【2011,3,4】
都知事の地位狙う悪党たち――松沢の勝利を許してはならない
【2011,2,25】
エジプト革命への空語をやめよ――「民主主義」に留まるなら頽廃するだけ
【2011,2,18】
菅も小沢・鳩山と同根だ!――エジプトの労働者、青年のように闘おう!
【2011,2,7】
跳梁跋扈するデマゴギー政治、頭をもたげるファシズム政治――愛知の河村政治、大阪の橋下政治に警鐘を乱打せよ
【2011,1,29】
与野党の国会論戦が始まったが
【2011,1,22】
橋下、河村らの派手な振る舞い――「改革派」僭称し、個人的専制体制を狙う
【2011,1,16】
権力維持自己目的化の菅改造内閣――マニフェスト修正なら、退陣か総選挙を
【2011,1,8】
“迷妄”朝日新聞の結構な“提言”――「溺れる者はワラをもつかめ」
【2011,1,1】
『セメント樽の中の手紙』――80年たっても変わらない労働者の悲惨
【2010,12,25】
桜井よし子の国家主義――戦前の日本は中国そっくりだが
【2010,12,19】
菅、ますます資本の陣営にすりよる――「成長戦略」を転換、法人税減税へ
【2010,12,12】
仙谷官房長官について――“陰の総理”とも呼ばれ
【2010,11,29】
山本一太、世耕弘成、稲田朋美ら自民党議員を糾弾せよ――軍部専制国家、ファシズム国家を煽動する悪党たち
【2010,11,19】
まかり通る反動策動 危険な“ファシズム”の匂い――海上保安官を逮捕せず 自衛隊への反動派の扇動
【2010,11,12】
領土問題で「血が騒ぐ」という志位――“ナショナリスト”を売り込む共産党の堕落
【2010,11,6】
成果なしの事業仕分け第3弾――必要なのは立法的、行政的措置
【2010,10,30】
事業仕分けはパフォーマンス――企業献金復活、武器3原則も骨抜き
【2010,10,22】
始まった「戦争せよ!」という扇動
【2010,10,16】
尖閣諸島に波高し――国家エゴイズムを粉砕せよ
【2010,10,8】
金王朝の世襲を笑えるか――天皇制も125代の世襲だ
|
前のメッセージへ 過去のメッセージへ
都知事の地位狙う悪党たち
松沢の勝利を許してはならない
2011年3月4日
神奈川県知事を二期やってきた松沢が、東京都知事に立候補するという。権力主義以外何もない、あさましい限りの鞍替えである。
もし首長を続けるなら、なぜ神奈川知事でなくてはいけないのか。東京都知事になるなど、余りに傲慢であり、神奈川県民にも東京都民にも失礼であろう。こんな人間を決して都知事にしてはならない。
東国原も同様である。彼が宮崎県知事をやめて、都知事に立候補する理由として、彼の個人的な野心と権力欲以外何があるというのか。ただ宮崎県民を踏み台にして、より上の、より大きな権力を手にしたいと言うだけのことである。
松沢や東国原が、神奈川県民や宮崎県民のことを考えて、その知事を辞め、また東京都民のことを考え、都民のために知事選に立候補する、などと考えられるであろうか。
実際、松沢は自分の野心を隠そうともしないで、都知事になった方が、経験や能力を生かせる、都知事の方が「大変な影響力がある」と語っている(三月二日、日経新聞)。
ただ自分の権力を拡大するには、都知事の方が好都合だというだけのことで、石原が国会議員では七百三十二分の一で、権力を振るえないし、威張れないし、偉そうにふるまえないからと都知事に成りあがったのと五十歩百歩である。
松沢は「首都圏連合」などを持ち出しているが、そんなものは神奈川県知事のままでもいくらでも推進できることである。
松沢や東国原は氷山の一角で、そんな卑しい政治家ばかりが増え、幅をきかす世の中になったのである、つまり政治家が、あるいは日本人一般の質がひどく落ちてしまったのかもしれない。資本の支配に反対し、全世界の労働者の解放のために、労働の解放と言う、この社会の唯一究極の理想に生きる人間が輩出しなくてはならないのだ。
エジプト革命への空語をやめよ
「民主主義」に留まるなら頽廃するだけ
2011年2月25日
エジプト革命について、ブルジョア世論が好き勝手な言葉をつらね、知ったかぶりの、そして思い上がった助言をふりまいている。
「若者」たちが立ち上がったとか、「市民」もまた参加したとか、「新しいメディア」の勝利だとか、「強権支配」、独裁体制を打倒したとか、「民衆革命」だとか、「民政への移行」が緊急の課題だとか、憲法だ、総選挙だ、「民主主義と自由の浸透を」等々と、その騒々しいこと。
要するに、日本のような立派な、もしくは理想の政治体制にすることが必要である、それこそがエジプト革命の課題であり、目的であるというのだが、日本の「民主主義と自由」という、いつわりの体制を、資本による搾取の体制の限界と非人間的な本性を日々経験し、またその実際の姿――自民党政権や民主党政権の現実等々、余りにひどい腐敗と頽廃の現実――を直接に見、実感している日本の労働者にとっては、世迷い言にしか思われない。
大体、ブルジョア世論は「若者」が立ち上がったとか、「若者を含めて国民の幅広い参加」が必要だとか言うが、日本のどんな支配機構や企業体制や政治やマスコミに、「若者」がヘゲモニーを握っているようなところがあるのか。
そんな「若者」の決起を誰よりも恐れているような「年寄り」連中が、「若者」をおだて、あるいはおべっかを並べているのだが、その意味は、単に「若者」をまるめ込み、籠絡しようということであるにすぎない。
「若者の希望を奪って来た」(そして今も奪っている)のは、エジプトのことではなくて、この日本のことだ――その点では、むしろ日本の方が一層ひどく、深刻だ――と言って少しも大げさではない、否、むしろそれこそが悲しむべき現実だと、多くの日本の「若者」は断言するだろう。
エジプトは「強権支配」だった、独裁体制だというが、日本もまた自民党と民主党の「独裁」体制であり、しかもこの両党はますます同じような党になり、協議だ、連合だなどと言い合っているのだから、「一党独裁」、「専制体制」と実際上、大した違いがあるわけではない。消費税増税などという、労働者や貧しい人々が大反対の政策さえ、「二“大愚”政党」が合意すればいとも簡単に実行されるのだから、労働者人民の意思はまるで無視され、一〇%、二〇%の“追加の”大収奪が実行に移されるのである。これは実際上、労働者人民にとっては、「専制体制」そのものではないのか。
専制権力が私利を追い求め、腐敗したというのか。しかし日本の権力や支配政党や議員たちは違うというのか。例えば、「政党助成金」といったものは、自民党や民主党、そして国会議員たちが“お手盛りで”合法的な形を整え、国家の、国民の巨額のカネをくすねること、“公金”を私(わたくし)することではないのか、政党や議員の腐敗の最たるもの、その象徴ではないのか(その筆頭に立ったのは、民主党の小沢であった)。
地方議員だけでなく国会議員も――というより、むしろ国会議員たちの方が、そして権力にある連中こそが――、おそるべき特権や高給を享受しているのだ。大阪や愛知などで、議会や地方議員が、“専制君主”を目指す、いつわりの“革新首長”たちに糾弾されているが、しかしさらに骨のずいまで腐敗している国会議員やその政府こそが決定的に糾弾されなくてはならないのである。
エジプトの選挙では、テレビは与党の運動だけを放映したとか、野党の運動にはさまざまな制約が課されてきたというが、小選挙区制で多くの政党や政治家を事実上排除し、あるいは供託金制度によって、選挙参加を金持ちや大政党だけに制限しているのは、日本のご立派な“民主主義”ではないのか、日本の民主主義と、これまでのエジプトの「専制体制」と一体どれほどの違いがあるというのか。実際的には、ほとんどないと言って少しも言い過ぎではない。
むしろ、形だけの「民主主義」がある日本の方が一層悪質である、というのは、カネと権力を持つ連中が一層“自由に”、一層大がかりに、一層破廉恥に、彼らの宣伝、扇動を独占し、実行するから、実行することができるからである。実際、エジプトでは「金権政治の横行」があり、「一党独裁」の寡頭体制が存続したなどと偉そうに発言できると、日本のブルジョア勢力やマスコミが思っているとはあきれたことではある、というのは、そんなものは日本の現実以外では全くなかったから、そして今もないからである。
「新しいメデイァによる革命」といったことが言いはやされているが、実際に政府を倒したのは労働者人民の大衆運動であって、新しい情報器具ではない。そしてそうした器具が何か決定的な役割を果たしたかに見えたのは、革命が「民主主義」革命の段階に留まっていから、そしてまだ自然発生的な“国民的”革命の幻想に包まれていたからにすぎない。
ブルジョアマスコミは「新しい形の『革命』の影響は中東を超えて世界に広まりつつある」と書くのだが(日本経済新聞十三日)、しかしその場合、日本などの“先進国”は当然のこととして除外するのである。
エジプト革命についての一切のおしゃべりや空語をやめるべきである、というのは、「民主主義」云々は、すでに日本等々の現実であり、腐敗と破綻をとことん暴露しているから、まさに解体しており、ますます解体して行きつつあるからである。「民主主義」といったものは形式であり、それ自体は空虚である。問題は社会と政治の実際であり、内容である。
世界の労働者階級は資本の支配を意味する「民主主義」を超えて、その先を、つまり資本の支配からの自らの解放を見つめ、さらに前進して行かなくてはならないのだ。
『海つばめ』1141号「主張」より)
菅も小沢・鳩山と同根だ!
