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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
一部50円(税込み54円)

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1291号 2016年12月18日
【一面トップ】鬼が出るか蛇が出るか――安倍政権と日本の将来うらなう日ロ会談
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】安倍とオバマの茶番――何のためのハワイ「慰霊」
【二面トップ】セミナー報告のために――共産党の「過少消費説」と『資本論』  林 紘義

※『海つばめ』PDF版見本

鬼が出るか蛇が出るか
安倍政権と日本の将来うらなう日ロ会談

 トランプとの個人的な親密関係を築くことでアメリカとの安保防衛関係や経済関係がすべてうまく動くという、独りよがりの幻想は冷厳な<uルジョア帝国主義の支配する現実の前ではじけ飛んだのだが、ロシアとの関係でもまた同様であり、安倍の政治は国内においてだけではなく、国際舞台でも行き詰まり、通用しなくなりつつある。国民の民族主義、国家主義の幻想や野望を掻き立てることによって、さらなる支持率≠フ上昇を夢見た安倍の策動は失敗しつつある。

 プーチン来日に、安倍が何を期待し、どんな成果≠ノよって政権固めをしようとしたかは知らないが、そんな試みは展望も失いつつある。

 安倍は「日露共同経済活動」を呼び水に、それをテコにしてプーチンを領土問題≠フ土俵に引きずり込み、何らかの確かな約束を勝ち取ろうとするのだが、しかしプーチンは最初からそんな誘惑≠ノ乗る意思は全く持っていないのだから、安倍のつまらない策動は無意味なものに堕しつつある。

 北方四島における共同の経済活動といっても、日本の主権を容認し、日本の法体系のもとで行われるべきであって、ロシアの主権やロシアの法体系のもとで行われるべきではないといった主張は、安倍の仲間内の反動派には通用しても、そもそも四島の主権はロシアにあると明確に語っているプーチン権力のもとでは可能性の全くない提案である。そんなものに、幻想を持っていたとするなら、安倍はロシアの帝国主義に、否、現代のブルジョア的帝国主義一般についてさえ何も知っていないのである。

 安倍は北方四島は「日本の固有の」領土と強調するが――こうした観念を反動派や安倍政権と声を合わせて叫んでいるのが、我らの共産党である。単にアベノミクス(官製賃上げ春闘)においてだけではなく、大切な外交防衛政策≠ナも、自共対決ならぬ自共共同が大流行であり、花盛りと言うわけである――、他方プーチンは、千島列島は(歯舞・色丹も含めて)第二次世界大戦で勝利の結果、ロシアのものとなったのであって、ロシアにとっては領土問題は存在しないと語って揺るぎない。

 こうした発言は、安倍が中国などに対して、領土問題は存在しないという理屈と同様であって、安倍が首尾一貫するためには、プーチンの理屈を認めるしかないのである。

 プーチンは、ロシアの千島列島の領有は、第二次世界大戦末期、米英仏露のヤルタ会議の密約で決められ、戦後のポツダム体制として国際的にも容認されものであり、したがって合法的≠セと言い張るのだが、ボツダム宣言を受け入れて敗戦を甘受した日本は――ボツダム宣言は、明文をもって、日本の「領土」を、本州、北海道、九州、四国に限っている、もっとも千島について明瞭に語っているわけではないが、ヤルタの米英ソ密約≠ヘ、千島はソ連のものとしていた――、 プーチンの千島領有の合法性論≠反駁できる論拠はないのである。ブルジョア帝国主義の支配する世界では、国家の「領土」が力によって決定されてきたのは、近代の℃走{主義の全歴史が語る明瞭な真実である。

 もし安倍が「1945年まで日本の領土」だったところを「返還せよ」と要求するなら、台湾も朝鮮も、満州や中国の大きな部分も、あるいはフィリピン等々さえも要求しなければ決して首尾一貫できない。

 反動や安倍一派が一貫するためには、せめて千島列島全体も要求しなくてはならない、というのは、共産党などがやかましく言うところだが、千島列島全体はいわば平和的に=\―つまり1875年のロシアとの「樺太千島交換条約」で――、日本の領土とされたからである。

