|
●1362号 2019年10月6日 【一面トップ】安倍の消費増税「転用」――5%消費増税は〝みなし〟制度 【コラム】飛耳長目 【二面〈主張〉】消費税と野党――現状では共闘は絶望的 【二面トップ】安倍政権と我が労働者党――正しかったのはどちらか ※『海つばめ』PDF版見本 【1面トップ】 安倍の消費増税「転用」 読者の皆さんも周知のように、12年の三党(政権の座にあった民主党と自公)の合意による5%の消費増税は、その5分の1が社会保障の「充実」のために、5分4が財政再建のために支出されると確認されてきた。しかし今では政権も国家機関(財務省などの官僚ら)も、一方で、消費増税分のカネは「すべて社会保障のために支出される」などといい、他方では、財政再建のためにも資すると称しつつ、全額をバラまきに「転用」しようとしている。 完全に変質した三党合意 しかしいかにして5%の消費増税分の14兆円という巨額のカネが、社会保障のためと、財政再建のためという2つの使途に別々に支出され得るのか、そんなことは絶対に不可能なことではないのか。 14兆円のカネがあって、それが2つの使途に分けられて支出されるのではなく、社会保障のために支出されるカネは、確かに現実に予算にも計上され、支出されているが、他方、財政再建の方のカネは、借金の返済のために直接に支出されるのではなく、国債の増発によって(借金を増やすことによって)社会保障に支出する代わりに、借金をしないですますという形で処理されているにすぎない。借金を減らすというが、現実に減らすのではなく、計算上つまり〝帳簿上〟減らすというだけである。換言すれば、〝見なし〟借金を償却するという、そんな意味で借金を減らすというにすぎない。 不可解でごまかしのカラクリ 14兆円の消費増税の5分の1の2・8兆円は確かに社会保障のために支出されるだろうが、残りの財政再建のための11・2兆円は直接に、直ちに国の借金ために支出されることはなく、国家の手にリザーブされるにすぎない、というのは、現在の国の借金にファイナンスされるのではなく、今後のあり得る国家債務にファイナンスするカネだからである。 それは、現実の借金を減らすためのものではなく、今後に増えて行く借金のために、それにファイナンスするために存在するカネ、今後あり得る財政赤字をカバーするためという、奇妙な性格の〝財源〟である。実際に支出されるのでなく、単に支出され得ると想定され、「見なさ」れる財源である。 つまり現実に発行される国債(借金)を減らすと見なして、帳簿上で〝処理〟されるだけであって、そのカネが現実に国債の償却のために(借金を減らすために)支出されるということとは区別されて、単に増えるべき借金を増やさないという、〝見做し〟の関係なのである。国家の借りる借金を増やさないための、重要な財源だというのである。 おかしなカラクリではないのか。財政再建のためであるというなら、それはまず現実に借金を減らすために〝現ナマで〟支払われ、国債の償却に支出されるべきではないのか。 そして、社会保障のために、消費増税にもかかわらず、さらに新しい財政負担が必要だというなら、それは別の増税なり、支出の縮小なりで考えるべきであって、三党合意による5%の消費増税やその「転用」とは別の問題ではないのか。 例えば、安倍政権と財務省は、基礎年金の国家負担を3分の1から2分の1に引き上げるために年々3・2兆ものカネを、すでに国民に隠れてこそこそと流用してきたが、厳密にいえばそれもまた三党合意違反ではないのか。 つまり5%の消費増税のうち、5分の1の2・8兆円は確かに社会保障のために支出されなくてはならないが、残りの5分の4の11・2兆円は、財政再建のためという形式的な建前だけの縛り――社会保障のための財政支出が増えて行くなら、それをカバーする――があるだけであって、その縛りをクリアするなら、どんな支出にでも「転用」できるような、権力者にとっては極めて使途自由で、好都合な財源でしかないのである。 