●1356号 2019年7月14日
【一面トップ】年金特集号
年金問題と我が労働者党の立場――極端な年金格差の解消が焦眉の課題
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】本質的な違いがあるのか――個別的自衛権と集団的自衛権
【二面トップ】憲法はバイブルか――現行憲法は欠陥だらけ
付録 労働者党憲法改定草案
※『海つばめ』PDF版見本
【1面トップ】
【年金特集号】
年金問題と我が労働者党の立場
極端な年金格差の解消が焦眉の課題
金融庁の一つの報告書が、たまたま今65歳の〝標準家族〟のペアが、仮にあと30年生きるとすると、何と年金に加えて2000万円も必要になると書いたため、参院選直前ということもあって、与野党もマスコミも広汎な労働者や貧しい年金生活者の存在はそっちのけで、大騒ぎを演じている。しかしお気の毒なことに、安倍政権の周章狼狽ぶりや、姑息な対応は、年金危機が決して空想上のことでなく一つの現実であり、しかもそうした危機に対して、安倍政権は「事実ではない」と言いくるめようとする以外の、どんなまともな解決の手段も展望も持っていない無力な政権に過ぎないという、一つの現実を、かえって強烈に国民全体に印象付けてしまった。
年金問題の緊急の課題
〝標準世帯〟(正社員、主婦、子ども2人)の夫婦が二人になり、年金生活者になった場合の年金(14年の数字で、夫婦で21万8千円、うち基礎部分12万4千円)の増減や、そんな年金制度の「存続」が大事か、彼らの年金生活のレベルを維持できるのかといった議論が延々と続いている陰で、より深刻な「年金差別」の問題にはほとんど注意が向けられていないが、こうした傾向は単に与党だけでなく、共産党も含めたすべての野党も同様である。
我々は今回の参院選でも、この差別問題こそまず、他の年金問題に先んじて解決されるべきであり、その後で、より根本的な問題の検討に移っても決して遅くないと主張するのである、というのは年金差別の問題は基礎年金(国民年金)だけに依存して生活を維持し、生きているすべての高齢者の生活どころか、生死にかかわる緊急の問題だからである。
だがこの問題でも、安倍は個人の問題、「自助の」問題だとうそぶくだけである。
昨年12月、国会で野党議員から「基礎年金だけで暮らせるのか」と質問されて、彼は傲然と答えている。
「基礎年金だけで生活を賄うわけにはいかない。それまでに貯蓄、資産の形成をお願いしたい」
今金融庁の報告書が出て、2000万の「資産形成」の必要といったことが大問題になると、安倍らは参院選に影響が及ぶのを恐れて、現行の年金制度は100年安泰であって、それに対する不信や不安をあおるなとか、安倍政権は「自助」を勧めるのではないとか、大あわてで言いつくろっている。
おかしい話ではないのか、安倍の先の発言は、少なくとも何十、何百万の基礎年金だけで老後を生活し、生きなくてはならない人々、最も窮乏し、滅んでいかなくてはならない人々に対して、自ら現行年金制度は、このままでは破産していくと「不安をあおっている」も同じではないのか。
それなのに、なぜ選挙前だからといって、その事実を否定するのか、「頭隠して尻隠さず」の幼稚なお遊びでもしたいのか。
しかもこうしたことは、すでに最初に基礎年金だけで老後を暮らすということにされた「自営業者」だけの問題ではなくて、多くの労働者の問題にもなっている、というのは、非正規の労働者(その7割は女性労働者)の多くもまた今では厚生年金ではなく、国民年金だけに加入しているからである。
統計によれば、国民年金加入者は15年で1600万人強の多きに達しているが、その中で自営業者の占める割合はすでに15%に縮小しており、替わって、非正規労働者と無職がそれぞれ3割、合計すれば三分の二の多数になろうとしている。つまりこれは国民年金が自営業者だけの問題ではなく、もっと広汎な全国民的な問題、そして女性労働者を中心とした労働者の問題にもなっているということである(2011年のより詳しい数字によれば、国民年金加入者の分類は、自営業者14・4%、家族従業者7・8%、常用雇用者7・7%、非正規雇用者28・3%、無職38・9%とされている)。
