【2012,7.6】
電力買取制度に異議――「朝日」は“中産階級”(金持ち)の利益ばかり
【2012,6.29】
消費増税法案、衆院通過――二“大愚”政党制の歴史的破綻と解体の始まりだ<BR> 【2012,6.22】
自公民合意で消費大増税へ――余りに労働者人民をなめすぎだ!
【2012,6.15】
石原の尖閣購入のパフォーマンス――民族主義・排外主義で日中労働者の分断・対立を煽る
【2012,6.8】
橋下の「転向」と裏切り――資本に屈服し、原発再稼動賛成に
【2012,6.1】
野田政権、原発再稼働へ――事故究明も責任追及も「安全」政策もないままに
【2012,5.26】
G8のキーワードは「成長」――実質的な「成長」とは似て非なるもの
【2012,5.18】
階級的立場に立った共同を――“沖縄問題”と労働者の立場
【2012,5.11】
東電「国有化」の本質は何か――国民負担による究極の大資本救済劇
【2012,5.4】
メーデーの日の奇妙な光景――サルコジは労働者にもっと働けと
【2012,4.27】
小沢が無罪に――ブルジョア裁判のペテンと無力
【2012,4.20】
石原は「国益を損なう」な――尖閣諸島について“危険な”空論発言
【2012,4.13】
恐るべきマスコミの堕落――消費増税、マニフェスト放棄の野田を応援
【2012,4.6】
民主主義の擁護者装う橋下――“不正選挙制”による多数派は詐術
【2012,3.30】
消費増税法案を閣議決定したが――野田政権の先の見えない政権運営続く
【2012,3.24】
中国で激動の気配?――激化する自由主義派と“保守派”の権力闘争
【2012,3.17】
義家や橋下の教員・公務員攻撃――反動派のファッショ的な野心と策動
【2012,3.9】
「全国政党」へ雄飛を策す――橋下の「地方主権」の論理矛盾と危険な体質
【2012.2.24】
現代の危機の本質は何か――橋下の野望 明らかに
【2012,2,17】
日銀、インフレをわめいてどうする――「通貨の番人」はどうした?
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電力買取制度に異議
「朝日」は“中産階級”(金持ち)の利益ばかり
2012年7月6日
朝日は4日の社説で、「自然エネルギー・普及急ぎ新しい社会へ」と書いて、1日から始まった、“自然エネルギー”なるものによる電力を、電力会社が高値で買い取る新制度を美化し、擁護する見解を発表しました。
朝日新聞は最近、野田政権の消費税増税の策動──民主党内でさえ多くの反対があって達成の見込みもなく、ただ自公の協力によってのみ辛うじて成功させ得た、労働者人民の利益に反する策動──を全面的に支持するキャンペーンを張ってきましたが、ここでも、民主党のバラまき策動を、労働者人民や最も貧しい人々の利益に反しかねない、もう一つの策動を応援しようというのです。朝日のよって立つ階級的な性格は完全に暴露されてしまった、と云うべきでしょう。
太陽光発電を自然エネルギーなどと呼ぶのは間違っています、というのは、太陽のエネルギーを電力として利用するには膨大な設備などを必要とするからであって、その意味では自然エネルギーの名に値しないからです。個々の太陽光発電の設備費用は小さいかもしれませんが、しかし同量の電力を得るためには、他の発電よりも相対的により大きな設備やエネルギーを必要とするのです、つまり他の方法による電力獲得と比較して少しも効率的でも、自然の利用においても優れているということではななく、そんなものを自然エネルギーなどと呼ぶこと自体が概念矛盾でしかないからです。
太陽光は自然エネルギーだというのでしょうが、そんなことを云うなら、化石燃料であれ、原発であれ、みな自然エネルギーである点ではどんな違いもありません。人間はそもそも自然エネルギー以外のどんなエネルギーも知らないのです。プチブルたちは一体、自然エネルギーという言葉で何を云おうとしているのでしょうか。自らが社会についてだけではなく、“自然”についても何も知っていないことを暴露しているだけです。
朝日の社説は云います。 「自然エネルギーは比較的小さな資本で取り組める。基金を設立して風車などを共有したり、組合組織による『市民発電所』を運営したりと、地域単位での工夫も可能だ。『屋根貸し』などのビジネスも生む。〔高値の買取〕制度をうまく活用し、新しいエネルギー社会を築こう」。
我々はこうした朝日の綱領はまったくプチブル的であり、彼らの「新しい社会」とは典型的にプチブルの理想でしかないと結論せざるを得ません。「小さな資本」、「組合組織」、「市民発電所」、「地域単位」、「屋根貸し」等々、徹底的にプチブル向きの、プチブル用の言葉がいくらでも並べられているのが、その証拠です。
確かに太陽光発電には「小資本」が最もふさわしいのであり、だからこそプチブルや「市民」(“中産階級”と読むべきです)の世界なのであって、労働者の世界ではないのです(ソフトバンクなどの大資本も参画しますが、それは国家の応援があってはじめて──といっても電力会社がどんなに高値でも全量買い上げるというのですから、国家はとりあえず一円も負担しないで、それを電気利用料金の引き上げによって貧しい人々に転嫁するのですから、ますますこの制度の不合理や、いやらしさはきわだってきます。貧しい人々はその電気料金の値上げを拒否できないのです、というのは、政府と電力資本による独占価格を押しつけられているからです──、商売として成り立つからであって、純粋に経済的な視点からなら、利害に敏感な孫正義は決して手を出さないでしょう)。
分散した、高費用の「小資本」で生産するということは、社会的には膨大な余計の負担が生じるということですが、国家と民主党政府はその負担を独占の力によって、労働者や貧しい人々に強要しようというのです。自然エネルギーだから文句を云うなというのが、“傲岸な中産階級”の連中の言葉ですが、彼らは自分たちの理想とする「新しい社会」を建設したいとするなら、せめて自分たちの負担によって、それを追求すべきであって、貧しい人々にもっぱら負担を押しつけることで手に入れようとすることなど、どうして正当化できるのでしょうか。ブルジョアや“中産階級”の無神経と思い上がり以外ではありません。
消費増税法案、衆院通過
二“大愚”政党制の歴史的破綻と解体の始まりだ
2012年6月29日
自公民主の野合により、消費税増税法案が衆院を通過しました。社会保障との「一体的改革」を謳いながら、実際には増税を、しかも労働者人民への増税だけを「先行」させ、強要する許しがたいものになりました。
民主党や自民党、そして大資本の勢力は労働者人民にもっぱら増税を押しつけておいて、すばらしい快挙を達成したかにお互いに祝い合い、大いに浮かれています。彼らの目的が、ただ「財政危機」を労働者人民に転嫁して、いくらかでも解消して、資本の階級支配や解体していく国家を救うことだけであることが暴露されました。
「未来の世代のため」だとさんざんに宣伝されましたが、それは、今生きている労働者人民のための政策では全くないことを自ら暴露すると同じです。労働者人民への大収奪をごまかすために、「未来の世代」云々と言うだけで、偽りの空文句以外ではありません。野田政権や自民党も、全ての議員たちや高級官僚たちも、ただ自分たちのことを、つまり自分たちの地位や利益や特権的な身分のことだけを考えているのであって、今労働し、生活し、苦悩している労働者人民のことはもちろん、「未来の世代」のことなど“これっぽっちも”考えてはいないのです。
財政危機の原因の追及もなく、その原因もそのままに、いくら増税を繰り返したとしても、財政危機がなくなるはずもありません。1000兆円もの国家の借金があり、しかも年々数十兆円もの借金を積み重ね、増大させながら、10兆円ほどの消費税増税がほとんど意味を持たないことは明らかです。自民党や民主党がまずなすべきことは、年々数十兆円も増え続ける借金予算を改革することですが、バラまき政治しか知らない連中、そうした形でしか国民の支持を期待できない連中が、ただ無能無策のまま右往左往するだけなのは、けだし必然です。
野田は消費税増税を実現し、歴史に残る、大した仕事でもやったかに勘違いしていますが、客観的にみれば、ただ資本の陣営が長年課題にしてきたことを、資本の陣営や自民党に代わって強行したと言うことでしかありません。民主党は自民党に替わる、労働者人民のための政治をやるとかいって政権についたのですから、消費税増税はやらないと約束して政権についたのですから、野田のやったことはさらに許されざることです。
