【2012,2,11】
オバマのインフレ政策――いかに大統領再選を買うか
【2012,2,4】
橋下の道州制のペテン――石原新党などを横目にながめつつ
【2012,1,27】
空虚な野田の施政方針演説――消費増税の前にバラマキ社会保障をやめよ!
【2012,1,20】
法治国家否定する橋下の“ファシズム”――最高裁判決を無視し、「君が代」処分を公言
【2012,1,14】
橋下の品のない扇動――大阪市なんて「ちっぽけな視点」で考えるな、と
【2012,1,7】
野田の消費増税を弁護――マスコミの恥ずべき堕落を糾弾する
【2011,12,16】
財政崩壊と国家解体は旦夕に迫る――族議員はびこる、自民にも劣る民主政治
【2011,12,10】
橋下の勝利を許したのは誰か――反橋下闘争の“戦術”的立場について
【2011,11,28】
橋下の野望は“ローマ進軍”?――ヤクザ“黒シャツ隊”(維新の会)を率いて
【2011,11,11】
平松も共産党も橋下に対抗できない――労働者の断固たる、自主的な階級的闘いを!
【2011,11,4】
野田政権の大ボラ――水田耕作規模五年で十倍化謳う
【2011,10,15】
TPP問題をどう見るか――偽りの自由主義と保護主義的反動の“対立”
【2011,10,8】
拡大する米国のデモ――世界資本主義の凋落の始まり
【2011,10,1】
朝日新聞は誰の味方か――原発事故に責任負うべき大資本の勢力を免罪に
【2011,9,25】
「朝日」の空疎な市民主義――60年安保やベトナム反戦は市民主義の無力教える
【2011,9,17】
沖縄でも策動強める反動派――「つくる会」系の教科書採用を企む
【2011,9,10】
野田新政権は「安定感」を売りにするが――自民党と同様なブルジョア的政治に接近・融合
【2011,8,31】
仏の顔も三度まで――民主党の政権たらい回しを許すな
【2011,8,20】
国会を駄馬の群れ集う場に変えた小選挙区制を粉砕しよう!――青年労働者を国会に送り込む運動を!
【2011,8,6】
日立と三菱重工の「統合」――日本の大資本の深い危機意識
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オバマのインフレ政策
いかに大統領再選を買うか
2012年2月11日
FRB(米連邦準備制度理事会、日本で言えば日銀)は、景気回復を図る政策の重要な柱として、物価上昇率を二%にするように財政・金融政策を運営し、〇八年からの「金融の量的緩和」の政策をあと三年近くも継続することを決定した。
経済危機に対応するために、財政、金融を“超緩和的に”動かしたいが、財政政策は限界に来ているから金融政策に依存するというのである。こうした“経済政策”を支えるのは次のような“思想”である。
「物価は、景気の動きを反映し、景気が悪ければ下がり、上向けば上がる。景気が大きく落ちこむと、物価上昇率がゼロ%を下回る『デフレ』になる。このためFRBは、安定した成長が続いている状態のインフレ率『二%』を目標とし、その達成のために景気を下支えする『金融緩和』を続ける姿勢を鮮明にした」(朝日新聞一月二十六日)
混乱した理屈である。要するに、物価上昇は好景気を意味し、物価下落は不景気を意味するから、物価上昇率二%を目指すというのである。それくらいなら一〇%でも二〇%でも目指せばいいはずだが、そういう物価上昇は困るというのである。彼らは今や「高成長」でなくとも、「安定した成長」なら「オンの字」だというのである。
だが現代のブルジョアたちのこうした理屈は、ほとんど詭弁のたぐいである。
仮に好景気が物価上昇と結び付いているにしても、だから物価を上昇させれば景気が回復すると言うことにはならない、つまりこの二つのことは別のことである。だが現代のブルジョアたちはこんなごく初歩的で、単純な真実も知らないし、また知ろうともしないのである、というのは彼らはますます頽廃し、痴愚化していく階級だからである。
実際には、九〇年代や〇〇年代、さらには〇八年の世界危機以降をとっても、国家支出の膨張や金融緩和も国内経済や世界経済の好転にほとんど影響を及ぼすことができず、過剰生産、過剰信用は解消されないで持ち越されて来たのであり、まさにそれ故にこそ、今やヨーロッパの財政・信用危機が深化するのである。
過剰生産のところに過剰生産を煽り、過剰信用のところに過剰信用を重ねるような政策を、一時的な効果に幻惑されて実行したとしても、根底的な解決にはほど遠い――そればかりか、かえってそれを妨げ、長引かせる――のは自明である。
二十世紀末から二十一世紀の現在の金融危機は、深化する資本主義の矛盾に対し、世界中のブルジョアたちがまず財政を膨張させ、ついで金融緩和の政策を次々と実行してきた結果でもあるが、そうした人為的な「需要」創出政策も、通貨膨張政策も、ほとんど意義を持たなかったばかりか、ますます財政危機、信用危機を世界的な規模で深化させ、拡大しただけであった。
彼らは今や財政膨張も金融緩和もままならず、今後さらに深化しかねない資本主義の危機に対してなすすべを失い、呆然としているかであり、今や“ファシズム体制”に救いを求めるしかないようにさえ思われる。
インフレ率を引き上げる、つまり人為的な物価上昇を図ることは、財政を通してであれ、国家金融を通してであれ、「通貨」を、つまり中央銀行券を必要量以上に流通に投げ入れ、あるいは押し込んで行くことである。しかしそれはただ労働者人民を流通を通じて、物価上昇によって追加的に搾取し、利潤率をあげることであり、そうしたやり方で好況――ただし見かけだけの、あるいは一時的な――をもたらすだけである。
他方、その通貨が流通外に滞留すれば「カネ余り」現象となり、そんなカネは寄生的な部分(国債等々)に投下される以外どんな利用価値もないのであって、ただ資本主義の一層の頽廃に資するだけである。
大統領選を前にしてオバマは「景気回復」のために悪戦苦闘するのだが、彼の“経済政策”の答えが出るのはもう少したってからであろう。(『海つばめ』1166号「主張」より)。
橋下の道州制のペテン
石原新党などを横目にながめつつ
2012年2月4日
石原新党の「綱領作り」の策動が行われるなど“保守”新党への動きがますます活発になる一方、橋下はそれを横目で眺め、気を持たせながら、マイウェイをつっ走る構えで、当初は100人で始めると言っていた「維新政治塾」を、総選挙をにらんで400人にも膨張させ、300人の候補者を立て、200人を当選させる、と豪語し始めました。単なるハッタリではなく、情勢と状況によっては大きな“ばくち”に出て来る可能性も十分あり得ます。
彼はヒトラーと同様に、“民主主義”の本性やその欠陥や利用可能性をしっかり自覚しており、また自民党や民主党、あるいは共産党といったブルジョア政党、プチブル政党の本性と臆病さ、無力さ、弱点、観念性等々を知り尽くしているのです。もちろん、橋下の政治の根底は国家主義的で、反動的であり、その政治手法はデマや中傷や権謀術数や暴力──それが“私兵的な”ものであろうと、権力的なものであろうと──等々といった、卑しいものでしかありません。道州制と言いながら、大阪市を解体するというのですから、言っていること、やっていることが矛盾だらけです。道州制は都道府県を解体し、市町村という単位自治体と国の間に「道州」を置くということであり、だからこそ大都市の市長等の支持が大きく、逆に府県知事等の反発が強いのですが、橋下は大阪市や堺市を解体しつつ、道州制だというのです。
もちろん彼が矛盾しているのは道州制だけでなく、彼の金看板である「大阪都構想」も一種のはったり以上ではありません、というのは「都」とはキャピタルつまり首都ということであって、政治の中心地でない大阪は遷都でもしない限り、「都」になれるはずもないのです。そんなデマを振りまいて、大阪市民を籠絡し、その勢いで、全国の国民全体を籠絡し、ペテンにかけようと策動するのです。
労働者階級は断固たる反撃に移らなくてはなりません。
空虚な野田の施政方針演説
消費増税の前にバラマキ社会保障をやめよ!
