【2012,11.9】
オバマ再選、偽りの勝利――深化する国家破産の危機
【2012,11.2】
第三極とは国家主義勢力の結晶――石原、橋下らのヘゲモニー争いも激化
【2012,10.25】
石原、知事職放棄して国政進出へ――緊急に必要な闘う労働者の政治的団結と断固たる反撃
【2012,10.19】
西部邁の尖閣問題の「本質」――独立心を持てば国は滅びないのか?
【2012,10.12】
高まる「防衛費増やせ」の声――労働者は国際主義を堅持し、反撃を!
【2012,10.5】
地方政党と全国政党の矛盾――橋下よ、市長の片手間で全国的「政治活動」ができるのか
【2012,9.28】
国債利子の支払いを止めよ――少なくとも“財政再建”まで
【2012,9.25】
尖閣問題での共産党の民族主義――資本の支配や帝国主義の現実を無視して
【2012,9.18】
荒れ狂う「反日デモ」――その責任の一端は石原と野田政権にある、石原らを断固糾弾せよ!
【2012,9.14】
“国政進出”策す日本維新の会――矛盾だらけで実際は権力欲と権謀術策だけ
【2012,9.7】
地方首長が中央権力を動かす?――橋下のデタラメで奇怪な国家運営方針
【2012,8.31】
橋下政治の矛盾、欠陥を暴け――地方分権と中央集権、新都構想法、消費税の地方税化等
【2012,8.24】
日韓の対立を解消する出発点――慰安婦問題の真実を確認し、朝鮮の植民地支配、韓国民の奴隷化の反省から出発し、真実を尊重し、謙虚さと「品格」ある国民として登場すること、国家主義ではなく国際主義に立脚すること
【2012,8.17】
李大統領の竹島「上陸」――動機は日本政府の傲慢への憤激
【2012,8.10】
消費増税法案が成立――野田政権の破綻、いよいよ露わに
【2012,8.3】
野田政権の「意見聴取会」は茶番――ごまかしだけで、被災者も国民も誰も納得させ得ず
【2012,7.27】
再び反原発の市民デモについて――天災か人災かも定かでなく、闘う敵もはっきりせず
【2012,7.20】
市民派の反原発デモ――階級的でなく、空虚で期待できない
【2012,7.13】
石原の尖閣「筋違い」発言―― 与太者同然、戦前の軍部の役割と同じ
【2012,7.6】
電力買取制度に異議――「朝日」は“中産階級”(金持ち)の利益ばかり
|
前のメッセージへ 過去のメッセージへ
オバマ再選、偽りの勝利
深化する国家破産の危機
2012年11月9日
アメリカの大統領選挙が終わり、オバマが再選されました。財政を借金によって大膨張させ、国家金融も無制限に緩和することで(つまり日本の政党と同様に、大規模なバラマキによって)、何とか経済や財政の「改善」を演出して得た結果の勝利、そんな詐欺まがいのやりかたで勝ち取った、薄氷の勝利、偽りの勝利でしかありません。
もちろん、だからといってロムニーがもし勝ったら、アメリカの、世界の資本主義の矛盾や困難がいくらかでも後退し、解消されるといったものではありません、もっと悪化し、階級対立や国家間の対立や争いが激化するだけです。
勝利したオバマは早速、国民的な統一や団結を呼びかけていますが、オバマのもとで、アメリカの、世界の階級的な闘いは、さらにはあれこれの対立や矛盾や紛争は、一層激化し、発展するしかありません。
ギリシャに始まり、ヨーロッパ全体の問題になった、国家破産の危機は、アメリカの、日本の、中国の、つまり世界中の共通の危機として広がり、深化して来ています。新しい危機は今や世界中を席巻しようとしています。
日本に近い将来、どんな政権が生まれるかは明らかではありませんが、深化していく日本の、世界の資本主義の矛盾や困難に対して、全く無力なものにしかならないことだけは明らかです。
第三極とは国家主義勢力の結晶
石原、橋下らのヘゲモニー争いも激化
2012年11月2日
石原も「国政進出」――彼の場合は復帰、今度ははっきりと、いったんは諦めた、日本国家の最高権力を手中にするという野望実現のための復帰ですが――によって、腐敗した二大愚政党の自民党、民主党に代わる「第三極」のヘゲモニー争いが激化しています。
この第三極とは詰まるところ、敗戦後初めての、明確な形を取った国家主義勢力の結晶と言うことで、労働者の階級的な闘いにとってきわめて重要な、新しい情勢であり、局面であると言えます。
自覚した労働者は、平和主義や改良主義に、あるいはプチブル民主主義におぼれてきた、共産党など“左翼”勢力の闘い、これまでの労働者の闘いは断固として一掃、止揚され、新しい階級的で、革命的な闘いに移って行くべきときに逢着しつつあるのです。
第三極を目指す諸潮流も、あれこれ見解やイデオロギーや路線の違いがあり、思惑やヘゲモニー争いも絡んで簡単に戦線統一はできそうにありませんが、しかし日本の政治を国家主義、軍国主義、反動と専制の方向に大きく転換させようとしている点ではみな同じであって、まさに彼らは自分たちの時代がやってきていることを感じて勢いづいています。
労働者の断固たる闘いと反撃が客観的に、時代的に要請されています。
石原、知事職放棄して国政進出へ
緊急に必要な闘う労働者の政治的団結と断固たる反撃
2012年10月25日
石原が都知事の任期を2年半も残して、新党を作り、「国政」に打って出ると言い出しました。橋下らとともに策動を強めて、国家権力をも国家主義者や反動らの手中に置こうという魂胆です。橋下もまた、石原をたて(讃して遠ざけながら)、石原を先行させて、その後を襲い、狙おうとしています。
彼らが知事を務め、地方自治のために国家や官僚主義と闘うなどと言ってきたことが、信念でもイデオロギーでも何でもなく、単なる権力のはしごを登るための方便であり、ご都合主義の虚言であったことが暴露されました。国政に転進し、国家権力を目指すということは、地方自治の正反対の立場に、中央集権主義に走り、国家官僚の親玉になることでしかなく、これまで彼らの言ってきたことがすべてインチキのたぐいであったということです。
石原は資本の支配に対する闘いを「明治以来の官僚主義と闘う」などと言って、労働者の闘いの方向を資本の支配との闘いから、「官僚主義との闘い」といったまとはずれで、あさっての方向にそらし、結局は資本の支配を、その権力を擁護し、防衛しようと策動するのであり、するしかないのです。
石原とか橋下とか東国原とか中田とかいった連中はみな、都民や府民や県民を、つまり労働者人民を、国民をもっともらしい“地方自治主義”などのぺてんにかけつつ、結局は都民や府民や県民を踏み台にして、より大きな権力、国家権力のための闘いに乗り出すのです、つまり彼らには権力への野心だけがあって、都民や府民や県民はただその野心を実現するための単なる道具であり、手段でしかないのです。彼らの頭には、ただより強大な権力への野望だけがあるだけで、都民も府民も県民も、つまり「国民」など全く存在していないのです。
石原は、橋下らと声を合わせて、都政の──つまり地方政治の──延長線に、国政進出があるのだと強弁していますが、しかしそれならなぜかって国会議員をやめたのでしょうか。都知事の権力を求めて、都の大ボスという専制権力を手にしようとして、自民党の一人の陣笠にすぎない議員身分──思い上がった石原は、そんな立場にがまんできなかったのです──から飛び出したのではなかったのでしょうか。地方の専制権力がほしかったという、卑しい動機からでないとするなら、一体何のために国政から都政に転出したのか、する必要があったのでしょうか。
石原とか橋下とか東国原とか中田といったような、権力主義を除けば、何の内容もない、ごくつぶしの政治家たち、地方政治や国政の間を、ただ権力だけを求めて行ったり来たり、右往左往するだけのような無節操ではれんちな権力政治家たちがはびこるのを許してはなりません。
彼らがみな国家主義をもってまわり、外国や他国民に対して闘いや戦争さえも扇動している──石原はつい最近も、中国との「戦争」までわめきました──のは偶然ではありません。戦争ほどに、そして戦時体制ほどに、彼らに独裁的な権力を、国民全体を奴隷化する、ファシズム的専制体制を保証してくれるものはないからです。
石原は原発賛成を盛んにぶっていますが、それは何のためかを我々は反省しなくてはなりません。彼は「断固、中国を撃つべし」の強硬なナショナリズムの立場を、「こわもて」の人間を装って、権力政治の好都合な手段とするのですが、そのためには日本の核武装を持ち出し、強調しなくてはならないのです。共産党や市民主義者たちは原発などが核エネルギーの一番の危険であるかの大騒ぎをやっていますが、そんなものはピントはずれの空騒ぎであって、本当の危険は石原が権力に接近して行くことに、国家主義の連中が「国を守るため」などと称して核兵器の利用に走っていくところにあるのです。
石原や橋下らの危険な策動が一気に顕在化し、自覚した労働者が覚悟と決意を新たにして闘っていく必要性と重大性が大きくなってきました。
自覚した労働者は、経済主義や組合主義、日和見主義や急進主義等々の、自分たちの運動の欠陥を乗り越えて労働者の政治的な団結を勝ち取り、断固として反撃に移っていくべきときです。
西部邁の尖閣問題の「本質」
独立心を持てば国は滅びないのか?