 なぜ安倍政権はそうしないで、北方四島に限るのか、国家主義者として裏切り行為ではないのか(この点では、共産党の方がよほど一貫しているかにみえる、しかしこうした民族主義や国家主義の一貫性は反動からは高く評価されるとしても、労働者から見れば、少しもほめられたものではない)。

そもそも北方四島にこだわらなければ、歯舞、色丹二島だけなら、すでに1955年には日本に「返却」されたのである、というのは、このときにはむしろソ連の方から二島の「返還」を言いだしたからである(スターリンが死んで、ロシアの帝国主義的傾向がいくらかでも後退した時期でもあった)。

 そして翌年の日ソ会談では、この会談は「平和条約締結の出発点」であるという「日ソ共同宣言」が発表され、同時に歯舞、色丹二島の返還は他の二島とは切り離して実現することも話し合われた。

 こうした動きが封じられ、それ以降の日ソ交渉が進まないままに数十年が過ぎ去ったのは、米ソ間の「冷戦」という時代的制約もあったが、冷戦終了後もまだ尾を引いているのは、反動派、国家主義派が二島返還に教条主義的=A観念的に反対して来たからであり(四島返還でなければだめだ、妥協すべきではない云々)、安倍もまたそうした立場に固執しているのである。とするなら、プーチンとの話し合いも、結局、大した内容のない単なる口約束か、実質のないおしゃべりとして終わるしかない。

 そもそもロシアの「主権」が実効的に¢カ在しているところで、日本主権のもとでということでなければ「経済協力」はできないという主張は途方もないもので、そんな非常識な@v求など持ちだしたら、他国とのどんな経済協力≠熾s可能になるだろう。

 安倍らの硬直した、つまらない観念的な国家主義が、日本の実際的な国益≠裏切る――すでに60年にもわたって裏切ってきた――こと、はなはだしいと言うべきであろう。

 プーチンは安倍政権に向かって、アメリカ主導のロシアへの「経済制裁」に参加し、ロシアに打撃を与えながら、ロシアとの「経済共同」を謳うとはどういうことか――しかも厚かましく、北方四島に対する日本の主権を認めるようなやり方で――と、安倍政権に迫るが、それに対して安倍政権はどんな答えを用意しているのだろうか。

 安倍政権のしていることは、一方でアメリカに対する一種の裏切り、抜け駆けの巧妙(?)に走ることであり、他方では、プーチンの利益を図ると手を差し伸べながら、別の手ではロシアを殴るようなことをして、ロシアをも裏切ることであって、一体どちらを本当の友人とみなしているのかと糺(ただ)されても、何の申し開きも弁解もできないのである。

 日ロの「共同経済行動」もやり方次第では、そして相互の一定の誠意と信頼の関係があれば、決して「悪くない」話かもしれない。経済不振に悩み、外国からの資本投下を歓迎するプーチンと、「需要」や投資機会の不足を嘆き、またロシアの資源にも魅力を感じている日本との、「経済緊密化」は、一つの必然かもしれない、しかし経済的な問題と政治的な問題はまた別の契機を持つのであって、安倍政権はアメリカの肩を持つのであれば、プーチンとの個人的親密さ≠ウえ勝ち取ることは困難だろうし、反対にプーチンと仲良くやるには、少なくともアメリカへの、たいこもちにふさわしいような、卑屈な依存関係(石原愼太郎の言うところの「妾」の地位)から脱却しなくてはならない。

 とはいえ、トランプと安倍の間で、口先だけではない、本当の個人的な$e密関係があるであろうか。お互いに、自分のことだけしか考えない、傲慢な国家主義者の間では、反動派として「国家第一」といった類の考えが一致するということを除いて、どんな親密な関係≠ェ存在するというのだろうか。ヒトラーとムッソリーニの間に、あるいはヒトラーと東条英機の間に、親密な関係≠ニいったものがあっただろうか。