民主党と野田が労働者人民を裏切って、消費税増税を強行しようとすれば、自民党はもともとそれに大賛成ですから、そんな政治が大手を振ってまかり通ることになるのは当然の結果に過ぎません。総選挙で、労働者人民に消費税増税はやらないいと約束しておいて、自民党に屈服し、自民党と一緒になって消費税増税をやり、俺は「大したことをやったのだ」と思い込むことができるのですから、野田という人間が最低最悪の人間、余りにちっぽけな人間であることは明らかです。共闘したはずの自民党からも、くさし、おとしめられ、ばかにされているだけです。余りに愚かと言うしかありません。民主党の三代の首相がみんな同じようにつまらない人間ばかりであったと言うことほどに、民主党の本性を暴露するものはありません(もっともこれは自民党や他の政党とても、全く同じことですが)。
今回の茶番劇は、まさにブルジョア民主主義の、議会制政治の、政党政治の、小選挙区制と二大政党制(二大愚政党制)の、歴史的な破綻であり、その解体の始まりです。橋下や石原が、我が世の春を謳歌しようとしているのも当然です。彼らは「改革」や「実行力」を売り物に労働者人民をペテンにかけ、籠絡しようとしていますが、その客観的な役割は、大資本のための支配体制を、反動的、専制的、帝国主義的に再編成することでしかありません。
そして、ブルジョア民主主義体制の腐敗と解体は、同時に、ブルジョア・マスコミの、とりわけ朝日新聞などに代表される、えせ“進歩的”、自由主義的なマスコミの腐敗と解体であることも、決定的に暴露されてしまいました。朝日などの立場や観点は、今や支離滅裂、矛盾と混沌そのもので、昨日言ったことと今日言ったことさえ逆であり、どんな一貫性もなくしています。民主党と野田政権を擁護し、美化し、また消費税増税路線までも支持してきましたが、今やその路線は破綻しつつあります。行き詰まり、解体していく民主党と心中するしかないところにまで追い詰められているかです。
消費税増税法案が衆院で採択された直後、朝日はうれしそうに「ようやく一歩、前に進む。率直に歓迎したい」と書き、偉そうに、「首相と小沢氏はこの際、きっぱりとたもとを分かつしかない」、つまり自公民野合の政治にますます突進し、深入りすべきであると“忠告”をしています。3年前には、朝日は自公の政治を一掃して、民主党による「改革」を期待して論陣をはっていたのですから――しかも小沢の路線である、バラまき・マニフェスト選挙を擁護して――、朝日の無節操と裏切りといいかげんさは群を抜いています。
野田に忠告すべきは、小沢と手を切れと言う前に、自公と結んで、事実上自公の政策であった、消費税増税を強行する政治をやめよ、むしろ「きっぱりと」自公や、その政治と手を切れと要求することではないでしょうか。「09総選挙では、民主党は『消費税は上げない』といって政権を射止めた。国の借金が1千兆円に迫る中、それは無責任な『甘い夢』だった」などと、平気で書いて破廉恥だと思わないのですから、朝日の道徳心は最低だ、と言うしかありません。一体誰が当時、民主党政権をアジッたと思っているのでしょうか。
今や、危機はますます深化し、激動の時代は始まっています。現代の時代的状況と、我々の任務について深く考え、断固たる意志と決意を固め、闘いを推し進めるべき時です。
自公民合意で消費大増税へ
余りに労働者人民をなめすぎだ!
2012年6月22日
野田は自公民の合意を受けて、「何ごとも決められない政治からの脱却ができた」と豪語し、まさに本音を暴露しましたが、語るに落ちたとはこのことです。「決める」ことの内容を棚上げして、どんな悪法であれ、とにかく「決める」政治を目指すと言うことは、専制政治、ファシズムの勧め以外の何ものでもありません。
「何でも決められる政治」を合い言葉に、消費税増税であれ、原発再稼働であれ、無原則で、反労働者的な、下劣な政治がわが物顔で横行しています。野田は、会期の延長を図り、解散を回避しながら、自分の権力の維持だけを自己目的に策動しています。
そして、橋下も石原も、自公民の野合と消費税増税をみて、好機至れりとばかり、野望をたくましくするだけです。反動的な煽動政治の危険性は、自公民のなれ合いと癒着によって、一層大きな、そし決定的なものになったと結論しなくてはなりません。
自公民は情勢を甘く見て、「なんとかなる」などとなめているのですが、労働者人民の憤激と怒りは野田や谷垣や小沢の思惑をはるかに超えているのです。不可避であった民主党の空中分解と解体さえ、すでに現実のものになろうとしています。
石原の尖閣購入のパフォーマンス
民族主義・排外主義で日中労働者の分断・対立を煽る
2012年6月15日
石原が尖閣諸島を買うという国家主義的、排外主義的なパフォーマンスを展開し始めました。新党結成、総選挙をにらんで派手な言動を繰り広げ、自らの野望達成の突破口にしようと言うことで、権力主義以外何もない政治家の卑しい本性を暴露しています。石原自身、自分のやっていることが筋違いであり、まともではないことを自覚せざるを得ないのですが、国が何もやらないから俺がやるのだと、自分の筋違いと柄の悪いパフォーマンスを正当化していますが、しかし都が尖閣諸島を所有したところで、尖閣諸島を「防衛する」ことにならないのは自明です。
そもそも日本の「防衛」といったことは、たかが一地方自治体の首長にすぎない石原がドタバタしてもどうにかなるものでもないし、また日本の国家だけで、核兵器までも保有して武装している中国に張り合えるはずもありません。
現在の国際情勢の中で、また中国が置かれている国際的な地位の中で、中国が簡単に、日本が「実効支配」している尖閣諸島を武力で占領するなどできるはずもないし、また中国の支配階級がそんな「せっぱ詰まった」冒険主義に出なくてはならない必然性もありません。そんなことをすれば、アメリカと――日本とはもちろんのことですが――「事を構える」ことになるのは明らかであって、少なくとも今の段階では、それは中国にとって少しも利益ではないでしょう。中国が日本と正面から対立し、衝突することは、アメリカともそうなることであり、1945年以降の――あるいは1990年以降の――アメリカとソ連のヘゲモニーで確立された、世界体制と「世界秩序」に挑戦することであって――ちょうど日本やドイツが1930年代にそうしたように――、それは今の中国にとって、余り利益のあることではありません。
だから石原のやっていることは単なる個人プレー、見かけだけのパフォーマンスにすぎないのです。中国の「脅威」をあおり立て、危機意識をあおって、自らの権力を強化拡張し、そして反動派や国家主義勢力の進出を図ろうということで、客観的には世界の労働者人民を煽動し、駆り立てて反動的な戦争を挑発する以外ではありません。もし中国が武力によって尖閣諸島を「占領する」といった事態にでもなれば――もちろん、今の日中の政治状況は、そんな段階にまで立ち至ってはいませんが――、都が尖閣諸島を所有していたことは、マイナスになることはありえても、どんなメリットも意義もないことは自明です。
石原はそれほどに派手に振る舞いたいなら、いっそのこと、千島列島を「奪還する」ために、その武力占領でも訴えたらいくらかでも一貫しますが、しかしそんなことはおくびにも出せません。つまり「国士」を気取っていますが――ばかな男だ――、それさえも本気ではなく、ただ自分の腐った権力主義的欲望のために、「領土問題」を利用しているに過ぎません。
しかしこうした無責任で下劣な政治家の煽動が大きな影響を及ぼし、日本はかつて、“不幸な”反動戦争――1930年代から45年まで続き、何百万人の日本人が、未来ある青年たちが無為に死ななくてはならなかった、あの「15年戦争」、アジア太平洋戦争――に駆り立てられることになったのです。こうした歴史的な経験を反省するなら、石原らのやっていることは死刑にも匹敵するような犯罪行為であって、決して許されざることでありません。
そもそも石原とか橋下といった連中は、国は地方自治体に、経済や生活に関する権限や財政の自主権の多くを渡し、国家は外交とか「防衛」にもっぱら力を注げと言ってきたのです、そんな連中が何を思ったか、自分の権限もなく、出しゃばるところではないと自ら言ってきた「国防」のことに口を差し挟み、勝手なことをするというのですから、これは一種の国家の政策に対する妨害行為――石原が言いそうな表現を借りるなら、重大な、そして許すことのできない、一種の「国家反逆罪」――であり、断固として糾弾され、排除されるべきことです。