2012年10月19日
西部邁が、尖閣諸島問題の「本質」について問われて、日本国民が「独立心を欠いているからだ」と答えています。
「尖閣の領有問題を深刻化させた最大因は、日本が国際法に過大な信頼を寄せて、その島の実効支配において怠慢をみせつけ、あまつさえ中国の(1970年頃からの)無法の振る舞いに対して宥和(正確には曖昧)の態度をもって対応してきたことにある」。
「尖閣問題を国際司法裁判所に訴え出ても構わない。だが、その前に理解しておくべきことがある。ワールド・ガバメント(世界政府)は存在しないし、それがもし存在したら世界の画一的統制という地獄の沙汰になる。さすれば、『自分で守ろうとしない土地は他人から攻めとられる』のが国際社会の通り相場なのだ。そんなことも知らぬ国家が滅びるのは歴史の通り相場である」(毎日新聞10月10日)。
しかし第二次世界大戦の頃の大国の運命についてちょっと見ても、ナチス・ドイツに対して「独立心を欠いて」いたフランスは滅びなかったが、反対に「祖国の防衛、自衛」を金切り声でわめいた日本は核兵器の惨禍までこうむって、まさに「国を滅ぼした」のではなかったでしょうか。
だから西部のように単純に、「独立心を欠く」国家は滅び、そうでない国民は繁栄する、などと言うことはできません。色々な歴史的条件の中で、国家の「運命」も決まっていくのは、個人の場合と本質的に違いはありません。
もっともらしい理屈をもったいぶって持ち出すのが西部の特性ですが、結局言っていることは、反動派、国家主義派の応援であり、尻押しでしかありません。
“民族主義”とか“保守主義”とか“伝統”とかいったものを絶対化し、そんなろくでもないものにしがみつくしかない、この気の弱い人間は、世界政府ができたら、「世界の画一的統制という地獄の沙汰」だというが、なぜ民族国家、国民国家なら、「国民の画一的統制という地獄の沙汰」にならないのかを、奇弁やごまかしによる以外には決してまともに語ることはできないのです。
高まる「防衛費増やせ」の声
労働者は国際主義を堅持し、反撃を!
2012年10月12日
ここにきて、にわかに「防衛予算を増やせ」という声が、ブルジョア陣営、反動陣営(国家主義勢力)から上がっています。
中国の帝国主義的膨張主義が露骨になり、他方ではアメリカの国家的力量が相対的に低下していく中で、「日本の防衛は日本の力で」という世論を作り出し、盛り上げて行こうということでしょうが、軍国主義者たち、大独占(とりわけ軍需産業資本、素材産業資本等々)の意図を徹底的に暴露し、また今ほど労働者の国際主義的な立場を堅持していくことが重要になっているときはありません。
日本の軍事力で、それを強大化して(核武装でも何でもして)、中国やロシアやアメリカと対抗し、対決しようとしてもナンセンスであり、反動的です。労働者の生きる道は、ただ世界の労働者と連帯、団結して、資本の支配に反対する、そしてまた跳梁跋扈する帝国主義に反対する、世界的規模での階級的闘いを最後まで貫徹する以外ありません。
地方政党と全国政党の矛盾
橋下よ、市長の片手間で全国的「政治活動」ができるのか
2012年10月5日
世論調査で、総選挙比例区で「日本維新の会」に投票するとした人が4%と出て、橋下はかなりのショックを受けたようです。大阪市長のままで、全国政党の党首の地位に就き、9名の国会議員団をでっち上げるなど無政府主義的な策動を広げていますが、ますます“地方政党”と“全国政党”の矛盾は大きくなるばかり、大阪市長が党首で大阪府知事が幹事長だといった、不真面目で、いいかげんな党が全国のブルジョアやプチブルや遅れた労働者の支持さえ集められないという情況が発展するかもしれません。
大阪からのリモートコントロールで、国会議員たちや全国の党を指導するといっても、府知事や市長が片手間で出来る仕事でないのは自明です。そもそも公務員は政治活動をするなと言いながら、橋下と松井は政治活動どころか、全国政党の党首や幹事長だと言うのですから、これ以上ないような「政治活動」です。ただちに断固として、橋下と松井に辞任を要求すべきです。
橋下はリモート・コントロールのために、ますます党内での絶対権力を、独裁を要求するしかなく、またそうしています。そして地方政党を売り物にしていた手前、大阪の議員たちを軽視するわけにも行かず、国会議員も地方議員も同等であり、ただ橋下だけが“絶対君主”だというのですから、こんな非民主的な党がろくな党にならないことだけは確かです。
今の所は橋下の権威が大きいので納まっていますが、橋下のボロが出てくれば、たちまち解体しかねないもろさをも持っています。批判を貫徹し、橋下一派を徹底的に追い詰めていくべき時です。
尖閣問題での共産党の民族主義
資本の支配や帝国主義の現実を無視して
2012年9月25日
共産党は尖閣諸島問題で盛んに、「話し合いで解決を」とか、「理性的に」とか、「道理に基づき、冷静な態度で解決を」とか、「物理的対応、軍事的対応の自制を」とかを叫び、中国大使と会って「日本の領有は正当だ」と通告する一方、野田政権には、ちゃんと「日本の領有の正当性を主張してこなかった」からこんなことになったのだと迫っています。
資本の支配や帝国主義の発展という現実を無視し、棚上げしてこんなたわいもない幻想を振りまくのは、この党の度し難いプチブル根性を暴露する以外ではありません。
「尖閣諸島は日本が戦争で不当に奪取した中国の領域には入っておらず、中国側の主張は成り立たない。日本の領有は、侵略主義、領土拡張主義とは性格が全く異なる、正当な行為であった」とか、「それ(日本政府の問題点)は、『領土問題は存在しない』という立場を繰り返すだけで、中国との外交交渉によって、尖閣諸島の領有の正当性を理を尽くして主張する努力を避け続けてきたことである」などといった幼稚なたわ言をまき散らしています。
こうした見地は労働者を裏切って、ブルジョア国家主義、帝国主義を助け、その発展を助長するものであり、我々は断固としてこうした空論を粉砕して行く必要があります。
荒れ狂う「反日デモ」
その責任の一端は石原と野田政権にある、
石原らを断固糾弾せよ!