1600万人の国民年金加入者のうちの450万人(30%)は、経済的な理由等々により保険料を免除されており、その他に保険料を滞納している人も200万人もいる。こうした事実は、保険料を担う人も、またそれに老後の生活を託す膨大な人々もますます窮乏化していること、そして少なくとも基礎年金制度は完璧に破綻している事実を暴露している。高齢世帯の6割が年金だけで、その多くが国民年金だけで暮らしているというのに、である。
我々がすでに現行の年金制度が根底から破綻し、崩壊しつつあることを確認しつつも、まず年金差別の一掃という緊急の問題から、年金問題に接近する必要があると主張する理由である。
すでに破綻している野党共闘派
いま野党共闘派もまた、年金問題で大騒ぎしている。しかし共産党はただ労働者(〝標準世帯〟)の受給額がいくらか減少するか、しないかといった観点から接近し(それも半デマ的な形で)、制度の全体や、また年金差別の問題こそ緊急の問題であり、そこから始めなくてはならないという意識は希薄であり、また年金差別の一掃を年金問題の解決の一つの手段とすべきであり、そしてそれが可能であるという問題意識も欠いている。
自民や国民民主は、月額5千円、年間6万のはした金をバラ撒いて、貧しい年金生活者の救済など高齢者をバカにしている。
そして年金格差の一掃は、全体としての年金支出を減らす可能性さえある。我々がすでに暴露したように、基礎年金もまた手にしている、高額の厚生年金受給者も多いのであり、そんな連中の基礎年金支払いを止めるだけでも、また主婦に対する年金保険料もその〝主人〟に負担させるか、さもなければ彼女らに対する年金支給を廃止するなら、それだけでも年金差別をいくらか解消でき、基礎年金の金額を引き上げることも可能となるからである。
もちろん、厚生年金にも制限を緩和して非正規の労働者も加入させ得るようにすることも、さらには企業の厚生年金逃れをきびしく規制することも必要であろう。国民皆保険というなら、それにふさわしいやり方を徹底して採用することがまず必要であるが、国民の所得の大きな差別や格差が当然視される、このブルジョア社会では、そんな形で「年金の一元化」が実現することはまずないし、あり得ないのである。
共産党は、ただ現行の年金レベルを維持、防衛できればいい、あるいは国家がカネを出せばそれが可能だ――さらには、もっと国がカネを出せば、軽負担で年金レベルもいくらでも上げられる――と無責任なことを言い、労働者や年金生活者に口先だけのサービスをすれば票が増えると思い込んでいる、最低最悪の無節操ポピュリズム政党として登場している。
そしてそもそも野党はかつての与党政権時代(09年からの民主党政権時代)、年金問題の解決を謳って取り組みを開始しながら、何らの成果を上げ得なかったことを思い出すべきである。
民主党が政権に就く直前の2009年の選挙マニフェストで発表し、公約した年金問題の改革政策は、「年金制度を一元化」し、月額7万円の最低保障年金を実現するといったものであった。もちろんこの一元化とは、公務員や私学教職員の共済年金を厚生年金(大企業中心の正規労働者の年金)に統合するといった副次的な問題ではなく、年金格差の大本である、国民年金と厚生年金の格差を一掃するという、実現すれば画期的なものになり得たかもしれないものであった。
しかしみみっちい7万円の最低保障年金の規定を持ち出したことからも明らかなように、格差是正といっても所得格差を前提としたものであり、本当の格差是正とは全く別の、決定的に限界あるものではあった。
