安倍が「集団的自衛権」にこだわる理由
ブルジョア世界での“名誉ある”地位を求めて
2014年6月20日
安倍が集団的自衛権の「行使」として具体的に考え、想定している戦闘とか武力行使とか戦争といったものはどんなものなのでしょうか。
安倍のイメージにあるのは、第二次世界大戦のような世界戦争ではなくて、その後のあれこれの戦争で、例えば、アメリカの戦争あるいはむしろアメリカとともに闘った、イギリスやフランスやドイツやオーストラリアや韓国等々の戦争のことであるように思われます。
朝鮮戦争やベトナム戦争も含まれるかも知れないし、また湾岸戦争やイラク戦争、アフガン戦争などもあるでしょう。あるいは国連として取り組んだ戦争、PKO等々も数えられるかも知れません。
しかしこれまで、こうした戦争には日本は主体的、積極的に、まともに取り組み、参加したことはほとんどありませんでした。
朝鮮戦争ではただ戦争の背後にあって兵站基地のような役割を果たしたにすぎませんでした。ベトナム戦争でも同様であり、日本の米軍基地からはベトナムに向けて多くの飛行機などが飛んで行きましたが、日本自体は韓国などとは違って、直接的な戦闘には参加しませんでした。
湾岸戦争では戦争と戦闘の一端を担う代わりに、巨額の金を出すことで逃げましたが、それはえらく不評判で、アメリカなどから「血や汗も流せ」と言われて、そのことが日本のブルジョアや反動たちにとって、ずっと引け目というか、トラウマのようなものになってきました。イラク戦争には辛うじて軍隊を送りましたが、しかしそれは「戦場ではないところ」という条件付きでした。
要するに安倍はアメリカの同盟国である西欧諸国やオーストラリアや韓国などと同等の地位を占め、同じような役割を果たし、かくしてブルジョア世界において、力を落としつつあるアメリカを助けて、世界のブルジョア諸国のために、その先頭に立って闘う“名誉ある”地位を占めたいのであり、世界中からいっぱしの国家として評価され、ちやほやされたいのであり、またそうすることで、自らの権力を固め、強化したいだけなのです。
俗な言い方をすれば、安倍の権力欲や虚栄やうぬぼれや目立ちたがりのために集団的自衛権の「行使」にこだわり、何が何でもそれを実現しなくてはならないのです。まさに「一将功成りて万骨枯る」という言葉そのままというわけです。
外国人労働者の「受け入れ」
姑息で陰険なやり方に終始する安倍政権
2014年6月13日
安倍政権は「成長戦略」のために、外国人労働者の「受け入れ」を積極的に推進すると言い始めました。しかしその内容を見ると、国粋主義の顔がすぐに出て、踏ん切りの悪いものになっていて、とうていブルジョアたちの要望に添うようなものにはなっていません。
安倍政権は単純労働者ではない、技術者とか知識人とかの、能力の高い人が中心だとか言いますが、しかしブルジョアが本当に望んでいるのは安価な単純労働者であり、搾取材料であって、そんな“高級労働者”ではありません。そもそもそんな高級労働者が簡単に、都合良く日本にやってくるはずもないし、やってくる動機もありません。
また介護労働者が足りないから、そんな人も入れると言いますが、介護労働者などがいくら大量に外国からやってきたとしても、彼ら(彼女ら)が「経済成長」をもたらすことは決してないのです。ただ生産的労働に従事する、搾取可能な産業労働者が大量に流入する場合にこそ、日本資本主義の若返りや「成長」が望めるのです。
だからこそ、安倍政権はまず「技能実習制度」などのいつわりの名目で、ご都合主義的に外国から単純労働者を連れてこようとするのですが、いかにも姑息で、やり方が卑しく、陰険です。 外国の労働者を貪婪に搾取したいが、負担や面倒なことはお断りだというのですから、外国の労働者も、そんなところに喜んでくるわけはありません。
日本のブルジョアはとりわけバブルの崩壊以降、国内の労働者を過度に抑圧し、搾取して衰退させ、滅ぼしてきました、そしてその結果「労働力不足」といった、彼らにとって自己否定にもつながるような深刻な危機を呼び込んだのですが、しかし彼らはその危機に立ち向かうことも、賢明に対処することもできないというわけです。
ご都合主義的に、外国の労働者を搾取するしか――しかもおかしな制度を悪用して――やり方を知らないというのですから、外国人労働者の「受け入れ」といった、安倍政権のご都合主義が、ブルジョアの困難の解決策になることはないし、あり得ないのです。
日本のブルジョアも、安倍政権もますます行き詰まり、ますます権力フェチ、戦争フェチに走り、そこに生き延びる道を見いだすしかなくなりつつあります。極悪反動の安倍政権を労働者の断固たる階級的闘いによって打倒しなくてはならない時はさらに近づき、緊急のものとなってきました。
民主主義的支配から専制的支配へ
安倍は日本のブルジョアジーの趨勢を代表
2014年6月6日
軍拡と軍事大国と世界中における武力行使に固執する安倍の本性は何でしょうか。
どんな階級国家も、従ってどんなブルジョア国家も“公的な”暴力組織や武装勢力なしには、つまり軍隊等々なしには、その隠された力の「行使」なしには、階級支配を防衛し、貫徹することは出来ません。しかし資本の支配がそれ以前の階級の支配と違う特徴の一つは、“法的な”支配の装いをとること、労働者階級の“人格的な”解放を立て前としては承認していることです、つまり民主主義的支配の装いを凝らすことです。
もちろん危機の時代になれば、ブルジョア支配も階級支配の本性を暴露して公然たる「力」による支配に、ファシズム的支配に移って行きます。そして安倍政権がこうした傾向をつよく帯びた政権であるのは余りに明らかです。
安倍政権のもとで、軍拡主義や軍隊の力の「行使」――世界中至る所で、またその性格や内容を問わず――が“普通の”国家の常態として承認され、おこなわれるようになることは一つの必然であって、憲法に「反しているか」、「いないか」といった問題ではありません。
憲法云々は労働者が闘っていく上での、一つの契機となり得るということだけの問題であって、本質的な問題ではありません。
安倍はますます帝国主義、軍国主義に傾斜し、民主主義的支配から専制的支配への執念を燃やし、軍国主義やファシズムにますます接近していく――行かざるを得ない――、現在の日本のブルジョアジーの趨勢や傾向や意思や願望や心理や本能等々を誰よりもよく代表したからこそ、首相に成り上がることが出来たのです。
だからこそ、リベラルや共産党のような立場で安倍の軍拡主義、軍国主義の策動と闘って行くことは決して出来ないのです、というのは、ブルジョアや安倍らはいくらでも、彼らの都合のいいように憲法を、法律一般を「解釈」するからであり、これまでもしてきたからであり、リベラルやプチブル党派の口先だけの非難――泣き言、おしゃべり――など聞き流して自らの野望に向けて猛進してきたから、してくることが出来るから、また、これからもできるからです。
