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2006年労働者セミナー

『海つばめ』第1028号●2006年10月22日
“富塚理論”とは何か
二つのテーマを論じる意義

講師・林 紘義
『海つばめ』第1030号●2006年11月19日
労働搾取の全体も一目で明らかに
再生産表式の実践的意義

林 紘義

 公認の“マルクス主義経済学”
(富塚理論)の虚偽を暴く 

――不破共産党の理論的一支柱――

    日 時:11月4日(土)午後1〜9時
    会 場:豊島勤労福祉会館
         (JR・西武線・東武線・地下鉄線 池袋駅西口より徒歩10分)
    費 用:500円(会場費)
    主 催:マルクス主義同志会代表委員会

テーマ
『共産党の過少消費説と富塚良三の“マルクス主義経済学”』
(1)「価値形態論」の意義と富塚のマルクス攻撃
(2)マルクスの名でケインズ主義をふりまく富塚の「拡大再生産」論
 講師:林 紘義 
 

富塚理論の虚偽を暴く――ともに学び、議論し、深めよう!

 労働者、活動家、青年のみなさん!
 私たちはこれまで毎年、重要な理論的・実践的テーマをとりあげ、労働者セミナーを開催してきました。今年は共産党系の経済学者富塚良三の理論の批判をテーマとすることにしました。
 今回は、二つのテーマによって富塚理論への批判を深めます。最初の「価値形態論」は、商品の価値表現を価値の本性から導くのではなく、商品所有者の意思の結果であるかに説明し、宇野学派的俗流的本性を暴露しています。
 また富塚理論の中心である拡大再生産論は、ケインズ主義をマルクス理論の名で語るドグマでしかありません。
 富塚の理論は、不況の原因を過小消費、“有効需要”の不足だとして、資本主義の克服ではなく、賃上げや国家の財政散布により消費拡大による資本主義の矛盾の緩和を唱える共産党の日和見主義、改良主義と結びつき、その一つの支柱となっています。
 富塚理論を徹底的に検討することは、日本共産党の日和見主義をいっそう深く確認することであり、また正しい闘いの道を見つけていくことでもあります。労働者、青年の皆さんがこぞってセミナーに参加されるよう、呼びかけます。

 参考 『“富塚理論”とは何か――二つのテーマを論じる意義』 林 紘義
        (海つばめ第1028号●2006年10月22日掲載)

    問い合わせ:全国社研社 tel/fax 03-6795-2822


“富塚理論”とは何か
二つのテーマを論じる意義林 紘義

 労働者セミナーの報告者として、二つのテーマについて論じる意義について語っておきたい。もちろん直接的には、富塚の特徴的な理論が、この二つの分野で目立っているからであるが、しかしこの二つのテーマが選ばれたのはそれだけでなく、ここに極めて重要な理論問題が凝縮されているからである。マルクスの『資本論』には、いくつもの重要な理論的要素があり、それぞれの個所には、それぞれの独自の内容がある。冒頭の「労働価値説」はその最も根底的な契機であり、『資本論』の出発点であり、基礎であるが、資本主義的生産と再生産の全体を論じた第二巻第三篇もまた決定的に重要であろう。今回、労働者セミナーで取り上げる二つのテーマは、これらの個所と関係するのである。

◆初めに

 今年の労働者セミナーは、富塚理論の検討であるが、特に富塚理論にとって特徴的である、「価値形態論」と「拡大再生産論」を取り上げることになった。

 最初のテーマの「価値形態論」は、『資本論』の核心でもある「価値論」の中でもとりわけ重要であるが、しかし最も難解と言われている。

 問題は、このマルクスの理論を富塚がいかに理解し、「解釈」しているかであり、その途方もない理解や解釈は一体何を意味しているのか、ということである。

 そして、第二のテーマは、第二巻第三篇の中の第二十一章「拡大再生産」にかかわっており、歴史的にも(そして今もなお)あれこれと議論されてきたものである。そもそもこの二十一章は、マルクスのもともと不十分な草稿をエンゲルスがいくらか強引に編集したものであって、内容的にかなり錯綜しており、その「解釈」はまさに百家斉放といった有様である。

