【2010,4,30】
公然化した鳩山の裏切り――普天間移転で辺野古中心を謳う
【2010,4,23】
半デマ小政党の乱立――大儀も理念も原則もなく
【2010,4,16】
こそこそと政策転換する民主党
【2010,4,13】
「たちあがれ日本」に断固反撃を――労働者の政治的な進出こそ急務――ブルジョアの政治独占を打ち破れ
【2010,4,9】
労働者の政治的進出を勝ち取れ!――破綻する二“大愚”政党と崩れる“二大政党制”の幻想
【2010,4,3】
金余りなのに何のための“金集め”か――“自民体質”を暴露した鳩山政権の郵政「反」改革
【2010,3,27】
郵政政策でも破綻と混乱――救いようのない鳩山政権
【2010,3,12】
“密約”関係者をすべて処罰せよ――虚偽と権力で「非核三原則」の国是を裏切った者たち
【2010,3,5】
腐敗民主党と組合ダラ幹の癒着――北教組幹部の逮捕が明らかにしたこと
【2010,2,21】
自民政権以上に破廉恥な民主政権――公共事業(“コンクリート”)を党派的に「配分」
【2010,2,12】
石川が有罪なら小沢の有罪も自明――検察は何のために小沢を救ったのか
【2010,2,5】
検察も鳩山政権も小沢を無罪放免!――労働者人民の力で犯罪者小沢を打倒するしかない
【2010,1,24】
検察や世論を逆恨みし、小沢を弁護して恥じず――小沢の不正な金で当選してきた民主党の議員たち、成立した鳩山内閣
【2010,1,18】
政権担当の資格なし――自爆に向って進む民主党――正当性なく検察権力と“正面対決”
【2010,1,16】
すでに末期症状の民主党――新しい労働者の闘いを開始すべき時
【2010,1,4】
マルクス主義同志会――二〇一〇年頭アッピール
【2009,12,26】
無駄削れず、膨張破産予算――破綻する民主党政治
【2009,12,14】
鳩山政権と小沢による「天皇の政治利用」
【2009,12,12】
7兆円もの補正予算――“国家破産”に突き進む鳩山の経済財政政策
【2009,12,4】
破綻に向かう鳩山政権
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公然化した鳩山の裏切り 普天間移転で辺野古中心を謳う
2010年4月30日
鳩山が普天間基地問題で、自分の案をようやく出してきました。辺野古移転という、自民党とアメリカが同意したもの──鳩山が決して容認しないと言ってきた、県内移転──を根底にして、ただ一部を──ほんの形だけのものを──“県外の”徳之島に移すというふざけたものです。
そして鳩山は、辺野古の豊かな自然は大事だ(だから辺野古移転はない)と言ってきた手前、それとつじつまを合わせるために、埋立て滑走路ではなく桟橋滑走路でやると、小手先のごまかしを持ち出しています。そうすれば、辺野古の自然が守られるかに言うのですが、しかしそんな保証もまたないのです(数千本の杭を打って、どうして自然に影響を及ばさないと言えるのでしょうか)。
もちろん、鳩山のこんな不誠実で、いいかげんな案が沖縄や徳之島の住民の支持や承認を得られる展望は万に一つもありません、にもかかわらず、こんなものを持ち出したのは、五月一杯に解決すると大言壮語してきた手前──どんな実際的な展望も見通しもないままに──、何とか格好をつけておかなくてはどうしようもなくなったからです。その場の雰囲気や自分の気分でペラペラしゃべる無責任なお調子者が、とうとうせっぱ詰まったというだけこのとで、実際的な結果など何も出て来ないでしょう。
鳩山は「周辺に、『努力したけど駄目でした』と言うしかないと述べて」いると、マスコミは報道しています(朝日新聞4・29)。
これは余りにひどすぎます。つまり真剣に何とかしようということではなく、どうしようもなくなったから、何かをやってみた、努力してみたが、結局うまく行かなかった、だから日米がこれまでに合意している辺野古で行くしかないということを、国民に納得させ、押しつける策動でしかありません。しかもこんなへたな芝居をうって、自分も権力の座に居座ろうというのですからあきれます。
そもそも鳩山は、理念としては「米軍の駐留のない──つまり米軍基地のない──日米同盟」でいい、それでも「日本の安全」は十分に保証されるというのが“持論”だったはずです。だとするなら、その立場でオバマとも真剣に渡り合い、自らの信念のために、口先だけの、責任のがれのような努力ではなく、本当の努力をすべきではないでしょうか。テニヤン島は、普天間基地を受け入れていいという意思表示をしているということも報道されています。ただ日米の政府がそれに賛成していないだけです。とするなら、なぜ鳩山は、そのことを避けて通っているのでしょうか。
問われるのは、鳩山の根本的な政治的立場です。彼は最近、自民党や反動たちと声をそろえて、今さらのように、沖縄米軍は「日本の安全のために大きな役割を担っている、存在意義がある」などと盛んに強調し始めています。与党になったから、“現実的で”、日米の反動派や軍部の意向にそってやらなくてはならないという立場こそが、普天間問題を袋小路に導いたのです。
こんな鳩山が“国民的な”課題の解決のために、オバマと断固として、一貫した立場で交渉することができるはずもありません。最初から、アメリカの政府や軍部に見くびられ、軽んじられるだけです(事実、すでにされています)。
どんな展望も決意もないままに、ただ県外移転、国外移転という期待ばかりをあおってきた鳩山は、自らの甘い見通しと軽率さによって、そしてますます暴露されてきた反動的で硬直した立場によって、決定的に行き詰まり、また追いつめられたのです。こんな優柔不断で無責任な“おぼっちゃん”政治家は、首相として“ミスキャスト”で、有害でさえあります。小沢と共に、一日も早く追放するにしくはありません。
半デマ小政党の乱立 大儀も理念も原則もなく
2010年4月23日
鳩山内閣が末期的症状を呈し、民主党による“改革”への期待がたちまち失望に変わる中で――これは必然でしたが――、鳩山政権の瓦解や「政界再編成」を当て込んで、いくつかの新しい、怪しげな政党が現れつつあります。しかしそのすべてが大義も理念もなく、原則も基本的立場もはっきりしない、反動的、デマゴギー的な連中であって、歴史を前に押し進めるような契機は全く見いだされません。今では、歴史的に進歩的な、そして革命的な役割を果たし得る政党は、ただ一貫して労働者階級の立場に立つ政党だけだからです。国民新党やみんなの党の“成功”を見て、石原の肝いりで「たちあがれ日本」が生まれ、さらに、「つくる会」とくっついてきたような首長たちが、野心を丸出しにして「日本創新党」をこね上げれば、橋下も負けじと、大阪限定の「維新の会」をでっちあげる、舛添もバスに乗り遅れるなとばかり新党結成に走る、といった具合です。与謝野や舛添は、比例区で当選してきたのですから、自民党を離れるというなら、議員辞職するのが当然です。結局、これらの諸政党は単なる売名と野心と権力のためのものであり、あるいは低俗な煽動政治によって大衆の支持を盗み取ろうとするだけの“ファシズム的な”運動(そのはしり)でしかありません。彼らは民族主義や国家主義をわめくことによって、労働者大衆の支持を刈り取ろうと策動を強め、ますますデマ政治に走り、それを彼らの有力な――ほとんど唯一の――闘争手段として進出してくるでしょう。これに対抗できるのは、ただ労働者階級の断固たる組織的な闘いと団結だけです。あれこれの色彩やニュアンスの右翼政党、反動政党が輩出する情勢になって来ましたが、これは言うまでもなく、資本主義の政治的、経済的な危機の深化に対応しているのであって、労働者階級もまた、決定的な闘いに備え、政治的、組織的、理論的な団結をうち固め、断固たる闘いを貫徹して行くしかありません。今こそ、決定的な歴史的任務を果たすために、闘いを質量の両側面から強化し、発展させていくべき時です。
こそこそと政策転換する民主党
2010年4月16日
こそこそとやっているので、マスコミもほとんど取り上げない、民主党の重大な政策転換があります。党の“総合的な”政策を明らかにするということで、これまで毎年公表してきたINDEX平成22年度版の作成をやらないことにしたことです。昨年のINDEXには、総選挙のマニフェストにさえ盛り込まれなかった、次のような“急進的な”(必ずしも労働者敵ではないが)政策が列記されていました。○選択的夫婦別姓の早期実現、○永住外国人の地方参政権などの早期実現、○(靖国神社の公式参拝は問題があるから)特定の宗教性をもたない新しい国立追悼施設の設置、○学習指導要領の大綱化、○保護者、教員の意見を反映する教科書採択への移行、○国立図書館に恒久平和調査局を設置する、等々。これらは、批判を恐れて、総選挙向けのマニフェストから除外されたのですが、さらに進んで(つまり、いくじなくさらに後退して)、こうしたものをいわば正式に切り捨てるというのです。というのは、参院選で自民党や反動陣営から批判され、攻撃されたり、“保守票”が逃げると困るからというのです。どんな原則も志も捨てて、盛大なバラまき等々だけに熱中し、目先の利益で国民を釣ることによって選挙で勝とうというのです、そんな姑息なやり方で勝てると思っているのです。鳩山政権はまるでかつての安倍内閣や麻生内閣そのままで、愚劣で姑息な政治が行き詰まっているのに、それを修正することもできず、結局は“国民”全体から見捨てられていった自民党政権と同じです。ということは、鳩山内閣もまた、麻生内閣などがのたれ死んだと同様、みじめなのたれ死にする以外ないということです。こんな簡単なことも理解できないほどに、民主党はすでに(むしろ、最初からですが)腐りきっているのです、骨まで腐ってしまったのです。
「たちあがれ日本」に断固反撃を
労働者の政治的な進出こそ急務
ブルジョアの政治独占を打ち破れ
2010年4月13日
四月十日、「たちあがれ日本」新党が誕生した。「首長連合」の新党策動もあるし、渡辺の「みんなの党」は支持を広げている。民主党と自民党の「二“大愚”政党」に対する一切の幻想や期待が雲散霧消していく中で、新しい政治的な結集と再編の動きが始まり、加速しつつある。これらの動きはまだ始まったばかりで、一面では、「海のものとも山のものとも分からない」、たわいもない様相を呈しており、今後どんな形を取るのか、どこに行き着くのかいまだ判然としていない。しかしその方向性だけははっきりしており、その方向性は今後ますます明確で、一層尖鋭な形を取ってくることだけは確かであろう。それは、一言でいえば、反動派の政治的な結晶が始まったということであって、自覚した労働者はこうしたの動きに無関心、無頓着でいることは決してできず、そこから明瞭な一つの結論と決意を汲み出して来なくてはならない。自覚した労働者の政治的な結集が急がれるゆえんである。
たちあがれ日本は、反動派、国家主義派の“すっきりした”結集という形を取っていないが、それは平沼と与謝野の野合から出発したからであって、それだけこの新党の目的や動機はあいまいで、中途半端なものとなっている。
新党として、すでにみんなの党が存在している状況下で、しかも性格があいまいなたちあがれ日本が、参院選で大きな支持を得ていくことは困難に見える。
にもかかわらず、たちあがれ日本が結成されたこと自体は重要な意味をもっている。平沼に、新党結成の理由があるのは理解できるとしても、与謝野が何を考えているのかは必ずしも明確に見えてこない。自民党が断固として民主党と闘っていないから、闘うことができないから、というのは、理由として薄弱に見えるのだ。
与謝野の持論は、財政、経済の「再建」であるが、そのカギは消費税率の大幅な引き上げである。大増税によって、財政を、したがってまた政治と国家の“安定”を勝ち取って行くことである。これを自民党に期待しても展望がない、ということであろうか。
しかし、では小党を立ち上げれば、その展望が開けるというのか。参院選の結果では、「政党要因」さえ満たせず、たちまち解体の危機に直面するような党を立ち上げたとからといって、与謝野の課題の実現が近づくことはあり得ないだろう。まして、平沼は与謝野と対極に立つ、財政膨張論者である。
他方、石原の全面的な後援を受ける平沼の意図は、反動派、国家主義派の結集であり、その礎石を置くことである。
彼は石原とともに、民主党の「売国的な」政治――これは具体的には、新党の「基本政策骨子」にも「断固反対」と謳われている、「外国人参政権や選択的夫婦別姓」などのことである――を攻撃し、「憂国」や「尊い日本」について語り、「我が国の長い伝統と文化と歴史を大切にしていく、そこに自主憲法や集団自衛権の問題が入る」と強調してやまないのである、つまり硬直した、“頑迷固陋な”保守派、国家主義派のチャンピオンとして登場するのである。
また彼は、小泉の“郵政改革”(民営化)に反対して自民党を飛び出し、安倍や麻生の時期にも自民党に戻らなかったのであって、その点では、亀井の実行する郵政民営化“見直し”にむしろ賛成であり、亀井とも共通面もあって親しいのだが、しかしもちろん、民主と連合する国民新党に加われるはずはないのである。
