2003年11月9日『海つばめ』第931号
エンゲルス修正の不当性明らかに
待たれるマルクスの草稿出版
労働者セミナーの議論の要点
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東京と京都で、「エンゲルスの『資本論』修正を問う」というテーマで開催された労働者セミナーは、熱心な活動家や青年を結集し、内容のある議論が行われ、得るところが多かった。議論の結果は、論理的に解決された問題があり、議論が始まったが、それが深化されることなく、いわばまだ未解決のままになっている問題があり、さらには新しく提起されたが、ほとんど検討されなかった問題も残った等々、であった。二ヵ所の労働者セミナーを全体として、議論を詳細に追って紹介することは至難の業である。残念ながらここでは、重要で、大きな議論のみの概略を紹介するとどめざるをえない。
◆拡大再生産への「移行」
田口氏の報告(『資本論』第二巻二十一章、拡大再生産の部分)については、一番、問題となったのは、果たしてマルクスに「試行錯誤」があり、エンゲルス修正は、それを蔽い隠したが故に、良くなかったのか、ということであった。
田口氏は途中で、「試行錯誤」というのは言いすぎだが、マルクスの「試行」の過程の文章であることは明らかだと、自らの立場を微調整した。
この「試行錯誤」と「試行」の違いは必ずしも明白でなかったが、要するに、二十一章は草稿としても、一定の確定した内容を持たないものである、ということであったろうか。
もちろん、こうした田口氏の見解に対しては、多くの反論が出され、基本的に「試行錯誤」論は否定されたと言える。
田口氏の主張は、マルクスは単純再生産(つまりその概念、その表式)から始めて拡大再生産(の概念、表式)への「移行」を明らかにしようとしたが、「試行錯誤」を繰り返した結果、失敗した、あるいは、その方法は、第一部門の蓄積率をまず確定してからやるやり方であり、第一部門の蓄積率が決まることで第二部門の蓄積率も確定され、拡大再生産の表式も決まる(はずである)、蓄積では第一部門が優越するのである、つまり第一部門は独立変数であり、第二部門は従属変数である、等々といったものであった。例えば、次のような見解である。
「『概念』を正しく把握するためには、『資本論』の理解が前提である。拡大再生産は、第一部門の蓄積率に従って第二部門の蓄積が決定されるということが、マルクスの結論であるが、草稿ははじめからこうした観点から書かれているとは思えない。
もしそうではないとしたら、なぜマルクスは第一、第二両部門の蓄積率を同じとしてはじめているのだろうか。マルクスがこうした前提からはじめたのは、各資本が独立に、無政府的に生産を行っている資本主義のもとでは、第二部門の資本が蓄積を第一部門の蓄積率に従って行っているのではないということからであろう」(『海つばめ』927号)
もちろん、田口氏のこうした、理解不能の観念――現実に第二部門は第一部門の蓄積率に従っていないから、マルクスは、両部門の蓄積率を同じとして始めた云々――は誰をも納得させなかった。田口氏は拡大再生産(の概念)における第一部門優先を持ち出し、それがマルクスの結論のはずだが、マルクスは最初からその観点で論じているわけではない、とするなら、マルクスの「試行錯誤」は明白ではないか、というのである。
田口氏の報告で、一番問題になったのは、エンゲルスの次の修正であった。
まず最初にマルクスの文章を掲げ、ついで、エンゲルスの修正文を掲げることにしよう。
「(単純再生産の場合には、全剰余価値Tが収入として支出され、したがって商品Uに支出されることが前提にされた。したがって、剰余価値Tは、この場合には、cUをその現物形態でふたたび補填すべき生産手段だけから成っている。ところで、Tのある種の生産諸部門の生産物は、生産手段としてUにはいるのではなく、Tそれ自身のなかでふたたび生産手段として役立つことができるものである。これらの部門の生産物は、価値から見れば他のあらゆる部門の生産物と同様にc+v+mに分解されることができる。では、追加不変資本Tのために素材を提供することのない単純再生産を前提した場合に、このmはどういうことになるのだろうか? これはTのもとで、単純再生産のとろこで考察すべきことである)」