 だから、富塚がここで“勝手な”理屈を述べ得る条件はいくらでもあるのであって、彼は事実上、マルクスの理論についてではなく、まさにマルクスの名で富塚独自のドグマ――“スターリン主義”の“伝統”や“理論”をしっかり受け継ぎ――を語っているにすぎない。

 我々が富塚理論を検討するのは、それが日本共産党と直接に、あるいは間接に結びつき、また共産党に(あるいは不破などに)理論的、実践的に少なくない影響力を及ぼしているからである。労働者セミナーのためのいわば予備知識の一つとして、報告の一般的な内容や意義を簡単に明らかにしておきたい。

◆商品の「価値形態」を論じる意義

 「価値形態論」とはすなわち、商品の価値がいかに表現されるかということであり、また商品の価値を表現し、また商品流通を媒介する貨幣とは何であり、それはいかにして誕生し、形成されてきたか、ということである。

 労働価値説に立脚する限り、商品価値の実体が「労働」(商品の生産に社会的に必要な抽象的人間的労働)であることは、誰でも知っていることである。

 だが、「価値形態論」が問題にするのは、すでにこのことではなく、商品を生産する労働が、その商品の生産に社会的に必要な抽象的人間的労働であるということはどういう意味であるのか、この労働の特殊歴史的な性格は何であるのか、ということである。

 古典派経済学者(その代表はリカードであるが)はすでに、商品価値の実体が労働であることを認めたのであるが、しかしそれは人間社会にとって(ブルジョア社会にとって)自然のことであって、何らそこに奇妙なことがあるとは思わなかった。彼らは商品を生産する労働の、特殊歴史的な性格を何ら知らなかった、だからこそ、彼らはこの労働が貨幣として必然的に現われる(物的な形態を取る)ことも理解できず、貨幣を単なる流通の「困難を」解決するために人間が考えだした“利便性のある”流通用具として認めたにすぎなかった。

 実際、富塚の理論は、ブルジョア学者(古典派経済学派)たちの見解と本質的に同じである。

「経済学者たちは、貨幣を、交換取引〔別の訳、「物々交換」〕が広がるときにつきあたる外的な困難から導きだすのが普通であるが、そのさい彼らは、これらの困難は交換価値の、したがってまた一般的労働としての社会的労働の発展から生ずるものだということを忘れている」(『経済学批判』、岩波文庫五五頁)。

「彼らは一貫して、交換取引〔「物々交換」〕は商品の交換過程の恰好の形態であるとしてそれに固執し、ただそれには二、三の技術的不便が結びついているだけであり、それをまぬがれる手段として巧みに考案されたものが貨幣だ、と主張する。このように全く浅薄な立場に立ち……」(同五六頁)

 だが、商品を生産する労働は、私的にして社会的である労働である、つまり個々の商品に“対象化”されている労働は、私的に支出されてはいるが、他方では、商品(労働生産物)の交換を通して社会的労働として実を示さなくてはならない労働である、言い換えてみれば、社会的労働として自己を実証しなくてはならない私的労働である。

 個々の商品に対象化されている労働は、ただ社会的総労働の一部、一環としてのみ、意味を持つのであり、またそうしたものとして対象化されているのである。だがそれはまた、私的労働であって、直接に社会的労働ではなかった。ただ生産物の交換によって、社会的労働として自らを実現し、社会的総労働の一環であることを明らかにしなくてはならないのである。

 価値の実体をなす労働は、こうした特殊歴史的な規定性をもつ、つまり特殊歴史的な性格を持つ労働であったのだが、リカードらは決してこのことを理解しなかったのであり、かくしてこうした労働が貨幣形態を取る――取らざるをえない――必然性を知ることはなかったのである。