与謝野は国家主義を露骨に出すことを嫌い(それでは、新党も広い支持を集められない云々)、他方、平沼は石原とともに、“保守主義”、国家主義こそが新党結集の軸であるべきと思っているのだから、これはまるで水と油であって、簡単にくっつくことはできないはずであった。
だから、この新党は、差し当たりは「政党要因」を可能にするためのご都合主義であって、参院選の結果ではどうなるか分からないようなしろものなのである。
民主党の参院征服を許さないための、反民主の政党結成だといいながら、自民党の支持票を分断するなら、かえって小沢と民主党を助ける結果にさえなりかねない。
民主党に流れる票を、たちあがれ日本によって食い止めようというのであろうか。しかし、自民党に投じられるべき“保守票”が分裂する可能性の方が大きかったら、与謝野らの行動は、少しも民主党にとって打撃とはならないばかりか、民主党や小沢を喜ばす結果になるだけである。
そして新党が小沢や亀井と、政治的な立場でも“共通”し、かぶさる部分がいくらでもあるとするなら、新党の結成された背景や、与謝野らが本当は何を考えているのかはますます不分明になる。
しかし新党がどんな大きな流れの中にあるかを、我々は確認しなくてはならない。
その流れとは、期待と希望の中で誕生した民主党政府が、実際には、自民党と何ら変わらない政治――むしろある意味では、一層悪い、自民党以下の政治――しかやることができないことを暴露し、議会制民主主義の政治、“政党政治”の破綻と行き詰まりがはっきりし、国民全体の中に、深い失望や白けや絶望さえも広汎に生まれて来た中で、反動派、国家主義派が「チャンス到来」とばかりに、政治的、党派的結集を目指して、公然と策動を開始した、ということである。
このことは、たちあがれ日本の先頭に石原が仁王立ちになって、すでに“超反動的な”扇動を開始したことからも明らかであろう。
石原は、旗上げの記者会見で、「30代、40代、50代の中に我々と同じようにこの国のことを憂えている人間、どれだけいるんだい。民主党見てみろよ、みんな腰抜けじゃないか」、「君達がもっていない危機感を我々年寄りはもっている」と、血相を変えてどなり散らし、まさに反動勢力のために露骨な扇動を開始したのであった。「立ち上がれ」という党名からして、卑しい“ファシスト的な”勢力や分子たちへの公然たる呼び掛け以外の何ものでもない。
東京杉並区の山田区長とか、横浜の中田元市長とかの札付きの悪党首長等が、何を考えてか、どんな展望を持ってかは知らないが、「首長連合」といった反動政党結成を策動しているのも、同じ流れの中にある。
たちあがれ日本は、自衛隊の中で「つくる会」の主張そのもののような軍国主義的、反動的な扇動を繰り広げた、田母神の参院選へのかつぎ出しも企んでおり、虚名と権力に飢える田母神も喜々として応じようとしている。
そして与謝野らのいくらかでもリベラルな部分が脱落して行くなら、あるいは脱落するにつれて、この党の本当の性格や客観的な役割が明らかになってくるだろう。
民主党への支持が急速になくなりつつあるが、それが決して自民党への支持として戻って行かないという現実こそ、“議会制民主主義”や“政党政治”に対する、実際の政治に対する、国民全体の、とりわけプチブル層の、深刻な不信や嫌悪を、怒りや憎悪さえもを教えて余りある。
そしてまた、いくつもの新党が次々に登場しつつあるということは、小選挙区制とともに、それによって助長されて実現した「二大政党制」が、実際には二“大愚”政党制に行き着き、その破綻と失敗を完璧に暴露したということである。
新党などと言っても、ほとんどが既成政党と同じようなものである。小選挙区制のもと、確固とした理念や綱領的立場や一貫した政策や路線をかかげた、既成政党に根底から、原則的に対立する、本当に新しい政党は、容易に生まれ、育つ条件を奪われていて、いくらでも生まれてくる政党は、本家本元の民主党(小沢、鳩山ら)は別としても、最近の「国民新党」(亀井ら)も「みんなの党」(渡辺ら)も、それに新しく蔟生する「たちあがれ日本」(与謝野、平沼ら)等々も、すべてが自民党の分派、落ちこぼれ、脱走組、等々の堕落政治家、反動政治家たちばかりである。
とするなら、自民党流の腐敗政治、利権政治、反動政治や、選挙だけ、権力だけのためのでたらめ政治が表面だけ否定されたとしても、実際に続いて行くことになるのは、けだし一つの必然であろう。
みんなの党が新しさを装っても、脱官僚や地域主権など使い古されたもの、民主党のスローガンでしかないし、どんなに民主党を批判しても、それは自民党や反動の立場からのものを超えることはできない、他方、自民党を批判しようとしても、自民党はそもそもいままでどっぷり浸かっていた、自分の党であるにすぎない。所詮、渡辺は浅薄で小粒のデマゴーグを出ることはできないのである。
これらの新党は、自民党政治と闘うことができないのはもちろんだが、民主政権とも闘うことはできない。
というのは、自民党が解体して行くのは、権力を握った民主党が、小沢の策動のもと、自民党の政治を、その根底で実行しているからであり、またそのことによって、自民党の存在意義をなくし、政治基盤を掘り崩しているからにすぎないからである。自民党は自分らのこれまでの政治を、あるいは政治そのものを否定することなくして、民主党とその政権を批判することはできないのである。民主党を批判すれば、それはすぐ、自分たちはどうだったのか、自分たちのやってきたことを批判できるのか、と返ってくるのである。金権腐敗も、バラまきも、借金膨張財政も、利権政治も、農業政策も、すべてがそうである。
そして、新党の場合も同じであって、彼らは自民党を批判することはできない、というのは、彼ら自身ずっと自民党員だったから、そしてその幹部として、自民党政治を中心において担って来たような連中だからである。
もちろん、民主党とその政権も根底から批判することはできない、というのは、民主党の政治は自民党政治の、一層劣化した再生産にすぎないからである。
平沼は確かに外国人参政権問題などでは民主党にけちをつけること位はできるかもしれない、しかし郵政民営化の“逆コース”や、財政膨張政策には――つまり鳩山政権の最も重要な根本政策には――諸手を上げて賛成なのであって、わざわざ新党などたちあげて、「民主党は国を滅ぼす、断固闘う」などと息巻く必要さえないほどある。「国を滅ぼす」などというなら、民主党と同じく国家破産の財政政策に賛成なのだから、民主党と大して異なるところはない、同じように「国を滅ぼす」道に迷い込んでいるのである。
もし自民党政治を徹底的に廃絶することを望むなら、自民党の分派やダミーのような政党をすべて一掃し、労働者大衆自身が、そして自覚した労働者自身が政治的な進出を果たして行く以外ないのである。
笑うべきことは、小選挙区制によって「泡沫政党」、「少数政党」を一掃し、二大政党制を強行的に、むりやり実現すると言ってきたのに、その小選挙区制のもとで、“小党分裂の”現実が現われつつあることである。自民党はすでに衆議院では少数政党に転落したが、さらにいくつかの少数政党に分解しつつあるかである。
これで、民主党が元の政党や政治勢力に(すなわち内部のいくつかの実際の政党や政治グループに)分解し、分裂するなら、まさに二大政党制は現実の政治過程の中で破裂し、破綻したのである。
虚構の二大政党制は一掃され、階級的、政治的、思想的な立場を異にする、いくつかの政党の原則的で“健全な”党派闘争、政治闘争が実現され、貫徹されなくてはならない。そのためには、“国民”を構成する、色々な階級や階層や実際的、思想的立場をできるだけ忠実に反映する選挙制度 例えば、全国単一の比例代表制選挙 が採用されなくてはならないのである。
もちろんそうしたより民主主義的な制度が保障されるなら、労働者はたちまち政治的に進出するだろうし、国政の場面で、ブルジョア政党やプチブル政党と断固として闘いぬくことができるだろう。労働者人民の声を忠実に反映し、“死票”を最小限に抑える民主的な代表制度、選挙制度のもとでは、階級的な立場に立つ労働者党派が一回の選挙でもあれば、たちまち数名位の議席を簡単に勝ち取ることができるのは、我々(社労党)のこれまでの国政選挙闘争参加の経験からも明らかである。
かくして国会では、階級的立場や思想や政策を異にする多くの政党や政治家が、個々の法案に対してとことん議論し、そしてまさにその結果として、あれこれの法案が採択され、あるいは否決されるのだが、その場合、多数派はあれこれの法案やその採択ごとに離合集散し、そのたびごとに形成されるのである(そうなっても困ることは何もないのであって、かえってそれは、より立派な民主主義の実現を意味するだけであろう)。
憲法擁護派と反対派が、軍国主義者と平和主義者が、労働者の立場にたつ者とブルジョアやプチブルの立場に立つ者が、すなわち原理原則が異なる連中が、ただ権力をもとめ、権力の甘い蜜や特権や権益を求めて、一つの党の装いのもとに徒党を組んでいるのが、現在の「二大(大愚)政党」の実際にすぎない。まさに醜悪そのものである。
二大政党制などを求めてきたのは、ブルジョアたち、反動たちであって、それが何をもたらすかは、最近の自民党政権四年の経験によって、また今回の鳩山政権のわずか半年の経験によって、すでに完全に明らかである。
二大政党制や、それを促進する小選挙区制はただちに廃棄されなくてはならない、というのは、小選挙区制は代議制の中でも最も非民主的で、反労働者的なものであって、不可避的に、選挙目当ての場当たり主義や、卑しいポピュリズムや、権謀術数だけの腐敗政治等々をはびこらせ、また容易にブルジョア寡頭制をもたらすのであり、事実上、すでにそうなっているから、反動的な意義しかもたないことが暴露されているからである。
“二大政党制”といった虚構はすでに現実の過程によって否定されたのであり、また労働者によって徹底的に打ち壊されなくてはならないのである。政治的立場、思想的立場、政策の賛否、等々によってこそ、政党や政治的なグループが結集され、かくして原則的で深刻な政治的闘いが貫徹されるべきであって、そのことを欠落させながら、虚構の“二大政党”(二“大愚”政党)のなかに全く思想的、政治的立場が違うような連中が同居して、権謀術数や矮小な策動政治にふけっていること自体が、議会政治を頽廃させ、腐らせているのである。
しかしブルジョア民主主義が常に制限された民主主義、かたわの民主主義であるからといって、“ブルジョア独裁”の隠れ蓑にもなっているからといって、現実に闘われている、公然たる政治闘争から労働者は逃げ出したり、自らを“召喚”したりはできないし、すべきではない、というのは、そうすることは、実際に政治をブルジョアやプチブルたちの独占物にしてしまうことであり、労働者階級が政治的な闘いを深化させ、発展させて資本の支配を、権力を打倒し、一掃することを遅らせ、困難にするだけだからである。
労働者の政治的進出を勝ち取れ! 破綻する二“大愚”政党と崩れる“二大政党制”の幻想
2010年4月9日
与謝野が平沼と組み、石原を後ろ盾として、新党「立ち上がれ・日本」を組織するという。
何のための新党か、党の綱領なり、基本理念、基本政策は何一つ明らかではない。沈みかけた自民党から、ただ逃げ出すためだけの新党である。そんな組織にどんな存在意義や未来があるというのか。何もないことだけは明らかであろう。
与謝野と言えば、かつて財政再建を謳い、それを自らの政治的信念としていた人間である。その政治家が自らの信念に生きるかと思いきや、何のことはない、あっさり麻生の無責任、無節操な膨張政策に味方し、その内閣の大臣に平然と収まったのである。何のことはない、つまらないご都合主義者、日和見主義者でしかなかったのだ。他方、平沼と言えば、郵政民営化に反対して自民党を離れ、反動派の一方の親玉として空威張りしているだけの、つまらない、虚勢だけの人間にすぎない。そんなろくでもない連中が集まって、日本の沈没を回避するというが、それをいかにしてやるのか、どんな展望もないのである。自民党に不満なのは、自民党に「民主党と闘う姿勢がない」からだというが、その「闘う姿勢」の内容は何かというと、具体的なことは何もないのである。
もし自民党が民主党と闘うことができないというなら、それは民主党が自民党の悪政をそのまま、一層はれんちに行っているからであって、事実上の仲間といかにして“強硬に”闘うことかできるというのか、そんなことを期待できるのか。そして自民党が民主党と闘えないのに、どうして自民党と同じ立場の与謝野や平沼が闘えるというのか、そんなことが全くのばか話でしかないことは自明ではないのか。
自民党が「民主党と闘っていないから、よりよく民主党と闘うために」自民党を去るというなら、その闘いの綱領なりを高く掲げるべきだが、そんなものは最初から何もないのである。辛うじて「けじめのついた政治」とか、「健全な批判勢力」などと言う空虚な決まり文句があるだけである。