そして安倍はまさにそれゆえに、いとも簡単に消費増税の私物化と「使途変更」を行うことができるのであり、また実際に、安倍の恣意的で、場当たりの政策のために「転用」するのである。 もちろんそれは軍備拡張のためでも、公共事業のためでも何でも構わないのだが、狡猾な安倍はそんな政策への「転用」ではなく、社会保障のためであるかに偽り、カモフラージュして、〝全世代型社会保障〟のため、つまり教育無償化とりわけ乳幼児教育無償化等々のためであるかに言いふらすのだが、実際には選挙や目先の景気悪化や支持率等々を気にしての、体裁のいいバラまきでしかない。もちろんそんなものは、財政危機を軽減し、回避するどころか、むしろ反対に、財政危機を一層深め、財政崩壊を不可避にするしかないだろう。 奇妙な朝日新聞の立場、政策 朝日新聞の政治もしくは主張はおかしなもの、一貫しないものである。 朝日新聞などリベラル系のマスコミが09年の民主党政権の誕生に大きな役割を果たしたことはすでに周知の事実である。 彼らは当時、今はとにかく自民党の政権を止めさせることが大切だと、政治的立場や政策などどうでもいい、政権交代こそが総選挙の課題だと大々的なキャンペーンを展開した。政権を握っても何をしたらいいのか、すべきかについて、政権を担うことの重要性の自覚も認識も決意も、また政権交代して実行する諸〝政策〟も、要するに何も明らかにしなかったような民主党を担いで大騒ぎし、はしゃいだマスコミ、そして12年の三党合意による5%の消費増税を心から歓迎し、支持した朝日新聞等々のマスコミは、今では消費増税に反対する立・民や国・民に対する支持を変えないばかりか、野党共闘の旗振り役を果たしている。 おかしくはないのか。朝日新聞は消費増税にあくまで賛成なら、また消費増税が財政再建に大いに貢献すると評価するなら、つまり安倍政権の政策に限りなく接近するなら、消費増税が労働者・働く者の生活を圧迫し、経済不況が世界を襲おうとしているとき、日本経済を死に導くような消費増税に反対せよと主張する野党を、どうして支持したり、応援したりできるのか。 この点では、朝日新聞は安倍政権を励まし、消費増税に向かって自信をもって突き進めと激励さえするのである。 朝日新聞の言うところでは、安倍政権が十分にその意義を国民に労働者・働く者の説明しないから、消費増税への反対が強まるのだと、安倍に忠告するほどに消費増税サマサマの主張をするのである。 彼らに言わせると、消費増税の半ば、つまり14兆円の増税の半ばは社会保障のために、乳幼児教育無償化や所得の低い高齢者に月5千円、年6万の一時金交付などの「安心への投資」を謳うが、他方では、消費増税の半分が「国の借金を抑える目的」に使われることをほとんど語らない、それでは国民に、消費増税の意味と意義を納得させることはできないなどと安倍政権に助言するほどに、安倍政権に迎合し、追随し、接近している。 朝日新聞は、立・民や国・民が消費増税賛成から反対に転じた今もなお、消費増税とその必要性を強調しつつも、野党共闘派を応援している。根底から矛盾しているのではないのか。 そして消費増税が財政再建のために、つまり「国の借金を抑えるために」半分支出されることを評価するが、実際には3党合意では、その目的のために「半分」ではなく、80%支出されるべきと確認されたのだ。 安倍政権によって今ではわずか「半分」に縮小された――消費増税分が14兆円だったら、およそ3割の5兆円余のカネが全世代型社会保障とかのバラまきに、安倍政権のために浪費され、さらにその比重が高まろうとしているのである。 むしろそれの方が重要ではないのか、朝日新聞は安倍政権に反対して、なぜ立たないのか。 消費増税による財政再建を決定的に重視する朝日新聞にとっても、安倍政権の消費増税とその「転用」は許すべからざる政策であるはずなのに、朝日は消費増税の美化や、その「転用」にふける安倍政権の支持と応援を止めないのである。 朝日新聞は今やパニックに襲われ、社会保障の問題をとっても、財政危機の問題を取っても、「国民の負担増は避けられない」、消費税も20%に引き上げても足りないくらいだ、それなのに、安倍は今後10年間は消費増税はないと軽々しくいうが無責任だ、偽善だ、虚偽だと叫ぶしかできないのである。 