 マルクスが「価値形態論」で追求するのは、商品価値として対象化された労働の、こうした特殊歴史的な性格である(マルクスはしばしば価値とした対象化される労働の「形態規定が重要である」とか、その「質の問題である」と言っている)、つまりそれが貨幣として必然的に現われて来るという問題であり、その過程、そのメカニズム、その意味の分析であり、考究である。

 貨幣はただ商品を生産する労働(出発点が私的労働であって、決して最初から社会的労働ではない労働、そうした限界のなかにある、歴史的形態の社会的労働)の矛盾の結果であり、その本性が顕在化したものである。商品交換の発展は同時に価値形態の発展であり、かくしてはじめて商品は自ら運動する形態を保証されるのである。

 商品を生む労働は、社会的労働であるが、しかしそれは特殊な意味での社会的労働である。つまり例えば、社会主義社会における労働のように、直接的に社会的労働ではなく、私的労働であり、また同時に社会的労働であるというような労働、私的所有や資本を前提する社会における労働、したがってまた賃労働でもある。

 ただ、『資本論』の最初では(「商品」の個所、つまり“労働価値説”では)、賃労働として、つまり資本によって搾取される労働としてではなく、私的労働として、その契機において分析されているのである。

 そしてこうした歴史的な性格をもつ労働は、貨幣において、その本性を明らかにするのであり、またせざるをえないのである。貨幣は商品を生産する労働の歴史的特性を暴露するのである、つまり特殊な意味での社会的労働である、商品を生産する労働の本性を明らかにするのである。貨幣は商品に対象化されることによってのみ、つまり商品交換によってのみ社会的であり得る労働の“具象化”であり、価値(交換価値)の「自立化」、目に見える形をとった表現であるが、こうしたことが可能なのは、もちろん、商品自身が労働の対象化としての価値であるからであって、貨幣は「諸商品の交換価値の結晶」、商品価値の本性の“物象化”、顕在化以外ではない。

 だが、富塚はこうした貨幣を必然にする、商品を生産する労働の特殊歴史的な性格(若きマルクスの言葉を借りるなら、「労働の疎外形態」)を決して理解しないのである。彼はこのことについて、ほとんど注意を払っていない、というより、そこにこそ「価値形態論」の意味や課題がある、重要性がある、ということを実際上知らないのである。

 労働生産物が直接に社会的生産物としてではなく、「商品」として現われる――現われざるを得ない――という私有財産制と資本主義的生産に対する、その根本矛盾に対する自覚が、批判的精神が、この歴史的生産様式を克服し、止揚しなくてはならないという革命精神が、決定的に欠けているのである(富塚がプチブルにすぎない所以である)。

 彼にとっての関心もまた、貨幣の出現であるが、しかしこの貨幣は、商品価値の本性から導きだされるのではなく、商品所有者がそれを欲するから出現するにすぎない、単なる商品所有者の欲求の結果にすぎないのである。貨幣として現われる、商品生産社会の矛盾やその限界、この社会(ブルジョア社会)が歴史的に止揚されなくてはならないという、実践的な問題意識は皆無なのである。

◆資本主義全体の「拡大再生産」を論じる意義

 さて、拡大再生産論を論じる意義もまた重要だが、しかしそれは、同時にマルクスの再生産表式の意義を再確認することでもある。

 マルクスの単純再生産論はそれほど難解ではないが、拡大再生産の理論は非常に錯綜しており、歴史的にも、また現在的にもまさに百家争鳴、百花斉放といった感がある。

 それはもちろん、マルクスの原稿が極めて不完全な草稿としてしか存在していなかったからであるが、しかもエンゲルスがマルクスの原稿をしっかりした位置付けもないままに編集し、それをあたかも“決定版”であるかに流布させたことにも一因がある。