エンゲルスはこのマルクスの文章をカッコからはずし、同時に、「ところで……」以下を次のように書き替えたが、それはある意味で、極めて重要なものであり、これまで(歴史的に)、拡大再生産の議論に大きな影響を及ぼしてきたのであった。
「そこで単純再生産から拡大再生産への移行が行われるためには、部門Tでの生産は、Uの不変資本の諸要素をより少なく、しかしそれだけTの不変資本の要素をより多く生産できるようになっていなければならない。この移行は必ずしも困難なしに行われるものではないが、しかし、それは、Tの生産物のあるものが、どちらの部門でも生産手段として役立つことができるという事実によって、容易にされるのである」
ここで一番問題なのには、エンゲルスが「単純再生産から拡大再生産への移行が行われるためには」という一句を記したことであった、というのは、マルクスは全くそんなことを言ってもおらず、また問題にしてもいないのに、あたかもマルクスがそれを課題として、二十一章の最初の部分を書いているかに取られたからである、あるいはそう理解する人々がいくらでも現われたからである。
そして何よりも問題となったのは、田口氏自身が、そうした観念から出発したのであり、その観点からマルクスの二十一章を論じ、マルクスは「試行錯誤」している、エンゲルス“修正”は、それを隠蔽したが故に、“罪”があると結論したことであった。
しかしマルクスが単純再生産から出発して論じていることは、直接に拡大再生産の問題というより、その前提としての資本の蓄積、つまり剰余価値の資本への転化の問題であった。これはすでに『資本論』一巻で、個別資本の観点から論じられたことであったが、今度は、社会的な規模の問題として、それが改めて論じられ、その問題点が指摘されたのである。
これは確かに拡大再生産と密接にかかわる問題であり、拡大再生産の議論に移っていく前提であったが、しかし、それは単純再生産(の概念、あるいは表式)から拡大再生産(の概念、あるいは表式)への「移行」ということとは別であった。
しかしエンゲルスが「移行の」議論であるかに書いたために、実際、そういう理解がまかり通り、田口氏もまたその立場に立って、マルクスは第T部門の蓄積率(剰余価値のうち、資本に転化する、つまり資本として蓄積される部分)を五〇%として、第U部門への移行を明らかにしようとしたが、できなかった、と主張したのである。
そもそも、単純再生産から拡大再生産への移行とはどういうことか、何のために、それが論じられなくてはならないのか、という点で、田口氏は明確に答えることができなかった。
単純再生産から出発しなくては、拡大再生産の概念(表式)が獲得できないからだ、そしてマルクスはそのやり方で獲得しようとして「試行錯誤」を繰り返し、しかも失敗している、と田口氏は論じだのだが、しかし単純再生産から出発しなくても拡大再生産の概念もしくは表式を得ることは、いくらでも可能であって、拡大再生産の表式を獲得することと、単純再生産とが別の問題であるのは余りに明白であるように思われる。
また、資本主義的現実の中で、実際に、単純再生産から拡大再生産に「移行する」という場合がないというわけではないが、しかしそれは極めて特殊的、偶然的な事態として現われるのであって、そんなことを、マルクスが一般理論として、どうして論じなくてはならないのか、何のために「試行錯誤」を繰り返さなくてはならないのか。田口氏の言うことは、途方もないことに思われたのである。
田口氏は、前述のエンゲルス修正を非難したが、しかしそれは、マルクスが「単純再生産の場合の剰余価値部分の貨幣への転化」を論じているのに、「拡大再生産の条件としての不変資本の素材的問題にすり替えている」といった、見当違いのものであった。
しかしもし、単純再生産から拡大再生産への「移行」を論じているとするなら、「拡大再生産の条件としての不変資本の素材的問題」を論じて、なぜいけないのか。むしろ、それを論じることこそ妥当であり、あるいは必要ではないのか。
田口氏はエンゲルス修正を批判するとしながらも、実際上は、肝心要のエンゲルス修正の一句(ここで、単純再生産から拡大再生産への「移行」が問題になっているかに取られる一句)を擁護した、というより、まさにその精神で報告を行ったのである。「“移行”という観点からするなら、マルクスにあったのは試行錯誤だ」、というのである。
労働者セミナーの議論を通して、田口氏の観念は否定された。というのは、マルクスが実際、二十一章で、単純再生産から拡大再生産への「移行」(概念的な、あるいは表式的な)を論じている、というどんな証拠もなかったからである。
