【2010,10,1】
尖閣諸島に波高し
【2010,9,25】
「領土問題は労働者階級には存在しない」――今こそプロレタリア国際主義の旗を高く掲げよ
【2010,9,24】
“野合”政党の宿痾――菅と小沢の“骨肉の争い”
【2010,9,17】
「最低と最悪の闘い」――マスコミはなぜ一方の肩を持つ
【2010,9,10】
民主党の代表選――菅が勝てばいいのか
【2010,9,2】
菅が勝っても展望はなく――民主党の末期症状露呈の菅・小沢対決
【2010,8,21】
血迷った朝日新聞――何のための菅内閣の尻押しか
【2010,8,13】
被害者意識だけの原水禁運動――米国より“日帝”の罪を問え
【2010,8,6】
民主・自民の大連合の可能性も――消費税増税を接着剤にして
【2010,7,23】
民主党の先祖(自民党)返り
【2010,7,12】
民主党に愛想を尽かしたが――「宙にさまよう」労働者人民の意思
【2010,7,3】
法人税穴埋めというドグマ――共産党は菅の消費税増税を批判するが
【2010,6,27】
たちまち嫌われ始めた菅の政治――「増税で経済成長」「強い経済」を言う“いかがわしさ”
【2010,6,18】
菅“増税”内閣もお断り――鳩山政権より悪いじゃないか!
【2010,6,5】
「三兎を追うほら吹き男爵」――「看板」はり替えただけの菅内閣
【2010,6,2】
鳩山、小沢が権力を放棄――しかし民主党の本性も“体質”も変わらない
【2010,5,29】
鳩山政権の決定的破綻と朝日新聞(自由主義的ジャーナリズムの破綻)
【2010,5,21】
60年安保闘争50周年集会――「笑い飛ばせ、60年ブントと新左翼」、樺美智子・池尾正勇哉追悼
【2010,5,14】
二“大愚”政党の死は近い――鳩山政権は麻生政権の末期症状さながら
【2010,5,7】
県外移転は「公約でなかった」と強弁――
鳩山は最低最悪の日和見主義者だ
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尖閣諸島に波高し
2010年10月1日
尖閣諸島問題が勃発するや、菅内閣はみっともない動揺と右往左往、日和見主義と空いばりを繰り返し、どんな原則も一貫性も持ち合わせていないことを暴露しました。 「粛々と国内の法律にしたがってやる」と断固として中国に通告しながら、中国が“強硬姿勢”で臨んでくると、たちまち日和見主義に陥り、今口にしたばかりの原則を投げ捨てて、“超法規的に”中国の船長を釈放したばかりではありません、その原則に背いたことを隠すために、釈放の責任を検察に転嫁するなど、菅内閣は卑怯で愚劣そのものの対応に終始しました。前原は、自分が原則を捨てたことをごまかしつつ、ことの決着がつき、中国が態度をいくらかでも軟化し始めると、途端に元気を回復し、自分は原則に立って“強硬外交”を貫いたかに装うのですから、この男も相当のワルであり、卑劣漢です。「正義」が最初から最後まで、日本の方にあったというなら、堂々と「法律に従って」船長の起訴にまで持って行ったらどうなのでしょうか。“超法規的に”釈放しておいて、今さら、一貫して中国に対して毅然としていたも何もありません。
近代における領土問題には、「正義」などというものは存在しません。というのは、尖閣諸島にしろ、竹島にしろ、「どちらが先にツバを付けたか」といった次元の話でしかないからです。尖閣諸島に、中国よりも日本が「先にツバを付けた」というにすぎず、そんなものを「固有の領土」などというのは最初から間違っています。“領土”だとか、“領有権”といったところで、歴史的、実際的に見れば、せいぜい仮の“領土”、便宜上の“領有権”といったくらいのものです。そしてせめてそのように考え、位置付けることができるなら、そしてその上で、相手国と話し合うことができるなら、「領土問題」といったものの大部分はブルジョア国家においてさえ解消され、なくなることでしょうに。
「領土問題は労働者階級には存在しない」
今こそプロレタリア国際主義の旗を高く掲げよ
2010年9月25日
民主党が、自民党とともに「大愚政党」であり、「政権担当の能力も資格もない」と我々が主張してきたことが、菅内閣が再出発するや否やたちまち明らかになりました。
尖閣諸島で、「公務執行妨害」で逮捕し、拘留し、「粛々と法律に基づいて対処する」と主張してきた中国漁船の船長を──単に「公務執行妨害」だけではなく、「領海侵犯」の犯罪も当然問題となるとしてきたのに──、実際上、無条件で釈放しました。「法律」違反は明らかだが、中国権力が強硬姿勢をあらためないから“政治的な”判断で釈放する、というのです。
余りにも愚劣であり、拙劣であって、菅内閣など(民主党内閣一般が、つまり民主党そのものが)全く信用も信頼もできないことがまたまた明らかになりました。つい最近も、民主党代表選で菅に味方して大キャンペーンを張ってきた朝日新聞などのマスコミはどう申し開きをやり、弁解するのでしょうか、できるのでしょうか。
菅内閣の方針として――ヘゲモニーを握ったのは、国家主義をもてあそぶ、反動の前原でした――、中国船長の逮捕に踏み切り、「粛々と(日本の)法律に従って処理する」と言って来ておいて、たちまちその方針を変更し、放棄したことは――そうせざるを得なかったことは――、民主党がどんな明確な政治的、思想的な原則も立場も見地も有しておらず、その場その場で、ご都合主義的な政策や外交をもてあそぶだけの政党――“世論”なるものの顔色をうかがい、バラまきなどの場当たり的な人気取りに終始しつつ――であり、「政権を担当する能力」など全く持ち合わせていないことを余りに明瞭に暴露したのです。
しかも逮捕を自らの「政治判断」でやらせながら、釈放は、検察の「政治判断」だと知らん顔をするとは――つまり、責任逃れに走るとは――、菅内閣はまさに最低の内閣でしかなく、責任のある「政治主導」など影も形もありません。検察は行政に属する機関であって「政治主導」とは全く関係ありません。“国”にとって決定的に重大な問題を、検察の判断や決定に任せる――“丸投げする――ことのどこに「政治主導」があるのでしょうか、民主党にあるのは「政治主導」ではなく「政治責任逃れ」だけです。そもそも検察が、こんな「政治判断」をするなら、それこそ問題であり、“行政機関”のやるべきこと、やっていい範囲を超えていないでしょうか、というのは、検察には「法に基づいて粛々と」対処することこそ要求されているはずだからです(もちろん内閣も、つまり行政一般も同様ですが)。
そしてもし釈放をするくらいなら、何のために拘留延長をしたのでしょうか、そんなことなら、拘留延長のときに釈放すべきであり、あるいは最初から逮捕すべきでなかった――その方がはるかにベターだった――ことは自明です。あるいは、なぜ二十九日まで数日だから、その時を待って釈放というやり方さえ取れなかったのでしょうか。やることなすこと、愚昧で、ナンセンスで、実際、言葉の真の意味で(あるいはブルジョア的な意味でさえ)「政権担当の実際的な能力」がないのです。いずれにせよ、最悪のやり方だったということだけは明らかであって、民主党ほどに“国益”を損なう政党はない、ということです(この言葉は、彼らがいつも“国益”のために政治をやると言っているから、基本的に皮肉で言うのですが。今度のことは、自民党にせよ、民主党にせよ、国家主義の反動たちにせよ、“国益”を叫ぶ連中が、いかに“国益”のために尽くしているのか――実際には、その反対ばかりしているのか――の、一つの生きた証拠です)。
また、今回の事件の明白な結果は、民主党に巣くう国家主義の反動の前原や、松原仁や中津川博郷らの(自民党の反動派や、つくる会とか産経新聞などのろくでもない連中の)“戦略”がたちまち挫折した、ということでもあります。
前原はなぜ断固として、自分の外交を、つまり「粛々として国内法で処理する、中国には介入させない」という方針を貫かなかったのでしょうか、常日頃から、その方針(対中国強硬外交)こそ正しく、それのみを断固として遂行すべきだと強がっていたのですから、そしてせっかく日本の外交を主催する大臣の地位についたのですから。
しかし前原が対中国強硬外交に走れば走るほど、中国の反動派、支配層もまた「対日強硬外交」に走り、様々な対抗手段に出てくることは極めてあり得ること、予想されることでした、というのは、権力を維持し、強化するためには、彼らにもそれ以外になかったからです。中国の支配層もまた、国家主義、民族主義を振りまき、鼓吹し、扇動することを、権力維持の最も重要な手段の一つとしてきたのです。彼らはここで「引き下がる」ことはできなかったのです、そんなことをしたら、自らの権力基盤をたちまち喪失しかねなかったのです。温首相が「領土問題では、屈服も妥協もしない」と強硬路線をつっ走った理由ですが、前原は、そんな中国権力層の立場を知らなかったのでしょうか。それとも、前原が強硬姿勢をとれば、中国支配層は恐れおののいて後退するとでも思っていたのでしょうか。そんな甘っちょろい判断で「強硬姿勢」につっ走るというのは、まさにかつてのアジア・太平洋戦争(日本の“一五年戦争”)期における東条や軍部のひとりよがりと同様であって、ひどい愚劣さと「政権担当の能力」皆無を暴露するだけです。
日本が「日本の法秩序」などいくら持ち出しても、中国の支配層には通じません、というのは、彼らは尖閣諸島は中国の領土だが、日本帝国主義が勝手に「囲い込んだもの」と最初から主張しているからです。それは日本のブルジョア支配層が、そう主張しているのと同様であって、彼らはこの点で「妥協することはできない」のです、というのは、“国家の利益”を掲げ、そのためにこそ闘うのは彼らのいわば“存在意義”(レゾン・デートル)そのものであって、この決定的な問題で中途半端な態度をとったら――まして労働者階級のように国際主義を唱え、「労働者にはいわゆる“領土問題”は存在しない、というのは、地球のすべてはそもそも世界の労働者人民の――人類の――貴重な共有の財産だから」と主張するなら――、彼らは一日として権力の座に留まることができないからです。
前原には、自分たちが「対外強硬」路線を取るなら、外国のブルジョア階級や国家主義者たちも同じである、という簡単な認識さえもないのです。彼らの行き着く先は、労働者人民には大きな不幸と悲しみと惨禍しかもたらさなかった帝国主義戦争だけであって、それこそかつて日本が、世界が一九三〇年代、四〇年代にたどり、突き進んだ道でした。反動たち、国家主義者たち、自民党や民主党の前原たち、つくる会の腐ったインテリたち、卑しい反動派のマスコミ等は再び日本が、世界がかつてと同じ道を歩めというのでしょうか。
ばかな共産党は、いまでは労働者の国際主義を完全に捨て去って、領土問題で、ブルジョアたちと同じ立場にまで堕落して、「尖閣諸島は日本の固有な領土である」、と絶叫して、前原や国家主義の反動たちを助けています。
そもそも尖閣諸島が「日本の固有の領土」だというのは、現在のブルジョア的国際秩序としてそうなっているということ以上を意味しない、ということさえ理解しないのです。例えば、一九四五年までは朝鮮半島は「日本の固有の領土」であるばかりか、日本国土の一部でさえありました。「満州」(現在の中国の東北部)は、形式的には独立国家の装いをこらしていましたが、「日本の固有の領土」、つまり事実上の植民地――当時の国際的秩序として何とか認められた――でした。欧米の諸列強はまだ世界中にいっぱい「固有の領土」を、つまり植民地を持っており、その正当性を誇っていました。共産党が「日本の固有の領土」などを持ちだすこと自体、この党のブルジョア的堕落の深さを暴露するものです。