 だから、古来から――といっても、十九世紀末くらいからにすぎないが――、第三篇二十一章にたいしては、ありとあらゆる“迷論”、俗論がいくらでも登場したし、せざるをえなかった(その走りは、ツガン・バラノフスキー、ローザ・ルクセンブルグ等々であった)。

 日本でも、戦前、山田盛太郎が独特の見解を発表して以来、山田の「拡大再生産」の理論は、共産党の(あるいはスターリン主義の)政治的な権威とあいまって、日本の“マルクス主義”理論を席巻してきており、いわば公認の認識、“常識”とされてきたが、しかし今では、そうした理論の破綻は余りに歴然としており、根本的な総括が迫られているのである。我々の内部でも、“スターリン主義”学者の見解を無批判的に借りて来る傾向もあるが、混乱と不毛な結果しかもたらしていない。

 問題は、拡大再生産の概念であって、その表式の形式的な(あるいは数学的な)適合性ではない。概念があって表式があるのであって、反対に、表式に概念が合わせられなくてはならないのではない。

 マルクスは簡単に単純再生産の表式を与えているが、拡大再生産については、錯綜としたいくつかの表式を持ち出しており、一見して「試行錯誤」しているかの観を与えている。最も根底的な問題は、なぜ単純再生産と同様に、拡大再生産もまた簡単な表式で済ますことができなかったかであり、また単純再生産と基本的に同様な形で論じることができないか、あるいは論じるべきではないか、ということである。

 マルクスは、単純再生産こそが根底であり、それが明確に論じられれば、拡大再生産はそれに準じて議論すればいい、と考えていたようにも思われる。

 だから拡大再生産について、とりわけ論じることはほとんどなく、最晩年において、それを初めて取り上げているのである。つまり第二巻の「草稿八」(最後の草稿)において、初めて、拡大再生産についていくらかでもまとまった議論をしているにすぎない。

 しかし最晩年のものということもあってか、マルクスの叙述は非常に分かりにくく、またその表式もいかなる視点が持ち出されたのか明確でないようなものもある。その意味では、草稿以前の段階のもの(“試論的な”もの)とも見えるのである。

 いずれにせよ、エンゲルス編集の『資本論』第二巻第二十一章を“絶対化”して議論をするのは無意味であるように思われる。

 もちろん、マルクスの展開が没概念的もしくは無概念的であるというのではない、我々はそこにマルクスの拡大再生産の概念を明瞭に見て取れるのであって、むしろ第二十一章から学ばなければならないのはこのことであろう。

 しかし富塚はある意味で、マルクスの展開を“絶対化”するが、それはマルクスの概念をねじまげ、自分の都合のいい理論、マルクスの概念ではなく自分の奇妙な概念を展開するためでしかない。

 単純再生産も拡大再生産も、その概念は本質的に同一である。前年度の資本主義的総生産の結果が、相互補填されることによって、新しい年度の再生産が(単純再生産も拡大再生産も)可能になる、ということが明らかにされることが本質的な課題である。つまり、第T部門の消費財(v+m)〔可変資本つまり労働者の個人消費と資本家の個人消費部分〕が第U部門のc(不変資本部分)と相互に入れ替わる、相互に補填されるということが本質的条件である。

 スターリン主義学者たちは、まずT(v+m)>Ucという不等式を拡大再生産の概念もしくは「条件」として持ち出すのが普通だが、しかしこの表象は空虚であり、無内容であって、拡大再生産の概念について何ごとも明らかにしないのである。それは拡大再生産表式の表面を、そのままに、つまり卑俗に言うにすぎないのである。これは「条件」としてもナンセンスである、というのは、この不等式は必ずしも成り立たないからである。

 再生産表式を検討し、その意味することを学ぶのは重要である、というのは、歴史的生産様式としての資本主義が、いかにしてその総生産と総流通を可能にしているかを、つまり資本主義的生産の全体、その社会的生活の全体を理解することを可能にするからであり、したがってまた、資本主義的生産関係を克服した後の社会的生産の総体の展望や理解を可能にするからである。

