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【2011,7,30】
混乱し、破産ごまかす朝日新聞――菅に辞任を求めつつ「反原発」の旗手になれと
【2011,7,23】
今こそ菅内閣打倒の旗を高く掲げよ――民主党政権はどんな正当性も失った
【2011,7,15】
不毛な菅の個人的権力――ブルジョア政治支配は根底から腐る
【2011,7,8】
松本復興大臣の辞任――「部落解放運動の父」・治一郎の孫の醜態
【2011,6,28】
なお延命を図る菅直人――マスコミや共産党は応援をやめよ
【2011,6,17】
「朝日」が菅退陣を言い出した――民主党応援団として「万策尽きた」?
【2011,6,11】
市民主義者の空虚さと反動性――菅は権力に執着するばかり
【2011,6,3】
全国単一比例区制で選挙をやりなおせ――菅不信任案の否決 今の国会は茶番劇を演じるだけ
【2011,5,28】
菅は原発に対しても場当たりに終始――原発の「危険性」と温暖化ガスの「危険性」
【2011,5,21】
東電への奇妙な批判――原発事故は「日本人の気持ちを打ち砕いた」?
【2011,5,14】
菅内閣は「賠償」問題でもつまずき、無能を暴露――巨大生産力はすでに資本の手に余る「危険な」存在に
【2011,5,7】
浜岡原発と菅の個人プレー――どこまで行っても菅の関心は保身と権力執着
【2011,4,30】
「復興財源」さえ調達できず――無能無力な菅内閣をお払い箱に
【2011,4,22】
災害は“政治的、社会的”災害だ――菅内閣だったのは日本の不幸
【2011,4,15】
「安全神話」と反原発主義――対立しつつ実は補完し合う
【2011,4,8】
原発事故は人災であり、その責任は自民、民主の政治家や政府、官僚、東電らの原発資本にこそある!
【2011,4,1】
長期化する福島原発危機――東電と菅政権の初動での愚昧さ
【2011,3,25】
天皇の有難くない“お言葉”――財産をすべて投げ出すくらいの意思はないのか
【2011,3,17】
原発危機は人災だ!――後手後手の菅内閣と東電
【2011,3,11】
“日本民主革命”のアッピール――一院制、全国比例代表制、二百議席、三年任期の実現を
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混乱し、破産ごまかす朝日新聞
菅に辞任を求めつつ「反原発」の旗手になれと
2011年7月30日

  朝日新聞再考。朝日新聞はますます混乱し、とうとう「菅よ、ゲリラに戻れ」と呼びかけていますが(25日、社説)、自分の言っていることが矛盾そのもので、これまで朝日新聞が言ってきたことや、朝日新聞の基本的な立場と対立してしまっていることに少しも気がついていません。社説の立場は客観的には菅に辞任を迫っているのですが、それをはっきり言うことも要求することもできず――というのは、これまで菅を原発反対の立場故に支持してきたので――、首相でいるよりは菅の“本来の立場“である――と朝日新聞が思い込んでいる――“市民”の立場に「戻って」、「ゲリラ戦」を開始せよ、それの方が菅にはふさわしいと言っています。  明らかに朝日新聞はすり替えをやって、これまでの自らの立場の破産をごまかそうとしています。朝日新聞の立場からすれば、問題は菅直人という人間の個人的な生き方の問題ではなく、原発の廃止であり、「脱原発」であったはずなのに――そしてまさにそれ故に、菅直人を支持してきたはずなのに――、いつの間にか、菅直人個人としてどう行動するか、生きるかといったことになっているのです。菅が権力をほおり出せば、朝日新聞の悲願となった「脱原発」が解決するとか、その課題にいくらかでも近づくというなら、朝日新聞の主張も分からないこともありませんが、そんな展望はないばかりか、菅が首相の座を放棄して、朝日新聞の言う、若い、「怨念にとらわれない世代」に渡したからと言って、彼らが菅と同様に、口先だけでも「脱原発」を謳うといった保証など何もないことは、菅のあとを襲おうと身構えている「若い」民主党の面々を見れば一目瞭然です。  問題は菅が個人としてどう生きるかと言ったことではありません、そんなことは「脱原発」の課題として菅が首相として何をやるのか、やれるのかということとは全く別です。問題は菅の「脱原発」の立場の評価なのです。朝日新聞はこれまで、菅のこの立場が本気であり、本物であると信じ、それ故に首相としての菅を支持し、後押ししてきたのですから、今さら首相をやめよも何もあったものではありません。首相をやめた菅に、どんな実際的な力や権威が――「脱原発」について、あるいは他の問題についても――残っているというのでしょうか、またどんな連中がそんな菅を支持すると言うのでしょうか。菅は“市民主義者”の多くからさえあきれられ、見捨てられているのです。朝日新聞は首相としての菅を支持することも擁護することもできなくなって、菅を見捨てようとするのですが、それでもなお、反原発のチャンピオンとして菅を持ち上げ、自らの実践的、思想的な破綻を隠そうとするのです。卑しい限りです。  また例の「原爆・原発」の連載でも、アメリカが日本に原発を「押しつけた」のは、核エネルギーの平和利用を謳って、日本人の反核エネルギーの意識を一掃するための陰謀だったかの恣意的で、愚劣な論理、共産党などが盛んに振りまいている混沌とした理屈を盛んに繰り返しています(26日号など)。まさにお笑いです。今こそ、敗戦後のブルジョア平和主義の大キャンペーンにも匹敵する、マスコミの“国民総愚民化の”策動(あるいは“一億総懺悔”の策動)を断固として粉砕していく必要があります。


今こそ菅内閣打倒の旗を高く掲げよ
民主党政権はどんな正当性も失った
2011年7月23日

  民主党政権は、子育て支援政策に「所得制限」を導入することに同意し、野党に「財源の見通しが甘かった」と謝罪しました。しかし政権獲得後二年にして、ようやくそんな当たり前の立場にたどりついたのですから、この党の愚劣さにはあきれます。しかも、自民党などの圧力によってようやくそんなことをやると云うのですから、民主党が自民党と似たり寄ったりのお粗末政党にすぎないことを自ら白状する様なものです。  しかもこのマニフェスト修正はまるで些細なもので、例えば、世帯主の手取り年収が一千万円以上の場合に、一律たった九千円に減額するだけといったもの。ふざけているとしか思われませんが、「子供を親の所得で区別しないという民主党の理念は守られた」と云って自画自賛しているのですから、この党に救いはありません。一体なんのための「所得制限」だというのでしょうか。  一方では、「所得制限」路線に転向し、マニフェストの立場を変えたに見せかけて自民党などの譲歩を得ようとしながら、他方では、その「所得制限」を単なる見せかけ、形だけのごまかしにしようとするのですから、いい加減なもの、不真面目なものにしかならないのは当然です。そして、民主党の原則は守られたと開き直るのですから、労働者はこんな党をほんのわずかでも信用できないのは余りに明らかです。  子育て支援だけでなく、高速道路料金の無料化、ガソリン税、十七兆円も無駄な財源が隠れていると豪語した財政再建などの問題のどれ一つとってもすでに破綻と公約違反は明らかで、民主党に政権に居座り続ける資格も正当性もないのは自明です。マニフェストがそもそも、本気で実行する政策ではなく、ただ国民を幻想で釣り、ペテンにかけてでも政権をかすめ取り、盗みとる手段にすぎなかったのですから、こんな卑しい党が政権についた途端から破綻の道を歩み始めるのは避けられませんでした。  こんな党を選挙で選んだことが厳しく反省され、またこんな愚劣な党しか選ぶことが出来なかったような小選挙区制などの制度は直ちに廃止され、また「政権交代」等をアジって民主党を政権に押し上げた朝日新聞などのえせマスコミ、腐れインテリらは断固として糾弾され、一掃されなくてはなりません。  何よりも、民主党は直ちに政権の座から去るべきです、あるいは自ら去らないなら、労働者人民の実力闘争で打倒し、一掃すべきです、というのは、民主党にはすでに政権を担っていくどんな正当性もないからであり、しかも民主党は、菅政権を見ても居座りを策しているだけだからです。  奇妙なのは朝日など、民主党の応援団の役割を果たしてきたマスコミです。朝日は菅内閣をいまだ支持しながら、「代表選への論戦を始めよ」とアジり始めています(二十三日、社説など)。「菅内閣降ろしに時間と力を使うな」と云いながら、菅内閣を追放した後の「代表選に進め、その準備をやれ」と云うのは矛盾も甚だしいのですが、そんなことも分からないまでに混乱しています。朝日は菅を、民主党を支持していいのか、それにあいそをつかすべきかで右往左往するだけです。えせ進歩的なマスコミの破産はすっかり暴露されてしまいました。脱原発をするなら、菅を支持してもいいかに云い始めていますが論外です。問題は単に原発のことだけではなく、民主党と菅内閣の政治、政策の全体に関わっているのです。  自民党も民主党もすでにとことん破綻し、一日といえども政権の座においておくことはできません、というのは、それが労働者にとって恐るべき災厄につながるからであり、すでにつながっているからです。そしてこんな政党ばかりがはびこるような民主主義とか選挙(小選挙区制など)とかはインチキであり、少しも民主主義ではなく、即時に決定的な変革が実行されるべきです。しかし民主党と自民党といった、二大政党ならぬ、二“大愚”政党が自ら退陣するとか、自ら改革をするとかいうことは決してありません。  今こそ、労働者自身の政権の樹立こそが必要であり、要請されているのです。そのためには、労働者の本当の政党が組織され、闘いを開始する必要があるのです。


