マルクス主義同志会トップヘージE-メール


【2013,9.11】
オリンピックは誰のため、何のため ――「パンとサーカス」による“買収”政治にふける安倍
【2013,8.30 】
60人の「識者」に聞く、は茶番――繰り広げられる消費税増税キャンペーン
【2013,8.23 】
“ファシズム志向”の安倍政権に反撃を!――はびこる厚顔無恥の政治
【2013,8.16】
宗教絶対主義は資本主義発展の一つの桎梏――エジプトで軍と宗教勢力の衝突激化
【2013,8.10】
「消費拡大で景気回復」の言は何処へ――支離滅裂で自己破綻的な消費税増税
【2013,8.2】
麻生、ナチスに学べと喝破――“魔性”の本性暴露の安倍政権
【2013,7.22】
安倍の勝利は敗退の始まり――空論と空約束の清算強いられ
【2013,7.5】
はびこるデマゴギー政治――安倍政権打倒に立ち上がるのはいつか、「今でしょ」
【2013,6.24】
都議選から参院選へ――アベノミクスの本性を暴き、安倍政権の打倒を勝ち取ろう!
【2013,6.21】
G8、「同病相哀れむ」に浮かれる安倍――政権末期症状すら見えはじめる
【2013,6.14】
アベノミクスの矛盾とジレンマが露呈――株価、為替相場は逆戻り、長期金利だけは2倍近くも上昇
【2013,6.3】
橋下の従軍慰安婦発言の元凶は安倍――安倍こそ「政治家の資格なし」、安倍政権を一掃せよ
【2013,6.2】
「羊頭狗肉」の成長政策――「数字目標」は空っぽのアドバルーン
【2013,5.24】
アベノミクスの破綻の先触れ――止まらない貿易赤字の拡大
【2013,5.20】
慰安婦問題―橋下暴言はまた安倍のものだ――労働者の闘いで今こそ橋下の「失敗」を安倍打倒につなげよう
【2013,5.17】
下劣さむき出しの橋下の発言――安倍らの「本音」がいかなるものかを暴露
【2013,5.7】
憲法の擁護や支持はできない――天皇制だけでなく私有財産制もゴメンだ
【2013,4.26】
国家主義者の本性暴露――15年戦争を美化し、開き直る安倍
【2013,4.19】
変質する中央銀行の“役割”――政府と手を携え破滅の道へ
【2013,4.12】
黒田日銀を先鋒に暴走――労働者いじめの最低の悪政
前のメッセージへ      過去のメッセージへ

オリンピックは誰のため、何のため
「パンとサーカス」による“買収”政治にふける安倍

2013年9月11日

安倍政権は何が何でもオリンピック招致と、死にものぐるいになり、皇室の悪用(政治利用)や、「汚染水対策は万全である」などとデマゴギーに走り、委員たちらにカネや利権や地位保障などをえさに働きかけ、あるいは招致運動のために巨額なカネをかけて来ました。
 オリンピックが誰のため、何のために行われるのかを暴露して余りあります。それは安倍や猪瀬などの権力者、政治家たちのために、あるいは一部のブルジョアやプチブルたちのためにのみ行われるのであって、広汎な労働者にとっては全くどうでもいいもの、たんなる壮大な無駄遣いに過ぎません。
 64年の前回のオリンピックは、まさに高度経済成長のまっただ中で行われることによって、その壮大な無駄遣いという本性は覆い隠されていましたが、それでも20年後のバブルの時代、そしてその後の日本の「失われた20年」、つまり長期的な経済的停滞や衰退の淵源をなしたという意味で、極めて重要なマイナスの遺産を残したのです。
 オリンピックの翌年65年には、敗戦後20年にして始めて、日本は「健全財政」に別れを告げて国債発行に踏み切り、借金財政に移行しましまたが、それはまさにオリンピック不況が襲ってきたからであり、そのために財政の不必要な膨張を余儀なくされたのです。
 オリンピックの壮大な無駄遣いは、空景気を、一時的な需要の膨張を招いたのですが、オリンピック需要が終了するとともに、建設業界など、たちまち破綻に直面した寄生的なブルジョアたちは大騒ぎして救済を要求し、かくして財政はふくれあがったのです。
 そして、そんな不健全な形で肥大化した財政は、その後一貫してますます深みにはまって行くばかりで――いったん、そんな財政支出を認めれば、それらはたちまち利権化したりして、それを止めたり、縮小したりすることがどんなに困難かは、容易に理解できるでしょう――、結局は日本経済の衰退や寄生化の一つの重要なきっかけになってきました。
 高度成長期のまっただ中に行われた、壮大な無駄使いでさえこんな負の遺産(はやりの気取った言い方で言えば、レガシー)を残したとするなら、停滞し、衰退する日本の資本主義にとって、今回のオリンピックの意味は何でしょうか。
 それは日本資本主義にとって「死に至る病」とならない、どんな保障もありません。
 まさにローマ帝国にとっての、あの有名な「パンとサーカス」といった政治以外の何ものでもありません。もちろんここでいうパンとは垂れ流しのバラまきであり、サーカスとはオリンピックに象徴されるエンターティンメントとでも言えましょうか。
 ローマ帝国が広大な植民地を収奪しつつ、国内の人民――というより、細民――を「パンとサーカス」によって買収し、堕落させつつ支配したと同様に――もちろん他方では専制によって弾圧しつつ、ですが――、安倍政権はバラまきとオリンピックによって自らの空っぽの反動権力の永続化を図るのです。


60人の「識者」に聞く、は茶番
繰り広げられる消費税増税キャンペーン

2013年8月30日

「景気条項」があろうとなかろうと、消費税増税を断固として実行する安倍の策動がもったいぶって行われています。
 60人の「識者」に話を聞くなど茶番でしかありません。事実上、消費税増税をやらなければ大変なことになるというキャンペーンでしかなく、出てくる「識者」が入れ替わり立ち替わり、あれこれの理由を付けて消費税増税をアジっています。
 曰く、消費税増税がなければ社会保障が崩壊する、全額を社会保障に回すのだから、所得の再分配であり、福祉政策そのものだ――そんなことはウソで、消費税増税で社会保障が埋められれば、その浮いたカネは財政再建のためでなく、議員たちの為に浪費されるのです――、財政の「健全化」、再建が必要で、その姿勢を断固として見せなければ長期金利が上昇し、財政も持たなくなる、等々。
 安倍は発言者を広くせよとか、反対派や条件派も入れよと指示したと言います。全てを「計算づく」でやっているのです。多くの人の意見を聞き、慎重に検討し、「熟慮した」、そして結論を出したと見せかけたいだけで、労働者の消費税増税反対の勢いや意思を弱め、拡散させ、そらすために権謀術数をたくましくしているのです。誠意はまるでなく、ただ政治屋的技術にたけているだけです。
 消費税増税をするなら慎重にやるべきだ、アベノミクスで「経済が刺激され、賃金が上がり、消費も伸びている、2,3%の成長率も可能だ、その「腰を折ってはならない、先に延ばすか、年々1%ずつ5年にわたってやるべきだ」とかいう連中もいますが、景気回復が達成されなければ消費税増税をやるな、という訳ではありません。
 そもそも景気が悪いときに消費税増税を決めること自体不当であり、また景気がよくなったら消費税増税だなどというのも本末転倒で逆立ちしています、というのは、景気悪化のときに消費税増税など決めるのは許し難いことですし、また景気がよくなったら強行するなどというのもまるで筋違いです、というのは、景気がよくなっても労働者の賃金は大して上がらず、他方企業の儲けはふくれあがっていくのですから、そんなときこそ、労働者ではなく企業の税負担をこそ大きくすべきなのです。
 ところが、安倍は消費税増税と税制改革を、つまり法人税軽減などを「一体としてやる」と言うのですから、安倍のやることは余りに露骨であり、ただブルジョアたちのために徹底的に奉仕するというのであり、そのことによって政権の強化安定を策すのです。
 安倍の政治はブルジョア階級の露骨で、ぶしつけで、卑しい政治として、その反動的で、労働者に正面から敵対する本性を明らかにし、牙をむいてきました。断固たる反撃があるのみです。


“ファシズム志向”の安倍政権に反撃を!
はびこる厚顔無恥の政治

2013年8月23日

安倍政権のまさに「ファシズム志向政治」としか呼べないような厚顔無恥の政治がはびこってきました。集団的自衛権の「行使」容認や歴史問題(従軍慰安婦)や教科書やその他、多くの問題で、安倍政権や反動派の言っていること、やっていることは、ますます権力を傘にきた、傲慢不遜で、居丈高なものになってきています。
 最近も元法制局のトップを務め、今最高裁判所判事の山本が、集団的自衛権は現行憲法の下では容認は無理と発言したことに対し、菅官房長官は「非常に違和感」を感じる、と反発し、また初代の内閣安全保障室長の佐々淳行は、「反政府行動だ。元役人が、こういう態度を取るべきではない」と息巻いています。
 事実上、政府による“言論統制”こそ正当であり、必要であるかのこうした発言はいまや安倍政権の普通のことになってきています。
 「元役人」のこうした発言が問題だというなら、現在の役人―――当然、法制局長官や教員などもみな含まれます――の発言も許されないということです。発言の内容ではなく、発言が「反政府的」だから許されないと言うのですから、権力による言論封殺も同然です。
 菅らは山本の発言の内容に反論する変わりに、権力主義的に弾圧しようとしているのであって、まさにファシズムのはじまりと言うしかありません。
 また実教出版の高校教科書に「一部の自治体で公務員への日の丸・君が代の強制の動きがある」とあったことを、神奈川県教委は大阪などに追随して問題にし、県の考えと合わない、「外郭団体からの圧力があるかもしれない」などと脅迫的な発言までやって、各学校と校長に圧力をかけ、その採用を止めさせていますが、まさに権力の専横な悪徳行為、横暴以外ではありません。
 反動派は、教科書に「間違った表現があるから」当然などと書き立てていますが、大阪や東京で「公務員への強制の動きがある」のは事実ですから、彼らの言っていることは自ら墓穴を掘っているも同然です、つまりそれは事実だから、堂々と載せるべきと言うことになるからです。
 また松江では市の教育委員会が、マンガ「はだしのゲン」を子供たちの目に見えないところに保管せよという指示を出して強行するとか、えげつないことがますます盛んになっていますが、安倍政権の登場がそんな傾向を助長し、奨励しているのです。
 菅は口を開くと、「憲法の法律の解釈はあくまで内閣の責任で行う」と強調しますが、自分の言っていることの意味を、それがブルジョア民主主義体制からファシズム体制に、国民総奴隷化体制に移っていく重要なことについて語っている危険性に全く無自覚です。
 憲法を、法律を「解釈」するのは司法の、つまり裁判所の役割であり、あるいは国会の、国民のやることであって、法律の執行者がその法律の「解釈」をするなどということは、まるで強盗に強盗を取り締まるべき警官の役割をさせると同然であり、たちの悪い権力者の独裁を準備するものだと言うことが分かっていないのです。
 安倍政権が憲法改悪で語っていることは、結局は、労働者は――ひいては、国民の全体も――一切の「権利」を捨てて国家――軍国主義の専制的国家――の奴隷になれと言うことでしかありません。
 まさに“ファシズム志向の”――仮にお坊ちゃまの安倍がヒトラーではなく、ヒトラーにはなれないとしても――、政治がはびこってきたと言うことで、断固たる反撃が組織されて行かなくてはなりません。さもないと再び、「知らない間に、自覚しない間に」、暗黒の専制体制のもとに、ファシズムのもとに国民の全体が絡め取られ、奴隷化され、呻吟する時代がやってこないともかぎりません。
 今こそ、“ファシズム志向”の安倍政権とその政治に対して総反撃、総決起に移っていくよう、声を大にして叫ぶときです。


