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『プロメテウス』46・47合併号2003年労働者セミナー特集
2003労働者セミナー報告

2003年11月9日『海つばめ』第931号

エンゲルス修正の不当性明らかに
待たれるマルクスの草稿出版

労働者セミナーの議論の要点


 東京と京都で、「エンゲルスの『資本論』修正を問う」というテーマで開催された労働者セミナーは、熱心な活動家や青年を結集し、内容のある議論が行われ、得るところが多かった。議論の結果は、論理的に解決された問題があり、議論が始まったが、それが深化されることなく、いわばまだ未解決のままになっている問題があり、さらには新しく提起されたが、ほとんど検討されなかった問題も残った等々、であった。二ヵ所の労働者セミナーを全体として、議論を詳細に追って紹介することは至難の業である。残念ながらここでは、重要で、大きな議論のみの概略を紹介するとどめざるをえない。

◆拡大再生産への「移行」

 田口氏の報告(『資本論』第二巻二十一章、拡大再生産の部分)については、一番、問題となったのは、果たしてマルクスに「試行錯誤」があり、エンゲルス修正は、それを蔽い隠したが故に、良くなかったのか、ということであった。

 田口氏は途中で、「試行錯誤」というのは言いすぎだが、マルクスの「試行」の過程の文章であることは明らかだと、自らの立場を微調整した。

 この「試行錯誤」と「試行」の違いは必ずしも明白でなかったが、要するに、二十一章は草稿としても、一定の確定した内容を持たないものである、ということであったろうか。

 もちろん、こうした田口氏の見解に対しては、多くの反論が出され、基本的に「試行錯誤」論は否定されたと言える。

 田口氏の主張は、マルクスは単純再生産(つまりその概念、その表式)から始めて拡大再生産(の概念、表式)への「移行」を明らかにしようとしたが、「試行錯誤」を繰り返した結果、失敗した、あるいは、その方法は、第一部門の蓄積率をまず確定してからやるやり方であり、第一部門の蓄積率が決まることで第二部門の蓄積率も確定され、拡大再生産の表式も決まる(はずである)、蓄積では第一部門が優越するのである、つまり第一部門は独立変数であり、第二部門は従属変数である、等々といったものであった。例えば、次のような見解である。
「『概念』を正しく把握するためには、『資本論』の理解が前提である。拡大再生産は、第一部門の蓄積率に従って第二部門の蓄積が決定されるということが、マルクスの結論であるが、草稿ははじめからこうした観点から書かれているとは思えない。
 もしそうではないとしたら、なぜマルクスは第一、第二両部門の蓄積率を同じとしてはじめているのだろうか。マルクスがこうした前提からはじめたのは、各資本が独立に、無政府的に生産を行っている資本主義のもとでは、第二部門の資本が蓄積を第一部門の蓄積率に従って行っているのではないということからであろう」(『海つばめ』927号)

 もちろん、田口氏のこうした、理解不能の観念――現実に第二部門は第一部門の蓄積率に従っていないから、マルクスは、両部門の蓄積率を同じとして始めた云々――は誰をも納得させなかった。田口氏は拡大再生産(の概念)における第一部門優先を持ち出し、それがマルクスの結論のはずだが、マルクスは最初からその観点で論じているわけではない、とするなら、マルクスの「試行錯誤」は明白ではないか、というのである。

 田口氏の報告で、一番問題になったのは、エンゲルスの次の修正であった。

 まず最初にマルクスの文章を掲げ、ついで、エンゲルスの修正文を掲げることにしよう。

「(単純再生産の場合には、全剰余価値Tが収入として支出され、したがって商品Uに支出されることが前提にされた。したがって、剰余価値Tは、この場合には、cUをその現物形態でふたたび補填すべき生産手段だけから成っている。ところで、Tのある種の生産諸部門の生産物は、生産手段としてUにはいるのではなく、Tそれ自身のなかでふたたび生産手段として役立つことができるものである。これらの部門の生産物は、価値から見れば他のあらゆる部門の生産物と同様にc+v+mに分解されることができる。では、追加不変資本Tのために素材を提供することのない単純再生産を前提した場合に、このmはどういうことになるのだろうか? これはTのもとで、単純再生産のとろこで考察すべきことである)」

 エンゲルスはこのマルクスの文章をカッコからはずし、同時に、「ところで……」以下を次のように書き替えたが、それはある意味で、極めて重要なものであり、これまで(歴史的に)、拡大再生産の議論に大きな影響を及ぼしてきたのであった。

「そこで単純再生産から拡大再生産への移行が行われるためには、部門Tでの生産は、Uの不変資本の諸要素をより少なく、しかしそれだけTの不変資本の要素をより多く生産できるようになっていなければならない。この移行は必ずしも困難なしに行われるものではないが、しかし、それは、Tの生産物のあるものが、どちらの部門でも生産手段として役立つことができるという事実によって、容易にされるのである」

 ここで一番問題なのには、エンゲルスが「単純再生産から拡大再生産への移行が行われるためには」という一句を記したことであった、というのは、マルクスは全くそんなことを言ってもおらず、また問題にしてもいないのに、あたかもマルクスがそれを課題として、二十一章の最初の部分を書いているかに取られたからである、あるいはそう理解する人々がいくらでも現われたからである。

 そして何よりも問題となったのは、田口氏自身が、そうした観念から出発したのであり、その観点からマルクスの二十一章を論じ、マルクスは「試行錯誤」している、エンゲルス“修正”は、それを隠蔽したが故に、“罪”があると結論したことであった。

