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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』

◆隔週日曜日発行/タブロイド版4ページ
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1267号 2015年12月27日
【一面トップ】世界経済の激動の始まり――金融緩和か、金融引締めか――矛盾し分裂するブルジョア世界
【主張】共産党と市民派の「蜜月」――後退する一方の労働者の闘い
【コラム】飛耳長目
【二面】無党派候補でいいのか?――北海道衆院補選の闘い――志位の「統一戦線」戦術を問う
【三面】ポピュリズムに走る自公――軽減税率をめぐる権力闘争
【四面】第8回働く者のセミナー――共産党の堕落を暴く
【四面】林報告/頭でっかちの無用無益な観念論――志位の国民連合政府構想
【前々号の一部削除】一面論文の冒頭部分の「フランスをはじめとする……」の段落の削除について
※『海つばめ』PDF版見本

世界経済の激動の始まり
金融緩和か、金融引締めか
矛盾し分裂するブルジョア世界

FRB(米連邦準備理事会=米の中央銀行)は12月16日、前々から予告してきた、リーマンショック後行ってきた金融緩和政策の一本の柱、ゼロ金利政策を止めることを決定し、“政策金利”を0・25%に引き上げた。すでに金融の量的緩和策――中央銀行が公的債券などを買いあさって、カネをバラまく政策――も14年10月から止めることにしているので、これで実に10年近く実行してきた金融緩和・膨張政策を全体として中止し、今後は「金融正常化」に向けて、慎重かつ「穏やかに」に歩んでいくと、イエレンFRB議長は語った。年に1%ずつ上げ、3・5%ほどに達するまで継続するというが、もちろんそんなことは保障の限りでなく、経済状況が悪化していくなら、たちまちもとの金融緩和に、あるいは財政膨張政策に逆戻りするのは一つの必然である。

 欧米や日本のブルジョア大国は、2008年、リーマンショックに端を発する世界恐慌に直面し、その危機を脱出するために、史上かつてないような、大規模な財政膨張、金融緩和政策を実行し、それに賭けて来た。彼らは、資本の過剰蓄積や過剰生産に慢性的に苦しめられ、根底的に「健全性」や歴史的な生命力を失いながらも、財政膨張や過剰な公的信用によって、あるいは「新興国」の経済的な発展に助けられて辛うじて命脈を保ってきた。

 そして米国はこうした危機の時は過ぎ去り、今や「正常化」過程に入ったし、入って行かなくてはならないと決心するのだが、しかしイエレンはそんな保障があるのかの確信を持つこともできず、金融緩和を止めるといってもわずか0・25%の利子率にするだけである。もちろん年に4回引き上げるというのだから1%になるわけだが、しかし1%といっても微々たるものであり、まして0・25%など0に等しい。現代ブルジョアたちは、2%というインフレ達成を「期待感」に賭けたと同様、今度も政策的効果を、もっぱら「期待感」に頼ろうというのであろうか。

 イエレンは、ゼロ金利廃止をしても、昨年の秋に卒業したはずの量的緩和政策をある意味では維持し、決して後退させないから心配することは何もないとも約束し、「市場」の不安を抑えるのに懸命である。要するに、量的緩和でFRBがため込んだ巨額の「資産」(公的債券等々)――リーマンショックの前には1兆ドル(約120兆円)以下だった「資産」は、4・5兆ドル(約540兆円)にも達している――は、そのまま償還しないで保持し続けるというわけである。

 黒田日銀も同様にすでに300兆円の「資産」をため込んでいるが――それだけカネをバラまいてきたということである――、こちらは今後も年々80兆円とも100兆円ともいう巨額な「資産」を増やし続けると言っているから、すぐにFRBを超えて行こうというわけである。どちらがより“健全”であり、より頽廃しているというべきか、大差はないというべきか。

 今の所、日本やEUと、米国の金融政策の違いはわずかである、というのは、0%と0・25%の違いにすぎないからである。年々1%ずつ開いていくとしても、それでも実際的な影響といえば大したことはないかもしれない(量的緩和の政策では、米国は「現状維持」であり、日本などはなおも破廉恥な膨張政策であるという、ある意味では大きな違いがあるにしても)。

 しかしまず第1に、その方向性の違いがブルジョアたちにとっては重要である。米国が世界全体の趨勢に逆らって、嫌われものの「緊縮政策」に、経済と金融の「正常化」という大義名分を掲げて踏み切ったということ、そして今後も、そうした性格の政策を強めていこうとしていることは、世界中にとって決してどうでもいいことではない。