宗教絶対主義は資本主義発展の一つの桎梏
エジプトで軍と宗教勢力の衝突激化

2013年8月16日

エジプトでは、世俗勢力を代表する軍部と、イスラム宗教勢力の衝突が激化しています。
 イスラム圏では、王政(貴族勢力)と結びついたイスラム絶対主義の勢力が支配権を握る諸国と、世俗勢力――ここではしばしば軍部が先頭に立っているのですか――が強い影響力を有する諸国に分かれていますが、宗教勢力と政治との強い結びつきは資本主義がまだ未発展の結果であり、また他方では、宗教絶対主義が資本主義的発展の一つの桎梏となっていることを教えています。
 ブルジョア的改革の先頭に軍部が立っているのはブルジョアの勢力が非常に弱体であったからであって、今後資本主義的な発展が進むなら――進む限りで――、ブルジョア勢力の進出(従ってまた労働者階級の進出)も進み、宗教的絶対主義は後退を余儀なくされていくでしょう。
 イスラムの宗教絶対主義とは、要するに宗教改革以前の世界と言うことであって、今後、宗教絶対主義の支配するこの地域は、国内的に、世界的に労働者の世界革命に対する反動と反革命の中心地域として現れてくる可能性も否定できません。
 西洋や日本などは曲がりなりにも「宗教改革」を貫徹し、宗教絶対主義を克服した限りで、ブルジョア発展の先頭に(従ってまた労働者の解放闘争の先頭に)立つことができました。いわゆる旧「共産主義圏」――ロシア、中国などを中心とする地域――の革命も、ある意味では宗教革命の意義を持ちました。
 いまだ世界史において、「宗教」の問題はまだ大きな影響や意味を持っています。
 エジプトやトルコの階級闘争、政治闘争の結果がどんな形で進行し、どんな解決に――当面の――行き着くかについても、我々は大きな関心を持っていくべきでしょう


「消費拡大で景気回復」の言は何処へ
支離滅裂で自己破綻的な消費税増税

2013年8月10日

安倍は消費税増税について、「判断」を保留するとか、複数案を検討せよと指示したとか、例によってもっともらしい“韜晦(とうかい)戦術”に老獪にも走っていますが、政府自民党もブルジョア勢力も消費税増税は断固として――景気に対して悪影響が出ようが出まいが――実行するという固い意志は変えないでしょう。財政再建のためといった殊勝なことは考えておらず、ただ当面、深刻な財政危機を緩和して、“政策費用”――バラマキの原資――をひねり出し、政権を安定させる“絶対的な”必要があるからにすぎません。
 しかし呆れたことは、ブルジョア勢力に声を合わせて、マスコミまでも――産経や日経は言うまでもなく、朝日や毎日までも先頭に立って――、「痛みを伴う改革」を避けてはならない、将来に困難を先送りしてはならない、などと叫び散らしていることです。
 でも消費税増税で「痛み」を背負うのはもっぱら労働者や貧しい人々で、金持ちやブルジョアたちには減税法人税減税を見よや特権様々な補助金やバラまきを見よを保証するというのですから、彼らの言うことは結局、労働者には「痛み」や苦悩を、ブルジョアや金持ちには喜びや楽しみを、と言うことでしかありません。
 それほどに「痛み」を我慢せよと言うなら、ブルジョア勢力こそ先頭に立って自ら力の限り、税金をより多く支払うとか、バラマキへの期待や依存を止めて財政危機に立ち向かえばいいのに、自分たちはどんな負担も犠牲も真剣な努力も拒否しつつ、また浪費や奢侈を止める意志もなく、「痛みを伴う改革から逃げるな」も何もあったものではありません。
 そもそも、リフレ派の学者たちは、そして安倍もまた、消費税増税などしたら労働者の消費が減って景気が悪くなる、労働者の所得を増やすのがアベノミクスの成功の決め手だ、賃金を上げよ、増税よりも減税の方がましだ、とか盛んにリップサービスをしてきたのです、そうだとするなら、労働者の所得を削り取る消費税増税に励むのではなく、反対に労働者の所得を増やすことにせいを出すべきなのです。
 そうしないで、自らの“信念”は棚上げして、労働者や貧しい人々への増税だけは無神経にいくらでもやるというのですから、やっていることは卑しく、一貫しないだけでなく、「成長」に背を向けて自ら不況を深化させようということなのでしょうか。
 安倍政権はいい加減なだけでなく、自分から景気の足を引っ張るような愚策を強行するといった、支離滅裂で自己破綻的な行き詰まりの沼地にはまり込んでいきつつあります。


麻生、ナチスに学べと喝破
“魔性”の本性暴露の安倍政権

2013年8月2日

安倍政権の本性を暴露する「失言」──暴言──を麻生(副総理)が口にし、一日余して大急ぎで「撤回」しましたが、しかしその弁解は反省するどころか、むしろ開き直っている内容でしかありません。
 彼は29日、桜井よしこが理事長を務める団体のシンポで講演した際、憲法改定も騒々しくではなく「静かに」やるべきだとお説教し、その例としてナチスの権力獲得を持ち出し、次のように発言したのです。
「憲法はある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね。わーわー騒がないで。本当にみんないい憲法と、みんな納得してあの憲法変わっているからね」
 これは麻生の発言を全部紹介している朝日新聞からの引用で、じゃっかん意味不明の部分もありますが──例えば、最後のあたり──、しかし麻生が言わんとすることは明らかです。ヒトラーは「静かに」ワイマール憲法を廃棄して、「ナチス憲法」に変えた、日本でも「狂騒のなかで」ではなく、ヒトラーに学んで「静かに」、粛々と憲法改定をやるべきだというのです。
 そもそもヒトラーは1933年、事実上のクーデタで権力を手にしましたが──国会炎上事件のフレームアップ(でっちあげ)の陰謀をしかけ、共産党を非合法化し、その議席を抹殺することで、国会での多数派をでっちあげる等々によって、合法の装いで権力に接近しましたが──、そのときに憲法改正など試みてもおらず、ましてナチス憲法などというものをそのとき「決定」も「制定」などもしていません。権力の奪取が非民主的であり、事実上のクーデタだということを隠したかったからであり、また民主主義的憲法を専制憲法、ナチス独裁権力を誇示する憲法に変えるなど危険だと意識していたからであり、さらには実際上の権力獲得さえできれば、他のことは──つまり形だけの憲法など──さしあたりどうでもよかったからです。つまり麻生は、1933年のヒトラーの権力さん奪について、本当のことは何も知らないでしゃべっているのです。おそらく反動派のやくざインテリから仕入れた、聞きかじりの浅知恵といったものの一つなのでしょう。そもそもヒトラーの権力奪取が「静かに」、激しい階級闘争、政治闘争なしになされたなどというのは全く事実に反しています。実際には権力のさん奪は、労働者の組織や闘いに対する、残虐で血なまぐさい攻撃や弾圧とともに行われたのであって、「静か」のはずもなかったのです。余りにばかげています。
 安倍政権は憲法改定に対する反対運動を「静かに」やろうというのですが、反対があったら徹底的に弾圧してでも断固「静かに」やるというのでしょうか、ちょうどナチスがそんな形で「静かに」憲法改定をやったというのですから。反対を許さないで、そんなものを強権で弾圧してでも何でもして、憲法改定でも、安倍政権のどんな政治でも強行するというなら、それは確かにある意味で「静かな」政治になるでしょう。つまり安倍政権は最初から──参院選で勝って専制体制をしいた途端に──独裁を振るうと労働者、勤労者に宣言し、脅迫しているようなものです。何という思い上がりであり、専制とファシズムへの愛好であり、彼らの本性暴露でしょうか。
 麻生は「ナチスのやり方に学べ」といった発言は撤回すると言うのですが、しかし「悪しき例としてあげたのだ」などといつわりの弁解に終始しています。「国民的理解、議論のないまま進んでしまった」ナチスの例は良くないという積りだったのだなどと言うのですから厚かましい限りで、何の反省もしていないのを自ら語っているも同然です。ナチスのやり方に学べとはっきり語っているのですから、「悪しき例」としてナチスに言及したことなど、あり得るはずはありません。
 麻生がこんな発言をしたのは、要するに安倍政権は憲法改定を断固やるが、それに「騒がしく」反対などするな、「静かに」自分たちのやることに従え、ということでしかありません、つまり労働者、勤労者の反対や闘いを恐れての予防線であり、また願望で、なのです。
 だが自ら反動的な憲法改悪を企みつつ──そして天皇制の廃絶といった、本当に必要な憲法改定など議論する気も、させる気もないくせに──、「静かに」やろうなどと言っても、労働者や勤労者が納得するはずもありません。労働者、勤労者が「静かに」やっていられないような攻撃をかけてきておいて、「静かに」せよなどと言うのは、余りに厚かましく、ひとりよがりというしかありません。安倍や自民党がすでに発表しているような、とんでもない憲法改定案を持ち出すかぎり、「静かな」憲法改定などあり得るはずもないということを、彼らは自覚し、労働者、勤労者の大規模で、激しい反撃と闘いを覚悟すべきなのです。
 そしてもし公平に、虚心坦懐に、誠実に憲法改定を考えるというなら、まず第一に、「国民主権」「国民平等」「出生(生まれ、血筋等々)で国民を差別しない」(つまり「王」とか「貴族」というものは一掃する)等々の、敗戦後の憲法の大前提、その根底と矛盾する、天皇制の廃棄こそを謳うべきなのです、そして安倍政権がそうするなら、我々は──我々ばかりか労働者、勤労者の全体も──憲法改定に諸手をあげて賛成し、断固としてその実現のために全力をあげるでしょう。