アベノミクスの破綻が明らかになる中で、そしてその結果、経済成長や財政再建をアベノミクスの「成功」に賭けてきた安倍政権の経済政策の無力と虚妄性が暴露される中で、消費税増税派の雄、マスコミ・リベラルも自分たちの立ち位置に対する自信も信念も見失い、混乱と矛盾の中で沈没しつつある。 情けない立場、エリート階層特有の一つのブルジョア的立場であって、すでに朝日の政治的立場も破綻しているし、今後ますます破綻して行くしかないだろう。 バラまき政治の象徴 7年前の三党合意は、消費増税5%が乳幼児教育無償化や中高等教育の〝無償化〟(事実上の補助金)や、消費増税による景気後退を心配するバラまき(ポイント還元)等々で、完全に変質し、全く別のものになってしまった、あるいはなりつつある。5・6兆円の消費増税2%のカネがすべてバラまきに「転用」され、あるいはされつつある安倍政権の政治の現実とは恐るべきものであり、自制の限度が切れたというしかない。 安倍政権は政権維持のために、財政膨張によるバラまき政治に向けて突撃を開始したのである。 さらに何兆円にもなる、消費増税の金額を上回る「景気対策」の名による財政支出(借金による補正予算等々)は、財政膨張に拍車を掛けようとしている。 消費増税後の「景気対策」は1回限りであるかに言われるが、来年になって何兆円もの「景気対策」が切れれば、彼らの論理によれば今回の消費増税と同様に、「景気回復の足を引っ張る」のであって、景気後退の時代が訪れようとしているとき、安倍政権はバラまき政策を打ち切ることができず、さらにそれを継続し、拡大して行くしかない。 安倍政権はすでに17衆院選で消費増税の「転用」を謳い、実行に移してきた。その結果、消費税の社会保障支出は2割ではなく5割にも高まって、財政再建に振り向けることが無視されたが、参院選をへて、まさに消費増税――国民の血税――の全額が〝社会保障〟(全世代型社会保障)の名によるバラまき政策に「転用」され、餌食にされている。 安倍政権は財政まで私物化し、際限のない財政膨張という国家財政瓦解、国民経済の解体、労働者・働く者の生活破壊の道に足を踏み入れ、暴走を開始するのである。 【飛耳長目】 ★電力業界の驚くべき腐敗が暴露された。関電の役員20人が原発が立地する町の助役から計3億2千万という巨額の賄賂じみた金品を受け取っていたことが暴露された★東電の原発事故と内的に関連している。両者ともに原発の安全神話の上に乗っかり、片方は原発事故を呼び込み、他方は、利権や特権や権力の上に胡坐を組み、傲慢、うぬぼれ、無神経や自己満足の中で腐敗を深めてきた★根底にあるのは大資本の利益であり、巨大な権力である。資本の体制の頽廃と腐朽と寄生化である。我々は原発の事故の責任は大資本の体制にあり、まずそのことを明確にすることが重要だと訴え、核エネルギーそのものを問題にするプチブル世論と一線を画してきたが――プチブルたちは今や無力な立場に後退し、電力資本の責任について一切語ろうとしていない、問題はそんなところにないとばかりに、現実的な関心を失って、抽象的な世界に引きこもっている――、今や我々の観点から問題を論じ、接近しなければ、原発問題の解決さえ一歩も進まないことが明らかになった★電力大資本の責任を問い、彼らに厳罰を科すること、彼らの責任をまず明らかにすることから、再出発しなくてはならない、さもなければ〝原発の責任問題〟は永遠に解決されることはないだろうし、日本のエネルギー問題も、未来に向けて一歩も踏み出すことはできないであろう。(鵬) 【主張】 消費税と野党 今や消費増税は、野党が言うのとは違った意味で、安倍政権にとって、その支持率を急落させる最大の弱点、鬼門になりつつある。 消費増税は単に働く者の負担増だけでなく、その煩雑さ、複雑さ、混乱ゆえに国民全体をうんざりさせ、憎まれてさえいる。消費増税の人気を高め、働く者が受け入れやすくするためにと考えて導入し、強調してきた、その使途変更(全世代型社会保障政策)さえ、その恩恵を一番受けると予想し、支持の広がりを期待した、当の若い〝現役世代〟からさえ反発されている。 