だが民主党政権は、マニフェストに謳ったこうした公約さえまじめなものとして考え、その実現に本気で取り組んだ形跡は全くなく、結局は、2012年の民主党政権末期の3党一致の10%への消費増税と、それを財源とした財政再建と社会保障の充実――その実際の内容は、年金受給資格のための保険料支払い最短期間を25年から10年に短縮して、そんな人にも月1万6千円ポッチを受け取れるようにするとか、消費増税を担保にして国民年金の半分を公費負担にするといった、矮小な改良――でお茶を濁しただけであった。
民主党つまり現在の立憲民主党や国民民主党の連中は、せっかく政権を握っていた自分たちの3年間に何をしたのか――年金制度改革についても、いくらかでも真剣で、まともな改革に取り組んだか、どうかを深刻に反省し、総括してから――、そしてどうして年金格差問題を無力のままに放置して、今、かくも深刻なものとして出てくるのを許したのか、それについての責任についてどう考えているのかを明らかにしてから、年金問題でも安倍政権と対決できないなら、何を言っても労働者は白けるだけである。
現在の年金制度――3階建て制度の怪
現在の年金制度は1991年に行われた「年金制度の抜本的な改革」によって、ほぼ「日本の公的年金制度の仕組みが完成することになった」といわれているが、もちろんそれが「完成」といえるようなものか、言えるとしたら如何なる意味でかということはさておくとして、その内容とは、せいぜい国民全体に共通する「基礎年金制度」を創設し、そこに20才から60才未満のすべての国民を〝強制的に〟加入させ、したがってまた国民のすべてに共通の基準による基礎年金を支給するというものであり、さらに厚生年金の被用者年金は、基礎年金の2階部分として報酬比例年金を上乗せするという、幾重もの意味での差別年金制度、そして何の合理性もないような、途方もない愚劣な年金制度をでっちあげ、国民全体に押し付けるものであった。
「年金制度の統合」とはすべての国民が共通の基礎年金制度に加入して(厚生年金加入者も、もともとの国民年金加入者も、建前としては同等の資格と権利で)、基礎年金という名の国民年金を受けとるということだが、しかし厚生年金受給者だけは、それに加えて、二階部分として、今までと同様に「報酬部分」に比例した年金を受け取るというのである。つまり彼らにとっては、基礎年金は国民年金一元化のために、基礎部分が形式的に存在しているということであり、実質的にはほとんど以前と違いがないのである。
こんなものが年金一元化と言うも恥ずかしいような、一元化とは決して言えないような制度であるのは一見して明らかである。国民年金制度と厚生年金を不器用に、何の合理性もないままに、ただ機械的にくっつけただけである。国民年金を全国民に行き渡らせたから一元化だというなら、余りに厚かましく、余りにナンセンスである。
国民年金も厚生年金も解消し、新しい基準と原則による、単一の年金制度を作り出してこそ、年金制度の一元化といえるのである。こんなやり方をすれば、たちまち基礎年金だけの加入者と厚生年金加入者の間の不平等や格差が生じ、一般化し、拡大することは火を
見るよりも明らかである。最初から3倍、4倍の年金格差が生じるが、そんな不当なことをいかにして正当化し、擁護できるというのか。しかもこうした格差は〝強制〟されるのであって、そこから逃れることはできないというのである。
働く者も、主婦といった社会的な労働に参加しない寄生的な者も同等に、共通の加入者として扱い、同等に基礎年金を支給するような制度は、ただこのことだけでも重大な差別の一つであり、いくらかでもまともで、公正な制度とはいえないのである。
我々はこうした差別制度の不当で、正義の原則に背き、不合理な年金制度の廃止から、年金格差の一掃から、年金制度の議論と改革を始めるべきであり、そして結局は年金制度といった、ブルジョア社会の一時的、時代的な混乱や矛盾や非合理性の表現であり、残滓でさえあるような社会関係の止揚と克服へと進んでいくべきであると主張する。
年金問題の究極的〝解決〟
