化した」といったものではない、ということである。

 それと関連して、鈴木は、マルクスが平均利潤率と生産価格を、商品の「価値通りの交換」を前提にして導き出しているのは間違っている、と攻撃するのである。鈴木に言わせると、平均利潤率と生産価格は、商品の総価値と総剰余価値の関係から直接に導き出すことができるのであって、「価値通りの交換」といったこととは無関係である。

 この珍奇な男は、資本家的商品が「価値通り」に交換されないからこそ、そこに一つの問題が生じるのだということ、「価値通りの」交換のないところに、どうしてそれから遊離する生産価格の問題が生じるのか、といったごく初歩的なことさえ理解できないのである。彼らの頭は本質的に不合理にできているのであり、意識の混濁と暗愚こそが彼らの性に合っているのである。

 鈴木の平均利潤率の理論は単純な同義反復に帰着するのであって、どんな合理的な説明にもなっていない。彼は個々の資本にとっての「費用価格と費用価格超過分」を前提にせよとのたまう、しかしそれは費用価格と平均利潤の関係そのものであり、したがって個々の資本に直接現われた関係そのものである。最初から平均利潤として現われているものを「利潤率の形態に転化」させることはできない、あるいはそれは前提としてすでに与えられているのである。

 個々の資本にとって、剰余価値率が違うからこそ、そこに問題が生じるのであって、もし剰余価値率が問題にならず、個々の資本にとって、最初から剰余価値が利潤の形態で現象するのだというなら、それは単に個々の資本の、偶然的に変動するあれこれの利潤率を平均にならす、といったごく平凡なこと以上の意味を持ちえないのである。鈴木にとっての問題は、個々の資本の利潤率の日々の変動といったものでしかないが、平均利潤率形成の問題は、そんなこととは全く別の問題なのだ。鈴木の言っていることは極端に矮小で、ピントはずれである。

◆価値法則の論証は単純商品ですべきでない?――降旗節雄

 降旗もまた、マルクスが単純商品によって価値法則を「論証」したことを非難して、そんなことはできることではない、とわめいている。

「何故そのような価値法則の論証をいわゆる単純商品生産者の社会において与えてはならないか、という問題である。
 もしそれが可能とすれば、『資本論』の冒頭における二つの商品による価値法則の論証も、二人の単純商品生産者同士の相互の生産過程を根拠とした関係として読み直すことによって、改めてその正当性を主張しうることになろう。全く事態を抽象的に考えたら、あるいはそのような主張も成立つかもしれない。しかし歴史科学としての経済学ではそれは不可能である。
 資本主義が一つの社会として確立しえたのは、産業革命によって、綿工業を機械制大工業たらしめたからであるという歴史的事実を考えただけでも、その点は明瞭である。つまり機械制大工業は、労働者の職人的技術を根底から奪い、人間の労働をすべて機械を操作するための単純な労働に変える。したがって資本が社会的需要の変動に応じて、その投下部門と投下量を変えれば、ただちに労働もこれに応じて流動しうることになる。産業革命以前の、多かれ少なかれ職人的労働と結びついた生産過程では、このような社会的需要に応じた労働量の縮小・拡大をともなう流動的編成を実現することは不可能であった。したがってその場合には、社会的需要と生産力の変化に応じて、たえず商品の価格を価値にひきつける社会的機構は十分に作動しえないことになり、その結果、価格は長期にわたって価値以上、あるいは以下にくぎづけにされることになる。つまり価値法則が、社会関係を全面的に支配する基本法則として機能しえていないということである。
 しかし単純商品生産者の場合と産業資本の場合とでは、もう一つ根本的な相違がある。単純商品生産者の生産物には剰余労働が含まれているから、長期にわたって価値以下であり続けたとしても、その価格が自己の労働力を再生産し、投下費用を回収しうるに足るものであれば、その再生産が困難になることはない。これに対して、資本主義社会における労働力の売買は、絶対に価値通りに行われないと社会的再生産の継続は不可能となる。しかも、労働力は他の商品のようにそれ自体労働の生産物ではなく、労働生産物の消費をとおして再生産される特殊な商品にほかならない。したがって労働力が価値通りに売買されるということは、労働力の代価としての賃金によって、労働者が自己の生産物のなかから労働力の再生産に必要な生活資料を買い戻すことにほかならない。労働力が価値通りに売買されるということは、したがって労働者の生活資料が価値通りに売買されるということである。そしてまた生活資料は資本主義的生産物として再生産されるのだから、生活資料が価値通りに売買されるためには、その生産手段も価値通りに売買されねばならない。つまり資本主義社会では、労働力を中心として、生活資料も生産手段もすべて価値通りに売買されねばならないことになる。単純商品生産者の場合と違って、そうでないと社会的再生産が不可能になるのである。ここに資本主義社会において価値法則が社会的再生産の基本法則として貫徹する根拠がある」(『マルクス経済学の理論構造』、一五〇頁)