他方、野党共闘派は何をとち狂ったか、消費税減税で野党共闘を実現し、安倍政権と対抗すると意気まいている。4年前の安保法制の〝撤廃〟で、野党共闘政府を勝ち取ろうと謳うのと同じ政治オンチそのものだ。 共産党とれいわは、野党共闘の最低条件として消費税5%への引き下げ要求を持ち出し、最終的に消費税撤廃を目指すという。 立・民や国・民はせいぜい8%の消費税(2%の消費増税は凍結、つまり現状維持)で歩調を合わせようとしており、他方、「社会保障を立て直す国民会議」を率いる野田は、7年前の消費増税を領導した誇りや沽券からしても、消費増税は当然で、譲ることはできないという。つまり「船頭多くして船山に登る」の例え通り、どんな政綱で野党共闘が組めるのか、共闘自身どこに行きつくか、17年総選挙の時のように敵前で空中分解するのかさえ不分明である。 そして共産党もれいわも、消費税をなくして社会保障の財源をどうするかという、最大の問題に真剣に答えていない。れいわは無責任に、考えもなく国債をいくらでも発行すればいいとわめくだけで、単なる皮相浅薄な人気取り政党、あぶくのようなポピュリズム政党に過ぎないし、共産党は〝責任政党〟を気取って、政権をとりさえすれば、財源はいくらでもあると〝詳しい〟机上の計算にふけるのだが、7年前の民主党政権と同じようなものである。民主党は政権を握ればバラまき財源16兆円くらいは、すぐ見つけるとうそぶいて政権を握って、2回もの「必殺仕分け」を行い、3兆円の無駄遣いを摘発、子育て支援等々の財源にすると張り切って派手な〝財源探し〟の茶番を演じたが、結局わずか7、8千億を探し出すことしかできなかった。 こうした歴史的経験を共産党はどう総括し、反省するのか。民主党政権にはできなかったが野党共闘政権なら可能だというのか。しかし謳われている野党共闘政府といっても、主力は民主党の〝後継政党〟ばかりではないのか。 それに共産党自身、今では5兆円を超えて膨張して来た「防衛費」を削って財源にするという主張さえ、安倍政権に遠慮してか引っ込めてしまった。最も大きい、削除すべき財源――共産党の立場からして――を除外して、どんな財源探しか。 野党共闘派は消費増税反対だとか、消費税を引き下げよ、全廃せよと景気よくいうのだが――いうだけなら、誰にでもできる――、本当に実行する保障や決意があるのか。〝本気の〟野党共闘などと盛んにいうが、まず公約を実行する〝本気の〟意思があるのか。 N国党とか、れいわとか、半デマ・ポピュリズム政党、無道徳の反動政党が票を集めたが、アッというまに化けの皮がはがれてしまった。与党の公明や、既成野党の半デマ・ポピュリズム政党は票さえ大きく減らした。 そんな政党ばかりをのさばらせておいていいのか、安倍政権がこれから数年間も続くことになったら、それこそ真実、日本の不幸や悲劇の出発点とならないのか。今こそ安倍政権の打倒を目指す、闘う労働者の団結と決起が必要ではないのか。 【2面トップ】 安倍政権と我が労働者党 10月から鳴り物入りの大騒ぎとともに、乳幼児教育無償化の政策が消費増税のうちの8000億もの巨額のカネ――その種のカネは総額では何と2兆円にもなる――を注入して開始された。ご丁寧にも安倍が議長に収まって、「全世代型社会保障検討会議」も発足した。無償化政策は、結局は内容空疎なバラまき政治でしかなく、社会保障の「充実」や財政再建にもほとんど役立つことなく、むしろそれを空文句に変え、さらには逆行にさえ行き付くものでしかない、つまり典型的な悪政である。 子育て世代でさえ反対 朝日新聞は10月から乳幼児教育無償化が始まるのに対応して、その政策に賛成か反対かのアンケートを実施し、その結果を発表した(9月29日の紙上)。 得られた数字は余に明らかであって、反対(28%)、どちらかといえば反対(35%)、他方、賛成(18%)、どちらかといえば賛成(19%)、つまり反対63%、賛成37%で、ほとんどダブルスコアで圧倒的に「反対」が多かった。 