不毛な菅の個人的権力
ブルジョア政治支配は根底から腐る
2011年7月15日

 菅内閣の政治は、民主党の政治でなくなっただけでなく、菅内閣の政治でさえなくなり、ますます菅個人の政権に転化しつつあり、その結果として、国民全体からの支持だけでなく、民主党の、そして閣僚からの支持さえますます消えてなくなりつつあります。権力が菅の個人的なものになればなるほど、菅が何を言っても、どんな政策を提起しても、もはや誰一人、そんなものをまともなものとして受け取り、信用するはずもありません。不毛な菅の個人的な権力が辛うじて維持されているのも、菅に代わる人間を国会の中に見出すことができないからであり、また議員たちが解散を恐れて菅を首相の座から引きずり下ろす決意さえできないからに過ぎません。ブルジョア議会政治は完全に行き詰まり、頽廃の極致をさらけ出していますが、こうした状況をいかにして打開していったらいいのか、ブルジョア支配階級はその展望を見出すこともできなくなっています。というのは、彼らはすでに1990年代中頃、自民党政治の行き詰まりと頽廃の中で、新たな「改革」の必要性を自覚し、古い体制を一掃して、新しい政治を目指したのですが、しかし小選挙区制や政党助成金に代表される「政治改革」はブルジョア議会政治の健全な復活につながるどころか、単に一層の衰退と袋小路に導いただけでした。労働者階級の政治参加を一層困難にし、腐敗したブルジョア政治家や反動派だけがのさばるような、そんな制度が、ますますブルジョア議会制度を空洞化し、腐らせたのは当然のことでした。今では、議会は国民のごく一部の勢力の意思しか反映されないような、そして国民はつまらない、似たような二つのブルジョア的政党のうちのどれかを選ぶように強要されるような、お粗末で、形骸化したものに堕しています。政治家がろくでもないような連中だけになるのは当然の結果です。こうして、ブルジョアの政治支配は根底から腐り、動揺し、支配階級は統治に対して自信を失い、政治的に解体しつつあります。問題はブルジョアの政治支配が根底から揺らいでいるのに、それに取って代わるべき、労働者階級の本当に階級的な、政治的、組織的な成長や結集が極端に遅れていることです。労働者階級とその闘いのこうした決定的な弱点は早急に克服されなくてはなりませんし、また我々の第一の課題もまた、労働者階級がこの弱点を克服するのを助け、促すことであり、そのために全力をあげることです。ここへ来て、菅は「反原発」を強め、どんなに孤立しても、支持率が下がっても、小泉の先例にならって、反原発選挙をやって政権にしがみつくことを企んでいるかです。これは反原発主義者にとっても、原発推進のブルジョア階級にとっても、ともに大きな痛手になりかねないでしょう。


松本復興大臣の辞任
「部落解放運動の父」・治一郎の孫の醜態
2011年7月8日

 ★民主党の松本龍が大臣に成り上がったかと思ったら、わずか一週間で辞任してしまった。「三月十一日以来、民主党も自民党も公明党も嫌いだ」というから、いくらか気骨や信念がある人間かと思ったが、とんだ思い違いだった★松本が問題発言で騒がれるようになって初めて、松本治一郎の孫と知ってまた驚いた。我々の年代の人間には、祖父治一郎は戦前からの部落解放運動の創始者、最高幹部の一人としていわば伝説上の人であり、戦後、社会党の国会議員として参議院の議長までやり、尊敬おくあたわざるような存在だったからだ★しかし戦後、部落解放運動は目標を見失い、資本の体制の変革を忘れ、経済主義、“物取り主義”に走り、また急進主義を装って観念的な闘争(“糾弾闘争”等々)の日和見主義の邪道に迷い込み、頽廃し、解体して行ったが、そのどんづまりを孫が象徴した、ということか★この孫は、政界有数の資産家で、昨年の所得は七千万を超え、その二年前は八億四千万で国会議員でトップだったというから、解放同盟の活動家が、いかにしてそんな巨大な資産をためこむことができたのか、これもまた解放同盟のブルジョア的堕落と関係しているのか★松本が被災地で暴走した理由ははっきりしない。“地方主義”をあおることで自らの個人的権力を強化しようと策動するボス首長らに対する反発か、それとも延命にのみ腐心し、権力の座に居すわり続けようとする菅に対するいらだちと失望か。いずれにせよ、彼の言動の根底に“義憤”のようなものが仮にあったにせよ、それは個人的な感情の爆発であって、労働者の階級的な怒りや組織的な闘いとは無縁のものである。(『海つばめ』1151号「飛耳長目」より)


なお延命を図る菅直人
マスコミや共産党は応援をやめよ
2011年6月28日

  菅が首相をやめる条件を明らかにするとともに、内閣を改造しました。またようやく、震災後百日もたってから、復興のための原則であるかに、お手盛りの諮問会議、「復興構想会議」による「提言」なるものを持ち出してきました。つまりそんなものに頼ることなくしては、菅は震災についての方向も政策も明らかにすることができないというのですから、「政治主導」も何もあったものではありません。仮に政治主導、官僚主導でないとしても──実際にはすでに、いくらでも官僚主導に堕しているのですが──、つまらないえせインテリ主導でしかありません。  その原則なるものが、「減災」であるというのですから、余りの無内容と愚劣さにあきれるだけです。これまでは「完全に」災害を封じ込めようとしてきたが、「完全」といった観念でやると失敗する、せいぜい「減災」でやればうまく行くというのですから、何を云いたいか、つまらないインテリの、つまらない思い付きの域を出ていません。こんな「原則」を思い付くのに百日も費やして、災害にあった何万、何十万の人々の苦しみと困難を放置してきたのが、民主党と菅内閣の政治であったということです。民主党政治の一掃こそが、災害救済と復興の出発点だということを、まるで自ら明らかにしているようなものです。  災害に対する「原則」など大げさなことを云う必要などありません。「原則」は災害の被害をできるだけ小さくするということであって、「減らす」などといった珍奇な「原則」をあらためて、仰々しく持ち出す必要などどこにあるのでしょうか。菅内閣が被災者の困難や絶望をよそにやっていることほどの無意味なことはない、と云うしかありません。  「提言」の具体的な内容を見ても、震災を天佑であるかに、資本の利益を優先させるとか(農業や漁業を“合理化”すべきだとか云って、企業の利益を露骨に弁護し、被災地の漁民とことさら対立するようなことを始めていますが、しかし被災の人々の救済さえ進んでいないさ中、火事場泥棒のような形で、どさくさに紛れて大急ぎでやるようなことなのか、もっと原則的な形で、やるならちゃんとやるべきではないのか。余りに節度がなさ過ぎます)、消費税増税を企むとか、余計なことばかり考えていて、何が第一義かということさえ忘れているのです。だからこそ、救済だ、復興だと云いながら、その言葉と努力が空回りし、具体的な仕事や政策は遅延し、停滞するのです。菅内閣の責任以外ではありません。  あげくの果ては、二次補正予算、赤字国債法案、そして再生可能エネルギー法案の三つを成立させるなら退陣してもいい、「私の顔をそんなにも見たくない、早くやめさせたいと云うなら、この三つの法案をさっさと成立させたらいい」などと云うに至っては、菅直人という人間が、最低・最悪の政治家でしかないことを暴露する以外ではありません。そもそも三番目の再生可能エネルギー法案の件は、ただ菅が居座るためだけに突然に持ち出したものであって、これを持ち出しておけば、けんけんがくがく議論と対立が続き、政治が混乱して自分の権力維持がさらに続いていくという思惑ですから、菅の卑しさ、厚かましさを教えるだけで、評価すべきことなど何もありません。  ところが朝日や共産党などは、この菅の思惑にたちまちはまり、菅がこの法案を成立させるまでは菅とその内閣の存続、継続を擁護し、支持すべきかの主張を始めるのですから、これらのプチブル的、自由主義的勢力の愚昧さ、無原則と破廉恥さも限度というものがありません。  菅が自分の退陣の条件に持ち出す再生可能エネルギー法案というのは、「自然エネルギー」つまり太陽光発電や風力発電──もちろん、これをマスコミや共産党が「自然エネルギー」などと呼んで、核エネルギーや化石燃料エネルギーなどと区別するのは、彼らの余りに低俗で、非科学的立場を暴露するだけなのですが──の電力をすべて高い価格で国や電力会社が全量買い取るという制度であって、そんな人為的で、労働者人民の負担になるような政策を、その正当性や妥当性さえ、国民的に検討も議論も合意もなされていないものを、菅の退陣との“交換条件”にするなど途方もないことだ、という反省が、まともさが、朝日などのブルジョア・マスコミにもプチブル・共産党にもないのですからあきれるしかありません。  今や、自民党と民主党という“二大愚”政党だけでなく、すべての既成政党も、マスコミも、インテリも、経済界つまりブルジョア勢力も、国家機構も官僚も、さらには地方の政治家や権力者たち(首長たち)も、つまり日本の全体が腐ってしまい、行き詰まってしまったのです。自覚した労働者の団結と資本の支配に反対する決然たる闘いだけが、日本の、人類の未来を切り開いて行くことができることを確認し、今こそマルクス主義同志会のもとに結集すべきときです。


「朝日」が菅退陣を言い出した
民主党応援団として「万策尽きた」?
2011年6月17日

  朝日新聞は、菅に対する不信任案が持ち出されると、それに反対する大キャンペーンを張り巡らせ、大震災からの復興や救済、原発事故の収束問題等々がある中で、政治闘争に明け暮れているのはおかしいと、事実上菅内閣擁護に必死でした。しかし、鳩山とのボス交で早期に退陣すると約束して、民主党内の小沢派や鳩山派を取り込んで不信任を「大差で」否決した菅が、今度は手のひらを返したように居座りを策すのを見て、さすがにあきれたのか、今や菅は退陣すべきだといった論調に移ってきています。菅のあまりの無原則とひどさに、菅と菅内閣を公然と弁護することができなくなったのでしょう。しかし菅内閣を倒すなどは政争であってよくないと叫んできたのですから、菅内閣が続いていくことをこそ、朝日などは喜び、歓迎すべきではないでしょうか。そして、菅内閣を否定しても、破綻していく民主党に新しい内閣を組織する力量がなく、そんな展望が簡単に開けていないのは明らかです。「政権交代」を演出して、民主党に対する幻想を振りまき、その応援団の役割を演じてきた朝日新聞はまさに「万策尽きて」破産し、今やせいぜい「大連立」に望みを託すしかないように見えます。支配的なブルジョア・マスコミの破産と無責任も今や明瞭に、広く暴露されてしまいました。我々の『海つばめ』を中心とした宣伝煽動の意義を確認し、歴史と現在の情勢によって課せられている課題に断固として答えていくことこそ、我々の責務であると自覚すべきです。