エジプトの労働者、青年のように闘おう!
2011年2月18日
鳩山が、昨年、普天間基地の移転問題で、沖縄圏外に移すことは、「抑止力」の観点から不可能だ、それを勉強して分かったと言ったのは、県外に移す展望がなくなったので、理由づけのための「方便」だったと告白しました。まさに鳩山の本性を、そして民主党の政治の本性を暴露したと言うしかありません。
しかし菅や北沢は、鳩山の発言はおかしいとか、納得できないとか、自分の考えとは違うなどと言って、批判が民主党と菅内閣に向かってこないように言いつくろおうとしています。そんなことを許してはなりません。菅内閣はこれまで、鳩山の方針転換に追随し、その延長上線で、普天間基地の県内移転でやってきたのですから、鳩山発言の責任は菅内閣もまた同様に負うべきです。そもそも、菅らが自分たちは鳩山の考えとは違うと言っても、同じ党に属し、ともに民主党を作り、指導してきたのであり、また鳩山を党首(代表)にも、首相にも選んだのですから、共同の責任を回避することなどできるはずもありません。
小沢の問題でも同様です。小沢を金権腐敗の罪で今頃になって「処分」していますが、菅内閣のアリバイ作りでしかありません。実際には、今まで黙認してきたのですから、いまさら処分も何もないのです。同じ党の、しかも同じ最高幹部として、何の問題もないとしてずっと一緒にやってきた間柄なのですから、小沢を処分したり、鳩山の言動は自分に関係がないと言ってすむことではありません。小沢も鳩山も同じ党の、最高の幹部なのです、それが自分たちの観念や立場と違うというのであれば、菅たちは、小沢や鳩山と同じ党に属していることはできないはずです。小沢や鳩山の問題は、民主党全体の問題であり、民主党の金権腐敗や、「方便」政治の本質を暴露しているのです、つまり民主党そのものであって、自分たちは小沢や鳩山の言動に責任ないといって、知らない振りをして済む問題ではありません。ただこの問題だけでも、民主党と菅内閣は政権の座についている資格がないこと、ただちに政権の座から去るべきことを明らかにしているのです。
小沢を処分し、鳩山発言を否定するなら、民主党や菅内閣は自分たち自身こそを処分し、否定すべきなのです、そうでなかったら決して首尾一貫しているとは言えないのです。小沢の腐敗は民主党の、菅内閣の腐敗であり、鳩山の「方便」政治は、民主党の、菅内閣の「方便」政治です。今こそ労働者は、菅内閣の、民主党政権の打倒に向けて決起すべきです、というのは、この内閣は少なくとも次の総選挙まで居座りを続けていると豪語しているからです。そんな悪政を後三年間も続けるなど労働者にとっての災厄以外ではありません。今こそ、エジプトの労働者、青年のように闘おうが、我々のスローガンです。
跳梁跋扈するデマゴギー政治、頭をもたげるファシズム政治
愛知の河村政治、大阪の橋下政治に警鐘を乱打せよ
2011年2月7日
愛知で、河村とか大村といったデマゴギー政治家が勝利しました。大阪の橋下や、宮崎県民を踏み台に東京都知事を狙う東国原、阿久根市の「失職した」竹原も同様な、粗野で、野蛮で、ガラの悪い政治家、権力や暴力しか信じない、“やくざ”と同レベルの政治家たちで、この種類の政治家が“地方政治”を舞台に、その制度を悪用しつつのし上がりつつあります。
愛知の選挙は、労働者人民が民主や自民に対して(共産党に対しても)、そしてまた議員や議会に対しても、全く期待も幻想も抱いていないということ、むしろそれらの現状に深く絶望さえしていることを暴露して象徴的です。
河村派の勝利の語る意味は明らかです。──議会制と議会政党に対する決定的な批判、というより完璧な否認です。橋下も河村もともに「議員」やその特権を攻撃しますが、実際には議会改革ではなく、議会制度への攻撃、その解消、“止揚”であり、自らの専制的権力の確立です。
既成政党は軒並みに「敗北」しました。民主、自民という「二大愚政党」だけでなく、共産党なども同様です、というのは、これらの政党は、河村らに特権的であり、腐敗していると攻撃された、これまでの古い体制、古い特権、古い権力を代表し、弁護する以外の何もしなかったし、できなかったからです。そして共産党もまた、特権的で腐りきっている議会制度や議員たちを弁護するしかしなかったのですから、民主や自民のつまらない付属品、同輩としてしかみなされず、やすやすと河村や橋下に名をなさしめただけでした。
民主の岡田が、「河村の選挙は『パンとサーカス』の政治だ」と批判していましたが笑止千万です。自分たちがデマゴギー的なバラまきを約束して政権をさん奪しておいて、河村がデマゴギー的だなどと言ってもまるで説得力がありません。河村や橋下の政治がデマゴギー的であり、ファシズム的だというなら、そんな政治がはびこる一因となっている、民主党の政治を反省するのが先決です。河村の「減税」というデマゴギーを批判して──というのは、今の国家や地方政府をそのままに、「減税」などというのはデマゴギーに等しいからであり、また河村のいう「減税」もまるで、実行されるにしても大海の一滴のようなものにすぎないからです──、「財源もなく叫んでいる」と言っても、自分たちの「子育て支援」も同様なものだったのですから、河村批判にもなりません。
橋下や河村現象は決して地方政治の問題ではありません。議員たちが特権をむさぼっていること、そして議会制民主主義が頽廃を極めているのに、その制度的な改革はなされないばかりか、むしろ民主党とか自民党といった「二大愚政党」や議員たちの有利な方向に、つまりますます非民主的な方向へ改悪されているし、これからもそうであること──議員定数の削減も、そんな卑しい意図が見え見えです──、等々、今回愛知で徹底的に否定されたことは、国政でこそ、一層深刻に、一層荒廃して存在しているからです。
問題は、国家の既成の制度や、議会制政治や、政党や議員たちの全体がとことん腐ってしまったこと、そしてその腐敗の中に安住して、どんな「改革」もできなくなっていることです。
議会政治を徹底的に民主的なものに改革すること──例えば、参議院は「定数」100に減らし、全国単一の比例区で、3年ごとに(以内に)選挙をやる(だから議員任期は3年を超えず、しかもどんな政党も1%以上をとれば、議席を持てる)、供託金等々といったものは一切廃止する、等々のラジカルな「改革」──など決してやらないし、できないのです。もちろん、議員報酬は普通の公務員並みにする、等々の「改革」も必要です。そうなれば、カネや権力や特権のためだけに議員を目指す卑しい連中を最小限にすることができるでしょうが、一層の民主主義を保証し、議会制の活性化をもたらし得る、こんな“些細な”変革さえ、問題にもされないのですから、現在の議会制や議員たちが愛知で事実上否定されたように、近い将来、国政のレベルでも否定されない保証は何もないのです。
議会制民主主義が形骸化し、根底から腐ってしまい、議員たちが(したがってたま政党)がカネと権力だけを追い求める最低の連中に成り下がったからこそ、橋下や河村や東国原や竹原といったデマゴギー的で、個人的野心以外何も持たないような、げすの政治家たちがわがもの顔にふるまい、デマゴギー政治にふけり、人気を博すのですが、そんなものが労働者人民にとって新しい、一層大きな禍(わざわい)のもとにしかならないことは、すべての歴史の経験や実際の教訓が──ヒトラーや“天皇制”のファシズムや、“ボナパルチズム”等々の政治が──教えるところです。
反動的で、ファシズム的とさえいえる、デマゴギー政治がますますはびこってきたことは、ブルジョア社会の頽廃と行き詰まりと矛盾が決定的に深化していることを教えています、そしてもし再びデマゴギー政治、ファシズム政治の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)や勝利を許すなら、労働者階級の未来は、若者たちの人生は、ファシズム支配下の時代のときのように、日本の軍国主義のもとでの「15年戦争」(1931~45年の「アジア太平洋戦争」)の時代のときのように、再び暗黒の闇にとざされ、不幸と惨禍と絶望と、そして死さえも不可避の運命とされた、あの地獄の世界に追い詰められます。自覚した労働者の組織的、政治的結集と団結した闘いが決定的に重要なものとなっています。こころざしあるすべての労働者よ、若者たちよ、今こそ目覚め、立ち上がるべきときだ!