日本が尖閣諸島を明確に「日本国の一部」に組み込んだのは、一八九五年とされています。もちろん、中国と協議したり、話し合ったりしてのこと、合意があってのことではありません。当時の中国は「日清戦争」で日本に負け、国家として深刻な危機と解体過程――古い、“中世的な”反動国家の解体と、“近代”国家として生まれ変わる過程、第二次世界大戦の後にまで持ち越された、半世紀にわたる困難な過程――にあり、“国民国家”として登場していなかったのですから、尖閣諸島に対してどんな発言をすることもできなかったのです。尖閣諸島が日本の「一部」だというのは、日本がただ中国などに先行して、まがりなりにも“国民国家”として、ブルジョア国家として──さらにはアジア諸国を従属させ、植民地化する帝国主義国家として──登場した結果であるにすぎず、何か「永遠の真理」であるかに、そんなものを持ち上げる共産党は、資本主義の体制が、その世界秩序が――ブルジョア国家とブルジョア国家が対峙し、お互いに国家的利己主義を振りまき、しょっちゅう反動的な戦争にまで訴える野蛮な世界と時代が――唯一の“秩序”だと持ち上げ、正当化し、擁護しているのと、大した違いはありません。
我々は、菅内閣に対し、当面、日本の関係する領土問題――日本が「実効支配する」“尖閣諸島”とともに、その「支配」が及んでいない“北方領土”、“竹島”の三つ――について、これらの土地がいずれの当該国家にも属するものではないという立場を明確に宣言し、それらについては、今後関係する国々で話し合い、検討していくという提案を、つまりどちらかの国に一方的に所属することにしないという提案をするように要求します。過渡的な手段として、共同の管理のもとに起き、具体的なことは相談して決める――国連の裁定や管理にまつとか、等々のやり方もあり得るだろうが――とするのが最善であり、紛争のもととなることを最小になし得ると考えます。
現在の世界情勢は、中国を初めとする“新興国”が、既存の欧米や日本の諸国に対して台頭し、世界の帝国主義的体制の再編成を要求し、先鋭化しつつあり、これまでの体制を擁護しようとする勢力と新興の勢力の対立、争いが激化しつつある時代である、と言えます。かつて新興国が“急進化”し、ファシズム化するとき、ムッソリーニが「フューメ奪還」を叫んだように、ヒトラーが「ゲルマン民族の領土回復」をわめいたように、東条らが朝鮮や中国の多くの“利権”を当然の権利とみなしたように、“領土”問題はファシズム体制と反動戦争に国民を駆り立てる、帝国主義者たちの格好の扇動材料になります。
世界の労働者階級は、とりわけ日本の労働者階級はいまこそ、「世界の労働者階級には領土問題は存在しない」、万国の労働者よ団結せよ、というプロレタリア国際主義の原則を高く掲げ、反撃に移るべきときとなったのです。
“野合”政党の宿痾
菅と小沢の“骨肉の争い”
2010年9月24日
民主党の代表選は、この党が一つの党ではなく、二つの(あるいは数個の)分裂した党であり、その野合組織に過ぎないこと――目的は、ただ「政権交代」、つまり権力を獲得し、壟断することだけにあることを暴露しました。そして小選挙区制――これは「政権交代を容易にする」とかの騒々しいキャンペーンの中で、1990年代に実現したのですが――によってとことん促進されています。小選挙区制や政党助成金などの「政治改革」はブルジョア支配を頽廃させ、腐らせ、寡頭制を準備する以外、どんな意味もなかったといって決して言いすぎではありません。菅の成功は「反小沢」を売り物にしたものですが、自分の党内の人間に対する反感と否定と攻撃を売り物にして成立したような菅内閣に、ろくな展望も未来もないことは明らかです。今は一応高い支持を得ているように見えますが、すぐに化けの皮がはがれていくでしょう。そもそも菅や岡田と言えば、7年ほど前、「政権をとるため」と称して、小沢一派と民主党のご都合主義的な野合を主導し、演出した連中です、そんなやからたちが今さら「反小沢」も何もあったものではありません。菅や岡田はあのとき、「小異を捨てて大同につく」と浮かれていたのです。小沢との間にあるのが「小異」だとするなら、そしてお互いに「大同」に立っているというなら、どうして今回、まるで正反対に近いような政綱をかかげて党を二分するような代表選を争い、えげつない批判や攻撃に憂き身をやつす必要があったのでしょうか。民主党のような野合政党が幅をきかせ、政権につくような“不幸”をもたらしているのは、民主主義を事実上ないものとする、“不当な”小選挙区制の結果でもあります、つまりブルジョア民主主義は形骸化し、骨まで腐り、ブルジョア寡頭制に行き着くことによって破綻し、解体して行きつつあるのです。この傾向はこれからも容赦なく自らの道を貫徹していくでしょう。
「最低と最悪の闘い」
マスコミはなぜ一方の肩を持つ
2010年9月17日
民主党の代表選が終わった。ある人は、「最低と最悪の闘い」と評したという(『朝日新聞』九月十五日夕刊)。
どちらが「最低の」政治家で、どちらが「最悪の」政治家かは自ずと明らかだが、そうであるなら、なぜ“天下の”マスコミは、つまり大新聞などは、一方に反対し、他方に肩入れするキャンペーンを繰り広げたのか、そんなことをして果たして国民全体と歴史に責任を負うことができるとでも思っているのか。
実際、朝日新聞などが書き立てたことほどに“偏った”記事はなかった。
菅の勝利は「民意を踏まえた、良識的な選択」であるとか、「まっとうな結果」、「三ヵ月の首相を変えることには大義がなかった」、「民主党政権は実質ここから再スタートだ」、マニフェストは「実現が難しければ、柔軟に修正し、国民には理解を求めればいい」、「頻繁な首相交代による『政治の不在』はもう許されない」等、事実上菅を支持し、後押ししてきた立場を隠そうともしていない。
他方、小沢に対しては、「支持の広がらなかった事実をかみしめよ」、「『古い政治文化』への拒否感」が小沢を拒絶したのだ、「言葉通り、一兵卒として身を処せ」(でしゃばるな、菅の足を引っ張るな)、裏で「実権を振るう」ようなことがあってはならないと、お説教にこれ努めている。
しかし菅の立場や見地や政策に根本からおかしなところ、間違ったものがいくらでもある反面、小沢の主張にも妥当なところがあるなら、それを“客観的に”、そして“公平に”評価し、論じるのが、いやしくも「社会の木鐸(ぼくたく)」としての新聞の責務ではないのか(事実、彼らはそう自らの社会的責任と任務を呼んで誇ってきた)。
例えば、小沢は総選挙のマニフェスト――それこそが民主党に政権を与えたのだが――の遵守(じゅんしゅ)を謳ったが、それは当然のことであって、その実行が不可能であるなら、民主党はいさぎよく政権の座を去るべきであり、あるいは少なくとも新しく総選挙を実行すべきだったが、鳩山内閣が挫折したときも、またマニフェストの核心が実行できないことがはっきりしたときも、さらには参院選で敗北したときも(つまり事実上、菅政権が不信任されたときも)、政権に恋々としがみついてきたが、なぜ朝日新聞などは、そんな民主党を原則的に批判しないのか、できないのか。
小沢が、マニフェストによって政権を獲得したのだから、それを遵守せよと言うのはその限り全く正当であって、それを攻撃するマスコミがまともであるとは到底思われない。小沢が非難されるとするなら、マニフェスト実行不可能がすでに完全にはっきりしていて、なおそれを持ち出すことであって、約束履行を主張すること自体ではない。
マニフェストの実行が不可能なのは、民主党が誇大な口先だけの約束をし、空想的な看板を掲げて政権をかすめ取ったからで、つまりは民主党は政権を担う資格がないということ、ただちに政権の座から降りるべきだということであるにすぎない。
実際小沢が、菅政権の「政治主導」はすでに存在せず、財務省主導になっている、天下りの徹底的な一掃も空文化したと批判しているのは果たして正当ではないのか、また普天間基地移転で、民主党が沖縄県民と、そしてまた労働者人民を裏切ったというのは真実ではないのか。
菅の参院選の消費税増税路線や、それを少し変えただけの――ごまかしただけの――、代表選における、「雇用」への財政支出増から出発する、経済の“循環的好転”路線――と、とりあえず呼んでおくが――は、小沢のバラまきデマ政治にも劣らない、一種のデマ政治であり、全くの観念論、ドグマではないのか。
大体、小沢や鳩山が党の代表や幹事長を辞めていくらもたたないのにでしゃばって、代表選に出たりするのがおかしいというなら、菅もまた、参院選で事実上“国民”から不信任を突き付けられたというのに、総理大臣選びと同じ民主党代表選に立候補するのはおかしいのであって、小沢だけを批判するのは少しも公平でも正当でもない。
参院選敗北の一番の責任は、消費税増税を持ち出した菅にあるのであって、枝野らにないのは余りに明らかなのに、最大の責任者の菅が総理大臣に成り上がり、他方、枝野が幹事長を辞めるなど、まるで筋違いであり、茶番でしかない。菅こそが、そして小沢や鳩山などがすべて退陣して、別の人間に道を譲るのが――民主党にそんな“人材”がいるかどうかは知らないが――、菅直人らのやるべきことではなかったのか。
それなのに、自分の志す政治理念も理想も、具体的な生きた政策も何もないまま、権力に汲々としてしがみつくだけの菅が、誰かが言ったように「最低の」政治家であることは確かである。
民主党の代表選
菅が勝てばいいのか
2010年9月10日
民主党の代表選挙は今たけなわで、あと数日もたてば決着がつきます。今のところ、どちらが勝つのか判然としない情勢ですが、しかし菅が“国民”なるものの支持を背景に辛勝するような雰囲気です。しかしどちらが勝っても「無事に納まる」ことは無理で、激動が予想されます(「血の雨が降る」かも)。小沢政権はもちろん、仮に菅政権が継続することになっても、我々は原則的な批判的活動を強めて行くのみです。菅は、「一に雇用、二に雇用、三に雇用だ。雇用こそが経済の低迷、社会の不安感、社会保障の問題点を変えていくカギになる。仕事が増えれば、経済が大きくなり、税収が増えていく」といった幻想を振りまきながら闘っています。消費税増税から始まって、それを介護などの雇用増加のために支出すれば、財政再建も社会保障も経済成長も三位一体で解決するとした、例の見解のバージョンというわけで、今度はこの“循環”を「雇用」から始めようというに過ぎません。こんな政治は民主党政治の本性でもあるバラまき政治の継続でしかなく、結局は財政崩壊を一層推し進め、民主党政治の破綻に行き着くしかありません。また菅は、もっぱら小沢の金権腐敗とか、政治の古くささとか、独断専行の強引なやり方とかに批判を集中していますが、小沢の政治のそんな本性は最初から明らかだったのですから、今さらのようにそんな悪を並べ立てても、それを容認し、共に民主党でやってきた菅自身の責任が問われるだけです。菅と小沢の対決は、民主党が一定の階級的、思想的な原則に基づいて結集した、いくらかでもまともな一つの党ではなく、小選挙区制のもと、「政権」につくことのみを考える権力主義的で、腐敗したブルジョア政治家たち、プチブル政治家たちが、どんな原則も一貫した政治的立場もなく、ただご都合主義的に寄り集まっただけの政党にすぎない、というこの党の反動的で空疎な本性を暴露しています。菅と小沢の白けた「対決」は、民主党政権の再出発ではなく、この政権の末期症状でしかありません。
菅が勝っても展望はなく
民主党の末期症状露呈の菅・小沢対決
2010年9月2日
対決か「挙党一致」かのごたごたを繰り返した末、民主党代表を選ぶ、菅と小沢の二週間の選挙闘争が始まった。