非現実的な“具体例”で危機を煽り
政権への幻想をかき集めようと策動
2014年5月30日
安倍が集団的自衛権行使の“具体的な”いくつかの例について“詳細に”語っています。
安倍が常に持ち出す典型的な例は、北朝鮮がアメリカ本土向けに撃ったミサイルを、日本の軍隊が撃ち落さないとすれば、日米同盟は終わるというのですが、しかしこんな“具体例”が現実に起こることはほとんどなく――というのは、まず北朝鮮がアメリカ本土を攻撃する可能性は皆無に近いからであり、また本気でアメリカと闘うとするなら、まず日本を、日本のアメリカ基地を攻撃し、その壊滅を狙うことから始めるしかなく、日本の軍隊は日本に飛んで来るミサイルのことから考え、対処しなくてはならないのは明らかだからです――、そんなものを持ち出して騒ぐのは、ただ騒ぐことによって危機意識を醸成して安倍政権に対する幻想と支持を拡大し、固めようということにすぎません。
最近もむやみと“具体例”について語り、臨場感をきわだたせて集団的自衛権「行使」の正当化に忙しいのですが、いずれもあり得ないか、あってもごく低い可能性しかないものばかりであって、実際の戦争や戦闘は安倍が頭で考えたような形で展開し、行われることは全くありません。
現実の戦争は極めて多様かつ複雑で、現実的に対処し、対応するしかないようなのばかりで、安倍の“具体例”など何の意味も意義もないばかりか、有害な役割を果たしかねないのです。そんなものを安倍が持ち出すのは、本当の戦争など全く知らず、ただ頭の中でのみ考えているからです。現場の司令官などが、安倍のあげているような“詳細な”具体例で集団的自衛権行使を、戦闘を考えていたなら、かえって柔軟に行動することが妨げられて混乱を助長し、混乱し、失敗することになるのは確実です。
安倍がいくつもの“具体例”について語ることによって集団的自衛権行使を説くしかないということこそ、集団的自衛権行使の大騒ぎと策動の本質を暴露しています、つまりそれは安倍の張ったり、虚勢、愚昧さというものであって、そんな小手先細工によって政権の長期化が可能になると幻想しているということです。
表面的な支持ばかり追い求めて内容のない安倍政権が行き詰まり、失敗するのは時間の問題です。
個別的自衛権と集団的自衛権に大差なし
プチブルらの空騒ぎを安倍は利用
2014年5月25日
安倍は集団的自衛権の「行使」によって何を狙っているのでしょうか。
アメリカとの同盟の強化であり、それによって日本「防衛」を盤石ならしめることでしょうか。しかしこれは本心ではありません、というのは安倍は決してアメリカを――しかもオバマのアメリカを――好きでもなければ、信じてもいないからです。アメリカとの同盟をことさらに強調するのは中国と張り合い、虚勢を張るための一つの方便でしかありません。
また共産党や市民主義者が言うような「海外で戦争する――戦争できる――国にする」ためでしょうか。もっともらしいのですが、しかしどんな戦争を、どんな目的で行うかがあきらかにならないなら、つまらない抽象的な空文句、一般に「戦争は悪い」とか、「海外で戦争するのは悪い」(国内ならいいとでも言うのでしょうか。それならかつての軍部の「本土決戦」を支持し、擁護するとでも言うのでしょうか)といった、プチブル的な平和主義でしかありません。
確かに安倍の言っていることを突き詰めれば、戦争のための戦争を煽っているとしか思われません。彼の言う「具体例」が全く非現実的であって、頭の中で考え出されたようなものばかりであるのは当然で、そのことを暴露しています。つまり彼は戦争ごっこの感覚で集団的自衛権や戦争について語り、政治をやっているのです。
彼の本当の目的は自己権力の強化であり、ブルジョア的専制政治の貫徹です。そのためにこそ、集団的自衛権や「国家防衛」や「教育改革」や慰安婦問題(国民意識)などで大騒ぎするのです。
個別的自衛権か集団的自衛権かといった問題自体には、たいした違いがあるわけではありません。どちらも「祖国防衛主義」の枠内の些細な違いでしかありません。ただプチブルやインテリ達が、そこに何か決定的な違いがあるかに思い込み、空騒ぎに走っているだけです。安倍はむしろそれを利用して大国意識を、軍国主義国家を、従って専制国家、ファシズムまがいの国家を扇動しているのです。
集団自衛権についての共産党らの観念論
安倍一派の策動を助けるだけ
2014年5月20日
リベラルや共産党は、「集団自衛権は日本を『戦争ができる国』にする」、「国家は『固有の自衛権』を持つ、しかし個別的自衛権はいいが、集団自衛権はよくない」と主張し、安倍一派に反対し、安倍政権と闘うことができると幻想しています。
しかし彼らは実際には、安倍一派を助けてきたにすぎません。というのは、言っていることが観念的、独善的であって、安倍一派が自らの野望――軍国主義の国家、安倍一派の専制体制、つまり一種のファシズム体制――に向かって突進するのを許し、正当化するだけだからです。
日本が「固有の自衛権を持つ」と主張しながら、日本が「戦争ができる国にするな」などというのは自己矛盾でしかなく、そんな理論は誰一人説得し、納得させることはできません。
個別的自衛権がいいというなら、そのためにも「戦争ができる国にする」必要があるというのは余りに明らかだからです。そして国家防衛のために、他国と同盟し、協調して悪いなどと言うのは悪しき観念論の最たるものであって、余りに愚劣です。
国家が「固有の自衛権」を持つというなら、日本が「戦力」を持つことも、「戦争ができる国」になることも、個別的自衛権であろうと集団自衛権であろうと、みな認めなくてはおかしいのです。
共産党はそれをすでに事実上認めています、しかし彼らは日本がアメリカの“半”従属国であって、“真の”独立国ではないから「戦力」も持てないと言い張ってきました。つまり現在のように日本が「独立」を勝ち取った状態では――それとも共産党は日本がまだ「独立国ではない」と強弁するのでしょうか――、共産党の主張は自民党や安倍一派の見解に無限に接近するし、しつつあります。
共産党やリベラルは、「外国の戦争に巻き込まれるな」、といったことをさんざんに言いはやしてきましたが、問題は「外国の戦争に巻き込まれるかどうか」でなく、外国のであれ、自分たちのであれ、あれこれの戦争の、社会的、階級的な性格であり、それが実際にどういう本質の戦争か、進歩的な戦争か、反動的な戦争かがまず問われるし、問われるだけです。