 しかしマルクスが単純再生産から出発して論じていることは、直接に拡大再生産の問題というより、その前提としての資本の蓄積、つまり剰余価値の資本への転化の問題であった。これはすでに『資本論』一巻で、個別資本の観点から論じられたことであったが、今度は、社会的な規模の問題として、それが改めて論じられ、その問題点が指摘されたのである。

 これは確かに拡大再生産と密接にかかわる問題であり、拡大再生産の議論に移っていく前提であったが、しかし、それは単純再生産(の概念、あるいは表式)から拡大再生産(の概念、あるいは表式)への「移行」ということとは別であった。

 しかしエンゲルスが「移行の」議論であるかに書いたために、実際、そういう理解がまかり通り、田口氏もまたその立場に立って、マルクスは第T部門の蓄積率(剰余価値のうち、資本に転化する、つまり資本として蓄積される部分)を五〇%として、第U部門への移行を明らかにしようとしたが、できなかった、と主張したのである。

 そもそも、単純再生産から拡大再生産への移行とはどういうことか、何のために、それが論じられなくてはならないのか、という点で、田口氏は明確に答えることができなかった。

 単純再生産から出発しなくては、拡大再生産の概念(表式)が獲得できないからだ、そしてマルクスはそのやり方で獲得しようとして「試行錯誤」を繰り返し、しかも失敗している、と田口氏は論じだのだが、しかし単純再生産から出発しなくても拡大再生産の概念もしくは表式を得ることは、いくらでも可能であって、拡大再生産の表式を獲得することと、単純再生産とが別の問題であるのは余りに明白であるように思われる。

 また、資本主義的現実の中で、実際に、単純再生産から拡大再生産に「移行する」という場合がないというわけではないが、しかしそれは極めて特殊的、偶然的な事態として現われるのであって、そんなことを、マルクスが一般理論として、どうして論じなくてはならないのか、何のために「試行錯誤」を繰り返さなくてはならないのか。田口氏の言うことは、途方もないことに思われたのである。

 田口氏は、前述のエンゲルス修正を非難したが、しかしそれは、マルクスが「単純再生産の場合の剰余価値部分の貨幣への転化」を論じているのに、「拡大再生産の条件としての不変資本の素材的問題にすり替えている」といった、見当違いのものであった。

 しかしもし、単純再生産から拡大再生産への「移行」を論じているとするなら、「拡大再生産の条件としての不変資本の素材的問題」を論じて、なぜいけないのか。むしろ、それを論じることこそ妥当であり、あるいは必要ではないのか。

 田口氏はエンゲルス修正を批判するとしながらも、実際上は、肝心要のエンゲルス修正の一句(ここで、単純再生産から拡大再生産への「移行」が問題になっているかに取られる一句)を擁護した、というより、まさにその精神で報告を行ったのである。「“移行”という観点からするなら、マルクスにあったのは試行錯誤だ」、というのである。

 労働者セミナーの議論を通して、田口氏の観念は否定された。というのは、マルクスが実際、二十一章で、単純再生産から拡大再生産への「移行」(概念的な、あるいは表式的な)を論じている、というどんな証拠もなかったからである。

 そしてそれとともに、まさに田口氏が擁護したばかりではない、自らの報告の根底に据えた、エンゲルスの命題(修正)もまたよくないものと結論されたのである。

 これは重大な結論ではあった、というのは、田口氏的な観念は一般的に流布しているもので、“学会”等々でも大きな影響を持っているが、「我々はそれを支持しない」と公然と宣言するものだったからである。

◆「資本の絶対的過剰生産」

 次に議論になったのは、平岡氏が問題提起した、「資本の絶対的過剰生産」の観念にかかわるものだったが、これもまた、難解を極める問題であった。

 平岡氏が提出したのは、以下のマルクスの文章を、エンゲルスが一部削除したことであった。エンゲルスの削除した部分は、《 》カッコで示しておく。

「《現実的な資本の過剰生産は、ここで考察されたもの〔資本の絶対的過剰生産――平岡〕とは決して同一ではなく、それと比べればせいぜい相対的なものにすぎない。》
 資本の過剰生産が意味するものは、資本として機能しうる、すなわちある与えられた搾取度で労働の搾取に使用されうる生産諸手段――労働諸手段および生活諸手段――の過剰生産以外の何ものでもない。というのは、一定の点より下に下がるこの搾取度の下落は、資本主義的生産過程の停滞と撹乱、恐慌、資本の破壊を呼び起こすからである。資本のこの過剰生産が、多少とも大きな相対的過剰人口をともなっていることは、決して矛盾ではない。《(この相対的過剰人口の減少そのものがすでに恐慌の一つの契機である。というのはそれはたったいま考察された資本の絶対的過剰生産の事態を引きよせるからである)。》。労働の生産力を高め、生産物(諸商品)の総量を増加させ、市場を拡張し、資本の蓄積を(相対的に見ても、価値量から見ても)促進し、利潤率を低下させたその同じ諸事情が、相対的過剰人口――すなわち、そのもとでのみ、その人たちが使用されえるであろう低い労働の搾取度のために、または少なくとも、与えられた搾取度のもとで、その人たちがもたらすであろう低い利潤率のために、過剰資本によって使用されない労働者の過剰人口――を生みだしたのであり、またつねに生み出しているのである」

 平岡氏は、最初の部分の削除はマルクスの理論に「重大な変更」はもたらさないが、後の削除は決定的な問題であり、まさにマルクスの恐慌理論をねじまげ、その理解を妨げ、日和見主義的な「過少消費説」に道を開く有害な修正であった、と断じたのである。