2012年9月18日
中国で「反日デモ」が荒れ狂っています。それが中国の帝国主義的膨脹の一つの契機であり、“衝動”の一つであって、反動的であることには何の疑いもありません。
同じ民族主義の現われだとしても、かつて──20世紀前半──日本の帝国主義的進出と植民地化の野望に反対して闘われた中国の「反日闘争」──それは中国の植民地的な状況の克服と、国民的、ブルジョア的解放をめざす、進歩的な契機を持っていたのですが──とは本質的に別個のものです。
しかしこの反動的な民族主義を挑発し、肥大化させた責任と罪は、その一端は、反動インテリたちや自民党や石原たち──さらには維新の会なども、そのメンバーに新しく加わろうとしていますが(橋下の“従軍慰安婦”問題の発言を思いだしてください)──にこそあります。彼らは尖閣諸島を「日本の固有の領土」とわめきたて──その意味さえも明確に語ることもできずに──、これまでの日中の“暗黙の合意”──どちらの国に属するかといった問題はとりあえず棚上げしておく──を破棄して、中国を挑発し続けてきたのです。
尖閣諸島を「日本の固有の領土」などと言っても、もともとどこの国家の「領土」などとはっきり確定された島ではなく、あえていえば、“日本”(江戸幕府体制、徳川“国家”)というより、“琉球王国”に属していたといえるくらいでした。そしてせいぜい、日本の「領土」と何とか言えるとしても、19世紀半ば、東アジアでいちはやく“国民国家”として現われた日本が“琉球王国”を併合した結果、尖閣諸島も日本の「領土」ということになったのであって、「日本の固有の領土」などと偉そうにいえるほどのものではないのです。日本が中国に先んじて民族国家、国民国家(ブルジョア国家)として登場したから、日本が中国などに先んじて、「領土」として囲い込んだというほどの意味しか、歴史上はもちません。ブルジョアたちの理屈から言えば、「日本の領土」といえるというだけのことであって、労働者の国際主義から言えば、尖閣諸島も他の地球上の場所も、日本と世界の労働者人民のものだ、つまり地球上のすべての土地が人類に属するということであって、民族主義を丸出しにして、ここが日本の「固有の」領土だ、ここは中国の「固有の」領土などと無益で、ろくな結果をもたらさない「領土争い」にふけるなど、全くばかげており、狭量なこと、むだごとです。
そんなことを言っていれば、中国に「取られてしまう」と反動たち、国家主義者たちは騒ぎ立て、日本と中国の労働者人民を対立させ、争わせ、武器をとっての殺し合いにまで駆り立てそうな勢いの扇動をする──誰かが、石原は自分自身安全なところにいて、そんな無責任な扇動を(自分の私利私欲のために、自分の権力欲、自己顕示欲、思い上がりのために)するなと言っていましたが――のですが、中国の反動や国家主義者たちも同じことをしているにすぎません。
実際、彼らのやっていることは労働者人民に対する重大な犯罪として告発しなくてはなりません。両国の、世界の労働者人民を対立させ、争わせようとする支配階級の、反動たちの陰険な挑発は許しがたいものであって、労働者人民はそんなものに断じて乗ってはならないのです。
愚かな野田政権は、石原が尖閣諸島を「領有」するようなことになったら、中国を一層刺激して大変だと、大急ぎで尖閣諸島を「購入」し、「国有化」して石原の鼻を明かし、ホッとしたのもつかの間、国有化に怒り狂った中国の“愛国主義者”たち、“民族主義者”たち──つまり日本の反動や石原等の大好きな人たち、愛して止まない人たち、どうして石原は彼らをたたえ、共闘でも同盟でもしないのか──のデモに直面して狼狽するばかりです。
野田政権は石原の「領有」を許せば、尖閣諸島の“要塞化”といった挑発的な策動──これはもちろん、いくらか極端化して言っているのですが──でも実行され、ますます中国を“刺激”して悪い結果をもたらす、「国有化」して国が“温和に”管理するなら、中国をいくらかでもなだめることができると考えてのことだったのですが、野田政権の考えることと中国の考えることは全く別であって、中国の民族主義者たちには、石原が「領有」することと、国家が「領有」することの区別などなかったのです。野田の甘い観念は破綻したのです。
野田政権は石原に尖閣諸島の「領有」でも何でも、さんざん悪いことをさせておいて、それから石原と断固対決して、石原では愚かで危険だ、国家の役割にたかが地方の一首長の石原の出る幕ではない、でしゃばって国家の道を踏み間違えさせるなと、毅然として「国有化」を断行したら、まだ中国を刺激することが少なかったかもしれません、しかし石原と対決する確固たる立場も信念もない民主党政権は、こそこそと策動することによって(石原の鼻を明かし、石原を出し抜いて尖閣諸島を購入し、“国有化”を宣言することによって)、石原と共に、中国の反動的で、幼稚で、“軽率な”民族主義を挑発し、彼らの怒りを買ったのです。
中国の「過激な反日デモ」を誘発した責任は、その大きな一端は石原と野田政権にこそ、彼らの愚昧と浅薄にこそあると言って決して言い過ぎではありません。日本の民族主義、国家主義はまた中国等々の民族主義と国家主義を挑発し、一層激発させ、燃え上がらせるのであって──もちろん、その逆もまた真実です──、日本の労働者人民にとって、ただ害悪のタネをまくだけです。
桜井良子と反動たちや、つくる会のごくつぶしのインテリたち、安倍晋三や稲田朋美といった自民党の悪党政治家たちは、20世紀前半、日本の朝鮮や中国の植民地化──つまり一種の民族的奴隷化という野蛮な行為──などなかった、日本はそんな国家ではない、日本の過去の歴史には犯罪的なものは何もなかった、そんなことを言うのは「自虐史観」であって、一貫して日本は正しい国家、優秀な国家だとみなさなくてはならないといった、子供だましの幼稚なばか話を振りまいてきました。真実を真実と認める潔さも勇気も賢さもない、間違いを間違いと反省することもできない、まるで気の弱い小心者、卑怯者のような連中です。
こんな連中がつまらないことを言いはやすからこそ、朝鮮や中国で、ブルジョアやプチブルの中で(健全な労働者や“庶民”の中ではほとんどないのですが)一層怒りの感情が高まるのです。日本が破廉恥な国民とみなされるからで、まさに反動たち、安倍といった連中は日本の面汚しで、“愛国者”気取りなどあきれたものです。
中国がまさに帝国主義的強大国として登場しつつあるとき、日本の過去の帝国主義国家としてやったことを正しく総括し、その犯罪性を確認することなくして、一体どうやって、中国に現われつつある、危険な帝国主義と闘うことができるというのでしょうか。日本の反動派は、安倍等の政治家は、かつての日本の膨脹的な国家主義、帝国主義などなかったかに叫んで、それを美化し、正当化するに懸命です、とするなら、中国の今の国家主義、帝国主義もまた正当化しなくては首尾一貫しないということに、どうして気がつかないのでしょうか。ジレンマそのもので、まるで三歳の子供よりも愚かだと言うしかありません。
どんな国家の国家主義も帝国主義も反動的です、そしてそれと最後まで一貫して闘いぬくことができるのは、ただ国際主義に立脚する労働者だけです。労働者はどんな国家の国家主義、帝国主義にも反対して立つのであって、日本の愛国主義、国家主義、帝国主義は正義であり、いいものだが、中国や朝鮮の愛国主義、国家主義、帝国主義は悪いものだといったような、反動派の矛盾した、ろくでもない見解に決して与しないのです。
“国政進出”策す日本維新の会
矛盾だらけで実際は権力欲と権謀術策だけ
2012年9月14日