2012年1月27日
通常国会が開催され、野田の施政方針演説が行われましたが、野田政権が、民主党政権がいかにげす連中、つまり心の卑しい連中の政権であるかを、さらに決定的に暴露しただけでした。要するに言っていることは、自分は消費税増税を何としてもやりたい──というのは、それしか野田政権の延命の手立てがないから──、そしてこれは自民党のテーマでもあり、自民党が言い始めたことである、とするなら、自民党は喜んで自分に協力すべきであって、それをしないのは、国民の期待にそむくことだ、と言うのです。まるで「国民の期待」が、労働者の期待が消費税増税にあるかのような言い方ですが、民主党の連中は〇九年の選挙の頃には消費税増税は次の総選挙までは決して行わない、そんなことをしなくても、自分たちが政策──子育て支援などの「社会保障」政策、つまりバラまき福祉というペテン──を行っていくことは簡単にやれる、財源や財政状態のことなど、何の心配もないと叫んでいたのです。それが「財源」はないわ、子育て支援などのバラまき社会保障をするには財政は膨張させるわ──自公政権に輪をかけて──、で彼らの政治も社会保障政策も完全に破綻してしまい、選挙でもすればたちまち少数党に転落することは明らかなほどに追いつめられてしまったのです。
そこで今度は、たちまち転向して、突然に財政危機をわめきたて、増税によってこの危機を克服することこそ、将来の世代のためであり、国家を再建することだ、今これこそが国家的課題であり、民主党がその課題を果たすのだ、だから国民は野田政権を支持すべきであり、自民党は協力すべきだというのですから、厚かましいを通り越して、最悪のごくつぶし政権、と言うしかありません。野田の企むことは、鳩山や菅と一緒、つまり自分の政権を守り、いかにして延命──すでに野田政権はそこまで追いつめられてきているのです──するか、ということだけです(空文句や美辞麗句をつらねて白を黒と言いくるめようとするところは鳩山らと同じで、まさに民主党政治の特徴そのままです)。
自民党と同じく消費税増税をすると言うのだから、自民党も賛成すべきだということは、つまり自民党政治を根本的に転換し、変えるといって政権を握ったことは国民をペテンにかけるためだということを自ら白状しているにも等しいのですが、それを反省することさえできません。自分たちがバラまき福祉などで財政を膨張させ国家破産の危機をさんざんに助長しておいて、いまさら、国家財政が大変だから、増税を飲め、などと国民に言える道理もありません。まず総選挙では、財政危機などないかに、はでにバラまきを謳って、政権を簒奪し、そしてこれまで散々にバラまきにせいを出してきたことを、労働者人民に謝罪し、消費税増税ではなく、まず自ら、国家財政に寄生し、食い散らすような政治を止めることから始めるべきなのです(というより、政権を担う資格も能力もなかったのだから、民主党全体が退陣すべきです)。
野田は麻生の「持続可能な社会保障を実現するには、給付に見合った負担が必要です」と言葉を引いて、自分の消費税増税を正当化しようとしましたが、何をか言わん、です。バラまき社会保障をやって「給付」を無制約に膨らませながら、そのために消費税増税だと言えば、消費税率が20%、30%になってもたりるはずはありません(彼らは今や、消費税増税は5%ではたりない、さらに5%、10%必要だなどとキャンペーンを張り巡らし始めました)。これまで自公も民主も共産もみな、事実上借金を膨らませることでそんないいかげんなことを、つまりバラまき福祉で国民を買収することを、買収して議席と権力を手にすることをやってきたのですが、いまやそうしたやり方が限界に来たから、今後は消費税増税でやる、というのですが、そんなことが許されるはずもないし、またそんなやり方で財政の破綻状況が克服できるはずもありません。むしろ逆であって、ますます財政危機を深化させるだけであり、さらにそれに加えて、国民生活を根底から破壊し、まさに“危機”におとしいれるだけでしょう。我々は野田政権にただちにバラまき政治をやめよ、そして不公平で、正義も公正も平等も何もないような現実の年金制度などの、いつわりの“社会保障”を根底から破壊するくらいの覚悟で、その費用を徹底的に縮減せよ、と要求します。
そもそも民主党政権のいうことは厚かましく、破廉恥なのです。彼らは国民のための消費税増税であり、国民に還元するなどと言いますが、労働者のことを考えるなら、消費税増税を止めれば一番労働者のためになるのであって、労働者人民から消費税増税で収入の──というのは、労働者にとっては、収入の大部分は支出だから──5%もしぼり取りながら、労働者のため、貧しい人たちのためもないのです(もっとも野田は施政方針演説の中で、三回も「中産階級」(“分厚い”中産階級だそうです)のためにやると叫んで、その本当の階級的立場と消費税増税を強行する本当の目的を、本音を暴露していますが)。
現役世代のためではない、将来の世代のためだというなら、自らムダな支出やバラまき福祉を止めてから言うべきであって、現役世代、つまり労働者人民にのみ負担を強要しながら、労働者人民のためだ(その社会保障のためだ)、未来世代のためだ、などと言ってほしくありません。全く冗談ではありません。労働者人民から大収奪をしておいて、労働者人民のためのものだといつわり、見せ掛けようとしているところに、民主党とその政権の本当にいやらしい、詐欺師的、ペテン師的本性が暴露されています。
労働者人民は今こそ、「野田政権のバラまき社会保障反対、消費税増税をゆるすな!」、「野田政権を断固打倒しよう!」のスローガンを高く掲げて、公然と進出すべきときです。
法治国家否定する橋下の“ファシズム”
最高裁判決を無視し、「君が代」処分を公言
2012年1月20日
最高裁が君が代の起立斉唱を拒否した教員に、「戒告」を超える処分は「慎重にすべきで」あって、停職や首切りは許さないという判決を出しました。最高裁が否定したのは、事実上、橋下や石原が憲法や教育基本法の精神を無視し、踏みにじってこれまでやってきたことであり、敗戦後の民主主義体制を正面から否定し、“法的な”規制さえ意に介さない、専制的で、“ファシズム的な”野蛮政治以外ではありませんでした。彼らの教育政策は許されざるものであり、ただちに止めるべきということが、「司法の場」でも確認されたのです。
ところが、橋下は何を考えてか、反省する代わりに開き直り、今後も同じことを、さらに公然と、露骨に強行するというのです。彼は最高裁の判決の出たあと、何と君が代に起立斉唱しない教員は、違反のたびに指導研修を何回もやって徹底させ、それでも繰り返すなら、やはり戒告であろうと、首切りであろうと断固としてやると宣言しました。つまりこれまで以上に教員を弾圧、屈服させ、何が何でも、意地とメンツにかけても、君が代起立斉唱などを強要しようというのです。橋下は、この指導研修について、「違反状態が改善されるまで現場復帰は認めない。これ当たり前の話」などと言って、橋下のやり方に異議を申し立て、反対する教員や職員には、さらに弾圧、強圧を強めようとしています。まさに極悪の“ファシスト”的本性暴露というところです。
そして大阪府の教委もまた、最高裁の判決も何のその、その直後の一七日に、これまでの「現場説得の重視」という立場から転向して、「式場内のすべての教職員は国歌斉唱に当たっては起立して斉唱すること」という、問答無用の職務命令を出してきました。橋下らは正しかろうと間違っていようと、権力の暴力によって、盾突く労働者や教員を弾圧するというのですから、まさに“ファシスト”以外ではありません。
そして民主党政権も文科省も、地方権力を牛耳り、無法の限りを尽くすような悪党たちの越権行為や、“法治主義”など頭から無視するような“ファシズム的”政治を野放し、許容しているのですから、日本はすでに“法治国家”でさえありません。大阪府民は「国民としての権利」も「自由」も実質的に否定されているのですから、すでに府民であっても“国民”と言えない地位におとしめられてしまっているのです。つまり日本のあれこれの地方は今や、“ファシスト”の“超法規的な”強権政治、専制政治が横行する無法地帯、権力の無政府主義的蛮行がまかり通る、混沌そのものの地域に変質しつつあるといって決して言いすぎではありません。
橋下らの横暴と強権政治、ファシズム政治を許し、大目に見て行くなら、日本の行く末は暗黒の権力支配やファシズムや軍国主義の世界、1944年までのナチス・ドイツや1945年までの天皇制“絶対主義”の日本の再現、ということにならざるを得ません。今こそ橋下等に対する、労働者の団結と総結集が、総決起が求められているのです!
橋下の品のない扇動
大阪市なんて「ちっぽけな視点」で考えるな、と
2012年1月14日
橋下が「成人の日」に、品のない、げびた扇動を若者に向けてやっています。大阪の市役所の成人式に集まった五〇人ほどの二〇歳の青年たちに、「納めた税金を取り戻すように、政治に参加してほしい」、「政治に無関心なら、税金はまわってこない。票になるところに税金はまわっている」とか、「大阪市なんてちっぽけな視点で考えず、オリンピックをひっぱってこられるような大阪をつくりたい」とか、「若い人をえこひいきしないといけない」とか、青年にこびながら、盛んにたちの悪い、卑しい扇動をやっています。若者に投票を呼び掛けるなら、もう少しましな理屈を考えて当然なのに、この男の貧弱で、低俗な思想性と品性が暴露されています。そもそも「税金を取り戻すような政治」という発想自体が、最悪の個人主義や利己主義の政治そのものであって、社会のため、公共のため、働く人々のための政治とは違った、卑しい“物取り主義”の別名でしかありません。そんな矮小な政治を若者に勧めながら、社会を変えよなどと言うのですから、言う資格があると思っているのですからあきれます。この男は、先の選挙では「大阪市(の解体)なんてちっぽけな」問題のために立てと、府民を散々に扇動しておきながら、今度は、「大阪市なんてちっぽけな視点」など捨てよというのだが、その内容とは大阪にオリンピックをひっぱってくるといった、これまた石原と同様のつまらない、「ちっぽけな視点」でしかありません。橋下は「大阪を変えることによって日本を変える」とか豪語するのですが、今やそんな空っぽの言葉がたちまち“賞味期限”が切れそうなので、「大阪市なんてちっぽけな視点」など捨てよなどと言いはやし、今度は国政にでも打って出るとか、新しい幻想を広げるしかなくなるのです。彼のデマゴギー政治はただ新しいデマゴギーを積み重ねることによってのみ、その“生命”を保つことができるのですが、その“種切れ”のときが、デマゴギー政治の限界のときが、そんな政治を国民の大多数があきれて見限るときが、橋下の破滅と一気の凋落のとき、というわけです。そのときは決して遠いことではないでしょう、そして我々は橋下らのデマゴギー政治家を、つまり労働者の最悪の敵である“ファシスト流の”極反動の政治家たちを徹底的に暴露することによって、彼らの没落のときを早め、より完璧なものにするために奮戦し、労働者の闘いの道を切り開いていく責務があるのです。