自民党の政治は依然として“超”不人気で、鳩山政権の支持率がどんなに急低下しても、自民党に展望が開けるきざしもない。かくして、今もまだ猫も杓子も反自民だが、その反自民を叫んでいる連中や政治家がすべて、元自民の連中だからどうしようもない。彼らに、反自民を叫ぶ資格など全くないのである。
そもそも民主党からして、小沢にせよ、鳩山にせよ、みな自民党の政治(ブルジョア政治、反動政治)の中心にいた連中でしかない。実際、小沢や鳩山が自民党を離れたのは、ただいくらか違った形で自民党の政治を継続することでしかなかった。彼らが自民党の連中と実際上同じ政治(もしくはそれ以下の政治)しかできないことは、わずか民主党政権の半年の経験によっても完璧に明らかになってしまった。民主党だけではない、「国民新党」(亀井ら)も「みんなの党」(渡辺ら)も、それに新しく蔟生するあれこれの党も(鳩山や与謝野ら)、すべてが自民党の分派、落ちこぼれ、脱走組、等々の堕落政治家、反動政治家たちでしかない。とするなら、自民党政治が表面だけ否定されたとしても、実際に自民党政治だけが続いていくのは一つの必然であろう。
もし自民党政治を徹底的に乗り越え、本当の“改革”を実現して行くことを望むなら、自民党の分派やダミーのような政党をすべて一掃し、労働者大衆自身が、そして自覚した労働者自身が政治的な進出を果たして行く以外ないのである。
笑うべきことは、小選挙区制によって二大政党制を強行的に、むりやり実現すると言ってきたのに、その小選挙区制のもとで、“小党分裂の”現実が現われつつあることである。自民党はすでに衆議院では少数政党に転落したが、さらにいくつかの少数政党に分解しつつあるかである。これで民主党が元の政党や政治勢力に(すなわち内部のいくつかの実際の政党に)分解し、分裂するなら、まさに二大政党制は現実の政治的過程の中で破綻したのである。
虚構の二大政党制は一掃され、階級的、政治的、思想的な立場を異にする、いくつかの政党の原則的で“健全な”党派闘争、政治闘争が実現され、貫徹されなくてはならない。そのためには、国民の立場をできるだけ忠実に反映する選挙制度──全国単一の比例代表制選挙──が採用されなくてはならないのである。もちろんそうしたより民主主義的な制度が保障されるなら、労働者はたちまち政治的に進出するだろうし、できるだろう。そして国政の場面で、ブルジョア政党やプチブル政党と断固として闘いぬくことができるだろう。労働者人民の声を忠実に反映し、“死票”を最小限に抑えるそうした民主的制度のもとでは、階級的な立場に立つ労働者党派が一回の選挙でもあれば、たちまち数名位の議席を簡単に勝ち取ることができるのは、我々(社労党)のこれまでの国政選挙闘争参加の経験からも明らかである。
かくして国会では、階級的立場や思想や政策を異にする多くの政党や政治家が、個々の法案に対してとことん議論し、そしてまさにその結果として、あれこれの法案が採択され、あるいは否決されるのだが、その場合、多数派はあれこれの法案やその採択ごとに離合集散し、そのたびごとに形成されるのである。
憲法擁護と反対派、軍国主義者と平和主義者等々、原理原則が異なる連中が、ただ権力をもとめ、権力の甘い蜜や特権や権益を求めて徒党を組んでいるのが、現在の「二大政党」にすぎない。まさに醜悪そのものの図である。二大政党制などを求めてきたのは、ブルジョアたち、反動たちであって、それが何をもたらすかは、最近の自民党政権四年の経験によって、また今回の鳩山政権のわずか半年の経験によってすでに明らかである。二大政党制や、それを促進する小選挙区制などはただちに廃棄されなくてはならない。小選挙区制は代議制の中でも最も非民主的なものであり、実際には容易にブルジョア寡頭制をもたらし、徹底的な政治腐敗につながっており、事実上、それと同義語である。
“二大政党制”といった虚構はすでに事実によって否定されたのであり、また労働者によって徹底的に打ち壊されなくてはならないのである。政治的立場、思想的立場、政策の賛否、等々によってこそ、政党や政治的なグループが結集され、かくして原則的で深刻な政治的闘いが貫徹されるべきであって、そのことを欠落させながら、虚構の“二大政党”(二“大愚”政党)のなかに全く思想的、政治的立場が違うような連中が同居して、権謀術数や矮小な策動政治にふけっていること自体が、議会政治を頽廃させ、腐らせているのである。
金余りなのに何のための“金集め”か “自民体質”を暴露した鳩山政権の郵政「反」改革
2010年4月3日
鳩山内閣は、亀井が提案していた、郵政改革法案を承認し、6月に成立を図ろうとしています。鳩山は低迷する民主党と鳩山内閣への支持率の低下に危機意識を抱き、「民主党らしさ」を出すと言ったばかりだというのに、「国民新党らしさ」に全面的に追随してしまいました。鳩山の論法で言うなら、民主党は「民主党らしさ」をさらに薄めて、選挙で勝つ気がないことを自ら表明したことになります。それとも郵政票を獲得することが、勝利の道だとでも考えているのでしょうか。いずれにしても、こんな愚行ばかり繰り返しているなら、民主党の敗北はますます避けられないものになるでしょう。
郵政改革案の中心は、郵政をますます国家企業として強化し、復活させることですが、そこには、ただ郵政関係者の票がほしいという以外の、どんなはっきりした理念もないのですからひどいものです。ゆう貯の預入限度額を1000万円から2000万円にする等々とか、郵政グループを5社体制から3社体制にするといった内容が基本ですが、要するに、ゆう貯などの金融機関や、保険機関を中心にし、それをてこに旧郵政を再建し、防衛するというになりますが、しかしゆう貯がその預け入れの8割を国債に投資していることに象徴されるように、すでにゆう貯は歴史的な生命を終えているのです。そして今やきわめて寄生的な金融機関に堕し、借金で水ぶくれしていく腐敗国家と結びつき、それを支える反動的な役割を果たしているのです。歴史的な存在意義をなくし、カネをもてあましているようなところへ、さらにカネが集中するような「改革」をやるなど正気の沙汰には見えません。ゆう貯が集まったカネを国債でしか「運用できない」ということは、ゆう貯を解体することこそ正しいことを教えはしても、その肥大化をさらに促すような政策を正当化するものではありません。民主党と鳩山内閣が選挙の票目当てに、こんな政策を行うなら破廉恥そのものです。こんなことをやりながら、選挙で勝とうとすること、あるいは勝てると思うこと自体、小沢や鳩山の愚劣さを暴露するものです。すでに長崎知事選では、民主党への警告がはっきり示されましたが、民主党は何も学ぼうとはしていないようです。とするなら、民主党の破綻と敗北は必至といわなくてはなりません。
郵政政策でも破綻と混乱
救いようのない鳩山政権
2010年3月27日
鳩山内閣の予算が成立しましたが、税収より借金が上回る“超”赤字予算であって、まさに近い将来、国や経済や労働者人民の生活が崩壊し、解体していくことを予感させるものになりました。
普天間基地の移設問題を見ても、子育て支援を見ても、戸別所得補償などの農業政策を見ても、鳩山内閣のすべての政策が行き詰まり、矛盾をあらわにしています。マニフェストでなら、票をかすめとるために、どんな約束も、気前のいいバラまきを謳えますが、そんなものが実際に通用するはずもないことは最初から明らかでした。公約が荒唐無稽であり、現実を無視したばかげたものであればあるほど、その破綻は不可避であり、決定的です。民主党のマニフェストが愚劣な人気取りでしかなく、破綻するしかないことは、財政崩壊の現実の中で、不況のために税収が激減する中で、何兆円もの余計な国家支出を必要とするバラまきを謳ったときから明らかでした。
そして民主党の先見の明も、賢さもない政策の一つが、郵政見直し政策であって、今やここでも、鳩山政権は決定的に破綻しつつあります。
郵政担当大臣の亀井は、突如、内閣の名において、郵政法案について語り、四月半ばに国会に提出する喝破したのですが、これに対して、鳩山とほとんどの大臣が異議を唱え、亀井を批判するという大混乱が突発しました。
担当大臣が内閣の名で出した法案の骨子が、内閣のものではない、というのですから、問題は深刻です。鳩山や民主党の大臣たちは、亀井を批判するのに急ですが、しかしもちろん、問題の根源は鳩山政権にあり、最大の責任を負うべきは鳩山であるのは自明です。
亀井は首相の承認を得たといい、鳩山は「有力の案ではあるが、まだ閣議決定していない」と語り、他の閣僚たちは、「内閣で議論していないし、ましてや内閣で決定したことはない」と言いつのっています。
とすると、亀井は鳩山に話はしたが、鳩山はあいまいに対応し(なかば承認し?)、亀井はそれを受けて“独走”したということでしょうか。鳩山が明確な対応をしなかったこと、自ら郵政事業についてどんな確かで明確な立場も見解も持ち合わせていなかったということが暴露されてしまったのです。
もし鳩山が話を聞いたとき、亀井の考えや法案の骨子などにはっきりした意見を持っていたなら、そして異議や批判や反対の明確の意思表示をしていたなら、そして法案の内容の発表をするというなら、それは閣議決定がされてからであると確実に指示していたなら、亀井といえども勝手な“独走”をすることなど思いもよらなかったでしょう。
だから、責任は鳩山とその内閣の全体にあるのであって、単に亀井の“独走”が悪い、といったことではありません。
鳩山は再検討するとか、閣議で検討して問題をはっきりさせると言いますが、その方向性や内容についてはほとんど語っていません。閣僚たちが思い思いに、ゆう貯の預金限度やかん保の保険金上限額の引き上げは賛成できないとか語っていますが、しかしそれだけであって、彼らも鳩山同様、郵政をどうすべきかという明確な観念を持っていないのです、だからこそ、彼らは亀井の“独走”をチェックすることができないのです。
例えば、鳩山内閣自体が、民主党自身が、郵政をどうするのか、という明確な観念を持って来ませんでした。彼らは「郵政民営化見直し」を掲げ、民営化にブレーキをかけましたが、それからどうするかを語らなかったし、語ることができませんでした。
結局は、あいまいに、なしくずしに、郵政をもとの“国家企業”に逆戻りするという方向だけであり、それ以外の展望を抱くことができなかったのです。そのためにこそ、民主党の全体が亀井に追随したし、するしかなかったのですが、それは民主党の全体が、何らの明確な政治的な立場も信念もなかったがゆえに、小沢の権力政治に屈服し、追随するしかなかったのと同様でした。
ゆう貯一つとっても、それを縮小させていくのか、それとも残し、拡大するのかで、民主党の内部にほとんど一致した意志も見解も存在しませんでした。彼らはかつては、その規模の縮小を謳い、預入限度額も五〇〇万円で十分ではないか、と主張していたのに、実際に、亀井の観点ややり方を黙認し、追随し、正当化して来たのです。
実際、ゆう貯の八割が国債に投資されているような状況で、ゆう貯の拡大を図り、促進する、預入れ限度額の引き上げ策は途方もないものです。
八割が国債の購入にあてられるしかないということは、すでにゆう貯が存在意義をなくし、あってもなくても構わないものに転落しているということ、つまり徹底的に縮小され、なくなっても何の差しさわりもない、ということです。
鳩山政権はゆう貯を郵政の「ドル箱」として利用し、そのことによって、郵政民営化の逆戻しのつじつまを何とか合わせようというのですが、しかし今、国債投資に依存するだけのゆう貯がいくらかでも収益をあげているように見えるのは、ただ低金利体制が継続しているからであり、国債をただ保有するだけでも、少ないながら儲けになっているからにすぎず、国債価格が崩落していくなら、金利が少しでも上昇していくなら、ゆう貯自体がたちまち成り立たなくなるのは火を見るよりも明らかです。
ゆう貯やかん保を郵政の収益の柱として頼るだけのような鳩山政権のやり方、そしてその儲けを大きくして郵政民営化の“逆行”の困難や矛盾を糊塗しようという亀井のやり方は、容易に行き詰まり得るのであり、また行き詰まるでしょう。まともな儲けの道も、その展望もないような“商売”がどうしてうまく行くというのでしょうか。
亀井は、郵政の非正規労働者の半分ほどを正規の労働者にすると、あたかも労働者の味方のようにふるまって、自らの途方もないやり方を正当化しようとしています。
しかし、もし郵政の全体が破綻していくなら、数十万の労働者が路頭に迷うようなことになるなら、十万の労働者が非正規から正規になることに、どんな意義があると言えるのでしょうか。正規になって、首を切られるといった悲喜劇に行き着かないと、誰が確言できるでしょうか。
鳩山政権と亀井の“郵政政策”も混沌であり、反動的であって、子育て支援や戸別所得補償などの卑しいバラまき政策と同様に、断固として粉砕されなくてはならないのです。
“密約”関係者をすべて処罰せよ
虚偽と権力で「非核三原則」の国是を裏切った者たち