 資本主義的社会の生産と再生産の全体像の理解は、マルクス以前には(そしてそれ以降においても)決して論じられなかった問題であるが(不完全なケネーの「経済表」をのぞいては)、それはある意味で必然であった。ブルジョア階級は、それを議論することができなかったからである、というのは、その資本主義的生産と再生産の全体像を描くことは、当然に、その社会的生産の持つ本当の内容に接近することだったからである。

 だから、ブルジョア階級に追随する富塚らが、マルクスの資本主義的社会の総生産と総流通の概念を混乱させ、どこかに追いやってしまうのは当然のことなのである。

 富塚はそれを奇妙な理念にすり替えている。富塚によれば、マルクスの拡大再生産表式は、恐慌の必然性を論証するためのものだ、というのである。それ自体は、「均衡蓄積率」といったものを示すが、それを示すのは、資本主義的拡大再生産においては、「過剰蓄積」が不可避であり、したがって恐慌の絶対的な(つまり機械的な)必然性を論証するものだ、というのである。

 こうしたけったいな理屈は、実際には、共産党が持ってまわっている“過少消費説的”なへりくつ――つまり、過少消費によって「過剰蓄積」が進むのだから、消費を拡大することによって恐慌を回避することが重要である云々――に“理論的”支柱を与えるという隠れた動機をもって提出されているのである。

 恐慌は絶対的に必然であるという“極左的”空文句は、容易に、資本主義の改良こそ必要であり、それがうまく行われるなら資本主義の矛盾も解消されるという“超”日和見主義に転化するのである。もし資本主義において恐慌が――慢性的な恐慌が――「必然だ」というなら、そこからはどうしても、“不断の”革命という超急進的な路線が出てきてもいいはずだが、しかし富塚は、あるいは共産党は決してそんなことは口にしないのである(かつての、歴史の一時期を除いては)。

 富塚の理論自体は、空っぽのナンセンスであり、それを「研究する」ことはうんざりする作業である(ちょうど宇野学派の理論において、そうであったように)。しかし我々は共産党の理論的支柱の一つとしてそれが根を張ってきたからには、それと「対決」せざるをえないのである。また、こうした卑しい“修正主義”を根底的に批判することは、我々のマルクス主義の理解を真実のものに深める一つの契機にもなり得るだろう。

『海つばめ』第1028号●2006年10月22日


労働搾取の全体も一目で明らかに
再生産表式の実践的意義/林紘義

 十一月、今年の労働者セミナーが開催された。テーマは、富塚良三の「価値形態論」と「拡大再生産論」であり、これらは別個に設定され、またセミナーでも別々に議論された。二つのテーマはそれぞれ別個の理論課題を扱うものであるが、しかし他方では、この二つの課題が密接に関連しており、それぞれ“マルクス主義経済学”の根底的概念をなしているのも明らかである。またこれらはともに、マルクス主義の出発点でもある「労働価値説」と密接不可分である。『資本論』第二巻の「再生産表式論」は直接に「労働価値説」ではないが、それを根底において、資本主義的な社会的総生産の問題を取り扱うものであって、まさに「労働価値説」の延長であり、社会的総生産の解明という課題への実際的な適用でもある。ここでは、労働者セミナーの議論などを踏まえながら、富塚が完璧に間違って理解している「再生産表式」の労働者にとっての意義を、「労働価値説」とのかかわりあいにおいて明らかにする。

◆「再生産表式」論の意味

 我々はまず富塚が全く間違って理解している、マルクスの「再生産表式」論の意義を明らかにしておこう。

 簡単化のために、拡大再生産表式ではなく単純再生産表式を取り上げる。与えられる表式は以下のようなものであり、年総生産の結果を示している。

部門T・4000c+1000v+1000m=6000
部門U・2000c+ 500v+ 500m=3000

 第T部門(生産財の生産部門)の総生産は六〇〇〇、第U部門(消費財の生産部門)は三〇〇〇で、したがってこの社会の総生産は九〇〇〇である(もちろん、この単位は兆円でも、兆ドル、兆元でも何でもいい)。

