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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
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  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1286号 2016年110月9日
【一面トップ】安倍政権との決定的対決の準備を――破綻に向かう安倍、黒田の経済政策
【1面サブ・広告】林紘義氏の新著「日本共産党と『資本論』」出版さる
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】言葉では安倍政権と闘えない――すでにバラバラの蓮舫体制
【二面トップ】核心は「拡大再生産」を巡る議論――「日本共産党と『資本論』」の紹介と若干の解説

※『海つばめ』PDF版見本

安倍政権との決定的対決の準備を
破綻に向かう安倍、黒田の経済政策

 黒田日銀の「総括検証」をいかに評価するかは、アベノミクスの最終的な「検証」と共に、極めて重要な課題になっている、というのは、黒田の金融政策に、とりわけ新しい政策に一時的、表面的ではあれ、いまなお何らかの効果≠窿<潟bトがあるのか、つまり黒田日銀や安倍政権に、まだ労働者、勤労者の、国民の幻想を駆り立てることでいくらかでも政権の延命を策動できる余地があるのか、それともそんな幻想が音を立てて崩れていき、安倍政権の打倒が現実的な課題として出てくる時が迫っているかの判断が迫られているからである。安倍は党総裁の3選を可能にする自民党則を変えようと策し、また早期解散によって――1月の総選挙説がどこからか流され、煽られている――、衆院選で圧倒的勝利を勝ち取り、今後数年間の権力簒奪を続けようとしているが、我々は安倍のそんな策動を許すことはできないのだ。

 我々は『海つばめ』前号で、日銀の「総括検証」と、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」政策について論じてきたが、さらに深刻に、日銀の“新しい”政策の内容とその意味を検討し、いかに黒田日銀の「異次元の金融緩和」政策やアベノミクスが破綻に瀕しているかを明らかにしなければならない。

 日銀の9月21日の政策転換は、安倍政権と黒田日銀のこの4年近くにも及んだ経済政策――その基本的な内容は「金融緩和」であった――の破産と破綻の宣言であることは自明である。

 このことは、G7頃からの、安倍の財政支出の重要性の強調や、その後の借金依存の財政膨張政治からも明らかだったが(国債発行に大きく依存する、28兆円にも及ぶ“経済対策”を見よ)、今回の日銀の新金融緩和宣言によって、さらに確かなものとして確認されるのである。

 まず言えることは、「検証する」といっても、その「検証」自体、少しも一貫していないし、まともなものでも、真剣なものでもないということである。

 黒田日銀の新政策は、一方で量的緩和から金利政策に重点を移すといいながら、量的緩和も継続するといい、また金利政策も一方で低金利政策、マイナス金利政策も行いながら、長期金利はマイナス金利政策誘導を止めるといった、矛盾したもの、八方美人的なものである。黒田の総括の中心は、リフレ派や黒田や安倍の強調してきた、この3年半の量的緩和が成果を上げ得なかったということ、つまり失敗したということだが、だからそれを止めるということではない。

 彼は量的緩和をほとんどそのまま継続し、修正するとしても手直し程度だと言っている。

 他方、彼が新しく重視するという金利政策も、この3年半、やはりゼロ金利政策を一貫して重視し、今年の1月には、低金利政策の最後の到達点として、マイナス金利政策にまで“踏み込んだ”のだが、それを反転させるといったことではない。

 要するに、基本的に同じ政策継続を謳いながら、何か基本的に別のものに移るといった幻想を振りまき、労働者、勤労者の目つぶしを狙っているに過ぎないのである。

 結局、新政策らしきものとしては、長短期の金利に間に「差別化」を図るということ(さしあたりいわれているのは、長期金利は0%とし、短期金利はマイナス1%ほどにするといったもの)、そしてまた、量的緩和の「質」を充実させるといったものである。

 ここで「質」といわれるものは、国債だけを購入してカネをバラまくのではなく、ETF(上場投資信託)やREIT(不動産投資信託)の購入を増やすといったことである。黒田は今は否定しているが、今後、リフレ派がわめいている外債購入も実行に移していく可能性さえ否定できない。

