TPPの今国会承認にこだわる安倍
しかし米国では、大統領候補者がそろって反対
2016年4月19日
日本政府はTPPの承認案を今国会で何とか採択しようとしています。昨日(18日)、中断していた衆院TPP特別委員会の実質審議を再開させ、参院でも特別委設置が具体化してきました。
安倍政権は今国会での承認にこだわり、震災のため再開見合わせを求める民進党に対し、自民党の佐藤国対委員長は「首相はTPP審議を一歩でも前に進めたい強い意向だ」として突っぱね、「立法府の運営に関し、行政府の長である首相の意向を与党が前面に押し出すのは異例だ」(東京新聞)とまで報じられています。
安倍政権にとっては、TPPの承認がなされないことはもちろん遅れることさえ、参院選に影響する重大問題ですが、しかし米国では、ことは日本以上に深刻です。
大統領選挙たけなわですが、TPP反対一色といった様相を呈しています。民主党のクリントンは労働組合などの意向に抗することができず、TPP反対に転じ、共和党の強硬姿勢のトランプはもちろん、他の候補もオバマへの反発もあって、TPPに賛成を控えるなど、この調子では、米国のTPPの議会承認は日本以上に難航しそうです。
TPPが仮にも破綻するなら、アメリカを中心としたブロックは大きな激動に直面することでしょう。アメリカを引っ張って、対中国のブロックを固めようと策動する安倍政権にとっても大打撃です。
大統領選が終われば、米国の“世論”もいくらかは変わってくるのでしょうが、TPP一つとっても、ブルジョア世界もまた決して安泰でも安定してもいないことを教えてくれるのです。
コメの減反政策廃止の裏で飼料米への補助恒久化
選挙に向けて、農民票の“買収”工作
2016年4月15日
食用米への直接交付金は、14年産からそれまでの10a当たり1・5万円が7500円に引き下げられ、18年産からは廃止されることが決まっています。
安倍はこうしたコメの減反政策廃止を、自らの成長戦略の大きな成果の一つだと、誇らしげによく持ち出しますが、実際にはその裏で、相も変わらずの保護農政が続けられています。
コメの国内需要は年間約860万トンですが、国内米の生産力は約1400万トンあると言われ、その差540万トンほどを生産調整(減反)する代わりに飼料用米に切り替えようということが進んでいるのです。
飼料米に対する直接交付金は収量に応じて10a当たり5・5万円から10・5万円と食用米に比べて10倍前後高いのですが、さらに多収性品種への取り組みを行えば1・2万円の加算がされ、実際には10a当たり6・7万円から11・7万円もの補助金が交付されています。
そして自民党はこうした政策を恒久化させると農家に約束することで、農家の票を取り込もうというのです。15日付の日経新聞によると、自民党・農林水産戦略調査会長の西川公也は10日に開かれた北海道での農家向けの講演会で、7月の参院選の党公約に「飼料用米を安心して作ってもらうために、補助金予算の恒久化を目指すと書く」と語ったと言います。
農水省の幹部も7日の自民党の会合で「18年産以降も枠組みは当然必要になる」と、コメの減反政策廃止後も飼料米への補助は継続することを表明していると言います。
食用米価格に比べて飼料米価格はおおよそ7分の1程度だと言われていますから、多くの補助金を出さなければ食用米から飼料米に転換する農家が出てこないというわけですが、これでは補助の対象が食用米から飼料米に変わっただけで、農業保護政策には何の変更もありません。補助金漬けの保護政策の下では生産性の向上など後回しになるのはこれまで同様です。
TPPだ、成長戦略だ、と掛け声は大きいのですが、その実体は相も変わらずの補助金漬けの保護農政であり、これまで自民党政権がやってきたことと、基本的に何も変わっていません。そして選挙が近付けばますますこうした“買収”工作が盛んになってくるのも、これまで同様です。
ハムレット岡田の悩み
消費増税に賛成か、反対か
2016年4月9日
民進党の岡田がまるでハムレットのように迷っています。安倍と共に、否、安倍に先駆けて、消費増税の凍結を声高に叫ぶべきか、それとも安倍の消費増税延期を公約違反として糺弾し、安倍政権打倒の一契機にすべきかで決心がつかないからです。
もちろん彼が迷うのは、消費増税は民主党が主導し、自公民で決めたことであり、税と社会保障の「一体改革」は野田や岡田の持論であって、簡単に再延期など言えないからです。
かくして岡田は、一方で、消費増税凍結を唱える党内の松野や“左派”からの圧力に耐え、他方では、消費増税によって財政再建も何とかせよという自民党やブルジョア勢力にも配慮しなくてはならないのです。
そして安倍もまた再び消費増税凍結に走ろうとする時、彼の立場はますます複雑とならざるを得ません。彼は安倍を非難します。「(安倍は)14年の衆院解散時に『次は必ず引き上げる』と断言した。延期なら明らかな公約違反で辞任に値する」。
岡田は安倍を公約違反で批判することはできるのですが、しかし消費増税凍結では非難できません。というのは、党内や野党には、安倍の凍結を事実上肯定し、歓迎する連中が、共産党をはじめうようよいるからです。
岡田は本心では、安倍が自公民の消費増税の共通の立場や同意を「政局のために」安易に裏切るのを不快感をもって見ている“まじめな”ブルジョアなのです。
だからこの問題を単なる「戦術論」として議論する安倍にも、党内の松野らにも、岡田は不快感を隠そうともしないのです。「(政府・与党側の)『先送りして解散すれば有利だ』という議論と、野党側の『先送り話を首相より先に言った方が勝ちだ』という議論は、いずれも間違っている。政治の質を落とす」と。
資本の体制から一歩も出て考えることのできない岡田にとっては、増税とりわけ消費増税なくしては、財政をいくらかでも安定したものとして確立する方途を見出すことはできません。
しかし他方では、彼は行政改革もなくバラまき政治のまま消費増税に走るのにも抵抗心があるのです。またデフレが深化していくときに、消費増税を先頭に立って強行し、経済悪化の場合の責任を取る勇気もないのです。
仮に消費増税が来年春行われるにしても、再度の延期になるにしても、民進党のヘゲモニーによってでなく、安倍政権によって行われるに越したことはない。それならいずれにしても民進党の責任が問われることはないからです。