民主党政権の情けない“弱腰”といったものは、中国に対する以前に、石原や橋下に対して、つまり地方権力を握る、アナーキーの、“筋違いの”、法律や“秩序”を無視し、勝手気ままにふるまう、呆れたボス政治家たちに対して言われるべきです。こんな「恥も外聞もない」ような連中をのさばらせいる民主党政権は、それだけで退陣してしかるべきです。地方自治は弱い、「地方分権」だとかさんざん言われて来ましたが、実際には、くだらない筋違いのボスたちをいくらでもはびこらせるほどに地方権力は強いのですから、労働者はむしろ、こんな連中を断固とし規制し、沈黙させ、規制する程に強力で、毅然とした、民主的な中央権力をこそ要求すべきです。
石原は原発の住民投票では、「理性的、冷静な判断にならない」と反対しましたが、尖閣諸島の問題では、まさに国民の「理性的で冷静な」判断を妨げるような情緒的、感情的な煽動を、日中の労働者を対立させ、争わせる、危険で反動的な煽動を開始したのです。石原らは、自らの野心のために、野望を実現するために、国家主義的、排外主義的な煽動を開始しました――「領土問題」は、ヒトラー(ズデーデン地方問題等々)やムッソリーニ(ヒューメ問題等々)をみても分かりますように、いつでもファシストや国家主義の悪党たちが、彼らの野望と策動のために利用できる、格好の、そして最良の手段なのです――、そして言うまでもなく、こうした煽動は、事実上中国の反動派を活気づけ、彼らの策動や悪質な――石原らと全く同様な――煽動を容易にすることによって、ますます両国の労働者人民を対立や反発に、さらには憎しみや抗争に向かって押しやり、駆り立てるのです。
日中の反動派、国家主義派は今や共同して、手を取り合って、民族主義的、“愛国主義的な”――もちろん、口先だけの、建前だけの、偽りの、ですが――煽動を繰り広げ、日本と中国の労働者人民を対立させ、いつの日かは今は分かりませんが、戦争にまでも向かって駆り立てようとしています。日中の労働者階級はまさに、日中の反動派、国家主義派の共同の、悪質で品のない陰謀と策動に断固として立ち、国際主義の旗を高く掲げて、労働者階級の国際的な連帯をうち固めていくべき時です。
橋下の「転向」と裏切り
資本に屈服し、原発再稼動賛成に
2012年6月8日
橋下が原発再稼働を公然と認めてしまった。橋下の公然たる裏切りであって、彼の本性を暴露するものであろう。
橋下はこれまで、原発再稼働に走る野田政権をとんでもないことだと激しく批判し、総選挙で民主党を打倒する(四月十三日)とまで息巻いたのである。そのときと、今と、客観的な状況は何一つ変わっていない、にもかかわらず、橋下が稼働を容認する側にまわるなら、それは橋下の変身であり、稼働を迫る総資本や電力資本や自民党や野田政権――つまりブルジョア勢力全体――の圧力に屈服したということ、彼の「改革」の立場が本当はどんなものなのかを、その真実を自ら明らかにしたということであろう。
四月以降も、橋下は、政府の「安全宣言」は政府の判断であって、新しい規制機関による“正式の”基準によるものではない――そもそもまだ信用できる規制機関は組織されていない――、政府の“暫定的な”安全基準による原発再稼働を認めることはできない、とわめき続けてきた。
その橋下が、政府が自らの「安全基準」を“暫定的”なものと認めたから、大飯原発の再稼働を大目にみましょう、というのである。
しかし野田政権は大飯原発の再稼働を決して“暫定的な”ものと言ってはいないし、そんな気がないこと、むしろそれを全国の多くの原発再稼働の突破口にしようとしていることは明らかであって、橋下は自分の転向――というより、原発推進の本性――を隠そうとして詭弁を弄しているだけである。
野田政権が安全宣言を「暫定的なもの」と認めたから、原発再稼働容認に転じたと言うのだが、なぜ野田政権が自分の「安全宣言」を「暫定的なもの」と承認したから、再稼働を認めるということになるのか、むしろそんな信用できない「安全宣言」なら、暫定的なものなら、再稼働などとんでもない、ということになるし、ならざるをえないのではないのか。
橋下は「暫定宣言」のもとでの再稼働だから、夏場のピークを過ぎたらすぐに停止し、改めて「暫定宣言」ではない、本物の、信用できる「安全宣言」をせよ、ということだろうが、それは橋下のひとりよがりの、ご都合主義の結論であって、もし原発稼働が続いていくなら――そればかりではない、大飯原発の再稼働が、全国の原発の再稼働の出発点になり、その突破口を切り開く役割を果たすなら(その可能性は大きい)――、橋下は信用できない、仮の、ごまかしのような「安全宣言」を信用して原発再稼働を認め、許容したという、彼の犯罪的な裏切り行為だけが残るのである。
橋下は野田政権の、資本の「計画停電にでもなったら企業経営はとんでもないことになる」という脅しと圧力にあっさりと屈服し、再稼働をしたら野田政権を総選挙で打倒する、と息巻いた四月の発言も「撤回」してしまった。「振りあげた拳」の降ろしどころを失ったというわけで、みっともないこと限りなしである。
橋下は自分の破廉恥な転向を隠そうと、原発再稼働は、夏場の電力危機を乗り越えるための一時的、便宜的なものであって、夏場が終わったらまた停止するのは当然だとか言いつくろい、「ずるずると大飯が動き続ければ、国民は民主党政権おかしいじゃないかと思う」などと口走っている(朝日、6月2日)。
しかし、いったん原発が再稼働するなら、夏場のピークだけでまた中止といったことに決してならないこと、原発をいったん動かすということは、継続的に動かすことであること――それ以外なら、再稼働の意義など最初からないということ――は原発の特性からして最初から明らかである。
にもかかわらず、橋下はこんな見え透いた欺瞞を行って恥じないのである。彼自身、いわば全面降伏したことを認め、野田政権との対決は「もうなくなった」とぼやいているのだ。
しかし夏場がすぎれば止めると言っても、そんな展望がないこと、自分の言っていることは虚偽であり、気休めに過ぎないことを、橋下自身がよく自覚している。彼は自らの全面屈服を、「敗北」を認め、半ばやけっぱちに、「うわべや建前論ばっかり言っても――表面を取りつくろっても――しょうがない。事実上の〔原発再稼働〕承認です」。「負けたと言われてもしかたない」とつぶやかざるを得なかった。
しかし彼は他方では、まだ未練がましく、「暫定基準と暫定的な安全性だということは絶対譲れない。それを前提に、期限限定の稼働を求め続ける」と強がりを言っているが、そんな主張――例えば橋下は二十四日、アドバルーンをあげて、そんな見解を持ち出したのだが――はすでに野田政権によって、技術的にそんなことはナンセンスだとばかり、そっけなく否定されたのである。それで仕方なく、橋下は無条件に屈服するしかなかったというのが、ことの真相である。
実際野田政権は、国は、大飯原発の再稼働を突破口にして、それを全国の多くの原発再稼働につなげようと考えており、またそうした策動を強めている。それはブルジョア政権として公然と登場しようとする民主党政権の避けられない転向であり、進化――ブルジョア的進化――の道行きである。
実際大飯原発が「安全」で稼働しても事故につながらないというなら、他の多くの原発もまた「安全」ということであって、その再稼働が認められてならないと、誰も言うことはできない。橋下は大飯原発の稼働を認めたのだから、他の原発の稼働に原則的に反対することはもはやできないのである。そして政府の安全基準なら“暫定的な”ものであって、何か他の規制機関の安全基準なら信用できるというが、実際には、これまでも“信用できる”規制機関の安全基準は山とありながら、実際に、福島の原発事故は起こったのである。橋下の立場はますます自己矛盾したものになっている。
大飯原発の再稼働問題での、原発問題での橋下の立場の破綻は、橋下政治の化けの皮が剥がれ始めたことを暴露し、彼の政治の凋落もまた今後必然的に進むことを示唆している。橋下の破綻は今後ますますはっきりし、次々と発覚してくるだろうが、我々はそれをその場で、一つ一つ執拗に暴露するし、して行かなくてはならない。
野田政権に屈服する橋下は、これまで地方(自治体)から中央の政治を変えると豪語してきたが、今では、原発再稼働は「政府が決めることである」と言うのであり、そんな逃げ口上によって自らの責任を回避し、転向の言い訳にしようと策動するのである。
しかしこれまでは、地方が頑張って中央の政治を変える、地方がリードすると大言壮語してきたのだから、原発問題でも、その再稼働問題でも、橋下らがヘゲモニーを握っても一向に構わないのではないのか、都合が悪くなると「政府が決めるべきだ」などというなら、地方からヘゲモニーを握るということは単なるご都合主義の、人気取りの空文句に過ぎなかったということか。
