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労働の解放をめざす労働者党機関紙『海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
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  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1360号 2019年9月8日
【一面トップ】共産党解党と消滅への道――志位の野党共闘政府の呼びかけ
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】香港民衆の果敢な闘い――巨大な歴史的勝利勝ち取る
【二面サブ】幻想の3分の1の勝利――共産党衆院議員からさえ批判が

※『海つばめ』PDF版見本

【1面トップ】

共産党解党と消滅への道
志位の野党共闘政府の呼びかけ

 志位は、参院選における野党共闘は大成功であり、大きな成果を上げたと、太平洋戦争中の〝大本営並みの〟偽りの戦果報告で、他人だけでなく自らも欺きつつ、今や、2年以内に行われなくてはならない衆院選にむけて、野党共闘を「政権を〝本気〟で〝真剣に〟目指す」野党共闘、「国民連合政府」の樹立を目指して闘う野党共闘にまで格上げし、昇格させよう――志位の言葉によれば「進化させよう」――と、新しい策動を開始し、他の野党や、山本新党にまで働きかけを強めている。政権を目指さないような単なる野党共闘では、〝国民〟――一体誰のことか、いかなる〝国民〟か――を心の底から、〝本当に〟野党共闘に引き付け、信用させ、結集して行くことはできないということらしい。しかし我々は、志位のいうことは一つの白昼夢であって、現実的、実践的な意義は何もなく、志位の勧める道は、労働者・働く者にとって過てる地獄への道であることを明らかにしなくてはならない。しかしこうした志位の野党共闘勢力による政府実現という策動は確かな未来があるのだろうか、実際的、政治的必然性はおろか、可能性さえないのではないかに見える。

対立し、分解する野党諸党派

 志位は、れいわ新選組の躍進を歓迎したが、それは、その勢力が、志位の新しい野望である、野党共闘勢力による権力の獲得の頼もしい〝友党〟になると判断したからである。

 志位は山本新党にたちまち媚び、そのご都合主義と空約束と美辞麗句だけの空疎な、矛盾だらけのごった煮政策や政治を持ち上げ、連帯の挨拶を送り、野党共闘で協力したいと希望的観測にふけっているが、しかし野党共闘内の新たな紛糾やセクト争いや混乱や対立やゴタゴタの種になり――「船頭多くして、船、山に登る」の例え通りに――、挙句の果てに、廂を貸して母屋を取られる、といったことにならなければめっけものであろう。

 志位が、新しい山本新党を評価し、「野党共闘の発展の中で新政党が誕生したことを歓迎する」とし、また「その掲げる政策の内容は、我が党と共通する方向だ、また山本が野党共闘で政権交代を図りたいというのも共産党と同じだ」と手放しの評価をするのも偶然ではなく、新党れいわの政治的本性を、それが、共産党や立・民の、つまり腐敗して行く野党の枠内の政治、その頽廃や半デマ政治をある意味で象徴し、極端にまで推し進め、明らかにしたからということにすぎない、つまり「類は友を呼ぶ」のである。

 しかし助っ人れいわが新たに登場しようと、野党共闘の未来は、したがってまたその政権の実現は「言うは易く行うは難し」の困難な課題である。

 野党共闘の中では、共産党と他の野党――国・民だけではない、立・民さえ――との疎遠だけではない、近しいはずの立・民と国・民の間でさえ、ずれやいざこざや対立や実際的、感情的な違いが生じ、深化し、お互いに野党勢力のヘゲモニーを巡って競り合っている。

 参院選では辛うじて野党共闘がすべての一人区では成立して野党共闘は順調に見えたが、大した成果を上げることもできず、すべての野党共闘派の政党は停滞した。そればかりか、野党共闘の掛け声のかげで、野党間の矛盾や対立さえも拡大、深化さえもした。

 定員二人区の静岡選挙区では、榛葉国・民幹事長の立候補しているところに、あえて立・民が候補者を立てて後から参入したのに、国・民はいたく反発し――現職議員のいるところに、候補者は立てないという、同じ野党間の約束や信義に背いた等々――、立・民の強引なやり方に対する不信は増幅し、野党間の主導権争いも激化している。定員3人以上の選挙区では、野党はそれぞれしのぎを削って争い、鋭く対立した。