だから岡田は消費増税か、先延ばしかの間で迷い、安倍政権の出方を見てから、ギリギリの態度決定をしたいのでしょう。
消費増税を巡るハムレット岡田の逡巡は、半ブルジョア政党としてのこの党の本性から出てきています。
市民主義政党として、消費増税反対から出発しつつも、ブルジョア的現実政党に行き着いた民主党野田政権は、資本の党と同様に大衆収奪による財政再建の重要性を自覚し、自公に代わって、あるいは自公とともに消費増税路線に舵を切ったのですが、それは党内の、労働者的部分はもちろん、市民主義的部分からも反発を買って来たのです。岡田は、党内の“左派”よりも、自民党の谷垣らのような連中と一緒の時にこそ、本当に落ち着き、我が家にいるようなくつろぎ感に浸れるのです。
そして志位は、岡田民進党が、消費増税問題でもTPP問題でも安全保障・防衛政策でも、共産党や社民党とは違った、対立的な立場に立ったとき――それは大いにあり得ることなのですが――、いかにして彼らとの協調路線を守ることができ、あるいは、選挙で民進党の候補者を応援して国会に送り込んだ責任を取ることができるのでしょうか。
予算成立と同時に補正の声
選挙目当てのばら撒き財政
2016年4月3日
2016年度予算が成立しました。国の借金が1000兆円を超えるというのに、一般会計の総額は96兆円7218億円と過去最高額となり、放漫財政は留まるところを知りません。
安倍は予算成立後の記者会見で、「予算を早急に施行することが必要だ。可能なものから前倒し実施するよう麻生太郎財務相に早急に指示する」と述べ、少しでも早くカネを使うことを促す一方、早くも、10兆円とも言われる補正予算を組むことが検討され始めています。
4~9月期に予算を前倒しして早期執行すると後半では財源が制約され、財政による需要拡大効果が限られるから、補正予算を組む必要があるというのですが、アベノミクスが成功しているというのなら、なぜどんどん財政支出を繰り出していく必要があるというのでしょうか。安倍もまた、民主党政権に負けず劣らず、バラ撒きの政治を繰り返しているだけです。
カネがなければ国債を発行すればよい、日銀という買い手が控えているのだから、カネはいくらでも産み出せるのだと、いまや完全にタガが外れた状態になっています。
安倍は、「主要7カ国(G7)の政策協調が求められている。サミット議長国として新たな局面に入る世界経済のかじとりにリーダーシップを発揮していきたい」と、5月のサミットを利用して、ここで経済対策を打ち出して補正予算を組む予定だといいます。
しかしここで考えられている経済対策とは、額面を上回る買い物ができるプレミア商品券を発行して消費を喚起するとか、子育てサービスに使うバウチャー(クーポン券)配布とか、保育士給与をすでに実施した分を含めて4%(月額1万2千円)上げるなどといったものです。プレミア商品券やバウチャーなどは露骨なばら撒き政策であり、保育士の給与引き上げも待機児童に苦しむ若い世代に対するジェスチャー的なものでしかありません。
こんなものでどうして世界経済のかじとりにリーダーシップを発揮するなどと言えるのでしょうか。予算を前倒しして使い、補正予算を頼りの経済対策を5月に打ち出すのは、7月実施の参院選(あるいは衆参同日選)に向けて、カネをばら撒いて票を得ようとする醜い魂胆があるからです。
アベノミクスの破綻を覆い隠し、“買収行為”で政権の延命を図ろうという安倍内閣のもとで財政破綻はますます進行するしかないのです。
日本“帝国主義”の“新段階”
南スーダンPKOと安保法の施行
2016年3月25日
安倍政権は、昨年9月に成立した安保法を3月末にも施行しようとしています。
労働者、勤労者やプチブルの反発を恐れ、施行しても「準備期間」を設けるなどの口実で、実際に行うのは参院選後に先延ばししています。
当面、すぐにでも問題になるのは、南スーダンにおける、自衛隊のPKO(平和維持活動)です。政府は当初、「駆けつけ警護」などの任務追加を想定していましたが、今秋に派兵される11次隊以降に変更してしまいました。下手をして、自衛隊員に死者でも出たら、参院選にどんな影響がでるか分からないからでしょう。当面、慎重に、ソロリ始めようという算段です。
何と2月20日過ぎに実施された共同通信の世論調査では、安保法廃止を求める人々は38%で、支持する人の47%を9%下回ったといいます。半年前の支持、不支持の数字が逆転したのです。
理由はいくつか考えられますが、冷静になって考えた結果ということでしょうか。「戦争反対」と叫ぶだけで「平和」――いかなる平和かが問題ですが――を手に入れ得るような時代と世界ではないことを、労働者、勤労者は実感として知っているのです。
実際、南スーダンで2年3ヶ月ほど前に、大統領派と副大統領派の内戦が、部族対立や利権など、複雑な要因も絡んで血で血を洗う悲惨な内戦が始まって以来、何万人もが殺害され、200万人ともいわれる避難民が発生しています。シリアも似たようなものです。
国連のPKOが住民保護などの任務で展開しており、日本も自衛隊を派遣していますが、この2月にも、避難民数万人を収容する国連保護施設が、政府軍によって空爆され、20人ほどの死者が出ています。政府軍は、殺戮や略奪を繰り返し、またPKO要員への武力攻撃を繰り返しています。
国連が南スーダンでやっていることは、いわば「世界の警察官」としての役割ですが、もちろん背景には、ブルジョア大国の帝国主義的野望も絡んでいます。
国連の、こうした「世界の警察官」としての活動は、容認できるのか、それともいかなる意味でも許されざること、無意味で、反動的なことだろうか。それが問題です。
我々は少なくとも、志位の以下のような理屈を肯定し、支持することは決してできないでしょう。「自衛隊に住民保護と言う、任務遂行のための武器使用を認めたら、自分の身に危険が及ばなくても、住民に銃を向けている者を殺傷することになる。南スーダン軍が住民や国連PKOを攻撃してきたら銃火を交える。これは憲法が禁じる武力行使そのものだ」。
つまり志位は、憲法9条が日本は海外で武力行使をしてはならないと規定しているから、仮に政府軍が非武装の住民を敵と見なして攻撃し、大量殺人の山を築こうと、憲法を順守して、見て見ぬ振りをせよというのです。