市民主義者の空虚さと反動性
菅は権力に執着するばかり
2011年6月11日

 ★菅という政治家は、否、人間とはどういう人間なのか。辞める、辞めないのドタバタ劇や権力への執着ぶりを見ていて、つくづくそう思った。権力が重要なのか、それとも政治的課題や理想が問題なのか。何か本質的なところで転倒している。つまらない権力妄者でしかないなら、橋下や石原と一体どれだけ違うのか★市民活動家から政治家になった人間で一人としてましな奴がいないのは、果たして偶然だろうか。かつて我々は、議員に成り上がって自民党を攻撃し、肩で風を切っていたころの辻元清美も暴露したが、要するに、市民主義者の政治家志向もまたブルジョア政治家たちと同様に、個人的な動機からであるところに問題の根源がある★菅はただ権力のために権力を求めるのだが、それは彼にはどんな原則も理想もなく、資本主義の矛盾や非人間性にどう対決し、改革するかの志もないことの、当然の結果にすぎない。このブルジョア社会において、資本の支配の枠内の政治、資本のための政治を考えるなら、目的を見失い、頽廃するのは一つの必然であって、ほとんど例外がないほどである★浜岡を止めて市民主義者の本性を誇示したかに見えるのだが、しかし彼はただ他の原発を存続させるためにのみ、つまり資本や官僚の意に沿って、浜岡だけを止めると言うのであり、かくして彼の政治がすでにブルジョア迎合に堕しているのを暴露するだけである。そんな浜岡原発停止を、愚昧な朝日のように、どうして美化し、擁護することができるのか★かくして菅は市民主義出の政治家として、市民主義の空虚さと反動性さえも明らかにする象徴として存在するのである。(『海つばめ』1149号「飛耳長目」より)


全国単一比例区制で選挙をやりなおせ
菅不信任案の否決、今の国会は茶番劇を演じるだけ
2011年6月3日

  菅の不信任は否決されましたが、しかし菅内閣の命脈は尽きたも同然、政治的な権威をなくした上に、道徳的な権威さえも吹っ飛んで、菅内閣が持つわけがありません。  菅は不信任可決におびえ、また小沢や鳩山の一派は解散を恐れ、また民主党全体としては、解散、総選挙に打って出る自信、つまり“国民”にここで昂然として「信を問う」自信もなく──というのは、自分たちがすでに労働者人民に、否、“国民”の全体から信用されていないばかりか、嫌悪され始めていることを自覚するから──、そのくせ権力と議員身分に、つまりたまたま手にした特権にしがみつくだけの卑しい連中なのですから、結局は「近いうちにやめる」という約束をさせて、菅内閣を存続させる以外、手はなかったということです。  菅が「復興基本法の成立」と「第二次補正予算の編成」をメドにやめると約束していない、抽象的に「復興にメドがついた」時点ということだなどと強弁するのは詐欺師にも等しいことで、まさに菅の本性を暴露していますが、鳩山が「菅はウソをついている、すぐに辞任する約束だった」などともったいぶるのも笑止千万です、「脅し」のつもりの不信任賛成というばくちが、本当に不信任が通り、解散、総選挙になって、民主党の議員たちが、つまり前回の総選挙でぞろぞろと当選してきた小沢派や鳩山派の“バブル”議員たちが一掃されるのを恐れて菅との汚い取り引きに走っただけだったからです。  「キツネとタヌキの化かし合い」──どちらがキツネで、どちらがタヌキかは知りませんが──にふけりながら、いまさら菅を批判してみたところで、菅と大した違いのない、鳩山のきたならしさがなくなるわけもありません。お互い様、というところです。  実際もし鳩山が、そんなにも菅を退陣に追い込むことが必要だと思ったなら、不信任決議案に賛成すれば済んだことであって、自分の利益のために、それもできなくておいて、いまさら菅に早くやめよも何もありません。鳩山や小沢の菅内閣に対する反対は、“私利”に基づくものであって、“大義”によるものではないことがたちまち暴露されてしまいました。  菅は党内の多くの議員たちを半分詐欺にかけて、しばらく権力の座に居座ることができましたが、そんな権力がいくらかでも長続きすることなどないし、あり得ないでしょう。実際、「復興のメドがついたらやめる」ということは、「復興のメドがつかなければやめない」ということですから、まるで菅内閣はできるだけ早く「復興のメドをつけることはしない、そのために懸命に努力することはしない」と言っているも同然であって、これまでも「復興」のために断固として、迅速に、賢明にやってこれなかった菅政権のもとで、さらに「復興のメド」がつくのが遅れるということを昂然と宣言しているということです。  実際、「復興と社会保障を同時に解決する」などと称して、消費税増税に野心を燃やす菅内閣のもとで、まともな「復興」が進まないのは当然であって、「復興」のためにも、菅内閣を打倒することは必要でさえあったのです。  朝日新聞などは、2年ほど前には、「政権交代」のいんちきキャンペーンを張って民主党を権力の座に押し上げ、鳩山政権を実現させましたが、その愚昧さや“失敗”や“間違い”を反省するどころか、今また、菅政権の応援団を買って出て、震災復興が緊急の課題になっているときに、政争にふけっているときではない、菅政権しかないのだから代えるなどもってのほかだ、場当たり的で、無能だがやらせるしかない、などと懸命に美化し、この期に及んでもなお応援の旗を振り続けています。いくらかでも“自由主義的な”マスコミの堕落、頽廃の象徴です。  菅政権のもとでは、「復興」さえも進まないから、その展望さえも描けないから、この政権を追いやるしかないのです。それに代わるものがあるのか、といったことはまた別の話です。そもそも「小選挙区制」だ、「二大政党制」だといって、自民党と民主党といった、ろくでもない政党だけしか存在し得ないような、えせ“民主主義”の体制をでっち上げてきたのは誰の責任でしょうか。  国の政治に責任を担えるような政治家や政党がどんどん国会に進出することが必要だというなら、そういう民主主義制度、議会制度、選挙制度を実現してから言うべきです。民主党のような“でっちあげ”政党、“寄せ集め”政党、権力願望以外、どんな党的な統一性も共通点もないような無原則で、愚劣な党が誕生し、選挙で票を集めることができ、政権の座にまでついたのは──このこと自体すでに、恐ろしいことです──、そもそも小選挙区制や二大政党制のためではなかったでしょうか、それなのに今頃になって、ろくな政治家も政党もいない、だから菅直人も代えられない、も何もあったものではありません。  安倍や麻生といった最低の人物しか見出しえない自民党の政権だけでなく、鳩山や菅といったつまらない人物しか擁しない民主党の政権もお粗末で、お断りです。我々は二大政党──おっと違った、二“大愚”政党だった──と、その権力を決然として一掃することを訴えます。そうしてこそ始めて、いくらかでもまともな政治の出発点が生まれるのです。まず最も民主主義的な選挙制度で総選挙をやりなおし、国民全体が、諸階級が本当に支持し得るような、賢明で、信頼に足る代表や政治家が結集する国会を作ることが先決です。  菅内閣を粉砕しましょう。そして労働者人民の本当の政治の実現を目指してスタートを切りましょう。マルクス主義同志会に、そして新しい労働者の政治的闘いのために団結し、結集しましょう。