抑圧されている国民や奴隷的な状態からの独立を求めて闘う民族の闘いに対しては、それに「参加」するか、「巻き込まれるか」ということはさておくとして――それはただ具体的な問題として検討され、判断されるべきことです――、労働者階級が支持を与えるのは当然のことであって、共産党の言っていることは「外国のことはどうでもいい、外国の労働者、勤労者が苦しんでいても自分とは関係ない、ただ自分たちだけが平和に、安楽に生きて行ければいい」といった、矮小なプチブル民族主義や個人主義、利己主義をはびこらすだけで、余りに卑しく、醜悪です。
もちろん、世界の労働者階級はあくまで国際主義の立場に立って、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を確保」(憲法前文)しようと努力すべきなのです、もっとも労働者は、「諸国民の公正と信義」とは言わないで――というのは、ブルジョアたち、反動たちは「公正と信義」とは全く縁がないから――、「諸国の労働者の階級的な立場と闘い」を信じ、彼らと協力し、共に闘って「われらの安全と生存を確保する」と言うし、言わなくてはならないのですが。
1億人のレベルを保つことが問題か
搾取や抑圧のない社会の実現こそ求めよ
2014年5月18日
安倍政権(有識者懇談会)は50年後の人口が「現状を放っておくと」8,700万人にほどに減ると危機意識をあおり、50年後に1億人のレベルを保つために、意識的な努力をする必要があると提言をしています。
65歳以上の高齢者の占める比重も25%から40%に上昇する、4分の1以上の自治体が消滅すると大騒ぎです。
こうした“悲惨な”結果を招来しないためには、政府による出産・子育て支援の倍増などが必要だとバラ撒きを勧めています。
しかし人口が増えれば経済も発展(GDPも「成長」)するが、減れば、それだけで荒廃が進み、社会が成り立たなくなるなどと言うのは間違いであり、ブルジョア達の偏見に過ぎません。
ブルジョアや反動達は、人口減が国家衰退につながると深刻な危機意識を抱くのですが、しかし強大な国家と言った意識と無縁の労働者にとっては、人口の問題は本質問題ではなく、問題は人々が解放され、搾取も抑圧もない社会で生きていくことです。
そもそも無理をして人為的な策を弄すれば人口が増えるというのは幻想で、社会が解放されるなら、働く者への搾取がなくなるか、大きく軽減されるなら人口も増えると言うべきでしょう。何百万人、何千万人という働く青年や、またとりわけ女性を貧しい非正規の労働者に転落させておいて、どんな人為的な政策を持ってきても、人口など増えるはずもありません。
経常収支、85年度以降過去最悪
アベノミクスの破産でしかない
2014年5月13日
13年度の経常収支が前年度の5分の1に激減し、1兆円を割ってゼロに近づきました。円安で輸出が伸びるはずなのに、です。
最大の原因は貿易収支が悪化し過去最大の10兆円にも膨張したからです。まさにアベノミクスの破産以外ではありません。為替操作の小手先細工では貿易収支を改善することはできなかったのです。
アベノミクスのやっていることはカネをばらまくことによって、ますます日本の産業と企業の頽廃を深め、競争力を削ぐようなことばかりですから、今後もこの趨勢はますます進みそうです。
貿易の大赤字を埋めたのは、海外からの配当や証券投資による収益で、つまり日本は貿易によって富み、生きる国家から、国内では過剰となった資本を“輸出”し、海外の労働者、勤労者を搾取し、収奪することによって生き延びる、寄生的で、退廃的な国家、趨勢的に衰退する国家に転落しつつある、ということです。
安倍政権がカネをばらまき、人々の「期待感」を、つまり幻想を煽ることで経済の好転や「成長」を勝ち取るといった、邪道でばかげた観念にふけっている限り、日本の将来は絶望的であり、暗黒であるのです。
したがって日本の労働者階級は、日本が安倍政権の下で衰退し、没落してしまうのをゆるすのか、それとも自ら階級として立派に立ち直り、復活して、自らを支配階級にまで高めて未来を切り開いて行くかの岐路に差しかかっていると言うなら、現実を誇張し、一面的に描いていると誰か言うでしょうか。しかしアベノミクスに浮かれる安倍政権がのさばり続けている以上、どんな楽観論も振りまくことはできません。まず安倍の権力を打倒し、一掃することがすべての始まりなのです。
安倍の専制政治に「護憲」では闘えない
労働者は憲法に如何なる立場で臨むか
2014年5月2日
憲法記念日を前に、憲法についてあれこれ議論されています。
安倍政権は改憲を企みますが、しかし改憲しなくても「解釈」次第で、そしてその「解釈」自身も安倍政権や安倍個人によっていかようにも行えるというのであれば、つまり安倍の国家主義的強権政治も思うがままであるとするなら、安倍は改憲を急ぎ、それにこだわる必要はありません。
集団的自衛権の「行使」の問題でも、安倍個人の独断でも、あるいは「閣議決定」でも強行するというのですから、安倍は今や“超法規的な”政治に向け突っ走ろうというわけです。つまりこれは安倍の独裁政治、専制政治と言うことでしかありません。
かくして今や、リベラルや市民主義者や共産党などが騒ぎ立てている「護憲」という立場のナンセンスと無力、空虚さが完全に明らかになってしまいました。
自民党や反動が「改憲」をわめき――あるいは好き勝手な「解釈改憲」に走り――、それに対して市民主義者や共産党が「護憲」を叫んで対決する“政治闘争”はいわば“擬制の”政治闘争であって、労働者の本当の闘いとは何の関係もありません。
我々は憲法もまた歴史的なもの、歴史的な社会を代表し、規定するものであって、「永遠の真理」とか、「正義」とか「道徳」とかを規定するものではないし、また政府や支配階級を「縛る」といったものでもない(むしろ反対であって、根底的には労働者、勤労者を抑圧し、その闘いを「縛り」、資本の支配を貫徹すべきものと言うべき)ことを確認すべきです。
日本の敗戦後の憲法もまた、資本の支配する社会を、とくに敗戦直後という時期や日本の時代的状況を反映し、代表し、表現しているのであって、基本的にブルジョア民主主義的であり、また“立憲主義的”、そして平和主義的な傾向を持っている、というだけのことです。
我々は憲法の「改悪」に反対するとともに、そのブルジョア的、プチブル的本性と反動性を暴露し、また憲法の代表するブルジョア民主主義の限界を明らかにし、さらに天皇制廃絶など積極的に押し出し、革命的労働運動の立場が共産党や市民主義者の立場と原則的に異なることを鮮明にして、一貫した階級的立場に立つ、自立した闘いを貫徹して行かなくてはならないのです。
「胸が痛む」だって!?