 かつて安倍はオバマとの「親密な」関係をみせびらかしたが――オバマは本心では安倍の軍国主義や「歴史修正主義」など少しも好きではなかったどころか、むしろ嫌ってさえいただろうから、そんなものがあったとは思われない――、トランプが選挙で勝つと、即座に、大統領職につくのが何ヶ月も先だというのに、大急ぎで駆けつけて、親密な′ツ人的関係を誇示し、アッピールし、TPPの撤退というトランプの意思を変えられると信じたが、しかし彼は安倍と会談した直後、まるで安倍を愚弄するかに、TPPは大統領職についた最初の日に離脱をすると宣言し、安倍の面目を丸つぶれにしたのである。大した個人的親密さ≠ナあり、「信頼できる」人間関係ではないか。

 そもそも安倍の、あるいは国家主義者のアメリカへの全面的な追随は、彼らにとっても矛盾したものであり、今回のプーチンとの会談でも、そんな矛盾した、二股膏薬的な立場の限界が暴露されている。

 日本のブルジョアたちは、トランプ大統領の出現と共に始まった、新しい世界的な大激動の時代のなかで、したがってまた諸国家間の力関係の再編の中で、一体どこに自らを位置づけ、生き延びつつ、ブルジョア国家として、帝国主義国家として上昇し、自らを押し出して行こうというのであろうか、そんな展望があるのであろうか。

 そもそも中国との関係をどうするかでさえ、何の定見もないのである。彼ら中国や北朝鮮との関係は、共産主義″痩ニとの関係であり、したがって対決するしかないなどと短絡的に、時代錯誤な観点で理解し、考えているとするなら、新しい時代に的確に対応するどころか、機械的で、偏狭な立場に自ら落ち込み、またまた道を誤らないという保障は何もない。

 今回の日ソ交渉は日本の立場だけではなく、世界の再編やその行く末をうらない、見通すという意味でも重要であり、その結末は労働者、勤労者の注目と関心を呼んで止まない。

   

【飛耳長目】

★カジノ法案が成立した。参議院で民進党は「徹底抗戦」を叫んでいたのに、榛場参院国対委員長のヘゲモニーの下、口先だけの自民修正案を手放しで評価し、それを口実に、事実上、法案成立の手助けに転じた。商業マスコミからも「民進の対応が自民党を利した」といわれる始末である★何しろ党内に数十人ものカジノ法賛成者がいるような党で、自民議員らと共に、促進グループを組織している。「榛場を首にせよ、(裏切りを)不問に付してはならない」と民進が後から叫んでも、あるいは共産や公明・山口らが民進のでたらめさや動揺に憤激しても何の意味もない、民進党はそうした党だから民進なのだから★そして共産は、民進のこんな連中を、参院選で「野党共闘」の名で国会に送り込んだのだから、民進の裏切りや変節を助けたも同然だ★我々はすでに民進には公然と労働者、勤労者の利益を裏切って平気な議員はいくらでもいる、そんな連中を支持することは共産もまた裏切り者の中に自らを位置づけることになるが、それでもいいのかと問うて来た★カジノ法案で起こったことは、国民連合政府か何か知らないが、そんな政府によって、共産党のいう「戦争法案」廃棄が将来国会で採択されるとき、それに反対する民進議員がいくらでもいるということだ。そんな野党共闘やその政府で、共産はどんな政治をやるというのか、やれるのか。(鵬)

   
   

【主張】

安倍とオバマの茶番
何のためのハワイ「慰霊」

 20世紀の前半、15年間にもわたって日本が戦った野蛮な侵略戦争、帝国主義戦争の到達点でもあった太平洋戦争。その開始を告げた戦場のハワイを、安倍がオバマと共に訪れ、日本の闇討ち″U撃の犠牲者に「慰霊」を行うという。

 一体何のために?