2010年3月12日
政府自民党が鳴り物入りで宣伝し、佐藤栄作が、その政策によってノーベル平和賞までもらった非核三原則が虚構の上に成り立っていて、実際には、米軍の核が、日本とアメリカとの“密約”により、日本に持ち込まれていたことが明らかになりました。しかしこのことは、すでにアメリカ側のいくつかの証言などによって(後には、日本側の証人も出る)暴露されてきていて、ただ歴代の自民党政権が、知らない振りをし、国民を瞞着してきただけでした。嘘をつき続けてきた、歴代の首相や外相や官僚たち、反動インテリたちはみなその虚言の罪を問われるべきですが、その気配さえもありません。それどころか、安倍らや反動は、むしろ米国の核によって日本の「安全」が守られたのだから「結果として」よかった、あるいはそうした秘密外交や国民に虚偽を言うことは、つまり国民をだますことは必要なことだったとさえ言いはやしています。さらに、外務省のトップ官僚たちが意識して文書を廃棄した――真実を隠蔽するために――ことも明らかになっていますが、彼らも罰せられることはありません。公文書を勝手に廃棄するような官僚たちがどうして罰せられないで済むのでしょうか、本当にこれで“法治国家“なのでしょうか。さらに、毎日新聞の西山記者は、密約の存在を暴露しましたが、外務省は密約の存在を否定し、またかえって彼は外務省の外交機密を漏洩した罪で告訴され、最高裁判所は有罪判決を下しました。権力の横暴によって記者をおとしめた外務省の官僚や、有罪を宣告した最高裁判所の判事たちも、何ひとつ罪の自覚もなく悠然としているのですから許せません。彼らは相手が労働者なら、どんなに大騒ぎし、些細なことでも有罪をわめき立てるのです。かつて外交の密約が問題になったのは、主として君主制国家、ツァーリ国家などの専制国家においてでしたが、ブルジョア“民主主義”国家もまた同様であること、専制国家と大差がないことが暴露されました(つまり、“民主主義“国家も資本の専制国家だという真実の、事実による証明みたいなものです)。国民には真実が知らされないだけではない、故意に虚偽がふりまかれ、実際上無実の人たちを罪におとしいれ、正当な要求をした人たちを弾圧してきた、一切の連中――政府自民党や官僚、さらには官憲や裁判官らのすべての連中(当時自民党の幹部だった、小沢や鳩山等、今の民主党の幹部も同罪?)――は徹底的に糾弾され、彼らのやってきたことの犯罪性が明らかにされ、告発されなくてはなりません。これはまさに大規模な権力犯罪そのものであり、許されていいはずもないのです。
腐敗民主党と組合ダラ幹の癒着
北教組幹部の逮捕が明らかにしたこと
2010年3月3日
北教組が、幹部三人が逮捕されるなど、官憲による弾圧を受けました。組合側に、そして民主党に(小林陣営に)思い上がり、甘さ、軽率などがあったとしても、問題の根底に、民主党やダラ幹部たちの「組合私物化」つまりセクト的な支配があります。政党と労働組合を混同もしくは同一視し、労働運動と政党の闘いを正しく結合し、一体化して行こうという、根本的な立場や意思が欠けているのです。これは別に民主党に限るものでなく、共産党や急進派、新左翼の諸派もみな同じであって、労働運動の、そしてまた労働者党の発展にとって、従ってまた労働者の革命運動の発展にとって大きな障害になってきました。今回の北教組の場合も、民主党やダラ幹たちが勝手に労働組合のカネを、しかもこっそり横流ししていたものであって、官権が介入する以前に、労働組合のあり方としても大問題です。
まず第一に、組合民主主義の問題があります。組合員に隠れて、組合員に計ることもなく、さらには露骨に法律に違反するような形で(この最後のものは、階級的な立場からの批判ではなく、権力との力関係も考えない軽率さ、甘さという意味での批判です)、組合のカネを特定政党に流したことです。民主党や組合幹部が組合民主主義を全くなおざりにし、まじめに考えていないことを暴露しています。
さらに第二の問題としては、労働組合は、労働党政党の闘いに――具体的に考えるなら、例えば、その選挙闘争に――、いかに関わり、参加するか、という問題です。全く無関心に、傍観者として存在していていいのか、ということですが、もちろんいいはずはありません。しかし問題は、いかなる形で参加し、ブルジョア政党やプチブル政党に反対して闘い抜くか、ということです。ここでも、色々な政治的立場にある労働者の大衆組織としての性格が慎重に考慮され、現実的な配慮が払われなくてはならないのです(例えば、“反自民”の民主党、社民党、共産党、そして本当の労働者が併存する場合、どうするのか、等々)。当然、特定の政党を組合が直接に支持し、選挙資金などとしてカネを横流ししたり、支持を組合員に「押しつける」ことなど問題外です。仮に一貫した労働者政党であっても慎重さが必要なのですから、まして、現実の民主党のような半ブルジョア的、小ブル的な、ろくでもない政党を公然と支持したり、組合のカネを横流しするなどもってのほかで論外です。
北教組の現実は、民主党を支持するような労働組合とその運動の頽廃と堕落を暴露しました。ここでも、組合幹部はすでに完全にダラ幹に変質してしまっているのです。労働組合が民主党と結びついたり、それを支持して運動するなら、それは組合運動の後退と頽廃を暴露するとともに、ますます組合が堕落し、結局はブルジョア支配の補完物にさえなりかねないことを教えています。自覚した労働者は、本当の労働者党の党的な闘いを発展させるとともに、それと結びつけて、断固として労働組合の階級的な強化を図って行かなくてはなりません。
自民政権以上に破廉恥な民主政権
公共事業(“コンクリート”)を党派的に「配分」
2010年2月21日
民主党が、公共事業や予算の「配分」で、民主党を支持した地方や団体を優遇し、参院選のために露骨かつ党派的に動いていることが明らかになった。民主党はこれまで自民党政権のやり方を批判し、公共事業の「配分」などを政権党に有利な形で、こそこそやるのに反対し、公明正大に、そしてオープンにやるように要求してきたのだ。
ところが政権を握った途端に、民主党は自民党と同じ「利益誘導の」政治を、しかも自民党以上に粗野に、露骨に、権力を乱用してやり始めたのである。そしてこれは、政府のやり方でなく、「党」の、つまり小沢幹事長の横槍によって強行されたというのである。小沢が自分のところに、一切の「陳情」を集中したのは、つまりこうしたこと──「利益誘導」によって選挙を有利に闘う──だったのだ。大した「政治主導」があったものである。
小沢は、検察庁が起訴しないとわかった途端から、検察の公平で厳密な捜査によって、自分には何の疑惑もないことが明らかになった、などと検察を持ち上げ始めた。それまでは、検察は小沢を狙い打ちにした、不当な捜査をしている、断固闘うとわめいて来たのだ。この豹変ぶりは一体何か。
石川らの秘書は逮捕、起訴されたが、検察は正当だというなら、石川らの逮捕、起訴も正当だというのか。しかし、そうだとするなら、どうして小沢が無罪だということになるのか、石川らが小沢の指示や命令通りに動いていたことは明らかなのだから、小沢が何と言おうが、石川が沈黙を守り、あるいはごまかしの証言をしようが、石川の有罪は小沢の有罪以外ではない。つまり石川の逮捕、起訴が正当だというなら、小沢の不起訴はおかしい、ということにならないのか。
それとも、石川らの起訴は、正当でないというのか。もし、石川らの逮捕、起訴は正当でないとするなら、なぜそれに抗議し、秘書に対する検察の不当な逮捕や起訴とあくまで闘わないのか。自分さえ起訴されなければ、秘書などどうでもいい、しょせんは「とかげのしっぽ」と同様で、切り捨てれば済むことだと考えているのか。
いずれにせよ、自分が逮捕されなかった途端に検察は公平で正義だ、立派だ、などと言いだす神経は、まともな人間のものとは到底思われない。もし小沢の金権の追及が検察の思惑だというなら、今度は、小沢の無罪放免もまた──こちらこそが、むしろ──検察の思惑であり、あるいは小沢との陰に隠れた、卑しい取り引きだ、と言うことになりかねない(事実、そうだろう)。
小沢のご都合主義と卑しい権力主義がはびこっている。民主党の政治は自民党の政治より、「より増しだ」などと言っていた人々も、今ではそれを深刻に疑わざるを得なくなっている。実際、「コンクリートから人へ」などと言いながら、公共事業の(まさに“コンクリート”の、だ)「配分」を民主党のために、民主党が「利益誘導」の政治によって、参院選を有利に闘うために利用しようとするのは、言行不一致であるとともに自民党のもとでさんざんにやられてきたこれまでの政治、最低最悪の政治への逆戻りであろう。
小沢や鳩山のやっていることは、自民党と大差がないばかりではない、自民党以下の破廉恥で、なりふり構わない権力のろう断であり、悪用であることがはっきりしてしまった。
腐敗した自民党政権が打倒されなくてはならなかったとするなら、民主党政権がどうして打倒されなくて済むというのか。結局は同じたぐいの、頽廃していく資本の支配のための政権であることは自明ではないのか。今こそ、鳩山・小沢政権打倒の旗を高く掲げよ。民主党政権が今よりよくなることは決してないし、あり得ないのである。
石川が有罪なら小沢の有罪も自明
検察は何のために小沢を救ったのか
2010年2月12日
小沢は無罪放免、秘書三人だけが起訴されましたが、こうした“構図”そのものが、今回の小沢金権問題の本質を暴露しています。秘書は政治報告書の偽造という罪に問われたのですが、検察はその背後に巨大な小沢の不正が存在してといると信じたからこそ、秘書を追及し、起訴まで持って行ったのです。秘書が報告書の偽造で起訴されるとするなら、また同じ罪で小沢も起訴されなくては辻褄が全く合いません。というのは、石川ははっきり偽造は「小沢さんに相談し、了承を得た」と証言しているからです。これで秘書と小沢の「共謀」がハッキリしなかったというのですから、検察は小沢を起訴したくないからしなかったと言われても、何の弁解もできません。小沢の方が秘書に対して絶対的な権力を握っており(小沢の性格や、いつものやり方からとして、秘書に指示し、命令しなかったなどということは百%あり得ません)、そして秘書は小沢にお伺いを立ててやったと言っているのですから、秘書が有罪なら、小沢の方がさらに決定的に有罪なのは明らかです(少なくとも、報告書偽造という罪で)、といのは、小沢が秘書の雇い主であって、絶対的に強い立場にあり、指示し、あごでこき使ったことは自明だからです。だからこそ民主党も野党のときは、秘書の罪は政治家の罪と断言して来たのではなかったでしょうか。そして問題は単に文書偽造といった矮小な問題ではなく、数十億にもなんなんとする、小沢の金権腐敗です。検察権力(“司法”の権力)はもう一方の小沢の権力(政治の権力、執行権力)の犯罪を見逃すとしたことによって、まさにその本性を暴露したのです(所詮は、ブルジョア権力の一端です)。東京地検が検察の上層に相談して不起訴となったということは、小沢の有罪がどんなに明らかであっても、今小沢の権力を崩壊させることはできないという、検察当局の意思であり、まさに“政治的な”判断以外ではありません。司法権力は今民主党政権を追い詰めるなら、日本の政治社会は混沌としてしまい、無政府状態になる、崩壊して行きかねないという危機意識に駆られ、ブルジョア“秩序”の最後の守り手としての本性を暴露したのです。小沢が自らの“強大な”権力を誇示し、派手に振る舞ったのも“効果”があったというもので、権力は小沢の役割を“高く”評価したのです。もちろん小沢権力が崩壊し、民主党政権が倒れても、代わりに自民党が支持され、また政権に復帰するという展望があれば、検察権力もいそいそと小沢を追い詰めたかもしれません(正義の味方よろしく、それを気取って)。しかし現在の情勢では、そんな余裕もなく、検察は小沢を助け、それによってブルジョア的“秩序”と安定を重視することにしたのです。しかし小沢を仮に一時的に救うことができたとしても、ブルジョアジーの支配が安定や秩序を取り戻すことなどできるはずもありません、というのは小沢の金権腐敗は、余りに明らかであり、そして民主党がそんな小沢におんぶとだっこでやる以外何もできないような、情けない、無力、無能の政党であり、政権であることを、労働者人民は(“国民”全体が)すでにしっかり知ってしまったのです。小沢不起訴による、鳩山政権の安定とかいったものがかりそめのものであり、一時のものであることはすぐに明らかになるでしょう。そして検察も小沢を救うことによって、また深い傷を負ったのです。今では、検察の権威も地に落ちてしまい、検察が小沢等政治権力者たちの悪事にどんなに甘く、小沢等と同類でしかないことが決定的に暴露されてしまいました。“三権分立“といった、ブルジョアたちのよき理想はますます仮象のものに転落しつつあります。行政と立法が混同され、野合させられた次は、行政と司法の癒着、なれ合いと助け合いというわけです。
検察も鳩山政権も小沢を無罪放免!