菅は原発に対しても場当たりに終始
原発の「危険性」と温暖化ガスの「危険性」
2011年5月28日

  福島の原発事故の後、にわかに化石燃料の利用が進められており、日本が世界に約束してきた温暖化ガス規制はたちまち空文化してしまいました。まるで、今までさんざんに言いはやされてきた温暖化ガスの「危険性」といったことはどうでもいいことだったのでしょうか。  しかし原発が「危険」なら、化石燃料もまた「危険」であって、両者はただ、「危険」の性格や程度が違うだけです。そして必要なことは、両者の「危険」の性格や程度を冷静に、そして客観的に検討することであって、化石燃料をやめて原発を取るとか、原発をやめて化石燃料に走るとかいったことではありません、だが、このブルジョア社会はつい先日までは、地球温暖化の危機こそが第一義的であるかに大騒ぎし、原発までも「クリーン・エネルギー」の代表、そのチャンピオンであるかに持ち上げてきたのです、ところが今やその立場を一八〇度転換させて、原発は最も環境破壊的であって、「クリーンエネルギー」ではないことを“発見”したというのです。  そして、つい昨日まで、化石燃料は環境破壊的であって、その比重を減らして行かなくてはならないと叫んでいたブルジョアやプチブルの諸君は、手の平を返したように、原発を非難し、化石燃料に徹底的に依存するというのです――というのは、本当の「クリーンエネルギー」である太陽光発電などは、すぐには原発の代用になり得ないからやむをえないと言うのですが、あまりに無責任であり、無節操というものです。  しかし、原発は「危険」だから、今度は化石燃料だなどという主張はおかしくはないでしょうか、化石燃料に依存するのがオーケーだというなら、なぜ原発に依存することもオーケーにならないのでしょうか。両者はともに「危険」ではなかったのでしょうか、原発の「危険」はだめで、将来人類の破滅をももたらしかねない――と彼らは強調していたのだ――温暖化ガス増大の「危険」はたいした問題ではないというのでしょうか、今までいってきたことはどうでもいいことだったと言うのでしょうか、そんな風に言っていいのでしょうか(その地球環境に対する影響はすでに余りに明白であり、顕著だというのに)。  もし原発に依存するより、化石燃料に依存する方がより「危険」だとしたら、原発を捨てて化石燃料に依存することほどの「間違い」はないということですが、またまたそんな反省をするはめにならないと、はたして断言できるのでしょうか。そしてもし、化石燃料の「危険」を承知の上で、それの利用を急速に拡大するというなら――日本のブルジョアたちは今、福島原発の事故があった後では、原発利用は難しいと見て、この道を取りつつあるのですが――、将来の人類にたいして責任を取る覚悟はあるのでしょうか。  反原発主義者や自由主義的(つまり朝日的、毎日的)、“革新派的”(つまり“社共的”)世論は、「脱原発」を謳うなら、同時に「脱化石燃料」も謳わなければ首尾一貫しないのです。あるいはその「危険性」にもかかわらず、化石燃料の利用を拡大するというなら、「脱原発」など安易に口にするのはやめるべきなのであって、原発もその「危険性」を自覚した上で、その利用も考慮する(少なくも、本当の「クリーンエネルギー」――これが何であるかは、ここでは議論しないとして。つまり太陽光発電や風力発電が本当に「理想の」エネルギーであるかどうかという議論は別にして――が、「危険な」エネルギーにとって代わられるまで)と言わなくてはおかしいのです。  実際、福島原発の事故とその原因の具体的な検討やその評価もなしに、原発一般の“危険性”を議論する風潮が強まっていますが、しかし果たして現在稼働中の原発まで一斉に停止することに、どんな意義と利益があるというのでしょうか。ただ温暖化ガスを大量に排出する化石燃料への依存を急増させ、あるいは電気を生産する労働を膨張させるだけ、つまり電気料金の大幅の引き上げに帰着するだけです。今回のような地震がただちに繰り返されるというのでしょうか、あるいは仮にそうだとしても、例えば、冷却用の電源が機能しなかった等々、今回の事故の原因となった欠陥を――あるいは、さらに多くの欠陥を――なくして行けばいいだけのことではないのでしょうか。安全策の強化として、航空機墜落やテロに備えることも必要だとまで言われていますが、もしそんな「危険性」まで持ち出すなら、原発だけでなく、核兵器もまた同様に「危険性」――世界的な規模の戦争に利用することを目的に、そんな人類を何百回も皆殺しにできるほどの「危険性」のあるものが、何千発も保有されているのですから――が強調されなくては少しも一貫していません。  そして実際、核兵器の「危険性」は原発のそれより、ある意味でははるかに大きいといえるのですが、反原発主義者たちは必ずしも“反核兵器(原爆)主義者”としては登場しないのです、というより、彼らの関心はもっぱら原発に向けられるのです。  原発はいまでは世界で四百基余り存在し、年間四億キロワットもの膨大な電力を生産し、人類に供給しています。つまり数十年にわたって、世界中で何十、何百基も運転し、大きな事故を三回ほど起こすほどに「危険」であり、またそれくらいの「安全」は保証されていた、ということです。別に悪魔の化身でも何でもありません、普通の生産力と決定的な違いなどありません。世界中で原発を利用して豊かな電力を利用しようという国はいくらでもあるのですが、それを「バカだからだ」、誰かにだまされているからだ、などと非難しても、何の意味もないのです。世界のブルジョアとその国家にとって――中国などの“新興国”はとりわけ――、原発はこれからも利用する価値が十分にあると信じられているのです。  そして日本をみれば、原発推進を謳ってきた民主党と菅内閣は福島の事故のあと動揺し、「脱原発」を強調し始めました。それがいい悪いは別として、菅の転向は原則や一貫した思想的な根底があってのことではなく、そうしたら「支持率」があがり、政権基盤が強化される、つまり権力が保持できるという打算からであって、ただ菅政権の醜悪さを一層際立たせただけです。  しかも菅の「脱原発」なるものは最初からインチキであって、現在の原発依存の体制はそのまま維持するといったたぐいのものにすぎません。そんなことは誰でもいえることで、自民党政権でさえ、二年前には(09年)、「2020年に太陽光発電を20倍に増やす」という目標を謳っているのです。目標を口にするだけなら、それほどに容易なことがありましょうか。「自然エネルギー」を増やすといったことは、いまどき、どんな人でも、どんな国でも口にすることであって、そんなことを謳ったからといって、何か特別に自慢できることはないのです。太陽光発電を一〇〇〇戸の住宅に設置するとも言いますが、実際的、財政的な費用や負担の見通しもなしに、こんなことを言うのは、鳩山がやはり温暖化ガスで大ボラを吹いたのと同様であって、単なる無責任でしかありません。それが実現されるかどうかはさておくとしても、電力利用者の全体の負担で、つまりより貧しい人々の犠牲で、そんな政策をやるなど筋違いもいいことだという自覚もありません。大ブルジョア(孫正義ら)と野合して、彼らを富ませながら、新しいエネルギー政策だといっても、原発で自民党政権がやってきたことと大した違いがありません。  結局、彼はただ状況に迎合し、ブルジョアにこびを売り、「支持率が上がればいい」ということを基準に政治をしているだけで、日本の経済社会について、その将来について何かを真剣に考えているのではなく、不真面目であり、無責任そのものです。自分のよき信念も、労働者の搾取を根底にするこの体制や、腐りきった政治の根幹を変革するという意思もなく、どうしてもやろうという政策――例えば、自民党の反動政権がやった不当不正の反動的教育基本法の撤廃とか、国旗・国歌法などを廃棄する等々――もなく、ただ権力にしがみつくことを自己目的化するだけの菅が、つまらない愚者にすぎないということほど明白なことはありません。  朝日などのえせ自由主義的ジャーナリズムは二年ほど前から、自民党でなければ民主党だと言って「政権交代」を演出してきましたが、いまだにその反省もなく、最近はもっぱら「菅内閣をやめさせるべきではない」、なとどいった菅内閣弁護のキャンペーンを張っています。理由は自民党より増しだからということか、代わりがないからということか知りませんが、ジャーナリズムとして余りにひどすぎます。今では“天下の”ジャーナリズムは、“天下の”暗愚ジャーナリズムでしかありません。

 

東電への奇妙な批判
原発事故は「日本人の気持ちを打ち砕いた」?
2011年5月21日

 ★今や東電を批判するのは流行になった。もちろん、東電が批判されなくてはならないことは当然だが、しかしそのことは、どんな批判もすべて正当ということにはならない★朝日新聞の投書に、次のような東電非難があった。「被爆国日本が自らチェルノブイリと同レベルの原発事故を起してしまった。その意味で、広島、長崎の被爆を経験し、放射能被害をこれ以上出してはいけないと誓っている日本人の気持ちを打ちのめし、心に深い傷を負わせてしまった」★本人は真剣かもしれないが、こんな理屈で東電や政府を批判できると思ったら大間違いだ。そもそも原爆による被害と、原発による被害は全く別のものであり、また日本が原爆の“被害者”であるからといって――この意識自体おかしいのであって、第二次世界大戦においては日本は“天皇制”軍国主義の国家として、全体として“被害者”ではなく“加害者”であり、あの戦争にドイツのヒトラー権力とともに、一番の責任を負っているのだ――、「放射能による被害をこれ以上出してはいけない」などということにはならないのである。広島の被爆の「経験」と、原発事故の「経験」にはどんな内的な関係もないし、また原発事故が「日本人の心に深い傷を負わせた」ということが仮に事実だとしても、それが原爆とどんな結び付きがあるというのか★原発事故の問題を論じようとするなら、まず無政府的に、無責任に核エネルギーを利用してきた資本の犯罪性を告発すべきであるが、投書氏は原発事故に対し、「日本人の気持ちを打ち砕いた」といった的外れの批判をしているだけである。(『海つばめ』1147号「飛耳長目」より)