 かつて敵味方として戦った日米が、過去を水に流し、今恩讐を越えて$^の同盟国として結束していることを世界に誇示するため、両国の冒した罪や異常な不正、不正義に対する、日米間にある「わだかまり」を一掃するためだそうである。

 しかし日米の労働者、勤労者は今さらながら、「和解」といったことで大騒ぎする必要は何もない。

 労働者、勤労者が太平洋戦争を戦ったのは、ブルジョア支配諧級や国家主義の反動らによって目つぶしを食わされ、自由を奪われ、反対の意思表示も闘いも弾圧され、他国民が悪党であり、「危険」であると扇動され、暴力でもって殺し合いに駆り立てられたからであるにすぎない。他国の支配階級を危険視し、憎み、好戦的≠セったのは、むしろ支配階級であって、両国民の大半はその根底で友好的であった。

 安倍はハワイでの「慰霊」によって、「『戦後』が完全に終わったと示したい。次の首相から、『真珠湾』は歴史の一こまにした方がいい」と語っている。

 つまり日米のブルジョア支配層は、今や自分たちが行った帝国主義戦争を、つまり弱小国家や民族への侵略や支配、抑圧や収奪や、野蛮な相互攻撃や無差別空爆や、核兵器や近代兵器による大量殺人等々はなかったことにし、忘れようと言うわけである。

 そしてこれは、安倍にとって、オバマやトランプよりも一層切実な願望である、というのは、敗戦帝国主義国のブルジョアとして、彼らはこの70年間、屈辱と冷遇と傷つけられた自尊心に苦しんできたからである。

 しかし日米のブルジョア帝国主義によってさんざんに痛めつけられ、蹂躙され、お互いに殺し合いを強要されてきた世界の労働者、勤労者は、そして抑圧されてきた世界の諸国民は、オバマと安倍の「和解」の茶番によって、彼らの行った戦争のことを忘れることはないだろう、というのは、そうした戦争を行った社会勢力は今も強大な「軍産複合体」として、反動と国家主義の勢力として、他の国家、国民を敵対視し、戦争を挑発しつつ、多くのブルジョア大国の中に現存し、あるいは自ら再び再結集し、軍国主義、帝国主義的な政治にふけっているからである。

 しかし彼らが、お互いの蛮行や悪行を「謝罪」しないことを宣言したからといって、彼らが世界の労働者、勤労者に「謝罪」しなくて済むということには決してならない。

 広島、長崎の原爆投下は、米国のブルジョア支配層の責任であり、彼らの野蛮性の象徴だというなら、それは同時に日本のブルジョア支配層の責任でもある、というより、彼らこそ先頭に立って、野蛮で、凶悪な帝国主義的侵略や戦争を世界に対して挑発したのであり、凶悪な核兵器の使用は、その一つの不可避的結果に過ぎないからである。日本のブルジョア的帝国主義者らは、どのの国のブルジョア帝国主義者たちよりも、戦争の惨禍や犠牲や悲惨や苦難や絶望により大きな責任と罪を負っている。

 だからこそ世界の――とりわけ日本の労働者、勤労者は――、世界のブルジョアたちが行った戦争を、彼らの恐ろしい犯罪を、彼らの代表がハワイに会して安直に、いい気になって「慰霊」の茶番を演出するくらいで、簡単に忘れることはできないのである。

   

セミナー報告のために
共産党の「過少消費説」と『資本論』  林 紘義


共産党の不況克服説――「過少消費説」

 最近は共産党の大会においてさえ余り聞かなくなりましたが、共産党の経済政策を支える中心的な理屈は、「労働者の大幅賃上げによって景気回復=vを、といったものでした。慢性的な不況が、経済の停滞や衰退さえもが続く時代が訪れています。

 資本主義の衰退や、資本主義がすでに世の中を前方に押し進め、労働者、勤労者の生活を保障するものではなくなり、より高度な社会経済体制に移っていくべきことを教えているか、いないかといった大所高所からの議論はさておくとして、共産党に言わせると、こうした経済停滞や不振は、要するに市場経済、資本主義経済の需要不足、購買力不足から来ているのであって、処方箋は、需要を作り出し、増やすことが決定的であり、解決のカギを握っている、ということです。

 だから政府支出を膨れあがらせることや、労働者の消費を増やすこと、つまり賃金を引き上げることが重要であって、それが実行に移されるなら、巡り巡って――安倍がよく言う言い方によれば――、「経済の好循環」が実現され、「景気回復」もバッチリということになります。

 実際、安倍はデフレ脱却の出発点が、労働者の賃金改善にあるかに言って――本当にそれを信じているのか、信じていなくても、リフレ派の学者がそうなると言うから、ダメ元≠ナやってみても損はないと、ご都合主義的に考えているかは知りませんが――、そこから波及してインフレが、一般的物価上昇が実現され、めでたしめでたしの「経済の好循環」が訪れるとわめくのですが、志位らの言っていることと寸分と違いません。

