野党共闘は野党野合であって敗北するしかない
労働者とは無縁の政策を並び立て
2019年6月4日
野党は32の一人区のうち、30で野党共闘が成立し、これで勝ったかの浮かれようだが、単なる愚劣であり、余りにばかげているというしかない。
そもそも野党と市民派の合意による13項目による「共通政策」――野党共闘派のいわば選挙綱領――だが、市民派の提案を受けて野党が署名したのだという。最初から市民派に追随し、迎合したものであって、野党のいい加減さ、主体性の欠如を暴露したものでしかない。そもそも市民派といった、素性も基本的な思想も立場のないようなインテリたちを信頼していいのか、「市民」と言ってどんな連中なのか。インテリたちが勝手に「市民」を名乗り、プチブルインテリの偏狭な見地を偉そうに押し出し、うぬぼれているだけではないのか。
「安倍改憲反対」は野党の都合のいい言葉
まず「共通政策」の憲法改定問題だが、「安倍9条改憲・発議の阻止」を謳っているが、なぜ「安倍改憲」なのか、他の改憲があるというのか、立・民や共産には「安倍改憲」とは違った「改憲」があるのか(実は共産にさえあるし――共産は今の憲法では自衛隊は持てないが、「将来日本が独立したあかつきには、憲法改定して軍隊を持てるようにする」と公然と語ってきた――、国・民には改憲論者がぞろぞろいるのは周知のことである)、いずれにしろ、「安倍改憲には反対」などと謳うことはナンセンスだし、自らも「改憲」を否定しないという連中もいる、「衣の下に鎧が見える」の類の表現である。内実はバラバラの呉越同舟、寄り合い世帯以上ではない野党共闘のおそまつな本性が透けて見えている。
そしてまた、なぜ「発議の阻止」なのか、国民投票をなぜ恐れるのか、国民を信用しない、できないというのか、「発議」されたら負けると決めて、あきらめるというのか、臆病な敗北主義ではないのか。野党や共産は何というつまらないことを偉そうにいうのだろうか。労働者・働く者に対する不信、ここに極まれりである。
彼らは敗戦後一貫して、憲法9条によって日本の「平和」が守られてきたと、市民派やリベラル派とともに言いはやしてきた。しかし一つの法によって、一国の平和が守られたり、それが守られなくなったりするなどと言うのは、“戦争と平和”の問題一つとっても観念論でしかないのは、第一次大戦後、1918年のウイルソンの14ヶ条や1928年の「不戦条約」やドイツのワイマール憲法等々によっても、第二次世界大戦が「阻止」されなかったことからも、完全に歴史的に証明されているのではないのか。
日本憲法によって、日本が戦争を経験しなかったというのは、果たして本当か。確かにそれは本当らしく思われる。しかし日本は敗戦後の「朝鮮戦争」にはあれこれ関与したし、軍事的にもアメリカ軍を助けて色々な意味で〝参戦〟したが、それはベトナム戦争や湾岸戦争やイラン戦争でも同様であった。イランの時は完璧な侵略戦争だったことが証明されたが、小泉(前首相)は「自衛隊が行くところが安全地帯です」といった名言(迷言)とともに自衛隊を戦場に送っている。
しかも3年前の「戦争法」の成立後、野党は「日本は戦争する国家、できる国家になった」と散々に言いはやしているのである。平和憲法のもとで「戦争をする国家、できる国家」になったとするなら、単に「憲法を守れ」で、平和国家として生きて行けることはない、あり得ないというも同然ではないのか。
共産や野党の観念論が破綻しているのは自明である、にもかかわらず共産や野党はそんなドグマやたわごとをほざいて、戦後一貫して労働者・働く者をだましてきたし、今もしているのである。
野党共闘派には、消費増税に反対する理由も資格もない
「消費税10%の廃止」に至っては厚かましいにもほどがある。野党にこんなスローガンを掲げる資格がどこにあるというのか。そもそも「消費税10%の廃止」とはどういう意味か。10%の消費税廃止を今回の参院選で問おうということか、それとも8%の消費税を10%に引き上げることに反対ということか。何のためにこんなあいまいな政策が必要なのか。野党共闘派はまずこうしたことからはっきりさせるべきである。