菅内閣は「賠償」問題でもつまずき、無能を暴露
巨大生産力はすでに資本の手に余る「危険な」存在に
2011年5月14日

  原発事故の「賠償」をめぐる紛糾は、たちまち現代の資本主義体制の持つ矛盾を明らかにしつつあります。  菅政権は「賠償」は「一義的に」事故を起した東電にあって、東電の責任は限界がないと言いながら、他方では、東電を救済するために、そして現在の大資本の体制を救済するために、国家による「賠償」を、つまり消費税増税や借金財政を通しての、国民全体の負担による「賠償」を狙っています。これではまるで、原発事故の責任が国民の全体に、つまり主として労働者人民にあると言っているのと同然です。  表面だけは、東電の責任に「上限はない」などと一方的に東電に罪を着せ、国家(官僚)や歴代の政府──自民党の、そして民主党の――や議員たちの責任を棚上げしつつ、しかし国家も大資本も原発を推進してきた責任もあるから、東電が負担しきれない部分は、電力資本の全体が、そしてまた国家が何とかする、しなくてはならない、と言うのです。  しかし国家や政府に責任があるというなら、東電に「一義的な」責任があるというのは、どういう意味か、なぜそんなことをわざわざ強調するのか。政府や国家には「一義的な」責任がないと言わんがためだとするなら、菅内閣は余りに卑怯であり、やることがせこいと言うしかありません。口先だけでこんなことを言うとは、菅という人間は余りに矮小です。  菅内閣は原発事故の「賠償」をすると言いつつ、問題をはっきり提出していないのです、つまり本当の責任はなぜ、誰が負うべきかさえも明確に語っていない、否、語れないのです。  国家は「一義的に」責任がないと言いながら、まるで国が原子力政策、原発促進政策を遂行してきたから、その責任を負うのもやむを得ないかに発言するのですが、それなら、原発を促進してきたこと自身を間違っていたと見なすのでしょうか。もしそうなら、大問題であって、自民党政権はもちろん、民主党政権もただちに政権の座から去るべきです。  つまり、福島原発の事故は、「天災」によるもの、不可避のものであって「人災」ではなく、日本のような地震国にあってはなすべきすべもなかったというなら(それが福島の原発事故でよく分かったというなら)、そこに「責任」の根底があるというなら、「賠償」を口にする以前に、すべての原発の即時の停止と、廃棄を明らかにすべきでしょう。  それなのに、東電は救済する、原発は継続する、国家(財務省や経済産業省の官僚たち)も政府も政治家も責任を取らない、銀行も株主にも負担や犠牲は強要しない、というのですから、こんな「賠償」策は余りに労働者人民をばかにし、愚弄しています。  そもそも原発を推進したことが間違っていたというなら、それは東電である以前に、国の責任であって、菅はどうして厚かましくも「東電が第一義的に責任を負うべき」、などと言えるのでしょうか。  具体的に見ても容易に確認できるように、福島原発事故はちゃんと「危険」を自覚し、できるだけそれに対する対策をやっておいたなら、その大方は“技術的に”防げたのであって──少なくとも、今回のような深刻なものにまで進むことはなかったのであって──、事故を起し、深刻なものにした責任が、「安全神話」をふりまき、それにあぐらをかいて、真剣に「安全対策」を徹底してこなかった──むしろなおざりにし、手を抜いてきた──電力資本と政府、国家に、そして政治家たち、“専門家”たち、インテリたち──この連中はみんなカネと特権と権力のためにグルになっていたとさえいるのですが──にあったことほどに明瞭なことはないのです。  電力資本は形は民営でしたが、原発が「国策」として推進され、国家が深くかかわってきたことからも明らかなように、典型的な現代資本主義の特徴を暴露しています。現代の生産力がそんなにも巨大化し、したがってまたその管理や制御もすでに資本主義的生産関係の枠内に、個別資本の経営の枠内にますます納まりきれなくなっているのです。  だからこそ事故もまた決定的に深刻なものとなり、その被害に対する「賠償」や「救済」も天文学的なものにふくれ上がり、最初から一企業の手におえるものではないのです、菅内閣が口先だけで「東電に一義的な責任がある」、などと言うのは現実を見えなくさせ、ただ国や政府に「一義的な」責任がないと言うだけの、つまらない責任逃れの問題、菅内閣の卑怯さ、矮小さの証拠でしかないのです。  自民党は原発事故が起ったとき、政権の座にいなくてホッとしたのです、というのは、原発政策を強引に推し進めただけでなく、「安全神話」をふりまいて、直接に原発事故の原因を生み出してきた彼らが政権の座にあったら、たちまち激しい非難と糾弾の嵐に直面し、責任を厳しく問われ、政権の座から叩き出されたでしょうからです。  菅内閣は国の責任を口では言いますが、原発促進は自民党政権がやってきたことであって、民主党はむしろそれを批判してきたのだ、自分たちは知らないことだ、関係ないのだ、といった感じで取りすましています。  しかしこんなことは本当は真実ではないのです、というのは、一昨年政権の座にたまたまついた民主党は、原発の「安全神話」の危険性を明らかにし、せめて最低のこととして、より徹底した、より“完全な”安全対策を強調するかわりに、自民党以上に原発政策を推進すると謳い(原発依存を三〇%から五〇%に引き上げると、自慢たらたらのほらを吹き)、また国(省庁の官僚ども)と電力資本が馴れ合って、いっそう「安全神話」を振りまいて安閑として来たのを許してきたのです。その明瞭な証拠の一つが、枝野らが先頭にたって、昨年の春、官僚の天下りを規制する法案を葬り去ったことです。そのために、電力資本と国家つまり財務省や経済産業省のトップ官僚たちの汚い野合が続いたままでした。民主党とその政権がすでに立派に、原発事故に責任を持っているゆえんです。  労働者は、自民党や民主党や国家が単に、「原発政策を推進してきた」から責任を取れといった抽象的な立場からではなく、実際に彼らが「安全神話」を振りまき、また自分たちもそれに安住して、全く無責任に、危険の可能性を放置してきたことを追及し、彼らの責任と、彼らがやったことの犯罪性を追及し、また糾弾し、政権の座から追放して行かなくてはならないのです。  共産党のおろか者たちは知ったかぶりをして、原発はいまだ「技術的に未完成だ」などと言っています。しかし「完成した」技術云々は観念的な議論でしかなく──共産党の連中が大自然の、つまりこの大宇宙の弁証法を理解したことは決してないのです――、例えば、自動車一つとっても、交通事故はいくらでも起り、毎年日本だけでも数千人の死者を出しています。そしてその事故を減らすために、“技術的な”、そして社会的な努力は日々続けられているし、今後も続けられるでしょう。そんなときに、年々日本だけで数千人も死ぬような“技術”は「未完成」だなどと自己満足して言って見ても、単に自分の愚昧さを暴露するだけです(もっとも、不破哲三らが仙人にでもなって、自動車や列車や飛行機等々や大規模な機械動力や電磁気の利用や書籍等々の一切の文明を拒否し、社会から離れて究極の個人主義者然として、どこか山の中に消えて原始生活をするというならご自由ですが。しかしこんな人間に限って、労働者以上に、そして労働者の生産的な労働に依拠し、寄生して、はるかに文明の恩恵をぬくぬくと享受しているのですからあきれます。もちろん普通の労働者、“非正規の”労働者などから見れば、“大資産家”の不破哲三も例外ではありません)。  原発事故の「賠償問題」もまた、図らずもすでに現代の資本主義にあっては、エネルギー産業一つとっても、その生産力は資本の狭い枠内では解決できないこと、現実に国家が介入していること、しかし資本の国家はこの“難問題”を解決することができないこと──というのは、やはり国家もまた資本の利害という、狭い枠にとらわれ、それを超えることができないから──、問題の本当の解決は、ただ資本の支配を廃絶し、多くの巨大な生産力を労働者人民の手中に、つまり社会の所有のもとに移し、合理的に、そして本当の意味で“安全に”管理していく以外ないことを明らかにしたと言えます。


浜岡原発と菅の個人プレー
どこまで行っても菅の関心は保身と権力執着
2011年5月7日

  菅直人がまたまた“保身”と“売名”と“人気取り”のためだけのスタンドプレーに走って、浜岡原発の――そこだけの――運転停止――一時だけの――を、中部電力に「要請」しました。一部の“世論”に動かされての個人的な「政治主導」であって、内閣や政府の正当な検討や議論に基づいての方針では全くありません。  「あぶないから止める」というなら、民主党が昨年掲げた、今後原発依存を総電力の三〇%から五〇%に高めるという、根本方針の再検討から始め、その中で、一切の「危険な」原発を廃止する、そして日本全体の産業政策、エネルギー政策を全体としてどのように方向付け、転換していくのか、という政治の全体の中で、そしてまた原発政策の全体の中で浜岡原発の問題もまた検討され、解決されていくべきなのは余りに明らかではないでしょうか。「あぶないから止める」というのなら、なぜ福島原発は「止めない」で、それとは全く逆行する原発政策を民主党政権は、昨年打ち出したのでしょうか。自ら、福島原発事故の責任を認めるようなものでしょう。  菅直人は、浜岡で「防潮堤」などの対策がなされるまで止めるというのですが、原発が「危険」なのは、単に「防潮堤」があるかないかといったことに一面化、矮小化され得ないのは明らかであって、実際、福島の事故の場合は、冷却機能における「電源」の問題もまた決定的に重要であったのです。その他にも、地震のゆれに対する「耐震性」の問題とか、多くの考慮され、重視されなくてはならない問題がいくらでもあるのですが、菅直人かこうしたことを全面的に検討したという気配はありません。  もし菅直人が“反原発”を主義とするのであるなら、もちろん浜岡だけではなく、全国の二十二基の稼働中の原発のすべてを――否、日本に存在する五十四基の原発のすべてを――廃炉にすると宣言しなければ首尾一貫していません。というのは、それらが“絶対に”――この意味の解釈はさておくとして――に安全である、などと誰も言うことはできないからです。現実に、どんな「安全」と言われる原発もいくらでも“大小の”事故はつきものであって――日常茶飯事に存在しているのであって――、そんなものをなくすことは決してできないからです(巨大地震に直面していなくても、「活断層」などを考慮に入れれば、浜岡に匹敵する「危険」に直面している原発が日本には一つも存在しない、と誰か言い得るというのでしょうか)。  菅直人のやっていることは、「後出しじゃんけん」のようなもの、単なる思い付きでしかなく、その動機は個人的なもの、つまりますます信頼も信任も失われた、自らの権力の延命でしかありません、だからこそ、こんなものを「英断」であるとか、「画期的」だとか持ち上げるブルジョア世論――朝日新聞など――はナンセンスと愚昧そのものです。巨大地震が三〇年以内に八七%の確率で起るということを唯一の根拠にしているのですが、しかしそんなにも確かな見通しがあるというのなら、その対策を具体的に、徹底的に取るという“選択”もあり得ていいはずですが――国民経済や産業や労働者人民の生活等々、社会全体の利益も考慮に入れるなら――、そんな方向に向けての賢明な「政治主導」は一切ないのです。  予想される事態がマグニチュード9だというなら、それに対する対策はない、と言うのでしょうか。ばかげた理屈です。そんな理屈を持ち出すなら、全国のすべての原発をただちに廃棄しなければ、決して首尾一貫し得ないのです。その決断も信念も勇気も何もなくて、ただ人気取りと政権延命のためだけに、浜岡原発問題を利用しようというのですから、菅直人は最低であり、全く救いようがありません、そんな菅直人の場当たりの政治をどうして美化したり、持ち上げたりできるでしょうか。朝日新聞などは何を考えているのでしょうか。このマスコミは、今菅内閣の引き降ろしに熱中すべきときではない、などと盛んにキャンペーンを張って、今なお民主党政権を擁護し、民主党とその政権の御用新聞の役割を果たそうとしています。産経新聞などが自民党政権、反動政権の御用新聞になるのは許せないというなら、朝日が事実上鳩山政権や菅政権の御用新聞に堕すのも非難に値するのは当然です、というのは、ブルジョアマスコミ、自由主義的マスコミは常に“政治的中立”なるものもを売り物にして来たし、今もしているからです。