勝った方が総理大臣である(もちろん小沢が勝って、党首は自分だが、首相は違うとロボット総理を立てることも可能だが)。
しかし労働者にとっては、菅であろうと小沢であろうと、どちらも同じようなものである。
マスコミは小沢が立候補したことを批判し、事実上菅に肩入れし、菅が勝つことに露骨に期待感を示し、代表選は「新しい政治を切り開いていくきっかけ」になるなどと、いまだに民主党とその政治への幻想をあおり立てている。そもそも三ヵ月しかやっていないから、菅を交代させるべきでないと言うのは、理屈にさえなっていない。
もちろん小沢は、立候補することなしには自分の政治権力が――そればかりか、政治生命さえも――危うくなったから闘うことにしたのであって、志があってのことではない。勝っても展望なく、負ければ民主党の中で立枯れになるか、民主党を割って出て、またまた政界再編に賭けることになるが、しかし今度ばかりは小沢に動かされる政党や勢力はないだろう。
小沢は「進むも地獄、引くも地獄」と言った立場にまで追いつめられているのであって、問題はすでに小沢ではなく、菅であり、民主党そのものである。小沢がナンセンスで悪党であるだけでなく、菅もまた小沢と大差のない政治家でしかない、ということである。
菅は「脱小沢」を掲げ、それをエネルギーに権力の維持を企むのだが、その「反小沢」の内容さえはっきりしない。すでに問題は単に金権政治ではなく、小沢も鳩山も菅も一緒になって推進した、「現物(コンクリート)から給付(人)へ」に象徴される民主党政治であり、その根底である。
そもそも民主党そのものが、小選挙区制のもとで権力にありつこうと、いいかげんな政党や政治勢力が寄せ集まっただけの“さもしい”政党であり、その政治は当然の結果、最初からどんな原則も一貫性もないものであった。いまさら、党として団結せよとか、一貫した、いくらかでも原則的な政治をやれ、などといっても「ないものねだり」を出ないのである。
権力保持に執着する菅の意思は明らかだが、しかし権力を維持して一体何をやりたいのか。菅の場合は、実現したい政治があって首相の地位につくのでなく、権力意思が先行して、その後に政治や“政策”がやってくるのである。
マニフェストを順守すべきと主張する小沢に対し、菅はそんなものはいくらでも変えていいと言うが、菅は無責任、無節操ではないのか、この点でいかにして小沢より正当であり得るのか。
マニフェストを順守しないというなら、「政権たらい廻し」に明け暮れるのではなく(自民党と全く同じに)、総選挙の時に断固として約束したように、まず解散して「信を問う」べきであろう。
菅は参院選で消費税増税を持ち出したが、しかしそれとても、権力維持にプラスと思ってのことであったにすぎない。実際に、消費税増税を謳うことはマイナスだと分かった途端、彼はそれを謳うことはやめてしまった。
彼が参院選で消費税増税を持ち出したのは、決して偶然でも勇み足でもなく、菅の政治の本質的なものを暴露したのである。つまり二重の意味で、自分の政治的本性をさらけ出したのである。
消費税増税が本当に必要だと信じたからではなく、それを謳うことが権力維持に有利だと信じたからこそ、それを持ち出したということによって、自分が徹底したマキャベリストであり、またそうでしかない、ということを暴露し、また、消費税増税を持ち出すことが、鳩山と小沢を退かせて“いい雰囲気”になってきた民主党への期待を一気にしぼませるものでしかない、ということを理解できなかったことによって、徹底して愚かだということを暴露したのである、つまり権謀術数家であると共に、愚昧でもあるという自らの本性を明らかにしたのである。
参院選において、菅はすでに“国民”に不信任を突き付けられたのであって、そんな人間が小沢に勝ったとしても、これから三年間、国政を担当して行くことなどできるはずもないではないか。
菅は一体どんな政治をやるというのか。消費税増税を謳ったのだから、それを実現して、彼が主張したように、強い財政、強い経済、強い社会保障のために奮闘し、邁進するとでも言うならまだしも、何をやるのかも語らないままに、総理大臣の地位にはしがみつこうというのである。
「政治主導」を強調し、その意味は「国民(市民)主導である」と言いはやしてきたが、しかし“市民主義”の政治とか、その主導などといったことは空っぽの言葉ではあっても、実際にどんな内容であり、具体的にどんなものであるかは不明瞭なままである。
実際、“市民主義”の政治をやるなどという、頭でっかちで、内容のない人間に、ろくな政治家がいるはずもないのである。
菅と小沢の民主党代表選挙は、民主党の末期症状であって、この党が破産し、解体し、消えていくしかないことを教えている。小沢を切り捨てて、この党が“真の”民主党として再編される、などということは全くの幻想であろう。
菅が勝とうが、小沢が勝とうが、民主党の政治が、その政府がいくらかでも長続きできるなどと、もはや誰も信じていない。そして民主党に代わる政党も存在しない。
つまり危機は単に民主党の、その政府の危機にとどまらず、議会制民主政治そのものの危機として現われ、深化しつつある。この危機がどんな形で、どこまで深化するかを明確に語ることはできないとしても、この危機とその深化だけは確かであり、必然である。
(『海つばめ』1129号「主張」)
血迷った朝日新聞
何のための菅内閣の尻押しか
2010年8月21日
商業新聞(朝日、毎日など)の頽廃が急速に深まっています。今やこれらの新聞は民主党のご用新聞にまで堕落し──ちょうど、産経新聞などが、自民党や反動派のご用新聞に堕しているのと同様に──、「菅内閣を存続させるべきだ」といったキャンペーンにうつつをぬかすまでに転落を深めています。かつて軍部に全面的に屈服し、国民全体を反動的な戦争にかり立てた“前歴”を彷彿(ほうふつ)させるほどです。
一体、朝日などに、そんな主張をやり、また菅内閣の尻押しをする権利などあるのでしょうか。朝日などは、政治的には中立、公正を自ら任じてきたのではないでしょうか、それなのに特定政党の特定内閣の応援団を買って出て、菅内閣を倒してはならない、たった3ヵ月しかやっていないのだから続けさせなくてはならない、とわめいていいのでしょうか。もはや“公的な”立場に立った新聞、というのは虚名でしかありません。 朝日や毎日が、菅内閣を存続させよとわめくのは、小選挙区制になって以来、国のトップは総選挙で国民が選ぶということになった──こんな理屈もえせジャーナリズムの独断であって、そんなことになったなどということはありません、低俗なマスコミが「政権交代選挙」といった“世論誘導”にふけっただけです──、だから、“たかが一つの党”の代表選挙によって首相を決めたり、勝手に変えたりするのはおかしい、といったことからです。
こんな理屈を持ち出すなら、そもそも昨年、鳩山政権を変えたこと自体が許されないということであって、昨年総選挙で鳩山民主党が圧倒的に支持されたのだから、いくら支持率が下がり、国民の全体からあいそをつかされたとしても、鳩山政権はずっと存続させるべきだった、ということになりますが、朝日も毎日も、昨年、鳩山政権の支持率が10%台にまで急落し、国民が鳩山政権を見捨てたときには、あえて鳩山政権の存続を謳おうとはしなかったのです。
あの時に、朝日はなぜ今口にしているような理屈を持ち出し、鳩山政権擁護の大々的なキャンペーンを張らなかったのでしょうか。ごまかしと矛盾そのものです。
そして鳩山政権に代わった菅政権もまた、国政選挙──今年の参院選──の“洗礼”を受けたのであって、その選挙に現われた国民の意思は、菅政権は支持できない、というものだったのではないでしょうか。参院選は総選挙ではないから、国民の意思は分からない、とでも言うのでしょうか。
選挙で政権を選ぶのだ、国民が直接首相を選ぶのだというなら、菅直人もまた鳩山と同様に、国民によって首相の器ではない、と判断されたということであって、朝日などが菅を支持し、それを“国民”に押しつけようというのは僭越至極、自己矛盾そのものです。
政策が肝要だと言うが、菅もまた「政策」──消費税増税等々──を掲げて、参院選を闘ったのであって、朝日新聞などの言っていることは少しも首尾一貫していません。「菅氏は、先の参院選で自民党に敗北しても首相を辞めなかったのに、なぜ一政党内の手続きにすぎない投票の結果次第で首相を辞めなければならないのか」(朝日新聞十六日、主張欄)。
見られるように、天下の大新聞にあるのはすでに、珍妙で、はずべき詭弁と牽強付会(けんきょうふかい、つまりこじつけ)でしかありません。
菅が参院選の結果にもかかわらず首相の地位に固執したのは、彼が権力に執着したから、単に厚顔無恥だったからであって、朝日新聞は、菅が立派な政治家だったからとでも言いたいのでしょうか。
朝日新聞がどれほど高く菅直人を評価するか知りませんが、参院選では、“国民”は菅には首相を任せられないと考えたからこそ民主党に投票を集中しなかったのです。そうでないというなら、朝日新聞は、参院選の民主党の敗北の原因は何だったと言うのでしょうか。
もし参院選における国民の意思が、菅内閣への大きな支持であったなら、朝日新聞も、「一政党内の手続きにすぎない投票の結果」によって、民主党が党の代表を、あるいは国の首相を勝手に変えることを非難し得るかもしれませんが、しかし参院選の結果──そこに現れた“国民”の意思──も踏まえて、党代表を誰にするかを決めることは、民主党の権利であって、“部外者”である朝日新聞がとやかく言うようなことではありません。
問題は、朝日などが言いはやしているのとは違って、小選挙区制が少しも“国民”の意思を反映する制度でも、首相を“国民”が直接に選ぶ制度でもないということです。この制度を持ち上げる人々は、大政党にゆがんだ利益と特権を保証するこの制度を美化し、正当化しなくてはならない、別の卑しい動機や目的を持っており、それを隠すためなのです。
もし朝日の言うように、「いまは、有権者が総選挙を通じて新しい首相を直接選択し、政権交代を起こしうる時代になった」(同)とするなら、なぜ、鳩山は菅に政権を譲ったのか、それを許したのでしょうか。あるいは新しく政権を握った菅は、なぜ総選挙を行って“国民”の信を問わなかったのでしょうか。
民主党は自民党が四年間も、小泉、安倍、福田、麻生とろくでもない首相を何人も「たらいまわし」で据えて権力の座に居座りつづけたようなことを繰り返しているのか、そして朝日新聞はそれを断罪するかわりに美化し、擁護し、正当化してやっているのでしょうか。
全くおかしなことです。もし鳩山政権が“国民”の信を失って崩壊したなら、新しい首相は“国民”が直接選ぶというのですから、総選挙をするということを、制度的に確立すべきであって、それをしないままに、民主党を非難しても無意味です。しかも菅内閣は参院選で“国民”から不信任を事実上突き付けられたのです。
朝日新聞がいくらかでも首尾一貫し、いくらかでも道理を説きたいのであれば、鳩山政権が崩壊したときに総選挙の実行を要求すべきだったのであり、また菅が参院選で国民からそっぽを向かれたのですから、菅内閣の存続など説くのは矛盾そのものであって、むしろここでも総選挙の実行をこそ断固として主張すべきなのです。
それが無理だったというなら、現在の国政選挙の制度ややり方そのものを根底的に変えよと強調すべきなのです。
マスコミも世論も菅内閣存続を願望し、その幻想を広げるのですが、それは菅内閣が“国民”の支持を得たから、いくらかでもましだからではなく、たった3ヵ月で政権を交代することは政治的な安定を損なうから、菅内閣に代わる、どんなまともな政権も展望できないから、といったことにすぎません。
