MCGトップページ E-メール


マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
一部50円(税込み54円)

定期購読料(送料込み)1年分
  開封 2000円
  密封 2500円

ご希望の方には、見本紙を1ヶ月間無料送付いたします。

◆電子版(テキストファイル)
メールに添付して送付します

定期購読料1年分
 電子版のみ 300円

 A3版とのセット購読
  開封 2200円
  密封 2700円

●お申し込みは、全国社研社または各支部・会員まで。
E-メールでのお申し込みもできます。



郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
●お申し込みは、全国社研社
または各支部・会員まで。
E-メールでのお申し込みもできます。
「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
●お申し込みは、全国社研社
または各支部・会員まで。
E-メールでのお申し込みもできます。
「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1278号 2016年6月19日
【一面トップ】読者のみなさんへのアッピール ――同志会13年の闘いを止揚して/労働者党再建と国政選挙再挑戦を決定
【一面サブ】野党共闘の現実 ――有権者裏切る結果に帰着
【コラム】飛耳長目
【二面】参院選の真の問題点は何か――消費増税再延期と信念放棄の諸政党

※『海つばめ』PDF版見本

読者のみなさんへのアッピール
同志会13年の闘いを止揚して
労働者党再建と国政選挙再挑戦を決定

『海つばめ』の読者の皆さん。

 私たちは3月から5月にかけての、同志会第12回大会で、2003年以来の13年間にわたる、同志会のサークル的な活動に終止符を打ち、それを未来に向けて止揚し、再び労働者党を再建し、また同時に、国政選挙闘争に――そして行く行くは国会での議会闘争に――復帰し、再挑戦することを決定しました。なぜ私たちはそうした決定を行ったか、そしてその意義は何か、私たちの覚悟はどうかについてまず語りたいと思います。

 私たちが新しい闘いの方向を決定するのは困難な過程を経てのことでした。

 3月末の大会では結論を出すことができず、2ヶ月間、さらに同志会内の議論を深めて、ようやく5月末の続開大会で新しい闘いについて意思を一致させることができたのです。

 しかし私たちはあらゆる困難と障害を克服し、突破して、2年のちには労働者党を再建、再組織し、再び公然たる政治闘争に、議会・選挙闘争に復帰し、再挑戦することを決意し、決議したのです。

 必ずしも13年前に社労党から同志会に移行したときよりも組織的、物理的に強大化したということではありません、むしろその面からいえば、若者の結集は少なく、会員の高齢化は容赦なく進行し、全体の組織的力量は後退しているというしかありません。

 しかしこの間、我々は『海つばめ』のスローガンにもあるような3つの実践的な課題――「自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!」、「『搾取の廃絶』と『労働の解放』の旗を高く掲げよう!」、「新しい労働者党と労働者の政治進出を勝ち取ろう!」――のもと、捲土重来を期して、機関紙誌やビラ配布などを中心とした情宣・宣伝活動や啓蒙活動、『海つばめ』や出版物による批判活動や理論活動、労働者学校、『資本論』学習会、セミナー闘争の組織化など、粘り強い、原則的な活動を継続し、展開してきました。

 そして我々は、現在の政治的、経済的な情勢――資本主義世界の腐朽・頽廃の深化や、世界中における危険な民族主義、国家主義の台頭や新しい帝国主義の勃興等々――の中で、労働者階級の断固たる闘いを鼓吹し、その先頭に立つべく、政治的な進出を図り、公然たる闘いを再開すべきであると考えたのです。

 そしてまた、間違って労働者政党といわれている政党(解体した社会党や共産党)のプチブル的、ブルジョア的堕落の深化という、もう一つの決定的な問題もありました。

 戦後「社会主義」政党として闘ってきた社会党は、ますます平和主義的、市民主義的に堕落し、20年前に滅びてしまいました。

 共産党もまた今、社会党と同様頽廃と日和見主義を深め、最近では幼稚な市民主義に追随し、今回の参院選では、とうに破産している民進党の卑屈なたいこもちの役割を買って出るまでに腐っただけでなく、安倍政権と本質的に同じケインズ主義的政策(国家金融や財政を通じての「需要」喚起策、要するにバラまき政策)を持ち出すだけの最低の半デマ政党としてしか存在していません。

 他方私たちは過去数十年、社共という「右の日和見派」だけでなく、一貫してアナーキストやテロリスト、プチブル急進派(“新左翼”諸派等々)の「左の日和見主義派」にも反対し、議会闘争とそれに労働者党が参加して闘い抜くことの意義と重要性を確認し、またそうした観点に立って選挙・議会闘争に参加してきました。

