“富塚理論”とは何か
二つのテーマを論じる意義/林 紘義
労働者セミナーの報告者として、二つのテーマについて論じる意義について語っておきたい。もちろん直接的には、富塚の特徴的な理論が、この二つの分野で目立っているからであるが、しかしこの二つのテーマが選ばれたのはそれだけでなく、ここに極めて重要な理論問題が凝縮されているからである。マルクスの『資本論』には、いくつもの重要な理論的要素があり、それぞれの個所には、それぞれの独自の内容がある。冒頭の「労働価値説」はその最も根底的な契機であり、『資本論』の出発点であり、基礎であるが、資本主義的生産と再生産の全体を論じた第二巻第三篇もまた決定的に重要であろう。今回、労働者セミナーで取り上げる二つのテーマは、これらの個所と関係するのである。
◆初めに
今年の労働者セミナーは、富塚理論の検討であるが、特に富塚理論にとって特徴的である、「価値形態論」と「拡大再生産論」を取り上げることになった。
最初のテーマの「価値形態論」は、『資本論』の核心でもある「価値論」の中でもとりわけ重要であるが、しかし最も難解と言われている。
問題は、このマルクスの理論を富塚がいかに理解し、「解釈」しているかであり、その途方もない理解や解釈は一体何を意味しているのか、ということである。
そして、第二のテーマは、第二巻第三篇の中の第二十一章「拡大再生産」にかかわっており、歴史的にも(そして今もなお)あれこれと議論されてきたものである。そもそもこの二十一章は、マルクスのもともと不十分な草稿をエンゲルスがいくらか強引に編集したものであって、内容的にかなり錯綜しており、その「解釈」はまさに百家斉放といった有様である。
だから、富塚がここで“勝手な”理屈を述べ得る条件はいくらでもあるのであって、彼は事実上、マルクスの理論についてではなく、まさにマルクスの名で富塚独自のドグマ――“スターリン主義”の“伝統”や“理論”をしっかり受け継ぎ――を語っているにすぎない。
我々が富塚理論を検討するのは、それが日本共産党と直接に、あるいは間接に結びつき、また共産党に(あるいは不破などに)理論的、実践的に少なくない影響力を及ぼしているからである。労働者セミナーのためのいわば予備知識の一つとして、報告の一般的な内容や意義を簡単に明らかにしておきたい。
◆商品の「価値形態」を論じる意義
「価値形態論」とはすなわち、商品の価値がいかに表現されるかということであり、また商品の価値を表現し、また商品流通を媒介する貨幣とは何であり、それはいかにして誕生し、形成されてきたか、ということである。
労働価値説に立脚する限り、商品価値の実体が「労働」(商品の生産に社会的に必要な抽象的人間的労働)であることは、誰でも知っていることである。
だが、「価値形態論」が問題にするのは、すでにこのことではなく、商品を生産する労働が、その商品の生産に社会的に必要な抽象的人間的労働であるということはどういう意味であるのか、この労働の特殊歴史的な性格は何であるのか、ということである。
古典派経済学者(その代表はリカードであるが)はすでに、商品価値の実体が労働であることを認めたのであるが、しかしそれは人間社会にとって(ブルジョア社会にとって)自然のことであって、何らそこに奇妙なことがあるとは思わなかった。彼らは商品を生産する労働の、特殊歴史的な性格を何ら知らなかった、だからこそ、彼らはこの労働が貨幣として必然的に現われる(物的な形態を取る)ことも理解できず、貨幣を単なる流通の「困難を」解決するために人間が考えだした“利便性のある”流通用具として認めたにすぎなかった。
実際、富塚の理論は、ブルジョア学者(古典派経済学派)たちの見解と本質的に同じである。
「経済学者たちは、貨幣を、交換取引〔別の訳、「物々交換」〕が広がるときにつきあたる外的な困難から導きだすのが普通であるが、そのさい彼らは、これらの困難は交換価値の、したがってまた一般的労働としての社会的労働の発展から生ずるものだということを忘れている」(『経済学批判』、岩波文庫五五頁)。
「彼らは一貫して、交換取引〔「物々交換」〕は商品の交換過程の恰好の形態であるとしてそれに固執し、ただそれには二、三の技術的不便が結びついているだけであり、それをまぬがれる手段として巧みに考案されたものが貨幣だ、と主張する。このように全く浅薄な立場に立ち……」(同五六頁)
だが、商品を生産する労働は、私的にして社会的である労働である、つまり個々の商品に“対象化”されている労働は、私的に支出されてはいるが、他方では、商品(労働生産物)の交換を通して社会的労働として実を示さなくてはならない労働である、言い換えてみれば、社会的労働として自己を実証しなくてはならない私的労働である。
個々の商品に対象化されている労働は、ただ社会的総労働の一部、一環としてのみ、意味を持つのであり、またそうしたものとして対象化されているのである。だがそれはまた、私的労働であって、直接に社会的労働ではなかった。ただ生産物の交換によって、社会的労働として自らを実現し、社会的総労働の一環であることを明らかにしなくてはならないのである。
価値の実体をなす労働は、こうした特殊歴史的な規定性をもつ、つまり特殊歴史的な性格を持つ労働であったのだが、リカードらは決してこのことを理解しなかったのであり、かくしてこうした労働が貨幣形態を取る――取らざるをえない――必然性を知ることはなかったのである。