 もちろん公的機関の日銀が株式を購入することなどかつては許されず、批判と非難の対象になったのだが――民間株を日銀が買いあさり、価格維持や引き上げを策することなど、許されるはずもない――、下品な安倍政権のもと、そんなことも公然とまかり通るだけではない、持てはやされ、推奨されるのである。

 長期金利は0%だというが、日銀が国債を片端から、しかもマイナス金利になるように高値で買うからマイナスにまで落ち込んでいるだけであって、日銀が国債の爆買いを止めた途端に一気に高金利に走りはじめない保障は何もないのである。ゼロ金利の水準で固定しようというような、複雑怪奇で、頭で考えただけのような政策が成功するはずもないのである。

 そもそもマイナス金利などは、預金金利にまで徹底させようとすれば、預金は銀行から雪崩のように引き出され、金融制度が音を立てて崩れて行きかねないことからも推察されるように、ブルジョア的信用制度の根幹にかかわるような、そんな政策がまともなものとして、またいくらかでも長期的なものとして行われるはずもない(現代の資本主義では、銀行などもう不要だというなら、話しは別だが)。

安倍は盛んにアベノミクスや黒田日銀の「異次元金融緩和」によって、デフレを克服したとはまだ言えないにしても、「デフレではないといった状況を作りだした」、それこそ安倍政権の経済政策の成果だ、さらにアベノミクスを最大限ふかし、加速化させる(そうすれば、最終的にデフレ脱却が成し遂げられ、日本経済は万々歳だ)、等々アジるが、今やそうした展望も画餅に帰したのである。

 安倍政権も黒田日銀も、今では国家の金融膨張政策や財政膨張政策に“全面的に”依存する以外、何千万の労働者、勤労者を搾取する体制をいくらかで“安定的に”、平穏無事の装いのもとで維持することも、支配していくこともできないのである。

 ブルジョア世論はこれまで盛んに、金融緩和政策が「効果を発揮している間」に、「構造改革」とか「生産性の上昇」とか「経済成長」とかの本当の改革を行うべきだと盛んに言いはやしてきた。

 しかし日銀も安倍政権も一時的な経済好転に浮かれて、また早すぎる金融緩和策を止めたら、またデフレに逆戻りするという大合唱に飲み込まれて、金融緩和から、その止揚克服に向けて動き出すことをしなかった、というよりできず、ただ黒田の派手な「バズーカ砲」に拍手喝采するだけであった。

 「構造改革」も「生産性の向上」も「財政再建」も何一つ真剣に、まともに追求されることはなかったばかりか、一時的に効用があるかの麻薬を常用する道を選択し、「異次元の」あるいは「非伝統的な」(つまりは常識外れで、不正常な)緩和策に溺れ、それを止めることができなかった、というのは、それを止めたらたちまち経済的“禁断症状”に陥り、デフレ状態に――それがいかなるものかは問わないとしても――陥ることを、その不可避性を極度に恐れたからである。

 不健全で、不健康な麻薬利用からの「出口」など急いで考えるべきではない、そんなことを言い出したら、ただそれだけでデフレに逆戻りする、とリフレ派や安倍一派はどんなに繰り返し、叫んだことであろうか。

 かくして麻薬の利用は常態化し、麻薬中毒の症状は経済と社会の隅々まで浸透し、バブル以降の衰退し、寄生化する日本の社会経済は、それを克服するのではなく、黒田日銀と安倍政権のもと、さらに頽廃、腐朽の泥沼に落ち込んでいくのである。

 そして具体的に提起された国債購入の減額も月々300億円といった、珍奇矮小なものにすぎない。年間3600億円ということになるが、80兆円もの年々買いだめする国債に比してわずか0・5%、200分の1にも達しない。大海の一滴にすぎない。

 彼等は今や金融緩和を進めることも、それを止めることもできない所に、「進むも地獄、退くも地獄」という土壇場に追い詰められたのである。

 長期金利を0%にするということは、現行の長期金利マイナス0・2%より引き上げるということであって、金融緩和、低金利誘導に反するのだが、そんな政策を、銀行や、年金基金や保険業資本のために配慮しなくてはならないのである。