 だからこそ労働者党の再建と国政への再挑戦は、私たちにとって一つの必然的な道なのです。

 こうした労働者階級の原則的な政治的闘いの契機を欠くなら、労働者階級の利益を守り、さらにその未来を切り開いていくことは決してできないばかりではなく、資本主義の矛盾の激化や危機の深化や衰退や崩壊の中で、労働者階級もまた闘いの道を見失い、大きな苦難の中で滅びかねないような、絶望的な危機の時代が、1930年代から40年代にかけての、あの人類史的な危機の時代が再び訪れかねないかに見えます。

 私たちの闘いの道は容易な道ではありません。労働者階級が、とりわけその若い世代が目覚め、闘い――労働者の組織的な闘いであって、学生や「ママさん」などの平和主義的な無力で、空虚な“闘い”のことではありません――に立ち上がっていくことが重要なカギを握っていますが、そのためにも、我々の闘いが極めて重要になってきているのです、

  私たちはかつて「高度経済成長」末期と資産バブルの時代、社労党(社会主義労働者党)等を組織し、17年間にわたって、衆参の国政選挙に8回、地方選挙にも4回参加するなど、公然たる政治闘争の舞台に上がり、ブルジョア政党、小ブル政党に反対し、広汎な労働者、勤労者に訴え、その利益と未来のために闘い抜いてきました。

 しかしこと志に反し、私たちの果敢な闘いは挫折し、「刀折れ、矢尽きて」、一旦は闘いの戈を納めざるを得ませんでした。合計1億円にも達する供託金の重みは、私たちのような小政党の闘いを押しつぶし、その継続を不可能にしたのです。

 かつて闘いを止めたのは、私たちが闘う意思をなくしたからでも、諦めたからでもありません。再び闘うためには、我々の組織的、物質的、さらにイデオロギー的基礎を再検討し、戦線を整える必要を感じたからです。

 私たちは新しい労働者、勤労者の党の公然たる再登場の巨大な意義を強調し、全国の心ある全ての労働者、勤労者の、青年たちの総結集を呼びかけます。

 労働者の団結こそ力であり、そうした団結なしには労働者階級の利益や権利を守り、さらにその未来を切り開いていくことはできないのです。

 そして労働者の団結の最高の形態こそ、労働者党への結集であり、そうした形での結束した、何ものにも敗北することのない組織的闘いです。

 労働者階級の闘いは日々の経済状態を改善するための日常的、経済的闘い、労働組合に結集しての闘い、法的手段を利用し、駆使しての闘い、あるいは議会選挙を通しての公然たる政治的な闘い、議会内の闘い等々千差万別、それぞれ意義と役割のある闘いがありますが、それらの全てを一つに集約し、合流させ、資本の支配を一掃する闘いを貫徹して行くには、労働者が一つの自分たちの政党に自らを組織し、団結することなしには不可能です。

 今こそ真実の労働者党を再建し、結集し、共に闘いましょう。

   

野党共闘の現実
有権者裏切る結果に帰着

「野党共闘」を美化するきれい事が盛んに振りまかれているが、その現実を少しでも検討してみれば、実際に、それがどんなものとして存在しているかがたちまち明らかになる。

 一人区の「共闘」ができ大成功だと言われているが、実際には、民進党候補を応援できない共産党の地方組織もあれば、反対に、共産党が唯一候補者になった香川の民進党勢力は、共産党候補の推薦をしないと決定し、共産党候補を担いでいくらかでも真剣に闘おうなどとは全く考えていない。

 具体的に宮城の「共闘」の例を取り上げてみよう。

宮城の民進党候補桜井は積極的に共産党に媚び、共産党の支持を確かにして浮かれているが、この男は民進党の中でも“札付きの”ワルで、最低の政治家、商業新聞からさえ、「かつては自民党候補の公募に応募したことのある桜井氏。参院当選後も、自民の参院議員と安全保障や経済をテーマにした40人規模の政策勉強会を開くなど、本来は自民から出てもおかしくない政治家だ」(朝日新聞5月15日)と書かれるような政治家である。県の保守的な医師連盟までもが、その「貢献」を認め、野党の政治家であるにもかかわらず支持するような、根っからのブルジョア政治家である。