「復興財源」さえ調達できず
無能無力な菅内閣をお払い箱に
2011年4月30日

  菅内閣は大震災に対しても全くの無能、無力を暴露しましたが、その「復興」についても同様です。  この内閣はいまだに、「復興」についても、その「財源」についても、明確で、断固たる方針も展望も示すことができないでいます。意思と賢明さがあれば簡単にできることであり、そしてまた緊急になすべきことであるにもかかわらず、です。  「復興構想会議」だとか、あれこれの機関ばかりを“でっちあげて”いますが、菅直人が自分のなすべきことを理解していないこと、理解できないことは明らかです。こんな会議をいくら“でっちあげた”ところで、何の役にも立ちません。ただ「船頭多くして船山に登る」ということわざそのもので、実際、五百旗議長が「震災復興税」を提案しましたが議論百出、てんでばらばらで収拾がつかず、結局棚上げするしかありませんでした。  「復興」のために巨額の公的なカネが必要であり、そのためにこそ国や政府が機能すべきときだというのに、何の役にも立たないのです。こんな国家、こんな政府などあってもなくても同じです。  菅はあれこれの「会議」などでっち上げる前に、「復興の」カネをいかにして集めるかの具体的で、説得的な政策をはっきりと語るべきであり、またその政策を断固として実行すべきなのですが、このおろかな宰相には、そんな“簡単な”ことさえできないのです。  政府が巨額の「復興の」ためのカネを“捻出”するために何をなすべきかは余りに明らかではないでしょうか。  「復興の」ためのカネは、基本的に、臨時的なカネであり、またそうしたものとして集められるべきであるのは、ことの本質からして全く明らかだからです。  まさにそれ故に、“国民”に対して、一時的ではあれ、例えば、二〇兆円が必要だから、断固として集めるという決意を明らかにすべきであり、具体的には、まずバラまき政策をやめて、そのカネの一部を作り、ついで一昨年総選挙のときに民主党が豪語したように、国の財政の中に二〇兆円になんなんという「ムダ」が隠されているなら、それを徹底的にえぐりだして活用し、さらにそれでも不足なら、大企業と金持ちを中心に臨時の「復興税」を課せば、それだけで十分であって、こんな簡単なことさえやれないとするなら、やろうともしないなら、それは菅が極端に無能で、愚かであるからでしかありません。  菅がやろうとしているような、“恒久的な”消費税増税などもってのほかであり、最低のやり方であって、あえて言えば、労働者人民はもちろん、“国民”の(諸政党の)誰一人賛成することも、納得することもできないような下策です。  もちろん、民主党政権はすでに二年もつづけて、自民党政権も顔負けの無責任で、だらしのない膨張予算を組んで、何十兆円もの借金をしてきたのですから、今さら「国債は発行しない」、つまり借金はしない(しても、消費税増税で急いで償還する)などといってもったいぶる必要もないと思われるのに、菅はそんな愚劣なことにもこだわっているのです。  菅が消費税増税という“恒久的な”増税にこだわるのは、それを「復興財源」だと銘打って開始し、その役割が終わってからも、社会保障のためのカネとして継続させるためだというのですから、あきれて物も言えません。復興のための消費税増税と、社会保障のための消費税増税(実際には、民主党権力の延命を策すバラまきのための増税)とは全く別のものであり、別に論じられるべきものです。こんな二つの問題を一緒にして持ち出すなら、混乱とごたごたが続くだけで、「復興財源」の問題──今決定的に重要な問題――さえもいつまでたっても解決できるはずもなく、ごたごたが続くだけなのです。  そして、復興財源を消費税増税でやるという菅直人の策動は、菅の保身と延命政策と不可分なのです、菅直人が政権にいかにしてしがみつくかという、下品なエゴイズムと不可分であり、そんな小さな根性から出てきているのです。  彼は消費税増税を断固としてやることで、その“手柄”によってブルジョア陣営や自民党から信用と支持を得られると計算し、自民党との連合も可能になり、菅政権を永続させ得ると信じるのです、震災の「復興」さえも、自分の権力保持の我欲に従属させて考えるのです。  そんなつまらない権謀術数や小手先の策動によって、政権の延命が可能になる、菅政権の展望が見えて来る、と思っているのですから、菅がいかに愚劣で、ちっぽけな人間であるかが分ろうというものです。  今こそ「復興財源」という緊急の問題も、他の問題も迅速に、適切に解決してどんどん進んでいくべきときですが、しかし菅内閣のもとですべてが渋滞し、混乱し、遅滞しているのです、ほとんど何も前進しないのです。  すでにとっくに、真っ先に解決されているべき「復興財源」についてさえ、「国民全員が負担するという形」にすべきだから消費税増税がいい、いや、法人税、所得税、消費税を「バランスよく」やるべきだ、いや今増税をしたら経済不況が一気に深化して「復興」どころではなくなる、むしろ国債をいくらでも出すくらいの覚悟でやるべきだ、インフレを恐れるべきではない、国債の日銀引き受けも辞すべきではない、などと百家争鳴の理屈が飛び交っています、そんな中で、そしてまた何万、何十万の被災者たちが緊急の救済策や「復興」策を待ち望んでいるときに、菅内閣は前に向かってたくましく前進していくことができないばかりか、その方向を断固として示すことさえできないのです。  消費税増税を恒久的なものとしてやるといった、最低の愚策を持ち出すのですが、その動機は、自分の権力の維持であり、保身のためだというのですから、こんな連中が政権の座にあること自体が、労働者人民にとっての災厄になりつつあります。  今こそ労働者人民は断固として菅内閣打倒に決起すべき時です、自民党の復活のためでなく、自民党もまた徹底的に粉砕し、一掃するためにも、です。というのは、菅内閣が、民主党政権がこれ以上続いて行くなら、自民党政権や、もっと反動的で、労働者人民に大きな災厄をもたらしかねない政権がやってくるのは確かだからです。

 

災害は“政治的、社会的”災害だ
菅内閣だったのは日本の不幸
2011年4月22日

  原発事故の被害は広がり、終息の見通しさえ立たず、多くの人々が棲み家を追われ、いつ終わるともしれない避難生活を強いられている。  ある意味では、原発事故の原因はたわいもないものである、つまり原子炉の冷却を可能にする、緊急時のための電源を確保する施設が利用できなくなった、非常用のディーゼルエンジンが動かなくなった、といった“ささいな”ことにすぎない。  つまりそんな単純なことに、しっかりした防御体制がほどこされていたなら、今回の原発事故はほとんど防げたのだから、政府や官僚、議員や電力資本たちが「安全神話」に安住して、“万全の”措置をネグレクトして来た罪は大きく、犯罪的ですらある。  津波によって海水につかったり、安全施設が流されたりしたのが決定的だったというのだから、あいた口が塞がらないというものである。もし「絶対に安全」というなら、その言葉に責任を持つなら、仮に数百億円かかろうとも、そんなカネを惜しむべきではない、というのは当たり前のこと、普通のことではないのか。  政府や資本が、口先で「絶対安全」といいながら、非常用のディーゼルエンジンの“安全”といった、初歩的なことさえまじめに考えて来なかったなど、考えられないような頽廃と無責任というしかない。  これまでも、東電だけでなく、全国の原発であれこれの事故がいくらでも起こってきたが、電力資本は隠蔽したり、ごかましたり、「たいしたことではない」などと言い続けてきたのだ。   東電や国家や政府や政治家たちは、自分たちがふりまいた「安全神話」に安住していたからこそ、大災害がやってきて、原発事故が発生するや、何が起こったのか、どう対応し、どう行動していいのかを判断することもできず、最初の重要な段階でばかげたことや失敗を繰り返し、事故と闘い、終息に導くどころか、水素爆発や放射性物質の大量拡散、飛散といった“最悪の”事態まで招いたのである。我々は、こうしたひどい事態をもたらした責任の重大な一端は、菅内閣や東電資本のトップにこそある、と断言し、彼らの責任と犯罪を徹底的に追求する。  これは実際、単なる“人災”を超えて、国や政府による、さらには自民党や民主党を先頭とする政党や議員たちによる“政治的”災害であり、また電力資本(ひいては総資本)による“社会的”災害、“階級的”災害(支配階級や権力者たちが引き起こした“災害”)であって、まさに労働者は、原発災害をそうしたものとして明らかにし、彼らを断固として弾劾し、その責任を徹底的に明らかにしなくてはならないのだ。  実際、大災害と事故の最初の段階から、菅の関心は自分の政権が存続すること、そのためにこうした状況を最大限利用しようということであり、発生した危機を保身という個人的野心に従属させることであった。彼が熱心にやったことは、パフォーマンスであり、自分が懸命にやっているというゼスチュアであり、見せ掛けであって、おそるべき危機に賢明に、全責任を自覚して対処しようということではなかった。  大災害のときに、民主党の菅内閣が存在したことは、日本の労働者人民にとって不幸ではあったが、もちろんこれは、自民党政権や公明党や共産党の政権だったらよりましだったということを少しも意味しない。(今年のメーデービラ より)


「安全神話」と反原発主義
対立しつつ実は補完し合う
2011年4月15日

 ★福島の原発事故に対し、今や「それ見たことか」といった議論がある。しかし実際には、“反核主義”の諸君もまた、“安全神話”論者たちと同様に、この事故に責任を負っている★というのは、両者は盾の両面であって、対立し合いながらも補完し合い、助け合ってきた仲だからである★“安全神話”と“反原発主義”が観念的な神学論争にふけっている間に、資本の社会は原子力エネルギーの“平和利用”に邁進し、それを資本蓄積を促進し、資本主義的発展と繁栄を支える、資本にとっての不可欠の要素に繰り込んで来たが、原発の“原理的”不可能性を説くプチブル・インテリたちは、実際的な議論はますます棚上げして行き、その結果、“危険な”福島を初めとする、全国の原発の“安全性”の現実的な条件の格付をどこかに追いやってしまった★高木仁三郎らは、原子エネルギー“原罪論”に立って、ただ“大所高所から”、観念的に原発は“悪魔の”所産とし、ただその「危険性」や「廃止」を抽象的に論じただけであって、それがなぜ、いかにして資本の体制にとって必然的となったのか考えようとしなかった★こうした抽象的な原子エネルギーの否定の対極に、そのアンチテーゼとして、“安全神話”がはびこったのであって、観念論にはもう一つの観念論が対置され、資本の支配はそれで万事解決したと妄想し、頭の中での解決を現実の解決と思い込むことができたのである★つまり今回の原発事故は「人災」であり、そしてそれには、自然の力に“恐怖”し、観念的に反対しただけの、“反科学主義”の偏狭なプチブルたちも一役買ったのだ。(『海つばめ』1145号「飛耳長目」より)


原発事故は人災であり、その責任は自民、民主の政治家や政府、官僚、東電らの原発資本にこそある!

2011年4月8日

  原発事故は、放射能に高度に汚染された水が海に大量に流れ込むなど、その被害を拡大し、野菜や乳製品などについで、海産物も汚染が広がるなど、ますます深刻なものとなっています。何万、何十万という多くの人々が放射能被害を逃れて東北から全国へと逃避行を続けています。労働者人民に対して、こうした惨禍と犠牲をもたらした責任と原因を、その根底を徹底的に明らかにし、資本の支配とその体制の本質を明らかにして行かなくてはなりません。そしてこの仕事は具体的に、そして事実に基づいて行われなくてはならず、単なる道徳的なレベルや、“技術論的な”レベルの抽象談義に陥ったり、留まったりしていてはなりません。後ろ向きの資本主義批判や“反科学主義”や“自然主義“といった、無力な立場では、「安全神話」を振りまいて、自分たちの責任を果たしてこなかった、そして大事故を誘発した、自民党や民主党政権、そして東電などの原発資本の責任を明らかにし、その悪事を暴き、彼らの権力を粉砕し、災いのもとを一掃していくことはできません。そればかりか、彼らを免罪し、無罪放免することにつながりかねません。原発事故の直接の契機が大地震にあるにせよ、大津波にあるにせよ、“安全”対策を事実上怠り、なおざりにしてきた、無責任で、無頓着で、許し難い連中――自民、民主などの諸政党や政府、経済産業省などの官僚たち、さらには東電などの電力資本の経営者たち――こそ、まさに何万、何十万の労働者人民の被っている耐え難い惨禍や犠牲や塗炭の苦しみをもたらした大犯罪人として糾弾され、告発されなくてはなりません。今こそ声を大にして、こうした悪党連中を断固として弾劾し、追放すべきときです!