与野党の国会論戦が始まったが
2011年1月29日
国会で、与野党の議論が行われていますが、その「形式」は与野党(議員たち)間の議論と云うより、政府と与野党の単なる「やりとり」と云ったものであって、本当の論争にはなっていません、つまり本当にかみ合った、真剣な議論になっていません、議会が議会として存在していないといってもいいでしょう。その意味では、あまり聞くに堪え得るようなもの、価値のある議論や論争は少ないのですが、それでも我々はそれに注目し、そこに現れた政治闘争の内容や意味を確認し、明らかにしていく責任と義務を負っています。
菅内閣はマニフェストで公約した、民主党の民主党としての要求の根底にあるものを放棄し、“国民”(主として、小ブルジョア)を公然と裏切りながら、これまでブルジョア勢力――政治的には、自民党など――が主張してきた、消費税増税とか(大増税による財政再建)、“農業改革“と貿易の自由化とか、法人税の軽減とか、等々の課題を「解決」すると称して、そうしたインチキ政治に救いを求め、生き残りをかけて、盛んにブルジョア勢力との協調、連合を追求しています。はたして菅の思惑と策動は“順調に”実現されていくのか、与野党協調の策動が成功して、ブルジョア政治はますます寡頭政治の方向に進み、菅の“ボナパル的な“権力がいくらかでも続くのか、それとも、この策動も失敗して、菅内閣は挫折し、民主党の権力も崩壊するのか、そしてもしそうだとすると、その後には何が来るのか、等々をしっかり見さだめ、労働者は闘っていく必要があります。
橋下、河村らの派手な振る舞い
「改革派」僭称し、個人的専制体制を狙う
2011年1月22日
★統一地方選を目前にしてタレント上がりの首長等が派手な振る舞いをしている。橋下、東国原、河村、森田など枚挙にいとまない★彼らはただテレビなどで名を売って首長になり上がったのだが、たまたま手にした権力を維持するには、ただ「大衆」の味方を装った派手なパフォーマンスで、「改革派」の名前を僣称し、極端な――つまり極めて反動的な――政策や主張を持ち出すしかない★彼らが目指すのは、“地方”における個人的な専制体制であって、それを悪用して、ますます自らの権力を強大化しようと策動するのである、というのは彼らの目的は権力、しかもより大きな権力だけだからである★橋下も河村も、議会が邪魔と思うと、自らの“地方政党”なる、完全な“私党”まででっちあげて、議会をも自分の完全支配下におこうとするのだが、しかし大阪や名古屋を自らの専制体制のもとに置くための「地方政党」といったものは茶番であって、腐敗した、ばかげたもの――さもなければ、超反動的な、ファシズム組織の卵(すでに「維新の会」といった名前からしてそうである)――にしかならないのは一つの必然であろう★ファシズム的政治が、その前期的兆候が、“地方政治”を舞台にして始まり、はびこって来ている。資本主義の矛盾と解体の深化が根底にあるとはいえ、既成政党の腐敗と無力、共産党など公称の“左翼政党”のブルジョア的堕落、そして議会制民主主義の頽廃、衰退が、こうした政治的賭博師、詐欺師たちがはびこる豊かな地盤となっている。統一地方選においても、労働者は鋭く目を光らせて行かなくてはならない。
『海つばめ』1139号「飛耳長目」より
権力維持自己目的化の菅改造内閣
マニフェスト修正なら、退陣か総選挙を
2011年1月16日
菅が内閣改造を行いました。しかし新装開店してみても、その実質は変わらず、ただ権力の維持を自己目的にしただけの、狭隘な“個人的”権力に堕していく可能性が大きくなっています。マニフェストを「見直す」と云いますが、総選挙では、必ずマニフェストを実行する、できなかったら政権の座からおりるとまで強調していたのですから、国民への約束は断固として守り、マニフェストが実行できないとするなら、総選挙を直ちに実行すべきです。そうでなければ、国民をだまして政権を盗み取ったという事実が消えることはありません。こんな正当性のない権力がいつまでもつことができるというのでしょうか。民主党のなすべきことは、マニフェストの見直しではなく、さっさと政権の座から降りることです。それがいやなら、新しい修正マニフェストを掲げて、総選挙を行うことです。それがまともな政党としての、最低の道です。菅は衣替えをして、それをテコに、自民党などとの連合によって生き延びようとしていますが、自民党などが簡単に応じるはずもなく、また仮に応じたとしても、ひさしを貸して母屋を取られるといった結果になるしかありません。反小沢を推し進めれば“世論”の支持を得られるなどと思いこんでいるようで、まるで情勢も労働者人民の心も分かっておらず、こんな独りよがりの政治家がまともにやっていけるはずもありません。消費税増税こそが諸々の行き詰まりを突破するカギだとしながらも、断固としてそれを掲げて、自民党なども巻き込むという気迫も信念もなく、それは与野党で話し合って決めるのだと他人任せですから、自民党なども乗れるはずもありません。与謝野などを取り込んで、自民党との橋渡しを期待するなど、やることなすことが大甘であって、“市民主義”政治家の皮相さ、無内容さが完璧に暴露されています。この内閣に残されているのは、のたれ死に以外ありそうにありません。
“迷妄”朝日新聞の結構な“提言”
「溺れる者はワラをもつかめ」
2011年1月8日
自民党と民主党という「二“大愚”政党」による政治の頽廃と無力、愚昧ぶりをみて、新年早々、朝日新聞は主張欄に書いている。
「戦前を思い起こしたい。
不況にあえぐ中、政友会と民政党の2大政党は腐敗と政争を繰り返し、ともに信頼を失っていく。79年前〔一九三二年、満州事変勃発の直後の年〕の5月15日、青年将校らが犬養首相を殺害し、政党政治は終わりを告げる。
凶弾に倒れる2週間前、犬養はラジオ演説で『議会否認論』の広がりに触れ、訴えた。『吾輩はこれに反して、確かにこれを改善し得ることを信ずる』
その信念は実を結ばなかったが、私たちも犬養同様、どんな状況であれ、政治を見限るわけにはいかない。逃げたところで、政治の方はどこまでも私たちを追いかけてくる」
天下のマスコミの言うことは、混乱と迷妄以外、何もないと言っていい。
朝日新聞は、なぜ「実を結ばなかった」二大政党制の歴史でいいというのか、それを繰り返せというのか、その理由を述べていないし、述べることができない。単に「どんな状況であれ、政治――つまり実際には、自民党と民主党という二“大愚”政党の政治ということだ――を見限るわけにはいかない」では、決意表明ではあり得ても、論理でも何でもない。
マスコミが労働者人民に「見限るな」と言う政治とは、結局は、彼ら自身が、直前に「腐敗と政争を繰り返して」転落して行ったと評価する、戦前の「二“大愚”政党」の政治――したがってまた、現在の民主党と自民党の政治――のことなのだから、この連中の主張していることはとんでもない空論だと言うしかない。彼らは実際には、二“大愚”政党による寡頭政治を擁護するのである、というのは、それ以外に、どんな政治も日本ではあり得ないからだ、と言うのである。余りに許しがたいことであろう。
むしろマスコミは、なぜにブルジョア議会政治が“二“大愚”政党制”に収斂し、そしてまた腐敗混乱し、破綻して天皇制軍部のファシズム国家に転化して行ったか、行かざるを得なかったか、その必然性を明らかにし、それに対していかに闘って行くべきであったかを明らかにしないのか。
しかし情けないことに、天下のマスコミが唯一“国民”に対して言えること、実際に言っていることは、「溺れるものはワラをもつかめ」ということにすぎない。もちろん、ここで言われている「ワラ」とは“二“大愚”政党”つまり民主党と自民党のことであるし、それ以外ではない。この二つの政党がどんなに腐敗しており、愚昧であったとしても、それしか存在しないのだから、その現実を前提して「何とかしなくてはならない」ということである。