労働者人民の力で犯罪者小沢を打倒するしかない
2010年2月5日 検察は、小沢の不起訴を公表するとともに、小沢の秘書の三人を“重罪”だとて起訴した。そして小沢は得たりやおうと、幹事長職を続け、権力の頂点に君臨続けると宣言した。
権力を利用して金権腐敗に染まって何十億円もの不正なカネをかき集め、そのカネを使って政権まで手にした破廉恥漢、事実上のヤミ献金に首まで浸かってきた刑事犯罪人の大悪党を、検察は無罪放免にしたのである。
検察は自らやったことを恥じるべきであって、今後一切、自らを正義の守り手をもって任ずるべきではない、むしろ反対に、権力のために犬馬の労を取る、卑しい存在であることを自ら知るべきであろう。
秘書が三人も重罪であって、小沢が無罪であるなどということを、誰が信じるのか。秘書が何十億円というおかしなカネを、おかしな形で動かし、その出所や使い道をごまかしていて、小沢がそのことに無関係であったなどということがあり得るはずもないのである。
小沢の性格ややり方は周知のとおりである、彼は、党であろうが、内閣であろうが、国会であろうが、自分の意のままになり、思い通りに動かなければ我慢ができない人間である。小沢の秘書たちはほとんど自主性も自由もなく、小沢の権力を恐れ、小沢の意向のままに動く、ロボットのような存在で、小沢の指示通りに動かなければ、たちまちかみなりが落ち、追い出されかねないのである。議員になり上がれたとしても、小沢の意思に反したら、一日として、その地位に留まることもできないのである。
そんな秘書たちが、小沢の意思もなく、指示も受けずに何十億円もの不正のカネを動かし、自らの意思で書類を操作し、報告書を偽造してごまかし続けた、などということがあり得るはずもないではないか。
そもそも検察が、形式上の罪──記載のミス──で秘書を追及しようとしたり、秘書の自白に期待して立件しようとしたなどと言うこと自体、検察が最初からまじめでなく、小沢の巨悪を根底から、徹底的にあばき、告発しようという意思を持っていなかったことを暴露している。
小沢のヤミ献金や事実上の収賄、金権汚職、資金のロンダリングなどは明らかであって、それが事実として証明できない、裁判をやって勝てる見通しが立たない、などというのは検察の卑しいごまかしであり、虚偽であって、例えば、小沢がゼネコンから五千億円、あるいは一億のカネを受け取ったということは、ゼネコン側の証言からもすでにはっきりしているのである。あるいは土地代金の四億円を始め、巨額のおかしなカネの動きも明らかであって、こんな悪知恵の働いた、小沢の悪質犯罪を見逃して検察は恥ずかしくないのだろうか。一体小沢の巨悪もやっつけることができないで、どこに検察の存在価値があるだのか、国民に対して顔向けができるのか。
裁判をやって「確実に」勝てないから起訴しない、などというのは弁解にもなっていない。「確実に」勝てるか、勝てないかといった基準で、庶民の犯罪を起訴したり、しなかったり、常日頃やっているというのか。庶民に対しては、もっとあいまいで、当て推量の、そして矮小な嫌疑の場合にも、いくらでも不当な逮捕や告訴を、思うがままに、高飛車にやっているではないか。小沢のような権力者なら、反対に、「いたれりつくせりの」配慮をするというのか、巨大犯罪も見逃すというのか。
むしろ、小沢のような「限りなく」黒に近いような悪党など、「勝てるかどうか」を心配する前にどんどん起訴し、その罪を問い、公けの法定の場に引きずり出すべきなのだ。そのためにこそ、検察は存在しているのではないのか、庶民を泣かせるためだけに存在するのか。
もし小沢のような極悪人を無罪だと言うなら、検察のやっていることもまた小沢と同罪であり、小沢の共犯者となること、巨大な権力犯罪に手を染めることでなくて何であろうか。検察は小沢が最高の権力者であるということで特別扱いし、小沢と民主党のために「犬馬の労」を取ったのである。検察の頂点にある卑しい連中は、真実と良心を売って、自らの地位や特権を買うのである。もはや彼らは自分たちが社会の正義と真実のために、不正に抗して働いているとか、そのために存在していると決して言うことはできないし、言うべきではない。
小沢を不起訴とする方針を決めた検察幹部は次のように語ったという。
「一人の政治家の捜査をこれ以上続ければ、検察の公正さが疑われる。『小沢さんをやらないから負けだ』と見られても困る。きちんと起訴するものはした」(日本経済新聞)。
全く冗談ではない。小沢を徹底的に追及して、どんな「公正さ」が疑われるというのか。そんなものを疑うのは小沢や民主党だけであって、むしろいいかげんな追及しかしない検察の「公正さが疑が」われているのであり、国民は、そのカドで検察を非難し、糾弾するのである。小沢を起訴するかわりに秘書三人を犠牲の血祭りにして、何が「きちんと起訴するものはした」か、そんなことは、小沢を起訴してから言うべきであろう。こんな卑しい自己弁護の発言が平気で出てくるところに、検察権力の頽廃の深さが決定的に暴露されている。
民主党内の反対派は、小沢逮捕を予想してか、反小沢の動きを見せたが、検察が小沢擁護に回ると見るや、たちまち矛を収め、負け犬同然に尾っぽをたれてしまった。彼らの反小沢の動きが、信念に基づくものではなく、単なる“政局的な”、卑しい動機によるものでしかなかったからである。前原とか、野田とかいった連中も、ほんのわずかでも信頼できないことが明らかになった。
もちろん、民主党と連立を組む、社民党も国民新党も小沢批判をやめてしまった。閣外協力の共産党も、小沢と鳩山政権の腐敗に対して、断固たる大衆行動一つ呼び掛けるでも組織するわけでもない。
マスコミの罪もまた決して軽くない。例えば、朝日新聞は小沢の不起訴の報道のあった日、検察を擁護して次のように書いている。
「捜査は、小沢氏側に巨額の不透明なカネの出入りがあることを国民に知らせた。その価値は正当に評価されるべきだろう」
どうして検察が、小沢を無罪放免したことを擁護できるのか。問題は犯罪人が犯罪人としてあばかれ、告発されないで──権力を握っているが故に──、無罪であるというお墨付きを検察から受け取ったということであって、「巨額の不透明なカネの出入りがあることを国民に知らせた」などは、検察が明らかにしなくてもいくらでもすでに示されて来ていることである。そんな不正な何十億円という巨額のカネが動いているなら、なぜ検察は犯罪人として告発しないのか、できなかったか、である。それをこんな形で弁護するなど、まさに商業マスコミの中途半端さと欺瞞というものであろう。
日本経済新聞もわけの分からないことを書いている。
「権力の対立がもたらしたものが、検察と政治への不信の増幅だけだったとすれば、勝者はいない。最大の敗者は不信を募らせる国民ではないか」
検察の小沢の犯罪の追及は、単なる「権力の対立」などと捕らえる無神経はさておくとして、一体何を言いたいのか。問題は小沢の巨悪が闇から闇へと葬り去られ、巨大な権力犯罪を犯した人間がのうのうと、またまた権力の座に座り続けることになった、という現実である。
それに、極悪の犯罪者の小沢が無罪放免され、金権腐敗が罪に問われないということが、なぜに「国民が最大の敗者」ということになるのか。検察が事実上、小沢となれあったということは、別に国民の敗北でも何でもない、というのは、国民(労働者人民)は究極のところでは、権力の反労働者人民的な部分、最も反動的で、汚い部分を担う検察など、最初から信用していないからである。検察が小沢を許しても、労働者人民は小沢とその“悪質で”、汚い犯罪を最後まで追及して、決して許しはしないからである。
民主党に自浄能力がなく、検察権力に小沢と民主党の社会悪を正す意思がないとするなら、今こそ、労働者人民はただ自分たち自身の闘いによって、自分たちの断固たる大衆的な闘争によって、小沢と民主党の不正と不正義の権力を一掃するしかないのだ。自覚する労働者よ、若者よ、勇気をもって立ち上がれ!