そしてそれとともに、まさに田口氏が擁護したばかりではない、自らの報告の根底に据えた、エンゲルスの命題(修正)もまたよくないものと結論されたのである。
これは重大な結論ではあった、というのは、田口氏的な観念は一般的に流布しているもので、“学会”等々でも大きな影響を持っているが、「我々はそれを支持しない」と公然と宣言するものだったからである。
◆「資本の絶対的過剰生産」
次に議論になったのは、平岡氏が問題提起した、「資本の絶対的過剰生産」の観念にかかわるものだったが、これもまた、難解を極める問題であった。
平岡氏が提出したのは、以下のマルクスの文章を、エンゲルスが一部削除したことであった。エンゲルスの削除した部分は、《 》カッコで示しておく。
「《現実的な資本の過剰生産は、ここで考察されたもの〔資本の絶対的過剰生産――平岡〕とは決して同一ではなく、それと比べればせいぜい相対的なものにすぎない。》
資本の過剰生産が意味するものは、資本として機能しうる、すなわちある与えられた搾取度で労働の搾取に使用されうる生産諸手段――労働諸手段および生活諸手段――の過剰生産以外の何ものでもない。というのは、一定の点より下に下がるこの搾取度の下落は、資本主義的生産過程の停滞と撹乱、恐慌、資本の破壊を呼び起こすからである。資本のこの過剰生産が、多少とも大きな相対的過剰人口をともなっていることは、決して矛盾ではない。《(この相対的過剰人口の減少そのものがすでに恐慌の一つの契機である。というのはそれはたったいま考察された資本の絶対的過剰生産の事態を引きよせるからである)。》。労働の生産力を高め、生産物(諸商品)の総量を増加させ、市場を拡張し、資本の蓄積を(相対的に見ても、価値量から見ても)促進し、利潤率を低下させたその同じ諸事情が、相対的過剰人口――すなわち、そのもとでのみ、その人たちが使用されえるであろう低い労働の搾取度のために、または少なくとも、与えられた搾取度のもとで、その人たちがもたらすであろう低い利潤率のために、過剰資本によって使用されない労働者の過剰人口――を生みだしたのであり、またつねに生み出しているのである」
平岡氏は、最初の部分の削除はマルクスの理論に「重大な変更」はもたらさないが、後の削除は決定的な問題であり、まさにマルクスの恐慌理論をねじまげ、その理解を妨げ、日和見主義的な「過少消費説」に道を開く有害な修正であった、と断じたのである。
平岡氏は、二つの文章の削除は、関連している、カッコの部分を削除したから、そのために前の文章も削らなくてはならなかったと主張したが、参加者を納得させることはできなかった。
ここでは、「資本の絶対的過剰生産」という概念の理解が議論となり、それと、マルクスが上記の引用文で書いている「現実的な資本の過剰生産」との関係などが検討された。そして、最初の引用文を削除しても「重大な変更」をもたらさないという平岡氏の見解に対しては、それはその前の文章を受けて書かれており、削除することは「重大な変更」をもたらしかねない、むしろ、平岡氏が削除したらまずいという文章の方が、カッコに入れられ、挿入文として書かれているのだから、削除することができるのではないか、という見解が提出された。
マルクスは、「現実的な資本の過剰生産」という言葉で、実際の恐慌を語っており、他方、「資本の絶対的過剰生産」という言葉は、それと区別されて、もっと抽象的な概念、「資本制的生産の一般的利潤率の傾向的低下」という法則を展開する文脈の中で、その関係の中で述べられている概念ではないかという見通しが、何人もの発言者から述べられた。
これと関連して問題になったのは、平岡氏も引用している、『資本論』の次の文章であった。
「それゆえ、個々の商品の過剰生産ではなく、資本の過剰生産――といっても、資本の過剰生産はつねに商品の過剰生産を含んでいるのだが――の意味するものは、資本の過剰蓄積以外のなにものでもないのである。この過剰蓄積がなんであるかを理解するためには、それを絶対的なものと仮定してみさえすればよい。どんな場合に資本の過剰生産は絶対的なのだろうか? しかも、あれこれの生産領域とか、二つ三つの重要な生産領域とかに及ぶのではなく、その範囲そのものにおいて絶対的であるような、つまりすべての生産領域を包括するような、過剰生産は?