志位は、いやそうではない、そんな立場に追い込まれることのないよう、国連のPKOのために、スーダンにまで出かけなければいいのだ、と言うのでしょうか。
要するに“平和な”日本で我々は安全に暮らしたい、日本以外のことは知ったことではないし、関わりたくないという、何か偏狭なエゴイズムにしか見えないのです。
共産党は、「南スーダンで任務を拡大すれば、自衛隊が現地人と交戦し、『殺し、殺される』危険は避けられません」などと言いますが、“何の罪もない”住民が大量に、無意味に死んでいくのを前にして、日本人が死ななければいいといった発想で発言する人々は何か浅ましい。少なくとも、そんな悲惨な状態に置かれている何百、何千万の人々がこの世界に厳然として存在している現実から、労働者は決して目をそらすことはできないし、またそうした現実とその意味について深く反省すべきなのです。
主体は「人」か「個人」か
リベラルマスコミの観念的主張
2016年3月20日
国会の憲法論議の中で、民主の議員が安倍に、憲法13条、「すべて国民は個人として尊重される」とあるのを、自民改正案では「人として」と修正されているが、何か意味があるのかと問いました。安倍は面倒と思ったのか、「さしたる意味はない」と答えましたが、リベラルマスコミの朝日も毎日も現行憲法への否定的評価の現れだと大騒ぎです(毎日は2日の「発信箱」で、朝日は4日の「天声人語」で)。
13条は歴史上の「憲法」や諸外国の現行憲法に余り見られない表現であって、こうした場合には、普通「人」が用いられています。
米国革命時代の1776年権利章典の最初には、「すべての人は生来等しく自由かつ独立しており、一定の権利を有する」とあり、仏国革命の1793年ジャコバン派憲法冒頭にも、「社会の目的は共同の幸福である。――政府は、人々にその自然権を保証するために設けられる」として、2条以下で「自然権」を列挙しています。
いずれも主体は「個人」ではなく「人」であり、人類あっての「個」であることは当然に前提されています。 個人主義者たちは、人類から切り離された「個人」としての「個人」といったものが空虚であることを自覚できないのです。そもそも「国家」を観念的に否定する彼らが、国民国家の限界内に留まる「国民は個人として尊重される」という観念を憲法の根底概念だと至上視すること自体ナンセンスで、矛盾です。
13条は9条の平和主義などと共に、日本憲法のブチブル的特性を象徴し、暴露するものでしかありません。
マイナス金利世界の出現
資本の破れかぶれの捨て鉢政策
2016年3月13日
マイナス金利という、たちまち破綻し、後々に大きな禍根を残す、無責任で、アナーキーで、正気を失った政策が導入され、闊歩しています。
カネを貸した方が「利子」を支払わなくてはならないといった、転倒した、理屈に合わない現実が生まれているのは、ただ日銀が巨額の国債を高価格でほとんど無制限といっていいような規模で買いあさっているからにすぎません。
今、年々数十兆円の巨額な規模で発行される国債価格は値下がりする代わりに高騰するのですが、それは、国債をとりあえず国から買った銀行などから、日銀が年々80兆円も、しかもますます高価格で、買い上げているからです。
日銀は「買うこと」だけが目的で、儲けることが目的でないから、価格高騰など意に介さないのであり、また銀行は、国から買った国債を必ず利益を保証して買ってもらえるのだから、ゼロ金利であれ、マイナス金利であれ、国債を商って損することは決してないのです。
そして日銀はこんな市場経済の原理に反したことも平気でできるのです。というのは輪転機を回すだけで、日銀券を、つまり「通貨」であり、また「貨幣資本」でもある日銀券(お札)をいくらでも人為的に「創造する」ことができ、そんなカネをバラまくこともできるからです。
まさに恐怖すべき資本主義、アナーキーで、万能で、傲慢不遜な資本主義です。あるいは資本主義がそんな恐るべき怪物に、奇っ怪なお化けに変質したのであり、さらにしつつあるのです。
もちろん政府の「財政規律」といったものは全く存在しなくなります。というのは、国債をマイナス金利でも発行することができるとなるなら、つまり借金をしても交付金をもらい、儲けることができるというなら、そんなすてきな商売があるとするなら、政府が国債を発行する(借金を増やし続ける)ことは無条件で奨励されこそすれ、非難されるいわれは全くないということになるからです。反対に、国や政府は借金をいくらでも増やし、国家財政をメチャメチャにすることこそ善であり、国や国民のためということになります。
そしてマイナス金利で銀行に溢れかえるカネを押しつけ、銀行は銀行で企業や個人にそんなカネをバラまき、企業や個人がそれらを無造作に、気楽に使えば、需要は無限に――理論上は、あるいは頭の中だけで――膨れあがり、景気は回復し、国民すべにとっていいことだらけであり、経済のすべてが「好循環」するのであり、かくして安倍と黒田の功績で、日本に理想郷が、久しく人類が求めて手にすることのできなかったユートピアが出現するというのです。
要するに、カネが巷に流れ出し、溢れるなら、投資や消費に費やされ、かくしてデフレであろうと、不況や株価低落であろうとたちまち一掃してくれるというのですが、そんな幼稚な浅知恵や幻想が通用するほど、“市場経済”は甘くはないのです。
そもそも需要を人工的に、財政膨張や金融緩和で自由自在に作り出せるといった、現代ブルジョアたちの「経済学」(ケインズ主義、リフレ派の経済学)ほどに途方もなくナンセンスで、間違っているものはありません。
現実の市場経済では、「需要」はそれ自体で存在するものではなく、生産や供給によって規定されているのです。我々は誰でも、「買」は「売」であり、また反対に「売」は「買」であることを知っており、あるいは簡単に確認することができるのですが、現代のブルジョア諸君は、そんな基礎的な認識もなく、「売」や「生産」と無関係の、それから切り離された「買」や「需要」を規定し、想定し、そんなものを「創造する」ことによって、資本主義の永遠の繁栄を可能にし得ると妄想するのですが、ただ自分たちの社会を自ら壊し、衰退させ、出口のない行き詰まりに導いているだけだということに気が付かないだけです。
「立憲民主党」だって?