維新の会は12日、新しく、「日本維新の会」という全国政党をでっち上げ、本格的な「国政進出」を強行しようとしています。しかしそうした策動を拡大するにつれて、その内部矛盾や脆弱さもあらわになってきました。
「政党要件」を満たすために、大急ぎで7人の国会議員(民主から3人、みんなから3人、自民から1人)を取り込みましたが、思想も立場もてんでばらばらの“小者”ばかりで、近い将来、維新の会の国会議員団の中心になれそうな者は一人としていません。ただ議員として生き延びんがために、維新の会の人気に便乗しようというだけの、無節操で、けちな連中だけですが、橋下はそれを承知で、ご都合主義的に利用しようというのであって、「価値観」も「政治」も「政策」も、何一つ確固とした一致もなく、ただ議会の議席や権力を求めるだけの俗悪矮小な連中の打算や野心だけで群れ集まり、そして橋下の権謀術数やマキャベリズムだけがひとり歩きしています。
こうしたドタバタを見れば、維新の会の「国政進出」がどんなに空虚で反動的であり、またどんなに危険であるかを確認することができます。維新八策という「価値観」で結集するという建前とは裏腹に、ますます水ぶくれする組織は、漠然とした保守的傾向と橋下の権威を当面は認めるという「価値観」以外は、ほとんど内的統一性を欠いたごたまぜで、空っぽな組織もしくは運動に急速に堕しつつあり、「価値観」で結集など聞いてあきれるような有様です。
そもそも統一的な「価値観」などないも同然ですから、「価値観」など謳っても、民主党と同じく次々とボロを出すだけです。大阪では、強烈な“府民主義”を煽って大きな支持を広げることができましたが、しかし国政において、今のところは、大阪“ナショナリズム”に匹敵する、強力なパンチ力のある立場やスローガン(例えば、ヒトラーの「反ユダヤ主義」のような)を押し出すことはできていません。結集する勢力や政治家も、自分と並び立ち、自分の権力を制約しそうな政治家──例えば、「みんなの党」の渡辺ら──を排除し、御しやすく、さもしい野心家──東国原や中田ら──は進んで取り込み、安倍に接近しつつも、少しでも自己の上に位置しようとするとたちまち「敬して遠ざけ」ています(石原も同様か)。
もちろん、すでに汚れた垢がつきすぎているような政治家──小沢ら──とは用心深く、組む気配さえ見せません。維新八策を見ても、イデオロギー(彼のいう「価値観」)も、伝統的な自民党の「価値観」である“反日教組”という“古い”価値観や政策に、また「日米同盟」を主軸に据えるといった、まさに“伝統的な”、陳腐な「外交・防衛」政策などに安易に追随するのが目だっており(最近の従軍慰安婦についての発言も)、そのことによって、これまでの反動派、国家主義派を急速に引き付け、取り込んで勢力を一気に拡大しようとしています。
橋下はまたTPP推進を一つの売り物にしていますが、これは当面、ブルジョア勢力にこびを売るためのものであって、橋下支持層から──現在の、そして近い将来の──強力な抵抗が出てくれば、たちまち変身するたぐいの立場でしょう。
首相公選制とか道州制とか衆院議員議席半減とか、憲法9条を問う国民投票とか、“耳目衝動的な”課題も並べられていますが、当面、見通しのほとんどない、単なる謳い文句に留まっています。年金の積立方式への移行は、今持ち出しても「証文の後だし」みたいなもので、現在の年金崩壊に対して何の意義も持ち得ない、机上の空論にとどまりますし、消費税の地方税化は消費増税の犯罪性を蔽い隠す単なる空文句を出ません。
橋下は、ブルジョア支配体制のあれこれの「改革」──その一部は派手で、ラジカルに見える──を持ち出すことで、頽廃し、解体しつつある支配体制そのものは擁護し、立て直そうという、ブルジョアや自民党議員の中で高まっていた動きや「構想」──まともなものか、思い付きかも知らずに──を手当たり次第に取り込んだにすぎません。
教育では、地方の首長が教育を支配するという観念はたちまち引っ込め、国政進出となると途端に変心し、この種の教育「改革」は隠して、自民党の伝統的な教育政策の不毛で、下手くそな焼き直しにすぎない、反日教組の「価値観」と政策を表面に押し出すだけです。
大言壮語していますが、内容の空っぽな、権力と権謀術数──さらには暴力──だけを信じるような、野蛮で、粗野な連中が「国政進出」をわめき、のさばり始めています。まさに「危険な兆候」で、労働者階級の将来に暗雲をもたらしかねません。今こそ維新の会の野望の粉砕めざし、力を合わせて、断固たる反撃に移って行くべきときです。
地方首長が中央権力を動かす?
橋下のデタラメで奇怪な国家運営方針
2012年9月7日
橋下が公然と反動のクズどもを総結集し、野蛮な専制政治に向けてスタートを切った感じです。石原や安倍等の“既成の”国家主義者、権力亡者たちだけでなく、東国原、中田、山田等を総選挙に擁立しようとしています。国会に、こうしたごくつぶし等を中心に橋下一派を形成し、大阪からリモートコントロールして野望達成に向けて一歩を踏みだそうとしています。そもそも地方の市長が党首で、府知事が幹事長といった政党は“公私混同”もはなはだしく、そんな連中が市長や知事の任務についていていいはずもありません。地方自治法にさえ反する可能性があります、法文に規定がないといっても、法律の精神からしてゆるされないもので、政党とは“私的な”ものであって、その党首や幹事長を勤めるというなら、市長や知事をやめてからにするのが当然であり、“筋”というもので、彼らは公務員は政治活動をするなと言ってきたのですから、なおさらです。地方自治体権力を私物化するような悪党はもうそれだけで、「国政進出」などの資格はありません。そして橋下は党内に「序列」を作って、このかたわの党の権力を維持しようというのです、つまり橋下の下に松井、そして国会議員、地方議員というヒエラルキーによって、党を維持し、作り上げようというのですが、そんな官僚的で、非民主的な党がまともな党として存在し得るはずもありません。大小のえげつない権力者たちの“私党”になるしかないでしょう。こんなものが、「地方分権」の姿だ──つまり、地方である大阪が、国会を、中央権力を動かし、変化を呼ぶから──などというのですから、橋下等の「地方分権」は民主党以上のデマゴギーでしかありません。労働者は断固として、こうした反動派の無責任で、デマゴギー的な無政府主義や混乱や支離滅裂に対して、一貫した民主主義的な──そして労働者人民の──中央集権主義を断固として対置し、反撃に出る必要があります。
橋下政治の矛盾、欠陥を暴け
地方分権と中央集権、新都構想法、消費税の地方税化等
2012年8月31日
橋下は「国政進出」を果たし、その権力欲望をさらに一段階アップし、膨脹させようとしています。彼はその危険な“ファシズム的”支配を、地方のレベルから全国的レベルに引き上げ、拡大しようとしているのですが、しかしそれは一定の危機を招くことなくして果たすことのできない課題として現われつつあります。我々はまさにそれゆえに、現段階における橋下政治に特有な矛盾と欠陥を徹底的に突き、あばいていく必要があります。
国会で「都構想法」(と俗に呼ばれていますが、このこと自体、この法案の本性を暴露して特徴的です)が成立しましたが、この成立自体、橋下にとって、大きな打撃となっていく可能性を持っています。これは全く平凡な、大阪府の“機構いじり”にしかなり得ないことが明らかになり、そんなものに橋下が手を染め、深入りして行けばいくほど、橋下は泥沼的な状況に追い込まれかねません。まさに橋下政治のトゲとして残っていく可能性が大きいのです。