しかしワラをつかんでも溺れるしかないからこそ、ワラはワラにすぎない。そんな救済の道しか示すことができないとするなら、天下のマスコミもまた破産し、それを自覚しないだけ、ますます腐敗しているのである。こんな処方箋しか知らないとするなら、このブルジョア社会は決定的に「溺れる」しかないのである。マスコミもまた、現代の社会が、したがってまたその政治が完璧に行き詰まってしまったことを告白しているのである。
そして、彼らが提起することができるのは「直接的民主主義」とか、ちんけな市民主義(市民運動)とか、単なる「討論」とか「議論」を深めるなどといった、ありきたりのもの、すでにいくらでも行われて、破綻したやり方であるにすぎない。
市民主義が(したがってまた共産党や社民党や“新左翼”が――というのは、これらの党派も事実上“市民主義化”したし、今もますますしつつあるから)破綻したのは、民主党の政権、鳩山や菅の政治が破綻したことからも、最終的に確認されたのである、というのは、彼らの政治の根底は“市民主義”であったし、そこから出発していたのは“天下周知”のことだったからである。
菅政権に見られるように、市民主義の政治が、平凡姑息なブルジョア政治に転落し、そうしたものとして表われるしかなかったことこそ、無思想、無内容な市民主義の、つまりプチブル的幻想の実際的な――そして最終的な――破産を暴露する以外の何ものでもない。
「政治はどこまでも追いかけてくる」などともったいぶって言うなど最低である。これは一体どういう意味か。我々はいつまでたっても、自民党や民主党の政治に――あるいは、公明党であろうと、共産党のであろうと同じだが――「追いかけられて」いる、つまりそれらから離れることはできない、解放され得ない、いつまでもお付き合いをして、いくらでもあだな期待を持ち続け、またいくらでも幻滅と失望を味わい続けよ、ということか。
しかし自覚した労働者は、我々は、そんな必要は全く認めない、というのは、二“大愚”政党、既成のちんけな諸政党とは別の、労働者独自の壮大な政治的闘いの道を知っているからであり、何としてもその道を切り開いて前進すると、固く決意しているからである。
『セメント樽の中の手紙』
80年たっても変わらない労働者の悲惨
2011年1月1日
昨年暮、朝日新聞は労働者の現状を次のように総括しました。 仕事のない労働者は三二〇万人、そしてその中で、一年以上仕事がない労働者は一二八万人もあって(しかも数千万人の労働者も、その三分の一が不安定な地位で、低賃金で働く「不正規の」労働者です)、「リーマン・ショックから2年。働く現場に光は差していない」。
そして記事の中で、何人かの労働者の苦悩の声を紹介していますが、一人の労働者の置かれている困難で、絶望的な状況について以下のように報告しています。
「5年前、フリーターから寮付きの工場派遣の仕事に就いた男性(30)は生活保護で暮らす。賃金は20万円程度だったが寮費などを引かれ、家を借りるための貯金はできず、他の仕事に移れなかった。『まるでアリ地獄。最後はゴミのように捨てられた。政権交代でこうした働き方の規制が進めば、安定した仕事が増えると思ったのに』」
こうしたことは例外ではなく、何百万の労働者の現実であり、失業した結果、飢え死にまでした労働者のことも新聞に載っていました。 多くの労働者が搾取社会の中で追いつめられ、抜け道のない「アリ地獄」に落ちこみ、失意と絶望と怒りのなかでさまよっています。民主党政権など、労働者を裏切る以外、何もしていないし、できないでしょう。搾取労働の廃絶は労働者自身の緊急の課題となっているのであり、その課題に真剣に取り組み、解決の展望を切り開いていくことこそ、我々の闘いの出発点であり、今なすべきことです。二〇一一年を迎えて、すべてのこころざしのある労働者や活動家は、この原点をしっかり確認し、意思と活動を一つの力として集中して闘って行かなくてはなりません。
もう一つ、やはり昨年の暮の二八日、毎日新聞の福岡賢正が「セメント樽と自動車」という短い記事を書いています。全文を引用します。 「プロレタリア作家、葉山嘉樹に『セメント樽の中の手紙』という掌編がある。
ダム建設現場でセメント樽をあけてミキサーに放り込む作業をしていた男が、樽の中に小さい木箱を見つける。箱の中にはセメント工場で働く女子工員のこんな手紙が入っていた。同僚である恋人が原料の石灰岩投入中、破砕器に転落し、骨も、肉も、魂も、一切が石とともに粉々に砕かれ、焼かれてセメントになった。このセメントがいつ、どこで、何に使われたか知りたい──。
やりきれない物語だが、それを思い起こさせる実話を最近、若い友人に聞かされた。 彼が中部地方の自動車工場の期間工だった5年ほど前、製造ラインに不具合が生じた。ラインを止め、プレス機の中に1人の工員が入って復旧作業中、別の工員が知らずに運転再開のスイッチを入れ、人間ごとプレスされてしまった。スイッチを入れた工員も、ほどなく首をつって死んだという。
『最先端の工場で、そんな単純ミスで人が死ぬこと自体信じられなかったけど、会社は事故死後、当事者が自殺するかもしれないと考えて予防策をとるべきですよ。なのにみすみす死なせて犠牲者を2人にした。結局、使い捨てなんです』
古里の鹿児島に帰って小さい出版社で働いている友人は、やるせなさそうに言った。 葉山は働いたセメント会社で大正10年に起きた労災事故に触発され、先の小説を書いた。死んだのは6人の子を持つ男で、葉山は遺族への補償増額を会社に直訴した。しかし全く相手にされなかったため、労働組合を作りに走って首になっている。
それから89年。今年もまた、多くの非正規雇用の人々や就職できない若者たちが不安の中で寒々とした年の瀬を迎えている。気の遠くなるほどの歳月の間、私たちは一体何をしていたのだろう」。
これが現在の社会の本質であり、この資本の社会はただ何千万の労働者を搾取し、しいたげ、苦しめることによってのみ繁栄し、肥大化し、存続することができるのです。
商業新聞さえ、今やこの資本による搾取社会の非人間的な本質を、その矛盾の深化と抑圧や搾取の強化について語らざるを得ないのです。しかしもちろん、マスコミはただ一時的に「やるせない」気持ちになり、良心が咎めて「ことのついでに」語るだけであって、次の瞬間には自分の言ったことなどすべて忘れ果てています。彼らは、「それで済む」からです。
しかし労働者はそれでは決して「済まない」のです、というのは、この現実を根底的に変革しなければ、どうすることもできない生産関係の中に置かれているからであり、それほどに追いつめられているからです。労働者は自ら自覚を深め、団結を固めて道を切り開いて行く以外ないのです。
新しい年の始めに当たって、わがマルクス主義同志会は、全国のすべての闘う意思のある労働者、活動家の諸君に、搾取労働の廃絶を目指し、労働者──労働者こそが、この社会をその生産的労働によって物質的に支えながら、最も抑圧され、ひどい状態に追い込まれているのです──の解放を目指し、労働者の闘う政治組織への、そしてまた闘う労働組合への断固たる結集を、団結を呼び掛けます。
2011年元旦 マルクス主義同志会 代表委員会
桜井よし子の国家主義
戦前の日本は中国そっくりだが
2010年12月25日
★桜井よし子といえば、最近、国家主義の反動たちの間で、とみに名をあげている“女傑”である。あいそも何もなく、裸の国家主義擁護を一本調子で、品性も何もなく“がなりたてる”からである。最近、産経新聞から「正論大賞」なるものを受賞して、ますます意気盛んである★彼らの“反中国”の意識は猛烈で、優越感と劣等感の入り混じった、複雑な心境もあってか、口を極めて非難攻撃に明け暮れている。日本の、そして世界の「仮想敵」こそ、かつてはソ連だったが、今は中国だと言わんばかりである★「『中国革命』の本質は経済的、政治的拡張とともに、軍事力を背景にした飽くなき拡大路線である。核心的利益は、いまはチベット、台湾、南シナ海について宣言されているが、必ず東シナ海にも日本海にも適用されるだろう」と叫んで、日本国民の危機意識を覚醒させようと使命感に燃えている★しかし彼女は、一九四五年までの日本が、まるで中国そっくりの帝国主義国家であったことについては沈黙を守るだけではない、そんな日本こそ理想の国家であったかに言いたて、そんな日本国家が今の中国と同様な帝国主義国家であったと主張する我々などを「自虐史観」だなどと非難するのだから笑止千万だ★さらにまた、アメリカの帝国主義についても全く沈黙を守るのだから、この女史の使命感といったものもつまらないものだと言うしかない★中国が帝国主義国家として現われるのも一つの歴史的必然なら、専制政治を打倒する中国や北朝鮮の革命もまた、一つの歴史的必然である。そしてこれらの国家の新しい革命を促進し、激励するものこそ、世界の労働者の国際主義であることを、我々は確認する。(『海つばめ』1137号「飛耳長目」より)