民主と維新の合同
2016年3月4日
「立憲民主党」だって? 民主と維新の合同 民主党と維新が合同する党の名はまだはっきりせず、民主党内からは「民主の名の入るものにせよ、この点では譲れない」という強い意見も出されているようですが、合同に強い関心を持つ“外野席”(市民派)からも、「立憲民主党」というのはどうかという、一つの提案がなされています。
1月19日、小林節が呼びかけ、樋口陽一や俳優の宝田明らが名を連ねる「立憲政治を取り戻す国民運動委員会」の設立の記者会見で、“評論家”の佐竹信が提案したということです。
彼らはこうした党が、戦前、立憲○○党などの名で存在したと言うこと、そして一つのブルジョア的で、反動的な政党として、天皇制軍国主義国家への過渡をなしたと言うことを、まるで知らないかに浮かれているのです。あきれたアナクロニズムというしかありません。
もちろんこんな名が採用されることは万が一にもないでしょうが――というのは、新党がそんな名を名乗るなら、まさに自殺行為にも等しいでしょうから――、市民派の歴史や政治に関する知恵といったものがこんな程度の連中であることを暴露する、貴重な経験です。
そもそも「立憲○○党」といったものは、明治から昭和初期頃までの、日本の政治史を彩った政党の名として、山ほどあるのであって――1882年の福地源一郎の「立憲帝政党」(純然たる藩閥政府ご用政党)や、立憲国民党(1910年、犬養毅が中心になって組織された党)や、立憲政友会(1900年、伊藤博文が組織した政党で、戦前の政党の中心に位置したブルジョア的、地主的反動政党であった政友会の正式名称)や、立憲同志会(1913年、反動の桂太郎が結成した政党)等々――、まさに枚挙にいとまないほどです。
市民派の意識は、完全に“明治期の”意識、途方もない時代錯誤の反動意識でしかありません。「立憲○○党」云々は、王政や専制政治の時代にのみ相応しい概念であって、今持ち出すなら、単なる世迷い言の空論にしかなり得ません。
そんなことも理解できず、どんな現実観念、歴史観念とも無縁な市民派や共産党が、国民連合政府などの観念的で、ドグマ的な“戦略”など持ち出して、参院選挙前にたちまち破綻したのは偶然でなく、彼らの度し難い政治オンチを暴露したのです。こんな連中が間違っても安倍政権の打倒を勝ちとることはもちろん、いくらかでも追い詰めることさえ出来ないことほどに確かなことはありません。
政治組織に結集し、団結した労働者の断固たる階級的、政治的な闘いが必要なのです。今こそ、新しい労働者政党結成と労働者の政治進出の呼びかけが高らかになされるべき時です。
画餅に帰す志位の参院選戦略
「安保法」や「閣議決定」の破棄はどこへやら
2016年2月27日
志位の執着にもかかわらず、国民連合政府とそれによる「安保法」や「閣議決定」の廃棄のための闘いという路線は画餅に帰し、志位は仕方なく、一方的に、共産党は一人区で立候補をしないと言うしかない立場に追い詰められました。
志位はいまや岡田の軍門に下り、岡田路線――半ブルジョア的な路線――に追随するしかなくなったのです。志位の路線の完璧な破綻であり、挫折です。
野党の統一戦線は辛うじて残ったというのでしょうか、しかしそんなものは、事実上、民主党のためのものであって、共産党にとっては苦い屈辱的なもの――一方的に譲歩を迫られる――にしかならない、否、すでにそうなっているのです。
志位は結局民主党に――松野維新にさえ――全面的に降参、屈従して、参院選を闘う道を余儀なくされたのです。共産党を毛嫌いする松野さえ、「共産党が腹をくくって一歩引くというのは千載一遇のチャンスだ」と大喜びです。
死にそこないの民主党に手を貸し、美化するしか能のない党とは、なんと情けない、卑小な党でしょう。「自共対決」をわめき、共産党のみが闘う党で、民主党など信用できない日和見党だと叫んできたのは、共産党ではなかったのでしょうか。
岡田や松野に譲ったのは、野党5党が安保法関連法を廃止する2法案を衆院に提出することで合意し、共通の政治的立場が確認できたからだ志位は言うのでしょうが、見え透いた欺瞞であって、実際には、岡田らが志位の体面のために、単なる政治的儀式の茶番を演じ、それと引き替えに、志位の全面的な屈服と譲歩を取り付けたということにすぎません。
志位は参院選を闘う大義名分を失ったのです。集団的自衛権容認の閣議決定や安保法を粉砕する国民連合政府も棚上げするということは、それらの課題がどうでもよく、「緊急の」課題でもないということで、昨年の9月以降言ってきたことはすべて、見通しも現実性も何もない妄想、妄言のたぐいだったということです。
参院選では無理だとしても、衆院選では協力をし、295の選挙区で、共産党が民主党などに協力を求める選挙区も当然決める、そこでは対等の「ギブアンドテイク」でやるかに取り繕うのですが、それも、民主党などが応じなければ画餅に終わるだけです。そして民主党が――民主と維新がくっついた新党が――志位の思惑通りに動くとは限らないのです。
「単なる棲み分けではなく、本格的な選挙協力を目ざす」と言いますが、その内容も展望も曖昧で、何の当て、見通しもないのです。 共産党がこれまで一人区や小選挙区のほとんどすべてに候補者を立てたのは、当選できないにしても、そこでの闘いによって、「比例区の票の上積み」を期待できたからだそうです。しかし今回は自党の利益だけを考えることはやめて、“野党”全体の利益を考えると殊勝にふるまうかですが、しかしそれは、これまで共産党のやってきたことはとことん利己的であったことを自ら認めることにならないのでしょうか。
いまや共産党は安倍政権と原則的に、徹底的に闘い、労働者、勤労者の熱い支持を得て議席を増やすのではなく、闘いを裏切りつつ――というのは、それなくしては安倍政権と闘うことのできない大切な“統一戦線”なるもののために、そして半ブルジョア政党の、とことん日和見主義で、すでに破産しているような民主党に媚びるために、日米安保条約や自衛隊や天皇制を否定するという党の原則を棚上げするというのですから――、民主党や市民派といちゃついて議席をいくらか増やそうと策動するだけです。「野党共闘を強く求めてきた市民団体の意向に沿うことで、……『比例票と複数区での票の底上げが期待できる』と計算している」(朝日23日)のだそうです。
民主党や「市民団体」に迎合するそんな政治で「支持拡大」に励むが、そうすることで、彼らは得る物よりも失う物の方がどんなに大きいか、そしてそれが共産党の未来を全く奪い、解党への道につながるかを知らないだけなのです。
帝国主義国家の争いに、労働者は国際主義で応えよ
中国の西沙諸島へのミサイル配備をめぐる動き
2016年2月21日
中国が西沙諸島に射程200キロのミサイルを配置し、「実行支配」を強化し、まるで1930年代の日本の天皇制軍国主義者のように帝国主義政策を推し進め、「既成事実」を積み重ねています。
当然、アメリカを中心とする、もう一つのブルジョア帝国主義陣営も反発し、「次元の違う」重大問題だ、断固たる措置をとる必要があると騒ぎ立てています。
もちろん安倍政権もそうした反発を最大限あおり立てて、日本を世界の最も強硬な戦士の一つとして自己を売り込もうとしています。アベノミクスが破産しつつあるいま、それに代わる、格好の政権維持手段というわけです。