見え透いた虚言を吐く安倍
2014年4月30日
従軍慰安婦問題で安倍が「胸が痛む」と発言しているという、小さな記事が新聞にありました。マスコミは単なる報道であって、評価は必要ないという姿勢ですが、余りに無責任です。
そもそも安倍がこんな発言をしおらしく言うこと自体、許し難いことです。
彼のなすべきことは、誠意も真情もない同情を口にすることでなく、かつて植民地であった朝鮮の若い女性が、日本の天皇制軍国主義の国家によって、日本軍の性奴隷の地位におとしめられ、筆舌に尽くしがたい苦難を経験した事実を確認し、深く反省し、朝鮮国民や被害者たちに謝罪することです。
しかし安倍はその事実を否定し、開き直り、朝鮮人女性は自分から進んで戦地に売春のために出かけたのだ、自業自得だなどと言いはやしながら、彼女らに同情するというのです。安倍の立場なら、同情するということがどうして出てくるのでしょうか。むしろ彼女らを軽蔑すると言うべきではないのでしょうか。
かつて朝鮮の若い女性が日本軍の性奴隷の状況に追い込まれるといった、そんな状況に責任を持つべきは安倍政権でもあるのです。というのは、安倍一派は15年戦争(帝国主義戦争)時代の天皇制軍部やその政府を美化し、擁護し、そのやったことをすべて正当化してやまないからであり、また朝鮮人女性の性奴隷化など、神聖なる日本の軍隊にあるはずもないこと、あってはならないことだ等々と強弁しているからです。
安倍は今や天皇制軍部政府の蛮行の当事者でさえあります、というのは性奴隷化の事実を否定し、あるいは正しいことであったと主張し、擁護さえするからであり、そうした悪事にふけった政府の後継者をもって任じているからです。
ああ、ぬけぬけと「胸が痛む」と見え透いた、偽りの言葉を口にする安倍よ。汝は何という浅ましい破廉恥漢であることか。
オバマ来日、すきま風と亀裂拡大
ますます世界から孤立する安倍政権
2014年4月27日
オバマがTPP合意を勝ち取ることなく日本を去りました。オバマの安倍政権に対する不信感はさらにふくれあがったと言えます。
そのことは、韓国に行って最初とも言える発言が、従軍慰安婦問題での「甚だしい衝撃を受けた」、「おばさんたち(従軍慰安婦)の声を素直に聞き、尊重しなければならない。過去を正直かつ公正に認識しなければならないことは、安倍首相も日本国民も分かっているはずだ」であったことからも明らかです。
これはまさに、直前まで親密と「緊密な」同盟関係を演出していた首脳の一方の発言ではありません。安倍一派との付き合いで相当のストレスがたまったと言うことです。
日本の防衛問題では、安倍のために「尖閣諸島は日米安保条約の対象」と「アメリカ大統領として初めて明言」してくれた、これで日米の関係は盤石となったとか、安倍一派は言いはやしていますが、ただ「成果」を大げさに言わなくてはならないからであって、オバマも言っているように、オバマはこれまでとは違った立場を表明したわけではありません。
しかもオバマはことさらに、「領土問題には立ち入らない(尖閣諸島が「日本の固有の領土」などとは考えないし、主張もしない)、尖閣諸島が日本の施政権下にあり、その歴史的、実際的な現実の変更を武力で強要することは認めないと言うだけです。
裏を返すなら、領有権は日本と中国の間の話し合いで解決しなさいと言うことであって、むしろ安倍一派の“超国家主義的な”主張やり方に不信を募らせ、異議を唱え、反発しているとさえ言えるのです。
そしてオバマがTPP交渉における、安倍一派の「国家主義」や「国益一辺倒」に一層いらだちと反感を募らせたことは明らかで、安倍一派は自分の立場に何の配慮もしないし、しようともしていないと思ったことでしょう。
安倍一派の言う「国益」とはろくでもない、後ろ向きの保護主義であり、自由貿易を通じての、TPPの課題である諸国民の共同の「国益」とは別のものであって、ただそうした「国益」とは無縁の、単なる自民党や安倍一派の利益――つまり安倍一派を政権に押し上げた階級、階層の特殊的な“利益”――、普遍的な利益にむしろ敵対するものでさえあるからです。
オバマ訪日で明らかになったことは、安倍一派の政権がますます国家主義的で、偏狭で、一面的な立場に進み、世界中の労働者、勤労者だけではなく、世界中のブルジョア勢力からさえも嫌われ、疎まれ始めていること改めて明らかにしてくれました。
日本は安倍一派の支配のもとで一体どこに行こうとしているのでしょうか。1930年代、40年代の前半のような孤立と挑発と冒険主義の道を歩むなら、それはまた日本の労働者、勤労者の、国民全体の多くの犠牲や不幸の、地獄の苦しみや破滅への道となるだけです。
「生産人口」減少に怯えるブルジョア
人口の多寡は社会の存続に本質的意味を持たない
2014年4月18日
総務省が日本の「人口推計」(13年10月時点)を発表しました。注目を集めるのは「生産人口(15歳から65歳)が32年ぶりに8千万人を割り、65歳以上の高齢者(15歳以下の「年少人口」に対して「老年人口」と呼ぶことにしているそうな)が初めて25%を超えたことです。
ブルジョアやその世論は危機意識に駆られ、「経済成長や国の税収に影響を与える」とか、「社会保障制度の持続が難しくなる」などと悲鳴を上げ、「女性や外国人などの活用による労働力確保や、社会保障制度改革が急務となる」、「生産活動を持続し、社会保障制度を支えるためには、女性や高齢者を活用することが欠かせない」などと論じています(4月16日、日経新聞)。
これはブルジョア的なばかげた観念であって、人口がどうあれ、その人口で社会を維持し、存続するのですから、人口の多寡といったことが、そもそも社会の存続といったことに、本質的に意味を持つはずもないのです。
もちろん特定の生物種が存続する「最小単位」といったものはあり得るでしょうが、60億人とか70億人にも増えすぎた人類が、ちっとやそっとの人口縮小で滅びることはあり得ないのですから――増えすぎて滅亡することは十分にあり得るにしても――、ブルジョア諸氏の「心配」や「危機意識」ほどにナンセンスで、つまらない危惧はありません。
彼らは「労働力」の減少や「生産活動の持続」を心配し、あるいは「国力」が衰退し、「大国」の地位からすべり落ちることに危機を感じるのですが、そんな「心配」や「危機意識」は、すでに“プレタリア”国際主義と種(人類)の自覚――民族とか、国民というせまい意識にではなく――に立ち、生きる労働者とは無縁です。
ブルジョアたちは自分たちのための、搾取材料としての「労働力」や、「国力」としての青少年人口 (国家のために、国家主義、帝国主義政治のために武器を取って闘う「戦力」)を必要とするのであって、だからこそ人口減に大騒ぎし、現代版「生めよ、増やせよ」の空騒ぎを演じるのです。