  共産党が一人区の31選挙区で推薦したり、支持したりする民主党や無所属の候補者の多くが、一人として労働者の代表といえるような人物はおらず、いずれも桜井と似たり寄ったりの反動政治家や、観念的な空論家か、愚昧な市民派、改良家でしかなく、ことあれば、あるいはときいたらば、労働者、勤労者を裏切るような者ばかりである。

 そこで我々は志位らに問うのだが、諸君は本当に桜井のような、事実上、自民党の政治家と大差のないようなろくでもない人間を、労働者、勤労者の代表であるかに偽って国会に送り込んで責任が持てるのか、恥ずかしくないのか。

 例えば、桜井らは安保法の廃棄の法案が仮に国会に提出されても、それに賛成することは100%ないのだが、それでも共産党はいいのか、そんな結果に帰着する「野党共闘」に一体どんな意義があるのか。共産党の立場からしてさえ矛盾した、愚劣な“戦術”とならないのか。

   

【飛耳長目】

★ヘリコプターマネーの論議が盛んである。単に理論問題としてでなく、実践課題としてであるから恐ろしい。資本の勢力の究極的頽廃の現れとして関心を呼ぶ★ヘリコプターマネーの本質は、現代資本主義の下で「通貨」として機能している中央銀行券を紙幣に転化し、あるいは置き換える、あれこれの方法である。もちろん日本の日銀券もすでに半ば紙幣に転化しており、ますます転化している★例えば政府は国民の全ての預金口座に政府紙幣などを無償交付するというのだが、金額を問わないのだから、どんな人も生産しないで消費し、「遊んで暮らせる」ことになる。この紙幣の「財源」は中央銀行券の引き受けるゼロ金利の永久国債だそうだが、つまり紙幣を無尽蔵に無償交付するということか★こんな途方もない政策が、デフレだか長期停滞だか知らないが、それを克服するために必要だというのだ。とにかく「需要」不足が経済衰退の原因だから、こんな形で「需要」を無尽蔵に作りだせば、資本主義が救われるという妄想である。これが根底から矛盾したバカ話であることは、経済学など全く知らない人にさえ瞬時に理解できる★しかし似たようなことが今や日本でも世界の多くの国でも行われつつあるのが、現代の資本主義の実際である。まさに「死滅しつつ」ある資本主義である。(鵬)

   

参院選の真の問題点は何か
消費増税再延期と信念放棄の諸政党

参院選の最大の争点となるべきは、民共が叫んでいる安保法の問題なのか、それとも消費増税の延期問題なのか。そんな二者対立という単純な問題ではなく、二つながら大事だ、他にも岡田が叫んでいる憲法問題もあるという見解もある。しかし我々はあえて、なぜ消費増税の度重なる延期ではないのかと問い、問題提起を行おう。

 共産党やリベラル・マスコミや民進党さえも、総選挙の最大の争点は「平和」の問題、従って安保法や「立憲主義」の問題であり、さらには安倍が「隠したい」争点と思っている改憲問題であると強調する。

 消費増税延期の問題は今では、与党も野党も一致してしまい、争点になるはずもない、というわけである。

 しかしそれでいいのか。安倍自身、消費増税の延期の是非を問うための参院選であると言っているのである。

 そもそも自民党や民進党が消費増税の再延期を言える立場には全くないのである。消費増税の度重なる延期を、あれこれの理屈をつけて持ち出すこと自体、彼らの政治がすでに根底から腐り、破綻していることを教えるだけである。

 彼らが歩調を合わせ、意気投合して、「税と社会保障の一体改革」を豪語し、それなくしては財政再建もママならず、社会保障も行き詰まり、解体するしかない、つまり日本の経済社会の全体が瓦解の危機にさえ直面するかに言いはやしてきたのである。

 とするなら、参院選の最優先の争点であり、真剣に議論されなくてはならない問題は、むしろ消費増税の延期――単なる延期ではなく、再延期だ――であって、観念的な「戦争か平和か」といったことではない。

 消費増税は民主党の野田内閣時代、「税と社会保障の一体的な解決」を実現するという大義名分のもと、自公民の合意がなされ、実行が約束されてきた決定的に重要な政策であり、課題だったはずであって、もしこれが実行されないか、何年も実行されないままに延期されるなら、自公民の責任が厳しく問われるだけでなく、緊急の課題である財政再建や、年金制度等々の社会保障の「安定」や「充実」や「抜本的な解決」などは遠ざかり、無為に帰しかねないのである。