野田の消費増税を弁護
マスコミの恥ずべき堕落を糾弾する
2012年1月7日
ブルジョア自由主義的マスコミの堕落は今や決定的な段階に来たというしかありません。というのは、朝日新聞などは先頭に立って、あるいは反動マスコミと一緒になって、消費税増税を断固やれ、やるべきだといった大キャンペーンを展開し始めているからです。日本経済新聞が「〔野田が〕反対派の抵抗に屈せず、増税の時期と幅を明示したことを評価する」と全面的な賛辞を送れば、朝日新聞も負けず劣らず、「『景気が悪いのに増税とは何事か』『ムダ削減が先決』。いずれの意見にもうなずきたくなるが、増税を先送りして行けば、未来はどうなるだろう。待っているのは『国家破綻』ではないか。野田政権が前途多難を承知で消費税率引き上げ方針を決めたのも、その危機感からにほかならない。政治は今こそ、増税を言うと選挙には不利だといったソロバン勘定でなく、国民のために行動しなくてはならない」(一二月三一日、小此木潔)とか、野田政権を懸命に励まし、激励して、首相は今やマニフェスト違反(放棄)であろうと、転向と非難されようとおじけづくことなく、消費税増税のために「豹変して進むしかない」、「覚悟を本当の形にせよ」(同社説)などと大声で声援しています。語るに落ちたとはこのことです。
朝日新聞はすでにこれまで、野田内閣と消費税増税を支持し、後押しする立場を鮮明にしてきて、「主筆」の若宮啓文もまた、「増税はまことに辛いが、〔国家が〕破綻すれば悲劇はその比ではない」、今や「増税なき財政再建」(これは三〇年前、財政再建を謳い、努力した――努力するふりをした――土光敏夫の立場だったが)など夢物語だ、とアジって来ました(一一月二一日)。
しかし朝日新聞などは〇九年の総選挙では、民主党を事実上応援し、「政権交代選挙」を演出して、民主党政権を実現したのですが、その時には、民主党はマニフェストで消費税増税は4年間やらないと「公約」したのです、それが今や民主党が300議席をいいことに──マニフェストはほとんどすべてを裏切りながら──、マニフェストに謳ってもいない消費税増税を、政権の最大の──唯一の?──課題として押し出してきたのです。当然に民主党を見捨て、糾弾して大キャンペーンを張っていいのに――というより、張るべきなのに――、朝日新聞に巣くうインテリたち、自由主義者たちはそんな裏切りの民主党をまたまた支持し、労働者人民にのみ重税を課すような政治に大賛成し、そんなひどい民主党の尻おしをして、消費税増税実現のために犬馬の労を取ろうというのです。これが、民主党と同様の労働者人民に対する裏切りでないとするなら、一体何でしょうか。
我々はブルジョア・マスコミの、つまり自由主義者や知識人や文化人の最近の堕落、頽廃を鋭く、徹底的に暴露することも、我々の当面の重大な課題の一つと位置付けるべきとさえ思われます。彼らは、例えばアジア太平洋戦争の時代、天皇制ファシズム政府や軍部のたいこもちの役割を演じたという、許しがたい“前科”をもっており、今後もいくらでも同じような犯罪的役割をはたしかねないのです。
財政崩壊と国家解体は旦夕に迫る
族議員はびこる、自民にも劣る民主政治
2011年12月16日
大資本や金持ちに減税をほどこしながら、財政が持たないといって消費税増税を策す民主党の悪政がますますはびこってきました。
野田政権は「税制と社会保障の一体改革」の美名のもと、消費税増税の策動をちゃくちゃくと進めていますが、そんな中で、政府の税制調査会は、来年度の“税制改正”に向けた「大綱」を決定しました。
内容は一言で言って、大企業と高所得者層や資産家に減税の大盤振舞をしながら、他方、その“財源”には無関心、無責任で、その結果財政崩壊にさらに拍車をかける、といったものです。
それを象徴するものは、自動車関連税の減税や補助金の積み上げで、自動車資本の強い要望を受けて、民主党や自民党の族議員たち、財務省、それに環境省や国土交通省までが一緒になって、その実現に狂奔しました。
まず自動車従量税ですが、現行の三千億円の半分の千五百億円を来年度から減税し、それ以降徐々にゼロにし、さらに近い将来は取得税も減税するということで、露骨な自動車資本のための政治でした。
さらに来年早々に期限の切れるエコカー口実の減税を三年間延長し、あるいは拡大さえしています。これは事実上の補助金で、ただちに廃止すべきですが、期限がきても廃止する気配さえありません。まさに自民党の族議員に劣らず、自動車大資本のために「犬馬の労」をとっているのです。
そしてこの見返りの財源が見つからないということで、今度の補正予算から三千億円を転用するというのですからまともでなく、あまりにひどすぎます。
こうした策動のヘゲモニーを取ったのは、民主党の税調を牛耳る中野寛成や古本伸一朗の自動車資本の手先のような族議員であり、さらには同じように自動車資本によって議員身分を保障されているような直嶋正行等が、「自動車減税が解決できなければ、消費税の議論に入るわけには行かない」と圧力をかけつづけました。そしてブルジョアやプチブルに大盤振舞して買収しなければ次の選挙で落選必至とあせる、民主党の多くの議員たちが、この流れに従うのであり、かくして大資本への減税策ばかりが「税制改正」などの名のもとで流行するのです。
彼らはこんなひどいことを繰り返していて、消費税増税などできるとでも思っているのでしょうか。要するに、民主党や野田政権は「税と社会保障の一体解決」などと言っても、そんなことをまじめには全く考えていない、ということです。
大企業には法人税減税でも何でもどんどんやって、また子育て支援などのバラまきにせいを出して、その結果財政が崩壊したら、せっぱつまって消費税の大増税に走り、そんなものを労働者人民に押し付けようというのでしょうか(野田は年内に、消費税増税の素案をまとめると豪語していますが)。
政府税調は、「有識者」が――こんな連中もろくな人間ではなかったにしても──追い出され、その代わりに民主党の政治家たち、族議員たちが入り込んで、政務官だ、何だとでしゃばっているだけで、一層悪くこそなれ、よくなるはずもないのです。こんなものが、民主党の言ってきた「政治主導」だというのですから、あきれてものもいえません。
今では民主党の政治は自民党のそれにそっくりです、というより、それより一層はれんちでさえあり、一体何のための「政権交代」だったのか、「政権交代」こそが目的であり、それが実現すれば大きな「改革」や「善政」さえも行われるかの幻想をふりまいた、朝日新聞などの自由主義的世論やマスコミはいかに責任を取るのか、「政権交代」を高く評価して、「建設的野党」でやる、つまり民主党政権に──陰ながら?──協力すると事実上宣言した共産党は、つまり民主党を美化し、幻想を振りまき、その悪政を助けてきた共産党は、自分の愚行とブルジョア根性をいかに総括し、反省するのでしょうか。
大資本は法人税減税や補助金はいくらでも要求し、他方では、財政が危機に陥る、消費税増税だと声高に主張しますが、それで済むと思っているのでしょうか。社会保障が膨張して財政が崩壊すると叫んでいますが、自分たちが補助金づけになりながら、法人税減税ばかり要求しながら、そんなことが言えるはずもありません。自分たちが先頭にたって「大きな」政府を実行に移してきて、財政崩壊は自分たちの責任ではない、などとどうして言えるのでしょうか。「大きな」政府は資本と自民党の責任以外ではありません。消費税増税でその責任を労働者人民に転嫁するようなことが許されるはずもないのです。
国家の借金がふくれ上がってきたのは、自民党政権が大資本のために、「成長政策」だ、「景気刺激」だと称して、無秩序に借金をしながらも膨大なカネを公共事業などに注ぎ込んできたからであって、労働者人民のための支出が増えたからではありません。社会保障の膨張もまた、自民党政権が人気取りのために、自分たちの議員身分や政権のために無責任な“バラまき福祉”に走ったからであって、大資本と自民党の責任以外ではありません。彼らこそがずっと政権をろう断し、政治をになってきたのであり、その責任を負うべきです、そして今では、民主党がその無責任政治の延長を引き受けているにすぎません。
橋下の勝利を許したのは誰か
反橋下闘争の“戦術”的立場について
2011年12月10日
橋下は「大阪都構想」を最大の争点として、ダブル選挙を闘ったが、それに対抗した自民党も民主党も共産党も、危険なデマゴギストの橋下を粉砕し、“叩きつぶす”ことができなかった、つまり橋下と闘うことができなかっただけではない、むしろますます彼を増長させ、彼の影響力拡大を手助けをするという、許しがたい役割を担ったのである。
橋下は自分が勝ったのは、自民、民主、共産には「全く理念がなかった、それを有権者に見抜かれた」からだとうそぶいたが、しかし「理念がない」のは橋下もまた同じであって、「大阪都構想」など“理念”の名に値しないのは一見して明らかである。
そして「理念のない」連中同士の争いでは、厚かましい方が、えげつないことを平気で言えて、平気でやれる方が勝つのである、つまり橋下はただより品がなく、より厚顔無恥に、さも本当らしくデマゴギーを振りまくことができたがゆえに勝ったのであって、「理念があった」からではない。そもそも「大阪都構想」などといった、言語矛盾で混乱した観念には「理念」以前に、少しの賢さも明瞭さもないのである。