野田政権、原発再稼働へ
事故究明も責任追及も「安全」政策もないままに
2012年6月1日
野田内閣が、大飯原発の再稼働を決意し、近く実行に移すと言います。夏の電力需要に向けて、その危機を乗り切るため、と言うことですが、総資本と電力資本の意を受けて、彼らの利益を図ってのことであって、まさに民主党の、野田政権のブルジョア的本性を暴露するものでしかありません。
事故の総括も、:原因の究明も、責任も、「安全」のための制度改革も、何一つまともになされない中での、原発再稼働は許されるものではありません。事故につながった無責任体制は全くそのままです。東電は、事故の膨大な費用も、燃料費の膨張も、さらには自然エネルギーの途方もない高値での買い上げの出費も、つまり「味噌もくそも」含めて、自らの責任を負うべき費用を、当然面をして電力消費者に、労働者人民におしつけようと、厚かましい策動にふけっています。
野田政権も国家も、原発の規制機関の改革も新設も何もなされないままに、そんなものはすべて先送りしながら、原発再稼働に走ろうとしています。福島事故を不可避にした、大資本や「原子力村」の体制や考え方ややり方は、基本的に何一つ変わっていません。そしてまた、鳩山、菅の二代の動揺的な政権を経て、民主党野田政権は結局はもう一つのブルジョア政権、自民党に替わる、あるいはそれ以上の徹底したブルジョア政府に過ぎないということ、民主党による政権交代はペテンであって、労働者を瞞着し、ごまかすということ以外のどんな意義も持たなかったと言うことが、「一体改革」は言うまでもなく、原発問題も含めてすっかり明らかになりました。
政党政治の腐敗、頽廃が極限に達し、解体しつつある中で、マスコミもそんな民主党政権に追随し、悪政の片棒を担いで、無節操、無原則、無気力をさらけ出している中で、石原や橋下の破廉恥な策動がますます活発で、実際的なものになって来ています。マスコミは橋下政権をアジり、そんな「期待」を振りまき始めました。ファッシズムや軍国主義が台頭し始める時の危険な気配がかもしだされています。そして既成政党は共産党まで一緒になって、あいもかわらない矮小な改良主義の政治、権謀術数と駆け引きだけの政治に明け暮れ、本当の危機とその深刻さを自覚していません。
労働者の独自の闘いを強め、深めていくべきときです。
G8のキーワードは「成長」
実質的な「成長」とは似て非なるもの
2012年5月26日
G8のキーワードは「成長」だった。
しかしこの「成長」は、単に「緊縮政策」に対立し、それに対置された意味での「成長」であって、経済の実質的な「成長」を可能にし、もたらす「成長」の概念とは「似て非なる」ものであった。
資本主義的な「成長」とは産業資本の概念であり、その資本蓄積を、「拡大再生産」を意味するのであって、そうした内容の欠如する「成長」とは結局見かけ倒しのインチキでしかない。
いつわりの「成長」がすぐに破綻し、破裂した風船のようにたちまちしぼんでしまったのは、日本の一九八〇年代のバブルがいい経験だが、ブルジョア世界の歴史と現実は、そんなたぐいの“まやかし成長”をいくらでも知っている。
実際、キャンプデービッドに集まった世界の“先進国”――といっても、それはすでに実力に相応する諸国ではないのだが――の「首脳」たちが実際に頭に描いたのは、ただこれまで、経済危機の中で幾度となく用いられて来たような政策、国家が財政や金融を通してカネを気前よくバラまく政策、「緊縮策」から「積極策」への転向という、凡俗にして陳腐なやり方でしかなかった。
彼らは本当の「成長策」とは何かについて真剣に考えることも、それを提起することもできなかった。それについてまじめに検討したなら、いま彼らがすっかり放棄しようとしている「緊縮策」もまた立派に――むしろ“正統派的な”意味では、本当の――「成長策」であることに気がついたし、またそのように評価し、位置付けなければならないことを確認できただろう。
むしろ彼らはこうした、まだいくらかでも健全な観念を忘れ、自分をも他人をもごまかすためにこそ、声高に「成長策」や、そうした路線への転換を叫び立てたのである。
実際彼らは、これまで不況や経済危機だといって乱用してきた、財政金融の歯止めのない膨張政策に後戻りする以外、どんな新しい観念も提出することができなかった。
彼らが持ち出し得たものは、旧態依然〔きゅうたいいぜん〕たる緩和〔かんわ〕政策、つまり世界の多くの国の財政崩壊や経済の寄生化や頽廃につながったような、まさにそんな政策でしかなかったのである。
しかし不況と闘う手段と「成長策」は決して同じではない。
無原則な財政や金融の膨張政策がいかにして「成長策」になり得るのか。そんなものは「成長策」どころか、単なる因循姑息〔いんじゅんこそく〕の緩和政策、世界の諸国家の財政危機、経済危機を準備したやり方そのものである。
不景気と闘うために役にも立たなかった政策、無力であることが暴露されて来た政策でなく、国に依拠するばかりの企業に厳しく、むしろ企業や経済の“体質”を根底から強化し、あるいは健全化する政策こそが「成長」の出発点だという反省もあって、「緊縮策」を固持する方向で、EUはこの間やってきたのではなかったか、それをいまここへ来て、それを逆転させ、無にする政策が持ち出され、そしてそんなものが「成長政策」だといつわって呼ばれているのである。
彼らは、つまり世界のブルジョア勢力は、自分たちのバラまき政策をまたまた正当化し、擁護して、来たるべき選挙でも労働者人民をさらに瞞着(まんちゃく)し、だまし続けようというのである。
彼らはまだ「財政再建の継続」を謳い、「成長」との両立も盛んに強調されているが、もちろん「両立」の展望や具体的な方法については何も言われていない。
「緊縮策」から「成長策」への再転向は、彼らの再出発ではなく、その泥沼への転落と最終的な破綻を教えている。彼らは「緊縮策」にも「成長策」にも、すでに救いを見出すことができないのである。(『海つばめ』1174号「主張」より)
階級的立場に立った共同を
“沖縄問題”と労働者の立場
2012年5月18日
「沖縄返還」もしくは「復帰」40年ということで、“沖縄論”が花盛りです。沖縄と「本土」の相互的な疎外感はますます拡大して、深い溝が広がっているとか、「差別を解消する」必要があるとか、さらには沖縄の方からは「沖縄独立論」――沖縄はもともと「大和」とは違った国家、「琉球王朝」の独立国家だった――なども唱えられるとか、要するに沖縄県民と他の国民を区別し、或いは差別して、両者の違いや対立さえも言いはやす傾向です。
しかし我々はこうした理論は本質的にブルジョアやプチブルの思想ではあり得ても労働者の思想ではあり得ないと強調します。
というのは、労働者階級は、資本の支配とその国家に全国的な規模で団結し、力を合わせ、集中して闘う階級、そうしなくては決して資本の支配を打破できない階級だからであり、地方ごとの違いや「区別」を言いはやして、地方ごとの労働者を区別し、対立させ、争わせるようなどんな思想も企みも有害であり、労働者の闘いの発展にとってマイナスであると結論するからです。
労働者の置かれている地位や状況は、したがってまたその闘いの性格や内容も、日本の、世界のどの地方でさえも基本的に同様だからです。沖縄は「差別されている」と言うより、日本の国家がおかれている、このブルジョア世界、帝国主義的世界での地位や立場を反映し、それを象徴しています。
沖縄の軍事基地は――それがアメリカのものであれ、日本のものであれ――世界の諸国家の関係の中で、またその力関係の中で、強国が支配する帝国主義的な世界の中で規定され、またその中での日本国家の階級的性格や立場や役割によって規定されているのであって、「基地負担」を単に全国で「平等に」すればいいといった問題ではありません、それらはすべて、日本の、世界の労働者階級の闘いによって、資本の支配や帝国主義、軍国主義とともに一掃し、葬り去れるべきものであって、どこそこに移せばいいといったものでもないのです。
沖縄の、全国の「基地」は――単にアメリカの基地だけでなく、日本の軍隊の基地も――階級国家の、帝国主義や軍国主義の粉砕や一掃と共に、つまり労働者階級の闘いの発展とその解放と共にあるのであって――その道がどんなに迂遠に見え、困難に見えようとも――、それ以外の展望を持つことはナンセンスであり、また空想です。
東電「国有化」の本質は何か
