【2013,4.4】
まさに「財政ファイナンス」そのもの ――鉄面皮の黒田の金融“超”緩和策
【2013,3.29】
非本質的な問題で大騒ぎ ――衆院選挙での違憲判決
【2013,3.22】
中途半端な白川の“闘い”終る ――徹底した闘いは労働者の手で
【2013,3.15】
そろそろ本性発揮?――安倍「日本独立式典」企む
【2013,3.9】
「聖域」外してTPP参加――安倍自民党の動揺と二股政治
【2013,2.21】
「頭隠して尻隠さず」の安倍外交――「竹島の日」式典へ政務官派遣を決定
【2013,2.15】
米国に北朝鮮の核実験を批判する資格なし――外国の基地攻撃を合憲かに主張する安倍を許すな!
【2013,2.8】
白川総裁、任期残しての辞任――安倍に対する最後の“抵抗”
【2013,2.1】
“春闘”なる、おしゃべり――「賃上げで景気回復」は労資協調でしかない
【2013,1.26】
金融緩和こそがカギと言いながら――日銀への背金転化や財政大膨張策で逃げ口を準備
【2013,1.18】
大阪高校生の自殺と橋下の責任――橋下の“教育政策”や観念に罪あり
【2013,1.12】
安倍は“道徳教育”を説く資格があるのか――朝鮮人女性の「従軍慰安婦」の存在を否定
【2013,1.4】
安倍の「長期政権」策動を許すな!――マルクス主義同志会に結集して共に闘おう!
【2012,12.28】
“第二次”安倍反動内閣の誕生――労働者の闘いで打倒しよう!
【2012,12.20】
総選挙の結果を踏まえての同志会アッピール――労働者の政治闘争を組織し、貫徹しよう!
【2012,12.13】
天皇制軍国主義の押しつけを許すな!――安倍自民党の反動的策動に反撃を!
【2012,12.5】
今こそやくざ政治に総反撃を!――橋下は政党のボスとなるなら、首長をやめてからにせよ
【2012,11.28】
反動攻勢たけなわの総選挙――総選挙から締め出される労働者
【2012,11.23】
浮かれる安倍自民党――「無制限の」金融緩和で景気回復など、愚劣さを暴露
【2012,11.18】
2012総選挙・はびこるデマゴーグ――石原や安倍や橋下らに断固反撃を!
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まさに「財政ファイナンス」そのもの
鉄面皮の黒田の金融“超”緩和政策
2013年4月4日
出発したと思ったら、黒田日銀は浅ましい姿をさらけ出し、安倍政権だけでなく、黒田日銀もまた、労働者、勤労者にとって打倒の対象でしかないことを暴露してしまいました。
我々は4日に発表された日銀の金融緩和政策について言っているのです。
実際には、日銀にはすでにどんなまともな金融緩和の手段も残されていないのです、というのは、この10数年、日銀は一貫して──途中で若干の中断の期間があったとはいえ──もっぱら金融緩和政策に走り、しかもそれを極端なもの──自らまともでも、正常なものではないと信じるような──に「高めながら」、次から次へと採用してきたからです。
まず「ゼロ金利政策」がありましたが、金利ゼロで日銀がカネを貸し出すというのですから、これ以上の金融緩和はありません。ところがそんな政策も効果がないとなると、金融政策による景気回復というのは幻想であり、限界があると反省するかわりに──そして、金融緩和の程度がまだ足りないとばかりに──、今度は「金融の量的緩和」という政策に走りました、つまり日銀が日銀券をいくらでも銀行に供給するといった政策です。
もちろん銀行が必要だからというのではないのですから、銀行はそんなカネを貸し出すこともせずに、日銀に預けるままにしているのです。例えば、金融緩和をして「マネタリーベース」を最近1年間で20%増して134兆円にしたとしても、「現金」としてはほとんど増えず87兆円止まり、日銀に預けられた銀行の「当座預金」──“胎化”され、出動していないカネ──ばかりが膨張して47兆円も溜っているというのですから、やっていることが見当違い、方向違いのばかげたむだ事と言うしかない現状なのです。一体何のための「量的緩和」か、金融緩和は知れたものではありません。そんな政策が“経済的な”効果をほとんどもたらさなかったとしても、当然のことにすぎません。
そして最後に安倍や黒田や岩田が登場し、それではまだまだ金融緩和が足りなかったからだめなのだ、「無制限に」やらなくてはいけないのだといって、新しい金融緩和政策をやるというのですが、効果もないことをさんざんやってきて、それをさらに大規模にやるだけだというのですから、すでに正気のさたではありません。小出しでは印象や衝撃が弱い、一気にやり、「市場」にショックを与える、「必要な政策をすべてやる」というのです、つまり黒田は焦ってか、最初から切り札を使うというのですから“勝負師”としては最低で、頭が空っぽの人間のようです。
我々は黒田日銀の新政策の意味を検討しますが、そのためには、3つの重要な数字に注目してほしいと思います。160兆円と190兆円、そしてその差の30兆円という数字です。
すでに白川日銀のときに、日銀は毎月国債を13兆円ずつ、年にして160兆円も買うことを決めています。それに対して、黒田は新しく、資金供給量(12年末138兆円)を、2年後には2倍の270兆円にするとか、長期国債の購入量も2年で100兆円の2倍にし、さらに日銀の国債保有量も年々50兆円ずつも増やして行くと言うのです。
我々はなぜ、何のために、黒田がこんな数字まで具体的に出して、金融緩和をやると言うのかを、その本当の意味を明らかにしなくてはならないと考えます。
これが「無制限の」金融緩和である、などとどうして言えるのでしょうか、一体「無制限」という言葉をどんな意味で使っているというのでしょうか。少しずつ小出しにしても成果がないから、いっぺんにすべて出すといいます、とするなら、黒田にとってこんなものが「無制限の」金融緩和だということでしょうが一体どこが、なぜ「無制限の」金融緩和かを彼は決して説明することはできないでしょう。
「市場」をびっくり仰天させるためだ、そして「市場」が(資本市場つまり株式市場のことでしかなく、労働者の関知しない「市場」でしかありませんが)、こんなこけおどしや見せ掛け、張ったりや虚勢に「期待感」をつのらせれば景気がよくなると信じるのですから、黒田やリフレ派ほどの能天気のばか者たちはいないと結論するしかありません。
金融緩和が景気回復のために無力であること、それはすでに完全に明らかになっているのです、というのは、そんなカネは経済や流通の中に出て行かなくて──というのは、経済活動がそれを必要としておらず、銀行も企業もカネあまりで手を焼いているほどで、銀行などはしかたなく国債を積み増ししているような有様ですから──、景気回復や経済成長などのために役立っていないからです。カネを必要としていない企業ばかりだというのに、カネをバラまけば景気がよくなるといったばか話を信じろということは、リフレ派は、日本人はみなあほだと思い込んでいるようですが、少なくとも労働者はそんなことはないし、あるはずもないのです。
リフレ派も自分たちの理屈や政策にすでに自信をなくしているのか、金融緩和だけではだめだ、これから具体化され、実行される「成長政策」と結び付け、“コラボ”するなら、うまく行くなどと言うのですが、それくらいなら、まず「成長政策」をさっさとやればいいのであって、それで景気が戻って来るなら、金利ゼロなら借りたい人はいくらでもいるでしょうから、金融の量的緩和などという政策は全く必要ないのです。まるで逆立ちした政策をして、それで日本がみんな幸せになる、などとはまるで新興宗教のほら話、そんなレベルの話です。
とするなら、何のために「無制限な」量的緩和だなどと叫んで、14年度で国債購入量を190兆円にも増やすと言うのでしょうか。これは、白川日銀の160兆円から30兆円増、つまり毎月13兆円ではなく、16兆円購入するということです。
こうした数字には実際には深い意味が隠されているのです。そもそも白川日銀の計画したように、160兆円もの国債を買っても、日銀保有の国債は10兆円しか増えないのです、というのは、150兆円もの償還期の来る国債があって、日銀はその分、差し引かなくてはならないからです。13年度の保有国債は35兆円増えるのですが、14年度は10兆円しか増えない、つまり日銀券もそれだけしか出て行かないということです。
カネをバラまいて景気を良くしようという戦略にとっては致命的ですが、しかし黒田日銀の本当の意図はそんなところにはないのです。10兆円増えようと、35兆円増えようと、銀行に流れるだけで、企業や“実体経済”とは無関係で、日銀への銀行預金(むしろ預け金)が大きくなるだけですから、どうでもいいのです。
しかし政府にとっては日銀の買う国債が、実質35兆円から10兆円に減り、さらにこれからも日銀保有の国債の償却額が増えて行くなら(つまり、ますます日銀の実質的購入額が縮小して行きかねないなら)、それはゆゆしき問題です。というのは、このことは、政府の国債発行が、つまり借金財政政策が行き詰まり、破綻しかねないということだからです。日銀が国債を「消化」できないとなると、それはつまり資本市場に国債があふれ、国債は売れなくなる、価格が崩落する、利子率が上昇する──つまり国家破産が現実のものとなり、ヨーロッパのギリシャのような危機が現実のものとなって現われてくる──ということになって行かざるを得ないのです。国債の値崩れが起これば、国債を大量に所有する銀行も、国もたちまち深刻な危機に直面します。
だからこそ、日銀は少なくとも安倍政権が50兆円の借金財政を継続するなら、それに「ファイナンス」する(金融的に穴埋めする)金融政策をやらざるをえないのです──安倍政権のために、それを救済するために──、そして年々日銀の国債保有を10兆円ではなく、財政赤字分の国債を買うには、14年度の国債購入額を160兆円から190兆円にする必要があるのです。
結論はこうです。黒田が14年度に160兆円ではなく、190兆円を購入し、また日銀の国債保有額を10兆円ではなく50兆円も増やすというのは、まさに安倍の財政赤字への「ファイナンス」であり、それ以外ではない、それこそが黒田日銀の本当の意味である、ということです。つまり黒田日銀の客観的にやろうとしていること、やっていることは、安倍政権の破綻していく財政政策を日銀がいくらでもカネを出し、あるいは実質的な「国債の銀行引き受け」政策を強行することでカバーし、救済するということでしかないのです。
長期国債を買うなら、国債の償却期限も伸びるから、こうした困難も先送りできますが、それはただ先送りし、困難や矛盾をそのままに、途方もない財政膨張をさらに続けていくことができるだろう、ということだけのことです。
そして名前通りに、腹も顔も黒い、ギョロ目の黒田は、まさに「財政ファイナンス」以外ではないような、露骨な日銀政策を、決して「財政ファイナンスではない」と大声で誓うのですから──口先だけなら、何とでも言えるとばかり──、これ以上の鉄面皮な恥知らずはいません。
黒田日銀の新政策の内容は、結局、国債を「無制限に」買いあさり、その高値を維持すること、そのことによって安倍政権の放漫財政を支持し、支援することでしかありません。景気回復をもたらすなどウソのカッパであって、ただ安倍が公共事業などにカネをバラまき、一時的な景気回復を演出しながら、参院選で建設業界などを安倍自民党の“実戦部隊”として、フル動員で動かそうと企んでいる、その手助けをやろうというわけです。
今や浜田や岩田や片岡や若田部等々のリフレ派の腐れインテリたちが、その珍奇な理屈が破産したのは明白です、というのは、日銀の金融緩和政策はどんなにやってもデフレ克服ができず、結局はそれが安倍政権の「赤字財政ファイナンス」に堕したのですから。彼らの理論の無力さと反動性と許しがたい有害性は全面的にさらけ出されました、あるいは今後ますます明らかになっていくでしょう。彼らはこれまで強調してきた、財政バラまきや公共事業は止めるべきだ、増税(消費増税)も需要や消費の減退だから景気回復にとって逆効果だ、金融緩和こそがすべてだと言ってきた立場を実質上放棄し、そのことについては沈黙しつつ、“アベノミクス”などという“理論”の名にさえ値しない、場あたりの無責任政治に取り込まれ、安倍政権のたいこもちに堕したのです。リフレ派経済学の敗北以外ではありません。
リフレ派の空論はただ日和見主義的国家主義者の政権(安倍政権)の放漫財政に手を貸すことによってのみ、そしてそんな形でインフレを招き寄せることによってのみ、いくらかの“成功”の見せ掛けくらいは得られるかもしれませんが、そんな“成功”こそ労働者の軽蔑し、忌み嫌うところです。
労働者、勤労者はいまや安倍政権打倒のスローガンと共に、安倍政権の単なる応援部隊に堕した黒田日銀打倒のスローガンも高く、断固として掲げなくてはならない時とあいなったのです。
非本質的な問題で大騒ぎ
衆院選挙での違憲判決
2013年3月29日