長期化する福島原発危機
東電と菅政権の初動での愚昧さ
2011年4月1日

 ★原発事故の復旧作業が混沌とし、菅内閣も東電もまだ収束の展望を見出すことができず、場当たりの対症療法に終始している。菅が事故発生時に現場の“視察”にやってきたり、東電に乗り込んでどなり散らしたり、空中からの海水の注入といった、思い付きの“アイデア”――愚策――を強要したりしたことは、単に混乱を助長し、緊急に必要な、本当の解決策を遅らす以外のどんな意味を持ったというのか★冷却のための電源がだめになった時点で、東電は何が起こるのか、そしてそれにいかに迅速に、的確に対応すべきかを認識できたし、またしなくてはならなかったはずであり、また政府も同様であった。しかし東電は「想定外の事態」だとあわてふためくだけ、菅は保身とパフォーマンスを気にするだけだった。決定的に重要な初動のときのこうした愚昧さ、醜態が、どんなに“悪循環”の状況を招いたことか、今も招いていることか★破損した燃料を含む水が大量に漏れ出すという、新しい危機にしても、そんなことは簡単に予測できたはずで、その対応も考えていなかったなど、あっていいことではない。今や福島第一の「原発制御」は――仮に今以上の“大事”に至らないとしても――長期戦の様相を呈し、「落ち着く」までに数週間、数ヵ月も、そして「完全な」解決までには数年もかかる覚悟さえ必要かもしれない★大地震や大津波は天災であっても、原発事故は人災であり、ますます人災としての性格をあらわにしている。人災である以上、責任は当然明らかにされ、追及されなくてはならないが、その筆頭候補は東電であり、菅内閣である。(『海つばめ』1144号より)


天皇の有難くない“お言葉”
財産をすべて投げ出すくらいの意思はないのか
2011年3月25日

  天皇が災害に対して、ビデオメッセージを出したが、しかしそんなものに感激したり、感動して随喜の涙を流したのは、反動派のばかたちだけであった。  何の意味もない、心もこもらない、形式的な決まり文句が、空疎な美辞麗句が並んでいるだけである。  一体、皇居といった安全地帯に、のうのうとした日々を送っている天皇が、特権階級の頂上にして、優雅な生活に明け暮れている天皇一家の連中が、被災者たちの本当の困難や苦悩や悲しみを理解できるとでも言うのだろうか、労働者人民の真実の心が分かるというのか。分かるはずもないのである。  もし分かる連中であったら、天皇一家は決して、あの一五年戦争の先頭に立ち、何千万の国民を、若者を不幸で悲惨な戦争に駆りたてる、などということができるはずもなかったのである。  そもそも、「何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています」とか、「被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体を大切に、明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共に、それぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」といった、宮内庁の“こっぱ役人”の拙い作文に、どんな意味があるというのであろうか。そんなものをありがたい天皇の、ありがたいお言葉だと持ち上げる連中の程度が知られるというものだ。  いかにも“上から”目線で、「生き抜いてくれるよう」などと言うところに、度しがたい、天皇らの思い上がった精神――戦前の天皇一家と本質的に何ら変わらない――が現われている。せめてお見舞なら、もう少しへりくだった言い方もできないのか。  国民が「それぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」とは、一体何ごとか。「見守り続ける」などということは、被災地や被災者たちにとって、全くどうでもいいことで――緊急の問題は、実際的な支援であり、実際的な“復興”である――、こんな空しい言葉を聞いたら、被災地の人々は、その無神経というか、無関心というか、余りの空々しさに本気になって腹を立てないであろうか。  天皇のこんな言葉を、国民への励ましだとか、ありがたい“お言葉”だと持ち上げる反動派の連中は、かつての一五年戦争当時も、こうしたたぐいの「励まし」の言葉――少しもありがたくもなく、まともでもなく、むしろ国民の正常な判断力や選択を狂わせ、国民を不幸と暗黒と滅亡と死のまっただ中に追いやる役割しか持たなかったような――が、しょっちゅう発せられ、振りまかれたことを忘れている、あるいは知っていないのか。  そもそも天皇は、自分が体制の飾りものだと自覚して、でしゃばらないで生きるように心がけるべきであって、“いい格好”などすべきではない。そんなものは、天皇の単なる虚栄心や自己満足という“煩悩”もしくは“我慾”であって、震災で亡くなった労働者人民、今も苦しんでいる労働者人民の何の実際的な――そして精神的な――助けにも、慰めにもならないのである。  誰かが言ったが、天皇はそんな空文句を弄している暇があったら、膨大な自分の資産(株など)を処分するなりして、あるいはすべてを投げ出して、震災のために裸になるくらいしたらいいのである。そうしたら、確かに歴史に名を残し、国民からほめたたえられる天皇くらいにはなれることだけは確かである。 反動たちのたわ言 自衛隊の存在意義を確認できたろうと  反動インテリたちが、菅内閣に、大震災の危機に適切に対応する能力がなかったと騒ぎ立てている。そのこと自体に異議はないとしても、彼らは、では彼らの期待を担って登場した安倍内閣や麻生内閣にあったかと言うと、菅内閣と「どっちこっち」か、一層ナンセンスであったと推測できるのだから、彼らの菅内閣非難はつまらないもの、ただの言掛り以上を出ないのである。  しかしろくでもない反動インテリたちの言い分は違うのである。例えば、佐々淳行は、「菅・仙谷民主党政権で国家危機が起きたとき、本当に大丈夫かという国民大多数の危惧は不幸にも的中してしまった」、それはこの政権が「国家危機管理に無関心」で、自衛隊とか海上保安庁とかいった、“国家防衛”や“国家安全”の任務を持った組織の意義を全く確認して来なかったせいだとして、次のようにわめいている。  我々は、それが余りに陰険で、すり替えをこととする半ばデマ的な主張であり、極めて危険なものであるので、それを暴露しなくてはならない。 「何が『自衛隊、警察、消防(ちょっと間をおいて)、海上保安庁の活動に心から感謝』だ。菅首相は全国放映のテレビで空々しい賛美を口にする前に、『民主党の安全保障行政欠落は政党としての誤りでした。危機管理の軽視も反省します。特に仙谷前官房長官の《自衛隊は暴力装置》《海上保安庁は武器を持った集団》という発言は甚だ不当な失言で、仙谷氏に撤回させ、謝罪させます』と国民に謝ってから自衛隊十万動員と言え」  ざっとこんな具合である。佐々は結局は原発事故に対して自衛隊を動員し、自衛隊に頼らざるを得なかったではないか、とするなら、自衛隊は「暴力装置」などと呼んで自衛隊を中傷し、その意義を軽視したことはどうしてくれるのだ、自衛隊の存在意義を認め、国民に謝罪することが先決だ、と居丈高に発言するのである。  しかし自衛隊が災害に活躍するのは、「暴力装置」としての存在もしくは機能としてではなく、災害などに対する「安全装置」としての機能においてであって、このことは自衛隊が鉄砲玉一つ発射するのではないことからも明らかであろう。  そして災害時に「安全装置」として機能するためなら、別に自衛隊に限ることなく、別の非「暴力装置」としての何らかの組織でも十分であろう。たまたま自衛隊が動員され、駆り出されるのは、「暴力装置」としての機能においてではなく、そうした本来の機能の他に、「安全装置」としても役に立つ機能をたまたま備えているからであって、そんなものが自衛隊の本来の役割でないのは、反動インテリの諸君もよく知っていることであろう。  そして自衛隊には年々何兆円といった膨大なカネが注ぎ込まれているのであって、そんなにも年々巨額のカネがあれば、災害時のための「安全装置」としての組織や手段や防衛措置がいくらでも準備できるのも、また自明のことであろう。軍隊などという形を取る必要はさらさらないのである。常備軍などではなく、何兆円もの予算で、災害時の専門の「安全装置」を作ったほうがよほど増しであり、より有効に機能できるであろう。  自衛隊がたまたま災害時に駆り出されたからといって、別に偉そうに言う必要など何もないのである。常備軍などというのは、戦争のない時には、単なるむだ飯食いのたぐいであって、年々膨大な予算を飲み込みながら、客観的に、何の役にもたっていないのである。時間をもてあましている、そんな連中が、たまたま災害時に出動したからといって、大騒ぎするようなことは何もないのである。支出されている税金の巨額さにくらべれば、まだまだ“国民奉仕”が足りないと言っていいくらいである。  大型の74戦車まで静岡からわざわざ出動したが、放射能をまき散らすガレキの清掃と処理のためであって、その火力等々による敵の主力を圧倒し、粉砕するためではない、つまりこれもまた、優秀なる「暴力装置」の機能においてではなく、一種の強大なブルドーザーとして、であるにすぎない。  佐々は軍隊を「暴力装置」などと呼んで軽視し、愚弄した、しかし実際には、そんなに愚弄された軍隊が、今回の大災害では比類ない実力によって国民のために貢献しているではないか、菅や仙谷は自衛隊に謝罪せよというのだが、しかし佐々は、自衛隊が「暴力装置」として役にたっているのではなく、反対に、「暴力装置」ではないことによって、国民に奉仕しているということ、つまり軍隊としての自衛隊など全く必要としていない、という肝心要の事実を見ようともしないのである、都合よく忘れることができるのである。  愚昧な佐々は、この点でも菅内閣を攻撃している。 「公共事業を目の敵にして事業仕分けするから、建設業者がブルドーザーなど重機を中国や東南アジアに売ってしまい、災害地の瓦礫を撤去する者が少なく、自衛隊施設大隊に頼らざるを得ないのだ」  佐々はこんなことを書いて、何を言いたいのか。自民党のバラまきの公共事業政策を弁護し、美化したいのか、もしそうでないとするなら、何のためにこんなトンチンカンの文章を書くのか。もし日本の建設業界がブルドーザーを持っていないなら――そんなことはおそらくないだろうが――、自衛隊であろうと何であろうと、あるところに頼るのは当たり前であって、そんなことがどうして非難に値するというのか。そして建設業者が不要な機械器具を「売った」からといって、なぜに問題にされなくてはならないのか。まさか、私企業に、大災害があるかしもれないから、ブルドーザーを保持し続けよと命令しようというのか、それとも、大災害時にはブルドーザーが必要だが、それを建設業者に持ち続けさせるために、必要があろうがなかろうが、公共事業を発注しつづけよ、とでもわめくのか。  佐々が主張したいのは、このどれかかは知らないが、いずれにしても、佐々といった人間が途方もない愚者あることだけは確かであろう。  また、宮家邦彦も自衛隊の災害救助活動に対して、それを美化して、次のように、つまらんことをわめいている。 「先週、自衛隊ヘリが大量の水を投下した際、北沢俊美防衛相は『総理と私の重い決断を統合幕僚長が判断していただいて、統合幕僚長自らの決心』で実施されたと述べた。菅直人首相は『自衛隊の皆さんに心から感謝申し上げる』と述べた。それは違うだろう。  自衛隊や警察、消防は命令があれば命をかけるのが仕事だ。彼らに必要なものは感謝ではなく、名誉である。今の作戦は統合幕僚長の『決心』ではなく、首相の『命令』で行うものであり、首相はこの危険な任務を実行した人々を『国民とともに誇りに思う』と言うべきなのだ」(産経新聞、三月二四日)  反動インテリたちは、自衛隊の「災害救助」活動が、自衛隊の本来の活動であるかに言いはやしているが、全く別であって、自衛隊は実際に軍隊であり、しかも帝国主義的国家の軍隊であって、「祖国防衛」のために、でなく、大資本の利益と体制を、内外の敵から「防衛」するために、そして時には海外の利権や領土や植民地を「防衛」したり、新しく支配下に組み入れるための、支配階級の“暴力装置”として存在しているのである。  “軍部”がこうした役割のために存在していることは、すでに一九三一年から四五年までのアジア太平洋戦争の時に、余りに明らかに証明されてしまっていて、いまさら論証の必要もないほどである。  軍部と一般の兵士とは違うといってみても、それは軍隊の客観的な性格や役割を否定するものでは全くない。  だから、日本の軍隊が災害時に出動するのは、一種の便宜のためにすぎず、巨大災害に対処できる大規模な組織が、このブルジョア社会では準備されていないこと、自衛隊によって代用されていることの結果にすぎない。軍隊があるからということで、頻繁にやって来る大災害に対処すべき、独自の体制や組織の準備や整備が、日本では、これまで徹底的にネグレクトされてきたと言っていい。  軍隊は“平安の”時代には、むだ飯を食っているのだから、災害時に備えて、大金をかけてそれとは別の大組織をつくるまでもなく、軍隊をその時々に駆り出せばいいといった、ブルジョア支配の便宜の問題にすぎないのである。「名誉」もクソもあったものではない。災害対処は軍隊の“本来の”任務である、武器を手にしての戦闘や戦争――国内外の“敵”との――ではないのである。むしろそれはある意味で、“本来の”任務を妨げ、おろそかにするものだ、とさえ言えるのである。  自衛隊には年々巨額の予算が支出されているのであって、その予算を災害対策をもっぱら担う組織のためというのであれば、その何分の一くらいのカネで済むことなのだ。膨大な国家予算を常日頃から回しているにもかかわらず、日本の軍隊は戦後数十年間ものあいだ、実際、災害時の出動以外の実際的で、大規模な「出動」を知らないのである(幸か不幸か)。  災害対処の“任務”を担ったからと言って、文句を言ったり、「感謝」だけでは足りない、「名誉」のほまれをよこせなどと、あえて言わなくてはならないようなことは何もないのだ。反動どもは、宮家といった連中は、何を勘違いしているのか、余り思い上がるのは、あるいはもっともらしいことを並べて、自己の空っぽの本性を隠そうとするのは、ただ醜悪なだけである。  実際、反動インテリの諸君は、軍隊を、自衛隊員を扇動して、またまた5・15事件や2・26事件を起こしたいのか、あるいはかつて、台湾や朝鮮や中国東北部を植民地に変え、中国、アジアに軍事侵略をしたように、再度軍国主義や軍事的冒険主義を挑発し、そんな方向につっ走りたいのか。そうだとするなら余りに無責任で、将来、自分たちの扇動に対してどんな責任を取るというのか、取れるのか。  この連中は、軍人は「命令があれば命をかけるのが仕事だ」などと――自分たちは決して“危険な”ところには出ていかないで、“安全地帯”に常にとどまりながら――、偉そうに言っている。  しかしそんなことは、“民主主義”の世の中においてはありえないのであって、国民は誰であれ――したがってまた軍人も――、不当で、間違った「命令」によって、そして自己の自由意思でもないのに死なくてはならない、などということは決してないし、あってはならないのである。  そんな天皇制ファシズム国家の“原則”によって、かつて何百万の青年たちが、無意味な反動戦争、帝国主義戦争のために命を落したのである。宮家は、そんな歴史がまるでなかったかに、天皇制専制国家の古い“原則”もしくは“道徳”をまたまた持ち出し、国民に強要しようというのである。宮家はそんなことを言うなら、まず原発事故の現場に真っ先に駆けつけ、自分から進んで最も危険な作業に専心従事してから言うべきであろう。自分は“安全な”場にいて、自衛隊員は「命令」があれば、それがどんなものであれ死なくてはならないなどと言うとは、余りに恥知らずで、途方もない人間と言うしかない。  もちろん、労働者も死をも恐れず行動に立ち上がるときがあるであろう、しかしそれは労働者の自由意思が根底にあってこそであって、根本的には、理非も定かではない「命令」によるものではないのである。