市民派やリベラルや共産党がなんといおうと、現代は今なお、“禽獣のような”、そして露骨で利己的なブルジョア帝国主義的強国が支配し、覇権を争う世界であって、それは中東において、東西アジアにおいて、全世界において、ますます明白な形をとって現れています。
西沙諸島や、尖閣諸島等々で軍事的な紛争が起こるなら、全ての政党や政治勢力は、それに対してどんな態度をとるかが問われるのは、二つの世界大戦等々において、それが問われたのと同様です。危機の瞬間にこそ、全ての政治勢力の本当の姿が明らかにされるのです。
労働者は国際主義の立場をしっかり確認し、決意を固め、一切の帝国主義者、国家主義者、排外主義者、民族主義者、“祖国防衛主義者”等々に反対して闘いを強めていく必要があります。
安倍・黒田の虚構世界が音を立てて崩れて行く
経済的、政治的な激動の時代の始まり
2016年2月14日
日銀のマイナス金利発表の後、株価の崩落と円高傾向が続いています。
日銀のマイナス金利だけによるものではないとしても、積もりに積もった、アベノミクスによる“超”(ウルトラ)金融緩和政策の多くの経済的不均衡や矛盾や様々なひずみ等々と深い関係を持ち、それが行き詰まり、限界にきたことを暴露しています。
つまり空っぽだった“アベノミクス”の崩壊の始まりというしかありません。
インフレ経済を煽ることで、日本経済の困難や長期的な停滞や衰退さえも――彼らが間違って呼ぶところのデフレ(物価下落経済?)――を克服することはできないのです、むしろ反対に、一層それを深化させ、推し進めたのです。 インフレ経済がもう少し出てきて、インフレ景気ともなればいくらましだったかもしれませんが、そんな空景気さえも空振りで、円安と株価高騰だけでは、アベノミクスの挫折は遅かれ早かれ不可避だったのです。
今顕在化しつつあるのは、安倍や黒田によって作り出された虚構の世界が音を立てて崩壊しつつある現実です。 日本の破産状態にある国家の債券が高値で買われているという、逆立ちした世界です。
参院選に向けて、今後こうした経済の傾向はさらに進み、経済状況はさらに悪化して行くのでしょうか、それとも安倍政権の必死の挽回策によって持ち直し、株価も再び上昇に向かうのでしょうか、それが問題です。参院選の結果を大きく左右するものなることは確かです。いずれにせよ、経済的、政治的に激動の時代が始まったように思われます。
今こそ、我々の戦線を整え、強化していくことが重要な意義をもつ時になったようです。
黒田金融緩和は“効果”なく破綻へ
“マイナス金利”はアベノミクスの終着駅
2016年2月7日
日銀はついにマイナス金利に踏み切りました。“民間の”諸銀行の日銀預金にマイナスの金利を課すと言うのです。
金利と称していますが、事実上、預金に対して課徴金を、罰金を課すと同様で、“経済法則”に真っ向から逆らうものであり、うまく機能するはずもなく、血迷ったというしかありません。
せっかく量的緩和で銀行にカネをダブダブと供給したのに、そんな銀行が産業資本などに貸し出すことをしないで、日銀に戻し、預けてしまい、「死蔵」するのは許されないというのですが、実際の経済にカネ(利子生み資本)の“需要”もないのですから、銀行は日銀に預けて、せめて0・1%の利子を期待するしかないのです。
銀行が日銀にカネを滞留させているのは好んでやっていることではなく、産業資本が今はカネならいくらでも持っており、しかもそれすら投資する対象や必要性もなく、銀行貸し出しに期待していないからです(もともと量的緩和政策がそんなものです)。
こうした現実があるのに、それをそのままに、マイナス金利で諸銀行に貸し出しを強要し、強制的に貸し出しを増やせというのですから、そんな“政策”しか実行し得ないというのですから、安倍政権も黒田日銀も完全に手詰まりとなり、焦り、そして今やろくな“経済政策”も持ち合わせていないということです。
日銀が“異次元の”金融緩和で銀行に大量にバラ撒いたカネを、いわば強制的に流通させようということで、これはすでに日銀券の紙幣化であり、その出発点というしかなく、安倍政権に残っている“金融”政策は、その限界を超えて、紙幣の発行にまで行き、そんな形でインフレ経済を労働者、勤労者に、国民の全体に強要するしかないということを示唆しています。
日銀のマイナス金利政策は黒田自身がこれまでしばしばその実行を否定してきたように、メリットがあるというよりデメリットが大きく、アベノミクスの全体の破綻を告げ知らせるきっかけにさえなるでしょう。それを恐れるからこそ、黒田はこれから増える諸銀行の日銀預金に対してのみマイナス金利にするのであって、これまでのバラまきを預金化した260兆円のカネには、引き続き、これまで通りプラス0・1%の利子率を続けて銀行経営にも配慮するとか、法定準備金は0%だとか約束し、言いはやし始めています。つまり自ら、マイナス金利の“効果”――仮に、そんなものがいくらかでもあるとしてのことですが――を低め、無にするのですから、中途半端で、矛盾もいいところです。
今こそアベノミクスの有害さと偽りを暴露し、そんな「反緊縮」政策――共産党もまたこんな反動的な政策を安部と共に愛好し、賛美するのですが――を粉砕し、安倍政権打倒を現実のものとして行かなくてはなりません。アベノミクスは今では安倍政権の目玉商品でなく、欠陥商品に、重荷に、安倍政権を脅かす爆弾になりつつあります。
かくして安倍政権に残るのは、国民に対外的な“危機”や“危険”をわめき立て、あるいは自らそんなものを演出し、他国を挑発しつつ、ますます国民全体を軍国主義に導いていく政策だけです。
そんなものだけが安倍政権を救い、延命させ得るものとして現れて来るということですから、労働者、勤労者にとって、国民全体にとって、“危険”で恐るべきものがもしあるとすれば、今や安倍政権にまさるものは何もありません。
天皇による「慰霊」など許されない
厚顔無恥な天皇一家のフィリピン訪問糾弾!
2016年1月29日
天皇はいい気になって、またまた外国に、フィリピンに「慰霊の」旅に出ています。そうでもしなければ、自分たちの存在意義が問われるし、またそうすることが、自分たちの――また同時に、ブルジョア支配階級の――かつての戦争犯罪をおおい隠し、また自分たちの現在の地位を高め、固める絶好の機会と知ってのことです。
天皇によって殺された数十万人の日本人やフィリピンの100万人余の民衆が、その死をもたらした張本人の勢力の一部であり、戦争犯罪人の天皇一家によって「慰霊」されたり、「鎮魂」されたりすることがあるはずもありません。
彼らは日本の死者に対してだけでなく、フィリピンの民衆に対して謝罪することさえしないのであり、出来ないのです、そんなものは他人事であるかに振る舞うし、振る舞うことが出来るのです。
ドイツのヒトラーもイタリアのムッソリーニも、そしてイタリアの王室も、東條も、あの戦争で殺されたり、あるいは死刑になったりしました。アメリカなどの支配者、権力者ももちろん同罪ですが、それはここではさておくとして、同じ敗戦国の指導者の中で、日本の“最高指導者“であった、天皇家だけは――要らぬことをした、愚妹のマッカーサーの“誤解”に助けられて――辛うじて生き延びました。