 平岡氏は、二つの文章の削除は、関連している、カッコの部分を削除したから、そのために前の文章も削らなくてはならなかったと主張したが、参加者を納得させることはできなかった。

 ここでは、「資本の絶対的過剰生産」という概念の理解が議論となり、それと、マルクスが上記の引用文で書いている「現実的な資本の過剰生産」との関係などが検討された。そして、最初の引用文を削除しても「重大な変更」をもたらさないという平岡氏の見解に対しては、それはその前の文章を受けて書かれており、削除することは「重大な変更」をもたらしかねない、むしろ、平岡氏が削除したらまずいという文章の方が、カッコに入れられ、挿入文として書かれているのだから、削除することができるのではないか、という見解が提出された。

 マルクスは、「現実的な資本の過剰生産」という言葉で、実際の恐慌を語っており、他方、「資本の絶対的過剰生産」という言葉は、それと区別されて、もっと抽象的な概念、「資本制的生産の一般的利潤率の傾向的低下」という法則を展開する文脈の中で、その関係の中で述べられている概念ではないかという見通しが、何人もの発言者から述べられた。

 これと関連して問題になったのは、平岡氏も引用している、『資本論』の次の文章であった。

「それゆえ、個々の商品の過剰生産ではなく、資本の過剰生産――といっても、資本の過剰生産はつねに商品の過剰生産を含んでいるのだが――の意味するものは、資本の過剰蓄積以外のなにものでもないのである。この過剰蓄積がなんであるかを理解するためには、それを絶対的なものと仮定してみさえすればよい。どんな場合に資本の過剰生産は絶対的なのだろうか? しかも、あれこれの生産領域とか、二つ三つの重要な生産領域とかに及ぶのではなく、その範囲そのものにおいて絶対的であるような、つまりすべての生産領域を包括するような、過剰生産は?
 資本主義的生産を目的とする追加資本がゼロになれば、そこには資本の絶対的な過剰生産があるわけであろう。しかし、資本主義的生産の目的は資本の増殖である。すなわち、剰余価値の取得であり、剰余価値、利潤の生産である。だから、労働者人口に比べて資本が増大しすぎて、この人口が供給する絶対的労働時間も延長できないし、相対的剰余労働時間も拡張できないようになれば(相対的剰余労働時間の拡張は、労働にたいする需要が強くて賃金の上昇傾向が強いような場合にはどのみち不可能であろうが)、つまり、増大した資本が、増大する前と同じか、またはそれよりも少ない剰余価値量しか生産しなくなれば、そこには資本の絶対的な過剰生産が生ずるわけであろう。すなわち、増大した資本C+ΔCは、資本CがΔCだけ増大する前に生産したよりも多くない利潤を、またはそれよりも少ない利潤をさえ生産するであろう。どちらの場合にも、一般的利潤率のひどい突然の低下が起きるであろうが、しかし今度は、この低下を引き起こす資本構成の変動は、生産力の発展によるものではなく、可変資本の貨幣価値の増大(賃金の上昇による)と、これに対応する必要労働にたいする剰余労働の割合の減少によるものであろう」

 しかしこの『資本論』の文章は、平岡氏の見解を補強するというよりも、エンゲルスの補正の個所がむしろ問題となり、その文章は、これまで、恐慌の理解に対する間違った観念を補強する、決定的な悪影響を及ぼしてきたのではないか、という疑問が強く出されたのであった。

 その部分とは、終わりの方にある、「(賃金の上昇による)」という一句であり、このカッコ内の文章がエンゲルスのつけ加えたものであることが明らかになるにつれて、それこそがむしろ問題ではないかということである。

 というのは、資本の絶対的過剰生産の議論と結び付けられて、その一句は、〈繁栄、労働力の枯渇、賃金の上昇、利潤率の低下、資本の絶対的過剰生産、恐慌〉という図式において恐慌を理解し、展開する強力な俗流学派――典型的なものは宇野学派――を支援するものとなって来たからである。

 要するに宇野学派らは、労働者の賃金があがるから、それが資本の利潤を侵食し、したがってまた資本の「絶対的過剰生産」を生じる、それが恐慌である(マルクスがそう説いている)と主張したのであり、エンゲルスの修正は、この俗論に強力な援軍を送ったのである。

 労働者の賃金が上がると景気が悪くなるということは、いつもブルジョアたちが説いていることであり、その意味で、俗耳に入りやすく、流布することになったが、しかし好況期あるいは繁栄期(特に、その末期)には、賃金が若干上がるとしても、しかし物価もそれ以上に高騰していくのであって、そうだとするなら、好況末期には利潤率は高いレベルに達していて、少しも縮減していないはずである。経験的にも、このことは明らかであろう。

 かくして賃金の上昇から、それを本質的な契機として、恐慌理論の根底とする理屈のばからしさ――というより、反動性。というのは、この理論は労働者に向かって、恐慌を避けるには賃下げに甘んじる以外ないと説教するのと同様だから――は明らかであろう。

◆脚注32の問題

 労働者セミナーで議論になった、もう一つの大きな問題は、第二巻第十六章にある脚注32の問題であった。これもまた複雑で、困難な問題であった。

 平岡氏は、この脚注32は、マルクスの草稿にあっては、本文中に書かれた一部であったが、エンゲルスが脚注として独立させたために、多くの支障を来し、また間違った観念(山田盛太郎などに代表される)をはびこらせることになった、と主張した。