司法が、選挙制度で、不公平、不平等だと「政治」の世界を批判し、違憲判決などを連発しています。そしてプチブルインテリたちは、いくつかの外国では、全ての個人が厳格に平等になるように区割りが行われているとか言って、こうした司法の動きを美化しています。
もちろん政治家たちが自党や自分に有利か損かだけで選挙制度を決めたり、区割りを勝手にしたりするのは腹が立ち、区割りの仕方など機械的な基準を決めるのはいいとしても、そんな修正がたとえば小選挙区制の持っている、極端な不公平、不平等性を変えるものではありません。
司法は些細で、非本質的な問題で大騒ぎすることによって、ブルジョア選挙制度の根底的な矛盾やインチキや限界から労働者の目をそらそうとしているに過ぎません。
ブルジョア社会の初期の時代、そこへの移行の過程では、身分制選挙とか、収入による選挙とかいくらでもありましたが(例えば貴族からは100人に1人、ブルジョア(金持ち)からは千人に一人、農民や職人などからは1万人に1人、代表が出て議会を構成する等々)、それは歴史的に評価されるべきであって、個々人が平等の一票であり、同等であるという観念も同様であって、歴史的な観念の一つ――このブルジョア民主主義の体制にとっての、それに適応した――でしかありません。
中途半端な白川の“闘い”終る
徹底した闘いは労働者の手で
2013年3月22日
日銀の総裁が白川から黒田に代わり、「新しい」、質的に違った金融緩和政策が実行されると言うことですが、労働者にとって期待するものは何もありません。金融緩和だと言っても、これまでにさんざん行われてきて、効果などほとんどないことが明らかになっているからです。
白川は自分は一生懸命やってきて、基本的に正しかったなどと言いつくろっていますが、その「正しさ」と言ったものは、政治の圧力に屈服して「制限なしの」金融緩和を推し進めながら、ただその「危険性」や「デメリット」や「あやうさ」等々に警告を発し続けてきたと言うだけのことですから、まるで無責任です。
基本的に安倍政権の政策に責任を負わなくてはなりません、というより、安倍に先だって金融緩和を強力に実行したという点では安倍以上に犯罪的だと言うことです。もし金融緩和の危うさや有害性を自覚していたというなら、その政策を先頭に立って実行するというのは犯罪的です。
デメリットを知りながら、それをどんどん実行し、単に警告を発し、明らかにしてきただけだというなら、デメリットと実際的に闘うことはしなかったというなら、そんな口先だけのアナウンスは無意味です。むしろ彼は自分が先頭に立って強行した金融緩和策の結果――物価高騰や資産バブルや、さらに進行する財政の放漫や破綻、そして政治の退廃や腐敗の深化等々――についても責任を負わなくてはなりません。
自分は警告を発し続けたなどといっても、そんなものは単なる自己満足か、責任逃れに過ぎません。「通貨の番人」としての役割をはたすという、その立場を事実上投げ捨て、裏切った責任を彼は負うべきであって、これで総裁としての任務は終えた、後はバードウォッチングでもして「ゆっくりしたい」などというのは許されることではありません。
所詮は無責任な一介の「役人」と言うことでしょうか。こうした連中が、安倍政権の“間違った”政策と真剣に闘い、それを粉砕することは決してないし、あり得ないのです。
日銀総裁の“役人”としての闘いは、中途半端でつまらないものとして終わったのです、その後の徹底的な闘いは労働者が受け継ぎ、深めていくしかありません。
そろそろ本性発揮?
安倍「日本独立式典」企む
2013年3月15日
アベノミクスで散々に浮かれた安倍は、今やその本音をちらつかせ初め、参院選までの「安全運転」も怪しげになってきました。
11日には国会で、憲法改悪や国連軍の「集団安全保障」に軍事的に参加する当然の必要性を“格調高く”訴えたし、また慰安婦問題ではアメリカに謝罪したことはないと答弁し、東京裁判は「勝者による断罪」だといった持論を公然と語るまでになっています。また4月28日には、政府主催で「日本独立、主権回復」の祝典を開くといった張り切りようです。さらに武器輸出3原則もたちまち空洞化させて、「例外だ」などと理由にならない、ご都合主義の理屈を付けて、F35の部品の共同生産も公然と認めました。また、元自民党、現維新の会の、反動にして無節操そのものの中山成彬の、“自虐的な”歴史教科書の“是正”や慰安婦問題などに関して、「教育再生」の決意を迫る翼賛質問に、わが意を得たりと相好を崩している始末です。
52年4月28日、つまりサンフランシスコ条約調印が発行して、日本が「主権を回復」したことは確かですが、安倍ら国家主義者の連中が、それを「日本が独立」を勝ち取ったかに言うのは笑止千万でしかありません。そもそも敗戦国は植民地国とは同じではなく、したがって一時保留されていた「主権を回復」──まさに「回復」であって、米国からの「独立」ではありません──しただけであって、失ってもいなかった「独立」を取り戻すといったこともないし、あり得ないのです。安倍は民主党政権が壊してしまった、アメリカとの同盟関係を再び強固に回復したなどといいながら、東京裁判とその精神を否定し、慰安婦問題でもアメリカに盾をつき、さらにはアメリカが「回復」してくれた「主権」にも、アメリカの従属的体制からの「独立」だなどと意気がり、息巻いて、そんな思い上がった、いやしい根性によって、アメリカの「心証」を決定的に悪くし、せっかく「回復」したという日米同盟をまた台無しにし、それを民主党政権と同様に動揺させたとしても、それは安倍政権の自業自得というもので、我々の知ったことではありません。
そもそも日本が太平洋戦争でアメリカに決定的に打ち破られ、占領統治されるようになったのは、天皇制軍部や安倍の祖父(岸信介)もまた参加した軍国主義内閣が、無謀で、反動的な戦争をしたからであって、その事実を棚にあげて、まるで占領統治したアメリカが悪いかに言って──むしろ大恩があったと言うべきでしょう、というのは、アメリカによって徹底的に打倒され、軍事権力も解体され、国内統治の力を完全に失い、へたをすれば天皇制を一掃する革命や労働者支配の革命さえもあり得る状況で、アメリカ軍によってのみ反動勢力の温存と、ブルジョア支配が救われ、維持されたのだからです。そしてまた他方では、アメリカの占領統治の時代にこそ、日本の戦後体制の基礎が、つまり“民主主義”や“自由主義”を根底とする資本の支配体制が生まれ、安定したものになったからであって、その占領支配の体制は、労働者や勤労者にとっては、1945年までの安倍ら反動派のような天皇制軍国主義の専制政治よりもはるかに好ましいものだったからです。
安倍はまるで戦後の体制が52年の「独立」によってもたらされたかに言うのですが、実際には反対であって、52年以降、自民党などが権力を握るようになるにつれて、米軍占領時代に形作られた敗戦後の新しい体制――“民主主義”や“平和主義”を根底とする――の変質(反動的な“復古”)や空洞化が進んできたのであり、安倍政権によって、そんな国家が否定され、止揚されようとしているのです。
安倍政権による「独立祝典」などというものはピントはずれのばかげた勘違いの産物にしかすぎません。祝うなら、天皇制軍国主義が粉砕、平和が、そして民主主義も可能となった、1945年の8月15日にこそすべきでしょう。何か「占領体制」が、国民が抑圧された、「苦難の歴史」の時代であったかに言いはやしていますが──安倍ら反動やブルジョアら支配者たちにとってはそうだったかもしれませんが──、労働者、勤労者にとっては──その子供たちにとっても──かつてない民主主義や自由を満喫できた時代であって、今の安倍政権のもとでの日本よりもはるかに明るく、伸び伸びとしていた時代でした(これはその時代を生きた本人たちが、誓って言うのですから間違いありません)。
安倍の「主権回復の日」の祝典に沖縄県民が反発するのも当然です、というのは、沖縄県民は、安倍の言うところの、独立したはずの「祖国に復帰」しても、どこにもその恩恵も、メリットもなく、アメリカの基地はいつまでも居座り、また植民地国家そのままの「治外法権」的な関係さえ残っているからです。それなのに、自民党政権も民主党も、そんな状態に放置してきたのですから、県民の怒りが噴出して当然です。米国に対して、「独立」した国家だと言うなら、アメリカの言うがままに奴隷的に追随し、屈従していて――自分から、アメリカとは「国柄」も、「伝統も文化」も違うと言いながら、です――、今さら「独立」の式典も何もありません、そんなことをする前に、毅然として日米安保条約や地位協定を改めるべきなのです。安倍のピエロ的な「独立式典」など、労働者にとっては、安倍の矮小愚劣を暴露するだけの、笑止千万の茶番でしかありません。
「聖域」外してTPP参加
安倍自民党の動揺と二股政治
2013年3月9日
安倍がTPP参加に踏み切りまたが、しかしその踏み切り方は歯切れのいいものではなく、農業保護主義の枠内のものであって、その意味では、これまでの自民党政治の延長にすぎません。
これまでのいくつかの日本が結んだFTA(自由貿易協定)と違うのは、一方ではアメリカとの同盟のためという政治的な契機が強いことであり、他方では、それが日本が加わると世界の経済規模の3割をも占める巨大なものであり、また建前として、より厳格な自由貿易主義を謳っていることです。自民党の内部にも、農業従事者をバックにかなり強力に抵抗する部分もあって、今後もスムーズに参加が実現するか、まだ不確定な要素もあります。
とにかくブルジョア主流の期待に答えるためにも、「決められる」政治を誇示するためにも、TPPに突進するしかありませんが、しかしより広域のFTAだといってみても、世界的な規模での自由貿易の推進の、つまりWTOの試みの抵抗勢力となり、その足手纏いになってきた自民党政権が、簡単にTPPの自由貿易主義に乗れるかどうか一つの見物です。
「おのおのの国にこれだけは譲れないという、認められないところがある、(それは認め合う)」などと言っている限り、安倍の(自民党の)動揺と二股は続くでしょう。
農業の生産関係の革命的な変革が必要ですが、今の自民党政権に、それをやれる実力も体質も意志も何もないと言っていいすぎではありません。TPPのために農業の「強化策」だと言いながら、その内容が耕作放棄地を解消することがカギを握っているということでは余りに矮小で、本気度が見えません。
今の小規模な“家族経営”の変革をサボりながら、農業関税をいくらかでも──つまりアメリカを満足させ、納得させ得るくらい──下げることも(778%ものコメや、360%のバターや328%の砂糖はもちろん、38・5%の牛肉さえ)出来そうにありません。
これまで日本が結んだFTAでは、全体の品目の10%ほどの840品の農業生産物で関税が維持されているが、もちろんTPPでは到底そんな勝手きままは通用しないだろうから、安倍政権が立ち往生する可能性もないこともないでしょう。
経済政策でも背伸びをし、半分はったりで──というのは、景気回復の「期待感」が高まるのが、景気回復の決定的に重要な要因だと言うのですから──決然たる態度を装っていますが、TPPも同じように押し通そうというでしょうが、そんな安倍の政治が、まさに実績に結び付かず、「期待感」がしぼんだ瞬間に「高転びに転ぶ」のは明らかでしょう。願わくば、そんな時が参院選の前に来てほしいものです。
「頭隠して尻隠さず」の安倍外交
「竹島の日」式典へ政務官派遣を決定
2013年2月21日
安倍は島根県が開催する「竹島の日」記念式典に、自分自身は出ないが、島尻内閣府政務官を派遣するといいます。
日韓関係を大切にして自分は行かないというのですが、他方では、反動派の顔色をうかがって政務官を送るというのですから、韓国の反発と反感が無くなることも、いくらかでも後退することもないし、あり得ません。むしろこんないやらしい、こそくな安倍のやり方に嫌悪さえ募らせるでしょう。
つまり「頭隠して尻隠さず」といった安倍政治はすでにジレンマに陥り、そこから抜け出す事ができなくなりつつあるのです。
アジアを重視すると言って、韓国などに急いで特使などを送りましたが、慰安婦問題を持ち出され、けんもほろろに遇されました。本当に韓国と協調したいというなら、まず慰安婦問題でいくらかでも賢明で公正な立場を表明すればいいのですが、安倍はそんなことは決してできないのです。
誠意も真実さもない、その場かぎりの、ご都合主義の二俣政治もまた、アジアの諸国に見透かされるなら、安倍外交もまたたちまち行き詰まるしかないのです。
国内でも世界でも、安倍政治のごまかしの不誠実で半デマゴギー的な本性が暴露されて行くなら、安倍政権の幻想の支持率も急低落するしかありません。
一時の高い支持率を保証した「アベノミクス」も、円安の弊害が目立ち、デフレも依然としてぐずぐず続き、また円安とは日本の労働者の、そして日本そのものの「安売り」であることが明らかになって行くにつれ、その愚昧さが目立って来て、たちまち見捨てられるのも一つの必然です。
米国に北朝鮮の核実験を批判する資格なし
外国の基地攻撃を合憲かに主張する安倍を許すな!