安倍の勝利は敗退の始まり
空論と空約束の清算強いられ

2013年7月22日

“アベノミクス”の幻想だけが、詐欺と同じような空手形が猛威をふるって、自民党が勝利した参院選が終わった。国民の多くは近い将来、ちょうど4年前の民主党幻想におぼれたことに高い代価を支払わなければならかったと同様に、再び苦い覚醒を味わうことになるし、ならざるを得ないだろう。国民は困難な現実に、生活の崩壊やその予感に、襲いかかろうとする大洪水におぼれる危機におびえ、途方にくれて、アベノミクスという、たわいもない「わら」にすがったのである。労働者にとっては、「ねじれ解消」などはただ安倍自民の横暴な政治、悪政、暴政としてのみ現実的であり、資本の露骨で頽廃した寡頭(かとう)政治――自民政権の“独裁”――の出現としての意味しか持たないのである。その反動的な攻撃は「規制緩和」や憲法改悪や「教育改革」等々として、労働者に襲いかかってこようとしている。今こそ、アベノミクスといった「わら」に当てもなくすがるのではなく、労働者、勤労者の本当の闘いの道を明らかにして行かなくてはならないときである。
 安倍自民の勝利は幻想の勝利、まぼろしの勝利であって、勝利した瞬間が敗北と解体の始まりであるような、そんなたまさかの勝利である。
 安倍の闘いには、アベノミクスに対する「期待感」以外何もなかったといっていい。憲法問題も「教育改革」も「歴史問題」も、またTPPも原発も基地問題も、重大な、そして困難な課題は事実上、ほとんど問題にもならず、安倍政権がこうした課題にまともに応えることができないことも棚上げされた、というより、安倍はむしろそれらの問題は存在しないかにふるまった。
 しかし実際には、これらの問題は現実の課題であって、TPPや原発や基地問題など自民党の中でさえ対立――しかも深刻な――が顕在、潜在しているのである。安倍は野党の時、中国などの「領土侵犯」には断固として、武力でもってしても対決すると言っていたが、今では中国の日常的な「領土侵犯」をただ見過ごしているだけであって、言行不一致そのものである(つまり彼は自らが叫んでいた「対外強硬路線」といったものが空文句であり、扇動やデマゴギーのたぐいでしかなかったことを自ら認めたのである)。
 昨年の衆議院選挙では多くの自民の候補者はTPP反対を訴えて当選しているが、そんな公約違反などどこ吹く風である(農民を裏切ったため、農民への償い金を、農民をなんとかなだめ、自民党支持につなぎ止めるために膨大に積み上げなくてはならないが、そんなゆがんだ保護主義はますます日本社会の衰退や停滞を準備するだけだが、自民党が勝つためには構ったことではない)。
 また原発についても、少なくとも「慎重」にやると約束したが、今では原発再開で足並みをそろえている。沖縄では、基地の一掃はおろか、県外移転さえ反対している。
 財政再建というきっ急の課題などまるで存在しないかに振る舞い、参院選に勝つために、財政膨張、公共投資復活は天下ご免でまかり通り、災害対策費までもがそんな方に流用されたのだから余りにひどすぎる。古い自民党が完璧に復活したのである。
 二枚舌、裏切り、変節、ごまかしばかりの自民党の勝利なのである。まさに安倍の本性にふさわしいと言うしかない。そんなかりそめの勝利がいくらかでも安定するとか、長続きするとか思うことができるのだから、安倍といった人間の程度が、その浅薄さが知られるのである。
 アベノミクスがうまく行って、「経済成長」が戻って来れば税金も増えて財政再建も可能になるというが、そんなことはすべて“もし……なら”の話であって、そうならなければ財政は崩壊に向かって一直線に、加速度的に進むしかないのである。
 むしろそうなる可能性は大きい、否、一つの必然であろう、というのは、安倍が「経済成長」のためと称して採用する政策、金融政策は、基本的に単なるカネのバラまきであり、借金赤字財政の泥沼にますますはまり込んで行くような政策、「経済成長」どころか、それに逆行する政策、ますます経済を腐らせ、寄生化するような政策ばかりだからである。
 かくして安倍政権のもと、財政崩壊も旦夕(たんせき)の危機として現実化、顕在化しようとしている。
 そもそもアベノミクスの言う「成長」といったものがふくれ上がった、中が空っぽの風船のようなものであって、すぐに破裂するしかないとするなら、その後に来るのは、民主党の挫折にもまさるとも劣らない、深い失望と絶望であろう。
 アベノミクスには「期待感」を除いてどんな内容もない。この半年余のアベノミクスがもたらしたものは、株価の上昇というバブルを除けば、実質的なものは何もない。円安がまるで打ち出の小槌のように言われたが、実際にはそれは輸入商品の上昇をもたらし、労働者、勤労者に一層の生活の困難を、悪化をもたらしただけであった。日銀は参院選を前に、まさに“大本営発表”よろしく、景気一般が「回復」したなどと宣言したが、しかし今では安倍政権の下僕に堕してしまった日銀の言うことなど、誰一人として真に受け、信用する人などいないのである。「統計」を好き勝手に操作し、解釈し、利用するのは、黒田日銀の常套手段になりつつある。
 安倍は「歴史問題」を封印したが、橋下が安倍に代わって安倍の本音を語ったが、その結果は維新の停滞につながったのである。この事実を見て、安倍は「歴史問題」ではますます「貝になった」が、しかしだからといって、安倍が自らの「政治の原点」であるこの問題を棚上げしてすませるはずもなく、「憲法改定」や「教育改革」を主戦場に攻撃をかけて来るのは必至である。ここでも労働者は妥協なき闘いを闘いぬかなくてはならないのである。
 参院選であまたの有象無象の新しい党や野党が乱舞したが、そんなものについて多くを語る必要もないだろう。一言だけいえば、維新の会もみんなの党も結局は安倍自民党の“補完部隊”であり、応援隊にすぎず、またそうした役割を果たしたくてうずうずしているような保守反動の勢力の一端にすぎない。彼らは公明党を嫉視し、その地位を自らが占めようと策動する、まさに薄汚い、最低の“こころざし”の党派であるにすぎない。
 共産党は、自民と対決する唯一の党などと空騒ぎに終始したが、TPPでも自民の反動派と同じ立場に立ち、民族的、国家的利益をわめき、また消費拡大が経済再建だと、事実上、アベノミクスと根底で一緒のイデオロギーや政策を持ってまわりながら、「自民と対決する唯一の」党も何もないのである。こんな“共産主義”、“労働者の党”といったものはマンガであって、実際には自民のもう一つの補完勢力――維新やみんなとはいくから違った意味で、また違った役割を果たす――でしかない。
 我々は一つの例を引いて、「自民党と対決する唯一の党」などとデマる共産党とはどんな党であるか、その本性はどんなものかを明らかにし、労働者、勤労者の闘いの利益という立場から、この党を告発する。
 彼らは野党共闘が成立した、ほとんど唯一の地方区であった山形で、どんな政治的必要性もないのに――共産党の党派的利益やエゴイズムを除いて――、独自候補を立てることによって、自民党の勝利を助けたのである。
 ここでは「みどりの風」が、維新やみんなを除く、民主や社民など諸野党の支持を受けて自民党と対決したのだが、原発やTPP反対、社会保障問題など、そのイデオロギーや政策で極めて共産党と近かったにもかかわらず、共産党は独自候補にこだわり、3万4千票をくすねることによって、自民の勝利に貢献した。野党の統一候補はわずか2万票ほどの僅少差で落選したのだから、これほど明白な利敵行為はなかったのである。共産党が野党統一候補と根本的に違った、革命的、労働者的な立場に立っていたというなら、弁解の余地はあるかもしれないが、日和見主義に転落し、みどりの風と根底で一緒の政治的立場にありながら、労働者、勤労者の闘争、政治闘争の利益よりも、セクト主義と党派エゴイズムを先行させるこの党派、スターリン主義党の、その官僚主義にこり固まった醜悪な“体質”――“永遠に”変わることのない――を暴露したと言うべきであろう。我々の嫌悪感と軽蔑は深い。
 しかし本当は、共産党のことなどどうでもいいのである。彼らは日和見主義者の本性として、空っぽでつまらないうぬぼれと、その裏返しとしての、真実の闘いに対する劣等感以外何もないからである。
 我々は安倍政権が参院選でも勝利し、「ねじれ解消」が実現する状況のもとでは、安倍政権と労働者、勤労者との本当の、妥協なき闘いが開始されるし、されざるを得ないと宣言する。
 今こそ、自覚した労働者の、若者の団結が勝ち取られ、真実の闘いが開始されなくてはならないときである。


《参院選挙に際してのアッピール》
はびこるデマゴギー政治
安倍政権打倒に立ち上がるのはいつか、「今でしょ」

2013年7月5日

参院選が始まり、「アベノミクス」の成果といったことがやかましく言われている。安倍はそんなものを掲げて参院選に勝利し、自らの権力を固め、“長期”政権を夢見ている。しかし労働者、勤労者はそんなものを許すことはできない。安倍と自民党の選挙は、一言で言えば国民全体をぺてんにかける悪質のデマ選挙であり、そして「アベノミクス」とは、一時の、その場だけの「景気回復」を演出する、政府と国による“心卑しき”大盤振る舞いであり、それを支えるための羽目をはずした金融緩和政策(日銀券のバラまき、借金財政膨張のための、それへの「ファイナンス」)でしかない。安倍と議員たちの権力と特権への執念や野望、つまり党派エゴだけがギラギラしている品のない政治、国家財政も(従って国家も)、経済も社会も解体に導きかねない、最低最悪の政治である。安倍政権による「景気回復」とか「経済成長」とか、労働者、勤労者の収入の増大とか生活の「安定」とか向上とかいったことはすべて口先だけのもの、幻想であって、実際に進んでいることは経済と国家の頽廃、寄生化であり、衰退でさえあり、また一気に進み始めた物価上昇に見られるように、働く人々への経済的――そして選挙までは意図的に隠されている、政治的な――圧迫であり、その生活の悪化、低落であり、ますます深化する生活の不安定、困難である。今こそ働く者、若者は安倍政権の粉砕を目指して決起すべきときである。
 アベノミクスといった、カネのバラまきによる一時的な景気回復の見せ掛けが、幻想が大手を振ってまかり通っている。まるでアベノミクスによって、魔法の杖よろしく、直面している、多くの諸困難がたちまち一掃され、解決するかに、である。
 しかし本当であろうか。今の国家も経済も労働者、勤労者の生活も決定的な困難に直面しており、本当の、徹底的な解決が議論され、考えられ、実行に移されなくてはならないときだというのに、アベノミクスが貫徹するなら、そんなものは容易に解決するというのである、心配することは何もないというのである。
 まるで無責任で、でたらめな幻想である。
 国家財政はすでに破綻のふちにあるのであって、そんな時に借金をますます増やして、なぜ、いかにして財政の「健全化」であり、そのための闘いであろうか。安倍は財政崩壊のためにとことん努めているのを、その反対であるかに装っているだけである。
 安倍はそうすることこそ、破綻していく国家を救う唯一の道だと言うのだが、破産国家が借金をますます増やして救われるなどというのは、一か八かのばくちのような政策、政治であって、反対に国家を決定的な破滅に――ヨーロッパのあのギリシャのように――追い込む政治でしかないのである、あるいは確実にそんな結末をもたらす無責任政治そのものであろう。
 安倍らやリフレ派学者たちは、カネをバラまいて景気を良くし、「経済成長」をもたらすことなくしては、借金づけ国家を救い、衰退し、“空洞化”していく経済を立て直すことはできないとわめている。