資本主義的生産を目的とする追加資本がゼロになれば、そこには資本の絶対的な過剰生産があるわけであろう。しかし、資本主義的生産の目的は資本の増殖である。すなわち、剰余価値の取得であり、剰余価値、利潤の生産である。だから、労働者人口に比べて資本が増大しすぎて、この人口が供給する絶対的労働時間も延長できないし、相対的剰余労働時間も拡張できないようになれば(相対的剰余労働時間の拡張は、労働にたいする需要が強くて賃金の上昇傾向が強いような場合にはどのみち不可能であろうが)、つまり、増大した資本が、増大する前と同じか、またはそれよりも少ない剰余価値量しか生産しなくなれば、そこには資本の絶対的な過剰生産が生ずるわけであろう。すなわち、増大した資本C+ΔCは、資本CがΔCだけ増大する前に生産したよりも多くない利潤を、またはそれよりも少ない利潤をさえ生産するであろう。どちらの場合にも、一般的利潤率のひどい突然の低下が起きるであろうが、しかし今度は、この低下を引き起こす資本構成の変動は、生産力の発展によるものではなく、可変資本の貨幣価値の増大(賃金の上昇による)と、これに対応する必要労働にたいする剰余労働の割合の減少によるものであろう」
しかしこの『資本論』の文章は、平岡氏の見解を補強するというよりも、エンゲルスの補正の個所がむしろ問題となり、その文章は、これまで、恐慌の理解に対する間違った観念を補強する、決定的な悪影響を及ぼしてきたのではないか、という疑問が強く出されたのであった。
その部分とは、終わりの方にある、「(賃金の上昇による)」という一句であり、このカッコ内の文章がエンゲルスのつけ加えたものであることが明らかになるにつれて、それこそがむしろ問題ではないかということである。
というのは、資本の絶対的過剰生産の議論と結び付けられて、その一句は、〈繁栄、労働力の枯渇、賃金の上昇、利潤率の低下、資本の絶対的過剰生産、恐慌〉という図式において恐慌を理解し、展開する強力な俗流学派――典型的なものは宇野学派――を支援するものとなって来たからである。
要するに宇野学派らは、労働者の賃金があがるから、それが資本の利潤を侵食し、したがってまた資本の「絶対的過剰生産」を生じる、それが恐慌である(マルクスがそう説いている)と主張したのであり、エンゲルスの修正は、この俗論に強力な援軍を送ったのである。
労働者の賃金が上がると景気が悪くなるということは、いつもブルジョアたちが説いていることであり、その意味で、俗耳に入りやすく、流布することになったが、しかし好況期あるいは繁栄期(特に、その末期)には、賃金が若干上がるとしても、しかし物価もそれ以上に高騰していくのであって、そうだとするなら、好況末期には利潤率は高いレベルに達していて、少しも縮減していないはずである。経験的にも、このことは明らかであろう。
かくして賃金の上昇から、それを本質的な契機として、恐慌理論の根底とする理屈のばからしさ――というより、反動性。というのは、この理論は労働者に向かって、恐慌を避けるには賃下げに甘んじる以外ないと説教するのと同様だから――は明らかであろう。
◆脚注32の問題
労働者セミナーで議論になった、もう一つの大きな問題は、第二巻第十六章にある脚注32の問題であった。これもまた複雑で、困難な問題であった。
平岡氏は、この脚注32は、マルクスの草稿にあっては、本文中に書かれた一部であったが、エンゲルスが脚注として独立させたために、多くの支障を来し、また間違った観念(山田盛太郎などに代表される)をはびこらせることになった、と主張した。
エンゲルスの脚注32とは、次のような文章のことである。