マルクスが「価値形態論」で追求するのは、商品価値として対象化された労働の、こうした特殊歴史的な性格である(マルクスはしばしば価値とした対象化される労働の「形態規定が重要である」とか、その「質の問題である」と言っている)、つまりそれが貨幣として必然的に現われて来るという問題であり、その過程、そのメカニズム、その意味の分析であり、考究である。
貨幣はただ商品を生産する労働(出発点が私的労働であって、決して最初から社会的労働ではない労働、そうした限界のなかにある、歴史的形態の社会的労働)の矛盾の結果であり、その本性が顕在化したものである。商品交換の発展は同時に価値形態の発展であり、かくしてはじめて商品は自ら運動する形態を保証されるのである。
商品を生む労働は、社会的労働であるが、しかしそれは特殊な意味での社会的労働である。つまり例えば、社会主義社会における労働のように、直接的に社会的労働ではなく、私的労働であり、また同時に社会的労働であるというような労働、私的所有や資本を前提する社会における労働、したがってまた賃労働でもある。
ただ、『資本論』の最初では(「商品」の個所、つまり“労働価値説”では)、賃労働として、つまり資本によって搾取される労働としてではなく、私的労働として、その契機において分析されているのである。
そしてこうした歴史的な性格をもつ労働は、貨幣において、その本性を明らかにするのであり、またせざるをえないのである。貨幣は商品を生産する労働の歴史的特性を暴露するのである、つまり特殊な意味での社会的労働である、商品を生産する労働の本性を明らかにするのである。貨幣は商品に対象化されることによってのみ、つまり商品交換によってのみ社会的であり得る労働の“具象化”であり、価値(交換価値)の「自立化」、目に見える形をとった表現であるが、こうしたことが可能なのは、もちろん、商品自身が労働の対象化としての価値であるからであって、貨幣は「諸商品の交換価値の結晶」、商品価値の本性の“物象化”、顕在化以外ではない。
だが、富塚はこうした貨幣を必然にする、商品を生産する労働の特殊歴史的な性格(若きマルクスの言葉を借りるなら、「労働の疎外形態」)を決して理解しないのである。彼はこのことについて、ほとんど注意を払っていない、というより、そこにこそ「価値形態論」の意味や課題がある、重要性がある、ということを実際上知らないのである。
労働生産物が直接に社会的生産物としてではなく、「商品」として現われる――現われざるを得ない――という私有財産制と資本主義的生産に対する、その根本矛盾に対する自覚が、批判的精神が、この歴史的生産様式を克服し、止揚しなくてはならないという革命精神が、決定的に欠けているのである(富塚がプチブルにすぎない所以である)。
彼にとっての関心もまた、貨幣の出現であるが、しかしこの貨幣は、商品価値の本性から導きだされるのではなく、商品所有者がそれを欲するから出現するにすぎない、単なる商品所有者の欲求の結果にすぎないのである。貨幣として現われる、商品生産社会の矛盾やその限界、この社会(ブルジョア社会)が歴史的に止揚されなくてはならないという、実践的な問題意識は皆無なのである。
◆資本主義全体の「拡大再生産」を論じる意義
さて、拡大再生産論を論じる意義もまた重要だが、しかしそれは、同時にマルクスの再生産表式の意義を再確認することでもある。
マルクスの単純再生産論はそれほど難解ではないが、拡大再生産の理論は非常に錯綜しており、歴史的にも、また現在的にもまさに百家争鳴、百花斉放といった感がある。
それはもちろん、マルクスの原稿が極めて不完全な草稿としてしか存在していなかったからであるが、しかもエンゲルスがマルクスの原稿をしっかりした位置付けもないままに編集し、それをあたかも“決定版”であるかに流布させたことにも一因がある。
だから、古来から――といっても、十九世紀末くらいからにすぎないが――、第三篇二十一章にたいしては、ありとあらゆる“迷論”、俗論がいくらでも登場したし、せざるをえなかった(その走りは、ツガン・バラノフスキー、ローザ・ルクセンブルグ等々であった)。
日本でも、戦前、山田盛太郎が独特の見解を発表して以来、山田の「拡大再生産」の理論は、共産党の(あるいはスターリン主義の)政治的な権威とあいまって、日本の“マルクス主義”理論を席巻してきており、いわば公認の認識、“常識”とされてきたが、しかし今では、そうした理論の破綻は余りに歴然としており、根本的な総括が迫られているのである。我々の内部でも、“スターリン主義”学者の見解を無批判的に借りて来る傾向もあるが、混乱と不毛な結果しかもたらしていない。
問題は、拡大再生産の概念であって、その表式の形式的な(あるいは数学的な)適合性ではない。概念があって表式があるのであって、反対に、表式に概念が合わせられなくてはならないのではない。
マルクスは簡単に単純再生産の表式を与えているが、拡大再生産については、錯綜としたいくつかの表式を持ち出しており、一見して「試行錯誤」しているかの観を与えている。最も根底的な問題は、なぜ単純再生産と同様に、拡大再生産もまた簡単な表式で済ますことができなかったかであり、また単純再生産と基本的に同様な形で論じることができないか、あるいは論じるべきではないか、ということである。