2013年2月15日
北朝鮮が3回目の核実験を行ったからといって、“国際世論”は大騒ぎです。しかしたかが極東の弱小国が核実験をしたからといって大騒ぎするようなことはほとんどありません。これまでも、アメリカがネバダ州の砂漠で1945年核実験を行って以来、世界中ですでに2千回以上も行われているのです。
しかも大騒ぎしているのが、アメリカなど“超”大国ですが、アメリカはこれまで千回以上もやっており、自ら膨大な核兵器で歯まで武装していながら、他国に核兵器を持つな、実験もするな、などといえる道理はありません。
アメリカはソ連(当時)などと一緒になって、核拡散防止条約を結んだりして、強大国の核兵器独占体制を、つまり世界の覇権体制、帝国主義体制を維持しようと策動してきました。またすべての核実験を禁止する包括的核実験禁止条約を国連で採択させましたが、中国と共に自国では批准しないで未発効のままにしています。自分は核実験をやらないと誓うことさえ拒否しながら、弱小国には──もちろん北朝鮮はアメリカなどが主導する、これらの国際条約には参加せず、あるいは脱退していますが──、核実験は許さないというのですから矛盾もいいところです。
また核実験はだめだといいながら、大気中に放射性物質を飛散させないからと、地下実験は野放しのままです。さらにアメリカは核爆発を伴わないという理屈で、臨界前核実験を誰はばかることなく実行したり、小型のより性能のいい核兵器などの開発にも熱心です。
こんな態度で、弱小国に核保有は許さない、核実験をするな、などといっても通用するはずもなく、世界中で核を保有する国家、そしてそのために実験を繰り返す国家は増え続けるばかりですが、当然の結果にすぎません。
北朝鮮の核が危険だというなら、超大国の核もまた危険なのであって、北朝鮮の核だけを危険だ、危険だと大騒ぎするのは、ただ本当の危険は何かを、超大国による帝国主義や覇権主義が横行することの危険性を、世界中の労働者、勤労者の目からそらせ、真実を認識するのを妨げるだけです。
日本でも、国会では核兵器武装論者の石原や、対外強硬姿勢で権力の強化、維持を企む安倍等によって、まさに“危険な”議論が公然と行なわれていますが、労働者はそんな“危険性”をこそ、しっかり確認し、注視していく必要があります。
安倍は北朝鮮の弾道ミサイル基地への攻撃は「憲法上許される」と語り、「政府は従来、他に手段がない場合に限り、基地攻撃は憲法上の自衛の範囲内に含まれるとしている」などと飛躍した、“危険な”発言を平然とやっています。憲法のどこに、「自衛」のために外国の基地を攻撃することを認めるような文章があり、しかも先制攻撃なども当然だという観念が盛り込まれているというのでしょうか。
彼らは事実上、憲法など無視し、好き勝手をやろうとしているのです、つまり完全に“法治主義”を捨て去っているのです。安倍政権がどこに行き着くかを語って余りあります。
我々は“危険”は単に北朝鮮や中国から来るだけでも、アメリカから来るだけでもなく、あるいはテロリストやテロ国家から来るだけでなく、日本の安倍政権や国家主義者の策動からも来るものであることを確認し、その“危険性”をも断固として明らかにし、強調して行かなくてはなりません。
白川総裁、任期残しての辞任
安倍に対する最後の“抵抗”
2013年2月8日
日銀総裁の白川が、任期終了前に辞任するといいます。満期までにたった20日しかないのですから、満期と同じようなものですが、にもかかわらずあえて「辞任」という形を取ったところに、白川の、安倍に対する、その“金融政策”に対する、最後の抵抗が読み取れないこともありません。
白川は安倍等から、「金融政策に消極的、金融緩和が不十分」などと口を極めて攻撃され続けてきましたが、実際には、10年10月にゼロ金利政策を復活させ、あるいは一貫して金融の量的緩和の政策も拡大して、金融市場に巨額のカネを、日銀券をまさに“ダブダブと”流し込んできました。にもかかわらず、景気回復がはかばかしく進まなかったことこそ、自分の観点が正しく、安倍等の観念が愚昧であることの証拠だと思い、それを論証するために、自分の真意でもない大金融緩和政策をやってきたとも言えなくもありません。
白川は辞めるといいながら、13日から開かれる金融政策決定会議では、追加の金融緩和を見送ると言うのですから、一寸の虫にも五分の魂を見せつけようとしているのかもしれませんが、自分の信念を正面から主張することもせず、またしようともしないで、無原則で、無責任な金融緩和政策を拡大してきた責任を負うべきであって、安倍の圧力に負けたのだといった言い訳は通用しません。
白川の後に安倍らの望む通りの日銀体制が仮に生まれるとしても、それは白川体制と大して違ったものにならないでしょう、というのは、白川体制は実際には安倍のかいらい体制と同じようなものだったからです。
国家機関の一つとして、政治が財政や金融を解体させかねない道に踏み込み、脇の方に突進したとしても、日銀は所詮、それと闘い、粉砕することはできないことが暴露されました。
日銀の抵抗は“ブルジョア的な”抵抗として、当然の挫折に行き着いたということでしかなく、日銀による「通貨価値の安定」とか、「金融や経済安定の最後の支柱」とかいった決まり文句がナンセンスな空語であることも明らかになりました。
安倍は自らの肝煎りの日銀体制を築き、金融の「レジーム・チェンジ」でも何でも強行すればいいのです、そうしたら、今後の金融の解体や麻痺や破綻が訪れたとき、それらが安倍のせいであって、日銀に責任を転嫁することなど決してできないことが暴露されるからです。
日銀を“政治的に”支配し、占領することによって、安倍政権は強化されたのではなく、反対に恐ろしい爆弾を抱えこんだとさえ言えるのです。
“春闘”なる、おしゃべり
「賃上げで景気回復」は労資協調でしかない
2013年2月1日
春闘なるものの名で、資本の勢力とダラ幹との間でおしゃべりが始まっています。連合のダラ幹が「個人消費を拡大するために賃上げが必要で、それがデフレ脱却につながる」と主張すれば、経団連は「企業業績の回復が先だ」と反論する、といった調子です。
そしてここに知ったかぶりの共産党が割って入り、自分たちはずっと昔から、賃上げや雇用拡大で「内需を増やす」ことが、景気回復への「最大のカギ」と言ってきた、ようやくそんな見解が「次第に広がっています」と自慢たらたらです。
他方、自由主義者たち、ケインズ主義者たちも、「アベノミクスは金融緩和と財政出動が柱ですが、それでデフレから脱出できるかどうかは分からない。だが、多くの企業が賃金の底上げ(ベア)をすれば、デフレは確実に終る。賃金があがれば、消費者の財布のひもがゆるくなって需要が増え、物価が上って企業業績も好転。さらなる賃上げが期待できるという好循環が期待できるからです」(1月30日、『朝日』、山田久)などと能天気なことを口にしています。
共産党は自分たちと同じ見解が「広がっている」などと自慢していますが、要するに、共産党が一方で“流行している”自由主義者やケインズ主義者たちの理屈に追随し、繰り返しているだけのことです。
賃上げは好況の結果ではあり得ても、その原因になるはずもないのは、物価上昇が好景気の結果であり得ても、その原因になるはずもないのと同様です。
ブルジョア反動派も、自由主義派もプチブル(共産党)も、みな資本主義の枠内で、資本主義の救済策を見出そうとくだらないこと、非論理的なこと、奇弁を山と言うのですが、そんなものが無力な空論であることがますます明らかになっています。
物価上昇(インフレ)が、まさに物価上昇のゆえに企業にとってますます具合の悪いものになり得ると同様に、賃上げが、つまり賃金の急激な上昇が、企業経営にとっての足かせになり得るのは、まさにそれが不況や恐慌の合図にも、きっかけにもなるし、いくらでもなってきたことからも明らかです。
ケインズ主義にまで思想的に堕落した共産党は、賃金上昇が「需要拡大」になるという一面だけをみて──これはもちろん、流通に属することですが──、生産過程で、資本の搾取にとって大きな障害として現れるという、より重要な契機を、側面を見ようとしないのです、つまり資本主義的生産関係の根底が分かっていないのです。
賃上げによって、資本主義的好況がやってくるなら、どうして労働者は資本の勢力と賃金改善のために真剣に闘う必要があるのでしょうか、賃上げが労働者と資本の勢力の共通の利益だというなら、資本との協調に走り、話し合いにより、いくらでも労働者の生活の改善や地位の上昇を確保できるということになります。
しかし、現実の経験は資本の勢力との協調によっては、労働者の本当の生活の改善など決して勝ち取ることができないことが、長い資本との闘いの中で明らかになってきたのです。
自由主義者やダラ幹や共産党などのたわ言に対する批判を強めて行かなくてはなりません。
金融緩和こそがカギと言いながら
日銀への責任転嫁や財政大膨張策で逃げ口を準備
2013年1月26日
安倍は22日、「デフレ脱却は金融緩和だけでは無理」という白川に、棒を飲ませるように「日銀は責任を持ってやってください」と迫り、周りの空気は凍り付き、そしてこの権力を笠に着た有無を言わさぬ安倍の強引な発言で、2%の物価上昇を「目標」とする方向等々が決まったと、新聞は報道しています。
安倍は一貫して、金融緩和こそデフレ脱却の最重要な、カギとなる政策であると繰り返して来ましたが、まさにその観念を実行に移すことができたというわけで、今後デフレがだらだらと続くなら、その責任はあげて安倍が担わなくてはならないことになり、今後、日銀に責任を転化することなど決してすべきではありません。