 財政と金融の膨張政策に、そしてそれがもたらす「宴」に浮かれ、狂奔し切ってきた、そして頽廃しきった現代の寄生虫的ブルジョアたちにとっては、これは大きなショックであるとともに、許されざる犯罪行為にさえ見えるのである。

 彼らはデフレ脱却の重要なときに、インフレを恐れて規制緩和政策を途中で打ち切り、放棄したために、どんなに大きな間違いが、何回となくおかされたか、「間違った」金融正常化のための「緊縮」政策を採用することによって、せっかくのデフレ脱却の芽を摘んでしまい、それを不可能にしたかとわめいたのである。安倍政権も黒田日銀もすべての今までのせっかくの努力が水泡に帰すとがなり立てて、成果も上がらないような金融緩和策をなおも継続しようと足掻(あが)くのであり、かくしてバブルの波を巨大な高波にまで仕立て上げるのである。

 彼等はただ金融緩和政策(プラス、財政膨張弛緩政策)しか知らず、それさえ貫徹すれば、すべての経済の困難や矛盾も一掃されるといった、たわいもない幻想を、神話を信じ、泥沼に向かってひたすら進むのみである。

 イエレンが緊縮政策に移るのはすでに米国経済にバブルの気配――ジャンク債の急増、不良債権で膨張する自動車市場等々――が漂い始めているからであり、それを放置すれば08年の二の舞になることを恐れるからであるが、もちろん能天気な安倍にはそんな心労や気苦労は皆無である、むしろこの男は物価上昇やバブル経済(バブル景気、空景気)の気配がないことをこそ「恐れる」のである。

 安倍政権や黒田日銀には、今や状況は、「進むも地獄、退くも地獄」――あるいは「前門の虎、後門の狼」――という危機として迫ってきている。米国の「正常化」に賭ける夢が破綻していくなら、ブルジョア世界はどこに将来の展望を見出していくのか、いくことができるのか。“異次元”とまでいわれる「不正常」な諸関係の発展と展開の果てに、それを徹底させたところに救いがあるというのか。それは悪い冗談でしかないのではないのか、世界は狂っていないのか。

 実際に、金融緩和政策を進めることも、それを今さらのように中止することもジレンマであって、どちらに走っても、現代ブルジョアたちに抜け道も救いもないことが明らかになりつつある。前に進んでも、せいぜい彼等を待っているのは一時のインフレ景気、空景気かバブル経済であり、他方、今さら後退して、緊縮経済に移っていっても、水ぶくれした経済の、信用や財政の異常な膨張の、過剰生産、過剰消費の――支払い能力のある、“有効需要”に対しての――破綻や破裂であり、その結果としての、後遺症としての、長引く、泥沼のような不況や経済停滞の、したがってまた労働者、勤労者の生活崩壊の再来、再現である。

 しかしEUや日本の政府や支配勢力は、金融緩和廃止などとんでもないことで、今の課題ではない、そんなことをしたら、これまでの金融緩和やデフレ脱却の努力を無にするものであり、むしろ必要なことは金融緩和の継続であり、強化でさえあり得ると、米国とはまさに正反対の道を歩もうとしている。

 米国にとっても苦難の道でしかない。利上げは、米国の垂れ流したカネの逆流であり、その結果、ドル高をもたらすのであって、ますます競争力を失っている、多くの商品の輸出を、さらに困難にするだろう。国内の困難な経済へのカネの垂れ流しをやめるなら、ブルジョアの何よりも恐れる需要減退、喪失であり、景気一般の後退や不振に拍車をかけることになりかねない。

 米国へのカネの逆流は、すでに米国が利上げを始めると言い始めたときから始まっているのである。米国のたれ流ししたカネによって潤ってきた――膨張してきた――多くの「新興国」の経済から“安価な”(つまり低金利の)ドルが「引き上げられる」なら、これらの諸国のバブル――株や土地の高価格等々の空景気――は終息するしかなく、たちまち宴の後の寒風が吹きすさび始めるのである。

 そしてドル建ての巨額の対外債務を抱える多くの「途上国」「新興国」――マレーシアとかトルコとか南アとかメキシコとかブラジルとかインドネシア、インド等々、さらには米国経済と関係の深い中南米の国々とか、ドルに通貨を「ペック」(通貨の交換比率を固定)させているサウジアラビア等々の中東諸国とか――では、債務不履行で破産状態に陥るとか、そこまで行かなくても、財政危機の深化とか、経済不振――というのは米国の利上げに対抗するために、利上げを余儀なくされるから――とか、通貨安とか、「経済成長率」の低下とかの恐怖におののくのである。