 とするなら、4年間もお株を安倍に奪われた志位が、最近、「賃上げによって景気回復を」と言えなくなったのも分かるというものです。共産党がマルクス主義を信奉するなどとんでもない誤解≠ナ、実際にはとっくの昔にケインズ主義に転向し、帰依してしまったと言うべきなのです。

 安倍と同じことを主張するなら――すでに反共(というより、反共産党)の「連合」組織は、そうしており、安倍からお褒めの言葉までいただいていますが(「連合は安倍政権に一番近い」云々)――、どうしてそうしないのでしょうか。

 それは、そんなことをしたら、エセ共産主義、エセ反政府革新≠ニしての看板がたちまちはがれ、ただでさえ希薄な労働者、勤労者の支持さえ全く失い、20年前の社会党のように消えてなくなるしかないからです。

 偽りの看板によってのみ、そして自分をも他人をも欺くことによってのみ辛うじて生き延びている、けちな党の哀れな宿命です。

 もちろん安倍や共産党のマルサス=ケインズ主義的な理屈――資本主義の根本矛盾は、需要不足≠ノある、国民の過少消費≠ノあるといったへ理屈は、根底からナンセンスで、単に資本主義の矛盾――資本のより大きな利得を求めての無政府的運動や一般的な競争から生まれてくる過剰生産――を、何か搾取体制から来る「過少消費」が原因だと勘違い≠オているにすぎません。

 資本主義は搾取体制だから「需要不足」に陥るというのは、俗受けするかもしれませんが、搾取体制であると言うことと資本主義がときに――あるいは現代では半ば恒常的に――「需要不足」に陥ると言うことは、二つの全く違った問題です。

 賃上げをしたり、意味もない浪費をしたり、国家(政府)が紙幣をいくらでも印刷してカネをばらまけば、資本主義の矛盾や搾取体制や過剰生産がなくなるなどというのは、つまらないプチブル的な幻想でしかありません。せいぜい高進するインフレがやってきて、労働者、勤労者の生活も、ブルジョア経済さえもメチャメチャになり、破綻するだけです。

『資本論』と「過少消費説」

 そして、それがなぜ、「共産党と『資本論』」といった議論になるのか、という話です。

 それは安倍が自らの政治を、リフレ派理論やケインズ主義によって基礎づけ、正当化してきたのと同様に、共産党が何と『資本論』によって、自分たちの過少消費説≠権威づけ、バックアップしようとしているから、しているからです。

 もちろんそんなことは決してできないのですが――というのはマルクスはすでに、ケインズやスターリン主義派の過少消費説≠フ元祖であるマルサス――寄生階級の理論的代弁者として、マルクスがとことん嫌い、軽蔑した坊主学者――詭弁的な論理を明白に暴露し、その本性を明らかにしているからです。

 歴史的に見ても、革命的で自覚的な労働者の闘いの旗印になった『資本論』に対するブルジョア陣営やプチブル陣営からの批判や攻撃はいくらでもありましたが、それらは当然に、資本主義の発展段階や階級闘争の現実によって規定されて、様々な形を取ってきました。

 こうした論争は、『資本論』の重要な理論である、労働価値説≠ノ始まり、ほとんどの基本的な理論や部分にわたったのですが、今、我々と共産党系学者との論争になっているのは――といっても、今の共産党はドグマに固執することはあっても、まじめに議論し、検討することをしないので、我々の一方的な批判になっていますが、それは我々の責任では全くありません、理論と理論検討をひどく恐れ、つまらない中傷ですますか、議論を一切回避する共産党の責任です――、まさに「過少消費説」に関係するものであり、それを中心に展開されています。

 その内容を具体的にいえば切りがないのですが、『資本論』の部分で言えば、『資本論』の1部(1巻)ではなく、エンゲルス編集の編集による2部、3部、とりわけ2部21章です。「拡大再生産表式」の理解や解釈の対立は、その中でも最も重要な係争点です。