しかし実際には、安倍はやはり日銀に責任を転嫁し続けています、というのは、安倍と白川との合意は、「目標」を定めただけで、その「目標」を実現するのはただ日銀のやり方次第、努力次第だ、と逃げているからです。もしデフレ脱却ができなかったとしたら、その責任はやはりあげて日銀にある、というのです。安倍だけに都合のいい、大した「金融のレジーム・チェンジ」があったものです。
そしてさらにもう一つ、安倍は別の逃げ口も準備しているのです。金融緩和こそがカギを握っていると言いながら、安倍政権は他方で、たちまち借金拡大、財政大膨張政策をも必死で追求し始めるのですから、矛盾もはなはだしいのです。
小泉政権は少なくとも財政膨張はしないという“慎ましさ”を保持しようとしたのですが――しただけであって、実際にしたかどうかは別ですが――、安倍は最初から金融緩和こそ最重要とわめきながら、公共事業などに対する大盤振る舞いという、古い自民党政治に回帰するのですからあきれ果てたものです。安倍等は財政膨張が景気回復だけでなく、近づく参議院選挙にも大いに“効果”があると分かっているのです、そのためにも金融緩和だけでなく、財政崩壊の現状などまるで忘れたかに、50兆円をこえるような借金を平気でやるのです。
我々は、財政膨張政策は景気回復に効果がある以上に国家破産を準備し、国家にとってゆゆしき問題となる、だからこそ金融政策でやるのだ──それこそがデフレ克服をもたらすことができる──と言うなら、言って来たなら、その立場に徹底するように安倍政権に要求する権利を持っています。デフレの克服もできず、しかも財政を崩壊させるような安倍の政治を許すことは出来ません。
安倍のやっていること、やろうとしていることはますます場当たりで、支離滅裂なものに、とにかく金融でも財政でもバラまけるだけバラまけばいいのだ、といった“やけくそ政治”に堕しつつあります。カネを「無制限に」バラまくのだから、景気は上昇しても下降することは万が一にもあり得ないだろう、というあてずっぽうが、安倍の唯一の“思想”――願望――なのです。
とするなら、安倍の強がりやうぬぼれや有頂天は一体どこから出て来ているのでしょうか。無知と極端に狭い視野と独断と思いつきに基づく“ユーフォリア”(“euphoria”―「自信過剰と度を超した楽観に基づく強烈な幸福感」・ジーニアス英和大辞典)であって、そんなものが現実の前にたちまち行き詰まり、破綻し、急速に安倍の挫折感と意気消沈と被害妄想と、そして数年前と同様の、責任たる地位からの意気地のない逃走に帰着するのは一つの必然であり、時間の問題でしょう。我々は安倍に対する批判と闘いを強化するのみです。
大阪高校生の自殺と橋下の責任
橋下の“教育政策”や観念に罪あり
2013年1月18日
大阪市立の高校(桜宮高校)のバスケット部の主将が、顧問の体罰のために自ら命を絶つという悲しい事件が起きました。
ところがこの事件に対して、最も大きな責任を負うべき一人である市長の橋下は、自分の責任を棚にあげて、もっぱら教育委員会や学校(校長や教師)らをあげつらい、入試を止めよとか、体育系の教員を総入替えせよと、自らの権限もないことを言いはやし、やらないなら予算を出さない、何なら廃校もあり得ると暴言の限りを尽くしています。
いじめ問題とともに、教師──とりわけ、部活を担当する体育系の教師──による体罰などは、現在の教育の世界のガンみたいなもので、多くの子供たちの心をむしばみ、傷つけ、しばしば不幸に追いやっています。
しかし橋下はすでに大阪府知事、大阪市長と何年も行政のトップの座にありながら、教育現場における体罰の横行という重大問題一つとっても──それがどんなに広く、根深く教育界の中で根を張っているかは、今回の桜宮高校の例でも明らかにされましたが──、何一つ真剣に取り上げることもなく、それを一掃するために何ごともして来ませんでした、というのは、橋下は自ら言っているように(体罰は「あっちゃいけないけど、あり得る。僕だって、実際見てきた」云々)、体罰を一概に否定することはできないという思想にこり固まってきたからです。
彼にとっては、体罰も一つの教育の手段、子供たちに「規範意識」や「道徳観念」を植え付ける──彼によれば、これこそが「教育」の究極の課題であり、最大の目的なのですが──ために、必ずしも否定できない、重要な一手段なのです。暴力や権力によって、そんな意識を一般の人々に、労働者に植え付けるということは、彼が首長として首尾一貫してやってきたことでもあります。
彼は大阪の首長として、教員や公務員に、いくらでも「いじめ」や「体罰」──つまり処分や首切り──をやり、そんなえげつないやり方の見本を示してきたのですから、学校において、権力主義的で、理不尽な教師の横暴な暴力を否定し、一掃しようと努力するはずもないのです。橋下が学校教育の現場における暴力を事実上容認し、はびこらせてきた、張本人の一人であることは明らかです。
安倍政権の「教育行政」を担う安倍の腰巾着(こしぎんちゃく)になり下がった義家政務官も、体罰は「一定ある。目的は何なのかだ。体罰と暴力、あり得る体罰とそうじゃない体罰の線引きが必要」などと言っているのですから、橋下や安倍等が、高校生を死に追いやった今回の──あるいは一般的に──教育現場にはびこる体罰に責任を負っているのは明らかです。ある意味では、彼らの教育思想の根底から、非人間的な“人間観”から、それは出て来ているとも言えます、そんな連中が「教育改革」をわめくのですが、一体どんな「改革」をやるというのでしょうか、できるのでしょうか。全く冗談ではありません、彼らほど「教育改革」に不適切な連中、そんな資格のない連中はいません。
それに橋下は、この間、市長でありながら、こともあろうに維新の会という政党のトップに収まり、すでに何ヵ月も市長の仕事を放り出して、総選挙などに浮かれてきました。首長としてあるまじき、無責任な行為であって、そんなことをしているからこそ市長の仕事がいいかげんになり、その結果として、今回のような事件が起こったと、どうして言えないのでしょうか、その意味でも、今回の体罰による高校生の自殺は橋下市政のもとで「起こるべくして起こった」ものであって、橋下が重大な責任の一端を負っていることは否定されるべくもありません。もちろん橋下が市政に真剣に取り組んでいたというなら、いくらか弁解の余地があるかもしれませんが、そんなことはなかったのですから、橋下にはどんな言い訳もあり得ません。
また橋下は、各学校に競争を強い、子供たちを学校の努力で集まるようにすべく校長や教師は努力せよ、学校の「経営」で成果をあげよ、あげるなら補助金なども供与するが、あげられなければ廃校になって当然と言い続けてきました、そんな中で、“スポーツ”で名をあげること、強いチームを作り、「強豪校」の仲間入りをすることも、まさに「学校経営」の重要な一環となり、そのために、多くの「無理」が、つまり顧問教師等による体罰等々がはびこってきたのであって、こうした面からも、橋下の罪と責任は余りに明らかです。
まさに今回の高校生の自殺は、橋下の「教育改革」のもたらした“成果”とさえ言えるほどです。橋下の「基準」によれば、“スポーツ”で他校に優り、多くの生徒を引き付けた桜宮高校は、まさに橋下の理想であり、橋下の理念を実現した模範校ということなのですが、そんな学校の本当の姿が暴露されたのです。橋下のお粗末で粗雑な教育思想や教育政策の破綻というしかありません。
だからこそ、橋下は自分に責任が来ないように、入試を止めよとか、教員の全員異動だとか、予算の凍結だとか、極端で“過激な”言動をふりまき、自分への責任追及が及んで来ないように必死で策動するのです。
しかし我々は、大阪市で教師の暴力によって高校生が死に追い込まれたことの責任の重大な一部は、橋下にあるのであって、彼はその責任をいさぎよく取るべきであると主張し、橋下を糾弾し、その辞職を要求します。
安倍は“道徳教育”を説く資格があるのか
朝鮮時女性の「従軍慰安婦」の存在を否定
2013年1月12日
安倍は首相としてよみがえり、最初の首相として破綻し、みじめな退陣を余儀なくされた汚名と屈辱を晴らそうと、今やちっぽけなプライドのために、そのためだけに必死になっています(というより、軽薄な“お坊ちゃん”の本性を発揮して“浮かれて”います)。
安倍政権はとにかく参院選までは「安全運転」とバラまき政策でやることを固く決意し、表面だけの、一時だけの「景気回復」を演出するために、「何でもあり」の政策に懸命です。
大きなものでは、「無制限の」金融緩和(通貨のバラまき)と、先祖返りの公共事業を中心とした超財政膨張政策──借金を「財源」とした──、そのごた混ぜであり、細かいものは手あたり次第、数限りなくといっていいのですが、それらすべての政策の行き着く先は、借金財政へのますます大きくなる依存であって、財政と金融の、そして国家や経済の全体の機能麻痺と行き詰まりと破綻以外ありません。
我々は今回は、安倍のデマゴギー同然の「政策」──3年余前の、民主党のマニフェスト政治と大同小異だ──についてではなく、彼の人間性を特別に問題にします、つまり彼は本当に一国の総理大臣にふさわしい人間なのか、彼が果たして「道徳教育」について語りえるような、まともな人間なのか、誰よりも「道徳教育」を必要としているような、やくざ人間ではないのか、ということです。これはもちろん、安倍政治全体の告発の一部ですが、しかし安倍の場合は特殊に重要な意味を持っていると思います。
彼の人間性がどんなに下劣で、最低のものであるかを暴露したのは、1990年代からの「従軍慰安婦」問題でした。