 国・民の中には、立・民の他党への支援は形ばかりのものであったという不満が充満しているというが、国・民内にもまた、共産党の支援や応援なんか死んでもお断りという連中がいくらでもいるのだから、野党共闘を謳う諸党はそれぞれ、協調など口先だけ、どっちもどっちだと言うしかない。

 実際に階級的で、原則的な立場や問題では、てんでバラバラの諸党の野合である野党共闘は難しい〝問題〟をいくらでも抱え込んでおり、融合や妥協や調和さえ容易でなく、しかも今後、政権の獲得まで一緒にやるとなれば、ますますそうなっていくのであって、観念論者の志位にはそうした困難で、複雑怪奇な権謀術数の世界になるという現実が見えていないだけである。そもそも仮に野党共闘政府を目指す闘いに、れいわを含めた諸野党が何とか同調することがあり得るとしても――それすら簡単ではないが――、〝保守志向の〟国・民は容易に同調することはできないだろう、というより、そんな野党共闘とは手を切り、17年の秋と同様に、再び保守の陣営に走るだろう。

民主党政権の二の舞にならないのか

 反対に立・民と国・民が手を結んで中核になって、野党共闘政府を作るというなら、それは09年の民主党政権の再現そのものであり、そこに共産党が仮に付録のような形で参加したからといって、09年の民主党政権と本質的に別の政権になるといったことは幻想であって、あり得ない(もっとも共産党が〝共産主義者〟といった体面や偽りの虚栄心やつまらない自惚れを捨てて、完全に堕落した〝社民的で〟、俗物的な〝体制内政党〟に脱皮し得たら、その限りではないかもしれないが、それはまた別の話である)。

 志位はこの数年の野党共闘の経験の中で、野党間に「強固な信頼関係が生まれ、強化されてきた」と、相変わらず独りよがりの妄想を振りまいているが、そんなものはどこにもなく、今後の政治闘争の中で志位のたわいもない、幼稚な幻想はたちまち吹っ飛んでいくであろう。

 共産党は野党間でも、「自衛隊や安保条約や原発や天皇制などで見解が違っている場合がある、しかしそれらの見解が違っていても――例えば現在の自衛隊は憲法違反であるか、合憲であるかは、野党各党の中でも皆違っているとさえいえる――、しかしそうした違いは〝当面の〟課題を考える上では重要ではないし、また共に闘っていく中で解決し、解消され得る問題である」、などと自ら矛盾した意見を口にしている。

 しかし自衛隊が憲法違反であるかないかといったことが、どうして共産党にとってどうでもいいことなのか、共産党は自ら憲法を〝丸ごと〟擁護するといい、それこそが共産党の政治闘争にとって最も重要で、根源的な問題であると常に言っているのではないのか。自衛隊が憲法違反であるか、合憲であるかがどうでもいいというなら、共産党の政治的立場そのものがどうでもいいものであるというに等しいことに、志位はどうして気が付かないのか。

 志位は、いま問題になっているのは、自衛隊が違憲か合憲かといったことではない、「安倍政権が、安保法制という、立憲主義を壊して、憲法違反の法律を作った、それが問題で、それを正すことだけである」というが、そもそも自衛隊が合憲なら、〝安保法制〟がどうであろうと大した問題ではない、ということにならないのか。それは、せいぜい合憲の自衛隊の具体的な運用にかかわることであって、国・民が安保法制を認めて、安倍政権に味方することも「当然あり得る」ということを認めるしかないからである。つまり共産党は〝当面の〟政策でさえ、国・民はもちろん、ことによったら立・民さえも、野党共闘政府の仲間として迎えることは矛盾し、困難となり、失敗するということである。

 しかし仮に野党共闘政府がめでたく誕生し、その政府は何の問題もなく安泰であって、公約した〝当面の〟重要問題を解決しようとして、安倍政権が成立させた多くの法案を、「戦争法」でも何でも立派に廃棄できると安易にいうが、問題はそんなに簡単ではない。まあ、志位はできると思うなら、せいぜい苦労して野党共闘政府を組織し、何でもやってみたらいいのだ。100%の確率でもって予測できるが、ことはそんなに容易でなく、志位は必ず失敗するだろう。

 だが志位は新しい野党共闘政権が、1990年代の細川政権や09年の民主党政権のような、いい加減で、矛盾や混乱だけ残して敗北して行った、連合政府には決してならないと断言する、というのは、そんなかつての反自民もしくは非自民の連合政権には共産党が参加していなかったが、今度の野党共闘政権には、「民主党政権の限界を乗り越えていく内容も含まれている」、しかも共産党が参加するから大丈夫だというのである。