これはまさに衝撃的な結果ではないだろうか。というのは言ってみれば、参院選で闘われた安倍政権の主張や政策より、我が労働者党の主張や政策の方が圧倒的に支持されたということだからである。 我々は参院選直前の6月、紙上で、明確に安倍の消費増税の「転用」――乳幼児教育無償化等々、つまり全世代型社会保障政策――に反対し、それは「結局は安倍政権と自民党のためのバラまきに帰着する」として次のように論じた。 「現役の若い夫婦や女性労働者にとって緊急に、どうしても必要なものは、乳幼児教育無償化といったバラまきではなく、何よりも安心して働くことのできる職場や賃金や保育所等々である。彼らの求めているのは、安倍政権によるバラまきのお恵みではなく、彼らが自分の生活と社会のために働くことのできる条件の確保であり、政府がそれを助け、保障することである」(我々の「参院選勝利のための小パンフ④」参照) 丁度10年前、民主党と自民党が政権をめぐって争い、その時は「子育て支援」というバラまきを掲げた民主党が勝ち、教育無償化を謳って張り合った自民党が負けたが、その当時から我々は両者(2大愚政党)のバラまき政治を暴露し、そんなカネがあるなら、まず保育の充実等々から始めるべきと強調したが(前掲小パンフ)、それから10年たった今、誰が正しかったか、労働者・働く者の要求と利益に沿って闘ってきたかが最終的に明らかになったのである。 働く人々は何と語ったか 我々の主張はいま読んでみても堂々たるものであったが、それでは参院選のあと、男女の労働者たちは、アンケートにどんな風に答えているのだろうか。いくつか朝日新聞から拾ってみよう。 「(保育施設、足りない状況何とかして)現在育休中で下の子の保活に追われる日々です。認可保育園は増えているようですが区役所からはかなり難しいといわれ、認可外に当たっても認可外との併願は禁止としているところばかり。認可外への申し込みは説明会への参加が必須とされていますが、説明会への参加自体キャンセル待ち180番目と案内されるなど、そもそも頑張り様がない状態です」 「(3才からでは遅い)働きに出たくとも保育料も高いし、保育園に入れなくて働けないお母さんたちがとても多い。待機児童を解消し、1才からにすべき」 「無償化で園への支払額が値上がりしました(私立保育園を富ませているだけではないのか)。無償化とは何だったのでしょうか? 今回のやり方はごく一部しか得をしないひどいやり方でした」(いずれも30代女性) 「保育士の資格は持っていますが、保育士として働いていません。『保育士の賃金アップを優先すべき』に尽きると思います。保育士による虐待や暴力のニュースが相次ぎましたが、低賃金なのに親の要望が多くてストレス過多なので、言い方は悪いんですが、分からなくもありません」(40代女性) 保育世代のこうした怒りの声を、安倍政権は、野党共闘派のろくでもない諸政党は、どう受け取るのか。 安倍政権の政治を支持し、歓迎する女性は、「無償化で浮いたお金は、子どものために貯金したい」(30代女性)、「これまで中間所得層以上への支援策が乏しいと感じてきました。所得で限らず、全員を対象とした無償化には賛成」(30代公務員女性)等々、訳の分からない、能天気なことを語っている。 乳幼児教育無償化で最も恩恵を受ける〝高所得の〟階層では、乳幼児教育無償化で浮いたカネで、子どもたちの〝早期教育〟やピアノやスイミングに行かせられる等々と浮かれている人々も多いと聞くが、気楽なものである。単に悪名高い〝格差〟が広がるだけではないのか。 何のための乳幼児教育無償化か 安倍は乳幼児教育無償化の概念すら明確化していないし、ましてその意義さえはっきり語ることができていない。 そもそも「乳幼児教育」などという観念はナンセンスである、幼児教育はさておくとして――学齢年齢を何才からにするのか、6才を引き下げて5才にするのかという議論はあり得るとしても――「乳児教育」といったものは乳児の概念からしてないし、あり得ない。というのは、乳児にとって必要なものは基本的に〝保育〟であり、せいぜい人間としてのごく初期の生活を送るための身近な慣習といったもの、しつけという概念で表されるようなものにすぎないからである。 