検察や世論を逆恨みし、小沢を弁護して恥じず
小沢の不正な金で当選してきた民主党の議員たち、成立した鳩山内閣
2010年1月24日
小沢が容疑者として検察に聴取され、小沢の犯罪はますます明らかになりました。小沢は聴取の内容を明らかにしましたが、しかしその内容は、これまで云って来たことを変えたり、ごまかしたりしただけで、ますます彼の云っていることが虚偽でしかないことを暴露しただけでした。
問題は小沢が、公共事業を仕切り、何十億円といったヤミ献金をかき集めたということ、あるいは政党交付金を十五億円もくすねたことなどであって、要するに国民の税金を盗み取り、私ししたことにあるのです。検察がどうするかに関係なく、すでにこうした事実は、許されざる事実して完全に明らかになっているのです。
小沢は、「形式的に」ちゃんと処理されており、法律的には何ら問題はない、というのですが、それは例えば、ゼネコンから直接に賄賂を受取ったわけではない、ゼネコンが賄賂を個々の社員を通して、つまり「個人献金」の形をとって小沢に流したから「形式的に」は全く問題はない、といった類のことに過ぎません。実際には犯罪だが、それを「形式としては」ごまかしたから罪を問われることはない、というへ理屈にすぎません。
小沢の弁解は、小沢が“合法の”の装いを凝らして、何十億円という国民の税金をくすね取ったという事実を変えるものではないのです。いま問われていることは、この事実であって、民主党が自民党や、かつての田中派と同じような政党である、ということこそが問われているのです。
田中派は九十名くらいの派閥でしたが、民主党は三百を超える軍団であり、政党そのものであるという点で、自民党内の、最大とは言え一派閥に過ぎなかった田中派と区別されるのです。しかし、だからこそ、問題は民主党にとって決定的だといえるのです、つまり民主党は民主党に代わる派閥を持たないのです。
民主党と民主党の議員たちは、いまや総選挙で得た議席が全くのインチキなもの、不正なものであることを知るべきです、というのは、彼らの選挙運動や当選の多くが、小沢の金に、つまり小沢が不正な手段で国庫からかすめとった、国民の税金の一部である金に依存していることが完全に明るみに出てしまったからです。
民主党の三百を越える多数と、個々の議員の当選と、そして鳩山政権そのものが、小沢の汚い、不正な金に(そしてまた、鳩山の脱税した巨額のおかしなカネに)――多かれ少なかれ――依存しているとするなら、そんなものが、正当な資格を全く持たないことは余りに明らかです。民主党の議員たちが余りにお粗末であり――犯罪人の小沢を弁護し、わめくだけの、道義も知性も品位もないひどい連中――、鳩山内閣が小沢に追随しておろおろするだけの無能無力な政権だとしても驚くようなことは何もありません。彼らはその程度の連中なのです。民主党は我々がずっと言ってきたように、「大愚政党」以外の何ものもなかったのです。
1976年に田中が金権汚職で逮捕されたとき、九十名の田中派軍団は――この中には、若き小沢はもちろん、竹下登、金丸信、木村武雄、江崎真澄、渡部恒三といった錚々たるメンバーがいたのだが――、なおも田中を平気で弁護し、逮捕されたことを逆恨みし、“親分”を持ち上げ、「田中さんは自分のために収賄したのではない、“自由社会”を守るために、自民党のためにやったのだ、そのために選挙で勝たなくてはならない、勝つためにはカネがいる、そのカネを作らなくてはならなかったのだ」と言いはやしたのですが、今の民主党とどこが違うというのでしょうか。まるでデジャヴュそのものです。小沢は自民党の正真正銘の後継者でしかない、と言うしかありません。自民党の、というより、田中派の、というべきでしょうか。かつての自民党では、田中派の代わりに、三木などが出てきて、国民をごまかすことができましたが――当時、我々は三木政権も自由主義的ごまかしにすぎないと断罪しましたが――、民主党は“小沢党”であって、そのスペアがないところがより深刻であり、民主党には破綻しか待っていないことを教えているのです。
民主党などは所詮、自民党のダミー政党、模倣政党――最近の、限度や自制のないバラまき政治を見ていると、自民党よりもたちが悪くさえ思われますから恐ろしい――にすぎないのですから、こんな政党が破綻し、たちまち失墜して行っても、労働者にとっては喜ぶべきこと以外何もありません。むしろ最初から、こんな政党にどんな幻想も持つべきではなかったのです。
民主党と小沢政治の破綻は、1993年以降、政治改革だ、小選挙区制だ、カネのかからない選挙だ、政党交付金だ、政治主導だ、国会改革だ等々と言われ、また実行に移されてきたすべてが、改革どころか改悪であり、実際には、議会制民主主義を掘り崩し、形骸化し、腐敗させる以外の何ものでもなかったということを明らかにしました。
すでに1980年代から、選挙法などを改悪し、供託金を引き上げ――カネのかからない選挙を実現するという理屈を振りまきながら――、我々社労党も含む労働者政党、“ミニ政党”を、公認の政治闘争、全国的な選挙闘争からすべて排除してしまいました。そして90年代には、小選挙区制などで、今度は“少数政党”――社民党と共産党とか、公明党とか――も一掃する策動を強めて来ました。かくして、自民党とそのダミー政党(民主党)しか残らなくなったのですが、当然の結果として、この二大政党――我々は、二大愚政党としか呼ばないのですが――のでたらめ政治、腐敗政治だけが大手を振ってまかり通り、はびこることになったのです。
議会制民主主義は形骸化し、解体しつつあります。それが全く“国民”の意思を反映しないものに転化してきたからです。民主党の連中が、選挙で三百の多数を得た、国民の意思だ、などというのがどんなにおこがましい思い上がりであるかは、小選挙区制が国民の意思などほとんど反映しない、不公正、不正義の、そして最低最悪の選挙制度であることをちょっと反省してみるなら明らかです。
民主党の連中は、「民主党の政治は選挙を通して表明された国民の意思である」などと云いますが、小沢の汚濁にまみれた金に助けられて当選してきて、まあ、よくもいけしゃあしゃあと、こんな恥知らずなことが云えたものです。小沢の金権腐敗は、民主党の「子育て支援」や「戸別保証政策」などの俗悪なバラまき政治もまた同様な、いいかげんなものであることを国民に教えたともいえます。意識の遅れている国民の多くもまた、ようやくその妥当性、正当性を疑い始めざるを得ないでしょう。
小沢の何十兆円といった巨額の汚いカネによって、供託金などというカネのかかる制度(立候補するだけで数千万円が必要となるのです)によって、そして政党交付金などという卑しい制度によって得られた、民主党の多数派は虚偽の多数派であり、したがって鳩山政権は何らの正当性を持たない政権、不当で不正義な政権に過ぎません。自ら解散もせず、また退場することもできないなら、労働者人民の闘いで断固として打倒されなくはならないのです。民主党の議員たちは、自分が小沢の汚い金によって当選して来たことを恥じるべきなのです。恥を知る人間なら、どうして議員としてふんぞり返っていることができるのでしょうか。
そして、いまや社民党も共産党も民主党と同罪であり、民主党ともに、民主党と小沢の政治と汚濁のすべてに責任を負わなくてはなりません、というのは、社民党も共産党も鳩山内閣を支持して、与党に加わってきたからです。共産党はごまかしで「建設的野党」と云いつくろってきましたが、それはつまり、これまでの言葉でいえば「閣外協力」ということであって、事実上、与党としてやるということ以外ではなかったのです。 一切の偽りの制度や政党の本当の姿が明らかにされつつあります。労働者にとって、これは喜ばしいことであって、労働者の闘いの一層の前進を保証する一つの契機です。今こそ、さらに信念と団結を打ち固め、さらに勇気を奮い起こして闘っていくべきときです。
政権担当の資格なし
自爆に向って進む民主党
正当性なく検察権力と“正面対決”
2010年1月18日
民主党はその大会において、検察権力との「正面対決」の道を選択することによって、自ら自壊と自爆の道を選択しました。
もちろん彼らは別の道を選択することもできたのです。つまり、小沢とその一派と断固闘い、彼らを党から追放するという道です。国庫を食い物にし、ヤミ献金によって肥え太り、権力を手にしてきた小沢一派を追放するに、どんなためらいも動揺もないし、あり得ないと人は考えるでしょう。それしか民主党が生き残る道がないことがはっきりしているのですから、民主党が“間違った”選択に走ったことは意外にも残念にも思われるかもしれません、とりわけ民主党に期待を託して選挙でその勝利を保証した人々には。
小沢は“本来の”民主党とは違った政治家だ、民主党を“本来の”民主党に戻し、純化する必要がある、といったことも云われています。
しかし民主党が小沢を排除できないことからも明らかなように、小沢はまさに民主党の政治を代表しているのです。
子育て支援の政策にせよ、農家戸別補償にせよ、小沢の政治の本質を暴露するものばかりです。
仮に、小沢の独断的、専制的な体質は、民主党のそれとは違うといってみても、その「豪腕」に期待してきたのは、民主党自身でした。民主党の全体が、小沢の“支配”を受け入れてきたのであり、また小沢を受け入れ、頼るしかないような、空虚で、内容のない党でしかなかったということです。鳩山や菅らが空っぽの政治家だったからこそ、小沢に追随し、迎合するしかできなかったのです。もし鳩山や菅が、“本来の”民主党的なものを代表しているというなら、どうして今、小沢と決定的に手を切らなかったのでしょうか、そして“本来の”民主党的な政治に向けて断固として前進して行かなかったのでしょうか。そんものは、もともと幻想だったからです。
鳩山も菅も小沢とともに破滅する道を選びました、つまり民主党は自ら破綻するしかないということです。この愚か者たちは、民主党がこれからも労働者人民の支持を得て行けると思っているのですからあきれるしかありません。労働者人民をばかにしているとしか思われません。
小沢と民主党は、検察権力との全面的な対決、正面衝突の道を選びましたが、しかし権力は悪だと今さら云って見ても、民主党が支持されるとか、同情が集るとかいったことがありえるとでも考えているのでしょうか。そうだとするなら、小沢も鳩山も全く愚昧な連中でしかありません。というより、小沢も鳩山も、権力にしがみつくには、そうする以外ないということで、何が正しいのか、何が真実で正義かといったこととは無関係な問題なのです。小沢は検察と闘う以外に道はなく、また鳩山も小沢がいなくなれば政権の基盤をなくしてしまう、と考えるのです。
しかし小沢や鳩山に勝つ展望があるわけではありません。正義がないのですから、勝てるはずはないのです。ただ強がりを言い、逮捕されるまで開き直るしか、すでに道は残されていないのです。鳩山も愚昧な男で、そんな見通しさえ持てないのです、小沢と訣別して、断固として進むという勇気も決断力も何もないのです。小沢のような人間を頼らなくては自立できない情けない政治家であり、到底首相の器ではありません。
小沢は党大会で、「民主主義の危機」をわめき立てました。検察権力の横暴を許せば、民主主義はなくなるというのです。刑事被告人の鈴木宗男も駆けつけ(北海道で石川に肩入れしていたのだが)、「検察が正義の人だと思ったら大間違いだ」、「間違った検察権力と断固闘う」と大見得を切りましたが、自分たちが金権腐敗に首までつかり、ヤミ献金の汚濁に染まりながら、そしてそれをありとあらゆる抜け道を利用してごまかしながら、検察は横暴だなどと云っても世の中で通るはずもない、ということがわからないほどにおごり高ぶっているだけです。
民主党に対する幻想にふけり、またその幻想を煽り立ててきたインテリやマスコミは、その幻想がたちまち一掃されたことに驚愕し、また当惑してなすすべを知りません。彼らはいまやわけのわからない事を口にするだけです。その一例として、本日の新聞に載った東大教授であらせられる、御厨貴の発言を紹介しておきます。
「かつての田中角栄氏や金丸信氏への捜査は、安定した55年体制下での永久政権政党の絶対的権力者の金脈と不正を追及し、腐敗を防ぐ役割を果たしていた。しかし、今回の特捜部の捜査は、小沢幹事長の旧自民党的体質、つまり手段の部分だけに光をあて、政治と社会の変革という目的部分を意図的に無視しているようにしか見えない。いま小沢一郎という人物を追い詰めることで、検察はこの国をどうしようとしているのか」 民主党権力が音を立てて崩壊していく状況の中で、いかにブルジョア・インテリが狼狽し、血迷って、支離滅裂のことを云い始めた記念碑的な発言として、この発言は長く記憶されてしかるべきでしょう。