 短期金利はマイナス0・1%よりさらに「深掘り」し、金融緩和の実を示す、それはヨーロッパでもやっていることだというのだが、しかしマイナス金利自体がすでにブルジョア経済の“法則”に反するもの、その意味では大きな矛盾と困難を有するものであって、いくらかでも長期にわたって強行するなら、ブルジョア経済の合理性、健全性を掘り崩し、決定的な障害やデメリットをもたらしかねないのである、仮に強行してもろくなことにならないのである。

 実際、唯一の新しい政策ともいえる、長短の金利の差別化も、それはすでに自然のものとして存在しているのである(だからこそ、黒田等も「イーグル曲線」について、それを上下に動かす可能性について、盛んにおしゃべりしてくることができたのである)。

 要するに、突き詰めれば、黒田の今回の新政策の内容は、短期金利をマイナス0・1%以下に引き下げるべく「金利の深掘り」をすることと、長期金利を0%に固定するといった以上のどんな内容もないのである。

 こんな貧弱な経済政策しか持ち出せなかったとするなら、それはまたアベノミクスと黒田の「異次元」緩和の挫折と破綻を教える以外の何ものでもない。

 しかし彼等は今や行き詰まり、ただ一時的には効果のあったバラまき政策にしがみつくしかなく、4年もやってみて破綻した政策をなおも「加速」すれば成功すると空疎な幻想を振りまき、自らの破産に向かって突撃することしかできなくなっている。

 今ではブルジョアたちでさえ、我々と同様に、「(政府も日銀も)金融政策だけで、経済成長力を高めることはできいなことに気付いている。しかし構造改革の難しさや厳しい財政事情、当面の心地よさなどから、日銀に、『もう十分やった、撃ち方やめ』と覚悟をもって言う人がいない。要はみなが逃げているということだ。勝機がないのに撤退できず、戦い続けた先の大戦におけ日独の悲劇を想起するのは筆者だけか」(朝日新聞27日、『経済気象台』)と言わざるを得ないほどである。

 安倍一派や黒田やリフレ派学者、反動派とは、かつての天皇制軍部の東条一派と大差のない愚かで、野蛮な連中、「先の大戦」の時と同様に、虚偽とデマ情報と強権を駆使しつつ「勝機がないのに撤退できず、戦い続け」て、労働者、勤労者に計り知れない惨禍や悲劇や生活破壊や不幸をもたらした悪党たちと同類にまで堕している。

   

林紘義氏の新著
「日本共産党と『資本論』」出版さる

 日本共産党の政治的頽廃と裏切りが深化する中、彼らの経済学の根底を暴露する重要な著作です。是非ご購読を!

(定価1800円+送料180円。裏面に簡単な著者の自著への紹介、解説文)

   

【飛耳長目】

★安倍の国家主義の宣伝、扇動はいまやマスコミを巻き込み、巷に満ち満ちている。安倍や反動派はオリンピックも最大限利用したし、また4年後のオリンピックもまたヒトラーの1936年の祭典にも劣らないものに高めようと策動している★3兆円もの賄賂や、「汚染水の垂れ流しはない」といった虚偽発言に始まり、エンブレム問題や競技場建設を巡る疑惑や不明朗、うなぎ登りに膨張する費用に見られる利権の横行等々、最初から最後まで醜悪そのものの安倍オリンピックは中止すべきだ★ノーベル賞でも、全ての部門で受賞の可能性があるかに騒ぎ、入賞すれば日本人のすばらしさであるかにはやしたて、入賞しないとまるで何か大きな不幸、不運であったに一々言いはやす★蓮舫の二重国籍については非難を浴びせながら、何と受賞者の日本人の数については「米国籍を獲得した日本人を含める」などと一々いうのだから、彼らの愚劣さと根性悪には限度がない。蓮舫が問題なら、まして米国籍を得た日本人は、すでに日本人ではないということではないのか★そんな人も勘定しなければ日本人の自慢ができないような、ケチで、了見の狭い連中が日本人だというなら、日本人など大した連中ではないという“評判”を世界中から受けかねない。安倍ら国家主義の連中は日本人の恥であって、日本人の代表みたいな顔をしないでもらいたい。(鵬)

   
   