教育無償化を語る場合も、それはせいぜい3~5才児についてであって、〝幼稚園児〟を意識して語られるにすぎない。例えば、乳幼児教育無償化についても、「幼児教育無償化の恩恵を受けるのが主に高所得者である」といった具合に、である。つまり乳幼児教育無償化が仮にあり得るとしても、3~5才児の無償化である。 最近ブルジョアたちは、乳幼児教育について、〝質の高い〟幼児教育の意義について知ったかぶりをして盛んに論じ、無知蒙昧の代名詞のような安倍政権はリフレ派のヤクザ経済学を悪用したように、いままた、〝ノーベル賞学者〟を売り物にするしか能のないアメリカのシカゴ大のベックマンの妄説、「社会的情緒能力もしくは非認知能力」(要するに、役に立つ知識や知性や理性よりも、道徳心や徳性といったもの)を発達させ、育てて――特に貧困層の――、将来を豊かにする云々のたわ言のたぐい(前掲小パンフ参照)を信奉するのである。 もし「乳幼児教育」やその無償化云々が、そして政策というより、妄説やたわ言に基づく、乳幼児教育無償化といったものが、選挙や、場当たりの安倍のためのバラまきに、公金の私物化と無駄遣い堕すのはけだし必然である。 安倍は、アベノミクスや全世代型社会保障の観念や政策が、結果として経済成長やデフレ脱却や財政再建や労働者・働く者のためのものである、直接には違うかもしれないが、巡り巡ってそうなると強調し、バラまき政策に邁進してきた。 〝異次元の〟金融緩和で円安を実現すれば、輸出大企業の業績は好転し、利潤は増え、株価も高騰する、そしてその恩恵は巡り巡って、経済の他の部分にも〝滴り落ち、及んでいき〟、結局財政再建も達成され、社会保障の困難も乗り越えられ、労働者・働く者の所得や消費も増える、「経済の好循環」が達成されるといった、「風が吹けば桶屋がもうかる」式の詭弁的な楽観論を振りまいて、国民全体をごまかし、偽りの幻想で釣り、篭絡してきた。 実際には安倍政権の7年間をとっても、財政再建も社会保障もほんのわずかでも好転することなく、ますます悪化してきたのである。 全世代型社会保障や乳幼児教育無償化についても、同じような詭弁的な楽観論が振りまかれて来たし、今も同様である。 彼らの詭弁によると、乳幼児教育無償化のカネを子育て世帯全体に派手にバラまくと、何と少子高齢化社会など何のその、たちまち女性はどんどん子供を産むようになり――何しろ、少子化の最大の原因は、子どもを産む余裕がないという子育て世代の経済状態だから、とにかく彼らにカネをバラまけばいいと、安倍は軽率に、短絡的に判断したのである――、少子高齢化の社会は乗り越えられ、克服され、現役世代も急速に増えて、社会保障の「充実」や財政再建など簡単になされるというのである。 しかし安倍の思惑などにかかわりなく、またアベノミクスの7年もの実行にも拘わらず、デフレ脱却のみならず少子高齢化の社会からの脱出妄想もかなわず、日本社会の高齢化と少子化は一つの必然性として自己を貫徹し、女性一人が産む子供の数は安倍政権の下、低落しつつある。アベノミクスや安倍妄想の破綻の、生きた証拠である。 乳幼児の「保育」にせよ、「教育」にせよ(あるいは教育一般にせよ)、それらが〝社会保障の問題〟でないのは余に明らかである。例えば〝義務教育〟は〝国民教育〟の問題であって、国民(より一般的にいうなら、共同体の成員)を、共同体の、社会のより良き構成員として育て、導き、成長させるところにあるのであって、そうした活動や実践が社会保障の問題でないのは自明である。 保育の問題にしても、当初は貧しく、子供の養育さえ困難な家庭と子供のためのもの、つまり社会保障という契機が仮にあったとしても、現在では働く夫婦の、あるいは母子家庭の母親が働いて自分らと家族を養うのを助けるものとして、その機能が、社会的な役割と位置づけられてきているのであって、そんな「保育」や「教育」について、どんなまともな概念もなく社会保障と考え、見なすこと自体、安倍の愚昧と無能を暴露するのである。 |