菅、ますます資本の陣営にすりよる
「成長戦略」を転換、法人税減税へ
2010年12月19日
菅直人がますますブルジョア的本性を暴露し、ただ資本の陣営に依拠して政権の命脈を保ち、継続しようとし始めています。彼は労働者の支持を失えば失うほど、ますますブルジョアに接近し、その当てのない支援、応援を期待するしかないのです。彼は消費税増税の必要をわめきながら、今や法人税の五%削減に踏み切りました。それが日本経済の「成長」につながるから、というのです(もちろん、この減税が投資につながるという保証はありません、というのは、日本の資本が投資をしないのは、資本蓄積の欠如から来ているのではないからです)。しかしこれまで菅は、増税を謳い、それを「雇用や医療や社会保障に使い、『内需』を拡大すれば、経済成長が可能になる」と豪語して来たのではなかったでしょうか。それなのに、今ではころっと変わって、需要(消費需要)拡大ではなく、減税や企業投資や外国市場(輸出)こそが「成長」をもたらすというのですから、これまで言って来たことはどこへ捨てたのでしょうか。そしてブルジョアの理論的立場からするなら、菅の言うことはその通りであって、事実日本の大企業は一貫して、法人税が高過ぎて、国際的競争力に負ける、と言い続け、そんなところに自らの頽廃の責任を転嫁するのです。菅直人は資本の陣営のこうした要求に安易に屈服したのです。菅はただ資本の陣営に身を寄せ、彼らの支持を頼って生き延びようとしています。彼においては、「仮に支持率が1%になってもやめない」という言葉に象徴されるように、ただ権力の座に居座り続けることが自己目的と化しているのです。そして彼らは自民党との「大連合」まで策すようになって行くのですが、もしそんなことになれば、日本もまた中国と同様の「一党独裁」の半ば専制的国家に転落するということでしかありません。かくして、一九九〇年代に始まった「政治改革」は今やその最後の言葉を発しようというのですが、それを演出しようとするのが、かつて反自民を掲げて、いんちき「政治改革」をやった菅や小沢たちだというのですから、これ以上の皮肉はありません。今やブルジョア民主主義は死につつあるといって決して言い過ぎではありません。
仙谷官房長官について
“陰の総理”とも呼ばれ
2010年12月12日
★仙谷由人が注目を浴びている。“陰の総理”とも呼ばれ、今では菅内閣の中で「肩で風を切る」勢いである。それ故に風当たりも強く、とりわけ反動たちから毛虫のように嫌われ、集中砲火をあび、国会でも問責決議を突き付けられた★毀誉褒貶(きよほうへん)も激しく、恫喝や侮辱的な発言さえ平気でやるような傲慢で、性悪な人間、「権力志向の強い」人間と言われるかと思うと、反対に、けっこうナイーブでシャイな人間で、飾り気がなく、権力におもねるような人間が嫌い、親分肌で、やたらにおごりたい性格だ、といった“好意的な”証言も多い★尖閣諸島問題などの対応を見ると、さすがにもと“左翼”だけあって、反動派の硬直した国家主義や機械論を嫌い、柔軟で、歴史や社会についてもまともで健全な――自民党の反動派や民主党のプチブルたちと比べて――理解を持っているように見える。軍隊は「暴力装置」という発言は、マクス・ウェーバーから学んだのだと言われているが、案外レーニンから借りてきたのかもしれない★彼は、鳩山内閣の大臣になったとき、「目線をたえず低く据えて、まず虚心坦懐に見てみることが、仕事の上で一番大事だ」と官僚に語っている。また「上から目線をやめて国民目線で語ろう」とか、「間違いを認め、率直に謝ることから始めよう」とも言っている。まあ、悪い発言ではない★いずれにせよ、菅内閣からこの“赤い”官房長官がいなくなったら寂しくなり、この内閣が持たないという以前に、何の面白みも重みもない、平凡無力な内閣、ただ早くどこかへ消えてほしいだけの内閣になることだけは確かだ。(鵬) 『海つばめ』1136号「飛耳長目」より
山本一太、世耕弘成、稲田朋美ら自民党議員を糾弾せよ
軍部専制国家、ファシズム国家を煽動する悪党たち
2010年11月29日
最近の国会議論を聞いていると、その頽廃ぶりに恐怖すらおぼえます。内容のある、いくらかでもまじめな議論の場ではなく、世耕とか山本といった、虚名を売りたいだけの、ろくでもない議員たちが、大声を上げるだけの空虚な場になりさがっているのです。
実際、彼らの発言は軍国主義とファシズムを煽動しているも同様な、詭弁やすり替えやごまかしに充ちみちた、卑しいものであって、そんなものが堂々と国会で横行すること自体、国会と民主主義の衰退と真空化を暴露する以外の何ものでもありません。
彼らは、自衛隊の内部で、自衛隊員に向かって、「航友会」(荻野光男会長)――軍国主義と反動思想にこり固まった団体――の幹部が、菅内閣批判を行ったことに対し、菅内閣(防衛庁)が、その自粛を指示したことを攻撃するのですが、それは事実上、すでにシビリアンコントロール(“文民統制”)の原則を否定し、再び1945年までの軍部独裁のファシズム国家を招き寄せようという、危険な策動にまで達しています。こんな煽動が国会の場で公然と叫ばれていることに、労働者は重大な危機意識を抱くべきです(しかも、事実上ナショナリズムに転向した共産党は、どんな反撃もしないし、やろうともしないのです)。
要するに、彼らは事実上、反動派や軍国主義者が軍隊内で、軍人に向けて、どんな政治的で――例えば、現政府に反対するような――、ファシズム的でさえある発言や煽動をしてもいいし、それこそが民主主義である、といい張るのです。
彼らが、軍国主義者や反動派に対する、シビリアンコントロールに従えという要求に対して、憲法にある「言論の自由」とか、「検閲の禁止」とかを持ち出すことは全くのお笑いです、というのは、問題になっているのは、国民一般の「言論の自由」といったことではなく、軍隊という、一面ではきわめて危険な“暴力装置”に関することであり――それがかつての日本の軍部のように独走するのではなく――、政府つまり国家の正式の代表機関の統制に服さなくてはならないという、民主主義国家として当然のありように関するこること、つまりシビリアンコントロールの問題だからです。これは民主主義の基本的で、重要な内容をなしているのであって、このことを否定したり、なおざりにしたとき、国家がどんなとんでもない方向に暴走し、国民を不幸と悲劇のどん底に陥れたかは枚挙にいとまもないほどです。
1945年までの日本を持ち出すまでもなく、中国や北朝鮮の国民が今軍事独裁の専制国家のもとでどんなに苦境に陥り、苦悩しているかを目前にしつつ(あるいはミャンマーなど多くの実例を見つつ)、なおかつ、軍事独裁国家を策動し、しかもそうした策動を、「民主主義の擁護」といったヴェールで蔽い隠すとは、彼らは何という卑しい連中でしょうか。
彼らは、航友会会長の挨拶は、民主党政府への誹謗ではなく、「正当な批判であったから、例えどこで行われようと問題ではない」、などと強弁し、詭弁を弄しています。つまり云っていることが正当なら、シビリアンコントロールに反しても問題ないというのですが、もし教員たちが、日の丸・君が代の学校内での強制に反対して、全く正当な発言や、それに反対する主張をしたら、彼らははたして同じ理屈を持ち出して、それを擁護するのでしょうか。