大阪市を廃止して、「(大)大阪都」の“直轄地”にするというのでしょうが、もしその名前がダメだとするなら、今の大阪市を7,8つの事実上の「中小市」程度の地方自治体に分割するといったつまらないことでしかないように見えます。つまり一つの大阪市として登場すると府の権力に対抗する程に大きな存在になるから解体し、せいぜい「中小の市」並みの単位自治体にするという「改革」ですが、そうだとするなら、「大阪都」とか「特別区」とか言った大げさなことはどうでもいいことです。
また、この問題は大阪だけの問題ではなく、全国の地方自治体の制度がどうあるべきかという一般的な問題です。実際、横浜市は大阪とは反対に、市を残すだけでなく、県から“独立する”ような「特別自治市」に格上げせよ、府や県にも匹敵する、大きな権力と地位を与えよと主張しています。こちらの要求は1都2府43県の体制を変えよという要求であり、橋下の正反対の要求です。橋下の「大阪都構想」は、大阪以外に追随する地方首長もおらず、つまらない思いつきの一種として、事実上破産しつつあるのです。
また橋下は、「国政進出」に当たって、消費税の地方税化を持ち出していますが、これもまた橋下の“命取り”にさえなりかねない、重大な主張であり、我々は徹底的にそのあたりを“突いて”いくべきでしょう。
他方、消費税の地方税化は、橋下の「維新八策」の矛盾と欠陥の中心環であって、そんな主張を持ち出せば持ち出すほど、彼の「国政進出」の大きな障害に、困難の中心になりかねないのです、というのは、そんなスローガンは“地方主義”にとっては華々しく、魅力的に思われるかもしれませんが、「国政に進出」し、その権力に接近していく橋下にとっては、むしろ余計なもの、わずらわしいものになっていくことは確かだろうからです。
橋下が中央権力に引かれるのは、それが最高の権力だからであって、その立場に移っていく限り、地方主義や地方分権はますます彼にとって煩わしい物、障害になりかねないのです。消費税の地方税化はまさに地方主義、地方分権主義を代表するスローガンであり、主張なのです。権力主義者の橋下の立場とはすぐに矛盾して来るでしょう。
彼はすでに府知事として、徹底的な“中央集権”の擁護者として登場しています、つまり知事のもとに、自らの権力の及ぶかぎりのものを従属させ、低頭させようとしました、そして中央権力者として、彼は地方の「分権」とか「独自性」とか「自立」とか「自主的」といったものを容認できるはずもないのです。
だから地方主義者、地方分権主義者から、中央の権力者への飛躍は、蛹が蝶に脱皮するとき以上の危険な瞬間でもあるのであり、我々はだからこそ、この機会に橋下を徹底的に暴露し、大きな打撃を与える必要があるのです。
日韓の対立を解消する出発点
慰安婦問題の真実を確認し、朝鮮の植民地支配、韓国民の奴隷化の反省から出発し、真実を尊重し、謙虚さと「品格」ある国民として登場すること、国家主義ではなく国際主義に立脚すること
2012年8月24日
「竹島」を巡って、日本と韓国の政府が、抜き差しならない対立の深みにはまりこんで、お互いに振り上げた拳をどう振り下ろしたらいいのかといった、笑止千万の状態に陥っています。
李大統領が「竹島」に上陸したことなど無視しておけばどうということもないのに――日本の反動派も、「実効支配している」尖閣諸島に「上陸」するのは当然だと云いはやしているのですから――、自民党や反動派が騒ぎ立てるのに悪のりし、便乗して、野田政権が地に落ちた国民の支持をいくらかでも回復しようと「強硬姿勢」を取り、愚昧なくせに格好をつけるから、今度は韓国も引くに引けなくなって、天皇は朝鮮に対する植民地支配という過去の悪行を本当に反省もしていないし、心から謝罪もしていないという日本の“古傷”まで持ち出して、日本の国家主義派、反動派の痛いところを突き、かくして売り言葉に買い言葉、殴られたら殴り返すしかないといった、子供のけんかのような低俗な話になっています。
自民党も、点数を稼ごうとばかり「断固たる姿勢」を装って民主党と競い合い、まさに“二大愚政党”の愚劣な本性暴露といったところです。
李が自分の行動の背景には、慰安婦問題での日本の無反省で、厚顔無恥な態度があると言っているのですから、李の行動を非難する前に慰安婦問題の真実を認めることから始めればいいのです、それが真実であることは世界中の人が、そして我々日本人もまた事実としてよく知っていることですし、さらに、その事実に日本の国家や軍隊が関係し、関わっていたことほどに明らかなことはないからです。
それなのに、今に至っても、そんな事実はなかったとか、国家や軍隊は関係なかったとか言いはやしているからこそ、世界中の人々、アジアの人々、そして韓国の人々はあきれ、日本の国家や自民党や民主党などの政治家たちを馬鹿にし、軽蔑しているのです。全く日本国民、とりわけ労働者人民は迷惑しごく、恥ずかしい限りです。日本の、そして自民や民主や反動派は、日本の労働者人民の顔に泥を塗るだけではない、日本が「品格」も良識もない国と見なされ、まさに“国益”を大きく損なうようなばかげた、そして粗野な言動に耽るのです。
李が日本の植民地支配や慰安婦問題の真実を認めることから出発せよと言うなら、その真実を認めればいいのであって、関係のこじれる原因は日本の傲慢と無反省と偏狭と愚昧さにあると言って決していい過ぎではありません。日本国は無謬であり、過去においてもそうだった、といった幼稚な国家観、歴史観、つまらないひとりよがりの幻想からさっさと脱却すべきです、さもないと、日本はまたまた「世界の孤児」になりかねないでしょう。国家主義など有害であって、他国をいたずらに挑発し、再び日本を反動的戦争や破滅に導く一つの契機にしかなり得ないのです。
李大統領の竹島「上陸」
動機は日本政府の傲慢への憤激
2012年8月17日
「竹島問題」で日韓の支配階級が対立している。お互いに自分の“固有の”領土であると譲らないからである。
ここに来て、彼らが「領土問題」での対決を演じて見せるのは、両国の支配階級に、したがってまた政府や民主や自民らの政治家たちに、そうしなくてはならない「国内的な」事情があるからである。
竹島に「上陸」した韓国の李明博大統領に、「内政上の」事情があったことは明白で、日本の防衛相である森本でさえ、そのことを明瞭に確認し、“理性的な”対応が必要だと自覚したほどである(だが、反動たちは森本を攻撃してやまないのである、つまり彼らは決して“理性的な”連中ではないということを自ら白状するのである)。
李もまた政権末期を迎え、日本の民主政権と同様に、地に落ちてしまった支持を回復するに必死である。しかも彼は、従軍慰安婦問題で日本に対して断固たる態度を取れないということで、国内でも強い批判と圧力に直面してきたのである。
どうしても、日本政府に対して、日本の傲慢と厚顔無恥に対して――つまり、日本が従軍慰安婦問題は存在しないと白を切り、李を苦境に追い込んでいることに対して――、日本の横暴と傲岸を許す意思はないという姿勢を明らかにする必要性があったのである。
つまり李の竹島への「上陸」は、この意味では、従軍慰安婦問題についての、過去の帝国主義――一九〇〇年代から一九四五年までの韓国の植民地化等々――に対する無反省への、日本の無神経と思い上がりと破廉恥に対決するゼスチュアであり、韓国内での支持をいくらかでも回復しようとするパフォーマンスというわけである。
古来、どんな権力者も国民の支持を回復しようとするときには、“対外強硬”姿勢を装い、国民の民族主義に訴え、それを煽りたてることによって、“国民的な”権益や国家防衛の護り神として登場することによって、存在意義をきわだたせようとしてきたのである。