どんなろくでもない政権でもやらせるしかないというなら、今やブルジョア政治の全体が腐り、頽廃し、解体して行きつつあり、行かざるを得ないということを暴露するだけです。
被害者意識だけの原水禁運動
米国より“日帝”の罪を問え
2010年8月13日
原水爆禁止の「世界大会」が広島で開かれ、「平和記念式典」にアメリカの政府代表として、始めてルース大使が参加したとか、国連総長が原水爆禁止の実現性について発言したことなど核兵器廃絶への決定的な前進であるかにいいはやされている。しかし実際には、世界の多くの国がますます核兵器を持つようになっており、だからこそ「核兵器の拡散」を阻止することが、アメリカを先頭とするブルジョア大国の課題となっているのである。そして菅直人は、核兵器の「抑止力」について今さらながらのように語り、中国もインドもパキスタンもイスラエルも北朝鮮も、ますます核武装に熱心なのだから、世界が核廃絶に向かって滔々と動き始めている等々が、つまらない幻想でしかないのは明らかである。イランも又、こうした動きに乗ろうとしているが、こうした国家は今後ますます増えこそすれ、減っていくことは決してないのである。
そして又、ルースは式典に参加する理由として、原爆の惨禍について触れる代わりに、「第二次大戦のすべての犠牲者に敬意を表明するため」とだけ語って、核兵器だけを特別の武器としたり、原爆の犠牲者だけを特別扱いすることに、事実上異議を唱えたのであった。プチブル世論や民族的世論は反発したが、しかしこの場合、正しいのはルースであってプチブルたちではない。第二次大戦で亡くなった人類は数千万、あるいは何億にも達したのであって、核兵器の犠牲者はそのうちの百分の一、二百分の一ほどに過ぎない。“通常兵器”なら野蛮でない、などということには決してならないのである。必要なことは、帝国主義戦争とその反動性であって、個々の武器や、あれこれの戦闘やその結果ではない。実際、プチブルの核兵器反対は、日本の犠牲だけを特別に言いはやして、アメリカが悪いかに言うが(アメリカは謝罪せよ、云々)、日本の反動派や帝国主義者たちや、彼らが始めた戦争の反動性については、その責任については全く語らないのである。広島、長崎に原爆を落とさせたのは、日本の帝国主義者たち、軍部や天皇や東條や反動政治家たちでもあったことを、彼らの始めた反動的な戦争こそが究極の責任を負うべきことを、彼らは曖昧にし、事実上免罪にするのである。だからこそ、こうした集会には菅直人らも進んで出席し、核兵器の「抑止力」についてもっともらしくいいはやすことができるのである。
民主・自民の大連合の可能性も
消費税増税を接着剤にして
2010年8月6日
消費税増税を接着剤に、大連合つまり民主党と自民党が結託して政治を支配し、壟断(ろうだん)する可能性が大きくなっています。菅は大連立もちらつかせながら、9月の民主党代表選を乗り切り、“長期政権”を狙っています。民主党と自民党が結託し、消費税増税などを強行して来るなら、それは労働者人民にとって“最悪の”事態です。
来年度の予算編成が始まり、概算要求が出され、検討されようとしていますが、その過程は、民主党政権が自民党権力とほとんど違いのないような、平凡な政権に、そればかりではなく一層混乱した、俗悪な政権に堕しつつあることを暴露しています。シーリング方式を復活させ、また各省庁に一律10%の削減を強いる予算編集のやり方は、シーリング方式を否定した昨年の「メリハリ」路線を再度ひっくり返し、元に戻したもので、民主党とその政権がまさに「官僚主導」に完全に回帰したことを、つまりすでに完璧に堕落し、変節してしまったことを教えています。我々の「労働者の政治的進出を勝ち取れ」のスローガンがますます決定的な意義を持って来ました。
民主党の先祖(自民党)返り
2010年7月23日
鳩山内閣に代わって菅内閣が登場するや否や、民主党の“祖先返り”つまり自民党の政治への復帰が急がれています、一体何のための「政権交替」だったのでしょうか。
菅が参院選で消費税増税を叫んだのはその走りですが──菅は、これは「自民党の案を参考にしたものだ」、つまり自民党追随そのものだと、自ら白状しましたが──、それ以降も、政策調査会を復活させるとか、予算でもシーリング方式を復活させるとか、まるで自民党政治への回帰を急ぎ、そのサル真似に走っているとしか思われません。こうしたことは、誕生した民主党政権が否定したものばかりですから、民主党のだらしなさというか、定見の欠如と無原則はどうしようもありません。
これに加えて、鳩山政権以来のバラまきや借金大膨張予算はそのままだ──一層無秩序に走る──というのですから、民主党政権は自公政権と同様の政権、否、一層低レベルの政権と言って少しも的外れではありません。
参院選で敗北して──いい気になって、情勢と労働者人民の意思を読み違えて、消費税増税など謳った結果だ──、菅内閣は展望を失い、菅は9月の代表選挙を乗り切ることができるか怪しくなりました。仮にそれを乗り越えたとしても、菅があんなにも夢見た、「長期安定政権」は夢のまた夢になってしまいました。菅内閣は今後、労働者人民大衆の支持をますます失い、疎まれ――安倍とか麻生とか鳩山の権力と同じように――、破綻と解体と、不名誉な退陣に向かって転げ落ちて行くしかないように見えます。
そして行き詰まり、立ち往生した民主党が、自民党との「大連立」に走らないという保障も全くありません。そうなればまさにブルジョア寡頭政治の出現であり、ブルジョア支配階級はこれまでの「政治改革」──小選挙区制とか二大政党制の実現とか──にかけた目的と課題を実現するというわけです。
もちろん、ブルジョア寡頭体制の出現は、労働者をさらに抑圧し、一層搾取を強化するテコとして機能する以外ないでしょう。労働者が断固たる闘いに立ち上がるべきとき、立ち上がらなくてはならない時はますます近づいています。今こそ、あらゆる面からの準備を始め、闘う労働者の戦線を急速に強化して行かなくてはなりません。
民主党に愛想を尽かしたが
「宙にさまよう」労働者人民の意思
2010年7月12日
参院選は民主党の敗北に終わった。当然である。
無節操で、責任感皆無のバラまき政治にふけり、その尻拭いに、「穴埋め」に、消費税増税を持ち出すような政権を、心から支持するような労働者人民は一人としていないであろう。
自民党とともに消費税増税を公然と謳い、それに道を開いた民主党と菅政権の犯罪性は限りなく大きく、まさに今度の参院選は、民主党がいやらしいブルジョア的政党として公然と姿を表し、ヴェールを脱いだ選挙として、歴史的な意義を持ったのである。
民主政権は登場してわずか10ヵ月で、その化けの皮を完全に剥がしてしまった。この党の内容のない、皮相浅薄な本性がたちまち暴露されたのである。
そして注目されたことは、消費税増税に反対の有権者が過半を占めた情勢の中で、消費税増税反対を叫んだ共産党も社民党も──国民をぺてんにかけて議席をかすめとろうとしただけの、うさん臭いみんなの党を別として──、広汎な労働者人民からの熱い支持を全く得られなかったことである。
しかしこれも当然であった。
というのは、これらの党は決して民主党のバラまき政治に反対ではなかったから、むしろある面では、民主政権では、バラまき政治が徹底していない、不十分だと言いはやして来たような党(同じ穴のムジナ)だったからである。
象徴的ではあったのは、関東の3選挙区の闘いである。東京では、共産党の小池がみんなの党にせりまけ、また神奈川や千葉でも、民主党が最後の議席をみんなの党に奪われた。
「消費税増税をする前にやることがたくさんある」、という労働者人民の声を代表したのが、民主党ではないのは当然としても、共産党でも社民党でもなかったということこそ、これらの党が少しも前進できなかった──むしろ情けなく後退して行った──“秘密”を暴露している。共産党も社民党も、「消費税増税をする前にやることがたくさんある」という、簡潔なメッセージさえ、労働者人民に発することができなかったのである。
いや、共産党はそんなメッセージを発していたというのか。しかしこの愚昧な政党は、「消費税増税は法人税減税を穴埋めするためだ」といった、ピント外れの、しかも間違った主張を押し出しただけであったが、こうした愚昧な選挙闘争やアッピールは労働者人民を白けさせ、その心の琴線に触れていくことが決してできなかったのである、つまり共産党は今回の参院選の最も決定的な問題に、したがってまた労働者人民の切実な意識に、怒りに、事実上、全く無自覚であり、鈍感であった。
共産党や社民党は無力であり、躍進できなかったのも当然である、というのは、これらの党は民主政権を支持し、鳩山政権に加わったり、「建設的な野党」など謳って協力したのであり、民主党のバラまき政治を共有し、それを自分たちの政治の根底においてきたから、つまり民主党と同じだったから、典型的なプチブル的政党以外ではなかったからである。
かくして民主党の停滞は共産党や社民党の停滞でもあって、客観的に絶好とみられる情勢のなかで、飛躍し、労働者人民の中に浸透していくことができなかったのである。民主党政治も自民党政治もともに、わずか10%台、20%台ほどの支持率しかない中で、共産党も社民党も衰退し、後退していくしかなかったということほどに、これらの政党が労働者人民の政党でなく、したがってまた「二“大愚”政党」に根底から替わり得る政党でもないことを明らかにする事実はない。
参院選は、民主党もまた自民党と同様の“大愚”政党でしかないことを、したがってまた政権担当の「能力」などさらさらに持ち合わせていないことを、さらに確認する、もうひとつのきっかけになったのである。
そして、民主党が信頼に値しないなら、そして「二“大愚”政党」しか存在しえないとするなら、民主党が落ちこんだだけ、自民党が勢力を回復するということにしかならないのである。かたわで、半ば死んでしまった、哀れな議会制民主主義よ。
みんなの党が10議席を得たといっても、こんな党が、自民党のもう一つの“別動隊”にすぎないことは──したがって最初から、「一発当てることだけを狙った」、卑しい政治的詐欺師らの党でしかないことは──、労働者なら誰でも分かっていることである。
幸いにして、民主党は参院選では「少数与党」に転落し、民主党の空っぽで、有害でさえあり得る──バラまき政治に加えて、その「穴埋め」として、消費税増税まで策動し始めたことをみよ──横暴政治、“専制政治”は挫折したが、しかし無節操で、反労働者的で、混乱した政治は、次の総選挙まで続く──恐ろしいことに、三年間もの長きにわたって──のである。そんなことを許すなら、労働者人民の生活と未来が、さらに困難で破滅的なものにまで追いやられて行かないという保障は何もない。
労働者人民は民主政権とその有害な悪政を、もう三年間も我慢することは決してできないのだ。民主政権は参院選でまさに不信任という、明々白々の「審判を受けた」のである。即時に退陣すべきであろう。
もし民主政権が居座り続けるなら、労働者階級の実力闘争で民主政権を打倒するに、どんなはばかりも遠慮もいらないということである。
法人税穴埋めというドグマ
共産党は菅の消費税増税を批判するが
2010年7月3日
参議院選挙たけなわですが、まともな論戦や議論はほとんどなく、空虚な空約束やインチキなドグマが乱れ飛ぶばかりです。その中でも、最右翼は「増税によって経済成長を実現する」という菅直人のものですが、共産党のドグマもこれに決して劣るものではありません。共産党は、菅内閣の消費税増税は、「法人税の引き下げの穴埋めのためのもの」という理屈を振りまき、それを最優先のスローガンにして選挙を闘っています。果たしてこのスローガンは正当でしょうか。