しかも、会長は実際に、「まだ自民党政権の内閣の方がまともだった。現政権の顔ぶれは左翼ばかりだ。みんなで一刻も早く菅政権をぶっつぶして、昔の自民党政権に戻しましょう」と発言したのですが、こんなものは卑しい中傷であり、煽動でなくて何でしょうか。自衛隊の中で、また自衛隊員に向けて、こんな発言が許されるなら、シビリアンコントロールという民主主義の原則がないも同然なのは余りに明らかです。
自民党の悪党議員たちや反動どもは、シビリアンコントロールという重大な原則を公然と踏みにじる暴挙に対する規制を、まるで一般的に、民主党政府を批判してはならないといっている、言論の自由、表現の自由を否定している、などとすり替えて、厚顔無恥な開き直りに出ています。山本や世耕らは、国会の代表質問などで、自衛隊員はインターネットで、自由に色々な見解を、政府批判の意見を見るな、ということか、などとばかげた屁理屈まで持ち出しました。誰も、自衛隊員が自由にテレビを見たり、本を読んだりすることを問題していないことは分かり切ったことなのに、こんなレベルの低い、すり替え議論に熱中したのです。こうした連中の人間的なレベルが分かろうと言うものです。彼らは派手な国家主義や自衛隊の擁護や、民族主義的金切り声をあげれば、次の選挙でも勝てるということだけを期待して、“極端な”発言をするのですが、自分が国民に対し、また歴史に対して、どんな大きな罪を犯しているのかを知らないのです。彼らは自分の言動に決して責任を取れないでしょうし、また取らないのです(かつて、15年戦争、アジア太平洋戦争を煽動し、指導した連中がそうだったように!)。
ファシズムを正当化し、擁護するも同然の行為であって、彼らは将来の歴史に大きな責任を負わなくてはならないでしょう。彼らの策動を許してはなりません、というのは、それは日本の将来がファシズムと軍国主義に向かって動いていくのを黙認するのと同じだからです。
まかり通る反動策動 危険な“ファシズム”の匂い
海上保安官を逮捕せず 自衛隊への反動派の扇動
2010年11月19日
尖閣諸島問題のビデオを流出した海上保安官が逮捕されないことになりました。反動世論は拍手喝采し、国家の法律に違反し、公務員としての規律も投げ捨てた、この公務員とその行為を賛美し、ほめたたえています。しかし彼らは、そんなことをしていいものでしょうか。これまで、彼らは公務員がほんのわずかでも国家規律や法律に違反すると、目くじらを立てて攻撃し、容赦なく罰則を適用し、追いつめてきました。我々はかつて非核三原則に関する日米密約の存在をスクープし、公表したために、国家公務員法違反で告発され、最高裁判所によって有罪を宣告された、毎日新聞の西山記者のことを思い出さないでしょうか。彼は国家公務員でさえなかったのに、公務員である“ガールフレンド”から密約の資料を得たということで、全く筋違いの国家公務員法違反を問われたのです。反動世論はなぜこの時、西山の擁護に立たなかったのでしょうか。今、「国民が知るべき権利のある情報の公開」は重要であって、海上保安官の罪は問えない、というのであれば、西山が国家公務員法に違反したというなら、今回の海上保安官も全く同様であって、今回は無罪であり、西山は有罪だというなら、それは“法の前での平等”というブルジョア民主主義を否定するものであり、国家が“法治国家”として自らを否定することである、という“由々しき”問題であることを、反動世論は果たして自覚しているでしょうか。反動世論は、つまり“無法”の状態を奨励するのであり、“無政府主義”をたたえるのですが、労働者は彼らこそがまずこうした“無法”状態を叫び、わめいたことを決して忘れないし、忘れるべきではないのです。菅内閣がビデオの公開をしようとしなかった理由は、今なおはっきりしていません、というのは、ビデオの全体はまだ国民に公開されていないからです。今“公開”されている──つまり“流失”している──部分は、ほんの一部であって、全体に何が写っているのかまだ知り得ないからです。非公開は、菅内閣が中国に配慮したから、ということですが、反対に、海上保安庁の“過剰な”警備や取り締りの行為が写っている可能性もあり、それが中国を“刺激する”のを恐れたから、という可能性なきにしもあらず、です。そして海上保安庁の“職員”たちが、つまり海上の警察官たちが、尖閣諸島は日本の領海という観念にこり固まっているなら、いくらでも“過剰”警備に走るということはあり得るからです、あるいはそれは必然でさえあります(我々は、労働者は、陸の警察官の、権力を傘に着た、同様な横暴で暴力的振る舞いをいくらでも経験しています)。菅内閣が中国に配慮して公開しなかったなどというのは、考えてみればおかしな面があります。中国が軟化してきたから、そんな中国を刺激しないため、と言いますが、しかし事実を公開することが中国を刺激すると考えたとするなら、余りに愚かすぎます。そしてもし仮に、菅内閣が、“外交上”、今公開して「ことを荒立てることはない」と判断したのだとしても、どうして反動世論は、それを一つの賢明な判断として評価しないのでしょうか。こうしたことは、日常的な社会関係として、いくらでもあるし、あり得るからです。一つの美徳としてさえ評価されてもいいくらいです、というのは、これらかも友好の関係を築いていくべき隣国・中国に対する、奥床しい配慮や思いやり、礼儀やエチケットという“道徳”でさえあり得るからです(“道徳教育”に熱心な反動たちは、自分たちの余りに傲慢で、反“道徳的”立場を、とくと反省して見るべきではないでしょうか)。我々は、今回の海上保安官を英雄視し、彼の行為をたたえる反動世論や、司法の“寛大な”対応の中に、一九三二年の五一五事件の被告たち──海軍の軍人たち──や、彼らのクーデタ行為に対する、同様な反応や扱いにも似た、危険な要素を見ないわけには行きません。軍人の非合法な武力行為に対する、国家の“寛大な”扱い──“世論”を配慮した?!──は、四年後の二月二六日、無罪を信じて(というのは、四年前も事実上、無罪扱いだったから、英雄扱いされたから)、より大規模に軍人たちがクーデタに決起する一つのきっかけや出発点になったのです。そしてこの2・26事件は、日本を徹底した軍国主義国家、軍部独裁のファシズム国家へと押しやり、太平洋戦争へとつながって行ったのです。菅内閣が全く愚劣な政府であるということを述べ立てて、“不法な”行為、法に触れる行為までも正当化するブルジョア世論、反動世論は矛盾だらけ、でたらめそのものであり、自ら、体制の“合法性”や“秩序”を否定し、せっせと掘り崩しています。労働者は彼らがそんなことを平気でやっていることを、しっかり目に刻んでおくことにしようではありませんか。
菅内閣は、入間基地の航空祭で、「航友会」の会長が、尖閣諸島事件について語り、「民主党政権は早くつぶれて欲しい」と発言しました。これに対し北沢防衛相は「激怒」し、防衛次官通達を出して、参加団体は「政治的行為」と誤解されるようなことをしないように要請し、そのような行為をする場合には参加させないという指示をしました。これは、軍隊の“政治的中立”や“シビリアンコントロール”の原則からして当然のものであり、これまで自民党政権や反動たちが左翼に対して用いてきた理屈そのものであって、当然自民党や反動たちも賛成してしかるべきものでした。ところが自民党(衛藤晟一ら)や反動たちは一斉にこの防衛次官通達に反発して、「言論統制だ」とか、「憲法に保証された表現の自由に反するゆゆしき事態」だとか、大騒ぎしています。全くあきれた、厚かましい強弁であり、こじつけです。彼ら自身、共産党などには自衛隊員の前で、どんな批判をするのも「軍隊の中立性、非政治性」を犯すとして、さんざんにわめいてきたというのに、反動派、国家主義者の云うことは矛盾もはなはだしいものです。もし言論の自由とか、憲法の表現の自由を言うなら、自衛隊の中でどんな宣伝も扇動も許してから言うべきであって、自分の都合だけで、憲法などを持ち出すのは彼らの卑しさ、下劣さを暴露するだけです。もし憲法などを持ち出すなら、憲法は軍隊など許していないということを、彼らはまず思い出すべきでしょう。そしてまた、反動的な一五年戦争の反省から、軍隊は「政治的に中立」であり、また「シビリアンコントロール」の原則は、戦後の軍隊においては何よりも重要である、ということは確認されてきたことであって、それを犯し、無にするような行動を、奇弁を用いて弁護し、推奨するなど許されざること、一種の犯罪行為ですが、いまや自民党や反動どもは、戦前(一九四五年の敗戦のときまで)、多くの悪党たちが犯した極悪の犯罪行為をまたまた繰り返そうというのです。