没落寸前の民主政権も同じであり、軽薄な玄葉大臣もこの時とばかり、対韓“強硬姿勢”を売り物に、“理性的な”防衛大臣などまるで存在しないかに“突出”している。次の総選挙でくつわを並べて討ち死にするしかない、追いつめられた民主党の議員たちの希望が、対外“強硬政策”にかかっているかである。民主党政権にも、自民党にも、李の行動を口を極めて攻撃し、“強硬姿勢”を演出し、国民の、国の守護神として登場しなくてはならない理由があるのだ。
日本の支配階級は中国との「領土問題」である尖閣諸島では、竹島とは全く反対の立場にある。彼らはそこでは、今の韓国の支配階級と全く同じ立場にたって、尖閣諸島に「上陸せよ」(つまり李大統領のやっていることと同じことをせよ)、そのことによって、尖閣諸島が「日本の固有領土」であることをさらに明確にせよ、とわめいている。
とするなら、彼らに李を非難するどんな資格があるというのであろうか。笑止千万というしかない。
尖閣諸島といい、竹島といい、日本や中国や韓国が、それらを「固有の領土」だなどと一方的に言い得ないことは、歴史をちょっとひもといてみるだけで明らかである。
尖閣諸島はもともとは独立した王国であった沖縄に所属していたと仮に言えるにしても、日本の「固有の領土」だなどと言えないことは――少なくとも、“近代”において国民国家が形成される以前には――自明であるし、まして竹島は日本が国民国家どころか、帝国主義的国家として登場する二十世紀に入ってから、朝鮮を植民地として支配し、囲い込む時代に、日本の“領土”として繰り入れたものにすぎず、そんなものを「日本の固有の領土だ」などとは、労働者の国際主義の立場からは言えるはずもないのである。
支配階級たちはお互いに「内政上の要請」や都合から、つまり危機にひんした自らの権力を防衛し、固め、また強化するために、民族主義や国家主義を扇動し、世界中の労働者を対立させ、争わせ、戦争に引き込もうと策動する、しかし万国の労働者は、その歴史的、階級的な地位からして、自然に、あるいは必然的に、人類はみな同胞であり、兄弟姉妹であるという国際主義に断固として立脚し、支配階級の民族主義、愛国主義、排外主義、国家主義、覇権主義、帝国主義等々――これらはみな、資本の支配から生まれて来る国家的利己主義という、同じ根源に還元されるのだが――の、したがってまた、尖閣諸島や竹島は「日本の固有の領土」といった偏狭で“危険な”扇動や政策に対して、断固として闘いぬくだろう。(「『海つばめ』」1180号より)
消費増税法案が成立
野田政権の破綻、いよいよ露わに
2012年8月10日
消費増税法案が可決成立しました。野田と谷垣は、この法案を成立させ、「近いうちに信を問う」、つまり総選挙をすると言うことで合意したといわれます。この「近いうち」というのが具体的にいつのことかは明らかでなく、また二人の間でどんな確認がなされているのかも不明ですが、何らかの合意があるのかもしれません。
しかし実際の政治的な過程がどう進行するかにかかわらず、野田政権が、民主党の権力が窮地に追い込まれ、解体に向かっていることだけは疑いようがありません。野田政権が最後の支柱と頼みにする自民党の反発が強まり、消費税法案の成立後は、政局は野田政権打倒一色にぬりつぶされていくでしょう。秋にも総選挙がある可能性も否定できません。民主党議員たちと野田政権の政治は、今ではただ自分の議員身分と権力を一日でも長く維持するという、卑小な目的に奉仕するだけのものになり下がっています。
彼らは総選挙を死ぬほどに恐れるのですが、それは彼らがいわば「政治生命」をかけ、また「国民のためのもの」と大騒ぎして強行した、消費税増税にどんな自信も持っていないことを暴露しています。もし消費税増税が国民のためのものだというなら、そしてそれを多くの困難を突破してしゃにむに実行したというなら、民主党と野田政権が総選挙を、つまり「国民の審判」を恐れなくてはならないものは何もないはずです。しかし実際には、彼ら自身、消費税増税がブルジョア勢力の、したがってまた自民や公明の支持を得たとしても、労働者の、貧しい人々からは強い反発を、憎しみさえも得ていることをひしひしと感じざるを得ないのです。総選挙などしたら、確実に落選者を続出させ、少数派に転落することを予想せざるを得ないのです。
かくして民主党と野田政権のなし得ることは、ただ総選挙を一日でも遅らせ、延ばすことだけです。引き延ばしたからといって、民主党と野田政権に対する信頼も信用も戻って来る当てはなく、展望が開けるはずもないにもかかわらず、ただ僥倖と空頼みにすがるしかないのです。野田政権は消費税増税が本当に国民のためのものであり、国民の支持を当てにできるなら、法案が成立する今こそ、総選挙に売って出る絶好の機会のはずです、しかし実際には、消費税増税法案成立の後には、総選挙はどんなことがあっても避けなくてはならないというのですから、野田政権のやっていることが、国民のためのものでなく、その利益に反するものでしかないことを、民主党や野田が自ら認めていると同様です。
そして仮に、消費税増税が国民に不人気だとしても、それが本当に国民の利益だというなら、総選挙で、それがいかに国民のためであるかを明らかにすべきであり、また明らかにして野田政権を継続させる絶好のチャンスであることも自明です。1年後に総選挙などやれば、今ごまかし、逃げただけ、今以上に不利になることは確かなのですから。
そもそも野田政権は消費税増税を強行しておいて、総選挙でその「信を問う」というのですから逆立ちしています。まず総選挙で消費税増税を問い、「信を得て」から堂々と消費税増税をやるべきであり、それこそがいやしくも“民主主義”の政治というものです。消費税増税をしてから、その「信を問う」というなら、民主党が敗北したら──これはほとんど必至です──、消費税増税はチャラにするというのでしょうか。チャラにしなければ道理に合いません、というのは、「信を問う」といって総選挙をしたのだからです。民主党は負けても自民党が勝ったから「信を得た」などというのは奇弁とごまかしでしかありません。総選挙で「信を問う」――消費税増税の是非を問う――などというのは、最初から野田と民主党の不誠実といやしさを暴露しているのです。
要するに、野田政権のやっていることも、自民党がやっていることも(もちろん他の政党、つまり共産党なども同様ですが)、「国民のため」といったこととは全く無関係であって、くず政治家たち──ブルジョア政治家、プチブル政治家たち──の議員身分や権力や私利私欲を守り、争うだけの醜悪で下劣な闘い、つまり議会制政治の究極の頽廃と腐敗の姿でしかありません。
そもそも、野田はブルジョアと自民党の支持を当て込み、その勢力を頼みに権力の維持を企んだのですが、そんなつまらない政治がたちまち行き詰まり、破綻しない方がおかしいのです。消費税増税は3年前の総選挙の時の民主党のマニフェストに謳われた政策でなく、むしろ反対していた政策なのですから、それを他の政党と連合して成立させようとすること自体、余りに無節操で、デタラメですが、そんな自覚さえもないのですから、野田を支持する勢力や人々がますます少なくなり、支持率が下がりっぱなしになっていくのは当然です。
そしてマスコミはこんな民主や自民の政治を事実上支持して、自民・民主は話し合い、一致して「一体改革」を、つまり消費税増税を断固やり遂げようと言うだけで、民主党を支持してきた立場の全くの破綻をさらけ出すだけです。ブルジョア民主主義の政治、議会制民主主義の政治、政党政治の破綻と解体はさらに深化し、その中でファシズム的勢力の策動はますます活発化し、橋下一派は「政党」を組織して国政進出に向けてさらに野心をたくましくしています。彼らは次の選挙で過半数を獲得すると豪語するようになっていますが、そんな自信を抱かせるほどに、既成政党の腐敗は深化し、労働者ばかりか、国民の全体からそっぽを向かれているのです。橋下一派ではなく、労働者階級の党派の政治的な登場によって、こうしたゴミくずを国会の場からも一掃していく必要があります。