 ここでcは不変資本、vは可変資本、mは剰余価値を現わす。有機的構成(不変資本cと可変資本vの比率)は四対一、剰余価値率(vとmの比率、つまり搾取率)は百%である。可変資本とは、別様に言えば、ここでは労働者に支払われる総賃金である。

 問題はマルクスのこの再生産表式が何のためのものであり、何を意味しているか、である。

 マルクスが課題としているのは、マルクスより百年ほど前、ケネーが「経済表」で明らかにしようとしたのと同じものである、つまり年々の社会全体の生産と再生産はいかにして継続的に、齟齬(そご)なく行われ得るか、ということである。

 ここで問題になるのは(「困難」として現われる理論課題は)、例えば、以下のようなことである。

 個々の資本、個々の労働者を取るなら、生産財の生産にたずさわるものもあれば、消費財の生産に関与するものもある、しかるに、なぜ、そしていかにして、第T部門、第U部門がそれぞれに自らの資本を更新して再生産を行いえるのか、またそれぞれの部門の労働者たちが自ら消費財を手にして再生産に従事し、自らの労働力とともに、剰余価値を再生産し得るのか。

 生産財を生産する資本(第T部門の資本)が、再生産を行いえるのは簡単である、というのは、その資本は資本(生産財)を生産するからである。しかし消費財を生産する資本(第U部門の資本)は、再生産の物質的条件を持っていない、というのは、それが生産するのは生産財ではなく、消費財だからである。

 労働者もまた同様の「困難」に直面する。というのは、消費財を生産する部門(第U部門)の労働者はともかく、生産財を生産する部門(第T部門)の労働者たちは、生きて行くことができない、というのは、彼らが生産するのは生産財であって、消費財でないからである。

 かくして、総生産の結果は、社会的再生産の不可能性を示すものとして現象する。すなわち、社会的総生産が年々、継続的に行われ得るためには、再生産が可能な形に、素材的な再編成、つまり相互置換が行われなくてはならないのである。しかし、それはいかにしてか。

 答えは簡単である、それは第T部門のvとmが、第U部門のcと相互に置き換えられるということであり、この置換によって次年度の社会的総生産はとどこおりなく再開することができるのである。つまり、その条件とは、第T部門(v+m)=第U部門c、である。マルクスは一つの簡単な表式によって、この社会的な関係を明らかにしているのである。

 ここでは詳しくは触れないが、拡大再生産でもこの条件は基本的に同じであり、そしてこの条件が成立するかぎり、拡大再生産もまた“順調に”継続して行くことができるのである。

 以上のことが、基本的に、『資本論』の第二巻と再生産表式論でマルクスが明らかにしようとしていることであって、我々はこうした明確な確認から出発しなくてはならないのである、というのは、富塚とか不破とかいった、「再生産表式」論についてとんでもない見解を持ち出す連中がいくらでもいるからである。

◆輝かしい労働価値説の勝利

 さて次に我々は、この「再生産表式」とその理論を日本の実際の総生産に適用し、その意義を確認することにしよう。

 日本の社会的総生産(マルクスの表式で九〇〇〇で表わされている部分)は明示されていないが、GDP(国内総生産、マルクスの表式では三〇〇〇)は約六百兆円であるとされている。

 すなわち、GDPはマルクスの概念で言えば、「価値生産物」つまり年々の生きた労働の成果であり、年々の総労働の、「価値」としての対象化である。そこで、この数字をもとに、マルクスの表式に準じて再生産表式を作って見ると、以下のようになる(単位、兆円)。