原発危機は人災だ!
後手後手の菅内閣と東電
2011年3月17日

  原子炉が一つではなく四つも五つもの同じような「事故」を続けていること、またある意味で単純な事故原因の克服に手間取りすぎていることは、どんな意味でも天災ではなく、人災以外の何ものでもありません。問題が注水を可能にする電気系統の麻痺であるなら、早くから正しい見通しのもと、断固たる処置を追求すれば、解決の道を見出すことはできたでしょうし、また東電は原子炉を使用可能な状態で救おうとして、最初、迅速に海水を注入することをためらったのです。何が重要かで本末転倒の判断をやり、資本としての論理を優先させたということです。そしてまた、菅内閣は政権延命のためにのみ、災害を利用しようとしているだけで、東電に乗り込んで何をするかと思ったら、「撤退したら東電は100%存在しない」と恫喝するだけでした。東電が「撤退しよう」としていたのかどうかは知りませんが、現場の千人にもなろうとする従業員が、自分の身の危険も顧みず、懸命に「鎮火」のために奮闘しているときに、政権の存続のみを、自らの延命策のみを考えて恫喝に終始するなど、傲慢といやらしさそのものです。いやしくも「国家」が存在意義を持ち得るとするなら、こうした“国民的な”危機の瞬間に、個々人や個々の企業などが持ち得ない、大きな権限と組織力と影響力を発揮するところにあるのであって、直ちに東電に対して、「鎮火」を最優先させ、海水の注入でも何でもやるように指導すること、あるいは自衛隊に防禦服などが蓄蔵されているなら、それを動員すること、また被災者の救援のために国家のもてる力を最大限発揮するように具体的な指導をし、全国的な活動を組織すること、必要なら経済の規制や統制さえも辞さないこと――買い占めの動きなど許さないこと――等々ではなかったでしょうか。だが菅内閣がやったことは、単なるパフォーマンスの類だけでした。日銀も企業のために巨額のカネをばらまくだけですし、政治家たちは何を考えてか、この災害を利用して、救済と復興の名目で増税しようと策動し、その浅ましい本性を暴露しています。大地震と津波は天災だとしても、その後の多くの災厄は人災以外ではありません。大資本の体制と菅内閣こそ責任を負うべきなのです。


“日本民主革命”のアッピール
一院制、全国比例代表制、二百議席、三年任期の実現を
2011年3月11日

  衆議院のつまらないコピーのような参議院などが不要であることはすでに明らかであって、議会は一院制でこと足りるだろう、それが徹底的に民主的に機能するならば、であるが。  議員は二百名もあれは十分である。つまり現在の三・七分の一くらいである(現在は衆参合わせて七百三十二名)。一人当りの給与は「普通の」公務員並みにするから、全体の費用は何十分の一、何百分の一にも減少する(秘書だ、調査費だ、政党助成金だ等々の多くの不当な特権的供与も一掃して)。  任期は最大三年である。少なくとも三年に一度、議員たちは全員また選挙で選出されなくてはならない。しかしだからといって、選挙が今より頻繁だということには決してならないだろう、というのは、一つの議院しかないからである。もちろん供託金といった、不公正の、いかがわしい制度は一掃される。  選挙は全国単純比例制であって、政党、個人を問わず参加でき、最低〇・五%をとれば議席を獲得できるから、多くの思想や傾向が――それが必然であり、必要であるかぎり――国会に反映され、集中される。「死票」は最低に抑えられる。こうした制度が「国民の意思」を最も近似的に、そして直接に代表できるということ、国会がその時々の“国民”全体の意思を反映したものになり得ることは余りに明らかである。  選挙闘争は、基本的に、諸政党、諸個人の責任において、自主的な政治闘争として貫徹され、国家の介入――つまり供託金制度や政党助成金制度に見られるような、あるいはテレビ等々の選挙手段の利用頻度や規模にみられるような、事実上の二“大愚”政党へのえこひいき――は一掃されなくてはならないか、必要な場合でも最小限に縮小されなくてはならない。  議会は二百人の、今の七百三十二名のデクの棒たちよりはるかに優れた人材によって構成され得るだろうし、各階級、階層、各政党の、あるいは諸々の運動や思想傾向の最も重要で、最も有能な人材を結集するだろう。議会はすぐれて集中された、諸々の勢力による、思想的、政治的、実際的な、そして真剣な諸闘争――ある場合には、命までもかけたような――の場となるであろうし、今より比べ物のないような高いレベルに到達するだろう、本当に民主的な争論の場になり得るならば、であるが。  議会の採択・決定は、「二“大愚”政党」の数によってあらかじめ決まったものとしてでなく、流動的なものとしても現われ、国会における議論と諸闘争の結果としてもなされ得るのであって、多くの異なった政党や個人が参加するのだから、議論と諸闘争の中で、結論がいくらでも動揺し、動く場合もあり得、したがって議論も争論も真剣であり、深刻で、内容のあるものとならざるをえないであろう。各党は、党の中でも最も優れた、説得力のある、有能な弁士を立てて闘うであろう。 (『海つばめ』1142号より このアッピールを解説した1面トップ記事も併せてご覧下さい。下記参照) 


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