 エンゲルスの脚注32とは、次のような文章のことである。

「原稿では、ここに将来の詳論のために次のような覚え書きが挿入されていた。『資本主義的生産様式における矛盾。労働者は商品の買い手として市場にとって重要である。しかし、彼らの商品――労働力――の売り手としては、資本主義社会は、その価格を最低限に制限する傾向がある。――もう一つの矛盾。資本主義的生産がそのすべての潜勢力を発揮する時代は、きまって過剰生産の時代となって現われる。なぜならば、生産の潜勢力は、それによってより多くの価値が単に生産されうるだけではなく、実現もされうるほどには、けっして充用されることができないからである。しかし、商品の販売、商品資本の実現、したがってまた剰余価値の実現は、社会一般の消費欲望によって限界を隠されているのではなく、その大多数の成員がつねに貧乏であり、またつにね貧乏でなければならないような社会の消費欲望によって限界を画されているのである。しかし、これは次の篇ではじめて問題になることである』」

 この脚注32で問題になったことは、エンゲルスがマルクスの nur(英語では only)を nir(同 never)と読み間違えたために、マルクスの文章が全く逆の意味に変えられてしまったということ、またこの読み違えのために、マルクスの継続的な一連の文章を脚注32として独立化させざるをえなくなったこと、そして、この独立化によって、「次の篇」としたことが、内容的に不明となってしまい、過少消費説などに重要な論拠を提供することになった、ということであった。

 しかし、「一連の」文章であると平岡氏が判断したのは正しいといえるのか、という疑問が出され(というのは、意味的に、脚注32と、その前の文章は違っているから)、またエンゲルスが脚注32とした部分は、マルクスの原稿ではカッコに入れられていたという事実が明らかになって、平岡氏の理論は宙に浮いてしまった。

 nir と nur の読み間違いと、意味の逆転という見解にも疑問が出されたが、しかし仮にその見解が正当だとしても、一続きの文章ということがも正しくないとするなら、「次の篇」で論じられているとする内容も、平岡氏が言うような、回転期間の長い固定資本の問題ではないということになるのである。また、エンゲルス修正に対する平岡氏の批判も、この点では根拠を失ってしまうだろう。

 労働者セミナーの議論の中では、「次の篇」(第二巻第三篇)は、脚注32で論じられているようなことの「詳細」は、存在していないのではないか、という意見が出された(つまり、マルクスは書こうとしたが、書かなかったのではないか)。

 もちろん、この問題は労働者セミナーの枠内では、究極的な解決に達することはできなかったが、しかし既成の議論(つまりこれまでの、インテリたちの議論)を越えた、重要な問題が提起されたことは事実であろう。

◆マルクスの「信用論」と商業信用

 次に林氏の報告の部分だが、林氏はエンゲルス修正を直接論じるというより、その修正を規定しているエンゲルスの観念を検討するということで、『資本論』三巻五篇(いわゆる“信用論”の部分)二十六章と二十八章の、エンゲルスの二つの長い挿入文を取り上げて論じたが、その前提として、第五篇全体の構成などについても検討した。

 林氏の報告で問題になったのは、二十五章の冒頭の一文であった。そこで、エンゲルスが例えば、マルクスの「商業信用」という言葉を、「商業信用と銀行信用」と書き替えたことは、一体どういう意味をもつのだろうか。また、ここで言われる「商業信用」は、例えば大谷禎之介が言うような「私的信用」という意味であろうか。

 しかし労働者セミナーの報告や議論の中で、商業信用という言葉を私的信用と読み変えなくてはならないという意見はだされなかった。

 また報告者は、以下のような内容の報告を行ったが、この点では重大な異議は出されなかった。

 エンゲルスが商業信用に銀行信用という言葉を加えた点について、エンゲルスは、それ以降のマルクスの叙述展開を踏まえ、単なる商業信用だけを論じているのではないことを確認して、そうした変更を行ったのであろうが、しかしマルクスが「商業信用のみを扱う」としたことは重視されなくてはならない、というのは、それは当時のイギリスの銀行業務の特性を強く反映したマルクスの分析、理論展開の特徴を示唆しているからである。

 エンゲルスの長い二つの挿入文は、資本投下のための借り入れという問題を、マルクスの展開とは無関係に、かつ不適切に論じているが(というのは、マルクスはそんなことを少しも問題にしていないのだが)、そうしたことが生じたのも、エンゲルスがマルクスの時代の銀行とその業務の時代的な特性を軽視したから、したがってその特性を反映したマルクスの分析や展開を、十分に理解しなかったからという面が強い。

 またマルクスは、「信用制度やそれが自分のために作り出す諸用具(信用貨幣など)の分析は、われわれの計画の範囲には入らない」と書いていることも、文字通り、厳密に受け取る必要はないのではないか。

 つまりマルクスは、実際には、銀行制度や、それが作り出す諸道具、つまり銀行券などをイギリスの当時の現実を踏まえてかなり詳しく論じており、それを論じてないといったことはないからである。

 マルクスは最初は論じないと書いたが、展開していく中で、必然的に「銀行制度」やそれが作り出す諸用具についても論じざるを得なくなったのであり、また論じたのではないだろうか。いずれにせよ、「本来の信用」について、『資本論』とは別に書くはずであったとか、書くべきである、といったことにはならないであろう。

◆なぜ、エンゲルスの修正、介入

 こうしたことの他に、多くの重要な議論が行われた。

 例えば、恐慌論や信用論は『資本論』の中で基本的に論じられているのか、それとも『資本論』の限界の外にあるテーマであって、マルクスもまた、草稿以外で論じようとした(そして、果たせなかった)ということかどうか、という問題も提起された。