国民負担による究極の大資本救済劇
2012年5月11日
野田政権は東電を「国有化」して再建を図ると言います。しかし「国有化」や「再建」や「電力の安定供給」や「原発事故の補償」とかのためだ、などと言うのは本当の理由でも動機でもありません。
民主党は──もちろん、自民党なども同じ穴のムジナですが──最初から、「カギのかけちがい」をしたのです、つまり事実上破産した──“経済法則”のままに放置したら、ブルジョア社会の普通のあり方としては、確実に破産したし、せざるを得なかった──巨大電力資本を“救済”するために、つまり大資本の経営者や、電力資本に資本を投下しているブルジョアたち(株主)や膨大な債権を持っている大銀行を、その利益を保証するためにのみ、これまでも多くのカネを──税金を、あるいは国が借金したカネ(これもまた国民の負担です、仮に現在の負担でなく、将来の負担だとしても、です)を──注入してきました、そして今また、「国有化」ということで、1兆円もの国家のカネを注入しようというのです。
株を引き受けるという形だから、単なる補助金ではない、将来国家の負担となると言うわけではない、と言いますが、しかしこれは大銀行や株主が負うべき負担を国家の負担に置き換えるということであり、やはり究極の、銀行や株主の利益の保証です。
何の定見も信念も節操もなかった民主党政権は、経営者たち、銀行や株主の利益を、電力大資本の利益をまず真っ先に考え、東電の延命を策しました、そしてその延長線上に、にっちもさっとも行かなくなって、東電の「国有化」に逃げ込むしかなかったのですが、「国有化」を言うなら、まず東電の破産を前提にしてから、つまり原発事故の負担をまず大銀行や株主に転嫁してからにすべきであって、最初から間違っていたのです。
東電が原発事故を引き起こした以上、破産するしかなかったのは余りに明白でした。今までにすでに2兆5千億円といった巨額のカネが注入され、さらに今度は1兆円だというのです。東電は膨大な賠償の負担を背負っており、簡単に「再生」され得るような展望はありません。
「財務改善」を早急に勝ち取り、再び“健全な”資本として再登場させる、などと言いますが、その手段は原発再稼働であり、電気料金の大幅な引上げだというのですから、二重、三重に労働者人民に負担と犠牲を要求することによってのみ、可能となるということですから許されざることです。まるで思い上がり、独善で、気楽な考えでやっているとしか見えません。
「合理化」で3兆円をひねりだすなどとも言いますが、そんな展望など実際には全くなく、確かな見通しなどあろうとなかろうと、ただ言葉だけを並べて国民をぺてんにかけようとしてしているにすぎません。 もし「国営」東電も破産だ──破産させなくてはならない──ということになれば、これらの国家支出の多くが浪費となり、そのまま国民の負担ということになりかねません。
労働者はこうした“ブルジョア的な”救済に断固として反対し、まず問題の解決を電力資本や銀行や株主の負担で、そしてまたブルジョア勢力の全体の負担と犠牲において行うように要求するし、しなくてはなりません。
メーデーの日の奇妙な光景
サルコジは労働者にもっと働けと
2012年5月4日
フランスの選挙戦はますます珍妙な色彩を帯びてきました。メーデーの日、サルコジはトロカデロ広場で、メーデーに対抗して大統領決選投票のための集会を開きました。そこは高級住宅街のパリ16区。集会の名前は「真に働く者の祭典」というのですが、集まったのは「若手の企業経営者」や、今は退職者になった人々が中心でした。
そして彼らに対して、サルコジは「働くことで危機を脱せる。借金も返し、成長できる」とアジっていました。奇妙な光景です。働くものをしぼりとって繁栄を謳歌しようとするブルジョアたちや、今は働くことをやめて優雅な寄生的生活を送る連中が、働く労働者たちに向かって、さらには失業者たちに向かって、「もっと働け、そうすれば豊かになれる」と言って集会を開き、気勢を上げているのですから。おまえ等は福祉だとか、手当だとか、そんなものばかり要求している、だから国がダメになったのだ、労働者はひたすら働くことによって、自らも国も豊かになれるのだ、というのです。
日本でもブルジョアたちは、多くの労働者を“非正規の”労働者の地位に落としめ、さんざんに搾取しながら、盛んに「もっと働け、仕事の選り好みなどしてなまけているのではないぞ、失業などと言って働かないで手当ばかり当てにしているのは許さないぞ」と言いはやして来ました。
しかし、労働者が働いて実際に豊かになれるのだったら、自ら働いた成果が自分のものになるのだったら、労働者は自ら働くことをどうして避けたり、嫌悪したり、絶望したりするでしょうか。実際には、労働者はいくら働いても豊かになれず、むしろますます貧しく、困難な状態に落ちこんで行くばかりです、そして挙げ句の果てには失業においやられるだけです、他方、資本は労働者の犠牲によって肥え太って行くのみです。
ブルジョアやサルコジらが不況などを口実に、労働者の首を大量に切りながら、労働者に向かって、労働者よ、もっと働け、まじめに働け、なまけるな、などというのは余りに破廉恥だと言うしかありません。労働者のメーデーに対抗して、ブルジョア陣営、寄生者たちが集まって、労働者に向かって「もっと働け」などというのは余りに厚かましいと言うしかありませんが、しかしこうしたことはこの資本の支配する社会の本性を暴露しているのであって、日本でも全く同じ風景をいたるところで、いつでも確認することができるのです。
小沢が無罪に
ブルジョア裁判のペテンと無力
2012年4月27日
小沢が「強制起訴」された裁判で無罪になりました。
すでに有罪となっている秘書との「共謀」が実証されなかったから、といったふざけた理由からですが、小沢が秘書と「共謀」したかしないか以前に、小沢の“関与”など──単なる“関与”どころか、秘書に指示し、指導したことさえ──余りに明白であったにもかかわらず、です。
小沢の主任弁護士の弘中は、無罪判決が、裁判官が権力者小沢の立場に配慮した結果でもあったこと、つまり不当なものであったことを事実上認め、「小沢氏のような有力な政治家の場合、その起訴は本人だけでなく日本の将来にも影響を与える」(朝日新聞四月二七日)などとうそぶく始末です。
労働者人民の些細な罪にも目くじらを立てて追及し、有罪を“立証”する裁判官等は「有力な政治家の場合」は余りに明白な犯罪にも無罪を宣言するのですから、ブルジョア裁判制度や裁判官や巨額のカネのために弁護を買ってでる弁護士など、全く信用できないことも明らかになっています。労働者はブルジョア裁判が小沢の無罪を宣言しても、そんなものには一文の価値も正当性もないと結論するし、しなくてはなりません。
強制起訴に対して、「素人」が何を言うのかとか、起訴されると被告、つまり小沢の負担が大きいとか言いはやされています。しかし権力者たちが正当に裁かれず、有罪が無罪にされるからこそ、検察審査会という制度が設けられたのであって、そもそも「玄人」の裁判がインチキだからこそ、のものです。
今度の裁判でも、裁判官は、小沢が秘書のやること──四億円の、あるいは数十億円の巨額の不正資金の動きや使用等々──は知っていたばかりではない、それを指示し、実行させていたことは事実上認めていながら、「共謀」という形式的な行為があったかどうかを明らかにできなかったから無罪だといった、形式議論をもちだしているにすぎず、労働者人民の理屈ではありません。労働者人民の正当な理屈や判断による裁判なら、百%有罪なのです。
また検察官が証拠を改竄(かいざん)したといったことが表面に出る中、「だから小沢の罪は問えない」といった雰囲気が故意にかもしだされ、小沢無罪につなげられたのですが、まるで筋違いの陰謀のようなものです。検察がでたらめな捜査やでっち上げをするなど「いつものこと」であって、小沢の犯罪追及の過程で、そんなことが仮にあったとしても、だからといって、小沢の有罪宣告に配慮や手心を加えていい、などということになるはずもないではありませんか。
また小沢が記載を確認していても、「虚偽記載」という自覚がなかったから、つまり罪の意識がなかったから、有罪にできないというのですから余りにおそまつで、不当、不正義の理屈というしかありません。犯罪はまずその客観的な内容において裁かれるべきであって、犯罪者の主観が仮に問題になるとしても、その後のことにすぎません。犯罪人の主観によって有罪、無罪が決められたら、裁判も何もありません。小沢のような悪党が、自分が金権腐敗の犯罪を「悪い」と思っていてやるはずもないではありませんか。