 口先では何とでも言えるが、しかし「経済成長」はカネをバラまくことで可能になるというのか、そんな浅薄な問題なのか。
 実際には、ただカネを無制限にばらまき、経済を水増しすることは、「経済成長」とは何の関係もないことであり、経済を表面だけ膨らませることによって、かえって経済を、資本の頽廃を、その空洞化や寄生化を深化させるのである。まさに安倍政権のやっていることは「経済成長」に逆行する政策、財政も経済もますます弱め、衰退させるような政策でしかない。
 日本の社会保障一つとっても、今やそれが存続できるかの決定的な危機に直面しており、その問題は参院選の中心的な“争点”の一つでなくてはならないはずだが、アベノミクスの騒々しいわめき声に掻き消され、ただアベノミクスが実行され、「経済成長」が戻って来るなら、社会保障問題も簡単に解決するといった、粗雑な議論が横行している。
 安倍は株価の上昇はカネ持ちや企業や銀行だけがほくほくすることであって、労働者、勤労者には関係ないという怒りの声に対して、株価が上昇して企業活動が生き返るなら、その恩恵は労働者、勤労者にもやがて及んで行くのだとかいうのだが、実際にはそんなことはほとんどないのだ、というのは、労働者の賃金は「景気回復」が仮にあっても、ほとんど変わらないからである。実際、労働者階級は、2000年代の前半のときのように、大企業がいっときの繁栄を謳歌していたときでさえ、非正規労働者が激増し、あるいは製造業労働者にまで派遣労働が広がって、その地位が急激に悪化し、賃金が低下して行くという“苦い”経験をしたのである。
 また安倍は、株価上昇によって、年金積立金会計に11兆円の「含み益」が生じた、だから労働者、勤労者にとっても株価高騰は他人ごとではない、大きな利益だといったことまで、得々として語っている。
 株価高騰によって、企業や銀行や金持ちたちが居ながらにして国民から収奪するカネは何十兆円、何百兆円にもなるのであって、年金会計の証券投資による利得などたかがしれている。そもそもそんなはしたカネで社会保障問題、年金問題の困難がほんのわずかでも解決することはもちろん、改善に向かうことすらないのである。ブルジョアや安倍の理屈というのは、何と卑しいもの、体のいいごまかしであろうか。
 アベノミクスを叫ぶ嬌声によって、経済的停滞や衰退や社会保障や財政再建や労働者、勤労者の生活の困難や、原発事故や原発再稼働や、憲法改定や、その他多くの諸困難を真剣に検討し、議論し、その本当の解決を明らかにし、それに向かって進んでいく必要があることがどこかへ追いやられ、本当の問題は蔽い隠され、ごまかされて、参院選挙戦はすでに空虚で、無内容な政治闘争に堕している。
 労働者の党派――たいてい、まずしい党派なのだが――が徹底的に非民主的で、不公平な選挙制度によって事実上締め出されており、その真実の声が響き渡らないように注意深く防衛されていることもまた、そうした事態をもたらしている一つの原因である。
 安倍政権が「経済成長」が必要だというなら、とりあえず、それを認めることにしよう。というのは、資本主義的繁栄はただ「経済成長」によってのみ可能であり、もたらされるのであって、経済が停滞し、衰退して行くなら、そんな事態は労働者にとっても必ずしも好ましいものではないからである、そんな資本主義のしわ寄せがもっぱら労働者階級にこそ転嫁されてくるのは自明だからである。
 しかしだからといって、今安倍政権が持ち出しているような政策や政治は、一体どんな「経済成長」と関係するというのか、それをもたらし得るような内容があるというのか。むしろ反対ではないのか。
 インフレが、物価上昇が「経済成長」をもたらす、まずそれが先決だと言うが、そんなものは幻想であり、仮に2%であれ何であれ、ただ労働者、勤労者に一層の生活困難を強いるだけであって、「経済成長」とは――「景気回復」はもちろんのこと――本質的に何の関係もない。
 インフレとは一般的に、同じ比率ですべての商品の価格が上昇することである(だからこそ、インフレは個々の商品の需要供給による物価上昇(や下落)とは違って、インフレである)、そんな名目的な物価上昇によって、どんな経済活動の決定的な違いが生じるというのか、生じ得るのか。人は同じ価値の商品を名目的に倍の価格で売ってもどんな利得も「経済成長」も達成することはできない、というのは、他のすべての人々もまたこれまでの二倍の値段で売買するからである。インフレとは本質的に、そんなことでしかない。
 ただ労働者、勤労者にとっては、自分の売る「商品」――自分の「労働能力」――の価格つまり賃金の上昇が一般的な物価上昇に常に遅れるために、その限りで、ときには致命的な損失をこうむり、生活破壊に直結するのだが、その分、ブルジョアたちは儲けを増やせるというだけのことである。だからこそ、ブルジョアたちは“デフレ”――恐慌や不況のときの物価下落とは区別される、一般的な物価下落、貨幣(通貨)の価値変動に起因する物価変動――を嫌い、“インフレ”を好むということにすぎない(もちろん債務超過のブルジョアたちや国家も、インフレによって自分の借金が目減りし、減少していくかぎり、それを熱望するのだが)。
 だからカネ(紙幣もしくは紙幣化する日銀券)をバラまくことによって、インフレを引き起こすことによって「経済成長」を勝ち取り、実現しようとすることは本質的にナンセンスであり、「邪道」であり、ばかげている。むしろそんなことをして、非生産的産業や寄生的産業や部門にカネだけを注入して、そんな経済を肥大化させるなら、それは「経済成長」をではなく、ますます経済の停滞や衰退を招き寄せるだけであろう、というのは、それは資本の蓄積、拡大再生産――これこそ資本の社会における「経済成長」の唯一の内容であり、概念である――とは正反対の政策を行うことだから、剰余価値の資本への転化を、資本の蓄積を――資本の元本さえも――削りとり、減らしていくことだからである。
 安倍の「経済成長」の中心が、いつわりの「経済成長」路線でしかないのは、かつての民主党の「経済成長」路線が――いま共産党が持ち出しているような「経済成長」の論理が――そうでしかないのと同様である。つまり現在では、ブルジョアも「野党」なるものも、同じように頽廃してしまっており、すでに真実の「経済成長」について語ることができなくなっているのである。
 つまり与党(ブルジョア政党)も野党(プチブル政党)もみな資本主義の衰退と運命を共にしたいのであり、そこにしか彼らには未来がないのである。
 ではどうしたらいいのか、と誰か問うのであろうか。
 我々はブルジョアたちのために助言することはしないし、そんな立場にないのだが、あえて言うなら、空虚であり、空っぽであるような――むしろマイナスのものであるような――「成長政策」などに浮かれているのではなく、つまりカネをばらまくことによって、見かけだけの資本や経済活動を膨らませるのではなく、実際的な「成長政策」、すなわち剰余価値(利潤)のより大きな部分を資本に転化すること、資本――もちろん生産的資本、産業資本のことだが――の蓄積、拡大を徹底的に押し進めること、それによって実際の生産と富を増大させること、あの「経済の高度成長」の時代を再現することである。
 我々はこうした発言をするからといって、現代の頽廃したブルジョアたちに助言したり、彼らを助けたりしているのではない。むしろ我々はこう言うことによって、安倍政権は、彼らにとっての唯一のこうした「成長政策」に背を向けて、まさにその正反対のことしかできないことを明らかにし――実際彼らの「成長政策」といったものには、すでに健全で実質的な内容などなく、むしろ経済と社会を腐らせ、腐朽させ、寄生化をさらに深化させるようなものばかりである、根底から腐った、えせ「成長政策」にすぎない――、そのことによって、彼らがすでに堕落し、歴史を前に押し進めるのではなく、それを押し留めているにすぎないことを、すでに反動的となって、彼らには歴史の舞台から消え去る運命しか残っていないことを暴露するのである。
 アベノミクス政治はまさにデマゴギー政治の典型であり、安倍の選挙戦はデマゴギー選挙の典型である。8年前の小泉自民党や4年前の民主党の選挙闘争についで、こんな政治ばかりが続いている。政治を頽廃させ、一切を腐らせるこんな政治が続くなら、日本はまた数十年前と同様の暗黒と悲劇と絶望の時代に逆戻りするしかないであろう。
 こんな政治はもうたくさんだ。安倍政権打倒を皮切りに、労働者、勤労者の決然たる反撃に移って行かなくてはならないときである。
 それはいつか。「今でしょ」。


都議選から参院選へ
アベノミクスの本性を暴き、安倍政権の打倒を勝ち取ろう!