しかし橋下の勝利に手を貸したのは、橋下に反対して闘ったすべての政党であって、労働者はこの教訓を決して忘れるべきではないだろう、というのは、これはますます増長するファシズム的勢力と彼らは結局闘うことができず、彼らの前に膝まづき、屈服し、労働者の闘いを敗北に導くことを教えているからである。
まず民主党である。
民主党は「地方主権」などというプチブル的スローガンを掲げることによって、自ら橋下らの反動首長の台頭に道を開き、彼らが思い上がって民主党やその政府に反対してさえ立上り、好き勝手に、無政府主義的に、横暴にふるまうことを可能にしたのであり、また彼らが策動し、勢力を伸ばす豊かな地盤――実際的、心理的な――を準備してやったのだが、まさにそのことによって、実践的に破綻したのである。
民主党の「地域主権」などのスローガンは、ただ橋下らの政治として、デマゴギーを駆使する半ファシズム政治としてのみ現実的であった。
共産党もまた、民主党とそれほど違った立場に立っていたわけではない。
共産党は自民党や民主党とともに、平松を支持することによって、橋下を大きく助けたのであった。つまり橋下は、既成政党がすべて平松支持で結集したと叫ぶことができたのであり、自らを唯一の既成の体制に対して果敢に挑戦し、その打破と「改革」の立場に立つものであると主張して幻想を拡大し、青年層などの支持を拡大することができたのであった。
我々は、橋下を打倒するように呼び掛けることは正当だとしても、平松支持を謳うことは間違っている、間違っているばかりではない、むしろ労働者への裏切りであり、許されない――というのは、平松もまた平凡で無力なブルジョア的、あるいはプチブル的な政治家にすぎないから、橋下と決して最後まで、一貫して闘うことができないから――、と主張したが、その正当性は完全に証明されたのである。
共産党は橋下に反対することは、平松支持であり、それ以外ではない、反橋下で結束しなければ橋下に勝てないとでも言うのか。しかし平松支持など言わなくても、橋下に反対していくらでも闘うことはできるのであって、むしろ平松派と一線を画して、断固として独自の労働者的闘いを展開すべきであり、そのことによって橋下一派の本性を“余すところなく”暴露して、彼らを追いつめ、彼らの打倒へと道を開くことができたであろう。
共産党は平気で自民党などと手を組むことができるような、破廉恥な党であることを、実践的に示してくれた。どんな弁解も――例えば、橋下を敗北させるために、等々――無用である、というのは、自民や民主と同盟しなくても、手を組まなくても、橋下に反対して闘うことはいくでもできるからである、あるいは自民党や民主党に手をしばられることなく、独自に、徹底的に闘うことによってのみ、現実に橋下を粉砕することができるからである。労働者が自民党や民主党と手を組み、これらのブルジョア政党、プチブル政党の闘いの水準まで降りて行くなら、決して橋下を打倒することはできないだろう、というのは、自民も民主も本気で橋下と闘う意思は最初から持ち合わせていなかったし、また事実闘わなかったからである。彼らはむしろ橋下と正面切って対決することを恐れたのである、というのは、これらの党の議員たちはたまたま手に入れた議員の地位にしがみつくしか能のない議会主義者たちであって、次の選挙に橋下一派と対立して、橋下派から攻撃され、あるいは相手候補に肩入れされて、自分の議席を失うことを恐れるからである(もちろん、橋下は愚かな自民や民主の議員の思惑など歯牙にもかけず、必要なら、彼らの選挙区に橋下派の候補者をいくらでも立てて来て、こんな臆病な連中を一掃するだろう)。
労働者は平松を支持するのではなく、独自の断固たる橋下との闘いを組織し、発展させることによって、むしろ平松をも暴露するのであり、すべきであって、労働者は単に橋下だけでなく、平松等ブルジョア的、プチブル的政治家に対する幻想からも解放されることなくして、ファシズム的勢力を一掃することも、自らを解放することも決してできないのである。
共産党は自民党や民主党のレベルに落ちて行き、「民主主義対独裁」という立場で、ただこんな立場でだけ橋下と闘った、つまりプチブル党や平松のレベルでのみ橋下と闘ったのである、つまり労働者的な立場やスローガンや闘いの展望は一切棚上げされ、その宣伝扇動は自由主義的、プチブル的なレベルにまで落とされ、切り縮められたのである。
とするなら、橋下一派が増長し、「改革」を気取り、人々を幻想で釣って、票をかき集めることができたのは当然のことであった。橋下にとっての、本当にこわい敵手――労働者の階級的な、妥協なき、一貫した闘い――は存在しないも同然だったからである。
橋下の「大阪都構想」に対して、共産党はどんな具体的な暴露も批判も実際には展開しなかったし、できなかった。橋下の政治を具体的な場で、具体的に暴露し、粉砕することなしに、橋下のデマゴギー政治ととことん闘い、粉砕することができないのは自明である、しかし共産党は平松の後について、「民主主義と独裁」の闘いである、といった決まり文句しか宣伝できなかったのである。
民主や社民や共産が――自民党は言うまでもないが――、たばになっても、反動派の勢力と闘うことが決してできないということ、彼らは闘うことなく戦線離脱し、敗走する、全くの“頼りないやから”にすぎないことが、大阪のダブル選挙でも完璧に証明されたが、労働者はこの教訓を決して忘れるべきではない。
ファシズム勢力を粉砕し、自らの解放に向けて前進して行く労働者の道は、共産党などを信頼していたら決して開けないこと、そればかりか、労働者の敗北さえ訪れかねないことが事実によって証明されたのである。
橋下の野望は“ローマ進軍”?
ヤクザ“黒シャツ隊”(維新の会)を率いて
2011年11月28日
大阪のダブル選挙で橋下が勝利しました。自民や民主や共産など「“既成政党”の包囲網」をうち破っての勝利で、“民主主義”の空洞化と既成政党の無力や頽廃や衰退を暴露しました。ごろつき政治家でしかない橋下一派の勝利が一時的な勝利として終わるのか、ファシズム的もしくはファシズもどきの政治の台頭の出発点なのかはまだはっきりしないとしても、国民全体が自由主義ぼけ、民主主義ぼけ、平和主義ぼけしている間に、政治の反動的な方向はますます鮮明となってきています。
投票者の内、三六%を占める“無党派層”の約七割が橋下に投票したということは、それだけで全投票の二五%、橋下の得票の四割ほどを占めたということで、橋下の勝利はいわゆる“浮動票”を集めての勝利、ということです。“既成政党”のなさけなさ、無力さを教えるとともに、橋下のデマ的政治が、どんな階級、階層に最もアッピールしたかを明らかにしています。もちろん、これは危険な兆候です。
橋下は「大阪都構想」を掲げて勝利しましたが、しかしこの“勝利”はデマゴギーによる勝利であって、その内実はつまらないものでしかありません。つまり大阪を東京のような体制にしようということであって、橋下のコンプレックスを暴露するだけです。もし大阪のための改革だというなら、東京などの真似事ではなく、もう少しましな改革を謳うべきであって、東京の体制が増しだから真似をしたらいい、などと東京都民でさえ考えないでしょう。それになぜ「大阪都」なのでしょうか、東京を超えないと宣言しているのと同然で、大阪府民に対する侮辱のようなものです。「新大阪府構想」等々でも十分なのに、「大阪都」など命名したこと自体が、橋下構想の矮小性とコンプレックスを教えています。
そしてこんなデマゴギーによって、選挙で勝利したからといって、公務員制度改革や「教育基本条例案」が選挙の洗礼を受けた、正当化された、今や市職員や教員のレッドパージもやると傲慢に、居丈高に、しかも勝利そうそうに言うとは、この男が選挙で本当に狙っていたことが何かを暴露して余りあり、権力主義者としての本性を、最低の人間性をさらけ出したと言うしかありません。「変革」にも色々あろうというものであって、かつてドイツのヒトラーの「変革」も、日本の軍部の「変革」も、「変革」だと叫ばれたことを、我々は思い出すべきです。そして橋下の言う「変革」は結局は“既成の”ブルジョアや特権者たちのものであり、その利益や権力を守るためのものに行き着くことほどに確かなことはありません。橋下が“既成の”勢力に反対しているかにふるまうのも、また橋下のデマゴギーの一つであって、彼がわめくのは“既成の”政治勢力が、つまり自民や民主が、“既成の”支配階級、特権階級のためにしっかりしていない、実際に断固として頑張ってやっていない、だから俺が代わってやる、ということでしかありません。
半デマ的、扇動的、ポピュリズム的、ボナパルチズム的な政治──ファシズムと内的に関係し、ファシズムへとつながっている──は小泉の詐欺的な郵政選挙頃からはびこってきましたが、民主党の国民総買収を策した「政権交代」選挙を経て、今や大阪の半デマ同時選挙へと“進化”し、時代の主流であるかにはびこってきました。ますます深化する資本主義の矛盾と困難の前でなすすべを知らず、ただその場かぎりの人気取り政策しかできない、無力で腐敗した既成政党の政治が、自民党や民主党の政権が、政治やくざのような橋下とか石原とか東国原とか中田などの連中をのさばらせているのです。権力の拡大のみを追い求める政治的賭博師たちはいつわりの“改革”をわめき、展望を見出せないブルジョアや、没落の危機におびえ、恐怖するプチブル層の幻想をかきたて、あるいは労働者の絶望に乗じて、支持をかすめとっています。危険な兆候が広がっています。自覚した労働者の断固たる反撃と総結集こそ急務であり、それのみがこうした流れに抗して闘っていくことができるのです。
かつてムッソリーニはナポリからローマへと進軍し(1922年)、権力を掌握し、イタリアの労働者人民を不幸と暗黒の時代に導いたファシズム体制を樹立しましたが、政治賭博者の橋下もまた同じ野望に燃えているのでしょうか。ファシズムは癌腫のようなものであって初期のうちに断固として粉砕し一掃するにしくはありません。橋下にこれ以上の策動を許してはなりません。
平松も共産党も橋下に対抗できない
労働者の断固たる、自主的な階級的闘いを!