従軍慰安婦問題とは、中学の教科書でも広く取り上げられているもので、東条や岸信介ら天皇制国家主義者たち、軍部ファシストたちが、「15年戦争」当時(1931年から45年にかけて戦われた、アジア太平洋戦争、すなわち日本と米国などとの帝国主義戦争の時代)、日本の植民地国家であり、国民の全体が天皇制軍部とその国家の奴隷ともいえる地位におとしめられていた朝鮮の若い女性を、日本軍の「従軍慰安婦」として、つまり「性奴隷」として東南アジアにまで拡大した広大な戦地に何千、何万人と駆り集め、送りこんだ犯罪行為でしたが、安倍は先頭に立って、そんな事実はなく、したがってそんなことを教科書に載せるのは事実をゆがめるもので、「祖国防衛」のために戦った神聖な日本の戦争と軍隊を卑しめるものだ、「自虐史観」だといきりたって、教科書からそうした記述を一掃しようと策動したのでした。
安倍はそれ以降、一貫して、アジア・太平洋戦争の正当化と美化に全力を傾け、戦後の日本や、その民主主義、平和主義を根底においた憲法を、つまり国家を攻撃し、その「一掃」を叫んで来たのですが、彼のこうした立場の弱み、急所となったのが、朝鮮の若い女性を日本軍隊の従軍慰安婦として動員した事実でした。だから彼はこの問題では、これまでも「人に言えない」ような権力犯罪をいくらでもやってきたのであって、我々は彼が権力に隠れて、権力を悪用して1990年代から00年代にかけて繰り返してきた、卑しい言動をすべて、徹底的に明らかにすべきである、と強調するのです。
例えば安倍は、NHKの慰安婦問題放映には権力を悪用した介入、弾圧をやり、さらにはそんな安倍の悪行を暴露しようとした朝日新聞へ圧力を加え、事実上報道の自由を否定し、あるいは従軍慰安婦問題の教科書掲載を一掃するために、ありとあらゆる悪どい策動にふけってきたのです。
ここでは、彼の卑しい「道徳」の水準を暴露する一例として、教科書掲載を攻撃した安倍の“論理”を暴露しておきますが、これは単なる典型的な一つの例であって、実際にはこうした彼の人間性はいたるところで暴露されており、彼の政治の根底を貫いているといっても決して言い過ぎではありません。彼は教科書が朝鮮の若い女性が「性奴隷」として、つまり従軍慰安婦として駆り出されたという厳然たる事実について、次のような理屈で反対したのでした。彼はこの問題を一般的な売春といった問題と区別もせず、そして売春は悪いかもしれないが(と、安倍が考えていたとさえ思えないのですが)、そんなことを中学生に教科書で教えることはないのだと、次のような下品な、まさに安倍の本性を暴露するような理屈を並べています。
「やはり小学校、中学校においては記念碑的歴史で、立派なことばっかりというわけではないんですけれども、なるべく素直に、先ほどお父さんに対する愛と言ってましたけれども、お父さんはこういう立派なことをやったなという、その段階での感受性に対してはそういう教育をする。で、多少、人間というものはそういうものじゃないかというのがわかってきた段階で、実は親父は外で女もいたんだというのがわかってくる(笑い──これは当時、安倍等が主催した教科書問題学習会に参加していた、自民党の反動派議員たちのげびた「笑い」である。語るに落ちたというしかない──引用者)。最初から外に女がいたということがわかってくると、女がいた、こいつはオレの親父じゃないと、そういうふうに思っちゃったり、親父を責めたりするわけですね。それじゃいけないわけでしょ、お父さんはこういうことをやっていると。で、だんだん大人になってきて、人間というのも複雑なもんだということがわかった段階で、親父もこういうことをやっているとわかったほうが、私は別に自分の経験で言ったわけじゃありませんけど(笑い)、いいのかという気がするんですよね。どうなんでしょう、そこは」(「歴史教科書への疑問」360頁)。
これが安倍の従軍慰安婦問題に対する認識の程度であり、また従軍慰安婦についての言及が中学の教科書に載ったことに対する、安倍の反対の論拠なのです。余りにひどいだけでなく、安倍の人間性が最低のものであり、とうていまともな人間といえるようなものでないことは一目瞭然です。
従軍慰安婦問題を一般的な「売春」と同列に考えることほど問題の本質を理解しないことはないのですが、安倍はここでは「売春」はとにかく悪いという形で、従軍慰安婦を否定するかの発言をして、最初から矛盾してしまっています(天皇制軍部はそんな悪徳を軍隊で公然と行っていたことを認めているのですから)。
そして彼は、そんな悪徳は「微妙な年齢」であり、セックスに特別の興味を抱くような中学生に教えるべきではないというのですが、従軍慰安婦の問題が単にセックスの問題ではない(売春の問題などといった次元の問題ではない)ということも理解できず、下品な発想から、下品な発言をしているだけです。
そして青少年には「売春」といった問題は、親父の権威に傷をつけるから教えるべきではない、もっと大人になってから教えればいいことだというのですから、何を言いたいのか、まるでわかりません。「売春」が悪いというなら、そんな「教育」をなぜ思春期の青少年にやって悪いのか、むしろそうするのが“正しい”教育ではないのか、そもそも安倍は「売春」とは否定されるべきものでないのだという、結構な「道徳」に立っているとしか思われないのであり、そんな通俗的というか、俗悪というか、下等な「道徳」に立って、従軍慰安婦問題を論じたり、あるいは「道徳教育」について語ったり、「教育改革」をやるというのですから、そんなものがろくなものでなく、またろくなものにならないことは最初から明らかです。
こうした安倍発言については、批判を書こうとすればいくらでも書けますが「紙面」がありません。しかし読者の皆さんも、ただこんな発言を一読しただけで、安倍といった人間がどんなに下品、下劣な人間であるかをたちどころに確認できると思います。こんな人間が日本国家の首相として存在していることは日本の恥であるばかりでなく、日本の、世界の労働者、勤労者にとってわざわいのもとでしかありません。
今こそ、安倍の「長期政権」の策動を断固として粉砕して行こうではありませんか!
安倍の「長期政権」策動を許すな!
マルクス主義同志会に結集して共に闘おう!
2013年1月4日
明けましておめでとうございます。
今年は最低、最悪の安倍自民党政権との断固たる、根源的な闘いの年となるのは確実です。
夏の参議院選挙まではまさに決戦ですが、仮にそこで安倍自民党が単独で過半数を超えなくても、安倍を助ける、あれこれの政党──公明に始まり、維新の会やみんなの党、そして民主党さえも──にこと欠かないでしょうから、この政権は民主党の3つの政権ほどに簡単には崩壊したり、退陣したりする可能性は小さいでしょう。
しかし他方では、この政権のえげつなさ、品性の欠如、軽薄さ、それに反動性は、その致命的な欠陥であり、労働者や若者の闘いが高揚せざるをえない必然性も秘めています。
いずれにせよ、資本主義の矛盾の激化や行き詰まりもあいまって、階級闘争、政治闘争の発展する時代が訪れようとしています。
我々は安倍自民党政権に対する断固たる批判を貫徹し、闘いのスローガンや方向性を明らかにし、その先頭に立って行く決意です。意識ある労働者のみなさんがマルクス主義同志会に結集され、共に闘われることを呼びかけます。
“第二次”安倍反動内閣の誕生
労働者の闘いで打倒しよう!
2012年12月28日
12月26日、“第二次”安倍内閣が発足しました。稲田朋美や菅義偉や下村博文らを先頭に──「要所」に配し──、新藤、古屋、山本など、安倍と「政治思想」──「戦後体制の一掃」、1945年の敗戦前の体制への復帰、つまり天皇制国家主義、軍国主義を叫び、日本の過去の歴史の改ざんさえも辞さず、「アメリカに押しつけられた」憲法を改定して、民主主義、平和主義の国家体制を、したがってまたそうした理念を根底とする教育も否定し、転覆する等々──を同じくする、政治ゴロのような連中、あるいは安倍にすり寄る連中が閣僚の過半を占めようという、戦後かってないような反動内閣で、まさに日本の歴史を大きく「あらぬ方向」にそらせて行く出発点になりかねない政権です。
そして金融の“超緩和”をわめく安倍と、財政の“超膨張”も辞さない──いまさら借金のことなどとやかく言うな、そんなものはもうどうにもできないと開き直ったかの──麻生という、二人のバラまき政治家が協力して“経済政策”をろう断するというのですから、経済はもちろん、外交でも政治でも社会保障でも教育でも、混乱と矛盾が広がり、無責任と無政府主義がはびこる中で行き詰まり、解体して行き、軍国主義や専制支配への衝動だけが大きくなりかねません。
金融の超緩和のなかで、これ以上、どんな「無制限の」金融緩和をやっても糠に釘であるのは、財政収入に占める借金が50%ほどになり、事実上破産している国家が、さらに借金膨張財政をやるなら、そんな国家と経済が持つはずもないということ、まさにそれゆえに、安倍内閣による「経済再生」とか「強い経済」とかが幻想に終わることほど確かで、明らかなことはありません。
谷垣や林や石原も取り入れたから「お仲間内閣」ではない、などと安倍は言っていますが、こんな連中は体よく利用し、こき使おうということで、安倍内閣の反動性と破廉恥な本性を隠し、ごまかすためのカモフラージュみたいなものです。
来年夏の参院選で自民党を勝利させ、安倍政権を「安定化」させてはなりません。労働者の闘いを発展させ、それを阻止して行く必要があります。民主党や自民党という、救いようもなく腐敗し、反動化していくブルジョア政権に対する労働者や勤労者の総反乱のときは、客観的に、疑いもなく急速に近づいています。労働者、勤労者のみなさん!マルクス主義同志会に結集して共に闘いましょう!
総選挙の結果を踏まえての同志会アッピール
労働者の政治闘争を組織し、貫徹しよう!