しかし菅内閣の増税路線を、こんな具合に規定するのは、菅内閣を暴露するのではなく、菅内閣に対する批判を一面的なものに狭め、菅内閣の政策に対する根底的な批判をそらせ、実際には菅内閣を助けるものでしかありません。
共産党の批判が一面的だと言うのは、菅内閣の消費税増税策動は、他にもいくらでも規定され得るからです。例えば、それは民主党のバラまき政策の穴埋めのためである、と言うこともできるのです、というより、実際に菅内が消費税増税に走らなければならなくなったのは、昨年来の予算編成において、何兆円というような巨額のバラまき――子育て支援等々――の財源を見つけることができなくなったからであって、法人税減税のためではありません。
もちろん法人税減税は一般的には、財政の運営を一層困難にしてくる、一つの重要な契機ですが、しかしだからといって、民主党の消費税増税路線が、「法人税減税の穴埋めのため」などと恣意的に一面化するのは正しくありません。こうした批判は、菅内閣の政策に対する、具体的で根底的な批判、つまりその政治の本性であるバラまきに対する批判をどこかに追いやってしまい、一般的で道徳的な批判にすりかえてしまう限り、反動的でさえあるのです。共産党は菅内閣と政治的には全く同じ意義を持つ、ばらまき政治に首までつかっています、まさにそれ故に、菅内閣の急所を突くことも、菅内閣と本当に闘っていくこともできないのです。このつまらないプチブル党は、法人税減税などもってのほかであるにしても、バラまき政策もまた許し難いものである、という自覚がありません。こんな珍奇な党が、選挙で労働者人民の本当の支持を得て躍進していくことは決してないでしょう。
たちまち嫌われ始めた菅の政治
「増税で経済成長」「強い経済」を言う “いかがわしさ”
2010年6月27日
菅内閣は成立してあまり立たないのに、支持率をすでに10%、20%と下げつつある。消費税増税を公然と叫び始めたからと見られているが、単にそれだけではなく、むしろその増税を正当化する理屈がうさんくさく、ごまかしであることが見抜かれ、嫌われ始めたというべきであろう。
そして「有権者」たちは投票日までに、菅直人のいんちき政治を十分に確認することができ、菅内閣に対する、民主党に対する明確な意思表示をするであろう(もっとも、民主党内閣にあいそをつかしたとしても、それに代わる政党が見当らない以上、この意思表示は屈折した、あいまいな形を取るだろうが)。
菅の消費税増税路線が支持されないのは、そもそも増税をいうなら、まず第一に、「財政再建」をいうべきであり、またそのための増税であるべきなのに、「経済成長」$$実際の内容では、せいぜい「景気回復」$$をいう、そのいかがわしさにある。
菅は増税をしても、それを国が「成長産業」に注ぎ込めばいいのだと、いとも安易に主張するのだが、何が「成長産業」かということについては何の観念ももっていないのである。
例えば、「子育て支援」の巨額の財政支出がバラまき$$選挙目当ての卑しい支出$$ではあり得ても、「成長産業」への支出でないことは自明だが、しかし菅内閣は、子育て支援支出をやめようとは決して言わないのである。
もし消費税増税によって巨額の追加収奪を企てた菅内閣が、そのカネを子育て支援などにまわして(あるいは「社会保障」の費用一般でもいいが)、それで「成長政策」だなどと強弁するのであれば、それはただ、菅が、民主党や政権の都合で強行したバラまき政策を無理に「成長政策」と呼び、こじつけて、国民全体をぺてんにかけようとしているにすぎない。
総選挙のマニフェストで中学三年までの子供に、二万六千円もの「子育て支援」を約束し、そのために五兆円を超えるカネが新しく必要になったが、民主党はそのカネを、当初いくらでも隠されていると強調してした国家経済の中に見つけることができなかった(あるいは、本気で国家のむだ遣いを一掃する決意もなかった)。
菅内閣が緊急に大増税を必要とするのは、自らがバラまきで作り出した、この赤字を埋めるためであって、本当は「経済成長」とか、「社会保障の充実」とかいったことは、自分たちの破綻を取りつくろうために後から持ち出された理屈にすぎなかったのである。
そもそも国家経済と財政の中に十兆円、二十兆円あると豪語していた「むだ」が本当に存在しており、見つかっていれば、さらには、「子育て支援」などの余計なバラまきなど実行しようとしなければ、こんな増税論議など最初から必要なかったのである。それが議論されるようになったのは、民主党が政権をかすめ取るために、国民総買収の膨大なバラまきを必要とし、またそれを実行に移したからであり、その「財源」になるとみなされてきたものが、全く見込違いであることが明らかになってきたからである。
要するに、バラまきが最初にあって、その穴埋めのために、国民全体に課税するというにすぎない。それを菅直人は、「経済成長」のためであるかにごまかすのである。菅直人の政治の根底は、かくのごとく卑しいものである。
菅直人は増税しようが、何をしようが、国家が経済の中で「カネを回す」という事実に変わりない、そして「カネが回るなら」、景気回復であろうと、経済成長であろうと、社会保障であろうと可能になるのであり、なるのが資本主義経済なのだ、と言うのである。
この“経済オンチ”の御仁は、国家が国民から税金を取り立てて、それを湯水のように浪費することは、需要をいくらでも作り出すことができるが故に、「景気回復」でも「経済成長」でも何でも可能になると言いはやすのであり、そしてこうしたろくでもない虚言によって国民をあざむくのである。
増税して社会保障にカネを回せば、医療や福祉で雇用が生まれるから、「経済成長」だ、「強い経済」だって?
全く冗談ではない。
雇用の創出自体が少しも「強い経済」を意味しないことは、すでに二〇〇年も前に、A・スミスら、“古典経済学”を代表する人々でさえ正しく理解していたことであって、彼らは、「資本」(産業資本)と交換される労働(つまりこうした形での「雇用」)は生産的だが、「所得」つまり「収入」と交換される労働は非生産的であり、「強い経済」ではなく、反対に「弱い経済」、寄生化し、食いつぶしていく「経済」、衰退していく「経済」につながる、そこに行き着くと明確に語っているのである。
そして近代におけるブルジョア強国の栄枯盛衰の歴史は、この真実を語って余りある。かつて金融や商業や仲介貿易で繁栄を誇ったオランダがイギリスに世界の覇権を奪われたのは、イギリスの産業資本の台頭と隆盛の結果であったし、そのイギリスが世界資本主義の覇権をアメリカに譲ったのも、そして今金融で(あるいは“ドル支配”に助けられて)繁栄を謳歌し、世界の経済覇権を継続し得るかに見えたアメリカが衰退に足を踏み入れ、中国などが、それに取って換わろうとしているのも、結局は同じ理由からである。
菅内閣と民主党は、さんざんにバラまきにふけってきていながら、そしてまたその政策を続けようとしながら、いまさらのように、「日本をギリシャのようにしてはならない」などと言い始めている。
しかしやっていることは、「日本をギリシャにする」ような政策ややり方ばかりのであり、ただ言葉だけで、それを「成長政策」と呼び、労働者人民をたぶらかすのである。
我々はそんなへりくつによってだけ正当化されるような消費税増税を決して認めることはできないばかりか、労働者の名においてそれを糾弾し、かくも労働者人民の利益を損なう政策の粉砕を、そしてかくも卑しく、ぎまん的な菅内閣の打倒を呼び掛けるのである。
今や民主党政権は自民党政権と全く同じものに堕しつつあるか、それ以下のものに転落しつつある。
菅“増税”内閣もお断り 鳩山政権より悪いじゃないか!
2010年6月18日
菅内閣がスタートし、「消費税10%」を騒々しく言いはやし始めています。自民党と同じだから、一緒にやりましょうといった雰囲気でうかれています。
労働者人民に大増税をするのに、労働者人民のためであるかに言いくるめようとしていますが、もちろん、民主党と菅直人が転向して、大資本のために奉仕しようということにすぎません。その証拠に、労働者人民に負担が一番かかる消費税増税を言いはやしながら、法人税は逆に大幅に引き下げようと言うのですから、あきれてモノも言えません。
このウソ付き男は、消費税増税をすれば、財政再建ができるだけでなく、「経済成長」も可能になり、その上さらに「社会保障」も充実していくから、“いいことだらけ”、まるで「三方一両得」の善政であるかに、労働者人民を言いくるめようとしています。しかしこんな政策は、実際には「三兎を追って一兎をも得ず」のばか話でしかありません。
こんな「世の中すべてよし」の、まるで“打ち出の小槌”を振るような政策があるなら、なぜ自民党政権や鳩山政権はこれまで、それを実行しなかったのでしょうか。こうした問いを発してみるだけで、菅直人が言いはやしているやり方など、国家的詐欺と大して違いのない、胡散臭い、まやかしの空論にすぎないことがたちまち明らかになります。
菅の言うところでは、増税しても、それを「成長産業」に注入すればいいのだというのですが、その「成長産業」とは社会保障関係だというのですからばかけでいます。要するに、金持ちや労働者人民の所得に、したがってその“消費”に依存した「産業」ですが、そんなものが、本当の意味での「成長産業」であるはずもないのです。菅直人は「経済学の初歩」さえも知らない、全く無知蒙昧のやからで、こんな人間に一国の首相が勤まるはずもありません。
本来、国家が余計な支出を減らし、その結果として減税して企業や国民の負担を軽減してこそ、「経済成長」につながりますが、これは古典的な経済学、つまりスミスやリカードが強調した真理です。
ところが、民主党は無原則なバラまきに走り、ますます大きな政府と財政をもたらして、その結果、増税に走るというのですから、まさに「経済成長」などますます遠ざけかねない政策のオンパレードです。“経済オンチ”の菅直人のやりそうな最低の愚策です。
要するに、「経済成長」どころか、国庫をさらに食い物にし、いっそう経済と財政を困難と衰弱に導くのがオチです。社会全体を一層寄生的にし、腐朽させるだけです。
そして、そもそも、もし大増税して経済成長も可能になる、社会保障を充実するというなら、何も次の総選挙まで待つことはないのです、そんな“万能の”政策ならただちに実行に移すべきです。
それなのに、なぜ、そうしないのか。本当の自信も信念も何もないからです。参院選で「財政再建策や“成長政策”がない、バラまきだけで無責任だ、社会保障も解体しつつある」と批判されるのを恐れて、消費税増税をチラつかせて、「責任政党」だと見せ掛けたいだけです。本気でやる意思も勇気も実行力も何一つありません、ただ口で言ってみるだけです(自民党やブルジョアやインテリごくつぶしの口まねをして)。そんなことをして、参院選で支持をかきあつめることができると思っているから、菅直人もまた鳩山に優る、もう一人の“お坊ちゃん”であり、観念とドグマに遊ぶ、甘い人間でしかないのです。
大体、市民主義出身の“庶民”の政治家が聞いてあきれます。もし菅直人が市民主義者だというなら、それは市民主義者の政治の破綻を教えるものとなるでしょう。それにそもそも、すでに鳩山自身が、自分の政治を市民主義の政治だと公言していたのです。いまさら、新しい市民主義政治も何もありません、そんなものはすでに鳩山政権のあのひどい政治として、労働者人民にとっては経験済みなのです。