 こうした問いに対しては、基本的に否定的な結論になった。『資本論』の中には恐慌論といったまとまったものはないが(もちろん、『剰余価値学説史』の中のリカード批判の部分には、恐慌について、いくらかでもまとまった内容の部分がある)、しかし内容的には“恐慌”は基本的に論じられている、という結論であった。

 また、恐慌の根源とか、その根本原因とか、その究極の根拠とか、その契機とか、恐慌の可能性を現実性に転化させる要因とか、いろいろな言葉がかなり乱雑に使われているが、もう少し分かりやすく、厳密に規定して使う必要があることも確認された。

 また、なぜエンゲルスは決して支持できないような多くの介入をしたのか、エンゲルスの全体としての評価と、どう関係するのか、という重要な問題も議論になった。

 林氏は、第二インターの時代の亡命幹部にはサロン的な傾向があり、第二インターの日和見主義化に影響を及ぼしたが、同様に、『資本論』修正にも、気のゆるみというかいいかげんというか、そういうものが関係しており、エンゲルスにうぬぼれや安易な気持ちがあったのではないか、と主張したが、エンゲルスの他の著作や活動の意義を、『資本論』修正問題があるからということで、簡単に否定すべきではない(両者を区別すべき)と強調した。

 もちろん、労働者セミナーを通して、エンゲルス修正問題がすべてチェックされ、検討されたといったことはないし、ありえなかった。エンゲルスの修正は膨大であり、徹底しているのであって、その全体的な評価はある程度の時間を必要とするであろう。

 しかし労働者セミナーでは、エンゲルスの修正を基本的に擁護する人は一人もいなかった。そして我々の関心は、なぜ、どんな動機から、エンゲルスはこうした修正を行ったのか、ということであった。

 この点での議論は入り口で行われただけで、深められることはできなかったが、しかし、エンゲルスによる修正が大きな問題点を持っていること、そしてその修正された『資本論』によって、マルクス主義の理論を理解することは大きな間違いにつながりかねないこと、したがってマルクスの草稿の出版が待ち望まれること、などは全員が確認できたことであった。


2003年11月2日『海つばめ』第930号

労働者セミナー総括の一視点
2巻21章をどう理解するか

「マルクスの試行錯誤」論はピント外れ


 労働者セミナーが終わったが、基本的に“解決”のついた議論や疑問点、ある程度回答が明らかになったが、まだ必ずしもスッキリしない論点、あるいはセミナーの議論の中から出てきて、充分に議論されず、今後に理論的な検討や“解決”が基本的にゆだねられている問題等々、色々であるが、全体として内容豊かなセミナーであり、深刻な問題意識を生み、理論的追求のきっかけを与え、多くの新しい努力への意思を触発したことは確かであろう。私はこの小稿では主として、田口氏によってエンゲルス修正と関連して取り上げられた論点を、いくらか整理して論じて見たい。問題は、田口氏の論じ方が、エンゲルス修正の批判になっていたかどうか、ふさわしいものであったかどうか、ということである。

◆二十一章を「単純再生産から始めた」意味

 『資本論』二巻二十一章(『蓄積と拡大再生産』)で田口氏が問題にしたのは、エンゲルスがマルクスの文章を書き替えることによって、マルクスの「試行錯誤」を塗りつぶし、マルクスの思考過程を隠してしまった、ということであった。田口氏は、エンゲルスがマルクスの不完全で、試行錯誤そのものの原稿を、何かいくらかでも「完成されたもの」に見せ掛けたという罪で、エンゲルスを告発したのである。

 しかし私は、田口氏のこの主張に全く反対であり、田口氏はマルクスの理論の意義を全く理解しないのみならず、それを言われなく中傷するものであると考える。

 田口氏がエンゲルス批判を行った根底にあった観念は、マルクスは単純再生産から始めて、拡大再生産に「移行する」ことを意図しながら、それを果たせ得なかったが、エンゲルスはマルクスのこの「試行錯誤」を隠蔽したといったものであった。

 すなわち、二十一章の冒頭で、マルクスが策したことは、単純再生産(表式)から拡大再生産(表式)へのスムーズな移行であり、このやり方によって、拡大再生産の概念(表式)を獲得することであった、というのである。

 だから当然、マルクスは当初は拡大再生産の概念を持っていなかったのであり、またマルクスは自分の方法に失敗したのである、というのは、拡大再生産の表式は展開しているが、それは当初のマルクスの方法から得られたものでないからである。かくして、マルクスにあるのは混乱と「試行錯誤」である、というのだ。

 そして田口氏は、エンゲルスがマルクスの文章を書き替え、あるいは挿入した、「単純再生産から拡大再生産への移行が行われるためには」(岩波文庫第五分冊二四一頁。第一節二、「追加不変資本」のところを見よ)と言う、例の文章を事実上擁護し、むしろそれはマルクスの精神を正しく言い表わしたものであるかに、評価するのであり、また評価せざるをえないのである(大谷派などと同様に)。少なくとも田口氏は、この文章に、エンゲルス修正問題の一つの焦点、決定的な問題が隠されているとは考えなかった。

 確かに田口氏は、このエンゲルスが修正した文章を引いてきて、それを批判することはするのだが、しかしその批判は、マルクスが「単純再生産の場合の剰余価値部分の貨幣への転化」の問題を論じているのに、「拡大再生産の条件としての不変資本の素材的問題」にそらしているといった、本質的にどうでもいい、あるいは的外れで、間違ったところに向けられているのであって、根本的には、つまり「単純再生産から拡大再生産への移行が行われるためには」というエンゲルスの観念そのものは、少しも批判されていないのである。むしろ、このエンゲルスの「人を惑わす」観念は、同時に田口氏のものでもある。