「生産活動」や「社会保障」のために、人口増が必要だなどということはありません、というのはまともな共同体社会の成員はただ自分たちの社会の生活のため、また自分たちの「社会保障」のために労働し、生産するのであって、それは人口が多いか少ないかといったことと無関係であるのは誰でも簡単に確認できることですから。
そしてことさらに、また今さらながら、しかも柄にもなく、保守的な“家族主義者”、“男権主義者”の安倍らが、「女性」や「老年人口」を「利用」せよ、「活用」せよなどと社会主義者のスローガンを“剽窃して”わめくのは――もちろん、社会主義者は、こんなブルジョアばりの、女性や高齢者に失礼な、粗野で野蛮な言い方は決してしないのですが――茶番であり、笑止千万であって、卑しい権力主義者のご都合主義を暴露するだけです。
女性や「老年人口」が生産的労働や社会的必要労働の一環を担うのは、社会の成員として当然のこと、自然のあり方であって、ブルジョアたちの「利用」願望に沿うためでは全然なく、自らと共同体社会のためであるのは余りに明白で、当たり前のことでしかありません。
安倍も小保方と同じ
真偽よりも思いこみを強弁
2014年4月11日
小保方の記者会見での釈明――開き直り?――を聞いていて、「小保方は安倍ではないか」と思いました。しおらしく振る舞っていましたが、相当の確信的な“悪”(わる)に見えました。
STAPが実在する、自分は200回も作成し、見たと言いながら、自分の「確信」(思い込み、独善?)としてしか言わない(言えない)のは、まさにアベノミクスの本性です。
誰もすぐには事実として論証できず、その理屈の真偽もすぐには明らかにならないことをいいことに、強がって強弁しているに過ぎません。安倍やリフレ派がアベノミクスについて「真実」だと言い張り、強弁しているのと同様です。
200回も作成し、見たというなら、その証拠を提出すればすむことなのに、それを論証する証拠もノートも何もなく、また、偽造や「悪意」さえも認められるというその論文は撤回しないというのですから白けます。
それに細胞を弱酸性の液に浸せば万能細胞になるというなら、そんな単純な問題なら、自然界にそんな現象がいくらでもあってしかるべきなのに、そんなことは聞いたことがありません。我々が単に気がつかないだけだと言うことなのでしょうか。まさかこうした事実が進化の原動力であり、「突然異変」もまたその一つの証拠であり、それを説明するとでもいうのでしょうか。
もし小保方が詐欺師でしかないということが明らかになるとするなら、安倍もまたそうならざるを得ません、というのはアベノミクスの“効能”といったものも、小保方の研究の“成果”といったものと同等のもの、幻影に過ぎないからです。
小保方がそのデマゴギー的本性を、虚言癖を暴露し、世間のつまはじきになっていくなら、それはまた安倍の明日の姿である、と言うべきでしょう。
いやな、荒涼とした時代になったものです。
小学生教科書を国家主義の宣伝書に
安倍一派の権力悪用に反撃せよ
2014年4月5日
安倍一派の「教育支配」の――従ってまた、国民の思想・信条を統制し、支配するという――策動が公然と行われ始めました。まさに“ファシズム”はすでに現実のものとなりつつあると結論するしかありません。
安倍一派は小、中、高のこれまでの 基本的に客観的な事実と真実に置く――少なくとも、そうすることを原則とする――教科書の内容を、自分たちの国家主義の偏見に基づく歪んだ内容、彼らの恣意に基づく一面的で、間違った歴史認識、現実認識に置き換え、そんなものを「正しいもの」として国民に強要する、許し難い策動を開始しました。
安倍一派は「教科書は政府の見解を反映しなくてはならない」と、来春からの小学校のすべての教科書に、領土問題についての安倍一派の「認識」――現在、中国や韓国やロシアと領有権が争われている、尖閣諸島や竹島や北方領土(千島諸島の一部)らをすべて「日本の固有の領土」である、云々――と書かせたのですが、しかし事実について言えば、尖閣諸島は日本が占有し、他の諸島などは韓国やロシアが占有していると言うことでしかありません。
そしてそれらのすべてについて、日本だけでなく、中国も韓国もロシアも――「固有の領土」と言う場合もあれば、歴史的な正当性を言う場合もあるにしても――、みなそれぞれに領有権を主張しているに過ぎないと言うことであって、この場合、日本の主張が正しいという保証は何もありません、というのは、あれこれの領土やその占有と言ったものの大部分は、ただ歴史的にその領有というものが確定されてきたからに過ぎないからです。
だから領有と言っても歴史的なものに過ぎず、「固有」な所有など言うのはナンセンスでしかありません。
これは例えば、沖縄はおろか、北海道さえも日本の「領土」となったのは、「固有の」領土といったものでなく、近代ブルジョア社会の発展による、国民国家の――さらには帝国主義国家の――誕生や形成と関連した、「歴史的な」事実に過ぎないということからも余りに明らかです。
もし現在の国家の「領土」というものについて、子供たちに教えるというなら、こうした客観的で歴史的な事実をもってやるべきであって、「国家の利益」とか「政府の見解(事実上の安倍一派の独断)」や「意向」と言った、真実の基準とはなり得ないものをもってやるべきではないのです。
安倍一派は「慰安婦問題」(朝鮮人女性に対する、日本の天皇制国家による性奴隷化問題)や日中戦争時の、日本の天皇制軍隊による大虐殺事件などについては、その事実を否定する“学問的な”研究――その実態は、ごく少数の国家主義派学者の心やましい、でっち上げ作文――もあることを理由に、教科書は一方的だ、両方の見解を併記すべきだとか、さんざん言ってきました。ところが、自分たちが権力を手にし、好き勝手なことがやれるようになると、とたんに自分たちの見解こそ絶対的だと叫び、圧倒的に多い、安倍一派の「歴史認識」に反する、まじめで、実証的な研究や見解をすべて無視し、抹殺するのですから、安倍一派のやっていることほどに下劣で、醜悪なことはありません。
安倍一派がこれまで叫んできた立場からするなら、安倍一派の「歴史認識」だけでなく、それに反する見解をむしろ積極的に教科書でも明らかにして、子供たちが自分で考え、何が正しいか、どちらの見解がまともかを判断させてもいいはずなのに――安倍一派がこれまで主張してきたことからしても、そうすべきである――、彼らは彼らの見解だけを一方的に子供たちに「たたき込む」ことだけに固執するのです。安倍一派がどんなに自分たちの見解に自信も信念も持っておらず、他の真実の見解がはっきり述べられることを恐れ戦々恐々しているかが暴露されています。