 財政や社会保障や経済の破綻は労働者、勤労者の生活の破綻と破壊であり、デマゴギー的反動的な勢力が台頭し、政治と権力を牛耳り、政治家たちもそんな“世論”に迎合しつつ、軍国主義や国家主義やファシズムさえに救いを求め、労働者、勤労者の不満や怒りや絶望をそらせ、発散させるために、野蛮で狂暴な戦争にでも何にでも訴えるようになるだろう。

 だから財政崩壊や経済危機や社会保障制度の解体等々は、“戦争”や“平和”の抽象的で空疎な憲法談義よりも、実際にははるかに重要であるとさえ言えるのである。

 実際、消費増税が2度にわたって先送りされる結果、財政再建(実は、「再建」の名さえ恥ずかしいような「プライマリー・バランスの回復」といったごまかしなのだが)はすでに絶望的に達成不可能となり、また医療や年金等々社会保障に回すカネもままならず、とりわけ高齢者は生きていくことさえ覚束ない状況に追い込まれていくだろう。

 民進党も自民党も、消費増税に進んで賛成し、それは財政再建や社会保障の維持のためにどうしても必要であるだけでなく、経済の「成長」のためにも不可欠だと主張し、また彼らなりにそれを信じ込んできたのである。

 それなのに、岡田――そもそも岡田は、野田らと同様な“原理主義的”消費増税論者である――は、安倍政権に先に消費増税延期を言い出されたら民進党はピンチだといった、つまらない思惑や“政局観”から、先頭を切って消費増税の延期に味方し、安倍がそれを実行する露払いの役割まで引き受けたのであり、安倍は安倍で、岡田に助けられて、また大喜びで岡田の後を追ったのである。

岡田でさえ延期だと言い出し、どんな政党や勢力からも攻撃され、非難される恐れもなくなったのだから、安倍も安んじて消費増税に走ることができたというわけである。安倍は民進党や共産党から、いつもこれ以上ないような手助けや幸運を授かるのである。

 与党の自公も野党の民共もともに、消費増税がとりわけ個人消費を、つまりブルジョア社会の“神”である“需要”を縮小させ、デフレを克服する契機になるどころか、それを一層深化させ、悪化させる必然の契機であるという、安直な固定観念にとらわれている。

 だから消費増税は悪で、その延期や廃止は善であるといった、子どもだましの低俗観念に引きずられるのである。

 実際には、2%ほどの消費増税に、景気を極端に悪化させたり、また逆に、消費増税の延期がデフレの悪化を妨げたりするといった力はないし、あるはずもないのである。

消費増税で労働者、勤労者から政府の手に移って支出されるカネと、労働者、勤労者の手によって直接に支出される消費増税分のカネと、一体消費支出として、「需要形成」要素として――そんなものが仮にあるとしてのことだが――、どんな違いがあるというのか。合理的に考えれば、実際にはそんなものはほとんどないのである。

 もしあるというなら、支出された時期のずれの問題とか、支出された対象商品の性格等々といった、些細で、二義的で、どうでもいいものにすぎない。

 社会保障の崩壊は、現代のブルジョアたちや、政治家や政府にとって決してどうでもいいことではない。それが崩壊していくなら、それは彼らの支配の危機として現象してくるからである。どんな政権も社会保障制度が機能しなくなるなら、そんな“秩序”が瓦解していくなら、彼らの支配権力はゆらぐのであり、重大な危機として現れ、また認識されるのである。

 そもそも消費増税による財政再建とか、社会保障の充実、安定とかいった政策は最初からうさんくさい、不確かなものでる反面、労働者、勤労者の“拒絶反応”の激しいものであって、当選が自己目的である政治家や、選挙で勝つことが絶対使命である政党の簡単に選択できる政策ではない。

だから彼らは、口では消費増税を謳い、それが実現するなら、あるいは20%、30%にも上昇するなら、財政再建も社会保障も“確実に”、永遠に解決するとおしゃべりし、そんな幻想にふけりながら、しかしいざ、そんな政策を強行しようということになると途端に尻込みし、二の足を踏み、景気回復に水を差すとかの体裁のいい、俗受けする、その場限りの屁理屈を持ちだして逃げ出すのであり、自分たちが課題として持ちだした、財政再建や社会保障の「充実」など少しも本気で考えていないことを暴露するのである。