しかし、だからといって自らの罪を知らぬ顔をして出しゃばったり、出しゃばることが出来ると考えるとは、あきれたハレンチ漢たちです。
フィリピンで、アジア太平洋の全域で、どんな戦争――ブルジョア支配階級や天皇制軍部ファシストたちによる野蛮な大量殺人のゲームだ――が行われたかを確認し、知るなら、通り一遍の「慰霊」とか「鎮魂」とかいったきれいごとで済むはずもないことは容易に確認されます。
フィリピンの労働者、勤労者が太平洋戦争中の日本の蛮行を「許し」、友好を願うのは、天皇一家に対してではなく、日本の労働者、勤労者に対してです。
絶望と悲しみと恨みと憤怒の中で、天皇や軍部ファシストやブルジョア支配階級のために死んでいった――殺された――、何百万人の労働者、勤労者の名において、厚顔無恥な天皇一家を糾弾するのは労働者、勤労者の、我々の“聖なる”義務であり、権利です。
破綻する統一戦線戦術
民主党に袖にされる共産党
2016年1月22日
民主党と共産党の統一戦線遊戯は今や風前の灯です。岡田は一人区の党公認候補を増やしつつありますが、それは共産党のことを配慮してというより、志位の呼びかけやラブコールなどどこにあるかといった雰囲気で、まさに「我が道を行く」という言葉そのままです。
志位は、「一本化を本気でやるならば、真剣な協議としっかりした合意が必要だ。協議抜きの一本化はできない」とこだわるのですが、岡田はそんな協議が不毛であり、やっても得にならないと信じているので、事実上知らん顔をして、民主党独自の闘いの準備に力を入れています。
かくして、志位はたちまち行き詰まり、なすすべを失いつつあります。
志位は岡田に愚昧な統一戦線戦術の足下を見透かされ、今やいいように利用され、引き回されている感じです。民主党の党幹部と協議して、候補者調整をして、共産党にも2、3の一人区で「統一候補」を割り当ててもらい、あわよくば議席を獲得しようという志位の「取らぬ狸の皮算用」は、志位が「信用している」といった、当の岡田によって裏切られているのです、というより、岡田は最初から志位と「誠実に」協議することなど考えてもいなかったし、志位をいくらかでも信用するなどは間違っている、今共産党と「真剣な協議」など必要ないし、しても意味がないと知っているのです。
そして岡田は今や開き直って志位を追い詰めるのです、本当に野党の勝利を願うなら、当選の可能性の高い民主党の、あるいは民主党の推す候補者を支持し、当選させればいいのであって、そのためには別に協議などする必要はないと。共産党候補を統一候補にして敗北するくらいなら何の利益もない、民主党なら勝てたかもしれないのだからというわけで、そういわれて、志位には返す言葉もない有様です。
無党派や市民派の熱い要望やラブコールに応えて、統一戦線を提起し、そんな戦略をリードしていると幻想を抱き、うぬぼれていた志位は、実際には岡田の手のひらの上で踊っていただけであり、半ブルジョアの日和見主義政党を美化し、正当化してやっただけということになるのです。
共産党の山下書記局長は、共産党が民主党に「政権構想なしの協議入り」を打診したと語りましたが、民主党からははかばかしい対応はなかったようです。今さら、ということでしょうか。かくして志位の愚劣な戦略は破綻しつつあります。
志位の国民連合政府構想で同意する統一戦線という戦略はドグマと化し、今では実行不能であり、ナンセンスだということが、現実の中で暴露されてしまいました。結果はむしろ野党統一ではなく、野党の分裂であり、セクト争いの激化です。
そんな野党が自民党に勝てるはずもありません。もともと民主党も共産党も安倍自民党の敵ではないのですから、そんな政党がいくつ集まっても安倍政権と闘い、いくらかでも追い詰めることができるはずもありません。
ゼロはいくつ集まっても、ゼロを超えることはできないのです、そして共産党も民主党も最初からゼロどころではない、マイナスのような政党なのですから、そんな党の統一戦線云々が最初から無意味な無駄話としてしかあり得ないのは最初から明らかなのです。
年頭の決意
2016年1月16日
金属労協は春闘のベア要求を3千円以上と決めました。昨年の要求の半分であり、実績の4千円すら下回っています。政府や経団連が昨年以上の賃上げを口にはしゃぎ回る中で、連合幹部の“冷静ぶり”が目立ちます。企業のために、“過度の”賃上げを自粛するということらしいです。
役所の統計によると、昨年の平均賃上げ額は5,282円で、前年比1.9%増でしたが、政府が目指した3%には達しませんでした。しかしもちろんこんな数字は中小零細企業の労働者や非正規労働者には別世界の話です。
「もの分かりの良すぎる」労使協調の――というより、経営代行の――“労働運動”がはびこる中、戦後期から70年代にかけては年間数千件もあったストや「怠業」は何と14年にはたったの70件、多いときの1%にも満ちません。労働者の階級的解体であり、それに比例して労働者の地位や生活は、一部を除いて悪化する一方です。
闘えばいいというものではありません、しかし必要なら、必然なら、階級的自覚をもって闘い、反撃に移らなくては何ごとも変わらず、道も開けないのです。
反動と国家主義の政権や、インフレ経済にしか希望を託せない頽廃した経営者たちが、様々な策動や虚偽や買収などによって労働者を抑圧あるいは懐柔しつつ、さらに搾取を強め、また困難を排外主義、愛国主義にそらし、軍国主義の危険な賭にさえ出てきている、まさにそんな今こそ、労働者もまた“ふんどしを締め直して”断固たる階級的闘いの決意を固め、その準備を急がなくてはならない年の初めです。
イランとサウジアラビアの対立激化
混迷深めるイスラム世界
2016年1月15日
2016年の年初、サウジはシーア派の宗教指導者・ニムル師を、暴動示唆を理由に死刑に処しました。これに激昂したイラン民衆がテヘランのサウジ大使館を襲撃し、かくしてサウジとイランという、イスラム世界の二大国が激しく対立するという新しい状況が突如として出現しました。 ブルジョア世界が協同して、“テロ”国家ISと闘い、さらにはシリア内戦の収束に苦悩し、頭を悩ましているそんな瞬間に、です。
ISに対しては曲がりなりにも国際的な統一戦線が形成されたかですが、他方シリアのアサド政権に対してサウジはその打倒を叫びかけ、それに反してイランは政権を支えようとしています。そして欧米はアサドと闘う“民主化”勢力を支援しつつ、他方では、今やイランと「関係を修復する」方向に梶を切りましたが、それはサウジに取って苦々しいことでした。
米国とサウジの蜜月時代も終わろうとしているかです。「帝国」の復活に執心するプーチンのロシアも、「中華民族の偉大な復興」を叫ぶ習の中国も、虎視眈々と混乱し、錯綜するイスラム圏に、否、全世界に介入し、勢力拡大に狂奔しています。
かくして今やこの地域は、20世紀初頭、第一次世界大戦直前のバルカン半島です。つまり世界の列強の利害関係や勢力争いが複雑に、解きがたく絡み合い、そこでの紛争が新たな世界戦争(第三次世界大戦?)にもつながりかねない「火薬庫」です。