小沢への追及は単に「手段」だけの問題ではなく、まさにヤミ献金という公職選挙法違反の公然たる犯罪であって、それを追及は、告発するのは“法治国家”としてごく普通の権力行動にすぎません。犯罪を放置しておくなら、ブルジョア国家がまともに存在し得ないことは、御厨もまた認めるところでしょう。それを単なる「手続き」問題などと認識しているところに、この男の甘さと偽善があります。自民党政権下なら許されない犯罪も、民主党政権下なら許されると云うも同然で、余りのばからしさに呆然とするほどです。大学の教授連中というのは、何とごく初歩的な社会的常識も欠く連中なのでしょうか。
御厨は、民主党政権が「政治と社会の変革という目的の部分」を検察が無視している、と非難していますが、しかしそんなところに配慮するのは検察の役割ではない、ということを忘れている御厨が愚かであるにすぎません。それに、民主党の変革の意志とか内容とかがどうして本当の変革の意志とか内容であると、検察は判断できるのでしょうか。民主党の連中が「変革のために政治をやる」と公称していることと、実際にそうであるかどうかということは、全く別です。御厨は、民主党政権が本当に「変革を目的」としているとか、実際に「変革」を実行するとか考えるのは自由だが、しかし検察も同じ見解を持て、などと要求するのは余りに愚劣というしかありません。
彼は民主党政権が崩壊したら、日本はどうするのか、自民党が全くナンセンスなうえに、民主党まで絶望的だとするなら、国民は何を、誰を信じたらいいのか、政党政治は破綻し、まともな政府は組織されず、日本は国家として解体するしかないではないか、無政府主義が跋扈して大変な事になる、検察はその点を配慮しているのか、仮に小沢が田中や金丸と同じに金権腐敗に染まっていても、今の情勢では手加減をし、配慮をして、小沢への追及やめるべきだ、と云うのです。
検察を非難して、恣意的な取り締まりをやれ、小沢と民主党に配慮せよ、手加減してやれ、と云うも同然ですが、検察が政党によって捜査や追及を変えよ、民主党にはえこひいきせよ、などと公然と言うとは驚きであって、現代のインテリなるものの質の劣化を教える以外ではありません。
それに検察にえこひいきなど説教していいのでしょうか、現在でさえ、権力はブルジョアや権力者の犯罪には甘く、労働者人民にはわずかの罪でもとことん追及してきたのです。
むしろ労働者人民は、小沢のような権力者の犯罪の摘発をもっと徹底的にやれと要求するのであって、手加減を要求する御厨等の立場はあまりに途方もないものに見えます。インテリは一体何を考えているのでしょうか。
それに、検察に小沢への手加減を要求してもムダでしょう、というのは、検察は小沢のような巨悪を野放しにしておくなら、それこそ政治と国家への信頼や信任がなくなり、国家が解体していくという危機意識にとらえられているからです。秩序の守り手として、露骨な犯罪を安易に見逃すことは、彼らの任務ではないのです。
かくして御厨たちは、政府に、つまり鳩山内閣に「指揮権発動」を要求し、それによって小沢と鳩山政権を守れ、という立場に行き着くのであり、すでに事実上、行き着いているのです。大した「政治主導」があったのものです。まさに、語るに落ちたとはこのことです。
我々は総選挙前から、一貫して、「民主党には政権担当の能力がないばかりか、それ前に、その資格さえない」と断言してきました、と云うのは、民主党が小沢といった金権汚職犯罪人を党首に据えるような党であり、しかも西松建設の不法献金事件が明らかになり、党首から降りたと思ったら、今度は幹事長として党を牛耳るような党だからです。
鳩山も自らの金の不正記述をごまかして党首に納まっており、そんな党が自民党に代わるなどと謳うこと自体が厚かましく、破廉恥だったからです。民主党は政権交代を謳うなら、小沢とか鳩山から自らを浄化してから出発すべきだったのです。
そして今や、我々が強調してきたように、民主党は、政権担当の能力どころか、資格さえも完全に欠如した自堕落政党であることが完璧に明らかになって来ました。民主党は鳩山や小沢の金権体質、汚職体質を棚に上げ、検察権力が悪いのだ、不当・不正義の検察権力とあくまで闘う、というのです。
しかし自ら犯罪人でありながら、いかにして検察権力と闘うことができるというのでしょうか。そんなことをしたら、いたずらに検察権力を正当化し、擁護してやるも同然です。検察権力を攻撃して止まない小沢とか鈴木といった連中は、実際には、それと戦っているのではなく、その自己正当化と強化に手を貸しているも同然です。
今や、二“大”政党は二“大愚”政党であるだけではない、むしろ二“小”政党制に堕してしまいました。自民党についで、民主党の失敗と脱落は不可避であって、“国民”は民主党の空虚と無内容と反動性をたちまち確認したし、せざるをえませんでした。
すでに末期症状の民主党
新しい労働者の闘いを開始すべき時
2010年1月16日
石川議員が逮捕され、すでに民主党は末期症状です。鳩山内閣が末期症状なのではなく、民主党自身がそうなっているのですから、ことは深刻です。
いまや、小沢を切って民主党を救おうという策動が出始めています。曰く、小沢はそもそも自民党的な政治家であって、民主党とは異質で、なじまない人間であった、と。ある匿名希望の幹部は、「秘書がやったといえども、小沢氏が責任を問われる時が来る。個人の問題であって、民主党の体質の問題ではない」(日本経済新聞、一月十六日)、と開き直り、本質問題をごまかしています。
自民党と同様な、借金依存のバラまき政策に走りながら、自民党とは違う政治も何もあったものではありませんが、仮に、小沢の金権体質や強権的体質が民主党と異質だと云ってみても、それを許し、受け入れてきた民主党の“体質”とは一体何だったというのでしょうか。実際には、民主党は小沢政治と一身同体だったのであって、今さら、小沢だけ切れば済むということではありません。小沢の破綻は民主党の破綻であって、小沢は悪いが、民主党は悪くないと云ったことではありません。小沢は民主党によって、その犯罪や悪事を暴かれたのではなく、検察が追求し、告発するまで、民主党は何もしてこなかっただけではない、実際には、むしろ民主党は一貫して小沢を擁護し、弁護してきたのです。
党は小沢擁護派と排斥派に急速に分解していくでしょうが、しかし小沢を切ってことが済む、という問題ではすでにないことは明らかです、というのは、小沢あっての民主党であることは民主党の連中さえもこれまで認めてきたことだからです。労働者は、小沢権力の打倒を、いまや反動化し、自民党以下の政権に堕しつつある民主党権力の打倒にまで、断固として推し進めていかなくてはなりません。
民主党の連中は本当に厚かましく、厚顔無恥です。小沢自身は、自分の事務所が家宅捜査を受けた時に、「国民の皆さんは、私が潔白であると理解してくれたのだ、だから選挙で勝たしてくれたのだ」と語りましたが、石川の逮捕を受けて、鳩山らは、小沢発言を一層破廉恥なものにしたて上げ、「こういう問題(小沢の金権腐敗)もあるということを織り込み済みで政権を与えてくれたのだ」と言い放ったのです。誰が、そんな事を織り込み済みで民主党に投票したというのでしょうか。民主党に投票した人々に頭から冷水をぶっかけるにも等しい暴言ですが、鳩山は自分の云っていることさえ理解していないのです(理解する能力もない、大金持ち出身の甘い“坊ちゃん”政治家にすぎません)。
多くの人々は(多くの意識的な労働者や、我々ではありませんが)、民主党や小沢が潔白だと誓ったから、わらにもすがる思いでそれを信じて(信じようとして)、自民党の悪政の一掃と政治の変革を期待して、民主党に投票したのです。
しかし人々の幻想は急速に清掃されつつあり、民主党もまた自民党と本質的に同じブルジョア的な腐敗政党であり、まさに我々が明白に語ってきたように、「二大“愚”政党」の片割れでしかないことがたちまち明らかになったのです。
選挙で勝利して四ヶ月にしかならないというのに、もう民主党の決定的な破綻と黄昏時がやってきましが、これは決して偶然ではないのです。最初から、民主党に期待したことが間違いだったのです。
自民党も駄目、民主党も駄目、共産党など問題外、とするなら、政治に期待することはもうない、などと云ってはなりません、今こそ、労働者自身が団結し、労働者自身のための政治闘争、経済闘争に立ち上がっていくべきときがやってきたのだ、とむしろ考えるべきなのです。
我々が一貫して強調してきたように、新しい労働者の政党を作り上げ、団結を打ち固め、本当の階級的な闘いを開始しましょう。
マルクス主義同志会
二〇一〇年頭アッピール
2010年1月4日
鳩山政権が成立してほぼ百日がたち、この民主党政権がどんなものであるかがすでに完全に明らかになった。今後、この政権の“支持率”は低下こそすれ、いくらかでも大きく反転し、上昇していくことは決してないであろう。
というのは、この政権は本質的に自公政権と同じであり、プチブル的、もしくはブルジョア的であり得ても──鳩山が苦しまぎれに憲法改悪を謳い始めたことからもはっきりしてきたが、反動的でさえある!──決して労働者人民の立場や利益を守って闘いぬくことができないからである。
彼らの政治の根底は、「コンクリートから人へ」といったスローガンに表現されているが、意味不明としか言いようがない。彼らは「コンクリート」と言う言葉で公共事業を(あるいはもっと広い意味では、産業や生産などを)表現し、「人」という言葉で「所得」とか「消費」(消費生活)を表現しているのだが、こうした対置がどんなにばかげたものであり、一見してプチブル的空文句にすぎないかは、日々、生産的労働に従事し、そのことによって日々の生活を成り立たせている何千万の労働者には──直接生産者の農民らにとっても──全く明らかであろう。
民主党は、生産や生産的労働や“財源”のないところで、所得や消費の「補償」が可能だとたわいもない空想にふけり、しかもそれを“政策的に”実現しようとする──できると考える──のだが、その結果は、国家収入や“財源”を忘れたバラまきであり、財政の破綻であり、経済の停滞や衰退である。つまり労働者人民の生活の破綻であり、そこへ行き着くのである。
「控除から給付へ」など謳って、「子育て支援」などに大金を支出しているが、事実上、自公政権の「定額給付金」と同じものであって、ただのお布施もしくは義捐金のようなもの、つまり国家のお恵であり、施し物であるにすぎない。それをどんな金持ちにもバラまくというのだから──その動機は、選挙目当ての国民総買収である──、彼らの政治の卑しさと“品性”の欠落はきわだっている(小沢の本性丸出しだ)。
確かに生産は消費のためであって、資本の利潤のための生産は止揚され、廃絶されなくてはならないが、このことは、生産を廃止するとか、生産と消費の内的な関係を忘れていいとかいうこととは全く別である。マルクス主義は、労働者階級は、無条件に、人間の社会生活における生産の意義と本源性を承認するのだが、生産活動を、つまり生産的労働を卑しめ、搾取の契機におとしめているこのブルジョア社会は、生産あっての消費であり、消費は生産を前提するということを忘れ、ただ労働者人民のためというと、ほどこしとかお恵とか、「福祉」といった観点からしか捕らえられないのだが、こうした皮相浅薄こそが民主党政治の──もしくは共産党や社民党などにも共通する、プチブル的政治の──根底である。
そして子育て支援は単なるバラまきであって、「福祉」でも、「社会政策」でさえない、というのは、「所得制限」もおかずにどんな金持ちにも給付するというのだからであり、またそれらのカネが「子育て」のために支出されるというどんな保証もないからである。つまり最低の愚劣な政策ということである。
根底において、現実に根ざさず、幼稚で愚かな幻想から出発する政治は破綻するし、するしかないであろう。
こんな政治をやって、ブルジョアや金持ちにまでカネをばらまき、財政を破綻させ、経済を腐朽させるしか能がないとするなら、民主党政権の今後数年は、昨年までの自公政権の数年と同じく、暗黒と愚劣と低迷の数年になるしかないだろう。鳩山政権が仮につぶれても、民主党は選挙をやらないで居座りを続けることができるからである。選挙制度も小選挙区制などになり、“民主主義”なるものもすっかり形骸化し、寡頭政治、専制政治を生みだしかねないようなものに変質してしまっている。
「政治主導」や「政策決定の内閣一元化」をもっともらしく謳ったが、実際の内容は、党の内閣支配であることが、つまりは小沢の専制であることがすっかり暴露されてしまった。そして小沢は「政治改革」や「国会改革」を謳うが、実態は、選挙制度や国会の徹底的な民主化や全面的な政治闘争の深化のためでなく、また国会や民主党内部での民主主義や自由な議論の保証のためでもなく、その反対であり、“少数政党”や“少数意見”の徹底排除であり、国会や民主党内部での議論や批判の事実上の抑圧、禁止であり、小沢の独断的な“わがまま政治”、子供じみた専制政治の貫徹でしかないのだから、こんな民主党政権が労働者人民から、国民の全体から忌み嫌われるようになるのは、まさに「時間の問題」であろう。