 つまり、共産党や不破らが、マルクスの論理を持ちだして、それを勝手に解釈したり、曲解したり、あるいはエンゲルス編集の『資本論』――現行『資本論』――の齟齬(そご)や欠点を悪用したりして、彼らの政治を支える理論として「過少消費説」を持ち出し、マルサス流(坊主階級)=ケインズ流(ブルジョア階級)のバカ話を正当化したり、擁護したりする理論的な♀動を展開してきており、今も派手に行っているとき、それを、政治的な面からではなく、その基礎的な理論から反撃しようというのが、セミナーの、したがってまた私の報告の趣旨です。

寄生階級=消費階級の経済学≠止揚しよう

 そして近年において、共産党系の学者らの理論に対する、我々の批判的な議論は、突き詰めればスターリン主義派の「過少消費説」を正当化、擁護するための理論との闘争に帰着したのであって、まさに現実の階級闘争、政治闘争を反映し、すぐれて実践的な意義を持つものでした。

 過少消費説とは、一言でいって、資本主義の矛盾の根底を、労働者の過少消費≠ノ求めるものです、つまり労働者が資本によって搾取されるが故に、ブルジョア社会は常に、傾向的に過少消費≠ノ、したがって購買力不足、需要不足に陥ってしまい、かくして絶ず恐慌や不況やデフレ=\―この概念については巷では混沌たる説明がなされているが、そのことはここでは論じないとして――や、さらには昨今では、長期的停滞や一般的な衰退までが生まれ、不可避となると論じるのです。

 そして彼らは、そんな過少消費≠明らかにした論理を、『資本論』第2巻とりわけその21章の拡大再生産論に見出したのです。

 生産手段手段部門の「蓄積」が、つまり「成長」が、消費手段生産部門の「蓄積」や「成長」に優越するのですから、それはとりもなおさず、消費の制限であり、したがってまた、それは労働の搾取と労働者の「過少消費」によるものだという理屈ですが、しかしまるでとんでもない論理的な飛躍でしかありません。

 マルサス以来の過少消費説の基本的な観念は、資本による労働の搾取は、それだけ需要や購買力の縮小である――というのは、労働者からそれだけの所得や収入を奪い、縮小するから――、といった観念から出発するのであって、それはマルサスから一五〇年ほども経ち、あるいはケインズからさえすでに一〇〇年ほど経過した今でも、本質的には同じままです。

 しかしマルクスの再生産表式――単純であれ、拡大であれ――を見ても簡単に確認できるように(もちろん再生産表式が正しく書かれ、ブルジョア的形態における年々の再生産全体の概念を適切に表現している限りでのことですが)、労働者から搾取された剰余価値(M)もまた、他の諸契機と共に、立派に「需要」や「購買力」を見出すことができるのであって――つまり次の再生産のために、したがってまた生産や消費のために、流通を媒介にして立派に再配置されるのであって――、そこには「生産や供給の過剰」や、それらの「過少」や欠落といった、厄介な′_機は一切存在しないし、する余地など全くないのです。

 今安倍政権のもと、すでに四年にも及んで、「官製春闘」なるものがまかり通っています、つまり安倍がブルジョア――個人資本家であれ、結合資本家であれ、経営者であれ――に労働者のために賃上げを要請し、また連合幹部に、諸君は私に一番立場が近いなどと媚を売り、たらし込もうと策動するような時代です。

 そしてブルジョアたちも、アベノミクスがいくらかでも成果≠あげ、彼らの利益を保障しているようにみえる間は、安倍のために配慮するのもやぶさかではありません。

 もちろん労働者は自らの解放を、理論的な解放によって成し遂げることはできません。それは労働者、勤労者の現実的、歴史的な実践による以外ないことは明らかです。

 しかし今、ブルジョアやプチブルたちがこともあろうに、マルクス主義の名で、彼らのつまらない、空疎な俗流理論を労働者、勤労者に押しつけようとしているとき、そんな悪巧みを断固として粉砕し、一掃するために闘うことなくしては、労働者、勤労者の運動を発展させ、さらに自らの闘いの発展と最終的勝利を勝ち取っていくことができないのは自明です。

   
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