2011年11月11日
大阪府知事と大阪市長を選出する“ダブル選挙”が始まりました。公然たる“ファシズム”政治に向かってつっ走る橋下と「維新の会」の野望を粉砕すること──彼らの政治の一歩一歩で、断固たる打撃を与えること――は労働者階級の焦眉の課題の一つになっています。
しかるに民主党は、次の総選挙で橋下勢力を「刺激」したりすることを恐れ、また「橋下人気」といった仮初(かりそ)めの現象におじけづいて、断固として橋下一派と闘うことができず、また闘おうとしていません、つまり民主党は橋下一派と馴れ合い、協調さえ“模索”するような、とことん堕落した党であって、こんなほとんどブルジョア政党、反動政党といっていいような腐った政党にどんな期待も寄せることはできません。
しかし橋下反対をわめいている共産党もまた同じようなものであって、彼らは橋下には反対するが、平松は支持するというのですからあきれたものです。橋下に反対するのだから、当然平松支持だというのが彼らの理屈ですが、しかし橋下に反対するということと、平松を支持するということは決して直接に同じことでも、結び付くことでもありません。志位は十日夕刻、大阪のなんば・高島屋前で叫んでいました。
「日本共産党は、平松市長とは政策的立場を異にするが、『独裁政治を許さない』という一点で、平松氏を自主的に支援し、党派の垣根を超えた共同の力で、橋下氏の野望を打ち砕く」。
共産党の立場、もしくは“戦術”は決定的に間違っており、共産党の日和見主義的、ブルジョア的本性を暴露するものでしかありません。労働者は橋下の野望を断固として粉砕すると共に、平松の平凡で無力なブルジョア的立場にも断固として批判的な立場を保持しなくてはならないのであって、橋下に反対だからと言って、平松支持を謳ったり、「支援する」などと言うべきでは決してないのです。
志位は「平松と政策的立場を異にする」ということは、平松がブルジョア的な政治家である、ということではないのか、そうでないとするなら、一体「政策的立場」が違うとはどういうことか、原則的な違いではない、共産党と事実上同じだということか。
共産党は今回は特別だなどと言って、予定していた独自の候補者をひっこめ、極反動の橋下の勝利を阻止するという“戦術”を採用しました、そしてこのやり方自身は“ごく常識的な”ことであって、むしろこれまでの共産党のやり方、つまり、自分の党の狭い利益のみを追求して、石原等の反動を落とす必要が客観的に存在する場合にさえ、あえて当選する見込が全くない候補者をたててセクト的に振る舞ったやり方──つまり実際に極反動を利したやり方──こそ正しくなく、我々はつねに一貫してそれを批判し、非難してきたのです。
共産党はセクト的に振る舞うことを、今回だけでも辞めたのはいいことでした、しかしこの党はすぐにセクト的立場から、その正反対の極端に走って、平松等との妥協を、実際上の政治的連合や協調や馴れ合いを図るというのです、つまり今度はセクトではなく、徹底した、恥ずべき日和見主義者として振る舞うのです。
当面、橋下の野望を粉砕することが課題だからといって、平松のようなブルジョア政治家を「支持」したり、「支援」したりする必要はなく、例えば平松への態度を一時的、実際的に「保留」して、橋下に反対して闘うことができるし、労働者の党派は闘うべきであって、平松のブルジョア的本性を隠したり、それを美化したりするような“戦術”はもってのほかのやり方であり、最悪の日和見主義として断固として糾弾され、一掃されなくてはなりません。
共産党は“スターリン主義”を公然と支持してきた、長い期間にわたって、反動やファシズムや反革命と闘うという口実で、ブルジョア勢力を支持し、政治的、実践的に癒着する“戦術”──つまり「人民戦線戦術」とか、「民主統一戦線」とかいったような──を採用して来ましたが、それは実際に労働者の階級的な闘いを発展させ、深化するのではなく、その解体や敗北を準備するものでした(一九三〇年代のフランスやスペインの経験を見てください)。
労働者ははっきりした自主的なスローガンを掲げて進出しなくてはなりません、しかし橋下に代わって平松支持だなどと主張するなら、労働者の闘いは台無しになり、堕落するだけです。労働者の独自の階級的な立場で一貫して闘いぬくべきであって、ブルジョア勢力を支持するなどと言う必要はなく、むしろ言うべきではないのです、むしろ反対に、平松の平凡で、無力なブルジョア的立場を暴露すべきなのです、もちろんここでは主として口先というより、橋下に反対して先頭にたって徹底的に闘うという、労働者の実際の実践的闘いによって、です。というのは、平松はその本性からして橋下とは決して断固として、最後まで闘うことができないからです。
自覚した労働者は“大阪決戦”でも、労働者の自主的な階級的立場を断固として保持し、橋下の野望の粉砕を勝ち取るとともに、平松の、そして共産党の日和見主義を実践的に暴露して行くべきであり、この立場だけが唯一の正しい立場なのです。
野田政権の大ボラ
水田耕作規模五年で十倍化謳う
2011年11月4日
民主党が、つまり野田政権が突然に、農家の水田耕作面積を五年で現在の十倍にするという“農業改革”案を持ち出してきた。
野田が議長を占める「食と農林漁業の再生実現会議」の“行動計画”であるから、野田の肝煎りの方針ということになる。もちろん、民主党はこれまで抽象的に、農家の耕作面積の規模拡大をいうことはあっても、こんな具体的な形で、しかも五年で十倍にする、などといった政策を謳ったり、持ち出したりしたことは決してなかった。
それでは野田政権は、こうした政策を本気で、そして具体的な展望があって持ち出したのだろうか。
もちろん、そんなことはないのであって、これは鳩山内閣が二年前に謳った、あの温暖化ガスとの闘いの二番煎じのようなもの、つまり大ボラのたぐいであろう。鳩山は当時、日本の温暖化ガス排出量を、一九九〇年比で二五%減らすと大言壮語したのである。
鳩山の大ボラと野田の大ボラの違いは、アメリカが執着しているTPP(環太平洋経済連携協定)に参加するための“伏線”であり、農業保護主義との闘いという“経済的な”動機があるのに対し、鳩山には、自分の名誉心という個人的で軽率な動機以外何もなかったということにすぎない。
しかし二人とも、それを実現する展望も、いかにしたら実現できるかという戦略も政策もないまま、ただ大ボラを吹いているという点では、つまり民主党の政治の本性を典型的に明らかにしているという点では全く同じである。
実際、野田には、日本の農家の水田耕作規模を五年で十倍にすることなど決してできないのである、というのは、そのためには農地に対する私権を徹底的に粉砕し、一掃することが必要だが、野田政権も民主党もそんな意思も決意も何も持っていないからである。
彼らがこれまで謳ってきた農業政策は、戸別所得補償政策、つまり露骨な価格支持政策であり、したがってまた徹底したバラまき政策だったが、規模拡大を謳うなら、こんな保護主義をまず止めることから始めなくては決して首尾一貫することはできないのである。
彼らは規模拡大の政策として、戸別所得補償の訂正を行うという、つまりこれまでのこの政策は農家の規模にかかわらず、あるいは専業、兼業に関係なく一律にバラまきをするとしてきたが、これからは規模の大きい農家、専業農家に有利なようにバラまきをするように修正する、というのである。
しかしこんな姑息なやり方で、たった五年の間に、農家の耕作規模を十倍にすることなど至難のわざであろう。単純に言えば、耕作規模を十倍にするということは、農家数を十分の一に急減させ、あるいは農業従事者数を急激に縮小するということだが、そんな急速で、ラジカルな変革が、戸別所得補償の小手先の手直しでできるはずもないのは余りに明らかであろう。
農家数は急速には減らさず、農地の所有権も集中せず、ただ耕作農地の集約を図るだけだ、というのか。
しかしそんな中途半端な農地の集約は本当の規模拡大ではなく、不安定で、非効率的であり、それゆえに決して規模拡大の本当の効果をもたらすことは期待できないであろう、仮にできたとしても、本当の効果を可能にするには、農地の所有権を集約しなくてはならない、つまり小土地所有や家族経営、零細経営の根底を変革しなければならない。
だが、この課題は戦後すでに数十年ブルジョア勢力のものであったが、彼らは私的所有のこの形態に手を付けることをおそれ――一つの私的所有を否定し、そこに手を付けることが私的所有一般の否定に、つまり資本主義の否定につながることを恐れたから、そしてまた小農民が強固な自民党の――今は民主党の――政治的基盤であったから――、すでに数十年、小農保護主義を克服することが決してできなかったのである。
民主党にもしこの限界を突破する決意と力量があるなら、野田政権の言うこともいくらか真に受けてもいいが、しかしそんな決意も意思も何もなくて、水田耕作規模をたった五年で十倍にするなどと言ってみたところで、単なる大ボラか、TPPのための意図的な虚偽か、どちらかでしかない。
しかも野田政権は、農業支援のカネの「消費者負担から、納税者負担への移行」といったことを謳い始めている。かつて自民党が唱えていたことだが、その意味は、農産物の価格支持や保護関税でなく、直接に税金を注入して農家を支援し、保護をするということであるにすぎない。
自民党にいたころの与謝野の持論であり、また小沢の戸別所得補償もまた同じようなものである、つまり保護主義をやめるということではなく、保護主義をいくらか違った形でやると、野田政権は耕作規模を十倍にする政策を謳いながらも誓っているのである。そんな形で実行される耕作規模十倍化といったものが、本気なものでないことは余りにはっきりしている。
野田政権は例えば、何百%という高い関税で保護されている、米を始めとする農産物の関税ゼロを本気で実行する意思があるのかどうか。それがまず問題である。