 田口氏が(そしてまた、ある程度まで、エンゲルスが)、単純再生産から拡大再生産への「移行」を論じている(単純再生産表式から出発して、蓄積条件を導入し、拡大再生産の表式を得ようとしている)と、マルクスを間違って理解したのは、マルクスがまず「蓄積」の概念――単に、個別資本についてのそれではなく、社会的規模でのそれ――二十一章の最初の部分で与えているからである。

 マルクスにとって問題であったのは、まず社会的な規模における蓄積の概念であり(個別資本の蓄積については、すでに第一巻で論じられている)、だからこそ、マルクスは、単純再生産から出発したのである、というのは、蓄積とは剰余価値の資本への転化であって、この問題を純粋に論じるには、単純再生産から始める以外ないからである(したがって、私が最初、単純再生産と拡大再生産の「比較のため」と書いたのは厳密に言えば正しくなかった、正確には、蓄積の概念を明らかにするために単純再生産から出発した、ということだ、というのは、蓄積の概念はまさに単純再生産との比較においてこそ、単純再生産から出発する場合にこそ、典型的に明らかにされ得るからである)。

◆蓄積の概念と拡大再生産表式

 したがって、蓄積の概念を論じるということと(そしてさらに、拡大再生産の表式的説明をするということと)、単純再生産から拡大再生産へ「移行する」ということは別個のことであるし、そうでなくてはならない。

 現実に、単純再生産から(あるいは縮小再生産からさえも)拡大再生産に「移行する」場合がないというのではない(それは大きな戦争、例えば太平洋戦争後の日本等々にあり得たであろう)、しかしそうしたことは、拡大再生産の概念にとってどうでもいいこと、偶然的なことにすぎない。

 重要なことは、蓄積と拡大再生産は概念的に必ずしも同一ではない、ということである。このことはもちろん、個別資本についても言えるだろうが、社会的な資本(総資本)では、一層重要であろう。拡大再生産は常に蓄積を伴い、蓄積を前提とするが、蓄積は拡大再生産を必ずしも前提としないのである。だからこそ、蓄積の概念を得るには、単純再生産から出発すべきなのである、その現象を純粋に、典型的に考察するためには。

 もちろん、この社会的規模での蓄積の分析を、「単純再生産(表式)から拡大再生産(表式)への移行」であると言うことはできる、しかしそんなことを言っても大した意味はないし、またマルクスが拡大再生産に「移行する」ために、単純再生産から始めたと言うなら、それはすでに一面化の始まりであろう。別にマルクスは拡大再生産の概念(あるいは拡大再生産の表式)を得るために、単純再生産から始めたのではないのである。これは別個の二つのこと柄である。

 蓄積と拡大再生産は、蓄積が何よりも価値にかかわる概念である、つまり剰余価値の資本への転化の問題であるが、他方、拡大再生産においては、価値とともに、資本の素材的な契機が同様に重要である、という点で区別されるのである。

 もちろん、剰余価値が資本に転化するためには、つまり蓄積が現実に行われるためには、素材的にその条件が準備されていなくてはならない、つまり「剰余生産物が、すでに新たな資本の物的構成部分を含む」ようになっていなくてはならないのであるが(『資本論』一巻二十二章一節)。

 二つの同じ価値額の資本が、仮に蓄積されたとしても、しかしそれが同様な拡大再生産を表現するとは限らない、というのは、素材的に見れば、拡大再生産の大きさは労働生産力によって、つまり不変資本の価値が、より多くの、あるいはより少なくの生産手段において表現されるかで違ってくるからである。すでにこのことからも、蓄積と拡大再生産を単純に同一視することの間違いが明らかになる。マルクスが拡大再生産の概念に先立って、社会的な規模での蓄積の概念をまず論じたのは、この故であった。そして蓄積の概念を論じるとするなら、単純再生産から出発すべきであるのは先に述べた通りである。

 さらにまた、『資本論』の表式(三巻二十一章三節の初めの表式)を見てもわかるように、単純再生産から出発する蓄積において、第一年目の生産される総価値は、単純再生産の九〇〇〇に比べて八二五二に減少している、つまりその限りでは拡大再生産になっていない(もちろん、これは一時的な現象にすぎないが)、ということである。ここにも、蓄積と拡大再生産を軽率に同一視する間違いが明らかにされている。

 しかし田口氏は、マルクスが単純再生産から始めて、蓄積率を確定し、かくして拡大再生産の表式を得ようとしたのだと考え、この独善的な立場から、マルクスは「試行錯誤」を繰り返したが、結局は、こうした方法からは拡大再生産の表式は得られなかった、と結論するのだ。

 しかしまず第一に、単純再生産表式から(剰余価値の五〇%等々といった蓄積条件を、そこに折り込むことによって)拡大再生産表式を導くことはそもそもできないということ(両者は別個のものだから)、そして第二に、マルクスはそんなことをやっておらず(やろうともしておらず――できないことを、どうしてマルクスがやろうとしたなどと独断するのか)、したがって「マルクスの試行錯誤」云々は田口氏の幻影の産物に過ぎない、ということである。

 私が労働者セミナーで、単純再生産から拡大再生産に現実に「移行する」ということは、暴力的な調整、経済的激動や恐慌の問題だと発言したら、田口氏は驚愕し、あるいは「どういうことかわからない」とつぶやいていたが、まさに特徴的といわなくてはならない。田口氏は単純再生産と拡大再生産の質的な違いを、したがってその「移行」にはまさに“飛躍”が必要であることを理解しないのである。