2013年6月24日

都議選は自公の完勝と民主党の完敗に終わった。
 安倍はこの勢いを参院選につなげ、長期政権を夢見るが、労働者、勤労者はそんなことを決して許してはならない、というのは、安倍自民党が参院選で勝つなら、それは「アベノミクス」という、もう一つの──つまり4年前の民主党のデマゴギー選挙と、昨年の安倍自民党のデマゴギー選挙につぐ──デマゴギー選挙の勝利、安倍にとっての二度目のデマゴギー選挙の勝利になるからであり、なるしかないからである。
 4年前、55年の「保守合同」以降、60年も続いてきた──途中、1年と持たなかった野党連合(おっと違った、野党野合だったか)政権の細川政権を除いて──自民党(もしくは自民党中心)の政権に代って民主党が政権を握ったが、その勝利は公然たるデマゴギー政治の勝利であった。
 しかし当然の結果として、民主党の品のない政治の破綻はすぐに明らかになった。民主党の政治は事実上鳩山政権で終わっており、その後の菅政権、野田政権はついでのようなもの、選挙もなく替えたくても替えられない結果として、民主党政権がだらだらと無意味に続いたにすぎなかった。小選挙区制を始めとする、細川政権の「政治改革」の残した悪しき遺産の結果でもある。
 そして昨年、自民党政権が復帰したのだが、しかしそれは民主党政治の切り開いたデマゴギー政治の後を受けてのものであって、その意味では、民主党に負けず劣らずのデマゴギーをふりまくものであった──選挙の性質や内容はもちろん民主党のものとは違ってはいたのだが。
 しかし安倍がやり始めたかに見える、自民党のデマゴギー選挙は実際には、60年間も続いた自民党政権の最後を飾った麻生政権のときにすでに始まっていたのであって、麻生は小泉政権のいくらかでも抑制的であった財政金融の政策を転換させたが、それはまさに無軌道としまりのない、新たな財政膨張政治の嚆矢(こうし)となったのである。
 そして民主党がデマゴギー政治を踏襲(とうしゅう)し──「政権交代」と獲得のために──、安倍がさらにそれを受け継ぐのだが、自民党がデマゴギー政治に走るしかないことこそ、自民党政治が実際にすでに破綻していて、政権担当の能力を全く失ってしまったことを暴露しているのである。
 自民党政治はすでに4年前に最終的に終わっていたといっていいのだが、民主党のデマゴギー政治の破綻の結果、そして民主党政治に代る政治が、労働者の政治が台頭することができなかった結果、復活したのだが、彼ら自身、今度こそ「後がないこと」を予感し、おびえるのであり、それだけ一層強がり、虚勢を張るのである。そして、そんな望みのない課題に応えるのにピッタリの“人格”が、軽率と安直の徒輩、安倍というわけである。
 都議選でアベノミクスが勝ったように見えるのは幻想であって、アベノミクスはその本性上、本当の「景気回復」や「経済成長」をもたらすものではなく(カネを安直にバラまくだけで、もたらし得るはずもないのだ)、また労働者、勤労者の収入増や生活改善を保障するものではないのである。
 というのは、安倍の政策がめざすものは、インフレとか円安とか「期待感」とか「やる気」とかいった名目的で、言葉だけのものであり、実際的で、内容のあるものではないからである。
 しかも彼はブルジョアたちの当面の、表面的な利益にもっぱら奉仕するのであって、労働者、勤労者の生活改善については、ただ「景気回復」や「経済成長」が達成されるなら──達成されるかぎりで──何とか可能になると言うだけである。
 その点でのみ、アベノミクスは「コンクリートから人へ」とか「福祉や生活」を謳って、直接に労働者、勤労者の生活改善──もちろん言葉だけ、形だけであり、実際には矮小なバラまきだけに終わったのだが──を訴えた、民主党のマニフェスト政治と区別されるのである。
 つまり安倍自民党はブルジョア層やプチブル層の目に、当面資本主義的「安定」や「繁栄」の象徴とそれを保障してくれる、頼りのある存在──と映っているのであり、その限り、民主党政権よりも信用されているのである。
 自民党は都議選に勝ったといっても、安倍のデマゴギー政治の幻想がまだ生きている限りのものであり、またそして「野党」(民主党や維新の会など他の諸党)の戦術の失敗や愚劣さやナンセンスに助けられたこともあってであって、薄氷の勝利──明日、つまり参院選がどうなるかさえはっきりしないような──とさえ言えるのである。
 実際、自民党の絶対得票数(有権者のどれだけが支持したか)はわずか16・7%、つまり6人に1人の有権者も自民党の候補者に投票していないのである。昨年の総選挙の時の比例区より、得票数を減らしているのである。みんなの党と維新の会の統一戦線が成立していたら、10名くらいの落選者は簡単に出たような数字である。
 自民党が派手に勝ったように見えるが、その自民党にさえ勝利感の湧かない、不安だけが残る勝利であり、アベノミクスの幻想がせめて参院選まで持ってくれと願うようなかりそめの勝利であった。
 そしてまた民主党は2人区16の内で10人の当選者を出しながら、3つの3人区では1人、4人区(6つ)、5人区(3つ)、6人区(3つ)、8人区(1つ)では、わずか4人が辛うじて議席を守ったにすぎない。この4人区以上で、2人の候補者を立てて2人を落している選挙区が4つもあるのだから、その「身のほど知らず」には何をか言わんであろう。
 実際、2人区で10人の当選者を出しながら(定数に対する議席獲得率31・3%)、それ以外で悪戦苦闘し、沈没した(同7・7%)民主党の都議選の結果は、この党が都市部──彼らの地盤であるべきところ──ですでに完全に破綻し、没落したこと、もはや昔日の輝きを取り戻すことは決してあり得ないことを教えている。
 せめて猪瀬都政に明確に反対し、さらにはオリンピック反対を説得的に訴えて闘ったら──「都政」をめぐる闘いというのが都議選挙の“趣旨”なのだから──、存在意義を持ちえ、20、30の議席を守りえたかもしれないが、政治的な軸点もない民主党には、そんな「戦略」をえがく賢さなど期待できるはずもなかった(そんなことが可能なら、民主党はもともと民主党ではないだろう)。
 維新の会は橋下の「暴走」の結果、完璧に敗北したが(「大躍進」を夢見て、34人もの候補者を立てながら、3人の議席さえ守れなかった)、自業自得と言うしかない。ひとりよがりと傲慢の「欠陥」が暴露されたのだが、それはまた橋下がつまらない政治家でしかないことを明らかにしてくれた。彼の慰安婦問題での発言は、安倍が本心を隠して選挙に勝とうとしていることに焦り、いらついてのことであり、また安倍の本心を代弁し、助けようとしてのことであったが、やぶ蛇でしかなかったのである。
 安倍は橋下に確かに助けられたのである、というのは、橋下が口にして「顰蹙(ひんしゅく)を買った」発言は、いつも安倍の言っていること、彼の本音以外ではなかったからである。橋下が安倍の「信念」を代弁して敗北したというなら、それはまた安倍の敗北でもあるのであるが、このことはまた、安倍自民党の勝利がいかにいんちきなものであるかを教えている。そして、またいったんアベノミクスのボロが実際に明らかになったとき、安倍政権のたどる運命をも示唆したのである。
 共産党は勝利に浮かれているが、その得票数はたったの62万票で、前回の71万票に遠く及ばないのである(それ以前の得票数──05年の68万、01年の75万、97年の80万等々──と比べても、むしろ減少気味であり、最低でさえある。97年の得票率は21・3%であり、今回の13・6%をはるかに超えている)。いわば漁夫の利を得ての、当人さえも予想しなかった“善戦”というわけである。
 しかし、核エネルギーは「危険」でこわいからなくせ、戦争は悲劇でおそろしいから反対だ、天皇制憲法でも何でも「平和主義」があるから「擁護」せよ、といった主張に代表されるように、労働者、勤労者の闘いをそらせるだけのプチブル党の「躍進」といったものはかげろうのようなはかない「躍進」であって、たちまち消えて後に何も残さないのである(片山内閣挫折後の総選挙における、35議席の「大躍進」と同様に)。
 都議選が明らかにしているものは、国民全体の、とりわけ働く労働者、勤労者、若者の深い絶望と諦めであり、また時代の閉塞感であり、「漠然とした不安感」ではないだろうか。
 こうした感覚は昭和初期の社会的雰囲気であり、「漠然とした不安感」とは、1927年、つまり昭和2年に自殺した芥川龍之介の遺書の中にあった言葉である。この後、日本の社会は世界的な資本主義の矛盾の激化や解体の中(大恐慌の荒波が押し寄せる中)、天皇制ファシズムの大波に飲み込まれ、軍部ファシストの独裁体制のもと、1945年の破綻に終わる、15年間もの反動的で、無意味で、悲惨な戦争の時代に突入して行くのである。
 国民は自民党に絶望して民主党に期待したが、しかしその民主党にも見事に裏切られ、その反動としてまた自民党にむなしい期待をかけるのだが、しかしいくら人のいい国民と言えど、アベノミクスにまたまたペテンにかけられたと知ったなら、労働者、勤労者だけでなく、国民の全体が怒りに満ちて立ち上り、自民党に最終的にノーを突き付けるしかないだろう。
 愚劣で空っぽの──一種の詐欺でしかない──「アベノミクス」の破綻は不可避であり、鉄の必然性であって、問題はそれがいつ来るかである。我々はそれが参院選の前に来ることを期待するが、もちろんいつ来ても同じことである。仮に参院選に勝って安倍政権が、自民党政権が続くことがあろうとも、そんな政権がいくらかでも成功することはおろか、つかのまの「安定」さえももたらすことはできないだろうからである。
 国民の幻滅と絶望と怒りに、そして今ブラジルなどの国民が決起しているような、日本の労働者、勤労者、若者らの闘い──それは避けられないだろうが──に直面する安倍政権は、もし権力を維持しようとするなら、国民全体を敵に回し、その闘いを力で弾圧し、専制主義に移って行くしかないのであり、そしてそうなれば、ますます労働者、勤労者の憤激を深め、その闘いを発展させ、深化させるしかないだろう。
 我々はそんな時代が来ても少しも困らないが、しかしそれは資本の体制にとっては由々しき事態であろう。