さらに、菅内閣の仙谷官房長官が、軍隊は「暴力装置」と発言して、取り消し(仙谷は「実力組織」とか言い直しました)、また自衛隊に陳謝しましたが、もちろん言い直すことも、謝罪することも必要なかった、というのは、軍隊は「暴力装置」であり、まただからこそ存在意義があるのは自明だからです。「暴力装置」を「実力組織」と言い変えたとしても、軍隊の本質が変わるわけではありません。衛藤等は、「実力組織」とは実際に、「暴力装置」ではない、とでも思っているのでしょうか。彼らは、軍隊は外国と戦うためのもの、国家を防衛するものだから「暴力装置」とは違うと言いたいのでしょうが、しかし「暴力」といい、「実力」といい、内実が違うわけでは全くありません。彼らが「実力組織」という言い方にも異議を唱え、撤回を要求するなら一貫していますが、簡単に、「実力組織」という仙谷の言い直しに満足してしまっています。「実力」の内容が「暴力装置」なのですから、彼らは根底的に矛盾していると云うしかありません。そして軍隊が、支配階級の究極の拠り所として、危機の時代には外国の軍隊に対してではなく、自国の労働者人民に向けられた「暴力装置」として機能し、存在したことは幾度となくあるのであって、だから労働者にとっては、軍隊は支配階級の「暴力装置」以外ではないのです。敗戦までの日本の軍隊もまた、国内の労働者人民の闘いを押しつぶす最後の拠り所として存在したし(今も根本は同じで、六〇年安保闘争のときも(一九五九年一一月二七日)、国会構内を占拠した労働者人民の弾圧のために、岸内閣は「自衛隊の出動」を検討しました)、またその「実力」が外国に向けられたといっても、アジアの諸国と民衆を抑圧するための、あるいはアメリカと世界とりわけ太平洋地域の覇権を争うための「暴力装置」以外ではなかったのですから、外部に向けられているから「暴力装置」などと呼べない、というもことでは全くありません。仙谷もまるで根性がなく、いったんは「軍隊は暴力装置」だと啖呵を切っておきながら、自民党や反動に騒がれるとたちまち「謝罪」してしまうのだから情けない。“赤い”官房長官なら、もう少しそれらしく振る舞ったらどうでしょう。
領土問題で「血が騒ぐ」という志位
“ナショナリスト”を売り込む共産党の堕落
2010年11月12日
共産党は今、マスコミから民主党、自民党、それに右翼にまでモテモテで悦に入っています。というのは、“領土問題”での共産党の態度や発言が、反動勢力に大歓迎で、彼らに共産党が大いに“見直され”、高く評価されているからです。
七日の「赤旗祭り」には、右翼の宣伝車がいつもよりまるで少なかったのですが、「共産党関係者」の発言によれば、「領土問題で日本政府顔負けの主張をする党の姿勢に“共感”したのではないか」ということだそうです(9日、毎日新聞)。この毎日の記事によると、志位は「領土問題だと血が騒ぐ」そうで、国会でも、党の演説でも、政府の“弱腰”を非難するにも力が入るのもうなずかれます。国会では、共産党の議員が前原外相に向かって、政府はこれまで中国や「国際社会」に対し、尖閣諸島の「領有権に明確な根拠がある」ことをしっかり主張してきたのか、それが足りないから、今回のような事件がおこるのだとただして、前原から「反省している」と言質を取って有頂天になっています。つまり民主党内の札付きの国家主義者で、悪党の前原と狎れ合って大喜びしているのです。マスコミも盛んに、今政府や外務省よりも国家主義的で断固としているのは共産党だと持ち上げますが、それを悦んでいるのですから救いようがありません。尖閣諸島の日本の領有権は、「歴史的にも、法律的にも」明らかだと叫ぶだけですが、その「歴史的」という意味も「法律的」という意味も、まさに「歴史的に」反省されたものではないのですから、マルクス主義的方法や唯物史観など全くどうでもいいのです、そんなものを彼らは全く知らないのです。結局、彼らはブルジョア民族主義、国家主義の大扇動、大キャンペーンの一環を担うにとどまらず、むしろその先頭にたって大騒ぎしているにすぎません。国家主義者に転向し、大張り切りで、反動派と声をそろえて、尖閣諸島も竹島も千島列島も日本のものだと言うことしかできないような連中が、卑しく反動的な民族主義者ではあり得ても、どんな意味でも労働者の国際主義者でないことは明らかです。何をやれというのかと思ったら、共産党が持ち出した「道理のある」主張を中国などに徹底すれば、「領土問題」も解決するというのですから、世界のブルジョア諸国家の“パワーポリテクス”も何もしらない、甘ったるい、幼稚な観念論者でしかありません。ブルジョア陣営や反動派に“評価されて”、浮かれているようでは、共産党のブルジョア的堕落は、行き着くところに行き着いたというべきです。
成果なしの事業仕分け第3弾
必要なのは立法的、行政的措置
2010年11月6日
事業仕分けの第三弾が終了しましたが、その意図するところはほとんど実現せず、代わりに増税への道を開き、またかえって特会に大きな「隠れ借金」があることが暴露されるといった有様でした。民主党は昨年の総選挙の折、16・8兆円もの「埋蔵金」があると断言し、それを原資にバラまき政策を正当化してきましたが、そんなカネはほとんどないばかりか、むしろ何十兆円という借金や「隠れ借金」があるというのですから、民主党政権は直ちに辞職し、総選挙をするしかないことは明らかです。民主党政権は存在の正当性を失ったのです。外為特会の20兆円にしても、円高ドル安で巨額の評価損が生じている現在、取りくずすなど不可能であり、また国債整理基金特会の12兆円の「積立金」も国債償還に当てなくてはならず(この特会に112兆円もの借金があるのに、12兆円を「埋蔵金」などと呼べるわけがありません)、財投特会の22兆円ももうほとんど残っておらず、交付税特会には33・6兆円の銀行などへの借金に加えて、何と34・3兆円もの巨額の「隠れ借金」があることが暴露されてしまい、むしろこうした巨額の「隠れ借金」をどうするかという問題が浮上してしまいました。民主党はまるで、事業仕分けによって「隠れ財源」などはあてにできない、消費税増税を強行する以外ないということを労働者に明らかにし、納得させ、さらには強要するために、今や事業仕分けに熱中しているかです。しかも事業仕分けなどどんな法律によっても根拠づけられていない、政権の勝手なキャンペインに過ぎず、事業仕分けをする連中も恣意的に選ばれた連中でしかなく、また民主党の政治家たちは、すでに族議員として、事業仕分けの場でお互いに争っているのですから何をか言わん、です(農水省や国土交通省の大臣らの発言や行動を見てください)。また官僚を攻撃するなら、大臣たちがさっさと官僚を「指導」し、あるいは「政治主導」を発揮すればいいだけのことです。本来事業仕分けのようなことは、国会で徹底的に議論され、必要なら“立法的な”形で「解決」されるべき課題であって、事業仕分けではあれこれ暴露され、批判されたりしても、何の強制力もなく、実際にはそのまま放置されているばかりなのですから、まるで不真面目で、漫画的です。事業仕分けの茶番が明らかにしたのは、民主党は嘘とペテンによって政権を手に入れただけだと言うこと、即刻政権の座からさって総選挙を実行すべきである、ということだけです。
事業仕分けはパフォーマンス
企業献金復活、武器3原則も骨抜き
2010年10月30日