マルクスは、単純再生産こそが根底であり、それが明確に論じられれば、拡大再生産はそれに準じて議論すればいい、と考えていたようにも思われる。
だから拡大再生産について、とりわけ論じることはほとんどなく、最晩年において、それを初めて取り上げているのである。つまり第二巻の「草稿八」(最後の草稿)において、初めて、拡大再生産についていくらかでもまとまった議論をしているにすぎない。
しかし最晩年のものということもあってか、マルクスの叙述は非常に分かりにくく、またその表式もいかなる視点が持ち出されたのか明確でないようなものもある。その意味では、草稿以前の段階のもの(“試論的な”もの)とも見えるのである。
いずれにせよ、エンゲルス編集の『資本論』第二巻第二十一章を“絶対化”して議論をするのは無意味であるように思われる。
もちろん、マルクスの展開が没概念的もしくは無概念的であるというのではない、我々はそこにマルクスの拡大再生産の概念を明瞭に見て取れるのであって、むしろ第二十一章から学ばなければならないのはこのことであろう。
しかし富塚はある意味で、マルクスの展開を“絶対化”するが、それはマルクスの概念をねじまげ、自分の都合のいい理論、マルクスの概念ではなく自分の奇妙な概念を展開するためでしかない。
単純再生産も拡大再生産も、その概念は本質的に同一である。前年度の資本主義的総生産の結果が、相互補填されることによって、新しい年度の再生産が(単純再生産も拡大再生産も)可能になる、ということが明らかにされることが本質的な課題である。つまり、第T部門の消費財(v+m)〔可変資本つまり労働者の個人消費と資本家の個人消費部分〕が第U部門のc(不変資本部分)と相互に入れ替わる、相互に補填されるということが本質的条件である。
スターリン主義学者たちは、まずT(v+m)>Ucという不等式を拡大再生産の概念もしくは「条件」として持ち出すのが普通だが、しかしこの表象は空虚であり、無内容であって、拡大再生産の概念について何ごとも明らかにしないのである。それは拡大再生産表式の表面を、そのままに、つまり卑俗に言うにすぎないのである。これは「条件」としてもナンセンスである、というのは、この不等式は必ずしも成り立たないからである。
再生産表式を検討し、その意味することを学ぶのは重要である、というのは、歴史的生産様式としての資本主義が、いかにしてその総生産と総流通を可能にしているかを、つまり資本主義的生産の全体、その社会的生活の全体を理解することを可能にするからであり、したがってまた、資本主義的生産関係を克服した後の社会的生産の総体の展望や理解を可能にするからである。
資本主義的社会の生産と再生産の全体像の理解は、マルクス以前には(そしてそれ以降においても)決して論じられなかった問題であるが(不完全なケネーの「経済表」をのぞいては)、それはある意味で必然であった。ブルジョア階級は、それを議論することができなかったからである、というのは、その資本主義的生産と再生産の全体像を描くことは、当然に、その社会的生産の持つ本当の内容に接近することだったからである。
だから、ブルジョア階級に追随する富塚らが、マルクスの資本主義的社会の総生産と総流通の概念を混乱させ、どこかに追いやってしまうのは当然のことなのである。
富塚はそれを奇妙な理念にすり替えている。富塚によれば、マルクスの拡大再生産表式は、恐慌の必然性を論証するためのものだ、というのである。それ自体は、「均衡蓄積率」といったものを示すが、それを示すのは、資本主義的拡大再生産においては、「過剰蓄積」が不可避であり、したがって恐慌の絶対的な(つまり機械的な)必然性を論証するものだ、というのである。
こうしたけったいな理屈は、実際には、共産党が持ってまわっている“過少消費説的”なへりくつ――つまり、過少消費によって「過剰蓄積」が進むのだから、消費を拡大することによって恐慌を回避することが重要である云々――に“理論的”支柱を与えるという隠れた動機をもって提出されているのである。
恐慌は絶対的に必然であるという“極左的”空文句は、容易に、資本主義の改良こそ必要であり、それがうまく行われるなら資本主義の矛盾も解消されるという“超”日和見主義に転化するのである。もし資本主義において恐慌が――慢性的な恐慌が――「必然だ」というなら、そこからはどうしても、“不断の”革命という超急進的な路線が出てきてもいいはずだが、しかし富塚は、あるいは共産党は決してそんなことは口にしないのである(かつての、歴史の一時期を除いては)。
富塚の理論自体は、空っぽのナンセンスであり、それを「研究する」ことはうんざりする作業である(ちょうど宇野学派の理論において、そうであったように)。しかし我々は共産党の理論的支柱の一つとしてそれが根を張ってきたからには、それと「対決」せざるをえないのである。また、こうした卑しい“修正主義”を根底的に批判することは、我々のマルクス主義の理解を真実のものに深める一つの契機にもなり得るだろう。
『海つばめ』第1028号●2006年10月22日
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