2012年12月20日
衆院選で自民党が大勝し、最悪の政権、安倍政権が成立しようとしています。我々はその必然性を明らかにし、またその勝利を保障した諸契機を明らかにすると共に、現在の情勢をいかに捕らえ、いかに闘って行くべきかを明らかにしたいと思います。
実際に、今回の総選挙は労働者、勤労者にとって白けたものでしかなく、その結果がろくなものにならないのは最初から明らかでした。労働者、勤労者が積極的に支持し、応援して勝利をもたらしたい政党、自分たちの政党はなく、ただ醜悪で、デマゴギーや嘘ばかり振りまくブルジョア政党、プチブル政党──いずれも等しく反動的な──のだまし合いと権謀術数の世界でしかなかったからです。
結果はひどいものでした。前回よりも2000万票も減らした民主党が大敗し、同様に200万票減らした自民党が大勝したのですが、この奇妙な数字の関係自体が、今回の総選挙のすべてを語っているといって言い過ぎではありません。労働者、勤労者、そして国民全体から支持された政党がではなく、より少なく嫌われた政党が大勝したにすぎないというのですから、ばかげた話、あきれた話であって、国民全体が信頼し、支持して政権を任せたいと積極的に思うような政党は一つもなく、白けきっていたということを教えているのです。国民全体は自民党に政権を任せたのですが、嫌々ながら、不信感でこり固まりながら、しかたなく、渋々と──というのは、民主党など金輪際いやで、もはや一日と言えども政権の座にいてもらいたくなかったから、そして派手に登場した「第三極」、つまり橋下とか嘉田といった連中も、石原とか小沢とか言う既成の汚い政治家と結び、出現した最初のときから、権謀術数に明け暮れるだけの、うさん臭い連中であることが明白になったから──、不機嫌でにがい顔をしつつ、自民党に投票するしかなかったのです。
実際、自民党を尻押しして微風が吹くどころか、「風」など全く吹かない「無風選挙」であったことは自民党の連中でさえ口を揃えて認めざるを得なかったのです、それなのに自民党は大勝したのです。いかに汚い不正選挙制度に助けられたとは言え、いくらかでもまともな政党がいれば決して生じないような結果でした。
民主党の政治について、もはや多くを語る必要はないと思いますが──我々はすでに三年以上、この党を徹底的に批判し、暴露してきました──、今回の総選挙の唯一の内容は、国民の全体は民主党への「懲罰」です、いやそうではなく、むしろ民主党を決定的に「見捨てた」ということです。もはや民主党は完璧に死んだのであって、生き返り、蘇生するといったことはないでしょう(マスコミの中には、そんなことを期待する連中もいますが)。
そして民主党政治に代わり、その後を襲って台頭して来たのが、安倍自民党であり、また石原、橋下の“やくざ”反動勢力、ファシズム勢力に容易に転化して行きかねないような危険な勢力でした。民主党政治の反動として、国家主義勢力、ナショナリズム勢力の急激な登場は不可避でした。
民主党のいつわりの、口先だけの“改革”政治の三年間は、最悪の結果を招来し、そこにたどりつきました。我々はすでに三年前、民主党が308議席をとって大勝したときから、民主党の勝利は空っぽの勝利、幻想の勝利であって、この空っぽの権力はすぐに自壊するしかなく、そして労働者が民主党を乗り越えて自らの階級的闘いを深め、推し進めることができなければ、民主党の支配はその反動(リバウンド)として、自民党政権に、一層軍国主義的で、危険な政治を追求する勢力の勝利をもたらしかねないと強調して来ましたが、労働者の闘いが共産党などの日和見主義もあって、後退し、ますます解体していく中で、実際に、一層の反動的勢力、安倍等の“天皇制”軍国主義の信奉者の権力へと帰着したのです。労働者、勤労者は安倍自民党政権を打ち破り、打倒して、自らの闘いの道を切り開いて行くことができるでしょうか、それともますます反動派、国家主義派の専制のもとに屈従して行くのでしょうか、まさに階級的闘いの決定的な岐路に、正念場にさしかかってきたといえるのです。
実際、共産党や市民主義者の闘いは、民主党政権に追随するだけで、結局、反動派の権力掌握を脇から助けたも同然でした。共産党などは気楽に、口先だけで反核を叫ぶだけで、そしてそんな空騒ぎをして行けば選挙で勝てると俗物にふさわしい打算をはじいて、安倍自民党の登場といった、あるいは反動的でファッショ的である、維新の会などの台頭の危機に全く無頓着、無関心であって、実際には、それに反対する、どんな真剣な闘いも組織して来ませんでした。そんな中で、安倍が勝利し、「第三極」が急速に影響力を拡大したし、することができたのです。
実際、三年前に国民から、その腐敗のゆえに見放された自民党が、その実態は何ら変わらないままに、あるいは一層悪くなっているのに、またまた政権に復帰し、三年前までの政治を、否、一層悪質で、反動的で、軍国主義的な政治、国民の総奴隷化に行き着きかねないような政治を再現しようというのに、そんな政党しか国民は選ぶしかなかったのです。他のすべての政党が、どんなにひどい政党であるかを暴露して余りあります。→アッピール全文はこちら
天皇制軍国主義の押しつけを許すな!
安倍自民党の反動的策動に反撃を!
2012年12月5日
今安倍自民党は憲法改正などを通じて、国民に「規範意識」を持たせるなどと言って、ありふれた、毒にも薬にもならない道徳律を持ち出していますが、安倍が盛んに国家とか日本の文化や歴史や伝統などとわめいていることからも明らかなように、尽きるところは、再び“天皇制軍国主義”を国民に押しつけ、それでもって国民を統合しようということでしかありません。
彼らは戦後の日本が個人主義や自由主義によって支配されて来て、「規範意識」を無くしたからこそ、社会が退廃し、腐ってきたと叫び、天皇制軍国主義を対置するのですが、すでに破綻した個人主義や自由主義はそれに対抗できず、事実上、闘わずして──闘うことができなくて──敗退しつつあります、すなわち市民主義とか共産党の政治勢力や朝日や毎日に巣食う腐敗し、転向しつつあるマスコミ・インテリらです。
マスコミ・インテリについ言えば、その急激な腐敗と後退ぶりは、一九三〇年代の彼らの転向や軍部勢力への屈服さえ思わせます。そして市民主義と共産党が違うのは根本ではなく、根底を同じにしつつ、市民主義者が組織などを徹底して嫌うプチブル個人主義であるのに対して、共産党が個人主義を官僚主義──共産党という党、つまり“スターリン主義”──と結び付け、それによって自らの個人主義を隠そうとしているプチブルであるという点で区別されるだけであって、醜悪である点では似たようなものです。
そして今では国家や企業や政治や教育においても、つまり社会の全体において個人主義や自由主義は退廃し、破綻してしまい、その“すきま”をついて、安倍や石原や橋下らがでしゃばってきたのです。
彼らの目指すものが、1945年までの日本、天皇制軍国主義、軍部ファシズムが支配したのと同じ日本であるのは、彼らが帝国主義、軍国主義の当時の日本とその歴史を正当化し、ほめたたえ、汚辱と恥ずべき歴史と現実を、正義と光輝の時代として描こうとしていることからも明らかです。
安倍がかつて慰安婦問題でどんな発言を繰り返してきたか、NHK放送番組改変問題でどんなに卑しい、やくざのような行動に出たかは、安倍政治の本性を教えるものとして、徹底的に暴露されなくてはなりません。
安倍自民党はまさに「規範意識」がなくては、つまり天皇制軍国主義なくしては、日本の国家も社会も教育も何も成り立たないという観点から、全面的な攻撃をかけてくるでしょうが、それが日本の労働者のみならず、国民全体の再奴隷化以外ではないし、ありえないことは明らかです。そして安倍自民党には、橋下や石原や野田さえも協力を惜しまないでしょう。
敗戦後三分の二世紀、今や歴史は、労働者の闘いの“正念場”にさしかかって来ました。この闘いに“敗北”し、労働者階級が再び天皇制ファシズムの支配のもとに屈することは決してあってはならないのです。今こそ、心有る労働者、若者が決意を固め、心を合わせ、団結して総反撃に移って行くべきときです。
今こそやくざ政治に総反撃を!
橋下は政党のボスとなるなら、首長をやめてからにせよ
2012年12月5日
今や総選挙たけなわですが、我々は投票するに値する政党や候補者を全く見出すことができず、政党政治、議会制民主主義の退廃と腐敗の極限に来てしまい、もうこんな体制も制度も死ぬしかないと結論するしかありません。既成政党も新興政党も、みなデマゴギーを競い合うだけ、そしてその「政治」はやくざの出入りと同じようなものですから、労働者は棄権するか、白票を投ずるか、どちらかしか道はなさそうです(あるいは行動主義者やアナーキストのように、民主主義的やり方に見切りをつけて、「直接行動」に訴えるか)。
そのうちでも特にひどいのは、言うまでもなく橋下一派であって、まさにごろつき集団と同じような“体質”を暴露しつつあります。橋下“御大”がそうなのですから、下っ端も一斉にそれに倣い、政治闘争というより、口からでまかせのデマゴーグの安売り乱売戦にふけっている、といったところです。
それにしても橋下が大阪市政を放り出し、首長の仕事など全くやらないで、「政治」に明け暮れているのに、政府も国家も(自治省でもどこでもいいのですが)、マスコミも他の政党も、そんな橋下を少しも非難もせず、見てみぬ振りをしているのですから驚き、あきれるしかありません。
大阪市の自治体労働組合もなぜ橋下を糾弾し、市長職をやめよ、やめてから「政治活動」でも何でもやるべきであり、そうしないのは間違っている、市長としての任務も仕事もすべて放り出して、維新の会の選挙闘争のために全国を飛び回っているのは許せないと、断固として抗議し、非難し、闘わないのでしょうか、なぜ簡単に橋下の軍門に下ってしまったのでしょうか。そんないくじのない態度こそ、橋下の思う壷です。
橋下は市の労働組合とその運動を乱暴に弾圧し、つぶそうとしている悪党です、そして労働組合や市の労働者に対して、公務員だからという理由など持ち出して、政治活動はどんなものであれ、決して許さないと豪語するような、全く非民主的な悪党、破廉恥な“独裁者”です。そんな男が、自分だけは市長の仕事、公務員としての仕事を全く投げ出して、「政治闘争」──ついでに言えば、ろくでもない、デマゴギーだけの「政治闘争」──にうつつを抜かしているのです。おかしくはないですか。
まるで橋下は自分が公務員でないかに行動するのですが、特別職かそうでないかの違いはあれ、橋下もまた公務員であって、一特別職なら、自分の仕事を投げ出して好き勝手なことをやっていい、えげつない「政治闘争」に首まで浸かっていい、などということにどうしてなるのでしょうか。それは公務員に許されない──と橋下が市の職員に向かってわめきちらしましたが──職務怠慢、というより、職務放棄であって、途方もないことであるのは、すべての人が認めること、まさに「世間の常識」というものです(橋下はよく「世間の常識」を持ち出して労働者を攻撃するのですが、それを一番欠いているのは、まさに橋下自身です)。
橋下が持ち出す理屈は、一般公務員は市によって雇われた人間だが、橋下は、つまり首長は選挙で選ばれた者だ、世論つまり有権者の多数の意思を代表し、その委託を受けたものだ──彼はよく、無条件の委託だ、全権委任だ、選挙によって選ばれたのだから万能だと言いますが、そんなことはありません──、といったものです。要するに橋下は民主主義者を装い、民主主義の陰に隠れるのですが、民主主義のことなど何も分かっておらず、ただ自分の“独裁”のために、それをご都合主義的に悪用しているだけです。
選挙で選ばれたと言っても、それは「市長」として選ばれただけであって、全国政党を結成し、その親分に納まり、「国政進出」を果たすために選んだのではないことは余りに明らかなのに、橋下はこうしたすり替えや強弁、いいかげんなこじつけを平気でやり、地方自治体の首長として当然に許されない、常識はずれなことを臆面もなくやるのです、地方自治体の大きな権力を、まさに“私的に”悪用して、です。大阪の有権者は、橋下が大阪の府や市の権力を私物化するために橋下を選んだのではありません、まさに市政をしっかりやるために投票したのですが、橋下はそれを全く無視し、裏切っているのです。
また橋下は、大阪のために、大阪都構想を実現するために「国政進出」をするのだとごまかし、つじつまを合わせようとしていますが、そんなペテンが通用するはずもありません。大阪都構想の問題なら、すでに国会でも決議され、実際上、解決しているのであって、あとは橋下が大阪でしっかりやればいいだけのことになっているのです。橋下が石原らと野合し、全国政党を作ったことが、大阪都構想と、どんな関係があるというのでしょうか、石原が「都構想」など必要としないこと──というのは、石原はすでに「都構想」の実現している都の首長なのですから──は明らかで、石原と野合したこと自体、大阪のため、大阪都構想のために「国政進出」するという橋下の理屈があからさまなウソであることを暴露しています。本当にいやらしい、虚偽でこり固まったようなげす人間です。
実際、維新の会はまさに全国的な課題をかかげて、「国政進出」しようとしており、彼らの選挙闘争は石原や橋下の国家権力に対する野望のため、野心のためでしかないことはますます明らかです。とするなら、橋下が大阪市長の地位にありながら、「国政」のために市政を投げ出し、サボタージュしていることは許されることではなく、ただちに辞職すべきであるのは自明です。
なぜ自治省は橋下を指導し、こんな筋違いの蛮行に警告を発し、やめさせないのでしょうか、民主党政府はなぜ橋下を野放しにしておくのでしょうか、検察は司法はなぜ全く動かないのでしょうか、そしてマスコミもまたなぜ批判や非難の声一つあげないで沈黙を守り、橋下一派のやくざまがいのやり方を大目に見ているのでしょうか、日本の政治をさらに腐敗、堕落の極限にまで落とし込もうと、みな力を合わせるのでしょうか。まるで一九三〇年代の状況を見る思いです。
やくざ政治にふける橋下一派の「国政進出」など決して許してはなりません、そんなことを許すなら、日本の将来がまっ黒になることほど確かなことありません。
労働者、勤労者の皆さん、今こそ総反撃に移るべきときです!