 労働者、勤労者が消費増税を毛嫌いし、反発するのは当然である。労働者を搾取して膨大な利潤をため込むだけではない(数百兆円にも膨れあがった大企業の「内部留保」を見よ、そして経営者の所得や配当などをどんなに急増させられているかを見よ)、税制上の多くの特権を享受し、あげくの果てに財政崩壊の中で、自分たちのために法人減税を要求して止まない、資本の勢力の利己主義を目の当たりにして、労働者、勤労者が、自らの生活必需品に回避することのできない10%、20%もの重税を課してくるような陰険な企みに、好んで賛成できるはずもないのである。

 かくして、消費増税問題はブルジョアたちにとって実行してもピンチ、しなくてもピンチという、鋭いジレンマとして出現し、労働者、勤労者の強い反発を受けるのだが、それは消費増税の大衆収奪的な本性から出てくるのであって、その困難やジレンマは、消費増税を、否、消費税そのものを一掃する以外に決して止揚することはできないのである。

 社会保障等々に対する、ブルジョアたちや政府の欺瞞的で、二股的な態度や政策は、本来の共同体社会では、高齢や病気等々によって、自分と社会のために労働し得なくなった人々や、労働し得ない年代の人々の生活と生存を社会の全体によって補助し、保障するという単純で自明の問題に帰着するのだが、私利と個人主義のはびこり、支配するブルジョア社会では、解決不能の困難な問題として、一つのジレンマとして現れてくるのである。

 共産党や自由主義派や社会改良派は、根源の問題である資本の社会を前提に、国家もしくは政府がカネを出せば解決するといった、俗で、安易な問題として、これを理解し、扱っている。

 しかしそのカネはどこから来るのか、と問われると、彼らはまともな解答を決してなし得ないのである。

 国家が徴収する税金が原資というしかないが、しかしブルジョアや安倍一派に言わせると、「経済の成長なくして原資なし」あるいは「経済の成長や繁栄の果実なくして消費も社会保障もなし」ということになるが、共産党はこうした論理に反論して、“対案”を提出することは決してできないのである、というのはそれは資本主義社会の現実だからである。共産党は「成長」も「果実」もないところで、つまり「生産」や「供給」のないところで、それから切り離されたところで、「消費」や「需要」を謳い、そんなものを持ち出すだけであるが、そんなものは寄生的な階級を満足させることはできても、ブルジョアはもちろん、生産的な労働者、勤労者をも納得させることは決してできないのである。

 もし税金が社会保障の「減資」だというなら、それは結局、資本が労働者、勤労者から搾り取った利潤や儲けが「原資」であるということである。あるいは労働者階級の所得からの控除だというなら、つまりは労働者階級への追加搾取から来ているということである。

 だから資本主義社会では、“社会保障”もまた資本の儲けに従属させられ、ケチで根性悪の彼らが許容する限界内で、そして金銭関係という歪んだ形を取りつつ、貫徹されるしかないのであり、ブルジョアたちの利得と思惑とケチ根性によって支配されるのである。

 人々のすべての社会関係が、カネとカネとの関係として、それを媒介として結びつけられて存在する、このブルジョア社会では、人々は税金で搾り取られることは回避したいのであり、他方では、共産党の煽るように、無制約の“福祉”や“社会保障”の享受や利用を望み、期待するのであり、そしてそれはジレンマとして自己を貫徹するのである。

 人々は皆増税を嫌い、できるだけ回避したいのであり、かくして消費増税は誰にとっても賛成できない政策として現れのであり、選挙で当選したい政治家や政権を手にしたい政党は(したがって、安倍も岡田も志位もみな)、消費増税なくしては財政も福祉も、社会経済の全体さえも危機に陥ると怯えつつも、結局は消費増税反対者として現れるし、現れざるを得ないのである。

 これはジレンマであるが、ブルジョア社会に随伴し、内在的に付属するこうしジレンマは、共産党のように、「国家」を神秘化し、無限の能力を有するものとして絶対化し、国家が金を出せばいい、そうすれば全てがめでたし、めでたしに終わるといったおとぎ話によっては、何一つ解決することも、解消することもないのである。

 共産党のような観念や立場は、デマゴーグやポピュリスト、あるいはファシストたちよっても共有され――というより、共産党がそんな浅薄な悪党たちのレベルにまで堕落しているということなのだが――、彼らが策動し、労働者、勤労者を扇動して道を誤らせつつ、権力に迫っていくことのできる手段や条件を保障し、提供するのである。

 しかし実際には、こうした困難やジレンマは、ただ生産と分配のブルジョア的形態を一掃することによってのみ歴史的に廃棄することができるのである、あるいはそうすることなしには廃棄することが決してできないのである。

   
ページTOP