事実や実証的な検討を恐れて、それを無視、軽視し、科学的立場を否定するようなことばかりやり、そんな教科書をでっちあげて行くなら、1945年までの国家主義のためという、一種の恣意とひとりよがりに基づく、でたらめな教科書が復活するしかないのは余りに明らかです、否、すでにそんなものが現実となり、復活していると言って決して言いすぎではありません。あきれた“ファシズム”社会を安倍一派は再現しようとしているとしか言いようがありません。
安倍はこんな品のない教科書を作ったことに対して、「子供たちが海外に行って議論したときに、しっかり考えを述べることができるようにするためだ」などと、例によって――集団自衛権問題で、アメリカ向けに発射された北朝鮮のロケットを打ち落とさないならアメリカとの同盟は崩壊すると言った、ナンセンスな例証を持ち出すのと同様に――、愚劣でばかげた理屈を持ち出すことしかできないのです。
こんな理屈によって、安倍一派の事実認識――偏見と独断――を教科書に持ち込むことは教科書を教科書でなくするのと同様です。こんな教科書を子供たちに強要するなどもってのほかで、ただこのことだけでも来年度の小学生用教科書は落第であって、ただちに廃棄され、新しい教科書が作られなくてはなりません。
来年度の小学生用教科書は、まだ今年の1月、安倍政権が宣言した、「領土や歴史問題で政府見解を反映する」という、でっちあげ検定基準の適用外でもあるにかかわらず、すべての会社の教科書が右にならえで、安倍一派の強要するままに圧力に屈し、追随しました。真に子供たちのためものを編集し、作成すると言う、自らの教科書作成の責任も良心も投げ捨てたと同然です。自由主義的マスコミや教科書会社などどんな信用にも値しないこと、良心や原則のかけらさえもないことが事実でもって明らかになったのです。
従軍慰安婦問題では、安倍は小中学生にはそんな問題は語るべきではない、まだ無理だとわめいてきたのですが、“領土問題“、つまりあれこれの土地や島がどの国のものと考えられるかと言った、複雑で、相当の歴史的知識や観念が必要な問題ならいいと言うのです。“教育”について何も知らない、また“教育的な”配慮も何もない、ご都合主義と独善のごり押しでしかありません。
まさにかつての天皇制軍部のファシズム体制の時代と同様に、“教科書国定”はすでに現実です。教科書会社は検定ではねられたら破産するしかないと、先を争って安倍政権にこびを売ったのですが、ヒトラーに対する、ゲッペルスともいえそうな悪党(つまり悪党らの二人三脚)の菅官房長官は抜け抜けと、そして満足そうに、「ごく当たり前のことを書いただけ」とうそぶき、文科省の大臣などととてもいえない無思想、無教養の下村は、「出版社が適切に判断された」などと、自分たちが強い圧力を掛け続けたことなどないかにうそぶいています。どこまでもげす根性をさらけ出す連中です。
最後に我々は、こんなにも安倍一派がはびこり、領土問題を先頭に、事実も真実も無視した、国家主義者の下等な「歴史認識」、「現実認識」の扇動が公然とまかり通るようになった責任は、あげて、安倍一派、国家主義一派に対して一貫して、断固として反撃すべき勢力、共産主義勢力(もち論えせの、名前だけの)、つまり不破一派、志位一派が、事実上安倍一派と同じ国家主義を持って回り、日本は――国家一般は――「固有の自衛権がある」とか、尖閣諸島も千島も「日本固有の領土」だとか、安倍一派にも劣らない大声でわめいてきたことにあると、断言せざるを得ません。日本の全体から、真実の言葉を堂々と述べる党派が――我々以外は――消えてしまったのです。こんな堕落した共産党などはただ軽蔑の対象でしかありません。ブルジョア的に堕落したろくでもない連中は無視し、自覚した労働者はただちに安倍一派の策動に対する断固たる反撃に移っていくべきときです。今こそマルクス主義同志会に結集し、毅然たる闘いを開始しましょう。
「韓国人は嘘つきだ」という誹謗
真実を歪めているのは誰か
2014年4月4日
韓国人は嘘つきだ、といった誹謗キャンペーンが国家主義の反動派たちによって執拗にやられてきました。最近も政府の一員が、慰安婦問題を頭においてあること、ないことを山ほど並べ立て、韓国人は“民族(国民)として嘘つき”であるかにはやし立てていました。
雑誌WiLLは1年ほど前、韓国人は嘘つきだという特集を組み、雑誌の一冊をそんな中傷原稿で埋め尽くしましたが、そのなかで加藤康夫は大正の関東大震災のときの朝鮮人虐殺事件に関連して、それを正当化して、「背景には明治43年(1910)8月、いわゆる『日韓併合条約』が公布され、朝鮮の民族主義者やそれを煽る共産主義者による独立運動と称するテロ活動が、日本国内で活発化したことがあげられよう。もちろん、日韓併合は国家間同士の国際条約に則った平和裡の条約で、国際社会からも承認されたものである」などと主張しています。
日韓併合は「平和裡に行われた」もので、完全に合法的である、などと言った、故意の、悪意ある嘘を連ねながら、つまり自分たちこそ「嘘つき」の頭目であることを棚に上げて、「韓国人は嘘つきだ」などと言うのはあまりに破廉恥で、卑しい民族差別主義者でしかありません。
正しくは、韓国人にも日本人にも、真実を愛する労働者、勤労者はいくらでもいるのと同様に、虚偽や故意の嘘まで振りまく悪党の反動やブルジョアたちもまたいくらでもいると言うことに過ぎません。
権力維持しか能のない三流政治家
ちぐはぐな経済政策、表面だけの「強調」外交
2014年3月28日
消費増税が4月から実施されます。小心で、本当の信念も何もない安倍は景気後退があり得るのではないかと戦々恐々とし、5・5兆円の補正予算を組むやら、公共事業などを膨張させた放漫予算を大急ぎで成立させました。また、それだけでなく、公共事業費の早期実施を半ば強要するやら、さらには浜田大教授のつまらない助言に頼るやら、とにかくあおられたインフレ景気が少しでも後退し、「腰折れ」にならないように必死の奮戦です。
消費増税をして国民の消費を縮小させるから、今度はばらまきだとはあきれかえった政治で、そんな政治にうつつを抜かしているなら、日本の経済も財政も政治も腐敗し、腐っていくことだけは確かです。
安倍は、株価上昇を扇動して権力を握った自分が、株価の崩落とともにたちまち見捨てられるしかないことに怯えるのです。しかし人為的なインフレ景気といったものが一時的であり、かえって過剰生産、過剰信用などの諸々の矛盾を拡大再生産するー―そればかりか、財政崩壊やいびつな寄生的経済等々の新しい、困難な矛盾を生み出すーーのは現代資本主義の多くの歴史や経験が教える通りです。