人間が年を取り、自分の労働と働きによって、自分の生活や健康や生命までも維持できなくなった時、問題となり、不可欠になるのは、医療と介護であって、年金ではない、というのは、健康である限り、自らのために労働し、生活できる限り、「年金」といったものの必要性や必然性は皆無だからである。
確かに、労働者も年齢を重ね、体力や気力が衰えるとともに、「俺ももう十分に心身を酷使し、長年懸命に働いてきた、もう疲れた、休みたい、そしてそのために十分な年金を手にして、安息の年金生活に入りたい、〝老後〟なるものを享受し、楽をしたい」とぼやき、望む人も決して少なくはない。
そんな人々にとっては、年金制度は不可欠のものではないといわれることは心外であり、考えてみたこともなかったこと、途方もない暴言にさえ見えるだろう。しかも乏しい賃金の中から、法外ともいえる保険料も負担してきたのである。
しかし他方では、年金制度は労働者の定年制度と不可分であり、労働者がかつては55才前後、最近は60才や65才くらいで企業や職場から追い出される社会関係のためであって、年齢を決めて労働や仕事から不自然に、強制的に疎外される制度の結果でしかないのである。
そして少子高齢化の時代の流れの中で、ブルジョアや安倍政権さえ、60才や65才どころか、70才定年制や定年制の廃止についてさえ語り始めているし、せざるを得ないのである。
健康である限り、個々人が自分や家族のために働き、そして彼らの労働時間の一部が社会全体のために割かれることは、健全で、自然な、そして正常な人間の社会関係であって、労働が、労働する人々の疲弊や健康の破壊や不幸の原因となり、そこからの脱出が労働者の幸せとして現象し、転倒して観念されるのは、現実の労働が被搾取労働、資本による強制労働であり、〝疎外された〟労働であるからであって、人間の社会的に支出される労働そのものの本性によるものではない。
そして人々が、いくら高齢者となろうとも、社会の有機的な一部として、社会の総労働の一部を誇り高く、堂々と担って生活できる限り、彼らは他の人々の、より若い人々の労働に寄食し、寄生する必要も必然性もないのであって、従ってまたこの歪んだブルジョア社会の関係である〝年金〟等々に、つまりは他の人々とその労働に依存する、卑屈な寄食者にならなくてはならないといったことには決してならないのである。
我々が将来の人間社会においては、年金や年金制度は自然と止揚され、存在しなくなると主張するのも、こうした意味からであり、そしてそれは一定の過渡期を経て、年金制度の必要性が自然と無くなってからのことであるのも、また当然の話である。
【飛耳長目】
★不意に日韓の〝経済戦争〟が勃発した。安倍政権は「韓国が約束を守らないから」というが、結局は安倍の日本の歴史に対する、無反省な姿勢や、歴史的真実をねじ曲げる、「歴史修正主義」、韓国の国民の全体が、〝従軍慰安婦〟(軍事性奴隷化)問題や徴用工問題など、安倍の歴史を反省しない態度や、真実を否定する「歴史修正主義」を非難することに対する安倍政権の品のない〝意趣返し〟、さらには日韓の働く者の間に相互の反感や民族的憎悪をあおりたて、2年前の衆院選の時、北朝鮮を「国難」だとわめいて日本の国民的憎悪を煽動したのと同じ策動である。かつては、悪党は北朝鮮、今回は友邦であるべき韓国が悪党であるという訳だ★安倍のやっていることは、トランプら世界中の悪党の専制支配者らがやっていることと同じである。韓国への怪しげな〝経済制裁〟は、安倍政権の利益のために、諸国民の対立や悪感情を挑発し、あおり立てるもの、その限り〝戦争〟を挑発し、その原因をなすものである★働く者は、共産党やインテリや幼稚なシールズの学生活動家のような無力で、空虚な立場まで後退しないで前進して行かなくはならない。それは自らの利益や権力のために、諸国民の対立や悪感情を挑発したり、軍事力を強大化したりする、安倍や資本家ら戦争挑発者、戦争を欲する連中らとの、自国内のそんな悪党との闘いの問題である。(鵬)
【主張】
本質的な違いがあるのか