野田政権の「意見聴取会」は茶番
ごまかしだけで、被災者も国民も誰も納得させ得ず
2012年8月3日
全国で、野田政権が主催する「エネルギー政策」についての「聴取会」という茶番が続いています。政府が、2030年の原発比重についての3つの案――電源構成における原発比率を0%にする、15%にする、20~25%にする――を示して、そのどれを支持するかを、抽選で選ばれた人々に聞く、と言うのです。
しかし政府のやるべきことは、責任逃れのパフォーマンスをやることではなく、自らの考えと政策を明らかにし、明確な展望を示すことであって、「ご意見拝聴」などといった、ごまかしにふけることではありません。いくつかの典型的な立場や見解はすでに明らかになっているのであって、そんな分かりきったことのために、カネとエネルギーと時間を浪費することはばかげています。
そもそも原発事故の責任を明らかにし、東電や政府や国の責任を問うことをやめてしまった瞬間から、支配階級がそんな無責任を決め込んだときから、彼らが声をからせて原発の必要性を強調し、それなくしては日本の経済は成り立たない、産業の国際的競争力が失われ、資本は海外に出ていくしかない、空洞化が進んで、日本経済は衰退するしかないとどんなにわめいても、原発再稼働を国民全体に納得させ得るはずもないのです。
原発事故によって、被災地の住民はもちろん、国民全体に計りしれない損害と打撃を与えたのですから、その責任を明らかにし、罰するのが当然であるのに、電力資本や国家の責任さえ何ら問わず無罪放免しながら、これまでのことはさておいて、今後、原発をなくせばいいことだ、なくすことこそが第一義的だと言う「世論」がはびこっています。
しかしこうした“論理”や立場は、一五年戦争の敗北の後、ちまたで言われた理屈と全く同じです。敗戦の後、自由主義者たちやマスコミは、資本や軍部や天皇らの責任を棚上げし、今後平和主義でやればいいのだと言って、責任問題を回避し、免罪にし、また同じ道をたどるのを許してきたのです。まずブルジョアや国や政府や知識人等の責任を、事実上の犯罪行為を徹底的に明らかにすることから始めなくてはならないのです、そしてそれこそが、今回のような原発の過酷事故を一掃していく確かな道でもあるのです。
そしてまた20年後の原発比率のことなど言っても意味はありません、というのは、20年もたつなら、日本のエネルギー供給がどんなものになっているかなど、誰も知らないから、それをめぐる諸条件がいくらでも変わっていくだろうからです。原発よりもより安価で、より効率的で、より“安全な”──単に放射能のことだけでなく、地球温暖化の問題等々も含めて──電源が出現するなら、原発依存が0になることはいくらでもあり得ます。
野田は、発言者を抽選で選ぶなどと言いながら、反原発主義者からクレイムが出ると、すべての見解を聞くという「意見聴取会」の趣旨も忘れて(裏切って)、電力会社の社員の発言を禁じるというのですら、お笑いであり、矛盾そのものです。反原発主義者も、電力会社の関係者の発言を許さないなどと騒ぎ立てることによって、彼らの立場がどんなに自信も根拠もないものであるかを、そして思い上がっていて、民主主義の精神さえも理解していないことを暴露したのです。
再び反原発の市民デモについて
天災か人災かも定かでなく、闘う敵もはっきりせず
2012年7月27日
反原発の市民デモが続いており、マスコミなどは盛んに持ち上げています。朝日や毎日などが持ち上げるから砂のような人々が集まるだけであって、「直接行動」だなどと言ってみても、単なる自己満足を出ません。
国会の事故調査委員会の報告でさえ、原発事故は「人災」であると言っています。「人災」であると言うことは、すなわち電力資本や政府、国等の「共同犯罪」であると言うことですが、市民主義者たちは「人災」であるのか、「天災」であるのかの結論さえ明確に語ることさえできないのです。
彼らは核エネルギー原罪論を唱えているのですから、天災と結論するしかないように思えますが、しかし口を開くと電力資本や国家や政府を非難するのですから矛盾そのものであり、全く首尾一貫していません。
仮に人災だと言うにしても、いかなる意味で人災なのか、やはり明らかにできません。抽象的に悪魔的エネルギーである核エネルギーに手を出したのが悪いと言った、偏狭な意味での「人災」と言った観念が通用するはずもないのです。
彼らは「人災」といっても、どんな意味で人災なのか、何が人災なのかさえ自覚していないのですから、語ることもできないのですから、そんな空虚な運動がたちまち解体していくほどに確かなことはありません。
彼らは原発反対の一点で広く結集すると言うのですが、無原則なセクト的立場を売り物にし、かえって結集する人々、とりわけ広汎な労働者を結集するのを妨げ、狭めているに過ぎません。スローガンまで規制していると言うのですから、呆れたものです。例えば、電力資本やブルジョア政府――自民党や民主党の政府――を暴露し、それらに反対する立場や、原発反対と資本に反対する闘いを結合して闘おうというスローガン等々の“党派的な”主張が規制され、妨げられるなら、労働者党がそんな偏狭で、空っぽなデモに参加しないし、すべきでないのは明らかです。
60年の安保闘争の末期にも、こうした運動は盛り上がりましたが、「壮大なゼロ」と我々は評価しました。実際、それ以上のものにはなりませんでした。
市民派の反原発デモ
階級的でなく、空虚で期待できない
2012年7月20日
原発反対のデモが盛り上がっていますが、市民主義的なこうした実際的行動が大きな政治的意味や影響力をもつことは決してないでしょう、というのは、こうした運動は非もしくは反階級的な運動でしかなく、思想性も継続性も持続性も一貫性も──つまり真剣な闘いに不可欠の要素を――すべて欠いているからです。
いわゆる“中産階級”(雑多なプチブル階級)や、不生産者や寄生階級を主体にした、こうした運動は労働者の階級闘争から見れば反動的な意義しかもちえません。集会では、「たかが電気のために、なんで命を危険にさらさないといけないのか」といった演説が、主催者の一人の坂本龍一(音楽家)によって叫ばれていましたが、「たかが電気」といった言葉こそ、こうした運動の、その担い手の本性を暴露しています。
こうしたインテリたち、“芸術家”は大した真実を代表していると勘違いしていますが、現代の社会の本質も、社会関係も、社会生活を維持し、支えている階級、しかも資本によって搾取され、抑圧され、社会の矛盾をしわ寄せし、苦悩している階級についても――彼らこそが、坂本が軽蔑して語った、「たかが電気」を生産しているのですが――、何も知っていないのです。「たかが電気」などと言うプチブル芸術家が指導する運動はいずれにせよ、無力であり、反動的でさえあります。
彼らの集会やデモでは、党派色を出すな、ただ原発反対だけで団結し、行動するのが原則だというのですから、そんな運動がまるで空っぽで、脆弱で、一人よがりのもの以上に出ることは決してありません。彼らは「党派色を出さない」という立場もまた一つの政治的な立場──どんな確固とした、真実の政治的立場も知らず、そんなものを恐れる、プチブルたちの政治的立場──であることを反省することもできないほどに、思い上がっているのです。少なくとも、「別個に進んで一緒に撃つ」という立場――各党派は、まさにそれぞれの立派な“党派色”を出すことによって、運動全体を一層強大なものにすると言う、正当で、唯一の“合理的な”立場――に立たないかぎり、いくらかでも強力な、実際的な意義のある共同闘争もあり得ないことは明らかです。