そして野党共闘派には、消費増税に反対する理由も資格もないことを、彼らは都合よく忘れている。彼らはそもそも民主党の政権(野田政権)こそが、2012年、野党だった自公と組んで、5%の10%への消費増税を決めたのであるということを思い出すべきなのである。民主党とは今の立・民であり、国・民の諸君ではないのか。自ら決めた野党が今なぜ、いかにして消費増税反対をうたうのか、厚顔無恥にして余りに無節操、政治的、道徳的に破綻しているとしかいうしかない。
沖縄の基地問題、原発問題でもいいかげんな野党共闘派
沖縄の基地問題も同様である。「普天間基地の早期返還と新基地建設の中止」を掲げるが、 そもそも09年に政権を握った鳩山民主党政権は、当初、「少なくとも県外移設」を公約して出発し、沖縄県民の大きな希望と期待を寄せられたのだか、政権に着くと直ぐに動揺し始め、〝迷走〟した結果、元の木阿弥に、普天間基地の現状維持に回帰してしまった。
そんな連中が、民主党政権のまともな総括もしないいまに、総括もできないいまに、また同じような主張や政策を謳って、労働者・働く者が白けるだけだとしても、それは労働者・働く者の罪でないことは余りに明らかではないのか。
さらに「いまの状況下の再稼働は認めず、原発ゼロを目指す」というのだが、どういう意味かさえもはっきりしない。「いまの状況下」というのはどういう「状況」のことか、野党共闘派の中に、国・民や電力労組など原発容認派がいることを配慮した表現だが、ようするに野党共闘派は結局原発に反対なのか、賛成なのかははっきりしない、明言しない、断言しないということである。
有権者はこうした野党共闘派のいいかげんな本性と限界をはっきり確認しておくべきであろう、というのは仮に野党共闘派が政権を握っても、原発政策は今の安倍政権、自民党政権と全く変わらないということだからである。
安倍政権も野党共闘派もバラ撒き政治を競う
そして、我々が何よりも危惧するのは野党共闘の政治が消費重視、金融緩和重視、財政膨張重視、つまり流行りのバラ撒き政治そのものに、つまりミニ安倍政権型に堕していくこと、経済も財政も金融も社会保障もメチャクチャにし、解体して行きかねないということである、ギリシャや今のベネズエラにも似た国家に誘導し、おとしめ、労働者・働く者の労働(職場)も生活も人生も破壊していきかねないということである。
何しろ、かつての民主党政権は、安倍政権のバラ撒き政策の元祖みたいな存在だったからである。10年前、「とにかく政権交代そのものが必要であり、大事だ」といった、無原則で、不謹慎なスローガンのもとで政権の座に就いた民主党は、安倍政権の乳幼児教育無償化や全世代型社会保障など足元にも及ばないような「子育て支援」という壮大なバラ撒き政策を始めたが、それは0才児から中学卒業までの子供に、月額26000円、年間31万円余支給するといったもので、しかも所得は問わず、全ての家庭に支給されるとした。
この時、野党だった自民党は、高所得者に支給する必要ない、それではバラ撒きだと批判したが、今では乳幼児教育無償化では所得を問わず、あるいはむしろ主として高所得者に厚く支給するというのだから、人は権力を握ると変われば変わるものであると感服するしかない。
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「百舌鳥(もず)・古市古墳群」の世界文化遺産登録化に想う
まず天皇家の私物化をやめ、慎重な研究に開放・利用されるべき
2019年5月18日
大阪府の「百舌鳥(もず)・古市古墳群」が、ユネスコの世界文化遺産に登録される「見通し」になった。安倍政権が必死で工作してきたことであって、参院選を控えて、安倍政権の浮上にとって大きな点稼ぎの一つである。
世界的な文化遺産として評価されることに異議があるわけではないが、しかしあれこれの違和感があることは確かである。エジプトのピラミットや中国始皇帝の兵馬俑坑の大きさに匹敵する巨大な遺産で、日本の歴史のすばらしさや偉大さを証明するものであるかに称揚されているが、歴史的時代も、その発展度も異なり、世界の多くの古代王朝の歴史的意義や特性を離れて偉大であるとか、〝日本民族〟の優秀性、優越性の証拠であるかに言いやしても無意味である。