反動攻勢たけなわの総選挙
総選挙から締め出される労働者
2012年11月28日
総選挙の火蓋が事実上切られていますが、労働者はどうしたらいいのか、途方にくれるばかりです、というのは、投票すべき政党が存在しないからです。有権者の何割かが、つまり労働者人民の多数が「支持政党無し」、投票する政党も候補者もいない、といった状況に追い込まれているのですからまともではなく、ただこの事実からだけでも、現在の総選挙のキャンペーン、民主主義の“祭典”が根本からおかしく、いんちきであることが明らかになっています。
労働者はどうしたらいいのでしょうか。
民主党はすでにこの三年間でどんな期待も可能性も使いはたしてしまい、野田がどんな弁解をやり、またきれいごとを並べても、労働者はもちろん、プチブル層でさえほとんど耳を傾けようとしていません。公約を投げ捨てながら、公約にもなかった消費増税を自公と手を組んで強行したのですから、そんな政党がろくでもない政党であり、どんな信用にも値しないのは小学生でも理解できます。
民主党の口先だけのえせ“改革政治”は破綻したのです、そして今やその反動として、いったん敗北し、追放されたはずの安倍自民党が一層反労働者的で、軍国主義的な装いをこらして息を吹き返すことができ、また石原とか橋下といったやくざのような悪党たちがはびこり始めましたが、そんな労働者人民にとって災厄以外ではない政治が横行するなら、労働者人民の生活が破壊されるだけでなく、その未来は暗澹たるもの、絶望的なものになるしかありません。
安倍は政府や日銀がカネをたれ流しさえすれば景気が回復し、三%の「成長」が可能だ、などと何の根拠もなく、「当たるもはっけ、当たらぬもはっけ」のようなデマゴーグ政治に走り、また教育をまさに国家主義、排外主義によって、ファシズム思想によって染めあげようと策動を強め、中国や韓国と断固として「対決」するなど、口先だけの“強硬”姿勢を誇示し、また古色蒼然たる“天皇制軍国主義”、帝国主義国家の再現を夢見るのですから、アナクロニズムの愚か者と言うしかありません。たちまち二度目の破綻に行き着くしかないでしょう。
教育の場でも「自虐史観」を許さないと居丈高に言うのですが、それはかつて日本が天皇制軍国主義によってアジアを支配し、植民地化しようとした帝国主義の時代があったという歴史的な事実まで否定し、そんな時代の資本や反動派の国家の蛮行までも擁護し、正当化するような「教育」を、つまり虚偽と偽造された歴史を子供たちに強要するも同然ですから、教育の否定や破壊に行き着くだけです。
そして石原、橋下の“野合政党”も同様であり、野田民主党もまた本心ではそんな保守反動に傾いているのですから、今や日本の社会全体が危険な道に転落するか、しないかの歴史的な転機にさしかかっていると言って決して言い過ぎではありません。
えせ労働者政党の共産党や、「反核」のプチブル政党(嘉田や小沢らの“でっちあげ”ご都合政党)は、この資本の支配する体制の矛盾や困難と闘い、それらを乗り越え、解決して行く本当の闘いに取りかかり、それを発展させ、最後までやりとげて行くことはできません、彼らは結局は資本と反動の軍門に下るからです、否、すでに半分下っているからです。
こんな政党ばかりだというなら、労働者が投票する政党がないのは当然であって、労働者が投票所に向かわなかったからといって、どんな非難に値するというのでしょうか。
もちろん、労働者の党が組織され、総選挙に参加するなら、労働者が「支持する政党」がない、といった“悩み”はたちまち解決されます、そしてそのために闘うことが、自覚した労働者の、現在ただちに取組み、解決すべき第一義的な課題であるのは言うまでもありません。
しかし他方では、小さい、生まれたばかりの労働者党は、国政選挙の中でも徹底的に闘い抜くことなしには、“国民的”政党として登場することがひどく困難であることもまたもう一つの真実です。少数政党の参加を事実上不可能にし、排除する、現在の不公正で、極端に反民主主義的で、邪悪な選挙制度のもとでは、労働者党がまともに成長するのは難しいのです。我々はかつて「社労党」を組織して、国政選挙に何回ともなく参加しましたが、力足らずして、何よりもカネが続かず挫折を余儀なくされました。そして国政選挙で闘いぬくことができないことは、また労働者党として成長できないことでもありました。
「二大政党制」のための小選挙区制や供託金制度等々の厚いバリアによって、事実上、総選挙(国政選挙)への参加を拒否されてきたのです。現在の民主主義は、民主主義などと言っても、実際には「二大政党」のための、資本の専制のために“寡頭政治”をでっちあげるための、虚偽と偽善の民主主義でしかないということを思い知らされました。
労働者はなぜ全く支持しない政党、する気もない政党に、ろくでもない民主党とか自民党とか公明党とかに─もちろん、共産党でも社民党でも、維新の会でも反核新党でも何でもいいのですが──投票しなくてはならないのでしょうか。有権者の何割という人々が、投票する政党がなく、候補者もむしろ議員になってほしくない人ばかりだというのに──なれば悪いことばかりするのは見え見えだというのに──、必ず投票せよ、などと扇動し、投票を半ば強要するようなことは、人をばかにしています、こんな“民主主義”は一体どんな民主主義でしょうか、民主主義などどこにあるというのでしょうか。そんな、むしろ民主主義とは反対の選挙のもとで選ばれた議会など、最初からナンセンスで信頼に値しないのは当然のことです。こんなことは茶番であり、笑止千万であって、まさに“体制的”欺瞞そのものです。
選ばれた多数派や政府が正当であり、信頼に値するものであるためには、選出が正当で公平なやり方で行われる場合だけであって、不公正、不平等そのもののやり方が、いやしくも国民を代表する議員を選ぶ国政選挙で堂々と、大っぴらに行われていること自体、驚きであり、資本のもとでの民主主義といったものの本質を、そのいんちき性を暴露しています。
小学生の学級委員などの選挙の方がよほど公正であり、公平であり、明朗だとするなら──カネなど一円も必要ない──、国政選挙がいつまでたっても、何回繰り返してもむだであり、議会も政府もろくなものにならないのも当然というものです(今回の総選挙の結果も、やって見なくても明らかで、仮に自民党の安倍内閣ができたとしても、民主党の内閣以上に決してなり得ないと、我々は百%の確率で断言できるくらいです)。
もちろん、心有る、闘う意思のある労働者たちが一つの政党に団結し、結集することが必要です、しかし他方では、国政選挙にすべての政党が平等に公平に参加する制度がないなら、極端な制限選挙、不公正選挙が行われるなら、労働者の政治的な結集もまた困難であって進まない、という事実もあるのです、だからこそ、自民党とか民主党といった資本の政党は、労働者の政治結集を恐れ、差別やいんちきや、不正や非反主的な選挙制度を愛好するのであり、選挙に参加するだけでも、候補者一人当り六〇〇万(政党として参加するなら、何千万)といったあきれた金額の参加料を払え、というのです。まるで選挙に参加するのが音楽会場や劇場に入ると同じであるかに、です。
総選挙を前にして、何百万の労働者たち、若者たちはどうしたらいいのでしょうか、ただただ腹を立て、当惑して立ちつくすばかりです。無責任なマスコミなどはとにかく投票に参加せよ、棄権は罪悪だというのですが、それは客観的に、自民党や民主党や共産党や宗教政党など──あるいはいやらしい新党など──のろくでもない政党でもしかたないから投票せよと言って、そんなろくでもない政党を応援し、助けていると同じです。
支持する政党も候補者も全くいないことを暴露し、またこんな非民主的で空虚なお祭り行事の粉砕を叫んで、アナーキストたちのように選挙ボイコット、棄権に走るべきなのでしょうか、それとも今回は投票には参加し、内容のない非民主的選挙を強要する国や政府や支配政党に断固として抗議する意味を込めて、白票でも投じるべきなのでしょうか。何割という「支持政党」なしという明確な意思表示の白票が出たら、自民党とか民主党といった、ブルジョア政党だけが有利な、現在の不正義で、いんちきの、徹頭徹尾反民主的な選挙制度は果たして粉砕され、一掃されるのでしょうか。
浮かれる安倍自民党
「無制限の」金融緩和で景気回復など、愚劣さを暴露
2012年11月23日
安倍自民党がまるでもう選挙で勝ったかに浮かれ、たちまちその愚劣さや正当な見地や観念の欠如や一貫性のなさを暴露し、仮に安倍政権が誕生しても、民主党政権以上のものに決してなり得ないことが、また、誕生した途端に第一次の安倍政権と同じように野垂れ死ぬ以外ないことが明らかになっています。
大はしゃぎの安倍は、「無制限の」金融緩和政策をやれば、景気も良くなり、成長も戻ってくると大言壮語したのですが、そんなたわ言が集中攻撃を浴びて(内輪からも批判が出て)、自ら大あわてで弁解これ努めなくてはならない状況に追い込まれています。自民党幹部さえも、安倍は日銀の国債引き受けなど言っていない、ただ国債の「無制限の」買い上げを言っているにすぎないと弁解するのですが、仮にそうだとしても――ウソくさいのですが――、同じことです、あるいはもっと悪いとさえ言えます。
カネをばらまけば株価も上がり、景気も良くなるなどと言って浮かれている限り、安倍の権力、自民党の政権が仮に出来ても長続きすることはあり得ません。また彼らは国家主義や「祖国防衛」を煽りたてることで支持や権力の安定を空頼みし、自民党政府の存在意義を際だたせようと策動していますが、そんな試みを断じて許すことは出来ません。「日本を取り戻す」がスローガンですが、その「日本」とは結局、1945年までの日本、天皇制軍国主義の反動国家以外ではありません。このことは、公然たる軍拡路線にも、憲法改悪の策動にも、安倍がずっと固執してきた「教育改革」にも完璧に現れています。
彼らは「自虐史観」を攻撃し、教科書がそんな史観で書かれてきたと攻撃してきましたが、今や「自虐史観」なるもの――彼らのものよりも、はるかに正当な歴史観と言えます――を葬って、かつての日本の帝国主義の時代を抹殺し、正当化する、正真正銘の「偏向史観」を、偽造された、ゆがんだ歴史や事実を――戦争中の教科書のような、最悪の、ろくでもない教科書を、非科学的な愚論やドグマや観念論、天皇主権の「国体論」や神の国といった、神道的、宗教的ばか話までも――子供たちに、国民の全体にむりやり強要し、「叩き込もう」と言うのです。
そのために教科書検定制度も改悪する、すでに任命制の教育委員会も、さらに権力の支配統制を強めるように変えると大張り切りです。そして日本維新の会や民主党さえも、そんな自民党に追随し、協力しようというのです。
原則的な立場に立つ、断固たる階級的闘いが、反撃が客観的に要請される時代がやってきています。
2012総選挙・はびこるデマゴーグたち
石原や安倍や橋下らに断固反撃を!