要するに、今回の小沢裁判は「有力な政治家」に対する茶番裁判、特権的優遇裁判であり、その無罪判決は不正、ごまかし、詐欺のようなものにすぎません。
“正式の”裁判も、“市民”なるものが起訴した「強制起訴」によっても、小沢の犯罪の真実が明らかにされず、小沢が、つまり「有力政治家」が罪に問われず、のうのうとして政治的に生き延び、延命して行くとするなら、残された裁判は労働者人民による「裁判」しかありません。
労働者はいつの日か、多くの罪を犯しながら「無罪」を装っている、すべてのブルジョアたち、権力者たち、「有力政治家」たち、裁判官たちさえも裁き、これらのすべての悪党たちに断固として「有罪」の宣告を下すだろうし、下さなくてはならないのです。それまで労働者は、彼らの犯罪のすべてを──大資本の勢力や天皇制軍部が行った、かのアジア・太平洋戦争(一五年間も戦われた、反動的な帝国主義戦争)などを筆頭に──記憶し、記録に留め、決して忘れないようにしなくてはなりません。
石原は「国益を損なう」な
尖閣諸島について“危険な”空論発言
2012年4月20日
国家主義、排外主義を振りまいて、諸国の労働者人民をお互いにけしかけ、対立させようとする悪党等の策動が目立って来た。我々は石原慎太郎について言っているのだ。彼は最近、尖閣諸島の島を都が買う、日本の領土は「都が――つまり石原が――守る」と大見えを切っている。
すでに都知事として頽廃し、国家権力に野心を移した石原は、「面白いだろう」といった無責任な感覚で、ただ中国や台湾を挑発するだけの発言をするのだが、それはただ「新党」を作って「国政」に進出するという野望のためであり、「国益」に真っ向から対立するのである。
実際、鳩山がイランに行って“勝手な”発言をしたのが「国益を損じた」というなら、たかが地方自治体の一首長が、国家の専管事項――石原もまたそう言ってきた――について、国家の外交に関する重要で、微妙な問題に“勝手な”発言をすることは、鳩山以上に「国益を損じた」とどうして言えないのか。むしろ石原の方がはるかに罪が大きい。
国政に進出し、より巨大な権力を握りたいといった石原のような権力妄者たちは、今や橋下や東国原等、枚挙にいとまがない。彼らはただ権力のための権力に野望を燃やすだけの、他人の上に立って威張ったり、目立ったりしたいだけの、最低の人種であり、“ニヒリスト”たちだが、そんな連中にとって「国益」を声の限りにわめくことが、自らの野望達成のための最短距離に、非常に好都合な方策に見えるのである。
ブルジョアたち、特権者たち、ニヒリストのファシストたちは、自分たちの権力や利益や特権や支配体制が揺らぎ、崩れていく危機を感じると、つねに国家主義や排外主義をあおりたて、自国の労働者人民を他国の労働者人民にけしかけ、相互的な憎悪心や敵がい心をあおりたて、相手国家の“危険性”――そんなものがあろうとなかろうとお構いなく――について大騒ぎしてきたし、今もするのだ。それはただ、そんな“危険性”を誇大に言いはやすことによって、「国を守らなくてはならない、そしてそのためには石原や橋下に頼らなくてはならない」と思い込ませるためであるにすぎない。
要するに、石原や橋下といった悪党たちは、ただ自分のことだけを、自分の権力とその膨張だけを考えているにすぎない。
彼らはニヒリスト、すなわち究極の個人主義者、利己主義者として、「権力」といったものにしか、つまり他人の上に立ち、他人を支配することにしか野心を燃やしたり、喜びや満足を得ることができないのだ。それはまた、そんな歪んだ人間たちの情けない劣等感の、心根の卑しさの、内的空虚や貧困の現われでもある。
彼らの言うことはもっともらしく聞こえる。というのは、中国や北朝鮮やアメリカなどの国家主義者たちもまた、石原らと同様に、他国の“危険性”について大騒ぎし、自らを「祖国防衛」のための英雄であるかに装い、核兵器保有だ、ミサイル発射だと大騒ぎしているから、つまり金一家等々の軍事優先や挑発や“危険性”もまた明らかだからである。
かくして、石原の仲間は世界中に十分いるのだから、彼らはお互いの存在の“危険性”についていくらでも言いはやすことができるのである。
彼らはいわば共謀して、世界中の労働者人民をお互いにけしかけ、対立させ、闘わせようとするが、しかし労働者人民はそんなワナに決して乗ってはならないのだ。
労働者は単に国民的存在であるにとどまらず、すでに国際的な存在であり、また労働者階級として資本との闘いという共通の課題を持つ仲間である、まさにそれ故に、国民相互として対立し、戦争するのではなく、反対に、資本の支配を克服することをめざす兄弟姉妹として、国際主義の精神にしっかり立ち、労働者の国際的な団結と友好の精神にそって、石原等の陰険な策動を共同して断固として反対し、一掃して行かなくてはならないのである。
恐るべきマスコミの堕落
消費増税、マニフェスト放棄の野田を応援
2012年4月13日
マスコミは口を揃えて、「野田よ、がんばれ、決意をもって断固やり遂げよ、日和るな」という大合唱です。何をがんばるかと言えば消費税増の強行突破をがんばれと言うのですから、今や朝日や毎日を先頭とするマスコミの雄たちの頽廃と裏切りは、行き着くところまで行き着いたと言うしかありません。
財政崩壊をもたらし、国民経済と国民全体の生活の危機を招いたのは、大資本の利益であり、また自民党や民主党の政権の犯罪であって、労働者人民には何の関係もありません、そうした根本の総括もなしに、労働者人民への大収奪である消費税増税の片棒を担ぐとは、朝日などが労働者人民に背を向けて大資本勢力の公然たる味方に転じたということ以外ではありません。
さらにまた、民主党は09年のマニフェストで、消費税増税を4年間はやらないと誓って政権を握ったのです、その民主党の政権が国民への約束までも踏みにじって、「政治生命をかけても」、「命をかけても」消費税増税をするというのですから許されるはずもないのですが、それを批判し、糾弾すべきマスコミは露骨に野田政権に協力し、強力な応援団の役割を買って出たのです。
今やマスコミもまた、民主党と同様に厳しく断罪されなくてはなりません。民主党の裏切りの片棒を担ぐ限り、朝日や毎日を先頭とする、自由主義的マスコミは完璧に破産し、堕落の淵に落ち込んでしまったのです。
新しい革命的な“マスコミ”が、労働者の立場を一貫して擁護し、闘い抜く新聞が登場しなくてはならないのです。ブルジョア・マスコミ、プチブル・マスコミの頽廃の深化する中で、『海つばめ』の充実と拡大めざし、我々はさらに奮闘していく決意です。
民主主義の擁護者装う橋下
“不正選挙制”による多数派は詐術
2012年4月6日
橋下は「今の世の中で国を変えるための戦〔いくさ〕は選挙」だと喝破した。まるで民主主義のチャンピオンであるかの発言だが、実際には“専制君主”、全能の権力者に成り上がろうという野望を隠すためのごまかしでしかない、というのは、日本の選挙制度は徹頭徹尾、非民主的なものであって、そんな選挙の結果など全く信用できないからである。
橋下や民主党、自民党は、現行の選挙制度を本当に民主的なもの、つまり労働者人民の本当の意思を正当に反映するものに改革してから、民主主義や議会制度について語るべきであって、さもないなら、選挙の結果の正当性などについてあれこれ言うことは決してできないのである。
日本の議会制が最低の非民主主義に転落したのは――それまでの制度も民主的だったとはお世辞にも言えないが――、二十年ほど前、反自民の諸政党が寄り集まって、こともあろうに、自民の長年の念願の小選挙区制を採用したときからである。
小選挙区制とは“首長”(大統領)選のやり方を、三百に小分割した選挙区で一斉に行うというものである。つまり国民の意思を最大限に奪い、反映させないように工夫された、不正義と不公正の極地のような制度である。ここでは、五〇%近い――ある場合には大部分の――国民の意思も簡単に切り捨てられ、排除されるのだが、こうした選挙制度は根底から不当なものである、というのは、総選挙は一人の「首長」を選出することとは全く違い、国民の意思をできるだけ忠実に反映する何百人もの代表を選出することをこそ課題とするからであって、さもなければ、国会は国会(国民の議会)の名に全く値せず、その任務や役割を果たすことはできないのである。
議会選挙を三百の小選挙区に分けたことによって、日本の議会制度、選挙制度は、民主的な制度としてすでに死んだのである。ここでは「死票」が五〇%に近づくだけではない、例えば選挙に参加するためには供託金が必要だが、それは二、三の政党を除いて、多くの政党を国政選挙から事実上締め出すのである。