もしその意思があり、実際に行うなら、それは確かに日本の農業の変革の引き金にも契機にもなるだろうが、それを日和りながら、そして土地の私的所有に固執しながら、どんな農業の徹底的な改革を謳っても、それは空文句にしかならないのである。
他方、野田政権のやり方を続けるなら、国庫のカネがほとんど無制限に農家に支給されなくてはならない、というのは、外国の安い農産物に対する農業の保護規制を取り払い、国内の農産物の価格低落に対していくらでも農家にカネを払うというからである。
そんな政策がすぐに破綻し、耕地規模十倍化といったことがたちまち一夜の夢に終わることほど確かなことはないだろう。(『海つばめ』1159号より)
TPP問題をどう見るか
偽りの自由主義と保護主義的反動の“対立”
2011年10月15日
野田はこれまでの「安全運転」を転換し、TPP問題で勇敢にも「撃って出る」ことを決意したようです。いつまでも八方美人で、誰にでもこびへつらい、「いい顔」ばかりしていたのでは、結局のたれ死にするしかないと分かってきたということでしょうが、しかしいくら「撃って出」ようとしても、そんな決意だけでことがうまく行く保証はどこにもありません。野党のことを言う前に、民主党内に強力な反対派、抵抗勢力があり、また野田が農民層を懐柔しようと、「農業の再生と、高いレベルの経済連帯〔TPPのこと〕の両立を図りたい」とどんなに強調して見ても、保護主義に浸りきり、それに頼って生き延びてきた小農民層は簡単に乗って来ないだろうからです。
TPPは自由貿易主義の貫徹であるかに言われていますが、そんな主張は「ためにする」ものであって、FTAが「経済地域主義」なら、TPPもまたそうであって、その違いは、前者が二国間のそれであるのに対し、後者が数ヵ国のそれである、ということにすぎません。そしてTPPがアメリカを中心とした、一種の経済ブロックであるのは、推進者の大資本や政治家たちが口を開けば、早く参加しないと「米国の信頼を失って、日米関係を悪化させる」とか、この問題は「対米関係」を、つまり日米の同盟や結び付きを重視するかどうかの問題だ、と言いはやしていることからも明らかです。
だからTPP問題を“経済自由主義”の実現だというのは一つの欺瞞でしかありません。そのもう一つの側面は、経済の“囲い込み”、ブロック化であり、貿易自由主義の対極に立つ試み、帝国主義的政策の一つでさえあるのです。日本のブルジョア陣営が、いまさら貿易自由主義だ、そのためのTPP参加だ、これに乗り遅れたら日本の未来はないかに言うのはインチキもいいところです。というのは、日本はすでに前世紀から一貫して、世界的な自由貿易主義に抵抗する、最も遅れた立場にたち、農業保護主義に執着して、世界的な自由貿易の実現の手かせ足かせとなってきたからです。貿易自由主義に立つというなら、すでに前世紀にさっさとそれを実行に移すべきであり、そんな機会はいくらでもあったのです。そして今、TPPの参加に当たっても、農業の自由化だけはかんべんしてほしいと言いつづけているのですから、その優柔不断と愚昧さと反動性は世界のブルジョアたちの中でもトップクラスというところでしょう。
そしてわれらの共産党は、「TPPと原発は同じだ、両方を葬り去って、日本の農業と地域を守れ」などといった、プチブル反動のスローガンをかかげて、自民党や民主党と“闘う”というのです。TPPは自由化の装いの背後にブロック化の試みを隠しているのです、だからこそ、共産党の反対はピント外れであり、余りに民族主義的、プチブル反動的であって、容易に国家主義、帝国主義のスローガンに取り込まれ、そして結局はますますその勢力と融合して行くし、行かざるを得ないでしょう。我々はいつわりのブルジョア自由主義を徹底して暴露するとともに、プチブル反動の党として登場する共産党などに対する断固たる批判をさらに強めて行く必要があります。
拡大する米国のデモ
世界資本主義の凋落の始まり
2011年10月8日
アメリカの大都会で「ウォール街を乗っ取ろう」のスローガンのもとに、デモが拡大しています。その担い手は雑多であって、一般的に言えば、“中産階級”もしくはそれから落ちこぼれたか、こぼれる危機を感じている学生や青年、都会の失業者(もしくは失業予備軍)や、さらには破綻した小所有者階層であるように見えます。マスコミは、「でも参加者は必ずしも貧困層や失業者ではなく、街頭パーフォーマンスなどお祭り的要素も見受けられる」と報道しています(毎日、10月5日)。オバマの「雇用創出の」政策──来年の大統領選を意識して打ち出したが、共和党や民主党の一部さえからも反対されて、いま停滞している政策──と、どこかでつながっている感じ──つまりある種のうさん臭さ──もなきにしもあらず、です。したがって「富裕層・大企業優遇」を告発し、「福祉の切り捨て」を非難し、「金融ゲームにうつつを抜かす1%の大金持ちのせいで、私たち99%が苦しんでいる」と叫んでいますが、明確な綱領や政治プログラムもなく、具体的に何を要求し、主張しているのかさえもはっきりしません。もちろん、あれこれの主張や要求は掲げられていますが、しかしてんでバラバラであり、統一されておらず、無定形で、組織的な運動とは言えず、継続性や発展性は望めませんし、また本質的に労働者の組織的、階級的闘いとは異質であり、別ものであって、幻想を持つべきでありません。インターネット(フェイス・ブック、ツイッターなど)の呼び掛けによる運動ということも、この運動の階級的、政治的性格を暴露しています。こうした闘いが、仮に労働者の革命的な闘いに発展する契機を持つにしても、こうした運動はそのほんの始まりであって、労働者の階級的、組織的な闘いが発展し始めるなら、たちまちに一掃されるようなものでしょう。そしてもしこれが、労働者の一貫した階級的闘いに転化し、止揚されないなら、まるで線香花火のような一時的な運動として終わるか、ブルジョア自由主義の中に取り込まれ、急速に頽廃して行くしかないでしょう。この運動が、資本主義を告発しているように見えて、単なる“強欲な”金融資本とか、資本主義の“暴走”とかを非難し、「拝金主義」を槍玉にあげるだけのレベルに留まるなら、自由主義的、共産党的、ブルジョア改良主義的な限界の中に転落し、既存の“反体制”運動と同様なつまらないものになるしかありません。アメリカの歴史の中で評価しても、1930年代の戦闘的であり、組織的であった労働者階級の闘いのレベルにまで達するにも、まだはるかな道のりがあります。“アメリカのリベラル派”を自認する知識人たちが──ジョージ・ソロスのようなブルジョア投機家さえも、つまりデモが非難する金融資本の代表までもが──この運動を支持して参集しているのも特徴的です。
しかしいずれにせよ、アメリカ資本主義の中心において、公然と「反資本主義」のおたけびがあげられ、ウォール街に反響したのは象徴的であって、まさにアメリカ資本主義の、世界資本主義の牙城の、したがってまた世界資本主義そのものの凋落の始まりを告げ知らせたと言えるでしょう。再び三度、世界的な激動の時代、疾風怒涛の時代の幕が切って落されようとしているのかもしれません。
朝日新聞は誰の味方か
原発事故に責任負うべき大資本の勢力を免罪に
2011年10月1日
国会に原発事故に対する調査委員会が法律によって設けられるという。しかし事故にそれぞれに責任を負うべき――程度とか内容はいくらか異なるにせよ――民主党や自民党など既成の諸政党によって組織される“お手盛りの”調査委員会に、どんな期待も持てないのは明らかであろう。だがマスコミ――朝日新聞など――は、こうしたインチキ組織に対する幻想を広げ、「政府の調査・検討委の成果を踏まえつつ、真相に迫ることが期待される」などと、社説で空文句をふりまくのであるが、まさに許されざることであろう。
「事故調査が最優先で取り組むべきは、誰が悪いのかという犯人探しではない。綿密にデータを検証し、二度と今回のような惨事を起こさないための教訓をくみとることだ」(十月一日)。
しかしなぜ、事故の「真相」を明らかにすることと、責任の所在を、つまり「誰が悪い」かを明らかにすることが矛盾し、対立するのか、朝日は一体何のためにわざわざ「誰が悪いのか」――責任を持つのか――を明らかにすることはどうでもいいと語るのか、この重要な課題をあいまいにし、闇から闇に葬ろうと策動するのか。
民主党と自民党は、それぞれ事故に責任を負っているのだから、お互いに相手が悪いなどと云い合っていても不毛だ、そんなことに時間を費やすのではなく、ともに協力して「真実」を明らかにすることだ、とおっしゃるのだが、筋違いというか、矛盾しているというか、余りに云っていることがばかげていて、不真面目そのものである。
それぞれに事故に責任を持つ自民党と民主党が「調査委員会」などでっちあげても、泥棒に泥棒の取り締まりや摘発を依頼するようなもので、そんなことで「真相」など明らかになるはずもないのである。要するに朝日は、犯人を明らかにする必要はない、重要なことは「真相」だと云うのだが、悪事の「真相」を明らかにすることは、「誰が悪いか」を明らかにすることと少しも対立することではなく、両者は不可分であって、むしろ「誰が悪いか」を棚上げするような「真相」は決して本当の「真相」ではないし、なり得ないのである。ひょっとすると、朝日も「脛に傷を持つ」身であって、「誰が悪いか」を明らかにすることをひどく恐れているのではないのか。
朝日新聞などのマスコミは、アジア太平洋戦争(十五年間にわたる日本の帝国主義戦争、侵略戦争)の後、つまり敗戦時に、「一億総ざんげ」の卑しい風潮に事実上追随して、この反動戦争に責任を負うべき人々や階級や勢力――大資本とか天皇一家とか軍部ファシストとか反動インテリとか、さらには朝日等のマスコミとか――はいなかった、この戦争は原因さえはっきりしないままに起こったのであり、またそれを扇動し、そんな戦争に労働者人民の青年を根こそぎ駆り立て、何百万人もを死に追いやった許しがたい勢力や国家も存在しなかったかに云いはやし、また振る舞ったのだが、今また全く同じような厚顔無恥な主張を持ち出し、原発事故に責任を持つ悪党連中をかばい、免罪にしつつ、労働者をぺテンにかけようと策動するのである。