そもそも作られた時期についていえば、大雑把にいって、古代天皇陵はせいぜい千数百年前のものだが、始皇帝陵はそれから700年ほども遡り、ピラミッドは天皇陵よりも3千年も昔のものであって、何のために建造されたかもまだ結論が出ていない。
主要な天皇陵は、今も基本的に天皇家の私有物扱いであり、学者が研究しようとしても触れることのできないタブーである。天皇制とは何か、その起源や初期の歴史はどんなものなのか等々、日本史を明らかにするための最大級の資料でもあるのに、明治維新以降、一切手を触れてはならない〝神聖な〟ものとして扱われてきた。とするなら、そんなものがなぜ〝文化遺産〟か、文化的な遺産として評価されるのか。される前に、せめて国有化され、真実の〝文化遺産〟として大切に保存され、日本の真実の古代史を明らかにするために、慎重な研究のために利用され、そのためにあらゆる便宜が与えられてこそ文化遺産の名に値する。
そのための貴重な〝文化遺産〟として扱われるならまだしも、天皇家の〝神聖さ〟との証拠だとか、不可侵のタブーとして祭り上げるための、日本民族の国粋主義的幻想をあおる道具とて〝文化遺産〟の箔付けをしたいなら、そんな意味での〝文化遺産〟は労働者・働く者にとつて、うさんくさく、わずらわしいものでしかない。(鵬)
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天皇制をタブー視することは直ちに止めよ
危うい天皇制の基盤を露呈
2019年5月11日
何かマスコミ関係に異様なことが起こっています。秋篠宮の息子(悠仁)に関する報道――教室に侵入して、何か凶器らしきものを置いて立ち去ったという事件――が、ある時以来、一切なされなくなっていることです。
犯人が逮捕されて、その動機の一つに天皇制に対する批判があったということが報道されて以降、全てのマスコミがみな歩調を合わせて一切の報道を止めてしまって、我々には、その動機がいかなるものであったのか、犯人にどんな天皇制に対する批判意識があったのかが全く知らされなくなっています。安倍政権が全面的にマスコミに介入して、報道管制を敷いたと判断するしかありませんが、まさにファシズム政治の出現というしかありません。
事実上の天皇制のタブー視であって、民主主義社会において許されることではありません。まさに天皇制の本性暴露であり、そしてまた天皇制をタブー視し、裸の王様に過ぎない、空っぽの天皇制を悪用して労働者・働く者を専制的に支配しようとする安倍政権の本性暴露であって、日本の労働者・働く者も今後「言論の自由」さえも許さない専制政治の危機に直面しているということです。
もちろんわが党は我々の運動の初期の時から、一切のテロリズムに反対し、それを無力な戦術――そればかりか、有害な戦術――として一貫して非難し、退けて、中核やその他の新左翼諸派と厳しく対立してきました。しかし「これとそれとは別問題」であって、仮に逮捕された人物のやろうとしたことがどんなに反動的であり、ナンセンスであったとしても、彼の動機を隠し、天皇制批判をタブー視していいということには決してなりません。
我々は安倍政権とマスコミを厳しく批判し、天皇制をタブー視するようなことを直ちにやめ、犯人の天皇制批判の内容をすべて明らかにするように要求します。安倍政権は、それがどんなものであれ、天皇制批判がそんなにも恐ろしいのでしょうか。象徴天皇制とは、どんな批判にも容易に動揺するような、そんな不確かで、正々堂々と正当化し、擁護することもできないような、自信など全く持てない、危うい基盤の上にやっと立っているにすぎないものであることを自覚し、知っているのでしょうか。そうだとするなら、いっそのこと迅速に天皇制を廃止するにしくはないですか。
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衆院大阪補選の教えるもの