サウジがイスラム・スンニ派の大国であり、イランがシーア派の大国であることから、両国の対立は一見して“宗教戦争”であるかに見えますが、もちろん問題はそんなに簡単ではありません。両国はイスラム世界の覇権をめぐって角を突き合わせてきましたが、1979年の“イスラム革命”をきっかけに一挙に対立的になりました。というのは、イスラム革命がイラン王政の打倒でもあって、サウジの支配体制の根幹を揺るがしかねない契機を持って来たからです。
そうしてまた、経済的な利害関係もこの地域を揺るがす大きな要素であって、その中心にあるのは石油資源であり、それを誰が支配し、握るかの問題です。
湾岸戦争も米国のイラクへの軍事侵攻とフセイン政権の打倒も石油を離れては論じることはできないし、ISもまた石油に依存して生存するのであり、さらにはサウジのニムル師処刑さえ、彼がサウジの石油地域で大きな影響力を保持していたことと無関係ではないのです。その地域の住民の多数派は、サウジでは少数派であるシーア派です。
そしてサウジはといえば、かつての穏健なイスラム国という看板を投げ捨ててか、スンニ派のIS国に対決するイスラム圏の34カ国の先頭に立ち、あるいは内戦のイエメンに空爆を強行し、ニムル師処刑を止めるべきという米国にも馬耳東風でした。そしてとどのつまりは、今回のイランに対する強硬姿勢です。
70年前の第二次世界大戦後の世界、そして25年前のソ連邦の崩壊後の世界は、今後は平和で、協調する、穏やかな世界が来ると思われ、また言いはやされました。
しかしイスラム・中東の地域を一瞥しただけでも、現在の人類が直面する世界は「平和」でも、穏やかでもなく、紛争や困難や対立や矛盾に満ち満ちた世界、ますます危機を深めていく世界でもあるのです。
その根底にあるものは何か、なぜ諸国家間の紛争や戦争が終わらないのか、なぜ危険で狂暴な帝国主義が台頭し、無意味な反動戦争が続くのか。我々は今こそ、そうした根底的な問いを発し、真剣に考え抜くべき時なのです。
共産党の新しい裏切りがまた一つ
国会開会式に出席、天皇のありがたい「御言葉」にうっとり
2016年1月5日
2016年の年の初め、共産党の新しい裏切りがまた一つ暴露され、付け加えられました。まさに象徴的です。
共産党は4日に開会された通常国会に出席しましたが、これまでは、開会式には、天皇が参列し、「御言葉」なるものを「賜る」のは、憲法の謳う「民主主義」や「主権在民」に反するとして欠席してきたのでした。天皇制に反対する共産主義者として、また幸徳秋水のでっちあげによる死刑に代表されるような、社会主義者、共産主義者たち――本物の、あるいは偽物のを問わず――に対する弾圧の張本人である天皇に敬意を表することなど途方もないことだということでもあったといえます。
しかし今やその立場を公然と、全国民の前で放棄したのですからまさに労働者、勤労者に対する裏切りでしかなく、ブルジョア陣営への露骨な身売りでしかありません。共産党はこうした行為によって、自ら社会主義者、共産主義者でないのはもちろん、一貫した民主主義者ですらないことを自ら証明して見せてくれたのです。
志位は、「欠席を続けた場合、天皇制に反対しているといういらぬ誤解を招く」などと言っています、つまり共産党はすでに04年の綱領改定で、天皇制や自衛隊の「当面の」容認を謳ったが、それが決して「当面の」立場の変更ではなく、つまり「敵を欺くための」偽装等々ではなく、本心からの、下心のない天皇制支持と擁護への転向であること、労働者、勤労者への背教であることを明らかにしたのです、というのは、志位は、労働者、勤労者に「共産党は天皇制に反対であるという誤解」を与えることを極度に恐れているからです。
志位は、天皇の「御言葉」が、「この30年来は儀礼的で憲法から逸脱していない」などとつまらない口実を持ちだしていますが、それが真実であるかどうかはさておくとして、「儀礼的」ならいいといった問題ではないこと、天皇の絶対的な権威としての言動こそが、そしてそうした超越的な権威への服従こそが労働者、勤労者の支配に対して持つ意義こそが問題だということが分かっていないだけです。
志位はさらにもったいぶって、「特別に高い玉座からの『御言葉』を賜る形式は、憲法の主権在民の原則と精神に反する」から、開会式のやり方の変更を求めていくなどと言って、労働者、勤労者に自らの転向、裏切りを隠そうとあくせくするのですが、しかしもし「主権在民」の立場を一貫させるなら、憲法に天皇制を謳うこと自体、甚だしい自己矛盾であり、そんな日和見主義にたつ憲法などナンセンスであり、変えられなくてはならないという結論に行き着くのであって、憲法が天皇制を謳っているから天皇制の支持と擁護こそ正しいなどというトンチンカンの、転倒した立場が正当化されるのではありません。
「敵を欺く」ことによって、労働者、勤労者の解放に接近したり、勝ち取ったりできるはずもないこと、労働者、勤労者の理想や大義は、それを勝ち取る闘いは偉大な実践的課題であって、そんな矮小な観念や小手先細工や“戦術”、“共産主義的”(スターリン主義的)権謀術数とは無縁であることを、労働者、勤労者は確認する必要があります。
「転向」し追い詰められる安倍政権
慰安婦問題で「不可逆性」を振りかざす
2016年1月1日
従軍慰安婦問題で、日韓の政府が「合意」しましたが、それは政府間の合意であって、労働者、勤労者は支配階級相互の「合意」とは無関係であって、それに縛られるものでありません。
しかもその「合意」が労働者、勤労者からみて決定的に不十分で、歪んだ観点によって貫かれているにおいてをや、です。例えば、彼らは「女性の人権問題」であるとか、「法的な解決」がなされたか、なされていないかといった、ブルジョア的、“弁護士的な”矮小で、間違った観点に支配されているのです。
「合意」の中でも最もナンセンスなものは、今回の妥結が「最終的であり、不可逆的なものである」というものですが、ときの日韓政府がこんなことをいう資格はないし、またそんなものは、安倍の「子や孫に未来永劫に、従軍慰安問題で韓国に謝罪させ続けるわけにはいかない」といった、つまらない被害妄想に基づく空文句にすぎません。
「合意」がインチキなものであり、あるいは安倍一派がそれに反対して騒ぎ立てるなら――すでに彼らは騒ぎ立てています――、こんな「合意」はたちまち消し飛んでしまうかもしれないのです。
韓国は別に「未来永劫に謝罪し続ける」ことを要求してきたわけではなく、すでに1993年の河野談話によって、従軍慰安問題は基本的に解決したと認識していたのであり、その後に安倍一派が教科書問題などをきっかけに騒ぎ立て、河野談話は虚偽であって、従軍慰安婦問題に日本の政府や天皇制軍部が無関係であり、基本的に関係なかったことであると主張し、歴史「修正主義」の立場、つまり日本の天皇制国家主義の立場から歴史を「見直す」ように要求し、そんな立場から政権を握り、韓国と対決してきたからです。韓国はそんな安倍一派や安倍政権に、彼らの下劣で、卑怯で、傲慢な「歴史修正主義」の立場に反発してきたにすぎません。
今回の安倍の「妥協」は、自ら火をつけた問題を、ようやく20年余たって、水をかけて消そうとしたということにすぎません、つまり安倍は単に火付け役と火消し役を一人でやったということ、典型的な「マッチ・ポンプ」として振る舞ったということにすぎないのです。