【主張】

言葉では安倍政権と闘えない
すでにバラバラの蓮舫体制

 蓮舫民進党が国会で安倍と渡り合っているが、軽くあしらわれている感である。要するに、蓮舫の本性そのままに軽いのである。

 彼女は新聞のインタビューでゴリゴリの保守であるかに断言するかと思うと、代表選戦で赤松に支持を要請したときには、左であるときっぱり請け合うような人間である。「中道」を誇示し、平気で自民党と共同できる野田に私淑するのである。国会でも、安倍の政治を根底的につくこともできず、その限界と無内容を暴露している。

 民進党は選挙におけるイメージを意識して蓮舫を党の代表に選んだが、しかし安倍政権と対決する政治闘争は、イメージの問題でないことが反省できない限り、この党の未来は全く無いし、あり得ない。

 蓮舫は「貧しい人からも税負担をしてもらって」、つまり消費増税などによって福祉を充実すると主張するが、すでにこうした立場や主張からして根本的にナンセンスであることを自覚しない。ここで「応分の負担だから」と弁解してみても、民進党の階級的本性を隠すことはできないのである。

 福祉云々は空虚あり、偽善的であるが、それはブルジョアたち、「貧しく」ない連中が、搾取体制を根底にしながら、慈善として、恩恵として行うものだからであって、労働者、勤労者はそんなものを望むのではなく、自分たちの、つまり「貧しい人々の」完全な解放を追求し、要求するのである。階級社会のもとでの、切り縮められたえせ解放を、つまり「福祉」等々を要求するわけではない。

 蓮舫は階級社会に生きる政治家として、自分に基本的な立脚点がないから、あれこれの立場を折衷するか、きれい事ですますか、言葉で飾って自分の政治の空虚を隠すかしかないのである。

例えば、「批判より対案」とか「批判から対案へ」とか盛んに言うが、しかし「批判」つまり「対決」と「対案」は政治闘争において対立させられる二つの契機ではないのは、安倍政権との具体的な闘いについて考えてみればたちまち明らかになる。

 安倍と闘うのに、「批判より対案」などというなら、安倍に簡単に取り込まれるのは明らかである。

 いくらかでも正しく言うなら、安倍政権と闘うなら、一方で鋭い「批判」であり、また同時に、明確な「対案」である場合はいくらでもあるのであって、「対案」の方が重要であり、基本であるかに言うことは蓮舫の日和見主義やブルジョア協調主義を暴露するだけである。

野田や蓮舫らはかつて民主党政権時代、消費増税で自民党と連合したように、そんな大事な問題で安易にブルジョア政党と手をつなぐことができるのである。

 こうした例を挙げればきりがないのである。安倍政権と闘うというが、その内容がこんなものであるとするなら、まず空虚で観念的な言葉の闘いであるとするなら、蓮舫の民進党が安倍政権と対決し、圧倒し、打倒していくことは決してできないのである。

 そればかりではない、蓮舫体制はまさに野田派閥の覇権そのものであるとするなら――事実、民進党内の反動派はもちろん、蓮舫を代表選で支持した赤松も枝野も、そんな実態に反発し、そっぽを向いてしまった――、「かつて民主党はバラバラになって」自滅した、バラバラになったら同じだとどんなに絶叫しても、蓮舫のもと、民進党はすでに「バラバラ」の道を歩もうとしているかである。安倍自民党の支持率40%に対し、民進党のそれが10%に達しないのも諾(むべ)なるかなである。

   

核心は「拡大再生産」を巡る議論
「日本共産党と『資本論』」の紹介と若干の解説

 新著の基本的性格

 共産党は「資本主義の止揚克服と共産主義を目ざす」党だそうである。

 しかし同時に、現実的には資本主義や「市場経済」を擁護し、美化さえして(「市場経済」や、「市場経済的社会主義」つまり現在の中国などに対する不破等の賛歌を想起せよ)、その中で民主主義革命あるいは民主的改良をひたすら追求する党だそうである。

 1945年の敗戦後、民主主義社会に移った日本で「民族独立、民主主義革命」を目ざすというが、一体どんな「革命」だというのであろうか。

 ただこのことだけでも、共産党の余りの日和見主義――あるいはそれ以前の、単なる愚劣さ――は一見して明らかである。

 共産党はマルクス主義をその思想的、理論的な根底とする党だそうである。『資本論』をまるで宗教の聖典であるかに持ち上げて、権威的に扱い、「教条主義」に走るが、しかしそれは不破等が『資本論』の根底的な概念や基本的な理論を勝手気ままに解釈し、ねじ曲げることと、つまりいわゆる「修正主義」――『資本論』のブルジョア的解釈や曲解――と決して矛盾しないのである。