野党共闘路線の破綻と崩壊の始まり
2019年4月26日
大阪衆院選12区の補欠選挙は野党共闘路線の破綻と崩壊の始まりを明らかにした 。 統一地方選と時を同じくして行われた衆院大阪12区の補欠選挙は、自民党(北川)、維新(藤田)、元民主(樽床)、共産党(宮本)の4党の〝揃い踏み〟となり、いずれが勝利するかと注目を浴びたが、自民党との積年の対決を制した維新が勝利し、自民党は涙を飲んだ。共産党は独自候補を立て、この争いに割り込み、〝共産党主導の〟野党共闘の実績を上げ、参院選につなげようとしたが、こと志に反して、むしろ野党共闘は共産党主導でやる限り、勝利の展望はほとんどないということが明らかになっただけであった。
志位路線には先の見通しが全くないこと、共産党が自壊の道に進むしかないことがすっかり暴露されてしまった。また樽床ではなく、共産党の宮本に肩入れすることによって、立・民の枝野もまた、最近力を入れ始めた野党共闘への主導権を失い、野党共闘など始まる前から空中分解し、その可能性さえ消えてなくなりつつある。
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日米同盟は盤石という安倍政権の大甘
日米貿易交渉の行方、初めはソロリと次第に自国ファーストを剥き出して
2019年4月21日
日米貿易交渉がソロリと始まりました。お互いに最初から激突するということでなく、相手の出方を見つつ、トランプは来年の大統領選勝利を何が何でも達成するために、徐々に日本に対しても大幅な譲歩を要求して牙をむいてくるでしょう。安倍政権が個人的にトランプと友人関係を築いてきたから、あるいは日米同盟は盤石だから大丈夫だなどと考えているなら、苦い失望や幻滅を余儀なくされる可能性も十分にあります。安倍が得意とうぬぼれている外交でも、失敗し、挫折し、行き詰まるしかない時が訪れつつあるのです。
日本は為替操作はしてない、ドル買い・円売りなどやったことはないと開き直ってみても、安倍政権は成立して以来、一貫して金融大緩和政策で円安を実現してデフレ脱却を可能にしてきたと散々に自慢してきたのですから、トランプから見れば、十分に円安のために故意に努力してきたと思われ、突っ込まれても仕方なく――「身から出ましたサビゆえに~」という、「ネリカンブルース」の歌にあるやつです――、弁解してトランプを納得させ得るなど不可能でしょう。大丈夫だなどと楽観しているとするなら、甘い判断というしかありません。 そもそもトランプはさておくとしても、安倍や習近平が「貿易自由主義者」を気取ること自体、ナンセンスで茶番です。
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元号「令和」に不吉な予感
一致しすぎる歴史的経験との符合
2019年4月2日
天皇の代替わりの空騒ぎもしくは、茶番は元号「令和」の決定と発表により一つの頂点に達し、さらに5月1日の新天皇の即位によって完成しようとしている。この危険な空騒ぎの意味することは、天皇が再び1945年以来、完全に危険な〝政治的〟存在と化したこと、安倍政権と癒着し、融合することによって安倍の企む日本国民の国家主義への――したがってまた軍国主義への――統合の恰好な道具として現れたということであろう。 いうまでもなくこれは、昭和の前半、天皇一家がファシズム化した軍部の国家主義、軍国主義と結びつき、その道具に転化し、国民の全体を侵略戦争と帝国主義戦争に動員し、駆り立てる上で決定的な役割を果たしたのと同様であり、その始まりであろう。
そうした現状を踏まえて「令和」という元号を冷静に見直し、評価すると、安倍がペラペラと得意そうに説明した牧歌的な、偽善的な説明――「令は吉と通じ、めでたい意味がある」、「花を大きく咲かせたい」等々のきれいごとや美辞麗句――と全く違った、不吉な予言じみたものをそこに見出さざるを得ない。