我々は選挙の前から、民主党は政権担当の能力ばかりか、その金権体質を見ても、政権担当の資格さえない、とはっきり語ってきた。
実際、大金持ちの“御曹司”の鳩山は数億円といった脱税を平気でやっているし、小沢にいたっては一〇億円、二〇億円といった、公共事業がらみの事実上のワイロを土建資本から受け取っている。つまり民主党の最高幹部は事実上、刑事犯罪人揃いである。こんな破廉恥な政党が、連中が日本の政治を担当しているのである。そんなことが許されるのであろうか、労働者人民は許していていいのだろうか。
二〇一〇年こそ、労働者人民の力を結集して、自公政権のみならず、民主党──第二の自民党だ──の政権の打倒を目指して、労働組合に、労働者の政党に結集し、団結して断固たる闘いを開始すべき年である。労働者人民の課題は、労働者人民の政権を樹立することであって、ブルジョア政党やプチブル政党にむだな期待を抱くことではないし、あってはならないのだ。我々、マルクス主義同志会はその先頭に立つであろう。全国の心ある労働者諸君、活動家諸君、マルクス主義同志会に結集せよ。
無駄削れず、膨張破産予算
破綻する民主党政治
2009年12月26日
鳩山内閣の予算案が、小沢の「鶴の一声」もあって、ようやく決まりましたが、まさに民主党のマニフェスト政治とその混乱、破綻を象徴的に示すものとなっています。暫定税率廃止(2.5兆円の減税)という公約はほごにし、あれこれの増税を忍び込ませながら、子育て支援を始めとするバラまきはやめず(しかも、金持ちにまで給付して、所得制限はしない)、「コンクリートから人へ」と叫びながら、自公政権と同様に、道路だ、新幹線だという路線に戻っていくのですから、この政権は財政を破綻させ、経済を停滞と寄生と頽廃に導く以外、何もできないと言って決して言いすぎではないでしょう。また「控除より給付だ」と言いながら――もちろん、こうした主張は、民主党政治のプチブル的、“中間階級的”本性を暴露するものですが――、“主婦”と“中間層”の反発をおそれて配偶者控除を存続させるなど、ますます支離滅裂とちぐはぐと混沌を深め、収拾がつかなくなりつつあります。開業医の所得は2500万円、勤務医の所得は1500万で「格差」があるから、その財源のために診療報酬を引き上げると言うのですから、いったい誰のための、どんな階級、階層のための政治をやっているのかは余りに明白です。民主党の政治は本当にいやらしいものになってきています。100万、200万で困難な生活を送っている労働者、さらには多くの失業者のことを、こうした人々の生活をまず考える政治こそがせいとうであり、何よりも必要な政治ではないでしょうか。小沢の専制的な権力も公然化してきて、年が明ければ、民主党と鳩山内閣への幻想はますます消えてなくなっていくし、行かざるを得ないでしょう。
そもそも鳩山内閣が44兆円の借金の約束を守ったと云っても、麻生内閣でさえ当初予算の借金は33兆円だったのですから、この予算は麻生内閣以上の超赤字予算、借金予算でしかありません。しかもムダをいくらでも見つけると大言壮語しながら、実際にはほとんどあぶりだすこともできず、結局は10兆円もの「埋蔵金」に頼っています。借金と埋蔵金で54兆円、予算規模の6割にも達しようと云うのですから、民主党の政治がすでに破綻していることは明らかです。来年の予算編成時には、子育て支援の金額は二倍になり、また国債の大量発行、つまり借金依存も続けるわけにも行かず、しかも「埋蔵金』も枯渇しますから――と云うのは、「埋蔵金」は一度しか利用できないからこそ「埋蔵金」なのです――、来年度は動きが取れなくなるのは目に見えています。民主党の政権が続く限り、経済、財政の破綻はさけられないことがすでにはっきりしてしまいました。しかも小沢、鳩山の金権腐敗はとめどなく、また小沢の露骨な独断政治はひどくなる一方です。もはや民主党とその政権にどんな幻想も持ち得ないことがはっきりしてしまったのです。
我々は一貫して、自民、民主の二“大”政党制とは二“大愚”政党制の謂いであり、自民党も民主党も同じであると訴えてきました。そして政権の座についてわずか三ヶ月余り、民主党の本質もすでにすっかり明らかになってしまいました。子育て支援などは選挙目当てのバラまき政策、“中間階級”(高所得者階級、金持ち階級)目当ての政策であって、労働者にとっては意味のない政策むしろ有害な政策です。今こそ、民主党権力もまた一掃し、労働者のための政治を実現していくときです。そしてそのためには、まず労働者自身の政党を組織し、その闘いを発展させて行かなくてはなりません。
鳩山政権と小沢による「天皇の政治利用」
2009年12月14日
鳩山政権が公然と、天皇制の「政治利用」を始めた。
中国の副首相が来日するからといって、天皇を特別に動員するというのである。宮内庁が「慣例に反しているから」と断わっているにもかかわらず再三依頼し、最後は半ば強権的に押し切っている。
内閣は宮内庁に断わられていったん諦めたが、“小沢筋”から強い圧力がかかると、たちまちだらしくなくそれに従ったという。まさに「政治主導」に隠れた、小沢独裁でなくて何であろう。
鳩山は問われたわけでもないのに、わざわざ「小沢幹事長から話があったわけではない。そこだけは明確にしておく」と釈明している。語るに落ちたとはこのことだ。
鳩山内閣は、国家的な重大事だから何の問題もない、当然である、と開き直っている。
しかし国家的な重大事であるからこそ問題なのだ。“象徴天皇制”の本質は、天皇は政治的に存在してはならない、ということであって、その「政治利用」を厳しく抑制しているはずである。国家的重大事に天皇を駆り出すなら、それはそれ自体、天皇の「政治利用」であろう。民主党政権が軽々しく振る舞っていいわけがないのである。もし民主党政権が「悪しき先例」を作るなら、反動たちが喜んでその「先例を範とし」、それを繰り返し、常態とするようになるだろう。
天皇制の政治利用は、今年の春にも石原が企んだが──皇太子を五輪の「プレゼンター」として駆り出そうとした──失敗している。石原は、五輪参加は国家的行事であり、国民の意思でもあると勝手に言いはやし、「日本あっての皇室、皇室あっての日本」といったへりくつで、皇太子の「政治利用」を企んだのであったが、鳩山や小沢のやっていることは、それとどれだけへだたっているのか。
鳩山や小沢は石原と同罪である、否、それ以上に悪質である。というのは、国家と政府を代表し、「政治主導」を掲げて強圧をかけ、民主党とその政府のために、鳩山や小沢の権力強化や誇示のために天皇を動員するからである。これは“一介の”地方自治体の首長である石原にはできなかったことである。
実際、国家のためなどと言うが、本当は、鳩山政権や小沢が、それを必要としているにすぎない。中国の副首相が来たからと言って、「慣例に反して」までして、天皇が出て行かなくてはならない必然性も理由もない。国家のためと言うなら、すでにそれだけでも、天皇の「政治利用」であろう。
田中角栄にせよ、その“子分”の小沢にせよ、石原にせよ、天皇などという存在を少しも尊重もしなければ、神聖とも、ありがたいとも思っていない。彼らはかつての明治維新の志士たちと同様に、天皇を単なる「玉」──政治的に利用し得る一つの道具、持ち札、切り札──と理解するのであって、お飾りと政治利用以外には役に立たない天皇たち──血統によってのみ生きる、哀れな人間たち、ときの権力者の道具たち──よりも、実力でのしあがった自分の方がはるかに優れた人間、実際の権力を保持し、上に立つ人間であると信じている。
だからこそ、彼らは他の政治家たちよりもえげつなく、平然と天皇制の利用でも何でもやる──やることができる──のだが、そうした皇室軽視や強引さは、口先で天皇や天皇制をいくらでも持ち上げることと少しも矛盾しないのである。彼らは天皇らによって、自らの、あるいは自らの政治の権威を高め、錦で飾り立て(労働者人民への目くらましである)、「箔を付けること」を望むのであり、ただそれだけである。
民主党は、天皇制の「政治利用」までも始めることによって、自民党と本質的に同じ、徹底した政治的無原則と反動性を、したがってまた、労働者にとって「打倒の対象」でしかないその階級的本性を改めて暴露した。
そしてまた、“象徴天皇制”といえども反動たちに「政治利用」される存在以外でなく、またそれ以外になり得ないとするなら、そんな有害無益なものは断固として廃絶され、一掃されなくてはならないのである。そのことを鳩山政権の「天皇(制)の政治利用」は再び、三度明らかにした。
7兆円もの補正予算――“国家破産”に突き進む鳩山の経済財政政策
2009年12月12日
鳩山内閣は何を勘違いしたのか、突然に七兆円もの補正予算を決めました。そもそもそんな話は全くなく、また最初はせいぜい二、三兆円の規模だと言われていたのに、あれよあれよという間に七兆円という巨額のものになり、しかもそのために、さらに借金も積み重ねると言うのです。参議院選挙にむけてバラまきを拡大するといった、その場限りのことしか頭にないと思わざるを得ません。
景気の「二番ぞこ」が言いはやされ、参院選を前にして、その責任を問われるのを恐れてのことでしょうが、余りに愚昧であり、また徹底して無原則、無節操であって、今や鳩山内閣の経済財政政策は無政府主義そのもの、結果など全く考えない、急場しのぎの全く無責任なものになっています。
四四兆円と言われた今年度の借金は五三・五兆円にふくれ上がり、また来年度の借金もそれに劣らないとするなら、国家財政は急速に破綻に向かうしかなく、そしてその責任はあげて民主党政権にあるのであって、自民党のせいだ、麻生内閣のためだなどといった言い抜けはもはや通用しません。
しかもあきれたことに、今回の新補正予算には、麻生内閣の補正予算で削ったものや(四千億円を計上した住宅金融は、一次補正予算で前原が批判して凍結した住宅金融二千億円と全く同じもので、そんなものを金額だけ倍増させて押し込んでいますが、余りにひどすぎます)、ムダの代表として退けてきた、少しも緊急性のない公共事業まで盛り込まれているのです(例えば、街路緑化とか、電柱、電線の地中化とかいったような)。一体、何のための「事業仕分け」作業だったのか、「コンクリートから人へ」のスローガンはどうなったのでしょうか。
我々は、民主党の経済財政政策は「国家破産」への道であり、彼らの「ムダ排除の公約は画餅に帰した」と主張して来ましたが(『海つばめ』一一〇七号など参照)、我々の指摘はその正しさを証明しつつあります。今や労働者は単に自民党の権力だけでなく、労働者人民におそるべき災厄を準備しつつある民主党権力の打倒をも、自らの戦略的課題とすべきときにたち至っているのです。
破綻に向かう鳩山政権
2009年12月4日
仕分け作業という民主党政権のもう一つのスタンドプレーが終わりました。大騒ぎして結局わずか1.7兆円の削減止まり、目標の3兆円にも達しませんでした。豪語してきた、ムダは9兆円削減(つまり、それだけの財源確保)には遠くおよばず、今後、いかにして彼らのマニフェストを実現して行くのでしょうか。暫定税率を廃止して実際上2兆円余の減税をすると約束してきたのですが、税収不足に直面して、暫定税率を廃止する減収を、環境税新設やたばこ税増税で埋め合わせるなどと姑息なことを言い始めています。ブルジョア陣営から「二番底」で脅されて、あわててさらなる財政膨張に走るしか能がないのですから、財政破綻は決定的な段階にまで進みかねません。内閣自体が、国債発行を44兆円以内に収めるのは困難と言い始める始末で、年末にかけてどんな予算を組むか「楽しみ」というものです。その予算ははたして民主党政治の破綻――それはすでに至る所で現れてきているのですが――を決定的に暴露するものにならないでしょうか。そして鳩山はといえば、政治資金法違反を追及され、「秘書が、秘書が」と言うだけですが、彼はこれまで秘書のやったことは政治家の責任であるとか、こうした場合は議員を辞職すべきとか公言してきたのです。金権政治家の(もと自民党の)鳩山や小沢が、自民党に代わって政権につくということ自体がナンセンスであり、茶番なのです。彼らは政権担当の能力以前に、その資格さえありません。鳩山内閣は急速に破綻に向かって転げ落ちて行くでしょう。
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