 志位はむきになって、安倍がかつての民主党政権の経験を持ち出して、「あんな暗黒の時代に逆戻りすることはできない」と、野党共闘を批判するのに反論している。

「私は、安倍首相に言いたい。大体、民主党政権を持ち出して野党共闘を攻撃するのは筋違いの攻撃だということであります。今市民と野党の共闘の目指しているのは、かつての民主党政権の復活ではありません。共闘の目指している政治は、『市民連合』との13項目の『共通政策』が示している政治であります。そこにはすでに述べたように、憲法、消費税、沖縄、原発など国政の根本問題で、自民党政治を切り替えるとともに、かつての民主党政権の限界を乗り越える内容も含まれています」。

 市民派の作った13項目の野党共闘の共同の「政策合意」があるからといって、民主党政権とは違う政権に、野党共闘政権が成り得るという保証は何もない、というのは、市民派や国・民の政治も、その主張や政策も、かつての民主党のレベルを超えるものは何もないからであり、また今回の参院選一人区だけの野党共通政策も、32の一人区という狭い範囲だけのものであって、諸野党は他の複数区や比例区では、一人区の共同の「政策合意」とは無関係に、その順守などほとんど意識しないで、それぞれが勝手に、党独自の立場や主張や政策を掲げて闘ったからである。

 それに我々がすでに暴露しているように、野党共闘の13の「共通政策」自体、各政党が勝手に自らの観点に立って解釈できるような、あいまいな形で提起されているにすぎないのである。例えば、原発の廃止も、原発の廃止に必ずしも賛成ではない立・民も受け入れられるような、あいまいで、どうにでも取れるような〝魔法の〟言葉で記されている――単なる〝言葉〟であって、絶対にそれ以上ではない――が、こうしたことは憲法改定問題でも、消費税の問題でも、沖縄の基地問題でも、外交・防衛の問題でも多かれ少なかれ同様である。

 つまり野党共闘の政府ができても原発の廃止も、基地問題も、安保・外交問題も、増税問題等々も、すべてあいまいにされ、棚上げされ、憲法改定の国会発議さえも、3分の2の議員の賛成で堂々と行われるといったことにさえなり得る。

愚かな市民派

 野党共闘路線に執着する俗悪な市民派のインテリとして――専制主義の代名詞とも言える、スターリン主義の政党に肩入れするようなインテリや市民派とは、自らの本性や信念に背くような奇妙な、根性の歪んだ市民派というしかないのだが――、五十嵐仁法大名誉教授は、新しい野党共闘とその政府を美化し、正当化して、「重要なことは、共闘の機関車としての共産党がここに加わっていることだ。建物でいえば鉄筋コンクリート入り。共闘を追求するという点でも、市民との約束を守るという点でも、決してぶれない鉄筋です。草の根の共闘というしっかりした土台の上に、鉄筋入りの建物が立つ。民主党政権に問題があったとすれば、その教訓も踏まえて、市民と野党の共闘が発展している。民主党政権そのものとは全く違う」などと、くだらない、低俗な屁理屈をこねている。

 天皇制を美化して止まない態度一つとっても、現在の腐敗堕落した――すでに、道徳的にもそうだが、何よりも政治的に――共産党が「鉄筋コンクリート」などとお世辞にも言えない存在であること、むしろ資本の支配と最後まで闘う意思も信念も失ってしまった、背骨のない軟体動物並みのくにゃくにゃの存在なのは周知のことである。「市民と野党の共闘」といった、訳の分からない、ほとんど実体のない、蜃気楼のようなものを持ちだしたところで、野党共闘がどんな未来への共通の展望も真実の理想も持たないこと、持ちえないことは、すでにこの直近の三回の国政選挙における、野党共闘路線のみじめな結果によっても全く明らかである。

 国・民や立・民を中核として成立する、かつての民主党政権のようなものに共産党が加われば、全く別のものになるといった、与太話を労働者・働く者は少しも信用できないし、信用しない。しかしむしろ反対ではないか、共産党が参加するからこそ、一層混乱した、支離滅裂で、分裂して行く政権になりかねないのではないのか、共産党が参加するだけ、余計に心配だと言うしかない、というのは、〝スターリン主義〟の尾ひれを、根深くいまだに付けている共産党ほどに独断的でセクト主義で、厄介な政党はないからである。