 ものすごい理屈ではある。こんな理屈を「マルクス主義経済学」の名で持ち出すとするなら、そんな人間の厚顔無恥と暗愚さに対して、我々は言うべき言葉もない。

 降旗は、資本主義的商品こそが「価値通り」で交換され、単純商品生産者の商品は反対である、と強調してやまない。その根拠として持ち出されるのは、我々の言葉で翻訳してみれば、資本主義的商品は一般的な競争の渦中にあるのであって、その商品の価格は必然的に価値に収斂するからである、というもっとも常識的なことである。マルクスはそんなことはよくわかっていたのであって、だからこそ、冒頭の商品を直接に“歴史的な”単純商品とはしないで、資本主義的生産の支配的な富の「成素形態」としての商品としたのである。

 しかし他方では、資本家的商品は「価値通り」で交換されるのではなく、生産価格つまり費用価格に平均利潤を加えた価格で交換されるという事実との関係で、資本主義以前の「単純商品」(その「価値通り」での交換)に言及しているのであって、その“文脈”もみないで、「歴史的な単純商品は価値通りで交換されたとは限らない」などとわめくこと自体がナンセンスである。現実に「価値通り」に交換されるかどうかということを言うなら、資本家的商品もまた「価値通り」で交換されないことは、誰でも(いわゆる古典派経済学でも)知っていることである。ただ、愚劣な宇野学派だけが、「“歴史的な”単純商品は価値通りに交換されないが、資本家的商品は価値通りに交換される」といった、ばかげた理屈を持ち出すのである(こうした理屈では、古典派経済学さえも問題にした、生産価格の問題、つまり資本家的商品の問題が完全に欠落してしまっている。宇野学派は問題を解決したのではなく、問題を見なかったのであり、問題を無くしてしまったのである)。

 しかも、そのことを「論証」する宇野学派の理屈はおそるべきものである。降旗は得意そうに言う、労働力商品だけは、絶対に「価値通り」に交換されるのであり、それを軸として、資本主義的商品はすべて「価値通り」に交換されることになる、あるいは交換されなくてはならなくなる、と。

 しかし労働力商品だけは「価値通り」に交換されるなどといった理屈は、労働者にとって笑止すべきたわ言でしかない、というのは、労働者はいつも賃金を「価値以下に」切り下げられているからである。そして労働力商品の「価値」といったもの自体、労働者の歴史的、社会的な存在によって規定される、ある程度“可変的な”ものである、というのは、労働力商品の「価値」は労働者が生存し、生活して行くための生活資料(生活資料としての商品)の価値以外ではないからである。こうした意味で弾力的であり、“可変的”である労働力商品の「価値」が、何と、不変であり、「価値通り」であると説くなどということは、いくらかでも“経済学”を知っている人間には思いもよらないことである、だがこうした途方もない“常識はずれ”と極端な愚昧さこそ宇野学派の本性なのである。

 そして労働力の価値が、労働者の消費手段(商品)の価値に還元されるということは(労働者が仮に労働力の価値を「価値通り」に受け取ったにしても)、労働力商品に「対象化」されている労働は決して一般商品に対象化される労働とは違って、労働者のする労働のすべてではなく、単なるその一部、つまり「必要労働」部分にすぎないということ、したがって「剰余労働」部分は資本によって奪われること(それは「利潤」として現われる)、を含んでいるのである。

 宇野学派は労働力の商品化についてわめきながら、この肝心要のことをあいまいにし、ごまかすのであり、かくして労働の搾取という、最も根本的な事実をどこかに追いやってしまうのである。

 しかも、労働力商品が「価値通り」に交換されるが故に、他の商品もその“波及効果”によって、すべて「価値通り」に交換される、あるいは交換されるようになるといった、理論の余りの粗末さ、あるいは粗雑さに我々はただあきれ、失笑するだけである。まるでちりあくたみたいな理屈であろう。

『海つばめ』第966号(2004年11月7日)〜968号(2004年11月28日)


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