 日本のブルジョアたちは、そして安倍政権は、金融緩和政策の断固たる“貫徹”の決意を固め、強がりを装うのだが、しかしそれが吉と出るか、凶と出るかで、どんな確信も持ち得ないのであり、米国が反対方向の経済政策に舵を取ったことに深刻な動揺や不安を隠せないのである。

 米国が「新興国」などからカネを還流させてもどうということはない、ユーロや円や元がその代わりをするとでも言うのか、米国が世界経済への役割を自覚しないで、“自国本位”でやるなら、日本が、安倍政権が代わりに世界中にカネをバラまくから心配はないとでも思っているのか。

 そして「資本」を輸出し、カネをばらまき、外国を収奪したり、円安で笑いの止まらない大儲けをした大企業や大銀行は有卦に入るかもしれないし、安倍政権も輸入物価の値上がりからインフレの現実性が高まると浮かれるかもしれないが、そんな不均衡の拡大が日本経済の根底を蝕んでいくこと、したがって決定的な破綻に、何千万、何億もの世界中の労働者、勤労者の生活の急速な悪化や破綻にまでつながり、行き着くことを知らないだけである。

 そもそも財政や金融の緊縮・縮小政策が不況や恐慌さえも意味するというなら、米国がそんな“不幸な”、そして現代ブルジョア諸君にとって“不合理な”政策の採用に走り始めていることを、なぜ世界のブルジョアたちは、安倍政権は安閑とし、歓迎までしていられるのか。それは資本主義世界の大きな、決定的な動揺と危機とありとあらゆる困難の始まりであり、そんな時代の到来を告げ知らせていると、なぜ自覚しないのか、できないのか。



共産党と市民派の「蜜月」
後退する一方の労働者の闘い

 共産党の国民連合政府の茶番劇が続いている。志位は熱心に、「生活の党……」の代表の小沢などに取り入って、「私達は政権を取ったことがない。色々教えてください」などと追従しつつ(朝日新聞、12月24日)、つまらない国民連合政府戦略実現のために策動している。

 まるで破廉恥である。小沢が93年の細川「国民連合」政権時に、あるいは「国民」野合政党・民主党の09年の政権時に、その中心にいて、どんなに反動的で、ろくでもない役割を果たしてきたのかを、そしてそれらの政権のドタバタや愚行や混乱や日和見主義や反動政治や、安倍政権の登場にさえ大きな責任を負っているかを知らないかに、である。

 志位は、自分は市民派をリードしているのだとうぬぼれているが、実際には、市民派に従属して自らの“信念”を裏切っているにすぎない。その証拠に市民派の典型的な見解を紹介しよう。

「安倍政権が返り咲いてからの立憲主義の知名度は、ご案内の通り。集団的自衛権の行使をめぐる憲法解釈の強引な変更は、立憲主義を壊す行為だと多くの人が認めたのも無理はない★安保関連法が成立しても憲法違反は憲法違反。そう考える学者の会やママの会、学生団体のシールズなどの有志が「市民連合」を結成し、20日、記者会見した。来年の参院選に向け、法の廃止や立憲主義の回復で一致する野党候補を支援するという★右か左でなく、保守化革新でもない。立憲か、非立憲か」(朝日新聞12月21日、「天声人語」欄)

 「今都に流行るもの」の筆頭を上げれば、まさに立憲主義という怪しげで、頭でっかちの幽霊である。

 朝日新聞は立憲主義か、非立憲主義かと叫び、そんな対立が現在の政治の焦点であるかに押し出すのだが、その立憲主義の観念とは「権力とは憲法によって制限されなくてはならない」という、つまらないドグマにすぎない。

 そんな市民主義の空論によって支配され、動かされる共産党や野党の闘いが頽廃し、空洞化、無力化するのは必然である。安倍政権は蚊に刺されたほどの痛痒も感じないで、ひたすら大資本のための政治、反動政治に邁進できるというわけである。

 憲法は典型的なブルジョア支配の形式である、「法の支配」を総括し、その中心に位置するものであって、それは本質上、支配階級や国家や政府を「縛る」だけではなく、国民全体を、つまりは労働者、勤労者をも制約し、「縛る」からこそ、法の頂点に立つ法である。そんなことは、憲法が私有財産を保護していることからも、天皇制条項からも、一般に国防規定を持つことからも余りに明らかである。