我々はすでに60年安保闘争の時代に、こうした空虚で無力な“市民主義的”運動を経験してきました、つまり「民主主義擁護の一点で結集し、共同して闘おう」といったものとして現われましたが、そんな運動はすぐに雲散霧消して、後に何ものも残さなかったのです。
市民主義者が、そしてプチブル改良主義者がどんな連中であったかは、民主党の政治、とりわけ鳩山や菅の政治によって(あるいは今ではなさけないピエロにすぎない辻元清美らの無節操によって)、完璧に明らかにされています。どんな政治的な立場もだめだという市民主義者が政治を担ったとき、最低最悪の空虚でナンセンスな政治として現われたことほどに有益な経験はなかったと結論すべきでしょう。
そして付けたしておけば、共産党は市民主義者や社会民主主義者に迎合、追随し、それらを美化してやる以外、どんな役割も果たさなかったのです。階級的立場を固く守り、断固たる批判的な立場を堅持する意義と重要性を断固確認しましょう。いまこそ労働者の階級的な立場を貫徹して闘って行かなくてはならないときです。
石原の尖閣「筋違い」発言
与太者同然、戦前の軍部の役割と同じ
2012年7月13日
民主党政権が尖閣諸島の「購入」の方針を打ち出し、石原が「東京都がやるから国は黙っていろ」と、与太者同然の粗野ぶり、破廉恥な傲慢ぶりを発揮して毒づいています。
しかし石原自身が、もともと都がやるのは「筋違い」と認めていたのですから、また国がやらないから都がやると説明していたのですから、国がやると言うなら、さっさと身を引いて国に任せるのが、まっとうな人間のやることです。それを「自分がやり始めたことだから、筋違いであろうと、国家体制や法秩序がどうあろうと、自分の縄張りだ、今さらしゃしゃり出るな」というなら、それは、石原がやくざ以上の存在でないことを暴露しています。
戦前、軍部は政府の「不拡大」などの方針に逆らい、独断で中国への軍事侵略を拡大して行きましたが、今では石原の悪党がかつての軍部の役割を買ってでて、日本の国民が少しも望んでもいない、中国との国家主義的、軍国主義的な対立と抗争の泥沼に引きずり込もうと策動するのです。
沖縄県の一部であり、国家の外交に関する困難で複雑な問題に、都が乗り出し、介入すると言うことが、国家の外交や「安全保障」の政策を歪めたり、妨害したり、その成果を無にするような、全く許し難い、犯罪にも似た行動であることを、この思い上がった人間は反省できないのです。このブルジョア社会の国家体制や“秩序”からしても、その筋違いは、不当性は明らかです。
石原は近いうちに都知事を辞めて、また「国政」に復帰する野望を膨らませています、そうした事態になれば、都の尖閣諸島の“領有”といったことが、許しがたい国家外交に対する介入であり、石原の思い上がりと、新党結成のための卑しいパフォーマンスでしかなかったことがたちまちに暴露されるのです。
尖閣諸島の国有化は野田政権のパフォーマンスだと石原らは攻撃していますが、どっちもどっちです。筋違いであり、国家主義を煽動しようというあくどい意図を秘めている限り、石原のパフォーマンスの方が遙かに有害であり、悪質であり、危険であるのは言うまでもありません。
電力買取制度に異議
「朝日」は“中産階級”(金持ち)の利益ばかり
2012年7月6日
朝日は4日の社説で、「自然エネルギー・普及急ぎ新しい社会へ」と書いて、1日から始まった、“自然エネルギー”なるものによる電力を、電力会社が高値で買い取る新制度を美化し、擁護する見解を発表しました。
朝日新聞は最近、野田政権の消費税増税の策動──民主党内でさえ多くの反対があって達成の見込みもなく、ただ自公の協力によってのみ辛うじて成功させ得た、労働者人民の利益に反する策動──を全面的に支持するキャンペーンを張ってきましたが、ここでも、民主党のバラまき策動を、労働者人民や最も貧しい人々の利益に反しかねない、もう一つの策動を応援しようというのです。朝日のよって立つ階級的な性格は完全に暴露されてしまった、と云うべきでしょう。
太陽光発電を自然エネルギーなどと呼ぶのは間違っています、というのは、太陽のエネルギーを電力として利用するには必要とするからであって、その意味では自然エネルギーの名に値しないからです。個々の太陽光発電の設備費用は小さいかもしれませんが、しかし同量の電力を得るためには、他の発電よりも相対的により大きな設備やエネルギーを必要とするとです、つまり他の方法による電力獲得という点では少しも効率的でも、自然の利用においても優れているということではななく、そんなものを自然エネルギーなどと呼ぶこと自体が概念矛盾でしかないからです。
太陽光は自然エネルギーだというのでしょうが、そんなことを云うなら、化石燃料であれ、原発であれ、みな自然エネルギーである点ではどんな違いもありません。人間はそもそも自然エネルギー以外のどんなエネルギーも知らないのです。プチブルたちは一体、自然エネルギーという言葉で何を云おうとしているのでしょうか。自らが社会についてだけではなく、“自然”についても何も知っていないことを暴露しているだけです。
朝日の社説は云います。
「自然エネルギーは比較的小さな資本で取り組める。基金を設立して風車などを共有したり、組合組織による『市民発電所』の運営なりと、地域単位での工夫も可能だ。『屋根貸し』などのビジネスも生む。〔高値の買取〕制度をうまく活用し、新しいエネルギー社会を築こう」。
我々はこうした朝日の綱領はまったくプチブル的であり、彼らの「新しい社会」とは典型的にプチブルの理想でしかないと結論せざるを得ません。「小さな資本」、「組合組織」、「市民発電所」、「地域単位」、「屋根貸し」等々、徹底的にプチブル向きの、プチブル用の言葉がいくらでも並べられているのが、その証拠です。
確かに太陽光発電には「小資本」が最もふさわしいのであって、だからこそプチブルや「市民」(“中産階級”と読むべきです)の世界なのであって、労働者の世界ではないのです(ソフトバンクなどの大資本も参画しますが、それは国家の応援があってはじめて──といっても電力会社がどんなに高値でも全量買い上げるというのですから、国家はとりあえず一円も負担しなで、それを電気利用金の引き上げによって貧しい人々に転嫁するのですから、ますますこの制度の不合理や、いやらしさはきわだってきます。貧しい人々はその電気料金の値上げを拒否できないのです、というのは、政府と電力資本による独占価格を押しつけられているからです──、商売として成り立つからであって、純粋に経済的な視点からなら、利害に敏感な孫正義は決して手を出さないでしょう)。
広汎で、高費用の「小資本」でのみ生産するということは、社会的には膨大な余計の負担が生じるということですが、国家と民主党政府はその負担を独占の力よって、労働者や貧しい人々に強要しようというのです。自然エネルギーだから文句を云うなというのが、“傲岸な中産階級”の連中の言葉ですが、彼らは自分たちの理想とする「新しい社会」を建設したいとするなら、せめて自分たちの負担によって、それを追求すべきであって、貧しい人々にもっぱら負担を押しつけることで手に入れようとすることなど、どうして正当化できるのでしょうか。ブルジョアや“中産階級”の無神経と思い上がり以外ではありません。
|