部門T・800c+200v+200m=1200
部門U・400c+100v+100m= 600

 有機的構成と搾取率はマルクスの表式と同じで、ただ価値が兆円で表現され、GDP(すなわち第U部門の総生産)が六百兆円とされているところが、マルクスの表式と違っている。

 しかしこの表式には、必要な変更が加えられなくてはならない、というのは、搾取率が実際に百%であるかどうかは、検証が必要だからである。

 日本の生産的労働者を仮に四千万人としよう。この数字が小さすぎるか、大きすぎるかについては、あれこれの議論があり得るだろう。もっと大きいだろうと主張する人もいれば、余りに大きすぎると抗議する人もあるかもしれない。教育労働者、医療・介護労働者をいかに評価するか――生産的労働者の範疇に入れるのか、入れないのか、入れるとするならどんな形で入れるのか、等々――によっても、すでにこの数字は違ってくる。

 だから四千万人という数字はおおよその数字として理解してもらうとして、この数字によって計算するなら、生産的労働者が年々生産する、一人当りの生産物価値は千五百万円である。

 しかし実際に労働者がそんな巨額の年所得を決して得てはいないのは、労働者なら誰でも知っていることである。

 年間百万とか二百万とかの賃金収入の労働者は今ではますます増えているが――かつては主として女性のパートに支配的だった、こうした低賃金は、「経済自由化」や「規制緩和」の結果として、男性の、しかも青年の労働者において急増しており、今や労働者の多数派の賃金にさえなろうとしている観がある――、一応、平均ということで五百万円としよう(高すぎるという非難もあり得ると思うが、想定ということで勘弁していただいて)。

 さて、この意味することは明らかである、つまり労働者はその自分の労働の成果をすべて自分のものとするなら、千五百万円を取得できるにもかかわらず、五百万円しか得ていないということ、資本によって千万円を搾取されているということであり、再生産表式の現実の経済過程への適用は、このことを余りに明白に暴露しているのである。

 この場合の剰余価値率つまり搾取率は千万を五百万で割って、二百%ということになり、百%ではない。したがって先ほどの表は、以下のように修正されなくてはならない。

部門T・800c+133v+267m=1200
部門U・400c+ 67v+133m= 600

 資本家の得るmはマルクスの表式より相対的にふくれ上がり(両部門合わせて300兆円から400兆円に)、労働者の所得はその分縮小した。

 もちろん、各部門の総生産も、全体としての総生産も変わらないし、第T部門の四〇〇が第U部門の四〇〇と入れ替わる、ということも同じである。

 我々は「ゆるぎなく」労働価値説に立脚するからこそ、こうした議論を行いえるのであり、また行うのである。再生産表式論と労働価値説はまさに「密接不可分」である(もっとも、労働価値説と「密接不可分」なのは別に再生産表式論に限らないで、『資本論』の全体、マルクスの理論の全体について言えるのだが)。

 さて、我々のこの説明からも明らかなように、労働者は実際には年々の自らの労働の対価として、千五百万円の年所得を得られるのであり、またその価値に相当する消費財を手にできる、ということができるはずなのに、現実にはその三分の一しか取得していないのである。

 資本の搾取を一掃するなら、乗用車など年労働(つまり年所得)の範囲内で、簡単に手にすることができるのである。このブルジョア社会では、労働者にとって困難な課題である住宅さえ――社会主義社会において、住宅問題がいかなる形で、いかに解決されるかはここでは問わないとして――、数年の労働成果の一部でもって、いかようにも容易に獲得し得るということでもある。

 もちろん、千五百万円の中から、社会的控除分――拡大再生産のための、公共的な支出のための、そしてまた労働不能者などのための――が差し引かれる。それを仮に五百万円としたところで(社会の総額としては、二百兆円という大きな価額となる)、まだ個々の労働者の手元には一千万円が残るのである。労働者はこの所得の範囲内で、消費財を自由に手中に、生活を自分が望むがままにエンジョイすることができるのである(しかし、これは資本の支配を一掃した後でのことであって、その前ではないが)。