 志位の新戦略、国民連合政府戦略がこうした市民派の戦略の引き写しであり、それに取り込まれたものであるのは一見して明らかである。志位は市民派や民主党や小沢を、資本の支配や安倍政権に対する、共産党の闘いに引き寄せ、従属させていると考えている、しかし実際には、搾取され、侮辱され、抑圧されている労働者の利益や原則的立場や未来のための闘いにではなく、市民派のひとりよがりの観念のために、彼らの立憲主義といった矮小な理念や活動に媚を売り、迎合し、追随し、自ら堕落して行っているだけである。

 憲法とは「国家や権力は憲法によって制限されなくてはならない」といった、18世紀流の、しかも当時でさえ必ずしも支配的でなかつた観念――支配的な観念とは、「法の支配」である――のために“闘う”ような勢力は、プチブル小市民であって、資本の支配やその反動化、つまり安倍政権と最後まで、一貫して闘う労働者党派でないことは余りに明らかであろう。

 労働者の闘いの原則を忘れ、ブルジョア勢力、プチブル勢力の立場やイデオロギーに染まり、実践的、精神的にその軍門に下るような党、「歌を忘れた」ような党は、「後ろの山に棄てる」しかないのである。



林報告/頭でっかちの無用無益な観念論
志位の国民連合政府構想

 本日のセミナーで、問題提起を仰せつかっています林です。私の課題は、志位が安保法の成立した直後に提起した、「国民連合政府」について論じることです。今回の志位の提案は、共産党の腐敗堕落が決定的な段階に達し、まさに解体の過程に突入したことを象徴し、暴露していると思います。色々しゃべるべきことはありますが、時間もないことなので、志位の提案について、具体的に3点について論じたいと思っています。

◆「国民連合政府」の「大義」

 最初は国民連合政府の課題とする「大義」です。志位は国民連合政府には、二つの大きな課題もしくは「大義」があるといいます。一つは、今年の9月成立した「安保法を廃止する」という課題、もう一つは、昨年7月、安倍が行った、集団的自衛権の行使容認という、違憲の「閣議決定を撤回する」という課題です。

 二つの課題だといっても、一つは単なる一内閣の「閣議決定」であり、他方は国会で成立した法案であって、性格も重要性も異なっていますが、志位は二つを一緒にし、場当たり的に議論しています。なぜ二つの課題か、二つの課題の関係は何か、それをいかにして一方は「廃止もしくは廃棄」であり、他方は「撤廃」か、そうしたことについては何もはっきり語られていませんし、したがってまたその展望もはっきりしていません。なぜこの二つなのかということがあるし、そのうちどちらが優先するのかということがあります。

 どちらが優先かということで、私も志位の主張を検討しましたが、はっきりは語っていません。しかし安保法は結局、集団的自衛権の行使容認の「閣議決定」から出ている、憲法解釈を変えたことから出てきているという理屈ですから、その限りでは、安保法成立よりも「閣議決定」の方がより根源的で、立憲主義を否定して問題であるという立場ととれます。

 安保法は、法律だから国会でその廃棄の採択をすれば済むが、他方、閣議決定はそれを否定する点で一致した勢力による政府が生まれなくてはならないといった理屈なのです。国民連合政府の必要性と必然性は、安保法破棄の課題というより、むしろ閣議決定の撤回という課題から説かれているのです。

 志位は理論的に整理して、そう主張してはいないのですが、志位のあれこれの発言や見解を検討していくと、結局そういうことに帰着していきます。

 しかし安保法の破棄が現実にあり得るとしても、また安倍政権の「閣議決定」がひっくり返され、撤回されるにしても、それは基本的に階級闘争と労働者、勤労者の政治闘争の発展にかかっているのであって、形式的な法律的関係の問題ではないということが、頭でっかちの、つまり徹頭徹尾プチブル観念論者の志位には分かっていないのです。

 志位の持ち出すような国民連合政府なるものが存在しなくても安保法の廃棄ということはあり得るし、他方、安倍政権の「閣議決定」の撤回も、志位のいう国民連合政府が絶対的前提でも条件でもありません。