個別的自衛権と集団的自衛権
参院選で与野党間の憲法論争が激化している。
しかしそんな論争も全て基本的に、空虚で的外れで、枝葉の議論に終始している。
そもそも共産党を始めとする野党の、憲法に「自衛隊を明記すると集団自衛権を認めることになる」から憲法反対だ、などという理屈は全く合理性のかけらもない、詭弁の類であって、野党の立場からしても一貫していない。
野党はみな今では個別自衛権を認めると言っている。個別自衛権を認めるが集団自衛権を認めないなどと言うのは愚説の、自己矛盾の最たるものであって、個別自衛権を認めるなら、集団自衛権も認めるのは一つの論理的必然である。共産党や野党は口を揃えて、集団自衛権を認めると、外国のために戦争することになるとか、国外で闘うことになるとか言いはやすが、それはまた別の話である。
例えば20世紀初頭の日ロ戦争の当時、日本とイギリスは日英同盟を結び、日本はイギリス――現在のアメリカのように世界の盟主ともいえる地位にあった国家――を後ろ盾に、またイギリスから巨額のカネを借りてロシアと戦い、辛勝したが、その時代、別にイギリスのためにロシア以外の国や、日ロ両国の対立に無関係の地域で闘うといったことは何もなかった。
第二次大戦でも独伊と軍事同盟を結び、結局米英などの連合国側と戦ったが、別に日本がヨーロッパまで出かけて独伊のために闘うことも、独伊が日本のためにアジア地域や太平洋戦域等々まではるばる来て日本のために戦うこともなかった。
二つの、あるいは複数の国家が仮に同盟関係――軍事的同盟でもかまわないが――を結ぶということと、一方の国が第三国と闘うときに、同盟国がそんな闘いに参加するか、しないかは別の話であるということである。
共産党は、自衛隊は米国のための軍隊だとか、安保法制は日本がアメリカのために戦うためだとか、根本的に間違った、ピントはずれの一面的な評価をして、安倍の憲法改定に反対して〝闘って〟いるが(闘う振りをしているが)、的外れだから,まともな〝闘い〟になるはずもない。
そもそも共産党は、いまの自衛隊はアメリカのための軍隊だから反対だと今さら言って、憲法違反を言いたてている。
しかし実際には自衛隊がアメリカのための軍隊ではなく、日本国家の、あるいは日本の大資本の軍隊だったら賛成と言うことである。 そして自衛隊がすでに日本の国家や大資本の軍隊であることは客観的な余りに明白な真実であるのだから、詰まるところは、共産党は日本の大資本の軍隊に賛成と言うことである。
そんなことを言っていて、安倍の軍拡主義と、そのための憲法改悪の策動と闘えるはずもないのである。
それに野党が国民投票を恐れて大騒ぎする理由も分からない、国民投票で勝って安倍政権を打倒するくらいの意気込みでやらなくて、どうして安倍の改憲策動を粉砕できるのか。
労働者・働く者とその信念や闘いを信じる心があれば、どうして国民投票で対決することを恐れる必要があるのか。
そんなことにびくびくして小心になって逃げ腰でいれば、安倍はますますかさにかかって攻勢を強めてくるだけである。
もし安倍改憲を阻止したいなら、安倍政権を粉砕するという強い決意と闘う意思を固めていてこそ、憲法戦役でも安倍に勝つことができるのである。
もし憲法戦役で安倍に負けないことを願うなら、野党は戦々恐々おじけづかないで、敗北主義に凝り固まらないで、堂々と闘うべき時である。
【2面トップ】
憲法はバイブルか
現行憲法は欠陥だらけ
付録 労働者党憲法改定草案
まずいえることは、現行憲法を絶対化し、それを前提に全ての思考を停止するような観念論的立場は止めるべきだということです。 野党に言わせると現行憲法はバイブルのようなものであって、一言一句神聖で、不変であるべきものだといいますが、そんな憲法はかつてもなかったし、これからもありません。我々は現行憲法も時代的、社会的な制約を有する憲法、その限りでは欠陥だらけであり、いくらでも変えるべきところがあると考え、自ら憲法改定試案を作成、参院選に向けて公表しています。