 1930年代、スペインの内乱の時代、スターリン主義の共産党が、ブルジョア勢力(ネグリン派)と協同して、どんなにえげつない悪事を、労働者・働く者とその真剣な闘いに対して働いたかを、市民派や他の野党が知らないのは少しも自慢にはならないのである。そして日本の共産党は今もって〝スターリン主義〟を根底から反省することも、本当に克服することもできない、世界でも珍しい党である。他の諸国では北朝鮮や中国などを除いては、スターリン主義と決別して、自ら共産党を解党したところが大部分だというのに、である。

 志位は、「野党は、それぞれ個性があってもいい。多様性があっていい。違いがあったっていいじゃないですか。違いがあっても、違いをお互いに認め合い、尊敬しあって、国民の切実な願いに即して一致点で協力する。『多様性の中の統一』こそが、一番の民主主義ではないでしょうか」などと俗物にふさわしいおしゃべりにふけった後、それでも野党の中に多くの対立点や矛盾点があったら難しい、それを何とか解決しなくはならないと次のように発言している。

 「(野党間に厳然として存在する)政治的不一致をどうするか。私たちは、例えば日米安保条約の破棄など、わが党の独自の政策を大いに訴えていきますが、それを共闘に持ち込むことはしません。政治的不一致点については、互いに留保・凍結しまして、一致点で合意を計るという原則が大切になってくると思います」。

 何という頭の中だけで考えた、独善の空論であることか、現実の、生きた闘いを無視した、空文句であることか。一方では、共産党独自の闘いを断固として貫徹する、他方では他の野党と合意した限りの闘いに、誠心誠意、独自の闘いを制約し、きり縮めても従事するというのである。

 そんな器用なことができるのは悪魔の手先か、自分の良心を捨て去って、他党派を口先で手玉に取って利用しつつ自らの野心を満足させる無節操な詐欺師や裏切り者しかやることができない、スターリン主義者にのみ可能な〝戦術〟、悪質下等な権謀術策のたぐいであろう。

 そして「一致点で合意を図る」というなら、それは資本の階級や、その搾取や権力と闘う上で、もっとも妥協的で、低い要求で「合意する」ということにならざるを得ない、というのは、共闘を重視し、最優先させるというなら、高い要求で一致するということは難しいからである、というより困難であるから、不可能だからである。高い要求では共に闘おうとしない党派は、共闘から抜けると主張するから、事実上脱落していくから、他の党派は、彼らを戦線内に引き留めておくために、その最も妥協的で、低い闘争目標に合わせるしかないからである。

 そもそも他の党派と同じ、共通の要求を掲げて、歩調を合わせて闘うと言いながら、共産党独自の要求を掲げ、独自の政治闘争を闘うと偉そうにいうが、それはどういう意味か、共同戦線の歩調や共同戦線では大切となる統一を乱すということか、一方で他の野党と一緒になって闘い、他方では共産党独自のより〝高度の〟、深刻な闘いをするというのか、そんなウルトラに〝器用な〟ことができるというのか。

 志位といったスターリン主義の政治家のお粗末な頭脳の中には、ドグマと、観念的で、現実には全く役に立たない有害な図式的な〝戦術〟と、天上界から降りてくる、チンプンカンプンの形而上学的な〝闘い〟――不可避的に、労働者・働く者の闘いを破壊し、失敗に終わらせる――しかないのである。

言葉だけ踊る観念論と〝主意主義〟の世界

 志位の方針なり、路線は現実と事実に立脚する、客観的な性格のものではなく、観念論と〝主意主義〟が猛威を振るう、政治の世界――とりわけ労働者・働く者の政治の世界――にとって、危険なものである。

 というのは、労働者・働く者が、従ってまた労働者党が、現実や事実に立脚しないで、主観や幻想や願望に基づいて闘う時には、ブルジョア支配階級と決して正しく闘うことはできず、必ず敗北するし、せざるを得ないからである。