市民主義の政治であろうと何であろうと、すでに菅内閣は、事実上、官僚や自民党などが消費税増税を強行するのを助け、その道ならしにせいを出しているのですから、労働者人民の最悪の裏切り者と言うしかありません。
今すぐ消費税増税をするというなら、民主党は参院選で決定的に敗北するしかないでしょう。鳩山内閣に見られるように、とことんバラまき政策をやり、むだ遣いにはげんでおいて、消費税増税などという理屈が通るはずもないからです。
他方、消費税増税について散々おしゃべりだけはしておいて、三年後に実行するというなら、それは三年間も、おそるべきバラまきを続けておいて、つまり国家財政や、国民経済や、労働者人民の生活を破滅的なものに追い込んでおいて、その尻拭いを、三年後に労働者人民に全面的に押しつけようと言うことに過ぎません。もちろん、そんなことを労働者人民が許すはずもありません。
どちらに転ぼうとも、自民党やブルジョア勢力と一緒になって、労働者人民に大増税と自分たちの悪政の後始末もしくは尻拭いを押しつけようとする菅内閣に、民主党政権に、どんな未来もないことは明らかです。
労働者は結論するでしょう、菅内閣もまた鳩山内閣の後を追って、労働者人民の怒りと恨みと怨嗟の声の中で粉砕され、すごすごと退く以外ないのだ、と。
「三兎を追うほら吹き男爵」 「看板」はり替えただけの菅内閣
2010年6月5日
鳩山が辞めて菅直人が出てきました。
しかし菅になって、民主党政権が変わるというのは幻想にすぎません、というのは、参院選を目前にして、鳩山では大敗必至となって、大急ぎで“お色直し”をしたにすぎないから、民主党政治の根底は何ら変わっていないし、変わることはできないからです。
鳩山は「国民が聞く耳を持たなくなったから辞める」と言い捨てて辞めました。彼が言いたかったことは、自分は、民主党は、鳩山政権は良い政策──子育て支援などに代表される──をたくさんしてきたのに、金権の問題──これはもちろん、小沢の問題であって、自分の問題ではない、というのは、自分の場合は、本当に母親がカネをくれているのを知らなかったからだ──や基地問題でうまく行かなくて、それ以外のことを国民は見てくれなくなったからだ、ということでした。つまり民主党は良い政治をやったのに、国民がそれを理解せず、民主党や鳩山の言うことを聞いてくれなくなったから、国民が無理解だからやむを得ず辞める、と言うのです。最後まで卑小で、愚劣な人間でした、単なる“お坊ちゃん”でした。
こんな総括をして辞めた鳩山の後をつぐ菅が、「良い」と思い込んでいる民主党の政治を、鳩山内閣の政治を根底から転換させる、別の政治をやる、などということは“千に一つ”もないのです。
菅は大急ぎで、“民主党らしさ”の出た政治、クリーンな政治をやる、などと誓っています。しかし鳩山政権が挫折したのが、単に金権腐敗にまみれていたからだけではない、もっと根本的な問題がある、ということを自覚していないのですから、菅政権の役割は参院選で、民主党政治──すでに破産をあらわしてしまった──を正当化しつつ、国民全体をごまかし、目つぶしをくらわせること以外ではありません。民主党が参院選で“勝利”でもしたら、労働者人民の困難は少なくともあと三年続くといったことになりかねません。
菅が持ち出している理屈は、増税によって財政問題を解決しつつ、「経済成長」も「社会保障」も解決するという、「三方一文の得」にさえならない、「三兎を追うもの、一兎をも得ず」の、最低最悪の愚策、もしくは空文句です。
菅の奇弁によれば、大増税しても、その税金の支出をうまくやれば、「経済成長」も「社会保障」も──つまり一切の困難の根底が──すべて一挙に解決する、ということで、参院選ではこんな“奇跡の”政策の幻想を振りまいて国民を釣ろうというのですから、無責任と破廉恥そのものです。
しかも彼は大増税を、消費税増税でやって、法人税はさらに軽減するというのですから、彼の立場が全くブルジョア的なものであることは余りに明らかです。
大増税をやって、それを財源にするというのですが、民主党が実際にやってきたこと、また今後三年はやろうとしているのは──大増税は、三年以上も先の話だというのですから(民主党政権が次の総選挙まで続くとしての話)──、財源のことなど全く考えないで、子育て支援だ、戸別所得補償だとカネをバラまくことでしかありません。つまり、財政再建など実際にはどうでもいいという民主党の立場は何ら変わっていないのです、さんざんに、無責任にカネをバラまくので、その尻拭いを三年後に、労働者人民に押しつけようという厚かましい話でしかありません。
“財政再建”など口先だけのこと、単なるリップサービスであって、菅政権にとってもどうでもいいのです。鳩山政権と同様に、財源などほったらかして、さらにバラまき政治に邁進する、ということです。
そして、仮りに大増税をしても、それをうまく支出するなら、景気も悪化するどころか「経済成長」が可能になるし、社会保障の崩壊といった心配もなくなる、つまり“いいことだらけ”だ、などという神話を、「うまい話」を誰が信じることができるでしょうか。
民主党はいままで大増税は消費を萎縮させ、景気後退につながると言ってきたのです。それを今度は、そんなことはないと言うのですから、ご都合主義もいいところです。
しかし大増税しても、それを公共事業──自民党がやってきて、今また民主党もまねし始めた、むだな公共事業──に、つまり土建業者などの利益や救済だけのために支出したり、子育て支援などと言ってバラまいて、どんな「経済成長」につながるというのでしょうか。そんな政策が、経済の停滞と衰退にしかつながらかなかったというのが、この「失われた」二十年の教訓ではなかったでしょうか。
もちろん、福祉の分野にカネを注入すれば「経済成長」につながるなどというのも、つまらない幻想です、というのは、福祉が充実していくのは「経済成長」の結果であって、その原因ではないからです。こんな転倒した“経済”に対する理解で、どんなまともな経済政策が可能だというのでしょうか。
結局、菅の言うことは、消費税で労働者人民からガッポリ追加に収奪し、それを大資本のために支出すれば「経済成長」が戻って来る、といった主張に帰着しますが、しかし自民党がやってきたように、大企業の救済のためにどんな巨額の税金を注ぎ込んでも、そんなものがそれ自体、経済の健全化にも「成長」につながるはずもないことは余りにはっきりしているのです。ただ労働者人民の負担や困難の増大と、国家財政の一層の悪化や崩壊を招くだけです。
菅の経済政策は「三兎を追って一兎をも得ず」の、最低の愚策でしかありません。
菅内閣は、鳩山内閣の真実の「後継内閣」として、鳩山内閣と同様の野垂れ死にに行き着くしかないでしょう。
労働者のスローガンは、菅内閣に対しても基本的に同じです、すなわち「二“大愚”政党はゴミ捨てに! 労働者の政治的進出を勝ち取ろう!」です。
鳩山、小沢が権力を放棄
しかし民主党の本性も“体質”も変わらない
2010年6月2日
鳩山と小沢が国家と政権党の権力をついに投げ出しました。
しかし、鳩山と小沢が先頭に立っていたのでは、参院選も闘えないということにすぎません。
鳩山は辞任の挨拶の中で、小沢の金権腐敗について言及しながら、自分の金権の疑惑は単に秘書のせいだ、「政治資金規制法違反の秘書を抱えているとは、全く想像だにしなかった」などと、わざわざつけ加えて小沢とは違うのだ、と言わんばかりでした。
また、自分は、そして民主党は一生懸命がんばってきた、しかし「国民が聞く耳を持たなくなってきた」などと、まるで鳩山政権が行き詰まったのは、「国民」のせいであり、その責任であるかに語るのですから、この男は最後まで最低でした。
そもそも、昨年の総選挙前、小沢と鳩山が「カネ」の問題が出て来たとき、二人が身を引くことなく、こそくなやり方でごまかし(党の代表だった小沢が民主党の幹事長となる、他方、鳩山も党権力の頂点から身を引くのではなく、かえって党の看板の党代表に成り上がる等々)、依然として民主党の中心に座り、それ権力を温存したときから、そして民主党自身がその問題を少しで重視もせず、安易でごまかしの“解決”に甘んじたときから、民主党の全体がそんないいかげんなことしかできなかったときから、鳩山と小沢のコンビが、そして民主党自身が行き詰まり、自壊する以外なかったことは明らかだったのです。
鳩山政権がわずか八ヵ月余りで、国民全体から全くの支持を失ったのは、単に鳩山と小沢二人だけの問題ではなく、民主党全体の、民主党そのものの問題であって、二人がそれぞれの地位を去ればいいといったことでは全くないのです。
まして、小沢の権力が隠されて維持されるなら(“キングメーカー”等々として)、民主党のプチブル的、ブルジョア的な反動的本性も、その卑しい“体質”さえも少しも変わらないでしょう。
鳩山は「よりクリーンな」民主党、「政治とカネ」の問題ですっきりした「新しい」民主党として生まれ変わるなどと言って、新しい幻想を振りまき始めましたが──鳩山にそんなことを言う資格があるはずもないのです──、問題は単に小沢や鳩山の金権政治だけが問題なのでなく、民主党の政治の全体、民主党が「実績をあげてきた」などと言っている政策──子育て支援や戸別所得補償や基地問題や、その他すべての政策──が問題なのです。鳩山や小沢が辞めればいいといったことでなく、民主党の全体が問題なのです。「よりクリーンな民主党」についてのおしゃべりは、鳩山と小沢を切って──果たして小沢の権力を一掃できるかどうかさえ怪しいのに──、民主党が生き延びようという策動にすぎません。
民主党は看板を立て替えることによって、国民の支持を取り戻し、政権を維持しようとあくせくしていますが、しかし民主党の誰が出て来たところで、この八ヵ月の鳩山政権の政治に共同の責任を負っているような連中ばかり──菅直人であれ、岡田であれ、原口であれ、その他の有象無象であれ──です。まして、その背後に小沢の権力が隠されているとするなら、そんなものにどんな幻想も持てません。
労働者にとって必要なこと、なすべきことは、民主党政権の看板を書き替えることではなく、すでにこの反動腐敗の政権そのものを一掃し、追放して行くことです。
我々が掲げるスローガン、「二“大愚”政党はゴミ捨てに! 労働者の政治的な進出を勝ち取れ!」が決定的な意義をもつことが、さらに明らかになってきました。今こそ、心あるすべての労働者は、この重要で緊急の課題のために結集すべきときです。
鳩山政権の決定的破綻と朝日新聞(自由主義的ジャーナリズムの破綻)
2010年5月29日
鳩山内閣が普天間基地の辺野古移転を閣議決定しました。これが「五月末までの決着」という約束を果たしたことだというからお笑いです。
国民はみな、この約束を「少なくとも県外移転」の意味だと理解していたし、鳩山自身がそう公言してきたのですから、期限内だ、約束を果たしたということになるはずもありません。この愚昧な人間は一体何を考えているのでしょうか。こんな期限厳守なら、しない方が増しだということさえ分からないのでしょうか。
そしてその弁解の卑しく、でためなこと。沖縄は、一九四五年の沖縄戦で大きな犠牲を強いられ、また戦後もアメリカの統治下で苦労し、基地の負担も「一身に担ってきた」、とさも沖縄に同情するようなことを口先で並べながら、しかし今後もまた引き続いて、同じような苦労や負担をしっかり担ってもらう、では「理屈」にも、「説得」にも、「お願い」にもなっていません。実際には、ただ沖縄県民を愚弄し、ばかにしているだけです。
「沖縄は先の大戦でも最大規模の地上戦を経験し、多くの犠牲を強いられた。ここでもまた沖縄が本土の安全のための防波堤になった」。