 今回刊行された「日本共産党と『資本論』」は、不破等を先頭とする、共産党の『資本論』を中心とした、『資本論』に対する理解と理論――もちろんそれは、彼等の階級的、政治的立場と不可分なのだが――の暴露と告発を課題とするものであるが、それはまた同時に、マルクス主義の基本的で、基礎的な諸概念の擁護もあり、あるいはまたその深化、発展でさえある。

 私の著書を簡単に紹介すると共に、あるいはそれ以上に、ここでは著書のいくつかの困難な、それゆえに難解な概念について、解説もしくは補完的に説明することにした。その方が一般的な紹介よりも有益であると思うからである。

 均衡式の内容と意味

 まず著書で問題にされているのは、資本主義の拡大再生産についての議論である。拙著の第3章で論じられている、『資本論』では2巻21章に関係する問題である。

 ここでまず問題にされているのは、資本主義的生産の拡大再生産は“均衡的に”行われ得るのか(したがって、「均衡式」はあり得るのか)、それともそれは不可能であって、ただ第T部門(生産財を生産する部門)優先でのみ行われ得るかという、半世紀、あるいはすでに1世紀にもなんなんとする大きな理論問題、共産党(スターリン主義党)の実践や政治とも深くかかわる係争問題である。

 もちろん均衡論は存在するというのが我々の立場であり、それを否定するのはスターリン主義理論の一般的特徴であって、日本共産党も例外ではない。

 一つの過剰生産の表式を、私はこの問題についての仲間内での議論の中で持ちだしてきて、スターリン主義的概念を擁護する人たちと対立したのだが、これは私が「発見」したものではなく、敗戦直後の饑餓時代に越村信三郎が『図解資本論』の中で提示していたものであった。

 私は激しい議論の中で、ふと以前に越村の著書の中に、そんな議論があったのを思い出し、彼の本を引っ張り出してきて対抗し、彼の“均衡式”の意義を強調したのだが、それは拙著でも紹介してある。

 T 4400c+1100v+1100m=6600

 U 1600c+ 400v+ 400m=2400 (表式T)

 マルクスは拡大再生産について語る前に、単純再生産についても論じ(『資本論』2巻20章、岩波文庫5分冊80頁もしくは262頁、原書396頁及び505頁)、その「均衡」の条件として、第T部門のV(可変資本=労働者の賃金)+M(剰余価値=ブルジョアの消費)が第U部門(消費財生産部門)のc(不変資本)に等しくなることを明らかにした。参考までに単純再生産の表式は以下のようである。

 T 4000c+1000v+1000m=6000

 U 2000c+ 500v+ 500m=3000  (表式2)

 つまり単純再生産の式では、Tの1000vと1000mの和は、Uの2000cと等しいのである。しかるに拡大再生産の式では、TvとTmの和が2200であるのに対し、Ucは1600であり、等しくはなっておらず、T部門のvとmの和の方が600多く、Ucの方が600少なくなるのであって、「どこに均衡」があるのかいった“スターリン主義的”迷妄が、つまり拡大再生産には均衡は――したがってまた均衡式は――存在しない、事実上T部門には600もの「過剰生産」(過剰蓄積)が、あるいは富塚によれば600もの「余剰生産手段」(彼の表式では1000になっている)が存在する――すなわち、ここにこそ恐慌の原因が“究極の”根拠がある等々――といった、たわごとが流行することになり、またそんなたわごとが“マルクス主義経済学”の名ではびこってきたのであり、そんな“マルクス主義経済学”から学んだ愚昧な不破哲三が知ったかぶりをして出しゃばってきたというわけである。

 しかし拡大再生産においては、その出発点において、すでに次の拡大再生産(資本蓄積)のための諸条件の配置換えが行われているのであって――つまり資本蓄積に対応する、生産手段と消費手段の生産がすでに行われている――、表式1は次のように再編されるのである。(拙著「アベノミクスを撃つ」136頁参照)