 志位は野党共闘を謳うにつけて、常に「本気の共闘を」と叫んで来た。 

 今回、野党共闘政権を呼びかけるに当たっても、客観的、主体的にも安倍政権に代わる「野党もしくは国民連合政権が成立し得る条件」は十分に成熟している、必要なことは、野党が〝力強い〟政権構想を示すことだけである、「私たちの『本気度』を国民に伝え、これまで棄権してきた多くの有権者もを含めて、『政治は変えられる』という『希望』を伝え、政治情勢の大きな変化を作り出すことができる」などと、何の説得力もないような、つまらない独断的な論理を振りまいている。「野党連合政権の土台は、すでに存在している」(参院選でかちとられた13項目の政策合意がある)のだから、意思や〝真の〟決意さえあれば、野党連合政権への道を切り開くことは「可能だと確信している」などとも強がりを並べるだけである。

 言葉が躍れば踊るほど、真剣な政治的闘いが後退し、疎かになるのは、あるいは真剣な、生きるか死ぬかという階級的な闘いが空疎になり、後退すればするほど、美辞麗句が出しゃばり出て、その隙間を埋めるのは――埋めるしかないのは――、ほとんど一つの法則であり、必然である。志位らの主観的で、主意的な言葉や美辞麗句は、共産党の政治の本質的なものを、それが本質的に空虚で、空っぽなものであることを暴露しているのだが、それはかつての急進派の演説が例外なくそうであったのと同様である。

   

【飛耳長目】

朝日新聞が「技能実習生」に最近行ったアンケート調査の一端(ベトナム青年200通の回答)が新聞に紹介されている(全文は朝日新聞withnewsに掲載予定)。一読して、心が凍り付くような内容だ★「技術の移転」を目的とした「技能実習生」の美名で、甘い幻想と虚偽情報で多くのアジアの青年を日本に呼び寄せ、奴隷同然の環境に追い詰め、低賃金で酷使している現状が語られている。「差別され、人間としての権利や尊厳を侵害された」、話が違って、「仕事や生活環境の劣悪さにショック」、日に12時間以上働き、社長は「日本人や他の外国人と話をすることを禁止している」、職種や働き方や、住むところを変える自由さえない、「日本人は私たちをチームの一員ではなく、単なる働く機械と見ている」、「私たちは勤勉で、まじめに働いているのに、日本人は私たちを安価な労働力としてしか見ていない」〔それは日本の労働者に対しても同じで、そんな関係が、外国人労働者には極端な形で表れているのだ〕★安倍政権のもと、弱い立場に追い込まれた人々に対する、非人間的で、残酷な扱いがいくらでも、普通のこと、何か当然なことであるかに行われ、とりわけ外国人に対して、日本がどんなに野蛮で、冷酷で、破廉恥な国家になっているかが、暴露されている★安倍政権を一掃する以外、日本を秋晴れのさわやかな空にする展望はない。(鵬)

   

【主張】

香港民衆の果敢な闘い
巨大な歴史的勝利勝ち取る

 米中の経済戦争はますます激化し、米中共に引くに引かれぬチキン戦争の様相を呈しており、すでに経済的利害といった問題を離れて、行きつくところまで行くしかないような危険な雰囲気になっている。

 米中の経済戦争はともかく、日韓の経済対立や、韓国の政治紛争などは枝葉の、どうでもいいようなつまらないものだが、香港の労働者・働く者や若者の闘いは、今や1989年の中国の天安門事件や、それに対する共産党権力による狂暴残酷な弾圧にも比し得る、歴史的に巨大な意義を持つ闘いの性格を帯びてきている。

 中国では毛沢東の農民共産主義実現を夢見る、時代錯誤の〝文化大革命〟――結局は中国共産党内の不毛で、野蛮な権力闘争に矮小化されたのだが――の終焉後、権力を握った〝実権派〟、〝走資派〟の鄧小平の下、〝経済自由化〟路線、つまり資本主義の上からの導入政策、扶植化政策が追求され、それとともに、政治的民主主義も定着し、確立するかと期待されたのだが、しかし徹底した〝民主化〟要求闘争――共産党の一党独裁」の廃止、一掃を要求する学生や労働者の1989年の大闘争――と、その闘いに対する、鄧小平による仮借ない武力弾圧によって、それを契機に、中国もまたソ連のスターリンの凶悪な専制独裁体制に勝るとも劣らない国家に転化していき、今やその頂点に習近平が立ち、スターリンにも勝る、専制体制と帝国主義政策に没頭している。