労働者ははっきり云ってやらなくてはならない、原発事故の「真相にせまる」ということは、あんなにも大きい被害と惨禍と労働者・働く者の苦難をもたらした事故には原因があるのであって、まさに自分たちの利益や特権のために「安全神話」を振りまきつつ、「安全」をないがしろにして来た人々や勢力こそが徹底的に暴露され、告発されて、その責任が明らかにされなくてはならないのだ、と。そんな連中を無罪放免にすることは許しがたいことである、と。
そしてまた労働者は、こうしたことは、事故の「真相に迫る」ことと少しも矛盾するものではなく、むしろその不可分の一部であり、あるいはその最も重要な契機であり、内容であると強調する。
我々は、原発事故の「真相に迫る」ことは、「誰が悪いか」を明らかにすることと結びついており、また民主党や自民党が、つまり事故に責任のある連中が“お手盛りで”組織するような調査委員会によってではなく、労働者自身の組織する何らかの機関や努力によってなされるのであり、またなされなくてはならないと主張する。
「朝日」の空疎な市民主義
60年安保やベトナム反戦は市民主義の無力教える
2011年9月25日
朝日新聞がプチブル市民主義の鼓吹者、先導者、煽動者としてでしゃばっています。巨大マスコミゆえに、その影響するところは小さくありません。戦後、社会党、共産党を先頭に、“左翼”はブルジョアマスコミ、プチブルマスコミと一貫して闘わなかったばかりか、実際にはそれらにこびを売り、追随してきました。その結果、平和主義や民主主義のイデオロギーの労働者への支配を許してきました。今こそ、産経や読売などの反動マスコミだけではなく、えせ“革新”マスコミに対する、断固たる、徹底的な闘いを貫徹すべきときです。朝日などは、民主党を支持した破綻した立場をごまかすために、今や「反原発」のチャンピオンとして登場し、そんなところに哀れな存在意義を求めようとしています。ブルジョア的、あるいはプチブル的“市民主義”こそが今や彼らの最後の隠れ家と言うわけです。反原発運動の表面的な、底の浅い盛り上がりに浮かれて、朝日は書いています(21日、社説)。
「人々が横につながり、意見を表明することは、民主主義の原点である。民主主義とは、普通の人々が政治の主人公であるということだ。国の場合は、議会制による間接民主主義にならざるを得ないが、重大局面で政治を、そして歴史を動かすのは一人ひとりの力なのだ」、「日本でも、60年安保では群衆が国会を取り囲んだ。ベトナム反戦を訴える街頭デモも繰り広げられた。それが、いつしか政治的なデモは沖縄を除けば、まれになった。政治的な訴えが通らない現実に、あきらめが先に立つのだろうか」。
まるで歯が浮くようなきれい事であり、欺瞞であり、空疎で軽い言葉が並ぶだけです。「民主主義の原点」が単に市民といった、不定型な人々が「横につながり、意見を表明する」ことだけに、いつから矮小化され、切り縮められたのでしょうか。労働者にとつては、「民主主義」とは歴史的な政治体制、資本の支配に適応した一つの政治体制であり、また自らの解放に向けて闘っていく一つの有利な手段でしかありません。また民主主義とは「普通の人々」が、つまり朝日などの言う「市民」が主人公だと言うのですが、「市民=普通の人」とは大体において状況に流され、定見を持たない――あるいはそれぞれの狭い階級的な独断や偏見にとらわれた――ブルジョア的、プチブル的俗物のことに他なりません。「歴史を動かしたのは一人一人の力だ」と言うのですが、一体どんな意味で、またどんな歴史的な事実に基づいて言っているのでしょうか。空虚な言葉はありますが、内容が全くない、つまりつまらない空文句以外でしかありません。60年安保やベトナム反戦の例を引いていますが、そんな例はむしろ「一人一人の力」がいかに無力であったかの証拠としてあげた方がいいくらいでしょう。朝日は「大衆」の議会外の闘い、直接的な闘いについて言うなら、敗戦後の怒濤のような労働者階級の大衆闘争について語るべきなのです。反原発の闘いも、市民=「普通の人たち」の「一人一人の力」によって闘われるなら、戦後の平和運動や核兵器反対闘争と同様の、無力な闘いとして終わることは確かでしょう。大江健三郎は「私たちには民主主義の集会や市民デモしかない」とアジっていましたが、彼らの“闘い”のプチブル的本質を、その根本的な限界を暴露して余りあります。
沖縄でも策動強める反動派
「つくる会」系の教科書採用を企む
2011年9月17日
沖縄県の「八重山地区」―石垣市、竹富町、与那国町によって構成される―で、来春から使う中学の公民教科書を、「つくる会」系の育鵬社のものにするか、他の教科書にするかで解決の見えない混乱に陥っています。
ことの始まりは、八月二十三日に開催された、教科書採択のための八重山地区協議会が「つくる会」系の教科書の採用を決定したのに、竹富町の教育委員会が、その決定を受け入れないとしたことであり、その結果、県の教育委員会の指導の下に、九月八日、三市町の教育委員全員による協議会が開かれました。そして今度は、世論の大きな支持を受けて、育鵬社のはやめて――というのはあまりにお粗末であり、根底に虚偽があるから――、東京書籍の教科書にすることが決まりました。二十三日の育鵬社のを決めた採択は、五対三で(竹富町の教育委員長が議長で採択に参加していなかったから、実際には五対四)、八日の逆転採択は七対四でした。
しかしこの決定には、今度は反動派が騒ぎたて、どちらの決定を有効とするかで今なお決着がつかない状況で、とうとう文科省が乗り出すまでになりそうです。反動派は、最初の決定はこれまでと同じやり方、民主主義的な決定であり、後者のやり方は“法的に”問題がある、と叫び散らしています。しかしたまたま地方自治体の首長に成りあがった反動が、八月二十三日の直前に規約を改正したり、委員の顔を入れ替えたり(つまり石原や他の全国の反動首長が常套手段にしている、例のインチキ多数派工作です)、さらには教職員が推薦する教科書から選定する事になっていた事も無視して不当に採択された「作る会」系の教科書に、どんな正当性もないことは明らかです。日本にせよ、どこの国にせよ、真実の歴史を教える事を「自虐史観」だからよくないなどとしたり、自国のことなら、帝国主義戦争でもどんな悪事でも正しいとせよと主張したり、多くの虚偽や愚劣や下品を盛り込んだ卑しい教科書を子供達に与えることなど許されることではありません。
しかしあきれた事は、野田民主党政権が反動派に味方し、森ゆう子副大臣は、二三日の協議会の決定が有効だからとそれに従うべきと発言するなど、反動派の尻押しの先頭に立っていることです。当然、文科省も同様の策動を強めています。
沖縄の世論は明らかで、沖縄の労働者人民が「つくる会」系の教科書を受け入れることはありません、だからこそ、反動派はきたない策動によってのみ、自分達の偏向した教科書を国民に、子供達に押しつけるのであり、それ以外の方法を持たないのです。今こそ、断固として醜悪な反動派の策動を粉砕して行くべきときです。
野田新政権は「安定感」を売りにするが
自民党と同様なブルジョア的政治に接近・融合
2011年9月10日
野田政権が誕生し、かなりの「支持率」です。鳩山や菅と比べて、何となく「安定感」があるということで、ブルジョア層、反動層に支持が多いということでしょう。鳩山、菅の破綻を経て、自民党政治からの決別と「改革」を謳って出発した民主党政権は結局“平凡で”、ありきたりのブルジョア政権に帰着しました。もっとも、いまだに“市民主義的な”しっぽをひきずっており、マニフェスト遵守、増税反対を主張する部分もおり、原発推進と撤退志向の両方がおり、党内の結束がかちとられ得るのか、それとも政界全体を巻き込んだ再編成がやってくるのか、民主党政権が崩壊し、総選挙が近いうちにあり得るのか。いずれにせよ、ブルジョア支配の動揺は深まりこそすれ、いくらかでも「安定」した段階に達して行くことはないでしょう。「政治主導」はどこへやら、これからは官僚と手を組み、けんか腰でなく協調してやるというのですから、自民党と同様な「官僚」(財務相や経済産業省等々)に追随し、その意のままに動く政府や大臣たちにならない保証は何もありません。政府と党の「二元論」を排し、政治のヘゲモニーを政府に「一元化」してやると言ってきたのに、「政調」を復活するというのですから、自民党のやってきたやり方(党と政府の「二元論」、もしくは族議員の跳梁跋扈)の完全復活です。野田は幹事長に小沢に近い輿石を持ってきて、党内「融和」を策し、マスコミも大いにそれを持ち上げ、期待していますが、しかしつい最近までは、“刑事被告人”の、金権腐敗の小沢支配や影響を一掃せよ、それこそが民主党の政治がよくなる出発点だとわめいていたのですから、マスコミのいい加減さ、無責任にはあきれるだけです。民主党が分裂状態を止揚して、しかも自民党と連合するというなら――民主党の反動化が進み、前原のように「非核三原則」も変えていくというなら、自民党との合同さえありえる?――、それはまさに大資本の寡頭政治の、寡頭支配体制の確立であって、消費税増税であろうと、賃金切り下げであろうと、首切りであろうと、社会保障の解体であろうと、財政崩壊であろうと、何であろうと、やり放題と言うことになりかねません(すでに半ばそうなっています)。閣僚を見ても、内在的で、強固な思想的、政治的、実践的な一致があるようにも見えず、ブルジョア的な大臣と“市民主義的な”大臣、増税賛成と消極的な大臣、いくらかでも力を発揮しそうな大臣と無能な大臣、等混在しており、到底内閣としての、政府として強固な団結とヘゲモニーを発揮できそうにも見えません。野田は一層ブルジョア的、“現実主義的な”政治に走ることによって、内閣としての「安定」や「堅実性」をみせかけ、確保しようとしていますが、しかしこの道は民主党が事実上平凡な(或いはごたごたばかりの、動揺し、混乱する)、露骨なブルジョア政党に転化していくと言うことであって、広汎な労働者人民の大きな不信と反撥を呼ぶだけであり、したがってまた、それは「安定」や「健全」から遠ざかることです。