 もちろん、拡大再生産表式からでも(つまり、単純再生産ではなく、拡大再生産を前提にしても)、蓄積の概念を論じることはできる――というのは、拡大再生産は絶えざる(あるいは、継続的な)蓄積の過程そのものであるから――、しかし問題は、それを純粋に検討することである。

 拡大再生産は蓄積の過程そのものであるが、それは蓄積が拡大再生産の一環として、すでに存在しているからである。例えば、“均衡的な”拡大再生産――こうした概念を極端に嫌う人々もいるようだが、しかしそうした人々は拡大再生産の概念を拒否しているも同然である――では、蓄積は一定の率において想定されているのである。

 もちろん、拡大再生産の過程では、蓄積率が変化する(高まる)場合はいくらでもありえる、そしてマルクスが単純再生産から始めたのは、まさにこうした過程を理論化しているのだ、という意見もあり得るであろう(例えば、大谷学派)。

 しかし、マルクスが蓄積率の変化、つまり一般的な上昇(蓄積率が五〇%から六〇%に上昇する等々)を前提して、単純再生産から拡大再生産への移行を論じることから始めた、などと考えることは何か途方もないことに思われる。こんなことを、資本主義において一般的であり、恒常的であると考えること自体ナンセンスであろう。そして、そんな恣意的なやり方で、どんな拡大再生産の概念が得られるであろうか。全くの無概念のなかをさまようだけであろう。

 さらに言えば、蓄積率は五〇%から六〇%に高まるかもしれないが、また反対に四〇%に低下するかもしれないのである。つまりこれは、拡大再生産を前提に、そこから蓄積の問題を論じることの不都合を教えているように見える。五〇%から六〇%への増大なら、蓄積率の増大であり、単純再生産から出発する蓄積と同じといえるが、四〇%への低下なら、それは五〇%を基準にすればマイナスの蓄積であって、これは単純再生産を前提にするなら蓄積ではなく、マイナスの蓄積、資本の食いつぶしであろう。蓄積の概念は、こうしたやり方では得られないのである。

 そもそもマルクスは蓄積の概念を与えているのであって、蓄積率の変化(上昇)の問題を論じているのではない。そんな複雑で、実際的な問題は、一般的に蓄積と拡大再生産を考察するという課題からははずされていると考えるのが妥当であろう。

◆第T部門優先説も疑問だ

 そしてまた、問題がこのように正しく理解されるなら、田口氏のドグマ――拡大再生産(表式)への「移行」は蓄積は第T部門においてこそ動力を与えられるのであって、だから単純再生産から出発して、第T部門での蓄積率の変化から始めるべきであり、それにしたがって部門間の比率も決まり、あるいは第U部門の蓄積率も決まる、つまり第T部門こそが、その蓄積率こそが“独立変数”であり、第U部門は“従属変数”である等々、盛んに言いはやされる見地――の不適切、無意味も明らかであろう。

 蓄積における第T部門の優先的地位ということについて言えば、失礼ながら田口氏の言うところと違って、第U部門の資本が第T部門の資本とはまったく「独立して」蓄積を行うことはいくらでもあるのであって、第T部門に先行して第U部門の資本が蓄積を行ってはならない、あるいはそれが不可能である、ということにはならないだろう。

 第U部門の資本が第T部門に先行して蓄積するなら、第T部門に過少生産が生じてしまう、蓄積を問題にするときに、そんなことは自己矛盾だ、ありえないことだ、と言うのか。もちろん、そこに不均衡が生じるのは当然であって、それは、単純再生産と拡大再生産の間には飛躍があるということ、両者は二つの違ったことである、ということを教えているにすぎない。第T部門で、第U部門に先行して蓄積が行われるなら、ただそれだけで第U部門に過剰生産が生じるが、しかしそれは第U部門が先行したときに、第T部門に過少生産が生じるのと同様であって、だからこそ、これらの不均衡は“暴力的な”過程を経て、つまり恐慌などによって調整される以外ないのである。

 そしてまた、マルクスが拡大再生産を論じるに、まず蓄積の概念から始めたとするなら、そこに貨幣の問題を介入させてきたことの意味も理解できるのである。拡大再生産の概念自身、したがってまた拡大再生産表式自体なら、貨幣を介入させる必要はないし、またそれは問題を混乱させるだけであろう。

 しかし蓄積の概念ということになるなら、そこには貨幣の問題が一つの重要な契機として入って来るのである。というのは、蓄積とは本質的に資本にとっての概念、資本の自己増殖の概念であるからである。マルクスが拡大再生産を論じる個所で、貨幣を介入させて論じているとするなら、それはマルクスがまず総資本の蓄積を、その概念をこそ問題にしていることから来ているのだ。

◆問題あるエンゲルス修正を看過

 蓄積は拡大再生産の前提であり、その出発点である、しかしそれは直接に拡大再生産と同じではない。

 マルクスはまず蓄積――個別資本のそれではなく、社会的規模での、つまり総資本としての蓄積――について論じ、それを前提に、拡大再生産の問題に移って行っているのであって、それが田口氏らには「マルクスは単純再生産から拡大再生産に移行している、単純再生産表式から(五〇%の蓄積率という条件を入れて)、拡大再生産表式に移行しようとした」という、間違った理解を生んでいるのであるが、さらに、この誤解が一般的にはびこってきた原因の一つとして、エンゲルスが「単純再生産から拡大再生産への移行が行われるためには」といった文章を書き入れたことがあげられるのである。

 エンゲルスの修正として、『資本論』第二巻二十一章の範囲で一番問題なのは、まさにこの修正であって、田口氏はこの問題をまったく自覚せず、反対に、エンゲルスのこの修正を自らの理論の根底に事実上置いているのである。これは、エンゲルス修正問題の議論としては、的外れであったと言うしかない。