我々(とりわけ林)が令和の「令」を見て感じたことは、それがまず「命令」の令であり、すぐに「勅令」の令であり、最後に「奉勅命令」の令であるということであった。それが、昭和の戦争の15年戦争の後半の時代の空気を吸い、7歳で敗戦を経験した林が、安倍政治の6年余の時代を経験した今、「令和」という二字熟語から受けた最初の精神反応であり、脳の反作用であった。我々の世代にとっては、それは自然の反応であった。
2015年の秋、安倍政権は憲法9条など何のその、その解釈を「閣議決定」でいくらでも捻じ曲げ、まさにかつての天皇の「勅令」よろしく超法規的な〝大権〟ふるって、国家主義に道を開く諸法律――集団自衛権の行使つまり海外で自由で大規模な武力行使、軍事行動を可能とする諸法規(俗称では〝戦争法〟)を可能とする諸法規――成立させた。
まさに「令和」そのものであり、その先取りではなかったか。
つまり安倍は4年ほど前の秋に、そんな諸法律を成立させながら平和のためであるとか、さんざんにきれいごとを並べたのだが、それもまたまさに今、元号として「令和」を掲げながら、平和についていくらでも麗しい、偽善的なおしゃべりをするし、できるのと同様である。
もちろん安倍一派の国家主義が軍国主義と同意語であり、容易に軍国主義に転化していくのは、このブルジョア社会では、個人主義とは利己主義であり、またそれに容易に転化していくのと同様である。
ついでに言えば、「令」は専制政府、独裁政権が得意とする、「戒厳令」の〝令〟でもある。自民党も安倍政権も12年の憲法改正草案でも、今回の憲法改定案でも「緊急事態条項」を是が非でも盛り込めと大騒ぎしている。つまり「令」とは、労働者・働く者の大規模な大衆行動などが勃発し、発展した時には、国会や法治主義を飛び越えて、内閣の「閣議決定」だけで緊急政令などを制定し、ことに当たり、労働者・働く者やその闘いを容赦なく弾圧できるようにせよと大騒ぎしている安倍政権にとって、きわめて特徴的で、示唆的な漢字というしかないのである。
かつて15年の不幸な戦争の時代であった「昭和」が昭和恐慌と共にスタートし、15年の無意味で不幸な15年戦争の時代となったように、今日本が、そして世界もまた再び深刻な恐慌の時代を迎えようとしている時――今夜の日経新聞夕刊は1面で新元号「令和」を大々的に扱うと共に、それと並んで、「景況感大幅に悪化」という記事を掲載している――、「令和」の元号は不吉な予感として我々に迫って来ないだろうか。
とするなら、我々が「令和」とは安倍の天皇制と結びつき、一体化しつつますます専制化しつつ、口先では平和について美辞麗句を弄している時、そこに歴史との余りに不吉な付合を見出すのは果たして不当であろうか。
安倍政権はほとんど意識することなしに、「令和」という元号を押し出すことによって、自分の目指している社会と時代――〝勅令主義〟=天皇制専制主義もしくはファシズム体制下の〝平和〟――について語り、あるいはひょっとして今後20年、30年の日本の暗い未来への不吉な予言をしてしまったのではないだろうか。
今後の歴史のみが、その真実を明らかにしていくだろう。
2019年4月1日 労働者党代表委員会
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莫大な浪費と、何の社会的な益もない迷惑な空騒ぎ
労働者・働く者は、安倍政権と天皇家の陰湿な合作と共演と茶番である「代替わり」に抗議する
2019年3月31日
天皇の生前退位とそれに伴う天皇制護持の大キャンペーンもしくは世紀の茶番劇がピークを迎え、その一つの契機としての元号決定のため、安倍は現天皇と次期天皇の皇太子に今日(3月29日)会って、元号について「報告」もしくは「説明」を行い、曲がりなりにも天皇が元号を決めたという形式らしきものを見せかけようとしている。
しかし実際には安倍政権が、今を時めく権力者である安倍が、昨近の天皇制大キャンペーンを、自らの政権の浮揚と参院選のために仕切っているのは誰もが知っていることである。天皇(もしくは天皇家)が新元号も決めなくては全く「元号」の主旨に合わないのだが、そんなことは天皇家も安倍も実はどうでもいいのである。天皇家も安倍政権も国民を、とりわけ労働者・働く者をあざむき、自らの権力や特権や利益を守り、できればその永続化を狙い、追求しているだけだからである。