 閣議決定というのはある意味でいくらでもやられています。慰安婦問題でも村山政権がやっている、河野談話は閣議決定ではなかったですが、似たようなものでした。以前のものを廃棄しなくても上塗りする形の閣議決定を出すことも、新しい閣議決定で以前のものを棚上げしたり、事実上塗りつぶしたりすることも出来ます。「閣議決定」は単なる「閣議決定」でしかなく、政権ならいくらでも勝手に出来るとさえいえます。

 他方、安保法の廃棄も、国民連合政府と結びつかなくても可能です、国会でその廃棄に賛成の議員が多数になればいいだけのことですから、国民連合政府でなくても、より労働者的で、革命的な政権が組織されれば可能です、あるいは逆に、そんな政府ができなければ、国民連合政府といった、あいまいなものなら、安保法廃棄といったことなどむしろできないということにもなります。というのは、安保法廃棄はまさに革命的な行動でしかないからです。能天気な志位は、そんなことも理解していないのです。

 民主党は日の丸・君が代法や教育基本法改悪に反対して論陣を張っていましたが、民主党が政権を奪取したら、途端に、民主党の閣僚らは国会で答弁して、教育基本法(安倍が改悪した現在の教育基本法)や日の丸・君が代法を尊重し、守りますと、あっさり転向してしまいました。国民連合政府がどういう形で成立するかはわかりませんが、困難な安保法案廃棄をやれるはずもありません。

◆政府は「暫定的」か、違うのか

 次に問題なのは、国民連合政府の性格についてです。それが「暫定的」であるか、そうでないかについて、志位は「微妙な」発言をしています。最初の頃は暫定的と明言していました。9月19日の提案の中では、これは暫定的であって、「二つの大義」を果たしたら、自ら退陣して解散総選挙を行うとはっきり語っていたのですが、必ずしもその観点を貫いているとは見えません。

 志位はその後、国民連合政府もまた、しばらくのあいだとはいえ政権を預かるんだから、当然、「他の課題」にも取り組まなくてはならないと言い出しています。

 他の課題とは沖縄の基地問題、今基地移転ということで辺野古の方で工事をやっているが、それを差し止めるということを言い出しています、さらに原発とかTPP、消費税、雇用の四つ(つまり沖縄を入れると全部で五つ)を上げて、これも扱うし、扱わざるを得なくなると言っています。しばらくの間、政権を預かるからそうなるしかないと開き直るのです。しばらくの間とは「二つの大義」の実現という課題が解決するまでということでしょうが、逆に言えば、課題が解決しないのなら、いつまでも政権の座に居座り続けると言うことです。

 実際、二つの課題が簡単に実現する展望は余りありません。安保法廃棄法案が国会で通らないとか、様々な事態が考えられます。

 二つの「大義」のうち、政府を組織すれば閣議決定はすぐ出来るかも知れませんが、安保法がすぐ成立する見通しなどありません、仮に国会の中で、国民連合政府派の議員が多数を占めていても、です。

 国会で法案を成立させるためには、委員会審議からはじまって延々手続きがある、普通法案を成立させるとは、そういうことです。安保法廃止も重要課題なので、そうなるしかありません。国会で採決するには下手をすると最低数ヶ月かかる、いや一会期で終わらず延長国会や臨時国会も開かなくてはならなくなる、半年か1年か知らないがその間に暫定政権も政権ですから、沖縄問題もやる、TPPもやる、原発もやるということになります。志位はまさにそういうのです、暫定政権といっても、法案廃棄は簡単ではない、何ヶ月もかかる大仕事であり、その間、政府なのだから、安保法廃棄問題だけでなく、数限りない法案や現実事態に対応しなくてはならない、ほっておくことができるはずはないではないか、と。

 TPPをやるだけでも大変で、共産党の主張通りにやるなら、国会で批准を止めてTPPをぶっつぶすということになります。共産党はぶっつぶしたいだろうが、民主党は簡単に反対で一致できない。TPP反対で連合政府を組織しているわけでもないとき、そんな政治を強行したら連合政府がたちまち動揺して解体に向かい、細川政権の時と同様に、内部でもめて1年ももたずに空中分解し、崩壊するだけのことです。

 つまり志位の言っていることは、徹頭徹尾、観念論であり、夢物語でしかありません。「暫定内閣」だと言いながら、国民連合政府の課題はすぐ達成され得ない、とするなら、「通常の」政府としての任務を果たすしかないと言うのですが、しかしそんなことをしたら、たちまち国民連合政府は崩壊するしかないのです。