 田口氏は、『資本論』に対するエンゲルス修正の問題を論じるなら(二巻二十一章の範囲で)、むしろこの点を取り上げるべきであり、その重大な意味を暴露すべきではなかったか。しかし田口氏が実質上、エンゲルス修正に“絡め取られ”、追随してしまったために、エンゲルスと同様なドグマに捕らわれていたがために、この課題に答えることができず、労働者セミナーで批判を浴びることになったのだ。

◆平岡氏の問題提起について

 この的外れのエンゲルス批判ということは、平岡氏の報告についても言えるのであって、平岡氏もまた、エンゲルスの大いに問題のある挿入を取り上げなかったのみならず、事実上、その挿入文の精神によって議論を展開したのであった。

 その問題のあるエンゲルスの挿入とは、マルクスが「資本の絶対的過剰生産」について述べたところで(『資本論』三巻十五章三節)、「可変資本の貨幣価値における増大」という文章の後に、かっこをつけて、「賃金の上昇による」とつけ加えたことである。

 この挿入によって、マルクスが直截に、「資本主義的拡大と好況が訪れると、相対的過剰人口が減少し、労働力がひっ迫し、労賃が高騰して利潤率が低下し、そこに『資本の絶対的過剰生産』生じる」と主張しているということにされたのである。

 これは重大問題であった、というのは、マルクスは実際には、そんなことを少しも語ってはいないからである。

 もちろん、マルクスの文章をしっかり読めば、マルクスが賃金の上昇のことなど言っていないことは明らかであるが、しかしかっこの中のエンゲルスの文章が追加されることによって、賃金上昇のことを言っていると無理をして読まなくてはならなくなり(それがマルクスの言葉ではなく、エンゲルスが付加したものであると、神ならぬ身の誰が知りえたであろうか!)、したがって、繁栄期の労働力不足、賃金の高騰、利潤率の低下、「資本の絶対的過剰生産」つまり恐慌、という図式から、マルクスの“恐慌論”を説く一つの、徹底的に俗流主義的な、しかも強力な傾向――宇野学派において典型的であったのだが――が生まれたのである。

 もちろん、宇野学派のたわ言が、エンゲルスの付加した文章のためである、といった因果関係を説くことはナンセンスであろう。宇野学派が全く皮相で空虚な恐慌の説明を持ち出した根底的なものは、彼らの階級的存在であって、別のあれこれの“間違った”理論や勝手な解釈のためではない。

 問題は、エンゲルスの付加文章が、宇野学派ら(真実のプチブル俗流学派、職業的な実際上のマルクス批判者たち)がマルクス主義をもてあそびながら策動する、一つの余地を与えたということであり、また労働者の正しい恐慌に対する理解を混乱させ、わけのわからない方向に連れていき、あるいは遅らせた、ということであるにすぎない。

◆エンゲルス修正の本当の問題点を暴け

 田口氏の場合も、平岡氏の場合も、弁護すべきではないエンゲルスの付加文章や修正を事実上弁護し(修正を行ったエンゲルスの立場に接近し)、他方両氏が、よくないエンゲルス修正として非難したものは、的外れのものであった。

 これは、我々のエンゲルス修正に対する点検や批判が始まったばかりであるということからして無理からぬ点もあったが、他方、我々のマルクスの理論に対する理解の浅さを暴露したのである。

 そしてまた、それは我々の安易な、あるいはインテリへの無批判的追随の傾向も明らかにしたのであって、我々は再度、その弊害を確認することができたのである。

 日本のマルクス主義研究や理解は世界中でも一番進んでおり、深いものである、とも言われてきた。“学会”にけおるマルクス主義経済学の勢力は、ソ連とか中国といった国々を除けば――つまり“旧”ソ連圏を除いた国家の中では――最高であり、広汎であると言われてきた。ひと昔前までは、どこの大学でも“マルクス主義”の講座があり、公然とそれが講じられ、学生に教えられていたのである。

 しかしこれは盾の反面である。そのもう一つの面は、大学マルクス主義、つまり“講壇”マルクス主義は――これはしばしば共産党という政治勢力と結び付いていたし、今もかなりの程度そうなのだが――、社会主義に向けての革命闘争という理想を放棄した、徹頭徹尾に腐敗したインテリ勢力であり、実際には気の抜けた、空虚なマルクス主義を説教するか、あるいは無意味な神学論争にうつつを抜かす勢力になり下がっている、ということである。すでにそんなところからは積極的なもの、労働者の革命闘争の役に立ちそうなものは何も生まれなくなっているのだ。

 だからこそ、我々は“講壇”マルクス主義、つまり腐ったインテリに追随したり、迎合したりすべきではないと強調するのだが、しかし田口氏にしろ、平岡氏にしろ、こうした“既成の”インテリの空虚な理論に、その権威に簡単に追随する傾向が果たしてなかったであろうか。

 あるいは、エンゲルスはとにかく批判されなくてはならない、という前提から出発していなかったであろうか。しかし我々は全体としてのエンゲルス修正を否定し、それに抗議するにしても、個々の修正の妥当性や意味を厳密に検討すべきなのは言うまでもないことであろう。

 以上は、労働者セミナーの議論と、そこで明らかにされたものの、ほんの一端を語ったにすぎず、労働者セミナーの全体的な報告といったものではない。それは、労働者セミナーの議論によって触発された、あるいは明確になった、私の観念の一部であるに留まる。

(林 紘義)

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