2012年11月18日
完全に行き詰まった野田による、“やけっぱち解散”の結果、12月16日に総選挙が行われることになりました。
我々は今回の選挙も、7年余前の小泉「郵政選挙」、そして3年余前の民主党「政権交代」選挙と同様に、“亡国”──もちろん、資本や反動の勢力にとっての──に向けての一段階を画する選挙になるだろう、否、そうなるしかないだろうと断言し、そんな選挙のナンセンスと反動性を暴露し、糾弾します。
なぜでしょうか。
それは、この選挙が本質的にデマゴギー的な汚い主張、卑しい理屈がはびこるだけの“ポピュリズム選挙”、労働者階級の真実の言葉が全く隠され、聞くことのできない、いつわりの選挙、インチキ選挙にしかならないからです。小選挙区制や供託金制度や非民主的な選挙制度によって、労働者の党派や“少数政党”はますます公然たる政治闘争の場から締め出されてきたし、今もそうなのです(例えば、我々はかつて「社労党」として国政選挙にひんぱんに参加したし、今もその意思を持っているが、事実上、排除されています)。
だから、今回総選挙に参加する諸政治勢力は、野田民主党──3年余の間にその無内容と愚劣さによって完璧に破綻を暴露し、自民や公明に、つまり“保守”にすがる以外なくなった“大愚”政党──と、安倍自民党――ただ破産した前回の政権の汚名をそそぐためにのみ、つまり自分のプライドのためにのみ再登場しようという、もう一つの“大愚”政党と、それらに代わるというのですが、実際にはもっと古い、もっと反動的な政治を持ち込もうとする第三極──権力亡者の本性をさらけだし、“老醜”をむきだしにする石原と、石原を利用しながら、その後を襲い、反動と反革命の本命、“真打ち”として登場しようと虎視眈々の野望家・橋下の野合党──等々です。
野合のために、石原は、首相の地位につけるなら、自らの信念などどうでもよいらしく、たちまち橋下などの“若僧”にまるめ込まれ、核武装や“超”国家主義や反米主義という鎧を、一夜にしてどこか衣の下に隠してしまいましたし、橋下といえば、石原に勝るともおとらない、腹黒い権力主義者、ポピュリズム政治、ファシズム政治の“達人”で、労働者の不倶戴天の敵です。
そしてこれらの諸勢力は、“防衛外交政策”の根底、そこでものを言うのは結局は力だ、つまり武力しかないのだとわめく連中であり、単細胞的な“対外強硬派”──「人を見たら悪人と思え」、外国を見たら侵略主義、帝国主義の国家と思え(哀れなニヒリズム、ペシミズムの信奉者、あるいは小心者の連中)──であり、戦前、戦中の軍部──東條英機とか、小磯国昭等々のばか者──と同じような連中ばかりですから、そんな連中がはびこる選挙において、自民党が勝とうが、第三極が影響力を増そうが、日本の将来にとってろくなことになるはずはなく、まっ黒な暗雲を呼び込む以外のどんな期待も持てません。それは1930年代の腐敗した“政党政治”がどこに行き着いたかを反省して見ればたちまち明らかです。
彼らは日本を取り巻く諸国から「領土」をおびやかされている、国家が危機にある、“国難”が迫っている、いまこそ国家主義を高揚し、武力を強化して備えるべきだ、民主憲法、平和憲法──共産党やプチブル・インテリのように、現行憲法をこんな風に呼んで美化していいのかは、ここでは議論しませんが──を廃棄して、天皇制軍国主義の憲法、敗戦後廃棄した憲法のようなものを復活せよ──石原が公然と主張し、また最近、東京「維新の会」の連中がわめいたように──、“正当な”日本の領土(尖閣諸島など)を防衛し、あるいは取り戻せ(竹島や千島列島など)とわめきちらしています。
軍事力を増強し、強い日本を再現し、「領土」を回復する、取り戻すなどとわめいていますが、一体どういう意味なのでしょうか。
日本は1945年の敗戦によって、「国土」を五分の一に減らしました、つまり国土の何倍というような広大な「領土」──“満州”を始めとする中国の多くの部分や朝鮮や台湾やアジア諸地域の──を失いましたが、そんなものを「取り戻す」とでも言うのでしょうか。安倍等はアジア太平洋戦争(満州事変に始まり、1945年の敗戦で終わった、そして数百万の日本人と、数千万もの世界の労働者人民が無意味に死ななくてはならなかった“15年戦争”、そして第二次世界大戦)は正当な戦争、日本の「国土防衛戦争」であったと今もわめいているのですから、これらの「領土」もまた正当であり、合法だと主張しているも同然であり、そしてその論理に従うなら、彼らの国家防衛、国土防衛とは、これらの領域も含まなければ決して首尾一貫しないのです。
石原や安倍が権力を握るということは、事実上、こんな途方もないことを主張する連中が──労働者から見れば半分正気を失ったような病人たちが、気の触れたような連中が、武器でも持たせたら何をするか分からないような連中が、ある意味では、北朝鮮の権力者や中国の権力者たちと同様で、同質の人種が──権力を握るということです。考えて見れば、何という恐ろしいことではありませんか。
そんな連中に権力を渡すことは決してできません、しかしそんな連中しか総選挙に参加していない、できないように細工されているのです。小選挙区制がはびこり、民主主義を形骸化させ、腐敗させ、“超”軍国主義に道を開くだけの選挙、茶番の選挙やその結果などに、労働者人民はどんな信任を与えることもできませんし、責任を負うこともできません、というのは、それは7年前の小泉“郵政”選挙が、3年前の“政権交代”選挙がポピュリズムであり、インチキであったと同様に、一つの壮大な、国家的規模とからくりで行われる詐欺以外ではないからです。
共産党が参加していたとしても、同じことです、というのは、この党もまた「国家防衛」を掲げて、事実上、帝国主義や軍国主義さえも“こっそり”応援し、支持しているも同然な、恥知らずの連中だからです。
最近、我々が『海つばめ』などで暴露したように、この党は、日本の帝国主義、軍国主義を、それが日本のものであるかぎりでは少しも暴露も批判もせずに擁護し、正当化しているのです。
例えば、1895年、それまで「無主」の島──つまり、日本の領有のもとにあるのか、中国(清国)が領有しているかはっきりしていなかった──尖閣諸島を日清戦争に勝利したのを利用して、日本の軍国主義国家が大急ぎで取り込んだことは正当であり、国際法にもかなっている、と主張して、その隠された“帝国主義的な”本性をあからさまにしています。
しかし共産党の理屈によるなら、日清戦争の結果、日本が「領土」として取り込んだのは尖閣諸島に留まらず、遼東半島(大連、旅順等々)や台湾、澎湖諸島もあったのですから、これらの日本領有も「正当」であり、「合法的」と言わなくは一貫できませんが、しかしその部分だけは帝国主義的でよくなかったというのですから、矛盾もはなはだしいと言うしかありません。遼東半島はもともと清国の領土であったが、尖閣諸島は「無主」の島であったというのが共産党の唯一の理屈でしょうが、しかし中国もまた自らの領有を主張する──してもいい──「無主」の島を、戦争に勝った機会に、力でもって大急ぎで囲い込んだという事実に変わりありません。
「三国干渉」によって、遼東半島領有は諦めさせられたのですが、志位らの詭弁家によれば、西欧の列強こそ国際法に反している悪者──日本はちゃんと戦争に勝った結果として、“合法的に”遼東半島を領有することになったのですから──ということになるしかありません。
日清戦争に勝つことで、朝鮮の植民地化、つまりその“合法的な”領有に道を開き、さらには満州国家も“合法的に”建国され──そう言わなくては、共産党は決して首尾一貫しません──、しかも事実上、日本の「領土」だったのですから、反動派も共産党もなぜ今もって、その「領土」奪回を謳わないのでしょうか、今はだめだが、近い将来、日本が核武装でもして、中国やアメリカに勝るような軍事大国にでもなったら──実際にそんなことが可能かどうかはさておくとして──、その1945年の敗戦によって“失われた”領土の「正当性」や「奪回」でも主張するというのでしょうか。余りにばかげています。
要するに、総選挙を闘おうという、国家主義や「祖国防衛」の諸党派、安倍自民党や「日本維新の会」等々は、自国の軍国主義や帝国主義は正当であり、擁護され、美化されなくてはならないが、他国の軍国主義や帝国主義は悪いというのです、ただそれだけのエゴイスト、自己中心のばか者たちということです。
彼らのデマゴーグとしての本性は「経済政策」においても歴然としています。
例えば、安倍は「強い」経済、「成長」し、繁栄する経済を作らなくてはならない、そのためには金融の無制限な緩和を行い、カネをいくらでも経済や流通に流し込む、日銀は抵抗するから、日銀法を改正しても言うことをきかせる、これが「強い」経済をつくる道だとわめいています。単に大資本のために、カネを「ジャブジャブ」と投げ与えるというだけです。
財政の半分が借金のようなことを自民党も民主党もやってきて、国家を破産させ、破滅に引き込むような政治をやってきたのですが、それを受け継ぐだけではなく、さらに今度は国がカネをいくらでも作り出し(つまり事実上、紙幣をまさに「無制限に」バラまくことで)、そんなやり方で「経済成長」が可能だというのですが、カネをバラまくだけで経済の繁栄や「成長」がやってくるはずもなく──それが本当なら、「経済政策」など誰がやってもうまくいくということで、安倍の言うことは余りに愚劣です──、実際にはバブルやインフレをもたらすだけです。安倍は国家経済をめちゃくちゃにし、解体し、腐らせ、寄生化するような政策、つまり日本をもっぱら「弱く」する経済政策を勧めているにすぎません、そんなたわいもない政策で「強い日本」を作るとデマゴーグ政治にふけっているにすぎません。
民主党のえせ改革政権の後、まさにその反動として、最悪のデマゴーグ政治、危険な国家主義政治、ファシズム的政治が台頭し、日本の将来に危険な赤信号がともりました。労働者とその未来に暗黒の雲が蔽いかぶさってきました。いまこそ、強固な意思をもって団結し、決意を固めて反撃に移っていかなくてはならないときです。
国際主義に断固として立脚する労働者階級は、どんな国家の、どんな装いを凝らした軍国主義も帝国主義も反動的であり、有害であり、愚劣であって、断固として否定され、一掃されるべきである、つまり日本の軍国主義、覇権主義、帝国主義も、中国やロシアやアメリカの軍国主義、覇権主義、帝国主義も、そしてまたいつの時代の軍国主義、帝国主義も否定され、粉砕されるべきであるという立場、石原や安倍や橋下や共産党らと違った立場に立っています、そしてそれ故に、その立場を守って最後まで闘いぬくのであり、闘いぬかなくてはならないのです。
デマゴーグの悪党たちが「わが世がやってきた」と浮かれ、出しゃばり始めている現在、自覚した労働者の闘いは決定的に重要なものとなっています。“民族主義”に立脚したり、“市場経済”までも美化し、擁護するような共産党など、資本の勢力や反動派、軍国主義派となれあい、それを助ける以外、そしてそのことによって、労働者の闘いを妨害する以外、どんな役割もはたすことができません。今こそ、新しい労働者の階級的闘いの旗のもとに断固結集すべきときです。
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