だから、また、沖縄は基地の負担を、「本土の安全ための防波堤」の役割を果たすようにお願いする、というのですから逆立ちであり、沖縄県民が怒りに燃えたのは当たり前です。こんなことを言われ、そんな仕打ちをこうむれば誰だって怒り狂います。余りにもばかげており、余りにも無神経で、卑しすぎます、こんな発言は、弁解か言い訳かごまかしか何か知りませんが、鳩山という人間が最低の人間でしかないことを暴露しています。
鳩山が、これまで沖縄には国家と国民のためということで多大の犠牲や負担を背負ってもらってきた、だから、それを今や決定的に軽減する、普天間基地も「最低でも県外」に、むしろ海外に移す、というなら、そしてそのことを真剣に追求し、実行するなら、ブルジョア政治家としてもまともです、しかし彼の言うことは、反対なのです。この男は道理というものが分かっていないのです。
こんなことを言って世の中に通用すると思っているのですからあきれた人間です。いや、道理など鳩山は通らなくてもいいのだ、重要なことは、日米支配階級の利益や意思であって、沖縄県民や労働者人民の利益や意思ではないと言うのです。「抑止力」といったことのために、沖縄県民は犠牲になり、負担を担うのが当然だというのです。事実そう信じているのです。
こんな男が、沖縄県民や労働者人民のことを「これっぽっちも」考えていないということ、彼が気にかけているのはアメリカの軍部や軍国主義勢力の利益や意思だけ(膨大な「抑止力」や軍事力の強大化等々)、そして日本のブルジョア支配階級と、その国家の利益や思惑だけであることは余りに明らかです。
それは、鳩山が今頃になって「抑止力」といった、帝国主義者よろしく、軍国主義的発想で熱心に、繰り返して語り始めたことからも自明です。これはまさに「ハト」どころか、「タカ」の理屈そのもので、鳩山の本性暴露といったところです。鳩山は日米の軍国主義勢力、帝国主義勢力の道具になって恥じないのです。
鳩山はまた、数ヵ月にわたり、国内の「四十数ヵ所」を当たってみたが、移転の可能性のあるところを見つけることができなかった、などとへたな弁解もやっています。しかし徳之島の場合でよく分かったように、おざなりにいろいろな候補地をあげて、議論したくらいがせきの山で、とにかく努力したという“アリバイづくり”のようものにすぎません。
そもそも沖縄にも国内にも、普天間基地を引き受けるところがなかったということは、アメリカの軍隊が日本国土に駐留する必要はない、駐留しなくては日本が立ち行かないと言うことではない、と国民が全体として思っているということです。
そうでないと言うなら、民主党や自民党の政治家連中は、さっさと、自分の選挙区や地元の住民を説得し、そこに米軍基地を移し、持って行けばいいのです、彼らこそ、米軍基地がどうしても必要だとわめいているのですから。
それに、そもそも鳩山は「駐留なき安保」を“持論”としていたのです、とするなら、どうしてせっかく政権の座についたのですから、この考えを実行に移さないのでしょうか。「抑止力」などをいまさら持ち出しましたが、鳩山は「駐留なき安保」でも十分「抑止力」は働き得ると主張してきたのです。
そしてさらに、大阪の橋下がただ一人、偉そうに「大阪は米軍の基地を引き受ける」と言っているのですから、どうしてただちに、それを具体化するために動きださないのでしょうか。おかしな話です。移すのは、別に辺野古でなくてもいいのです。
鳩山はアメリカの軍隊は──あるいは、少なくとも、普天間基地の軍隊は──今や日本に駐留する必要はない、テニヤンでもどこでもいいから日本国外に移ってもらうという明確で確固たる戦略を立てて、ことに臨むべきだったのです、オバマに対決すべきだったのです。
しかし「少なくとも県外」と言いながら、鳩山は、せいぜい国内移転をおざなりに追求し、最初から国外など視野になかったのですから、無責任そのもの、洞察力と戦略的観点の欠如でしかありません。
沖縄がだめだというのに、国内の他の地域がいいと言うはずもないのです。沖縄がだめなら、国内の他の地域もだめというのは当然です。国外が唯一可能な道だったのです。鳩山はこうした“国民的課題”を実現するために必要な、状況を正しく判断する賢明さや洞察力も、断固として追求する勇気や断固たる意志も何もなかったのです。
鳩山が行き詰まり、普天間問題がもとのもくあみに帰着したのも当然のことであって、鳩山内閣と民主党の責任でしかありません。
こんないいかげんで、どんなまともな政治も外交も行えないような政権はただちに退陣し、消えてなくなるべきであって、そうしないなら、労働者階級は断固たる闘いによって打倒して行くしかなくなるでしょう、というのは、こんな政権が続くなら、日本の政治経済はたち行かなくなり、国家も破産、解体に向い、労働者人民の生活も根底から破壊されかねないからです。
しかし我々は、ここで、朝日新聞などの自由主義的ジャーナリズムを糾弾しなくてはなりません。彼らの言動も、鳩山政権の破綻と共に、混沌としたもの、あるいは目に余るものになってきているからです。
彼らはときには、もっともらしく鳩山を批判したりしますが、しかし、昨年の総選挙の前後から、民主党を美化し、「政権交代」をあおって、客観的に民主党の応援団の役割を担ってきました。だからこそ、鳩山政権のひどい悪政は、それを事実上持ち上げ、美化してきた自由主義的ジャーナリズムの責任でもあるのです。
そしてさらに驚くべきことは、このえせ自由主義者たちが今もなお、「公正」とか「中立」とかを看板にしながら、鳩山政権を弁護し、擁護するという、許しがたい犯罪行為にふけっていることです。朝日新聞は五月二九日、次のように「主張」欄で強調しています。
「何よりも考えるべきは、鳩山政権誕生の歴史的意義である。有権者が総選挙を通じ直接首相を代えたのは、日本近代史上初めてのことだ。
政治改革は政権交代のある政治を実現した。永久与党が短命政権をたらい回しする政治からの決別である。選ぶのも退場させるのも一義的には民意であり、選んだらしばらくはやらせてみるのが、政権交代時代の政治である。
歴史的事件から一年もたたない。政治的な未熟さの克服が急務とはいえ、旧時代の『政局』的視点から首相の進退を論じるのは惰性的発想である」。
要するに、民主党政権、鳩山政権をこれからも「暖かく見守れ」と言うのです。鳩山政権の悪政に目をつむり、それが労働者人民の生活を破壊し、破滅に追い込むことがあろうが、我慢せよ、と言うのです。
自由主義的ジャーナリズムは、民主党を陰に陽に持ち上げ、「政権交代」の大キャンペーンをやり、事実上、鳩山政権実現に最大限の支援を行い、便宜をはかってきました。今や、鳩山政権が最低最悪の政権であることが事実でもって明らかになってきたのだから──しかし我々は、すでに鳩山政権の誕生のときから、あるいはそれ以前から、民主党政権などろくなものにならないと明瞭に語ってきたのだが──、朝日新聞などはその自らの責任を自覚し、徹底的な反省と自己批判をなすべきとき、なさなくてはならないときです、ところが、彼らは責任を回避し、今なお、民主党と鳩山政権への幻想を広げ、期待をつなぎ止めようとするのです。朝日新聞や自由主義的ジャーナリズムは、はたしてそんなことをして、今後責任を負うことができるのでしょうか、責任を負う決意があるのでしょうか。
有権者が総選挙を通じて「直接首相を代えたのは」日本の歴史上初めてである、などと知ったかぶりをして、鳩山政権の誕生を大したことであるかに言いはやし、なおも鳩山政権を弁護しようとするのですが、大して根拠のある話ではありません。別に大統領選挙のようにやったのでも、「直接」に鳩山に投票したわけでもないのですから、こんな理屈は自由主義的ジャーナリズムの欺瞞や卑しさを教えるだけの空文句にすぎません。
「政権交代時代の政治」となどと言うのですが、一体、どんな政治だというのでしょうか。麻生内閣や鳩山内閣の政治だというなら、労働者は、そんな「政権交代時代の政治」などまっぴらご免だ、と言うだけです。労働者をばかにするのも、いいかげんにすべきです。
こんなつまらない理屈を持ち出して、鳩山をすぐにやめさせてはならない、鳩山内閣を打倒するなどと言うのは「政局的視点」だというのですから、朝日新聞の言っていることは余りに許しがたいものです。自民党などが言うのは「政局的視点」だとしても、鳩山内閣を一掃すること自体は、全く正当な労働者階級の要求であることは自明です。
今こそ、鳩山内閣の破綻は自由主義的ジャーナリズムの破綻でもある、ということを、自由主義的ジャーナリズムは反省し、自覚すべきです。鳩山内閣が腐っていくしかないと同様に、自由主義的ジャーナリズムも腐っていくしかないのでしょうか。
60年安保闘争50周年集会 「笑い飛ばせ、60年ブントと新左翼」、樺美智子・池尾正勇哉追悼
2010年5月21日
60年安保闘争から50周年になります。
この集会のサブスローガンに「笑い飛ばせ、ブントと新左翼」を掲げたのは、偶然ではありません。すでに、60年安保闘争から半世紀を経過しましたが、ブントのプチブル急進主義の破綻は安保闘争の中で完全に暴露されており、今更深刻ぶってブントの闘いを総括するまでもなく、むしろ我々にとってはすでに“笑い飛ばす”対象でしかありません。
なるほど、ブントと60年安保闘争は、戦前戦後数十年にわたって労働者の闘いを指導してきた革新社共の偽りの仮面をはぎ取りました。こうした歴史的な意義を我々は現在も断固として承認するものです。
しかし、この闘いを領導したブント指導部は、書記長の島成郎や全学連委員長であった唐牛健太郎に代表されるように思想的にも政治的にも未熟というよりいい加減で無責任でした。彼ら大多数の幹部(島、唐牛、生田浩二、青木昌彦など)は、安保闘争が終わると闘いから召還してブルジョア社会の現実に“適応”して行きました。運動を続けた者も一方で、プチブル急進主義を拡大再生産して開き直る連中(再建ブントにつながる連中)や、他方で表面だけそれを否定しながら、革共同に乗り移っていった連中(清水丈夫、北小路敏など)を生み出しました。
60年の5月、6月に何万、何十万の安保反対のデモ隊が国会に向かう中で、豊かな可能性を秘めた大学生の樺美智子の命が奪われました。ブントの幹部達は、社共は労働者大衆を裏切ったと叫び散らしましたが(それは真実でした)、彼らの指導も運動を急進化させるに夢中でした。警察権力が“威信”をかけて国会を防御する中でデモ隊に素手で国会に突入を命じるのも無責任なことでした。
そしてブントから生まれた新左翼の闘いは、その表面的な戦闘性とは裏腹に急速に頽廃と腐敗を深め、内ゲバ・テロルに浮かれ、さらには連合赤軍事件に突き進んだのです。プチブル的な急進主義は、最終的に破綻し、社会的な影響力を失っていきました。
こうした中で、ブントの急進主義を乗り越え、新しい労働者政党を目ざす闘いが開始されました。安保闘争の総括の中で「共産主義の旗」派に結集した人々を中心に全国社研(マル労同・社労党)が結成され、国政選挙にも十回ほど参加するなど粘り強い闘いがくり広げられました。
60年安保闘争から半世紀、労働者にとって単なる郷愁やセンチメンタルな回想は意味のないことです。必要なのは未来に向けた労働者の闘いであり、ブントが掲げた社共に代わる新しい労働者の闘いと政治をつくり出していくことです。歴史的にも完全に破綻したブントや新左翼の急進主義を“笑い飛ばし”、新たな労働者の政治をつくり出し発展させるという我々の任務を断固として貫徹しなくてはなりません。
ブントが掲げた社共に代わる新しい労働者の政治という叫びは、現在においても色あせるどころか一層の緊急性をもって私たちに突きつけられています(二“大愚”政党のお粗末や共産党のさらなるブルジョア的堕落をみよ!)