小選挙区で立候補するには三百万円の供託金が課せられていて、三百選挙区に立候補するには何と九億円のカネが必要であり、さらに比例区にでも参加するなら(政党としての参加しか認められず、しかも立候補するには十人以上の候補者が必要)、ここの供託金は一人六百万円、最低で六千万必要となる、つまり総選挙を全国的な規模で闘うためには何と“参加料”だけで十億円が必要で、しかも一定の票数を得なければ、このカネはすべて没収されるのである。自民党や民主党以外を排除しようという、二“大愚”政党の陰険なエゴだけがギラギラした、ペテンそのものの制度でしかないのである。
こうした小選挙区制によって保証される二大政党制とは、二“大愚”政党制のことであり、政治の頽廃と反動化をもたらしただけであった。そして橋下は小選挙区制を悪用しようとして叫ぶのだ、選挙とその結果こそすべてであり、神の声である、労働者人民はよろしくその結果に、つまり橋下の意志の下に従うべし、と。
全く冗談ではない。選挙の結果がいくらかでも正当なのは、それが徹底的に公正であり、民主的なものである限りであって、不正選挙制やいんちき選挙、詐欺選挙によって選ばれた連中など誰が信用できるだろうか。そんな議員どもがみなゴミくずでしかないのは、現在の議員たちを見れば一目瞭然である。
プーチンや多くの独裁者たちは投票された用紙を露骨にごまかし、すり替えたり、水増ししたりして不正選挙にふけるのだが、他方、日本の政治家たち、橋下らは最初から、いんちきの選挙制度をでっちあげて、いくらかスマートに、不公正で非民主的な選挙を実行するのだが、“合法”の装いをこらし、国民をペテンにかけている点で、プーチンや中東のアラブ世界の独裁者たちよりたちが悪く、悪党だと言うべきである。(『海つばめ』1170号「主張」より)
消費増税法案を閣議決定したが
野田政権の先の見えない政権運営続く
2012年3月30日
野田政権はますます追い詰められています。消費税増税法案の閣議決定の承認を取り付けようとした民主党の「事前審議」は、野田政権が、2、3%の「経済成長率」を増税実施の条件とするとか、追加の消費税増税は削除するという妥協案も出したのですが、反対派の勢いは衰えず、「内閣への一任」は認められたとは言えない雰囲気でした。
法案の内閣承認は勝ちえましたが、民主党の意思を一つにまとめて前進しようという野田の思惑は事実上挫折し、小沢派を解散で脅して抱き込むか、自民党のお慈悲にすがるか、それとも解散して強行突破をはかるか、先の見えない賭博的な政権運営が続きます。
「経済成長率」を前提に消費税増税をするというなら、それはほとんど消費税増税はできないということだと言われるような状況で、近い将来、万策尽きてやけくその解散、総選挙という賭博にでる可能性さえあります。そしてそうなれば、橋下らが漁夫の利を得て大躍進するだけの結果になるのは目に見えています。
ますます激動のときは近づいてきました。
中国で激動の気配?
激化する自由主義派と“保守派”の権力闘争
2012年3月24日
中国において、激動の時代が接近している気配が、政治的闘いが発展する気配が漂ってきました。重慶市の王立軍・副市長が米総領事館に逃げ込む事件が起り、何事かと思っていますと、今度は25名の「政治局」の一員であり、同市の党委員会書記でもある最高権力者の一人である薄煕来(昔なつかしい、薄一波の子)が失脚するという事件がこれに続き、二つの傾向の勢力間の政治闘争としての姿をたちまち帯びてきました。
温家宝は薄らの勢力と政治的策動を念頭に、「文化大革命の悲劇が繰り返される」恐れがあるとまで発言、この政争の本質を暴露しました。つまりこれはブルジョア的自由主義的潮流と、それに反発する“国家資本主義的”勢力との、つまり中国流に言えば“保守派”との争いであり、その根底には、急速な資本主義的発展によって登場した、広汎な労働者階級の搾取に対する怒りや憤激とともに、またブルジョア的発展によって追いつめられ、矛盾をしわよせされている広汎な農民層の不満や反発という、大きな社会的、時代的な問題があります。
そして自由主義派が国家資本主義の官僚派に対して、権力を強化し、彼らを弾圧する側にまわっています、盗聴や検閲を強める、有力幹部を権力的に押さえ込み、追放する(つまり“粛正する”)、すなわち権力によって弾圧するというやり方を採用するというのですから、これは矛盾を激化し、両党派の闘いを一層発展させ、深化する以外ありません。
そもそも経済の“自由化”を擁護し、社会をその方向に導こうとする勢力が、政治的強権を強めようとするのはどこか根底で矛盾しており、何らかの破綻は不可避に思われます。そして政治闘争において大きな力をもつ権力の暴力的部分、つまり軍隊や警察権力がどちらに味方し、付くのかということですが、軍部が“官僚派”、“保守派”に近いのは、その本性からして当然でしょう。ということは、この政争は自由主義派の弾圧策などによって容易にかたがつくといったことでなく、むしろ「ちっとやそっとのことでは」治まらないで、今後さらに深化していく、ということかもしれません。
残り任期1年になった温家宝のいわば“高姿勢”は自由主義派つまり“改革派”の焦りや弱さの現われかも知れません。彼らは“改革”を推し進めるとは言いますが、具体的な展望は何も示していないし、できないのです。先日の全人代の時、彼は記者会見で、「私はかって公平・正義は太陽より輝かしいと言った。分配・司法の不公平が大衆の不満を引き起こしており、公平を促す活動を引き続き推進しなければならない。確かに在任中ひぼうは絶えない。動じはしないが、心の中ではいくらかつらく思わざるを得ない。独立した人格が人々に理解されないというつらさで、社会に少し憂慮している」と語ったが、彼は何を言いたかったのであろうか。
いずれにせよ、隣の超大国において発展する政治闘争は、日本の労働者にとっても決して「どうでもいいもの」ではないし、あり得ません。政争に注視し、それがどんな形で進行し、どんな形に治まるかは、日本の労働者とその闘いにとっても重要な影響を持ってくるでしょう。
義家や橋下の教員・公務員攻撃
反動派のファッショ的な野心と策動
2012年3月17日
国会の代表質問で、自民党の義家弘介――ヤンキー先生とちやほやされて議員に成り上がっただけの卑小な人間――が、沖縄の公教育に、つまり教員にくってかかり、あることないことをあげて卑しい煽動にふけっていました。反動たちは教員や公務員に貧しい労働者やプチブルをけしかけ、それによって資本の搾取体制や、解体していく国家を救済しようという戦略をあらわにしてきています。
つまりヒトラーにとってのユダヤ人は、日本の反動やファシストたちにとっての公務労働者、というわけですが、こうした煽動がやがて闘う労働者に、そして労働者一般に向けられることほどに確かなことはありません。ところが野田政権も民主党の議員たちも――共産党は言わずもがな――、義家の煽動を「ごもっともさま」といった姿勢で聞くだけで、断固として反撃する気配さえもありません。我々は反動たちの危険な煽動の本質を明らかにして、断固として反撃していく必要があります。
他方、橋下は“秩序”をわめき、ブルジョアのために、またプチブルのために、それを確保し、国を“治める”のだと国家権力への野心を膨らませ、ファッショ的な専制政治の確立を狙っていますが、しかし彼は国に大乱を呼び込んでいるに過ぎません、というのは、その専制政治によって国の“乱れ”をせっせと準備しているに過ぎないからです。
彼のやっていることは、権力の乱用、横暴であり、国民全体への抑圧と専制の強化、奴隷化へと帰着していくのですから、そんなものが国民の総反乱を、労働者の断固たる階級的な総反乱を触発し、生み出し、発展させるだけであるのは自明です。大いにやってくれたまえ、橋下よ、やがて自分が何をやってきたかを悟るし、悟らざるを得ないだろうから。(『海つばめ』1169号1面トップ記事もご覧下さい)。
「全国政党」へ雄飛を策す
橋下の「地方主権」の論理矛盾と危険な体質
2012年3月9日
橋下が「地域政党」から「全国政党」へと雄飛を目指すといいますが、しかしそうした行動を、彼のこれまでの原則や言動や政治、政策と、どう調和し、一致させることができるのでしょうか。彼らは自らの政治の根拠を、中央集権に反対する、「地方分権」に置いてきたのであって、いまさら「中央」に進出して「独裁」を実行するというなら、それは自ら「中央集権」の権化に成り上がるという宣言であって、これまでの言行を百%──百%が誇張だというなら、その根底を──裏切る以外の何ものでもなく、無節操、無原則、破廉恥の極みでしょう。それは彼らのこれまでの立場が本質的にデマゴギストのそれであり、それ以外ではなかったという、彼らの本性を暴露するのです。