G8、「同病相哀れむ」に浮かれる安倍
政権末期症状すら見えはじめる

2013年6月21日

G8(主要8ヵ国)首脳会議で、安倍は、外国の首脳から「日本の経済政策について評価してもらった。日本経済の復活は大変プラスという評価だった」と自画自賛し、浮かれています。
 ばかな男です。安倍は表面だけのお世辞や、同じような傷を持つ仲間うちのほめ言葉に弱いのであり、各国首脳らはお互いに傷を舐め合うのが好きなのです。
 イタリアやイギリスやフランスなどのトップがアベノミクスを「評価」するのは、自分たちも同様なカネをバラまくだけのような放漫、無責任な政治、政策に走っており、あるいはさらにそんな政策を強化したいと思っているからであって、その正当化や権威づけをお互いのやり方に、とりわけアベノミクスに求めるのです、つまり「同病相憐れむ」というやつです。
 アベノミクスが「評価される」こと自体、世界中のブルジョアたちがどんなにそろって退廃しつつあるか、経済の停滞や行き詰まりや困難の増大にいかに対応し、闘ったらいいのかで困惑し、その道を見出せず、「わら」にもすがる思いにますます駆られているかを教えています。
 そんな中で、日本の「国威発揚のために」先頭に立つ安倍──この男は虚栄心やうぬぼれ根性だけは人一倍旺盛です──は、再び日本が世界経済の「機関車の役割」を演じるのだと豪語するのですが、それはただバブル経済によって世界経済を領導するという以外、どんな実際的な意味も内容もないのです。
 ドイツなどから「ものすごい財政赤字を抱えていてどうするのか」という厳しい言葉や、また金融緩和の「出口戦略」はあるのか(なければ大変なことになる)、通貨安競争の危険もあるという批判的な見解も出されたのですが、そうした正当でもあり、痛いところを突く発言はただ無視するだけです。しかし、聞かない振りをし、避けている言葉にこそ、「口ににがい薬」の方にこそ、真実があるのです。
 実際には、安倍政権は今や、万能の政策であるかに売り出した金融緩和や財政膨張政策で自信を失いつつあり、まわりからやかましく「それなら成長政策だ」と言われて、そんなもので活路を見出そうとするのですが、むしろそんな瞬間に「3本の矢」の全体のボロが、破綻が暴露され始めたのです。
 かくして安倍はいまではただ「断固やる」、ただ「行動あるのみ」といった、単なる勇ましい言葉だけを振りまくだけにまで――まるでかつての新左翼のプチブルたちのように――追いつめられて来ています。
 政治や政策に実質や内容がますます無くなって行く連中に限って、ますます饒舌で、大言壮語するのであって、安倍には、ひとりよがりの空疎な言葉を除けば、すでにどんな「政策」の持ち合わせも無くなっているのです。
 安倍政権は「経済成長」も「財政再建」も共にやると言うのですが、そんなものは単なる強がり、空文句であって、最後の切り札として持ち出した「成長政策」も無内容を見透かされて「市場」からさえ評価されない状況では、そして実際には、「財政再建」どころか財政破綻、国家破綻を準備し、それに向かって突進しているのですから、安倍政権に余り展望や未来があるように見えません。
 高市に見られるように、党幹部らの「失言」も目立ってきましたが、これは最近の“経験”からして政権の末期症状の一つではないでしょうか。安倍は口先だけで政治をやることは決してできないことを、もうすぐ身にしみて悟るし、悟らざるを得ないでしょう。


アベノミクスの矛盾とジレンマが露呈
株価、為替相場は逆戻り、長期金利だけは2倍近くも上昇

2013年6月14日

アベノミクスに対する懐疑が、疑惑が密やかに、そして確実に大きくなっています。
 それは「金融市場」もしくは「資本市場」の動向にもはっきり現れ、株価は激しく変動し、また黒田や安倍らの思惑に反して、長期金利は2倍ほどにも上昇し、1%に近づきました。「異次元の」金融緩和によって長期金利を引き下げ、投資や企業活動を活性化したり、円安効果を狙ったというのに、金利が上昇したら元も子もありません。
 長期金利上昇は「市場」が財政の危機的、絶望的な現状を敏感に察知すればこそであって、金融を超緩和して、政府の借金依存の財政膨張を煽り立てておいて、長期金利の低下などを願望するとは、余りに虫が良すぎます。ここではアベノミクスの内包する矛盾とジレンマがすでに露呈してきています。
 株価の激動は短期の利益をもっぱら追求するヘッジファンドなど「投機筋」が悪いのであり、彼らがその張本人だと毒づいてみても、ファンドがのさばり、はびこる条件を準備してやったのは安倍や黒田なのです。
 彼らがファンドを批判するのは全く筋違いであって、金融や株式市場の現実がどうあれ、それには安倍や黒田こそがまず責任を負うべきでしょう。
 黒田らは、「市場はやがて落ち着く」とか、「今は調整過程だ」とか、「実体経済はいい方向に動いている」とか、「経済全体に明るい兆しが出てきた」とか、とにかく懸命に自分をも他人をもあざむき、納得させようとしていますが、そんな楽観主義や幻想が長く通用するような安易な状況ではなくなってきています。
 珍奇な「政策」によって「日本経済が強くなる」といった、安倍や黒田らのはかない夢がはじけるときが近づいているように見えます。


橋下の従軍慰安婦発言の元凶は安倍
安倍こそ「政治家の資格なし」、安倍政権を一掃せよ

2013年6月3日

橋下の発言に対して内外の批判が集中していますが、安倍は「橋下発言は無関係」と知らないふりを装って、自分もまた橋下の同類であることを隠し、参院選で勝利して「長期政権」を可能にしようと策動にふけっています。それなのに、マスコミやリベラルからは、橋下批判を安倍批判につなぎ、安倍を非難する声がほとんど上がらないのはどういうことでしょうか。権力におもねってのことだとするなら、マスコミやリベラルの頽廃もはなはだしく、そんな勢力に将来はないも同然です。
 橋下は、“従軍慰安婦”といったものは世界中の軍隊でも行われていた“売春”の一種であって、日本だけの問題ではない、戦争ではそれは必要なことであって、「世界各国も、どのように女性を利用していたかの検証も必要」だ、それを何か日本だけが悪いことをしたかのように攻撃されるのはおかしい、また朝鮮人女性を“従軍慰安婦”として動員し、駆り出したことに日本の国や軍隊が「関与した」という証拠はない、などと言いはやしていますが、これらの言葉は基本的に、安倍やその仲間の政治家たちがこれまで自らの「信念」としてさんざんに叫んできたことであり、安倍などはそのためにNHKの放送番組にまで政治介入して、その内容まで変えさせるとか、教科書に載った、従軍慰安婦問題を削除せよとわめいてきたのです、つまり橋下よりも安倍の方がはるかに悪質な先輩であり、元凶であるのは明らかであって、橋下はただ安倍政権にこびて、そこに取り入ろうとして、ことさらに従軍慰安婦問題を騒ぎ立ててきたのです(安倍が言えないなら、自分が代弁してやる、とばかりに)。
 だからこそ、橋下は村山談話、河野談話についても、安倍と声を合わせて、それは廃棄して新しい「談話」を発表する必要性について語ってきたのです。
 とするなら、橋下が罪を問われるなら、まず元凶である安倍もまた──むしろ安倍こそが──問われるべきであり、糾弾されなくてはならないのは当然のことです。しかし安倍政権は、橋下発言は自民党や政権の立場とは違うと言って、火の粉が飛んで来ないように策動し、ごまかすばかりですが、マスコミもリベラルたちも真実を明らかにしないばかりか、知らないふりを装っています。

 自民党の野田聖子も厚かましく、橋下発言は「論外だ。非常に見識を欠く発言だ」と切って捨てていますが、そうした「見識を欠く発言」を繰り返してきたのは、安倍たちであったことについては、一言も語っていません。岸田外相も抜け抜けと、「橋下さんの発言で、日本の政治家が皆こんな思いを持っているという誤解を招かないか心配だ」などと語るのですが、しかしこうした「思い」は、政治家全部はともかく、自民党の多くや、安倍政権の多数の閣僚が抱いていること、常日頃から口にしていることであって、彼らが橋下と同じような「思い」を持っていることは自明のことではないでしょうか。だからこそ、安倍内閣の連中からは、「橋下は安倍政権の避雷針になってくれた」といった“感謝”の声さえも聞かれたのです。
 橋下発言がとんでもないもの、政治的立場である以前に事実認識や道徳観念さえ欠く放言に近いもの、日本の恥を暴露するものであり、政治家としての失格を教えるものだと言われていますが、そうだとするなら、安倍と安倍政権もまた同様であって、むしろ安倍の方が橋下よりも罪深く、元凶と言えるのですから、橋下だけが批判されて、安倍が無関係であるかに放置され、大目に見られていていいはずがありません。
 我々は従軍慰安婦問題での発言で橋下が非難されるなら、安倍もまた非難されるべきであり、橋下については騒ぎ立てながら、安倍については何もいわないマスコミやリベラルたちの「世論」なるものは全くいんちきであり、便宜的、ご都合主義的であって許しがたいものであると告発します。橋下が「政治家としての資格がない」と言うなら、安倍もまた同様──それ以上──であって、安倍が権力を握り、また参院選で勝利することなど認めることも許容することもできないことは自明です、ところがマスコミやリベラルたちは、こうした決定的に重要な問題について沈黙を守り、知らない顔をしているのです。「不道徳」なのは橋下や安倍だけでなく、マスコミやそこにたむろしているリベラルたちも同類であると言うしかありません。
参院選ではリベラルたちが事実上、安倍の応援隊として駆け付けるとしても──ちょうど4年前、民主党の応援隊として「政権交代」を叫び、演出したと同様に──、労働者、勤労者は断固として安倍政権の一掃のために団結して決起しましょう。参院選で安倍に勝利させて、これからの大事な3年間もの長い間、安倍が思うがままに振る舞うのを許してはなりません、それは労働者、勤労者にとって大きな災厄のたねを抱えこむと同様だからです。


「羊頭狗肉」の成長政策
「数字目標」は空っぽのアドバルーン

2013年6月2日

貿易の赤字の拡大が止まりません。円安効果によって貿易収支が改善する、というアベノミクスの最大のメリットの一つが、すでにその限界をさらけ出しているのです。
 そもそも円安とは、日本の「労働の安売り」ですから、簡単に貿易収支が好転するはずもないのです。とりわけ、すでに日本は商品の輸出大国から資本の輸出大国に転換してしまっている時代に移ってきているのですから、日本の貿易の構造も円安効果が出にくいものになっているのです。
 円安とは輸出商品の低落(ドル価格の低下)によって市場を拡大したり、あるいは円安によるドル価格の低落を利用して、ドル価格をいくらか引き上げて──といっても、さしあたりは円安以前のドル価格以内にとどまります──円の手取りを増やしたりすることはできますが、しかし円安によって輸入価格の円価格は上昇します。しかも日本に輸入される主要な商品は原材料とかエネルギー(石油、液化天然ガス、石炭)とか鉱石等々で、代替がきかないものの比重が大きいのですから、円安の“効果”つまり価格の上昇というマイナス効果は、モロに日本の企業活動や労働者、勤労者の生活に大きな影響をおよぼしています。
 また日本の貿易は輸入では8割ほどが「外貨建て」であり、輸出は6割強ですが、こうした「構造」は、円安の場合、輸入額の増大をプッシュし、反面輸出の価格低落の効果を削減します。要するに為替相場の変動を小さくするために、円建て貿易輸出を増やしてきたのですから、為替相場を円安にむりやり動かそうとしたところで効果を低めてしまう、ということです。
 もちろん予想に反した貿易赤字の拡大は、アベノミクスの破綻の先触れであり、それがますます矛盾や混乱を暴露し、破綻に向かって前進して行かざるを得ないことを教えています。
 長期利子率が上昇し始めたり、設備投資がいっこうに活性化して来ないということにも、すでにアベノミクスが行きづまり、挫折に向かって進みつつあることの一つのきざしです。値上がりするのは株や不動産ばかり、しかもそれさえも23日には株価が1,143円も急落するなど、「おっかなびっくり」という感じもあって、1980年代のバブルの再現もあり得ないとするなら、アベノミクスが現実に頓挫し、醜態をさらけ出すのも案外早いかもしれません。