 国民連合政府は仮に成立したとして、その任務をすぐに果たすことはできず、そして時間をかけて果たそうとすれば、国民連合政府は解体し、溶けてなくなるしかないということ、つまりは国民連合政府といったものは、志位が頭の中だけで考え出した、純粋に観念的な想像であって、実践的に何の意味もないゲテモノである、という結論になるのです。

◆「大異を捨てて大同につく」は日和見主義の歴史を彩る「迷言」

 今まで、統一戦線戦術としては「小異を残して大同につく」の原則が言われてきましたが、志位はそれに満足せず、国民連合政府の原理は「大異を残して大同につく」であると大見得を切り始めました。

 歴史上、日和見主義者の「迷言」は、第二インターの時代にベルンシュタインの「日々の改良がすべてで、究極目標(社会主義を追求する、労働者の闘い)はゼロ」等々がありましたが、志位のものは、それにまさるとも劣らないものであって、まさに日和見主義者の究極の言葉とさえ言えるものでしょう。

 「大異を残して大同につく」というのは、論理学の世界でも通用しない、愚劣な定理です。小さな違いにこだわらずに、大きな目標で合同しようというなら、分からないことはありませんが、大きな違いにこだわらずに、大きな目標で合同しようなどという人がいたら、普通の人は、そんな人間を途方もない詭弁家、愚者と結論するし、するしかないでしょう。「大異」の「大」とは、それぞれにとって重要な問題ということです、その異なっている根本的に立場を捨てよといっておいて、次に、その捨てろといった根本的な立場で合同せよといわれても、何のことか呆然とするだけで、できるはずがありません。

 志位は、いや、双方に大事ことにも色々ある、一つの大事なことを捨てて、他の大事なことで合同すべきというだけのことだと言い張るかもしれませんが、人々も党派も、そんな「器用な」ことはしないし、できるはずもありません。共産党は形式論理や屁理屈を並べるかも知れませんがいが、重要な問題は重要な問題であり、枝葉の問題は枝葉の問題である、主要な問題は主要な問題であり、副次的なものは副次的である、ということさえあいまいにするのです。

 これは例えば、志位が共産党にとって、どんな大事なことを捨てて、他のどんな大事なことで民主党などと合同しようとしているかを見ればたちまち明らかになるのです。

 共産党は、三つほどの「大異」を棚上げすると言っています。天皇制と、日米安保条約と、自衛隊が憲法違反と言ってきたことも、棚上げするというのです。そして、安保法廃棄と閣議決定の撤回という二つの、民主党や市民派と共通する「大義」で合同するというのです。

 しかし、捨てていい「大義」などあるのか、あるいは捨てていいようなものは大義ではなく、小義はないのか。安保法を廃棄すること、集団的自衛権行使容認の閣議決定を撤回することと、日米安保条約を破棄することとどちらが「大義」なのでしょうか。志位自身、日米安保条約こそ一切の困難や苦しみの、諸悪の根源にあると言い続けてきました。これまでの共産党の主張によれば(最近余り言わなくなったが)、日本の政治経済がおかしい、労働者、勤労市民が貧しいのは、日米安保のせいだと一貫して言ってきましたし、日本の軍国主義化も日本がアメリカの戦争にまきこまれるのも安保のせいだ、安保こそ根源悪だと主張してきました、そんな日米安保条約破棄を棚上げしておいて、安保法はダメだといって世の中で通用するはずもありません。

 日米安保条約がなければ、或いは憲法違反のはずの自衛隊が巨大な軍事力にならなければ、安保法もないという理屈に、共産党の立場からもなるしかないのです。むしろ棚上げされた方が重要といわなければ、志位はおかしいのです。あるいは棚上げされた方は、されなかったことより、「小義」(小事)でなくては、論理は成り立たないのです。

 共産党は今や変節した結果、党が消滅してしまった、かつての社会党の後を追っています。細川政権の後、社会党は自民と連合して村山内閣を作りましたが、村山はそんな連合政権の首相になるために、安保も自衛隊も容認しました。村山のやったことは一時的でなく社会党の基本的立場の変更であり、まさに「転向」そのものでした。

 他方、共産党の安保や自衛隊や天皇制の棚上げは一時的と見せかけられていますが、そんな保障は全くなく、実際には同じようなものです。

 だからこそ、志位の国民連合政府の提案こそ、共産党の超日和見主義とブルジョア的堕落が最終的局面に達したことを明らかにしています。新しい組織的結集と闘いの発展の重要性を訴えて、私の問題提起を終えます。

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