「原稿では、ここに将来の詳論のために次のような覚え書きが挿入されていた。『資本主義的生産様式における矛盾。労働者は商品の買い手として市場にとって重要である。しかし、彼らの商品――労働力――の売り手としては、資本主義社会は、その価格を最低限に制限する傾向がある。――もう一つの矛盾。資本主義的生産がそのすべての潜勢力を発揮する時代は、きまって過剰生産の時代となって現われる。なぜならば、生産の潜勢力は、それによってより多くの価値が単に生産されうるだけではなく、実現もされうるほどには、けっして充用されることができないからである。しかし、商品の販売、商品資本の実現、したがってまた剰余価値の実現は、社会一般の消費欲望によって限界を隠されているのではなく、その大多数の成員がつねに貧乏であり、またつにね貧乏でなければならないような社会の消費欲望によって限界を画されているのである。しかし、これは次の篇ではじめて問題になることである』」
この脚注32で問題になったことは、エンゲルスがマルクスの nur(英語では only)を nir(同 never)と読み間違えたために、マルクスの文章が全く逆の意味に変えられてしまったということ、またこの読み違えのために、マルクスの継続的な一連の文章を脚注32として独立化させざるをえなくなったこと、そして、この独立化によって、「次の篇」としたことが、内容的に不明となってしまい、過少消費説などに重要な論拠を提供することになった、ということであった。
しかし、「一連の」文章であると平岡氏が判断したのは正しいといえるのか、という疑問が出され(というのは、意味的に、脚注32と、その前の文章は違っているから)、またエンゲルスが脚注32とした部分は、マルクスの原稿ではカッコに入れられていたという事実が明らかになって、平岡氏の理論は宙に浮いてしまった。
nir と nur の読み間違いと、意味の逆転という見解にも疑問が出されたが、しかし仮にその見解が正当だとしても、一続きの文章ということがも正しくないとするなら、「次の篇」で論じられているとする内容も、平岡氏が言うような、回転期間の長い固定資本の問題ではないということになるのである。また、エンゲルス修正に対する平岡氏の批判も、この点では根拠を失ってしまうだろう。
労働者セミナーの議論の中では、「次の篇」(第二巻第三篇)は、脚注32で論じられているようなことの「詳細」は、存在していないのではないか、という意見が出された(つまり、マルクスは書こうとしたが、書かなかったのではないか)。
もちろん、この問題は労働者セミナーの枠内では、究極的な解決に達することはできなかったが、しかし既成の議論(つまりこれまでの、インテリたちの議論)を越えた、重要な問題が提起されたことは事実であろう。
◆マルクスの「信用論」と商業信用
次に林氏の報告の部分だが、林氏はエンゲルス修正を直接論じるというより、その修正を規定しているエンゲルスの観念を検討するということで、『資本論』三巻五篇(いわゆる“信用論”の部分)二十六章と二十八章の、エンゲルスの二つの長い挿入文を取り上げて論じたが、その前提として、第五篇全体の構成などについても検討した。
林氏の報告で問題になったのは、二十五章の冒頭の一文であった。そこで、エンゲルスが例えば、マルクスの「商業信用」という言葉を、「商業信用と銀行信用」と書き替えたことは、一体どういう意味をもつのだろうか。また、ここで言われる「商業信用」は、例えば大谷禎之介が言うような「私的信用」という意味であろうか。
しかし労働者セミナーの報告や議論の中で、商業信用という言葉を私的信用と読み変えなくてはならないという意見はだされなかった。
また報告者は、以下のような内容の報告を行ったが、この点では重大な異議は出されなかった。
エンゲルスが商業信用に銀行信用という言葉を加えた点について、エンゲルスは、それ以降のマルクスの叙述展開を踏まえ、単なる商業信用だけを論じているのではないことを確認して、そうした変更を行ったのであろうが、しかしマルクスが「商業信用のみを扱う」としたことは重視されなくてはならない、というのは、それは当時のイギリスの銀行業務の特性を強く反映したマルクスの分析、理論展開の特徴を示唆しているからである。