アベノミクスの破綻の先触れ
止まらない貿易赤字の拡大

2013年5月24日

貿易の赤字の拡大が止まりません。円安効果によって貿易収支が改善する、というアベノミクスの最大のメリットの一つが、すでにその限界をさらけ出しているのです。
 そもそも円安とは、日本の「労働の安売り」ですから、簡単に貿易収支が好転するはずもないのです。とりわけ、すでに日本は商品の輸出大国から資本の輸出大国に転換してしまっている時代に移ってきているのですから、日本の貿易の構造も円安効果が出にくいものになっているのです。
 円安とは輸出商品の低落(ドル価格の低下)によって市場を拡大したり、あるいは円安によるドル価格の低落を利用して、ドル価格をいくらか引き上げて──といっても、さしあたりは円安以前のドル価格以内にとどまります──円の手取りを増やしたりすることはできますが、しかし円安によって輸入価格の円価格は上昇します。しかも日本に輸入される主要な商品は原材料とかエネルギー(石油、液化天然ガス、石炭)とか鉱石等々で、代替がきかないものの比重が大きいのですから、円安の“効果”つまり価格の上昇というマイナス効果は、モロに日本の企業活動や労働者、勤労者の生活に大きな影響をおよぼしています。
 また日本の貿易は輸入では8割ほどが「外貨建て」であり、輸出は6割強ですが、こうした「構造」は、円安の場合、輸入額の増大をプッシュし、反面輸出の価格低落の効果を削減します。要するに為替相場の変動を小さくするために、円建て貿易輸出を増やしてきたのですから、為替相場を円安にむりやり動かそうとしたところで効果を低めてしまう、ということです。
 もちろん予想に反した貿易赤字の拡大は、アベノミクスの破綻の先触れであり、それがますます矛盾や混乱を暴露し、破綻に向かって前進して行かざるを得ないことを教えています。
 長期利子率が上昇し始めたり、設備投資がいっこうに活性化して来ないということにも、すでにアベノミクスが行きづまり、挫折に向かって進みつつあることの一つのきざしです。値上がりするのは株や不動産ばかり、しかもそれさえも23日には株価が1,143円も急落するなど、「おっかなびっくり」という感じもあって、1980年代のバブルの再現もあり得ないとするなら、アベノミクスが現実に頓挫し、醜態をさらけ出すのも案外早いかもしれません。


慰安婦問題――橋下暴言はまた安倍のものだ
労働者の闘いで今こそ橋下の「失敗」を安倍打倒につなげよう

2013年5月20日

橋下の“暴走”発言は橋下と維新の会の本性を暴露し、それへの期待や支持は急降下しました。しかし安倍政権自体は、「橋下とは考えが違う」などと言いつくろって、維新の会への批判は自分には当てはまらない、とにわかにまき起こった「歴史認識」問題の突風をやり過ごし、参院選への影響から逃れようと必死になっています。
 安倍がこの問題で恐怖を感じたのは当然のことでした、というのは、橋下の発言や思想は安倍の発言や思想と基本的に同じものであり、国民全体の橋下への批判や嫌悪感はまた、安倍に対する批判や嫌悪感として、いつ現われてもおかしくないからです。
 実際今のところは、橋下への批判は安倍への批判に転化してもおらず、表面化してもおりません、しかしまさに安倍のために、安倍が言えないことを言って安倍を助けようとして突然に“暴走”した橋下は、安倍にとってもたちまち危険なものになったのであり、さらには致命的なものにさえなりかねないのです。
 橋下発言問題はまさに安倍にとって、地平線に現われた不気味な黒雲のようなものであって、たちまち天を蔽い尽くし、安倍政権を一掃してしまう暴風雨として現われかねない恐怖となり、6年前の夏の悪夢を思い出させるのです。
 実際、橋下の発言は安倍の言ってきたことと全く同じであって、安倍が「考えが基本的に違う」などと言える義理もないのです。安倍は保身のためには、自分のために尽くそうという“盟友”橋下をも即座に切って捨てるのであり、捨てることができる冷血漢というわけです。
「国をあげて韓国女性をらちして強制的に売春させた事実の証拠はない」「暴行、脅迫でらちした事実は裏付けられていない」
 こんな文章を提起され、これは誰が言っているのかと問われて、安倍か、橋下かを正しく答えることのできる人は少ないでしょう、というのは、二人とも全く同じように、こうしたことを繰り返して語っているからです。もちろんこれは橋下のものですが、安倍のものとしても十分に通用するのですから、安倍が、橋下の言っていることは、「自民党の立場とは全く違う」などと言えるはずもないのです。
 ひきょうな安倍は、「自分(安倍)と違う」とは言っていない、「自民党と違う」と言っているにすぎないと、詭弁(きべん)でもってごまかそうというのでしょうか。そうだとするなら、自分から「橋下の言うことは自民党とは違うが、自分とは一緒だ」と言っているも同然で、自分から橋下の見解は正当であり、自分もそう思っていると自白していることになります。
 そしてまた、「自民党とは違う」ということさえ事実と一致しません。自民党自身、昨年総選挙のマニフェストのたぐいで同様な主張を謳っているのですから、二重、三重の意味でごまかしです。
 また橋下は、「慰安婦が必要なのは誰でもわかる」、「当時は慰安婦はどこでもやっていた」、「日本軍だけじゃなくて、いろんな国の軍で慰安婦制度を活用していた」とか、「学術上、侵略の定義がないのは安倍首相が言われている通り」などと、安倍の名まであげて、安倍との立場の一致を強調しているのですから、安倍が、橋下は自民党や自分とは違うなどと言うのは大嘘のたぐいでしかありません。
 橋下の粗野で、非人間的な発言に、品のない暴言に日本中が、否、世界中が恐怖し、氷りつきました。そして橋下や維新の会に対する不信や嫌悪感が一気に高まりましたが、これはまさに6年前、第一次安倍政権が参院選で大敗したときの状況とそっくりであり、あの時を彷彿(ほうふつ)させ、思い出させます。
 橋下に対する不信とヴェトー(拒絶)は、安倍に対する不信と拒絶であり、またそこに必然的につながって行きます。今は「経済政策」によって、不況と停滞からの脱却を願い、夢見る国民の幻想につけ込み、えせ解決策で釣って高支持率を誇っているかの安倍政権も、そんな「頭隠して尻隠さず」の欺瞞(ぎまん)的本性をさらけ出し、6年前と同様に一気に奈落(ならく)の底に転落する可能性を、否、必然性を秘めています。
 労働者、勤労者の諸君、橋下の「失敗」と後退を、労働者、勤労者の断固たる闘いによって、安倍の政治破綻と参院選敗北へとつなげ、安倍政権を今こそ打倒する道を切り開いて行きましょう。


下劣さむき出しの橋下の発言
安倍らの「本音」がいかなるものかを暴露

2013年5月17日

橋下の発言は、安倍を始めとする保守反動派の政治家たちを震撼させ、彼らは大あわてで、橋下発言を否定し、あるいは拒絶する振りをせざるを得なくなっていますが、しかし実際には、橋下の言っていることは安倍等政治家たちやつくる会などのインテリたちが常日頃から散々言っていること、言ってきたこと、せいぜいそのバリエーションであって、本質的に同じものです。
 橋下は「当時の」、あるいは戦争下でのこととして、あるいは軍隊の本性として、“従軍慰安婦”や戦地での売春など当たり前のこと、当然のことであって、「今の判断基準」で非難するのはおかしい、またアメリカなども同じことをやっていたのに、日本だけとやかく言われる理由はない、などと開き直るのですが、自分の言っていることが、反動戦争を前提として発言していることさえわきまえていないのです。
 そして安倍や渡辺らは、いまさらのように、橋下の言うことは自民党や安倍政権の見解とは違うとか、橋下のように戦争体制を美化する政治家とは一線を画すとか言いはやすのですから、厚かましいもいいところです。彼らは橋下の言動に、自分の本性を見て取るべきであって、橋下の言動が、橋下の本性が嫌悪すべきものだというなら、安倍等の本性もまた嫌悪すべきものであることを知るべきなのです。
 橋下は、安倍等を批判して、従軍慰安婦問題は1965年の日韓条約で決着が付いていると言うが、「法律的な立場と、人間としての立場とは違うだろう、政府の立場こそ慰安婦を傷つけてきた」といかにももっともらしく言いますが、当時の慰安婦(つまり「性奴隷」)の立場は当然だとうそぶくような人間が、どんな「人間的立場」について語れるというのでしょうか。それに、いつも「法律的立場」を強調して、労働者弾圧に走ってきた人間は誰だったでしょうか。
 橋下は近くアメリカに行くが、「私は堂々と、日本が悪いというなら、アメリカも同様なこと(植民地の女性を性奴隷に転落させるような悪事)をしてきた、アメリカはどうなのだ、アンタも同様に悪い」とタンカを切ると断言しています。我々は果たして橋下が、まさに正々堂々とアメリカにそんなことを言うのか、言えるのか──世界中からごうごうたる非難と、総スカンを食うことなしに──を楽しみにして待つことにしましょう。
 橋下はまた、慰安婦と同様なことは世界中がやってきているが、「なぜ日本だけが特別な批判を受けるかを考えなければならない」と言いますが、ぜひとも「なぜ」であるかをご教示願いたいものです。
 今回の橋下の発言は、彼の「本音」を語ったものだと“弁護”する奇特な連中もいるようですが、安倍や橋下が「本音」で語ると、世界中が氷ついたように硬直し、ぞっとするというのは、何を教えているのでしょう。彼らの言動は、彼らが本当に人間の風上にもおけないような人間のクズであること、あまりに粗野で、粗暴で、無神経な野蛮人たちであることを暴露しているのです。