安倍が、安倍政権が最初から河野談話で問題がないということなら、ここ20年余の日韓間の従軍慰安婦問題――当時、日本の植民地だった朝鮮女性に対する、日本の国家と天皇制軍部による性奴隷化問題――は本質的に存在しなかったのです。しかるに安倍は、今さらのように、この合意は「最終的であり、不可逆的なものである」とか、「子や孫に未来永劫に、従軍慰安問題で韓国に謝罪させ続けるわけにはいかない」などという資格があると思うのです。
安倍こそ、自らの発言を慎むと共に、支持基盤である国家主義勢力の「歴史修正主義的な」愚劣な発言や主張を抑え、教科書の内容でも日本の国家と天皇制軍部の「関与」をきちんと徹底させるべきであり、それをしてから、合意は、つまり河野談話の観点は、「最終的であり、不可逆的なものである」と言うべきなのです。20年も言うのが遅すぎるのですから、極端に愚昧な政治家というしかありません。
天皇制軍国主義国家による韓国女性の性奴隷化問題
破産を暴露した安倍政権――安倍の醜悪でご都合主義の“マッチポンプ”ぶり
2015年12月29日
日韓が慰安婦問題で「最終的な決着」を付けました。「最終的か」どうかはさておくとして、この「決着」自体は日韓の労働者、勤労者にとって、歓迎すべきことではあってもマイナスなことは何もありません。もともと慰安婦問題で日韓の支配階級がどうあろうと、日韓の先進的な労働者、勤労者の、この問題での立場は最初から明らかであり、したがってまた我々の国際的な連帯の立場は変わるはずもなかったからです。
安倍政権やブルジョアマスコミは、「韓国が最大の譲歩」などと言いはやしていますが、岸田が、「慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の(朝鮮の)女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題で、かかる観点から日本政府は責任を痛感している」と明白に語り、「心からおわびと反省の気持ちを表明する」と、これまでの安倍と安倍政権の立場を180度転換させたのだから――実際、これは基本的に「河野談話」の立場であり、あるいはそれを超えるものでさえあります、というのは、河野談話はこれほど率直明白には「当時の軍の関与のもと」や「政府の責任」については語っていないからです――、朴政権にとっては「言うところなし」の解決であって、韓国の「譲歩」どころか、まさに安倍政権側の「譲歩」と言うしかありません。
安倍がアメリカの要請と圧力に従い、あるいは参院選への影響や権力の維持を策して、さらには自分の支持基盤の国家主義勢力、反動勢力の意図に逆らってまでして、「無理をした」ということでしかありませんが、それが「吉と出るか、凶と出るか」は保証の限りではありません。
事実、国家主義の勢力は安倍に対する批判と非難を開始し、安倍が深くかかわる「日本のこころを大切にする党」代表で、安倍の懐刀の一人ともいえるの中山恭子は、「安倍外交の最大の汚点となると考えられ、大いなる失望を表現する」と、最大限の言葉で安倍に対する不満と怒りさえも語っています。第一次安倍政権の末期のときにもまさる、支持勢力からの「安倍の裏切り(再度の?)」という攻撃です。
我々は、自らの支持基盤からの批判と攻撃が第一次安倍政権に強烈な打撃となり、その政権没落の一つの大きな契機になったことを思い出さざるを得ません。
そもそも日韓の関係が3年余も「冷却」し切り、対立してきたのも、安倍政権が成立し、河野談話を否定し、韓国女性の性奴隷化には日本の軍部や政府の関与といった事実はなかった、それは韓国の汚いデマゴギーだといった立場に走ろうとしたからこそ生じ、深化したのであって、最低、河野談話の立場で日本の立場が揺るぎなく立脚していたなら――それこそ、まさに「不可逆的に」です――、余計な3年余もの日韓の不協和音や政府同士の対立もなかったのであって、この間の日韓問題がこじれたのは韓国の側に原因があったのではなく、安倍政権の側にあったことは余りにはっきりしていたのです。
安倍が今さらのように、韓国女性の性奴隷化問題の解決がついたかに言い、日韓関係が「正常化した」、等と自分の手柄だなどと見せかけるのは欺瞞であり、最低であって、単にせいぜい良くて、「自分のまいたタネ」をようやくつみ取ったということ、自分で火を付けておいて自分でそれを消そうとアタフタとしているだけだということ、つまり「マッチポンプ」として振る舞っていることを、自ら暴露しているにすぎません。
むしろ安倍はこれまでの自らの立場を放棄したというなら、まずそのことを率直に語り、こんなにも長い間、日韓関係を歪め、両国の国民の間に不振と争いのタネをまき散らしたことを反省し、両国の国民に、世界中の労働者、勤労者に誠実に謝罪すべきなのです。
いずれにせよ、韓国女性の性奴隷化問題での安倍の転向は、顕在化し、暴露されつつあるアベノミクスの失敗や挫折と共に、安倍政治の破綻のもう一つの余りに明白な証拠であり、この政権が内在的に解体しつつあることを暴露しています。
慰安婦問題の「解決」のための日韓政府の「会談」
安倍は韓国の労働者、勤労者を納得させることは決してできない
2015年12月27日
慰安婦問題の「最終的な」解決の思惑を秘めて、日韓外相会議が開かれようとしていますが、安倍政権の思惑通りにコトが運ぶとは限りません、というのは、安倍政権がかつての侵略と帝国主義戦争当時の韓国女性に対する性奴隷化の事実も、その事実に対する、日本の国家や天皇制軍部の責任をも否定し、韓国の慰安婦たちや国民の全体を侮辱しているからです。
それらの事実を認めることもなく、口先だけの「お詫び」やカネによる解決をめざしても――慰安婦に対して、償い金を払うとか、増やすとか言うのですが――、誠意もなく、問題をすり替え、ことの本質をごまかそうとしている限り、どんな根本的な解決もないし、あり得ないことは明らかです。
ここでは、韓国の朴大統領が民族主義や反動性を強めている、つまり安倍政権の立場に似てきていることも、残念ながら安倍政権にとってはマイナスの意義しか持ちえません、というのは、民族主義は国家相互では、対立を激化し、相互的な悪感情をあおり立てることを本質としているからです。
そもそも安倍政権がカネを払うからといって、思いあがって、「早期解決」や「最終的で不可逆的」な解決を口にすること自体、思いあがった態度で、韓国の労働者、勤労者の反発を大きくするだけです。各国政府と日本政府が共に金を出すなどと言う新提案を持ち出すことも愚劣であり、つまらない小手先のごまかしです。
そしてまた相変わらず、朝日などの愚昧な自由主義的、市民主義的世論も、問題は「人権問題」だ、慰安婦も高齢になり、時間的余裕がないなどと、安倍政権を後ろから押すようなたわ言を口にするだけです。
もし「最終的で、不可逆的な」解決を望むなら、慰安婦問題に対する、日本の国家と天皇制軍部の責任を明確に、きちんと総括すべきですが、15年戦争を日本の国家と民族の自衛のための戦争、その意味では、正義の戦争、正当な戦争と思い込み、そのように評価する――しなくてはならない――安倍政権には決してできないことなのです。
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