我々の機関紙でも、ホームページでも簡単に読めます。我々の憲法改定はまさに国家のあり様(よう)に関係した、第一章の「天皇」に関する部分で、それを2つの章に分け、1章で国民主権を明確に謳い、2章で国民主権に厳格に従属し、規定された形で「天皇」を位置付ける形になっています。憲法絶対、改憲タブー病や、天皇制絶対、天皇制タブー病に感染されている方々には、ぜひ一読し、検討していだきたい。
安倍の9条改定案について言えば、改定案の形にさえなしていない、不合理で、論旨混沌、矛盾だらけで、現行憲法の絶対平和主義の条項に、粗雑に「自衛隊の存在を明記する」といった訳の分からない条項を機械的にくっつけたような安倍の改定案は余りに愚劣過ぎてまともに反対し、大騒ぎするような価値さえないようなものです。安倍の単なる下手な作文、無駄ごと、個人的趣味か、思いつき程度のもので、こんな憲法改定案が国民の支持を得られるはずがありません。保守派でさえ反対しかねない、お粗末なものです。
労働者党憲法改定草案
第一章 国民主権
第一条
日本は労働者・働く者を支柱とする国民主権の国家である。
第二条
日本の国家は、旧憲法(明治憲法)が謳うような、また天皇制国家主義者たちや安倍一派の反動派がわめくような、さらには「君が代」が語るような、天皇主権(自民党の「日本国憲法改正草案」が語るような〝天皇元首〟等々も含む)の国家でないことを改めて厳粛に確認する。
第二章 天皇制
第三条
仮に日本国家が立憲君主制体制をとることがあり得るとしても、天皇の地位は、厳密に国民主権と民主主義体制に順応し、従属したものでなければならない。したがって天皇をはじめとする皇族も当然、国民の一部として存在し、古代天皇の残映である一切の〝神聖性〟とか、国家や国民統合の〝象徴〟とかの幻想から解放された人間的人格以上であってはならない。
第四条
天皇の役割は、厳しく現憲法の7条に規定されている「国事行為」に限定されるのであって、個々の天皇が恣意や、勝手な思い込みによって行われるような〝公的行為〟――不可避的に政治的性格を帯びざるを得ない――は固く禁じられる。
第五条
天皇家はお望みならば神道の宗家として、宗教的行事を主宰し、行うことができるのは、他宗派の家族がそうであるのと同様である。しかしその場合、「政教分離」の原則は決して侵されてはならない。
第六条
「天皇の治世」「天皇の一世一元号」という概念と結びつく元号制度の廃止。
第七条
次期天皇以降、現憲法の十四条、二十四条の一切の差別の禁止の、とりわけ男女平等の精神に基づいて、天皇は現天皇の長子とする(女性天皇を認める)。
第八条
将来的には、すでに歴史的骨董品に堕し、時代錯誤そのもの、有害無用で、ブルジョア支配や国家主義勢力や反動派の道具――15年戦争(1931年から45年まで続いた天皇制軍部ファシズム勢力による侵略戦争、帝国主義戦争の時代、軍部ファシズム勢力の旗印になったことに〝象徴〟されたように)――、もしくは装飾品の意味しか持ち得ない天皇制(日本的君主制)を廃止する(歴史的には天皇制が実質的な意義を有したのはせいぜい戦国時代のころまでで、それ以降は、現実的、歴史的な意義や影響力を――明治維新や維新政府の初期や、軍部支配のファシズムやその戦争などの特別の時期は別として――ほとんど失っている)。
第九条
現行憲法は、天皇の地位は「国民の総意に基づく」と規定されているが、いまだ一度も、「総意に基づく」ということは確認されていない。天皇制は少なくとも代替わりの時、その継続か廃止かを国会によって議決する。
(我々の憲法改正草案は、国家の根底的な性格に関する1章のみです。)
【お知らせ】
林紘義個人演説会のお知らせ
17日の午後6時から「中野サンプラザ」にて林紘義個人演説会を開催致します。
皆さんのご参加をお願い申し上げます。
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