 ここには、労働者にとって、搾取の廃絶、つまり社会主義の持つ決定的な意義が、余りに明白に示されていると言えよう。

 しかし、多くの労働者は言うかもしれない――とりわけ“非正規の”何百万、何千万の労働者たち――、「我々は年間五百万円もの賃金はもらっていない、同じ労働をしていても、せいぜい百万、二百万円ほどにすぎない」と。

 とするなら、彼らはさら一層過酷に、一層残酷に、一層非人間的に、資本のよって搾取されているのであって(搾取率は数百%に達するということだ)、彼らが全体として資本に提供する剰余価値は膨大なものになるのである。そしてこうしたひどい搾取と労働者抑圧の上に、ブルジョア階級――これには、資本の支配に寄生する膨大な人口や、それに“たかる”卑しい“知識人”、“文化人”、政治家などや、高給をはむ資本の代官たちや“不生産的労働者”などが含まれるだろうが――が特権をむさぼり、はびこっているのである。

 かくして労働者階級、とりわけ最も抑圧され、搾取されている労働者は、資本の支配の打倒と社会主義(つまり、労働の搾取を根底におく非人間的社会の廃絶)を最も真剣に希求するのであり、その客観的に置かれている階級的立場からして希求せざるをえないのである。

 マルクスの労働価値説と再生産表式の理論の意義は、こうした議論をしただけでも、たちまち明らかになるのである、だからこそ、ブルジョア陣営は、卑劣なインテリたちは、マルクス主義は「死んだ」とか、破綻したとか言いはやすのであり、言いはやすしかないのである。

◆富塚らのペテン

 しかし富塚や不破哲三といったペテン師たちは、決して労働価値説や再生産表式のこうした意義について語らないし、それを現実の資本主義に適用しようともしないのである、というのは、そんなことをしたら、彼らの日和見主義がたちどころに暴露されてしまうからである。

 彼らは反対に、その意義をゆがめ、その真実の内容をすりかえることに利益を持つのである。

 例えば、富塚や不破にとっては、マルクスの再生産表式の意義は、それが「恐慌の“必然性”」を論証するためのものである、といったところに置かれている。

 いかにももっともらしいが、実際には、マルクスの理論に対する、『資本論』に対する(その個々の部分の持つ固有の理論的な意義や課題に対する)全く間違った、偏狭固陋な理解を暴露しているにすぎない。

 だから、彼らの持ち出す理論がすべて、労働者にとって何の価値もない――むしろ有害な――、不可解で、晦渋なドグマとして現われるのも当然のことなのである。

 もちろん、『資本論』の第二巻が「恐慌論」であるといった証拠はどこにもないのである。マルクスはたしかにそこで(第一巻におけると同様に)、様々な形で、資本主義的再生産の“総過程の”矛盾について、恐慌についてさえ語っている、しかし恐慌についてあれこれ語るということと、「第二巻は恐慌論である」ということとの間には、“天地の差”がある。

 第二巻の再生産表式の議論が――単純再生産においても、拡大再生産においても――、“不均衡論”としてでなく、“均衡論”として語られていて、富塚や不破の言うような形では読めないのは一見して明らかである、しかるに彼らは、第二巻は本質的に“不均衡”について書かれていると強調することによって、第二巻の、マルクスの再生産表式の持つ本当の意義をどこかに追いやるのであり、その本質的な内容を空虚なおしゃべりや奇妙で“難解な”ドグマにすり替えるのである。

 我々の労働者セミナーは、こうした“スターリン主義者”たちの“伝統的な”理論的ペテンやドグマのいくつかを完全に暴露し、告発したのであって――ここでは、そのごく一部しか語りえないのであるが――、その点では大きな意義を持ちえたと言えよう。

『海つばめ』1030号●2006年11月19日




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