口先だけの河野談話継承
再び二俣政治の道へ
2014年3月23日
安倍政権が「河野談話を継承する」としぶしぶと宣言しました。しかし韓国の朴は「本心からか見極める」とそっけありません。安倍に誠意が全くないことをよく知っているのです。
実際、一方で河野談話を否定しないと言いながら、それが正当な根拠に基づいているかどうか「検証する」と言うのですから、誠意が疑われて当然です。
安倍追随の維新の中山は、「韓国の女性は嘘ばかり言う」と差別的侮蔑発言をしています。要するに、性奴隷におとしめられた朝鮮の若い女性の証言はすべて信用できないと公言するのですから、安倍一派らがその本心を何も変えておらず、少しも反省していないことは自明です。口先だけの方便で外交ができると思っているなら、安倍政権を信用する外国がなくなることは確実です。
安倍政権は第一次の時と同様に、またまた「頭隠して尻隠さず」の表裏のある政治、二俣の政治に追い込まれつつあります、つまり再び末期症状を呈し始めたのです。彼らは被害妄想にふけり、河野談話のために、日本は外国から不当な非難や攻撃を受けていると思い込み、日本の15年戦争は反動的な帝国主義戦争でなく、正義の国家防衛戦争であったといった神話にしがみついているのです。
そして反動派は河野談話を「継承する」という宣言に憤慨し、「継承するなら、何のために事実を再度検証する必要があるのか、事実を検証するのは、河野談話を否定し、葬るためではないのか」と叫んでいます。第一次の時と同様に、反動派も安倍のごまかしの二俣政治に反発し始めたのです。
住民の自由意思こそ第一義
クリミア住民の「帰属」問題
両陣営(ロシアもウクライナ・欧米も)は「介入」をやめよ
2014年3月17日
クリミア半島(クリミア“共和国”)の所属――具体的にはクリミアのロシア“編入”――をめぐって、大きな国際的紛争が勃発した。複雑な多くの要因もあるが、労働者階級の基本的な立場は“民族自決権”の擁護であって、それこそが世界中の労働者階級の接近や団結や闘いの発展にとって正しい政策であり、また利益である、ということである。こうした立場に立てば、クリミア住民の意思の尊重が議論の根底でなくてはならない。
その動機がどうであれ、またそれが住民の選択として正しいかどうかはさておくとして、クリミアの住民が「独立」――この場合はウクライナ国家からの分離――に賛成し、またその結果としてロシアの国民として生き、生活することを望むなら、その意思は世界の諸国民と諸国家によって承認されなくてはならない。
問題はクリミアの意思がロシアによって強要されたものか、自主的なものであるかであるが、仮にロシアによる“軍事介入”――軍隊を送りこむ等々――があるとしても、それがクリミア住民の自主的で、自由な意思表示を決定的に妨げるものでないとするなら、本質問題ではないと言うべきであろう。
もちろんクリミア半島の住民が仮にロシア系が多数を占めるからといって、ウクライナではなくロシア国民として生きるという選択をするとは限らないし、またロシア国家が反動的国家であったり、専制的、ファシズム的国家だったとするなら――そのようにみなされ、クリミア半島の住民から毛嫌いされ、拒否されるなら――、問題はそんなにも簡単ではないだろう。
しかしその選択が仮に結果的に間違っていたとしても、それを選んだのが住民であり、その自由な意思であるなら、その結果に責任を負うのは彼ら自身なのである。彼らの自由意思を妨げる権利は誰にも、どんな国家にもないのである(もちろん賢明で親身の忠告があるなら、いくらでもなされるべきであろうが)。
欧米諸国やウクライナ政権は、「威嚇的なロシア軍の存在を踏まえれば、(住民投票は)道徳的効力を持たない」とか、「領土の変更は全土の国民投票で決定される」と規定している、「領土の一体性」を謳うウクライナ憲法に反するなどと言いはやしている。
ロシアが軍隊を送りこんでいる意図は語られていないが、当然に帝国主義的意図も存在するだろう。 問題はクリミアの住民の自由な意思表示として行われることが決定的に重要であって、それがウクライナ側はもちろん、ロシア側からも妨げられてはならないことは言うまでもないことである。
そして今、この自由な意思表示がウクライナ側によって、またロシア側によって妨げられ、踏みにじられていることこそ、ます第一義的に問われ、正されなくてはならない課題である。
クリミア住民の自主的な意思決定やその表明が、意思表明が、ウクライナ政府や欧米の“介入”によって妨げられたり、弾圧されたりするのを排除するという“防衛的な”ものであるなら、またクリミア住民と“共和国”自治政府によって容認され、支持されているなら、ロシア軍の存在は正当化され得るかも知れないが、しかしその場合、ロシア軍の介入は純粋に、クリミア住民の自由な意思表示が公明正大に、徹底的に民主主義的に行われるということを保障するという役割に限定されなくてはならないであろう。
さもなければ、クリミア住民の自由な意思表示の意義は汚され、半減するのであり、今後の多くの不幸や災厄の出発点にさえなりかねないであろう。
他方、欧米諸国はもし“共和国”政府が住民投票を行うなら「制裁だ」と大騒ぎしているが、常日頃から民主主義を掲げ、“民族自決権”の正当性を謳う連中が、住民投票は国際社会――欧米諸国――による「制裁」に値するなどとわめくこと自身が、筋が通っておらず、根本から矛盾している。まさにこれらの“民主主義”国家群の本性を、その隠された階級的、帝国主義的本性を暴露するものであろう。
まさに労働者はロシアも欧米諸国も、また中国も日本も、根本的にはみな同じブルジョア的階級国家であることを確認しなくてはならない。
そもそもクリミアを「領土」と規定すること自体、ウクライナ国家の本性を暴露する。これは例えば言ってみれば、沖縄県を「日本の領土」だと言うと同様であろう。
つまりそれはウクライナ国家の「主権が及ぶ」地理的な領域だ、というのだが、クリミアが国家の一部だというなら、改めて「領土」などと規定して、「領土の変更は全土の国民投票で決定される」などと主張する必要などあるはずもないのである。クリミアが、ロシア人が多数を占める地域だからこそ、現在はウクライナの「領土」であるクリミア地域の住民の国家帰属を、その地域の住民が自由意思で決定するという問題が浮上しているのであって、もともと「領土」ではない「国土」なら、そんな問題が出て来るはずもないではないか。