だが、橋下はこんな“些細な”ことに思い惑うような、繊細、臆病な人間ではありません。今度は、中央の、つまり国家権力をさん奪することによって、地方権力ではなく国家権力を征服し、手中にすることによって、単に大阪府民だけではない、全国民に対する「独裁」を、権力支配を実行し、国民全体の奴隷化を成し遂げようというのです。実際、大阪府民の奴隷化の第一歩であり、それを象徴する、教育や府政の「基本条例」を全国に及ぼそうという宣言こそ、橋下の本性が“ファシスト”であり、それ以外ではないことを暴露しています。
彼は国家の政治の根底に、地方主権ということで異議を唱え、「地方の反乱」を大阪で実行しました、とするなら、橋下は国家権力を握って、それを実行するなら矛盾そのものです。「地方主権」をあんなにも強調し、それを拠り所にした橋下は多くの全国の地方自治体が、今度は立場が入れ替わって、国家権力を手中にした橋下の実行する「教育条例」であれ、その政治の根底であれ、それに異議を唱え、反乱し、橋下の政治に従うのを全面的に拒否してもいい、それを認めるというのでしょうか。しかし橋下は府民にたいして、橋下の“独裁的な”権力に従え、と強圧的に臨んで来たのです。とするなら、国家権力そのものとなった橋下は、今度は多くの地方自治体を弾圧し──府知事として、下部の権力や人々にそうしたように──今や国家権力となった橋下に従えと言い、従わせるでしょうし──権力的に、独裁的に、つまり強大な国家暴力を用いて──、必ずそうするでしょう。
というのは、そのためにこそ彼は国家権力を欲したからです。つまり府知事等々としては、ただ地方権力を握り、強化するためにのみ、国家権力と闘うふりをしただけであり、その本心はただ権力だけを欲したということでしかありません、そして権力のために権力を追求する連中、ニヒリストの最たる連中こそ、“ファシスト”以外ではありません(ヒトラーもまた自分と自分の権力しか信じない、徹底した──つまり徹底して冷酷で、“非”人間的な──ニヒリスト、権力主義者以外ではなかったことを想起すべきです)。
現代の危機の本質は何か
橋下の野望 明らかに
2012年2月24日
橋下は教育の「目標」は地方首長が決める、教育の権力の介入も政治主導も当然だと公言して恥じません。かつて反動たちは、日教組などに対して、教育の「中立」を犯している、「政治偏向だ」とわめきたてていたのです、そんな連中が今、自ら「政治偏向」を犯して、それこそが正しいと言うのです。彼らのかつて叫んだ「政治的中立」とは反動派の政治的教育以外でないということが暴露されましたが、これは1945年までの教育の“非政治性”というのが、天皇制軍国主義の教育以外ではなかったのと同様です。
橋下によれば、日の丸・君が代に反対する教育は「政治的」であり、日の丸・君が代を権力によって、首長の「政治的」圧力や命令や処罰などによって強行するのは、まともで正常な教育、当然の教育だというのです。こうした立場から、軍国主義や国家主義の教育もまた――否、それこそが――正当で正常な教育であると主張するまでほんの一歩です。現在の公教育は“国民教育”であり、一首長の意思で「目標」を定めたり、また多くの法律を無視して、勝手に動かしたりするなら、“国民教育”の内実さえたちまち失われていくことほど確かなことはありません。
また橋下は口を開くと、日本の国家の「グレートリセット」を叫びますが、要するにそれは、いまや機能不全、全身麻痺状態で動きがとれなくなり、「誰もリーダーシップを発揮できなくなっている」“議会制的”、民主主義的統治機構(つまり自民や民主の政治や政府)を粉砕し、一掃して、新しい政治権力機構、統治機構を作り上げようということであって、それはまさにファシズム的な権力への志向であり、そうした方向へと権力を再編成しようということでしかありません。彼の「政治決定のできる」体制、「政治リセット」といったものも、ただそうした意味でのみ理解されなくてはなりません。
そして今や一切の反動勢力は橋下にその結集軸を見出したのであり、なだれをうって橋下へ、橋下へとなびき始めています。彼は自由主義的勢力やおしゃべりだけの知識人やマスコミや民主主義的政党やえせ左翼政党(共産党や社民党)等々の本性を、つまり口先だけで、観念的で、愚劣な本性を、すでに頽廃して、無力化している、その弱みを底の底まで知っているのですが、それはヒトラーがそうだったのと同様です。危険な政治的風潮になってきました、そしてさらに深刻なことは、こうした勢力と真剣に、断固として闘う政治的勢力が、労働者の組織的な階級的闘いが皆無だということです、労働者の階級的、政治的結集が決定的にたち遅れており、無力化しているということです。
日銀、インフレをわめいてどうする
「通貨の番人」はどうした?
2012年2月17日
日銀が物価を1%引き上げる政策を追求すると宣言しました。「通貨の番人」としてインフレにむしろ反対して行動するのを使命としてきた日銀が、いまや、野田政権などの“政治的な圧力”に屈して物価引き上げに手を貸し、自分でも「大した効果はない」と思っているような政策を無責任にやろうというのですから、これはある意味で、日銀の裏切りであり、自らの責務を放棄したと言うしかありません。かつて「日銀の独立性」などを売り物にした面影は今やどこへやら、です。公然とインフレのために、物価上昇のために尽力するというのですから、いわばインフレに公認特許を与えるようなもので、いやでも物価上昇に拍車をかけることになるでしょう。すでにインフレの火種は、大規模で、長期間にわたる国家の借金政策の過程で十分に蓄積されてきているのであって、火がつけば一挙に燃え上がる可能性があるのです。日本の歴史的経験からいえば、1930年代の満州事変頃からの国家の借金政策や、国債の日銀引受によって、ずっと蓄積されてきたインフレの火種は、敗戦というショックをきっかけに、国民の生活を破壊するような激しい物価上昇として爆発してきましたが、そうした可能性が今また高まりつつあり、何らかのきっかけで急速な物価上昇が進行することは十分にあり得るのです。今回の日銀の転向はその一つのきっかけかも知れないし、また何らかのきっかけでインフレが爆発するのは、今回でないとしても次回かもしれないし、次回でないとしても次々回かもしれないのです。要するにこんなやり方の破綻は必ずやって来るということです。実際日銀は、すでに「禁じ手」である国債の買い上げに走り、それを拡大してきましたが、今回はさらにその規模を年間四〇兆円にもしようというのです、つまりますます歯止めをなくしつつあるのです。そしてこうした日銀の国債購入拡大は、他方では、政府が借金政策(国債増発政策)に無責任につっ走ることを可能にし、また許してもいるのです。そしてブルジョアたちは、物価上昇が進めば、景気がよくなり、円高も止まり、景気がよくなれば雇用も改善して消費もふくらみ、需要も拡大、税金も増えてめでたしめでたしの経済の“好循環”がやってくる、といった半デマゴギーのおとぎ話、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の詭弁を振りまいていますが、実際には経済と社会に衰退と頽廃と腐敗の種をまき散らし、国家破産を準備しているにすぎません。資本の勢力と国家はますますばかげた政策に、自らの階級支配の破滅につながりかねないような政策にはまり込んで行きつつあります。
橋下の野望ますます明らかに
また政治的焦点は、橋下がいまや国政への野心を、権力の奪取という野望を明らかにしてきたことです。自分は国会議員にならない、などと言っても、彼がなる、ならないの問題ではありません。ヒトラーも長い間、ナチス党の党首でしたが、国会議員ではありませんでした。しかし1933年には全権を手中にし、ナチス独裁国家をでっち上げるのに成功しました。橋下の野望がますます明らかなとき、我々の闘いは決定的に重要であり、我々は新ファシズムに反対する闘いの先頭にたち、またこの闘いに多くの自覚した労働者を今こそ結集して行かなくてはなりません、我々にはそうした歴史的な任務が課せられていることを自覚すべきです。(「『海つばめ』1167号1面トップ記事を是非ご覧下さい。)
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