エンゲルスの長い二つの挿入文は、資本投下のための借り入れという問題を、マルクスの展開とは無関係に、かつ不適切に論じているが(というのは、マルクスはそんなことを少しも問題にしていないのだが)、そうしたことが生じたのも、エンゲルスがマルクスの時代の銀行とその業務の時代的な特性を軽視したから、したがってその特性を反映したマルクスの分析や展開を、十分に理解しなかったからという面が強い。
またマルクスは、「信用制度やそれが自分のために作り出す諸用具(信用貨幣など)の分析は、われわれの計画の範囲には入らない」と書いていることも、文字通り、厳密に受け取る必要はないのではないか。
つまりマルクスは、実際には、銀行制度や、それが作り出す諸道具、つまり銀行券などをイギリスの当時の現実を踏まえてかなり詳しく論じており、それを論じてないといったことはないからである。
マルクスは最初は論じないと書いたが、展開していく中で、必然的に「銀行制度」やそれが作り出す諸用具についても論じざるを得なくなったのであり、また論じたのではないだろうか。いずれにせよ、「本来の信用」について、『資本論』とは別に書くはずであったとか、書くべきである、といったことにはならないであろう。
◆なぜ、エンゲルスの修正、介入
こうしたことの他に、多くの重要な議論が行われた。
例えば、恐慌論や信用論は『資本論』の中で基本的に論じられているのか、それとも『資本論』の限界の外にあるテーマであって、マルクスもまた、草稿以外で論じようとした(そして、果たせなかった)ということかどうか、という問題も提起された。
こうした問いに対しては、基本的に否定的な結論になった。『資本論』の中には恐慌論といったまとまったものはないが(もちろん、『剰余価値学説史』の中のリカード批判の部分には、恐慌について、いくらかでもまとまった内容の部分がある)、しかし内容的には“恐慌”は基本的に論じられている、という結論であった。
また、恐慌の根源とか、その根本原因とか、その究極の根拠とか、その契機とか、恐慌の可能性を現実性に転化させる要因とか、いろいろな言葉がかなり乱雑に使われているが、もう少し分かりやすく、厳密に規定して使う必要があることも確認された。
また、なぜエンゲルスは決して支持できないような多くの介入をしたのか、エンゲルスの全体としての評価と、どう関係するのか、という重要な問題も議論になった。
林氏は、第二インターの時代の亡命幹部にはサロン的な傾向があり、第二インターの日和見主義化に影響を及ぼしたが、同様に、『資本論』修正にも、気のゆるみというかいいかげんというか、そういうものが関係しており、エンゲルスにうぬぼれや安易な気持ちがあったのではないか、と主張したが、エンゲルスの他の著作や活動の意義を、『資本論』修正問題があるからということで、簡単に否定すべきではない(両者を区別すべき)と強調した。
もちろん、労働者セミナーを通して、エンゲルス修正問題がすべてチェックされ、検討されたといったことはないし、ありえなかった。エンゲルスの修正は膨大であり、徹底しているのであって、その全体的な評価はある程度の時間を必要とするであろう。
しかし労働者セミナーでは、エンゲルスの修正を基本的に擁護する人は一人もいなかった。そして我々の関心は、なぜ、どんな動機から、エンゲルスはこうした修正を行ったのか、ということであった。
この点での議論は入り口で行われただけで、深められることはできなかったが、しかし、エンゲルスによる修正が大きな問題点を持っていること、そしてその修正された『資本論』によって、マルクス主義の理論を理解することは大きな間違いにつながりかねないこと、したがってマルクスの草稿の出版が待ち望まれること、などは全員が確認できたことであった。
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