菅内閣は蓮舫――公のことと、プライベートも区別できないようなお粗末な政治家――を看板に、事業仕分け第三弾(特別会計を対象にしたもの)を派手に行っていますが、実際的な内容や“効果”を重視したものではなく、パフォーマンス優先のことでしかありません。必要なことは、実際的な内容であって、それは断固として、“法制”として、行政として貫徹されることですが、そんな保証はほとんどありません。しかも民主党は、今やマニフェスト違反を公然と犯して、企業献金も復活する、あるいは武器三原則も骨抜きにする、と言うのですから、この政権は反動的なブルジョア的政権そのものです。「自民から資金源を奪うためだ」といった屁理屈も言われていますが、語るに落ちたとはこのことです。
マスコミやインテリの菅内閣に対する批判は一般に低調です――鳩山政権と違って、さしあたり国政選挙もなく、菅を批判しても仕方ないということなのか、あるいは菅が如才なくやっているのでしばらくはお手並み拝見、様子見ということなのか、それとも民主党代表選で、くるくると内閣が変わっては国家の体をなしていないと言って事実上菅の後押しした手前でしょうか。しかしブルジョア世論がどうあろうとも、我々はますますブルジョア的本性を暴露していく菅内閣に対して、さらに断固として、根底的で階級的な批判を貫徹して行くのみです。
始まった「戦争せよ!」という扇動
2010年10月22日
尖閣諸島問題の後、ブルジョア国家主義の煽動が活発になっていますが、最近、中国との武力衝突、つまり尖閣諸島を巡って「小さな戦争」を辞すべきではない、といった煽動を大商業新聞までもが公然とやるまでになっています。産経新聞は、21日、入江隆則の口を借りて、中国の軍艦が日本の領海に入ってくるなら、「これは明らかに、中国による日本への『侵略』であるから、日本の海保と自衛隊も全力をあげて攻撃せざるを得まい」、武力的な対決を回避すべきではない、自衛隊が勝つだろうし、仮に危うくなったとしても、アメリカの軍事力が背後にある、「戦うべきときに戦わない国は、滅亡する。海保と自衛隊の奮起を望んでやまない」などと絶叫しています。こうした「小さい戦争」は日本を「覚醒させる」ものであって、むしろ望ましいものである、云々(このばかな人間は、尖閣諸島をめぐる軍事紛争が起こるなら、それは明治維新の時期の、薩英戦争や馬関戦争と同様な歴史的意義を持つかに言いはやしています)。
しかし労働者階級は、尖閣諸島を巡る紛争が、反動派が期待するように仮に勃発するなら、それはどちらの側から見ても反動的な帝国主義的性格の紛争であって、決して正当化したり、支持したりすることのできないものであると明瞭に語り、また断固としてその戦争に反対して闘い抜くことを確認し、自らの国際主義的立場を明らかにしなくてはなりません。
尖閣諸島に波高し
国家エゴイズムを粉砕せよ
2010年10月16日
尖閣諸島問題が勃発するや、菅内閣はみっともない動揺と日和見主義と右往左往を、つまり“強硬姿勢”をちらつかせたと思うと、次の瞬間には“軟弱外交”に走り、最後にはまたまた強気の空いばりに戻るといった、みっともない周章狼狽を繰り返し、どんな原則も一貫性も持ち合わせていないことを暴露した。
「粛々と国内の法律にしたがってやる」と宣言しながら、中国が“強硬姿勢”で臨んでくると、たちまち日和見主義に陥り、今口にしたばかりの原則を投げ捨てて、“超法規的に”中国の船長を釈放したばかりではない、その原則に背いた釈放の責任を検察に転嫁するなど、菅内閣は卑怯で愚劣そのものの本性をさらけ出した。
前原は、自分が原則を捨てたことをごまかしつつ、ことの決着がつき、中国が態度をいくらかでも軟化し始めると、途端にまた空いばりに逆戻りして、自分は原則に立って“強硬外交”を貫いたかに装うのだから、この男も相当のワルであり、卑劣漢である。「正義」が最初から最後まで日本にあったというなら、堂々と「法律に従って」船長の起訴にまで持って行けばよかったのだ。“超法規的に”釈放しておいて、今さら一貫して毅然としていたも何もない。
実際には、近代における領土問題には、「正義」などもともと存在しない、というのは、尖閣諸島にしろ、竹島にしろ、“領有権”云々は「どちらが先にツバを付けたか」といった次元の話でしかないからだ。尖閣諸島には、中国よりも日本が「先にツバを付けた」――というのは、日本が中国よりも歴史的に先行して、“国民国家”として出現し得たから――ということにすぎず、そんなものを「固有の領土」と呼ぶのは最初から間違っている。“領土”だとか、“領有権”といったところで、歴史的、実際的に見れば、せいぜいブルジョア国家の仮の“領土”、便宜上の“領有権”といったくらいのものにすぎない。
せめてそのように考え、位置付けることができるなら、そしてその上で、相手国と話し合うことができるなら、「領土問題」といったものの大部分は解消され、なくなってしまうだろう。
それとも、ブルジョアの諸君は、自分たちの時代もまた銘々が“国益”をわめき、国家的利己主義と野蛮と傲慢と武力のみが支配する、殺伐とした時代であったと、後世に誇示したいのであろうか。
しかし諸君がまたまた戦争などをおっ始め、労働者人民に、かつてアジア太平洋戦争(十五年戦争)でやったような、耐え難い災厄と犠牲と惨禍と不幸を強い、押し付けるというなら、今度こそ労働者人民はブルジョアや国家主義の反動たちを決して許さないだろう。
金王朝の世襲を笑えるか
天皇制も125代の世襲だ
2010年10月8日
尖閣諸島問題における菅内閣のやり口ほどに姑息で、この内閣がまるでつまらない俗悪内閣であることを教えるものはない。菅は何を血迷ったのか、中国船長の釈放を現地の検察の責任に転嫁し、自らは関与していないと言うのである。そんなことがあり得ないことが火を見るよりも明らかだと言うのにである。「政治主導」をあんなにも謳い、船長の逮捕の時にはまさに「政治主導」を発揮して、「強硬姿勢」に出ながら、具合が悪くなると逃げてしまい、「弱腰外交」の非難を免れようとくだらない術策にふけるのだから、その卑怯な卑しさは傑出している。民主党が民主党なら共産党も共産党である。この党は今では、国家主義の最も忠実な旗手として登場し、尖閣諸島は「日本の固有の領土」であり、それは歴史的にも法律的にも明らかだとわめく以外何もしていない(この愚昧な党は、国際的な“法律的”関係などあってなきがごとし、ということさえ知っていないのである)。しかも1895年以来、75年間、中国が領有権を主張していないなどと言うに至っては、歴史のことを何も理解していないことも暴露している。この間、中国はほとんどまともな国家として存在していなかったことを、この新国家主義者たちは都合よく、ころっと忘れることができるのだ。この党はすでに仙石以下のブルジョア的で、醜悪な党に成り下がっている。
また最近、北朝鮮の「世襲」について、マスコミなどが言いはやしていることほどにインチキで、偽善的なことはない。三代の世襲が途方もないことだと言うのだが、日本の125代の「世襲」について一言も「おかしい」と言わないのだから、北朝鮮よりも日本の支配階級とそのマスコミの方がよほど“いかれている”と言うしかない。日本の天皇制は「象徴天皇制」であって同列に論じられないとでも思っているのだろうか。ばかげた、甘い幻想であって、日本の象徴天皇制もまた立派に政治的であり、政治的に機能していることは日々我々が経験していることであり(つい最近も、「国民の自衛官の表彰式」なるものに皇室が出て、大いにその役割を果たしている)、余りに明らかである。象徴天皇制だから世襲でもいいというなら、憲法を改正して、天皇制の条文を一切削除してから、日本の天皇制と北朝鮮の金体制の違いについて語るべきであろう。北朝鮮の「世襲」が反動的で、時代錯誤だというなら、日本の天皇制もまた同様である(125代も続いているとするなら、一層悪い)。そんな簡単なことも認識できないとするなら、「朝日」などは全く愚かな(“大愚”)新聞だということになる。反動たちは、金体制は共産主義というよりファッシズム体制と変わらないと言いはやすが(産経新聞5日、趙甲済)、敗戦までの日本の体制はファシズム体制であり、天皇は軍国主義の象徴だったのだから、金体制と大差ない。
|