仏の顔も三度まで
民主党の政権たらい回しを許すな
2011年8月31日
民主党は野田を、二年前に政権の座について以来、三人目の首相として選出した。
民主の政治の破綻はすでに余りに明白で、政権のたらいまわしなど許されることではないのに――彼ら自身、さんざん自民党のそれを非難してきた――、相変わらず権力の座にしがみつき、さらに大きな害悪を――“老害”ならぬ、“鰌(ドジョウ)害”を――世の中に流し続けようというのだ。
二年前、鳩山がさっそうと“マニフェスト”なるものを掲げて登場し、それが実行できなければ政権に留まるものではない、政権交代選挙、首相を選ぶ選挙だ、本当の民主主義の到来だ、「政治改革」の出発点だ、と啖呵を切って大喝采を博したのは、すでにうたた夢の如しである。
「八方美人」といわれる野田は、実際には「八方塞がり」の状況に置かれている。彼は党内選挙で小沢派を圧倒して勝利したのだが、勝利の後、ただちに小沢派に屈服し、配慮しなくてはならないのである、というのは、権力を維持して行くには民主全体の――つまり、小沢派の――支持を得なくてはならないのだが、その小沢派と、考え方や政策がほとんど一致しないからである。
他方、野田は民主の代表として首相の地位についたのだが、野党つまり自民党などとも妥協し、協調する――屈服して行く――というのである。
党内では、その立場や考えや政策が一致しないがゆえに、打倒し、勝利した勢力と連合し、さらに党外では、本来別個の綱領的な立場に立ち、違った政党であるがゆえに、政権を争った自民党と協調するというのだが、こうした複雑な諸事を両立させるのは、まるでもつれた糸を解きほぐすような難問、難題であろう。
野田を首相に押し上げた民主内の勢力は、小沢勢力に反対するために、その影響力を嫌うがゆえに、野田を支持したのである、そんな嫌悪する勢力と野田がたちまち妥協し、迎合するというのである。そんなことが大手を振ってまかり通るなら、彼らはたちまち野田に愛想をつかさないだろうか。
他方、小沢勢力は、野田が「党内融和」や「挙党一致」を掲げ、「ノーサイドにしましょう、もう!」と代表戦直後に叫んだことをたてに、小沢派優遇を要求するだろうし、それが受け入れられなければ、たちまち菅内閣に対すると同様に党内反対派にまわりかねないのであり、民主の分裂を策したり、菅に対したように、野党(自公)とさえ組んで、野田に反旗をひるがえすかもしれない。
野田は、自公との「三党合意」を重視するというが、しかしそれは二年前の総選挙のときのマニフェストの「見直し」を、つまり事実上の放棄を迫るものであって、民主政権の正当性も存在意義も否定し、民主の民主としての自己否定さえ意味するだろう。
だからこそ、民主の党内には、小沢派を中心に、民主の自己否定にも等しい自公との「三党合意」、マニフェストの放棄に対する反対や抵抗は根強いのであって、野田はこうしたジレンマに――もちろん、野田と民主が直面するジレンマはこれに尽きるものではないが――、たちまち立ち往生するしかないのである。
例えば、野田は「税と社会保障の一体改革」という菅内閣の掲げたスローガン――つまりこれは消費税の大増税を実行するという決意表明みたいなもので、野田が完全にブルジョア勢力に、そして財務省の軍門に下った証拠みたいなものだが――を踏襲し、断固として実行すると訴えたが、しかしこうした政治は、民主の中できちんと合意されたものではなく、単なる野田の願望であるにすぎない(“公約”は四年間は消費税増税はしないと主張した)。野田はこの願望を実現するには、民主の枠内を突破して、自民党などと組む以外ないが、それはまた民主の終焉、野田政権の終焉であり、それにつながるだろう。
ブルジョア勢力は――そして菅や野田は――財政再建と社会保障水準の維持という、二つの相反する課題を実現するには、消費税の大増税しかないと断言し、これをあたかも“国民”の間における「相互扶助」、助け合いであるかに描く――つまり“国民”の全体が消費税を負担して、高齢者の年金や医療費を支えるのだから――が、途方もないことであろう。
彼らは消費税増税が労働者人民からの追加的な大収奪であって、そんなものを社会保障のためだからと正当化できるはずもない、という肝心要のことを“いつも”都合よく忘れるのである。
野田が、ブルジョアや財務省の忠実な手代となって、“財政危機”と闘うために――社会保障の問題は消費税増税の本当の目的では全くない――大増税を公然と謳ったり、それを自公との「合意」で実現しようと企んだり、あげくのはてには、“保守”を印象づけようとして、「A級戦犯は戦争犯罪人ではない」とか、「戦後教育のゆがみを見直す」とか、つくる会の連中と大差ないことを口ばしってきた――いまも口ばしっている――ことは、この政治家の反動的な地を暴露して余りある。彼が自公の連中の“受け”がいい理由でもある。
愚昧なマスコミは民主の破産がこれほどまでも暴露されていてもなお、いいかげんな形で、大急ぎで押し出されたような野田を擁護し、望みを託すしかないのである、というのは、朝日などは二年前「政権交代選挙」だなどと大騒ぎして民主を政権に押し上げ、それに「夢」と「希望」を託した張本人だからである。
朝日新聞などはいまだに民主と野田政権への幻想をあおり、「三度目の正直だ」など言いはやすのだが、愚かな彼らはむしろ「仏の顔も三度まで」とか、「二度あることは三度ある」ということわざの方を思い出すべきなのである。
国会を駄馬の群れ集う場に変えた
小選挙区制を粉砕しよう!
青年労働者を国会に送り込む運動を!
2011年8月20日
菅が辞めて、事実上、「後継者」を選ぶ民主党の代表選挙が行われようとしています。冗談ではありません。
菅を退陣に追い込んだのは、単に菅が辞めればいいといったことではなく、民主党の政治を――もちろん、自民党の政治も同様ですが――労働者人民が拒否したということであって、民主党自身が退陣すべきなのです。そして自民党などが戻ってくるのが論外だとするなら、我々は既存の政党、政治家以外の政党、政治家を必要とするのですが、それは真実の労働者人民の代表でなくてはなりません。
国会が駄馬だけがはびこる場になったのは、労働者の代表を閉め出して、ブルジョアやプチブルだけが議員に成り上がれるような選挙制度、つまり小選挙区制などを採用してきた結果です。
労働者の代表がどんどん国会に出て行くようにならなければ、国会と議会はますます頽廃し、腐っていくだけです。
国会には共産党のように、労働者の代表もいるというのでしょうか。しかし共産党や社民党は労働者の代表というより、プチブルの代表でしかありません。本物の労働者階級の代表など、国会に一人もいないのですが、これこそ決定的な問題です。
今こそ、若い労働者がどんどん国会に出て行くべきであり、そして国会の場でもブルジョアやプチブルに反対して、断固たる闘いを貫徹すべきです。
腐敗し、行き詰まったブルジョアやプチブルの党は、国会の中で、労働者の勢力がいないことをいいことに、お互いになれ合い、傷をなめ合って、「大連合」とかいった策動にふけり始めました。
民主党と自公が連合すれば、国会議員の九割もが一団となった専制政治、独裁政治の始まりであり、消費税増税であろうと、どんな反動法案であろうと、何であろうといくらでも実行に移せるというわけです。
労働者人民は資本の搾取と支配に反対して闘うと共に、不正不公正な選挙制度とも闘い、それを粉砕して行かなくてはなりません。
政治の頽廃と腐朽の根源、小選挙区制を粉砕しましょう。
労働者の代表を国会に送り込みましょう。
日立と三菱重工の「統合」
日本の大資本の深い危機意識
2011年8月6日
我々が原発問題にかまけている間に、日本の大独占中の独占である、日立と三菱重工の「統合」の計画が明らかになり、2013年を目途に新会社を設立すると言うことです。世界でもトップを争うような巨大資本の統合は、日本の――そして世界の――資本主義の現在と将来において決定的に重大で、大きな意義と影響力を持っていくでしょう。経済停滞や長引く不況や「少子高齢化」など日本経済の沈下や衰退をもたらしかねない多くの契機もあらわになり、さらに巨大災害や原発事故に直面するに及んで、大資本の危機意識も深刻で、彼らもまた没落の予感におびえているのです。かくして彼らは厳しい国際的な競争のなかで生き延びるためには、自らを変革し、時代に対する対応を急ぐし、急がざるを得ないす。日本の大資本の合併再編成は、彼らもまた追い詰められていることの、危機意識の表現でもあります。我々はこうした大資本の動きにも大いに注目し、労働者の現在と未来における、その意味を考察し、明らかにしていく必要があります。
他方、菅内閣は原子力シンポへのやらせ動員などの責任を取らせて、経産省次官(松永和夫)、資源エネルギー庁長官(細野哲弘)、原子力安全・保安院長(寺坂信昭)の三人の更迭を発表しました。しかし原発事故にかかわる責任という、最も重要で根本的な問題では、どんな組織も個人もいまだに責任を追及され、明らかにされることもなく、ましてや糾弾されたり、追放されたりすることもありません。民主党とその政府自身も何の責任を自覚することなく、厚顔無恥にも居座りを続けていますし、班目もまた今もなお、破廉恥な顔をさらしながら、安全委員会のトップの座にしがみついています。労働者は、菅内閣のトカゲのしっぽ切りのような処分を許してはなりません。原発事故の責任をあくまで徹底的に追及し、民主党政府の打倒にまで、資本の支配の粉砕にまで労働者の闘いを高め、発展させていかなくてはなりません。これはもちろん、長期にわたる、困難な闘いですが、労働者階級が最後までやり遂げなくてはならない、労働者階級の歴史的な課題であり、責務です。
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