 T (4400c+440c)+(1100v+110v)+550m=6600

 U (1600c+160c)+( 400v+ 40v)+200m=2400   (表式3)

 ゴチックの箇所に注目されたい。1式において、蓄積率が50%と想定されたため、資本として剰余価値から500が資本に転化するが、そのうちの400は不変資本に、100は可変資本(賃金つまり労働者の収入)に配分される。そして表式3においては、T部門のvとmの和1760は、U部門のcの1760と一致している、つまり“均衡的に”置換され得ることが示されている。これは単純再生産の表式の“法則”と同じであり、拡大再生産でもまた均衡的であって、「T部門優勢」とかいった、不破等が持って回るスターリン主義の“伝統的な”観念は完璧に否定されて、拡大再生産でも均衡概念的な理解こそが正当であることが明らかにされているのである。

 社会主義の本質をどう理解するか

 もう一つ重要な問題は、私的所有と資本家的搾取が廃絶され、労働が解放された将来の共同体社会――それはもちろん、かつてのスターリン主義体制とか毛沢東体制といった共産党独裁の国家資本主義的専制体制とは全く別の社会であるが――における分配問題について一言語っておかなくてはならない。

 この重要な問題については、我々は、1990年前後、ソ連邦つまりいわゆる「社会主義体制」の崩壊と共産党権力の解体、そしてソ連の経済体制が「市場経済社会主義」といった珍奇なものに“進化”し始める中で、そしてそれに対応して、社会主義の根底や原則を否定して、ありとあらゆるブルジョア的な迷妄が共産党勢力――まさに世界的な現象として――によって語られるようになった中で、彼等に反撃したのだったが、その反撃の闘いの中には、社会主義における分配問題もまた「市場経済」の法則によってしか行われるしかないという観念に対する闘いも含まれていた。

 つまり「悔い改めた」マルクス主義者として、彼等は、マルクス主義の概念として明白に述べられてきた「労働に応じた」分配という観念を捨てて、それもまた「市場経済」や「価値法則」の貫徹によって、その“法則”や運動によってなされるべきだと強調し始めたのであった。

 社会主義における分配には二つの重要な契機がある。

一つは全体の社会的課題として、全体の労働者に消費手段がいかに分配されるか、され得るかというものである。というのは、資本主義では労働の分割と分業が不可避だからであり、生産手段を生産する労働者と、消費手段を生産する労働者がいるからである。生産手段を生産する労働者も、消費手段を生産する労働者も等しく支出された労働に応じて、消費手段の分配を受けるということはどういうことであり、いかになされるかということである。

 この問題は再生産表式によって、簡単に理解され、解決され得るであろう。T部門のvとmの和が、U部門のcと交換され、置換されるという“均衡式”――拡大再生産も当然同じだことが――にすでに解答が含まれている。

 もう一つの契機は、個々の消費生産物の「価値規定」もまた必要であり、重要であるということである。ここで「価値規定」というのは、個々の消費手段を生産した社会的に必要な労働はどれくらいの大きさか、という問題である。こうした課題もまた解決されなくてはならないのだが、我々はすでに、社会主義における分配問題のこの契機について共産党が語っていることとの対決の中で、回答を与えたのだが、それは、労働者セミナーの報告や議論を特集した『プロメテウス』55・56号合併号にまとめられている。拙著の5章との関連で、しっかり検討されるようお願いしたい。

 共産党やその取り巻きインテリたちが、1991年頃のソ連邦とソ連共産党の解体時に、社会主義における分配問題について、かつてどんな議論をしていたかを当時私は暴露したが(『プロメテウス』同13〜20頁参照)、最後にそれを紹介しておく。

 「田中 『労働に応じた分配』といえば、いずれにしても一方に労働量があり、他方に分配量があるわけです。両方を何かの尺度で評価しなければなりません。分配量の計り方はさておくとしても、労働量の方を一体誰がどのように評価するという問題が必ずあるわけです。???その評価をソ連などの旧体制では一言でいえば官僚組織がやっていた。関(恒義)さんは無茶なやり方をしていたといいますが、私は行政的な分業編成方式に固執する限りは、無茶なやり方しかなかったと理解する。

関 それよりは市場社会の方がいいということです」

(林 紘義)

   
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