天皇家の利害にとっては安倍の専横な権力が必要であり、反動派、国家主義派としての安倍政権ほどの保護者、後援者を見出すことができず、また安倍も自己の権力を飾り立て、正当化し、利用できる天皇制ほどの好都合な制度を見出すことができないというわけである。今では、天皇家と安倍政権ほどに親密で、阿吽(あうん)の呼吸で気心を合わせ、連合する二つの権力機構はないというわけである。
安倍はせっせと天皇制の神性や至高性や不可侵性をはやし立て、国民を超越する、国民の上に立つ、その制度の虚妄性を振りまきながら、しかしそれも、今は自分の思うがままのものであることをも印象付けるという、矛盾した、バカげたことに励めば、天皇一家も空っぽの神性を、つまり安倍を超える〝聖なる〟存在であることに満足し、居心地のいい、そんな地位のために、表面は安倍を立てるのである。
というのは、自らは聖なる存在であって、「政治」といった、〝俗事〟にかかずりあうことはないからであり、具合よくかかずりあってはならないことになっているからである。
彼らは共に徹底的に自己本位であり、エゴイズムの塊である、だから彼らはお互いに相手を本心から尊敬し、信じているわけでもないのである。
本心では自分の方が相手よりはるかに上等だと思っているのである。安倍は自らの権力保持や権力意識に生き、そんなものを最優先する嫌らしい自己本位のエリートであり、権力主義者でしかない。他方、天皇一家は、ありとあらゆる不自由や〝人権〟の放棄と引き換えに、優雅で、寄生的な生活や居心地よい地位を保障された〝貴族的〟特権に安住し、自らの幻想の血筋へのプライドや高慢、思い上がりのみに生きる、時代錯誤の愚者たちであり、天下の俗物たちである(皇太子の「雅子の人格が否定されたことがあった」というかつての発言や、秋篠宮一家の最近の低次元のドタバタ騒ぎ等々を想起せよ)。
労働者・働く者は、安倍政権と天皇家の陰湿な合作と共演と茶番である代替わりの大騒ぎに抗議し、単に莫大な浪費と、うっとうしく、何の社会的な益もない迷惑な空騒ぎであると断罪し、さらに、安倍政権やブルジョアたちやスポーツエリートたちだけのための、結局は徹底的に政治的意図で強行されるオリンピック騒ぎと共に、直ちに止めるべきだと強調する。
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日本誘致をだましとった「復興五輪」の
面影はいずこに
安倍政権延命のための饗宴と化している
2019年3月26日
国民をたぶらかす「復興五輪」なる名称と、安倍の誘致合戦における、福島の原発事故の処理は完全で福島は安全だ、「アンダーコントロール」だという安倍の虚偽発言によって日本誘致をだまし取った日本五輪は、竹田会長の賄賂疑惑と彼の辞任――罪を認めたことだ――に帰着し、その汚れ切った腐敗と莫大な浪費と、結局は安倍政権延命のための饗宴にすぎないという本性を暴露した。
「復興五輪」などの面影はどこにもなく、被災地復興や被災者救済は後回し、カネも資材も五輪優先で、現地では、「復興五輪?異国の出来事のようだ」、「(突貫工事で建設が進む)新国立競技場は間に合わせるけど、被災地(復興)は遅れたってかまわないといわれているようだ」という恨み言が公然と語られている。
五輪や万博をやれば経済発展が加速する云々は幻想で、古代ローマは「パンとサーカス」(バラまきと五輪と読め)によって頽廃し、寄生国家に堕することで滅んだ。ローマを持ち出すまでもなく、日本でも64年五輪の後、深刻な経済不況や財政悪化に苦しみ、国債発行が始まり、借金地獄国家に転落していくきっかけとなった。ギリシャは04年のアテネ五輪に浮かれ、借金による浪費やバブルや、財政や国家破産の末、困窮と緊縮生活の10年を余儀なくされた。
五輪に浮かれると碌なことにならないという経験はいくらでもある。他山の石とすべきだ。(鵬)
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