同時に我々は闘いの中で死んだ樺美智子、さらには昨年亡くなった池尾正勇哉(72年の参議院選挙で、全国区から立候補した江波進一)を追悼したいと思います。また今年は大逆事件100周年です。幸徳秋水をはじめ多くの先人、革命家達もまた我々が追悼し、その偉大な闘いや人生を讃えるべきです。
60年安保闘争50周年集会に、是非ご参加下さい。(集会実行委員会)
二“大愚”政党の死は近い 鳩山政権は麻生政権の末期症状さながら
2010年5月14日
鳩山政権が普天間基地移転問題でも“迷走”し、破綻を暴露している。普天間基地は「海外移転、少なくとも県外に持って行く」と総選挙のときに約束し、またその後も言い続けてきたのに、ここにきて、あれは「公約」ではなかった、結局沖縄内部にしか移せない、移すつもりだと言い始めたからである。
また五月末までに決着をつける、それが失敗したら「責任をとる」とあんなにも明瞭に語ってきておいて、今決着が不可能となると、そんなことはどうでもいい、責任も取らないと開き直っているからである。
世論は「言葉が軽い」などと言っているが、言葉ところか、人間そのものが軽く、お粗末なのである。
総選挙のころは、米海兵隊と、その沖縄駐留が、「抑止力」として重要であることを認識していなかった、しかし「学べば学ぶほどに」、その意義と役割を確認するようになった、だから沖縄県内で問題を処理するしかないと開き直るのだが、あまりにインチキであって、こんな弁解が通用すると考えているところに、鳩山といった政治家が最低の人種に属するということが暴露されている。
本当に、総選挙のころは、沖縄の米海兵隊の(在日米軍そのものの)「抑止力」としての意義を知らなかったのか、それなら、「米軍の駐留なき安保」という自分の“持論”は一体何だったのか、口から出まかせの無責任な放言だったとでもいうのか。「駐留」がなくても、「抑止力」は働くと判断しての主張ではなかったのか。
沖縄県民は、そして国民は、普天間の海兵隊は「国外へ、少なくとも県外へ」という鳩山の“公約”を聞いて(それも重要な“判断基準”として)、民主党と鳩山に投票したのだ。今や沖縄県民は、国民は、鳩山の“公約”は最初から、選挙で票をかすめとるための、無責任な空手形だったと結論するしかないのである。そして民主党の空約束は、すべての“公約”に及んでいるのであって、決してこうした政治が民主党にとって偶然の問題ではないことを教えている。信念も展望も何もないのに、ただ票を得るためだけに、「政権獲得」のためだけに、口からデマカセが振りまかれ、まかり通ったのである。
そもそも普天間基地の移転は、その出発点は、住宅地に基地があって危険だから余所に移す、ということであった。
しかし鳩山は、それを国外に移すと豪語したことによって、単に「住民の安全」という問題を超えて、“日米安保同盟”をどう評価し、どうするのかという重い問題に、根本的な一つの政治問題に転化したのである。鳩山は、総選挙の公約が、こうした重大なことにおのずから踏み込み、関係するということを果たして深刻に、正しく自覚していたであろうか、そしてその上で、情勢と現実を適確に認識し、展望を持って、信念に基づいて約束し、また政権についたら真剣に、断固として取り組むという本物の決意を抱いていたのか。
そんなことは全くなかったのである。この世間も現実も知らず、苦労も知らない、甘い“良家の”ボンクラ息子は、ただ調子に乗って、無責任な空文句を吐き出し、喝采を浴びていい気になり、自己満足にふけっていただけだったのだ。まさに普天間基地移転問題で、民主党と鳩山の政治が実際どんなものであるかが──言葉は一杯あっても、実質的なもの、積極的なものはほとんどないということが──、決定的に示されてしまったのだ。
もし鳩山が、基地問題でもオバマが鳩山の都合のいいように救いの手を差し伸べてくれるだろうと、オバマの“友愛”に期待していただけだとするなら、まさに甘ったるい“友愛”政治、“友愛”外交といった、幼児なみの夢想の破綻でしかない。
そしてなお悪いことは、小沢も鳩山も自らの公約や発言にどんな責任も取ろうとしないで、ただ権力にしがみつき、首相の地位や政権党の支配権力を守ろうとするだけである、それを自己目的にして、醜悪な権力主義的本性をさらけ出すだけである。
民主党は民主党で、鳩山と小沢が権力を握り、民主党とその政府を代表するかぎりは、小沢や鳩山の政治や政策が続くかぎりは、参院選で敗北するしかないと分かっていながら、まるで麻痺したように立ちすくみ、硬直状態に陥っているかである。自らの死を予感しながらも、従容として屠殺場に引かれて行く家畜さながらに、民主党の連中は今や敗北を予感しながら、何の動きもなく、ありえない奇跡を期待するだけの、受動的な無感動、無意思のアパシー状態にあるかである。
これはまさに麻生政権の、自民党の末期症状の頃と同じである。二“大愚”政党の死は近い。社民党は言うまでもなく、共産党もすでに完全に、“プチブル的に”だけではなく、“ブルジョア的に”堕落し切っている。自覚せる労働者は今こそ、自らの解放を目指す政治的闘いのために結集すべきときである!
県外移転は「公約でなかった」と強弁 鳩山は最低最悪の日和見主義者だ
2010年5月7日
鳩山の沖縄での発言について、言うべき言葉もない。この男の精神はまるで幼児と同じに幼稚で、お粗末です。一国の首相の器どころか、単なる大ばかものです。苦労知らず、世間知らずの“お坊ちゃん”そのものです。
我々は民主党が政権につく以前から、民主党と自民党は「二大政党」ではなく、「二大愚政党」であり、民主党が政権を握っても何も変わらないこと、かえって一層悪くなり得ることを強調し、労働者自身が政治的に進出することの必要性を訴えてきました。そしてまた、鳩山自身についても、その沖縄政策──外交一般──などと関連して、最低、最悪の政治家でしかないことを語ってきましたが(例えば、『海つばめ』1116号主張欄「普天間基地と鳩山政権」などを参照)、我々の語ってきたことの真実さはますます明らかになり、沖縄訪問発言で、行き着くところに行き着いたといえます。
実際、鳩山発言には、まさに「右も左も」呆れ果てて言葉もないといったところです。国民の全体が鳩山政権に愛想を尽かしたのです。
いまさらのように、米軍(海兵隊)を「抑止力」と思っていなかった、しかし考えれば考えるほど「抑止力」として存在意義があり、しかも沖縄になくてはならないと思うようになった、自分の「考えが浅かった」というなら、その通りだ、自分の無能無力や落ち度は謝るから、海兵隊を沖縄に置いておくことを何とか了解してほしい、と言うのですから開いた口がふさがりません。
実際、県外移転が自分たちの、民主党の公約でなかったなどと言って通る話でしょうか。自分が言っただけで、民主党として公約したのではない、マニフェストに明記されていない、などと強弁しますが(全く破廉恥に!)、しかし鳩山は民主党の党首として、選挙のときに国民に、沖縄県民に約束したのであって、民主党のマニフェストにないから公約ではない、などという理屈を持ち出して自分の変節を、裏切りを弁解しようとするとは、何という見上げた精神でしょうか、何というご立派な人格でしょうか。
こんな発言に、そして鳩山と民主党に、沖縄県民が、そして全国の労働者人民が激しく怒り、心の底から憤激したとしても、それは当然のことです。これは沖縄県民に対するだけではなく、国民全体に対する、余りにひどい裏切り以外の何ものでもありません。
最低のバラまき政治、口先だけの、選挙目当てだけのくだらない政治、自民の悪政を拡大再生産するだけの政治をやりながら、こんな責任逃れに終始するというなら、鳩山政権、民主党政権など即刻退陣すべきであって、政権に一日留まるのが伸びれば伸びるほど国民にとって、労働者人民にとって、災厄や困難が大きくなるしかないと言って決して言いすぎではありません。
自分の認識が浅かった、自分が勉強不足だった、だらか何とか勘弁して欲しい、“正直に、率直に”告白したのだから、政策転換(裏切り)を認めてほしい、などと言って首相が勤まると思っているのですから、この男は最低の“甘ちゃん”でしかありません。こんな男が首相などやっているなら、どちらに転んでも、何をやっても、労働者人民にとって災厄のたね以外にはならないでしょう。
彼はまた、昨年12月に辺野古に決めておけばよかった、それを沖縄県民と地元の意思を尊重しようと思って延ばしに延ばしてきて、「死ぬ思い」をしなくてはならなった、などとも言っています。一体何を言いたいのでしょうか。
沖縄県民と地元の意思を確かめてから、辺野古にするかどうか決めると言ったのは、鳩山自身です。県民が、地元が辺野古はだめだと言ったのですから、鳩山は迷うことはないはずです、それがいまさら、県外は無理だと分かった、と言うのです。それなら、一体何のめたに、沖縄の県民の意思を聞いてから、などと言う必要があったのでしょうか。最初から辺野古で行く、と言えばよかったのです。
結局、鳩山は自民党政権の方針に逆戻りしたのですから、最初から、あるいは総選挙のときから、政権は交代しても、沖縄政策は変わらない、とマニフェストで謳うべきだったのです。めぐりめぐって、結局自民党の政策そのままに帰結したのですから、政権交代などあってもなくてもよかったということです。民主党政権によって、問題が先送りされ、混乱させられただけ、一層悪かったということです。
鳩山は今では、自民党や反動が言いはやしてきた「抑止力のため」といった観念まで持ち出して、自分の政策を正当化しようとしていますが、それは、自民党や反動たちを勢いづかせ、労働者人民にますます居丈高に襲いかかってくるのを助けるだけであり、彼らに最大の応援をするのと同じです。
鳩山は「抑止力」という言葉で、どこに対する、どんな「抑止力」として役だっているのかをはっきり語るべきです。北朝鮮なのか、中国なのか、そして北朝鮮や中国のどんな「危険」に対して、日米安保条約が、そして日本の米軍基地が、そしてその基地が沖縄に置かれていることが、どんな具合に「抑止力」として機能しているのかを明確に語るべきです。「抑止力」といった、反動たちが使い古してきた言葉をいまごろになって持ち出したのですから、鳩山は、この言葉の持つ意味をきちんと語るべきですが、もちろん、そんなことをやろうとはしていません、というのは、国民をデマゴギー的に扇動しようとしている、卑しい反動や国家主義者たちの言葉を繰り返す以外、そんなことはできないからです。
鳩山は、ただアメリカの軍部や反動たちの圧力に屈服し、沖縄しかないという日和見主義をごまかすために、「抑止力」などという言葉によって、沖縄県民を、日本の労働者人民を“脅しつけ”、脅迫するのですが、つまりはアメリカ軍部や日米の反動たちに抗して、自らの信念を貫く勇気も信念も実行力も何もない、ということでしかありません。
鳩山が自民党のやり方しかないと言いはやすことによって、自民党の政策は一層正当であり、それ以外はあり得ない、と強調しているも同然です。つまり鳩山ほどに自民党や反動に奉仕する人間はいないということです。麻生や安倍よりもはるかに反動のために役だっていると言えます。
基地問題においても鳩山と民主党は完全に破産し、醜態をさらけ出しました。我々は鳩山政権誕生のときから――否、それは以前から――、民主党には政権担当の資格もない(というのは、ひどい金権政党、腐敗政党だから)ばかりか、その能力もないと明白に語り、労働者人民に民主党やその政府などどんな信頼にも値しないと強調してきました。
そして今や、我々の警告がどんなに正しかったかを、確認できる時がやってきました。今こそ、「二大愚政党はゴミ捨てに、労働者の政治的な進出を断固勝ち取ろう!(ブルジョア政党、プチブル政党の政治独占を許すな!)」のスローガンのもと、労働者の政治闘争を確固として発展させていくべき時です。
それ以外に現在の「閉塞状況」──ファシズムや極反動の台頭さえも予感されるような──を打破していく道は決してありません。
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