 習近平にとっては、今や香港はその専制体制を蝕む、危険な癌腫瘍のような存在である。経済的にはこれまで大きな経済的利益を中国に保証し、与えてきたが、今ではその政治体制は、共産党の独裁体制を脅かし、掘り崩す決定的な〝腫瘍〟に転化したからである。

 習近平は香港に残る、議会制度や自由な政治闘争を保障する体制を一掃しなくてはならない、というのは、そんなブルジョア民主主義の体制の実践的見本が中国の横腹にピタッと張り付いていて、人々が自由な生活を満喫し、謳歌しているのを許すことができないのである。そんな生きた見本が、本土のすぐ近くに存在していたら、それが、中国の全土に野火のように、たちまち広がるのを恐れなくてはならない、完全な理由がある、というのは、彼は本土の労働者・働く者がみな、共産党の独裁と専横をひどく憎んでいることをよく知っているからである。

 だから香港は今や、彼らは中国の何億の労働者・働く者にとっては希望の光である、その光が全国に広がるのを望まざるを得ないのであり、その勝利が第一歩であっても、希望と勇気の源となるのであり、自らの解放を――せめて香港並みの解放であっても――希求し、勇気と情熱を受け取るのである。

 習近平らは、香港の人々の勝利が、ほんの第一歩であっても、そして自分たちの後退がほんのわずかのものであっても、それが次のより大きな後退に、そして怒涛のような奔流につながるのを恐れるのである。彼らの一歩後退、わずかな過ちや気のゆるみ、些細な挫折が、次の挫折等々につながり、彼らの権力を堀りくずすという恐怖に取りつかれるのである。

 歴史においては、巨大なダムもモグラの一穴からもろくも崩れ去ることがありうると同様に、万能な権力も、一定の条件や勢いの中では、些細なきっかけでも、

アッというまに、破綻し、破滅する時もいくらでもあったし今後もあり得るのだ。

 だが世界の独裁者や専制的権力者の破滅と一掃は歴史的必然であり、避けられない歴史の前進であり、流れである。


【2面サブ】

幻想の3分の1の勝利
共産党衆院議員からさえ批判が

 野党共闘派や志位は、自分たちが参院選で3分の1を上回る議席を得たから、安倍政権の憲法改定発議を不可能にしたから勝利した、憲法改定策動を粉砕したと浮かれている。

 果たして浮かれていていいのだろうか、本当に野党共闘派は勝ったのだろうか。

 こうした参院選の結果や現実を見て、そんな結果に有頂天になって空騒ぎする志位らを見て、〝一枚岩〟――思想的、政治的な強固な意志一致と信念によって「一枚岩」ではないのだが――の、不毛の官僚主義が支配する共産党には珍しく、衆議院議員の宮本徹は落胆し、「何のために(野党は)力を合わせて『3分の2』を失わせたのか」と不満を述べている 。

 こうした発言は客観的に、野党共闘派、反与党議員が3分の1を超えたといっても、維新まで含めたような話なら虚像ではないのか、国・民の連中もまた憲法改定についての国会の議論に応じると安倍に媚び、その軍門に下るような方向さえ示し始めている、3分の1以上の議席といっても、中が空っぽの表面だけの勝利ではないのか、張子の虎ではないか、野党共闘勢力とは一体何なのかという、深刻な告発である。

 共産党内にも、志位路線に対する批判的な意識がようやく芽生え、共産党の自壊が始まった、最初の兆候であろうか。

 志位の事実から目をそらさせる空疎な誉め言葉にもかかわらず、野党共闘派はまるで一枚岩のような強固な絆で結ばれているといったものではなく、本当は、共産党や国・民の関係は犬猿の仲といった方がはるかに正しく、元民進党の仲間で、友党であってしかるべき立・民と国・民の関係も、愛情の冷めた夫婦のように、素っ気ない、あるいは損得づくの形だけのものである。 そして実際に、国・民はその〝保守志向〟の本性からして、最近の国会の中でも「対決より解決」を謳い、安倍政権に接近し、安倍と妥協や馴れ合いに走り、憲法改定でも一概に反対ではない、憲法改定議論にも加わると宣言して安倍をいたく喜ばしている。今後も、17年の衆院選のときと同様に、再び、三度、「裏切らない」という保証もないような、信頼に値しない、半ブルジョア的政党である。

 3分の1を勝ち取ったから勝利云々は、一つの虚構であり幻想に過ぎない。