オバマは「国際社会から侵略の代償を強いられる」などと強がりの警告を発しているが、問題は例えば、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻――それ以前の東欧諸国への侵略行為も同様だが――と本質的に別である。
また欧米諸国は例えば、イギリスが1982年、フォークランド諸島の「領有」を主張して、アルゼンチンと武力で争い、諸島を“守った”とき、みなイギリスの肩を持ったが、しかしプーチン政権が言うように、クリミアはフォークランドよりもさらに一層、ロシア帰属に根拠と正当性があるように見えないであろうか。
ウクライナ憲法との「関係」について言えば、「領土の変更」について語っているのであって、そもそもクリミア“共和国”はウクライナの「領土」といったものでないのであって、欧米諸国がそれを「領土」とみなすこと自体ばかげたこと、おかしなことであろう。
そもそも「領土の一体性」が絶対的だというなら、「民族の自決権」という、ブルジョア社会が20世紀の初頭――第三インタナショナルのサルまねをした、かの14ヵ条のウィルソン・ドクトリン――以来、公式の立場としてきた国際的な合意は意味を持たないということになるが、それでも彼らはいいのだろうか。“民主主義”国のブルジョアたちは全くのご都合主義と便宜主義に陥っている。
クリミア住民が自由な選択をするなら、それはロシアによっても、欧米諸国家によっても、ウクライナ国家によっても妨げられたり、紛糾やいざこざを招来されるべきではない。過去の歴史においても、争いによって混乱や不幸をもたらさなかった、民族自決権による解決の経験――例えば、1905年のノルウェーとスウェーデンの分離等々――は多くあるのである。そうした歴史的な知恵からたくさん学ぶべきであろう。
茶番劇の“賃上げ”
すでに物価は上昇し、労働者の生活水準は低下
2014年3月15日
“好成績”を上げている大企業中心に月2~3千円のベアが実現し、アベノミクスが順調に成果を上げているかで、これで「経済の好循環」も可能となり、デフレ克服も間近であると、ブルジョアとその世論は大はしゃぎですが、彼らはそんなことに喜んでいていいのでしょうか。
ごく一部の労働者の、しかもわずか月2、3千円の賃上げで、アベノミクスの成功が保障されるというなら安いもので、こんな安上がりの買物で万々才だというなら、ただこのことだけですでにアベノミクスといったものがどんなに軽率で安価なまがい物であるかを教えています。
こんな賃上げは需要増大に資するなどということは決してありません、というのは、労働者、勤労者の所得はすでに急速に進み始めた物価上昇によって事実上減少しているからです。
物価上昇による労働者の実質的所得縮小はすでに5%、10%にも達しており、また来月からは3%の消費増税があるのですから、すずめの涙ほどの賃上げなど、労働者にとってすでに事実上の賃下げの後追いとしての意義しか待ち得ません。「ベアが続くのは、政府からの賃上げ要請に加え、物価上昇が続き、消費増税も控える中で、『社員の生活水準を守る』(ライフ広報)という狙いもある」(朝日新聞3月11日)。
実際、安倍らが賃上げを騒ぐのは、アベノミクスがインフレ景気を煽ることによって進み始めた物価上昇に対する労働者の不満や怒りをそらし、ごまかすという以上のどんな意味も持っていません。そして労働組合も“革新”(プチブル)政党も、そんな安倍政権やブルジョアたちのごまかしに追随し、客観的にそれを美化する以外、どんな役割も果たしていません。
労働組合は「消費の活性化には賃上げが効果的」などと言いますが、物価上昇の中で目減りしていく賃金をいくらかでも取り戻すような賃上げで、一体どんな「消費の活性化」が可能だというのでしょうか。
大企業はインフレ景気の中での一時的な利潤の増大に浮かれ、また安倍政権の応援のためにわずかの賃上げを派手にはやしたてていますが、しかし賃上げによって「国際競争力の低下があってはならない」と固く信じているブルジョアたちの賃上げといったものが、労働者が喜んだり、評価したりできるようなものでないのは一見して明らかです。
実際に進行しつつあるのは物価上昇による、事実上の労働者、勤労者の所得の縮小であり、生活水準の低下であり、窮乏化の始まりです。
政府と“労使”の3者の“共闘”による賃上げの茶番劇にどんな期待を持つこと無く、労働者の一貫した、断固たる、独立した階級的闘いを組織し、発展させることだけが労働者の生活を守り、未来を切り開いて行く唯一の道なのです。
アベノミクスの行く末
「消費主導型」経済に期待できない
2014年3月9日
3月1日付の日経新聞『大機小機』欄(筆名“一直”氏)は、「戦後の景気拡大局面は輸出と設備投資が引っ張った。この意味では製造業が機関車だった。今回は明らかに消費者が主役である。企業収益の拡大が雇用者所得の増加につながれば息の長い成長が期待できるのではないか」と言う。
頽廃して行くブルジョアたちの認識はかくも“楽観的”であり、空虚である、つまり幻想に生きているだけである。一体、「企業収益の拡大が雇用者所得の増加につながれば」などというが、その企業収益とは根底的に「製造業」が「主役」でないとするなら、どこから生まれて来るというのか。そして「企業収益の拡大」は製造業の活発な設備投資や事業拡大がないとしたら、どこに根拠を持ち得るというのか。
かくして一直氏の「消費」とは製造業も生産的労働もないところから生じる収入や所得から来る「消費」、つまり海外からの「移転所得」や寄生階級の所得等々にしか存在しないことになる。 要するに彼は日本の経済の衰退や頽廃や寄生性の拡大を何かいいものであるかに、「新しい成長の時代」の到来であるかに、景気回復の核心であるかに言いはやし、たわいもない幻想を振りまいているだけである。
まさにアベノミクスの本性を暴露して余りある。安倍は第三の矢だ、「成長政策」だなどと言いはやしているが、本質的にそんなものとは無縁であって、ただカネをバラまくことによって寄生化する日本経済に拍車をかけ、それを一層深化させているだけである。
我々は何千万の労働者、勤労者への搾取を根底とする資本主義経済を肯定したり、支持したりすることは決してないが、ただ「資本蓄積」や「設備投資」や「製造業」を否定し、軽視して、どんな資本主義的発展も「新しい成長」もないと明言するだろう。安倍のもとで日本資本主義は一層困難と衰退の道をたどるだけだろうが、それが労働者にとって利益ということは決してない。
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