憲法の擁護や支持はできない
天皇制だけでなく私有財産制もゴメンだ

2013年5月7日

この間、憲法記念日もあって、憲法改定問題や、安倍が参議院選挙の焦点の一つにするという憲法96条の改定について、諸政党やインテリやマスコミなどによって盛んに論じられました。安倍は96条を変えることによって、憲法改悪を容易にしようとするのですが、それは改憲勢力が3分の2にならないときの担保みたいなもので、その後、あわてず騒がず改憲に突っ走ろうということでしょうが、しかし3分の2で96条を変えるというなら、さっさと参議院選挙で9条改憲を訴えて、3分の2の改憲勢力を勝ち取り、堂々とやればいいのですが、9条を変えると公約して参議院選挙を闘う自信がないということをむしろ暴露しています。そしてそんな自信のなさを暴露しつつ、参議院選挙をやるというのはかえってやぶ蛇になりかねません。そんな日和見主義的でこそくなやり方に走れば、近道のつもりが回り道にもなりかねません。
 労働者は憲法96条でも、9条でも、さらには現行憲法そのものについても、自らの政治的立場をブルジョア政党は言うまでもなく、公明や共産、社民とも明確に、断固として区別して闘っていく必要があります。労働者は現行憲法をブルジョア憲法と規定し、そのどんな擁護や正当化や支持とも無関係であり、むしろその根源的な改正──例えば、天皇制条項の一切の削除等々──を要求して闘うと共に、根底において私有財産制や資本の支配を前提とした憲法を決して支持したり擁護するのではなく、その憲法の本性を暴露して闘って行かなくてはなりません。もちろん個々の問題で、反動勢力の、政府自民党の改悪策動に反対して闘うのは当然ですが、それは9条を弁護するとか擁護するとかとは全く別であって、9条のプチブル(ブルジョア)平和主義を暴露し、その幻想を暴露しつつ、反動勢力の改憲策動と闘うし、またそうした形で闘わなくてはならないのです。つまり改悪策動に反対する闘いと、憲法のブルジョア的本性を暴露する闘いを結合して行かなくてはならないのです。
 自由主義世論、市民主義世論は盛んに「憲法の本性は国民、市民が国家を規制し、抑制し、しばるところにある」などといったたわ言を振りまいていますが、余りにばかげており、安倍政府や自民党や反動たちを助けているも同様です。憲法はそのよってたつ社会体制の、生産関係の反映であり、その社会の、国家の本質を公然と語り、規定しているからこそ憲法であって、市民なるもの(プチブル、とりわけインテリたち)のためにあるのでないのは自明のことです。戦後、「天皇主権」から「国民主権」となり(その実際の内容はともかく、建前として)、今やそれらに変わって「国家主権」と呼べるような流れが滔々として出て来ています。反動世論は、国家のために個人の権利が制約を受ける場合があるのは当然だとか、国家のために「財産権」さえも絶対ではないとか、国家は「領土や国民を統治する」ところに本質があると言いはやし始めています。労働者は「国民主権」からさらに進んで、天皇制はもちろん資本の支配をも廃絶し、「労働者主権」を、つまり無階級、無権力の社会を目指して前進して行かなくてはなりません。


国家主義者の本性暴露
15年戦争を美化し、開き直る安倍

2013年4月26日

1、2月頃には、「歴史認識」問題では慎重で控えめな答弁をしていた安倍が、にわかに強硬な発言をし始めています。
 就任前には「歴史問題は新政権の急所になりかねない」と心配し、1月、2月には村山談話や河野談話は、これまでの政府の立場を「引き継ぐ」と言ってきたのですが、ここに来て閣僚が靖国神社に参拝し、あるいは安倍が国会で「(中国などが)侵略、侵略と騒ぐが、その定義ははっきりしない」などと挑発的な発言をやり、それに中国や韓国が反発すると、こんどは高飛車に出て、中国や韓国との対立を一気に激化させています。断固たる国家主義的立場を示した方が参院選で有利に闘えると読んでのことでしょうが、命取りにならない保証は何もありません。
 盛んに「国益」を叫び、「歴史や伝統、誇りを守るのが私の仕事」、「国のために尊い命を落した英霊に尊崇の念を表するのは当たり前、脅かしに屈しない」などと意味不明の啖呵を切っています。
 本性暴露というところですが、彼がうぬぼれ、自分の立場を過信して“猫かぶり”戦術を止めるというなら、我々は大歓迎であり、それを利用して一層の批判を強めるのみです。
 安倍は15年戦争を中心とした何百万の労働者、勤労者の死を「国のために闘った尊い犠牲」などと言いはやしますが、実際には大資本や天皇制軍部の利益や野望のための戦争、帝国主義に奴隷のように駆りだされて無意味に殺されたも同然で、そんな死を「国のために死んだ」などとすり替え、美化するのは許されません。靖国神社には戦犯として死刑にされた東条等まで“祭られて”いるのであって、実際には、安倍等はそんな連中のためにお参りに行くのです。
 15年戦争を美化したり、中国での天皇制軍隊の野蛮で残虐な蛮行や朝鮮人女性の従軍慰安婦問題、つまり性奴隷としての戦地への半強制的な動員などなかったことにすれば、「日本の国益と誇りが守れる」などというのですから、全く逆立ちした、ばかげた考えで、中国や韓国の国民が反発するのも当然です。
 「脅しには屈しない」などと被害者意識を装っていますが、何を「脅し」というのでしょうか。全く破廉恥な人間で、こんな人間の支持率はたちまち急降下するし、せざるを得ないでしょう。
 安倍が首相でいる限り、中国や韓国との、アジアや世界の諸国との、こうした不和や対立は不可避であって、それはまた世界中の諸国家のいさかいや武力衝突や戦争さえもの出発点、第一歩にならないという保証は何もありません。
 参院選でいくらかでも有利になると打算して、こんな火遊び的な言動に出るとするなら、そんな無責任で利己的な政治家は、ただちに政権の座から追い落し、追放して行かなくてはなりません。


変質する中央銀行の“役割”
政府と手を携え破滅の道へ

2013年4月19日

かつて中央銀行の役割は「物価の安定」でしたが、それはインフレやバブルを許さない、ということと同義でした。しかし今では、その役割は「デフレ」克服であり、インフレをもたらすことである、とリフレ派、否、ブルジョア世論一般が言いはやしています。つまり今は不況であり、物価下落が進んでいるから、物価上昇こそが、そしてそれによって「景気回復」をもたらすことが、日銀の責務であるというのです。
 アメリカなどでは「雇用」までも中央銀行の仕事であると言われ、失業率6・5%に下がるまではゼロ金利政策をやめないなどと言われています。つまり中央銀行がカネをたれ流すことによって、景気回復や失業の一掃が可能になるというのであり、そんな“新しい”任務が世界中の中央銀行に課せられているというのです。またイギリスでは、GDPを目標にして金融政策をせよといった見解まで飛び出しています。まさに原則などどうでもいいといった、何でもあれの無原則の経験主義と無政府主義が大流行というわけですが、これもまた頽廃し、日々腐っていく現代資本主義にとって特徴的な現象の一つです。

 そもそも1%や2%の物価下落など資本主義にとって普通のこと、正常的な経済運動であって、それを1%や2%の物価上昇にする、などということは全くナンセンスの極みです。こんなつまらない、どうでもいいことに大騒ぎし、2%の物価上昇を勝ち取るなら、資本主義は万々才だなどと浮かれるとするなら、余りに愚昧矮小であって、資本の体制にどんな未来も展望もないと結論するしかありません。
 中央銀行の仕事はインフレと戦うことではない、むしろインフレのために、実際にはバブルのためにさえも戦うことだといった、最近のブルジョアたちのわめき声は、彼らがすでに追いつめられ、将来への見通しを完全に失って正常な感覚や判断力もなくし、血迷ってしまっていることを暴露しているといえます。
 実質的に、たいして円高が進んでもいないのに――というのは、外国の物価は上昇し、ドルなどの「価値」が小さくなっているのですから、円が為替市場で高くなるのは当然です――そんなときに、「行き過ぎた」円高などとはやしたてて、財政や国家金融によって、両者が歩調を合わせてカネを「無制限に」バラまくなら ――本来は国や政府の財政バラまきを抑え、制御すべき日銀までもが変節して――、確かにインフレは現実的になり得るかもしれませんが、しかしそれが労働者や勤労者にとって、国民全体や国家にとってさえ破滅的な結果につながらないという保証は何もありません。
 日銀が「通貨の番人」であることは、かつて以上に必要なことであり、それはある意味では資本の支配体制の“安全弁”の一つでさえありました。というのは、政治家や政党や政府が、自らの権力や特権を守ろうとして、選挙で勝とうとして、そんな目先で不届きな動機から、とめどもない借金を積み重ねつつ、財政の膨張を図るなら、そんな政策に対して抵抗し、抑制するのが、中央銀行の神聖なる役割であった(と見なされてきた)のです。
 しかし今では、日銀は政治家や政府のふらちで筋違いの政治や政策を支持し、その尻拭いの役割を仰せつかり、強要されるのであり、また安倍の肝煎りの黒田日銀は嬉々としてそんな愚劣な立場に甘んじるのです。
 かくして日銀の堕落と頽廃が深化するのであり、政府と日銀は手をたずさえて、日本の国家と経済を解体させ、瓦解させるために協力して励むのです。
 労働者は困りませんが、そんなことを続けたらブルジョア支配はどうなるというのでしょうか。せめて日銀に“安全弁”として機能する役割を残しておくべきではないのか、権力の集中は、それを打倒することを容易にするという先人ブルジョアたちの知恵を否定するなら高くつくかもしれませんが、それでもいいのでしょうか。もっとも、これは労働者の知ったことではないのですが。


黒田日銀を先鋒に暴走
労働者いじめの最低の悪政

2013年4月12日

アベノミクスが日銀を先鋒に仕立てて暴走しています。まるで戦中の自爆特攻や自爆テロのようなものです。
 一時の景気上昇といっても株価が上がっているだけで、すぐに化けの皮がはがれる呈のものです。
 安倍政策の本質は、労働者、勤労者の実際の生活や人生に対する無頓着であり、無神経を根底に秘めた、冷酷さでしかありません。
 例えば、労働者にインフレ「期待感」を持たせれば、彼らはカネを節約したり、貯蓄するのでなく(そればかりか、大切に蓄えてきた貯金さえも大急ぎで)、どんどん使うだろうし、使わざるを得ず、かくして需要が増大して景気がよくなるといった理屈を持ち出すのですが、しかし労働者が給料の一部を貯蓄にまわし、それを低金利にもかかわらず大切に貯金するのは、家族の不慮のけがや病気とか、失業とかの“まさかの時”のことを考えてであり、あるいは老後のためであって、インフレが来るぞ、カネを持っていてもどんどん減価し、無くなって行くのだぞと脅して──ブルジョアや安倍や黒田は、労働者に「期待感」を抱かせるというのですが、労働者を脅迫しているも同然です──、そんなカネまでも、吐き出させようとするのですが、余りに浅ましく、非人間的というしかありません。
 まして貯蓄だけが頼りの老人たちに、命の綱の貯金までもインフレで脅して費消させようというのなら──実際、安倍や黒田はそう主張し、また実行するのですが──、そんな政治が景気回復の善政どころか──というのは、そんなことをしても景気回復が訪れるという保証はほとんどないからです──、労働者いじめ、弱い者いじめの最低の悪政でしかありません。
 アベノミクスを自慢たらたらと持ってまわっている安倍や黒田の意識に、彼らの目に、労働者、勤労者の生活や人生が全く映っていないことだけは確かです。
 労働者、勤労者は断固として立ち上がり、安倍政権を決定的に、そして早急に打倒し、一掃していくべきであり、またそれしか自らの生活と未来のために闘っていく道はないのです。



ページTOP