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労働の解放をめざす労働者党機関紙『海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1363号 2019年10月21日
【一面トップ】我が党は不死鳥の如く――勝利目指しリベンジを決議
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】共産党とはどんな党か――概念規定とレッテルの違い

※『海つばめ』PDF版見本

【1面トップ】

我が党は不死鳥の如く
勝利目指しリベンジを決議

 10月初旬、14名の全国の支部から選出された代議員を結集して開催された労働者党第5回大会は、13名の賛成、保留1という圧倒的な多数をもって、今後も労働者党の原則的な政治闘争を貫徹し、党を再建、強化、拡大して国政選挙闘争に再び参加し、22年の参院選までに、我々の、そして労働者の大きな希望であり、未来でもある国会議員(団)を勝ち取るという方針を決定した。昨年の春、19参院選参加を決定した大会が、参加者のわずか過半数を1名超えるような、薄氷の採択であったことを振り返ると、ほぼ全員一致の固い決意と覚悟の決定となったことは、まさに隔世の感がある。我々は19参院選を闘うことによって、さらに強くなり、団結をうち固め、再挑戦する苦難の道を選んだのである。我々は満を持して参加した19参院選では、自ら目指した勝利の課題――腐敗した議会や議員のごみ溜めの中に、労働者の代表を、闘う戦士を送り込む――からすれば、確かに「敗北」したが、しかし唯一、安倍政権に正面から対決し、偽りの労働者の味方を装う野党共闘派を暴露し、断固として闘い抜いた党として、誇りをもって我々の闘いは原則的であり、正しく、決定的に重要であったと総括し、さらなる闘いに挑むことは必要であり、不可欠であること、我々が闘いを止めたら、労働者に対する裏切りでさえあることを確認し、再挑戦を決定したのである。

安倍の「一派独裁」との闘い

 安倍は「全世代型社会保障」というこけおどしのスローガンを高々と掲げ、自らを議長とする「全世代型社会保障検討会議」をでっち上げ、意気揚々と「令和時代の新しい社会保障制度を大胆に構想する」と見栄を張り、何事かをやっていると派手に見せびらかすために、盛んに乳幼児教育無償化のあれこれのバラまき政策にせっせと励んでいる。

 我々は、安倍の表看板であり、最重要視した政治路線――全世代型社会保障の幻想、つまり消費増税の使い途の「転用」と、乳幼児教育無償化等々への流用という政策――に対して、正面から対決し、そんな間違った政策に反対し、粉砕して、安倍政権の打倒に道を開くという戦略の下、一貫して闘った唯一の政党であった。

 実際安倍政権の参院選の看板政策、というより策動は、卑しく、また有害で、反動的なものであった。

 そもそも民主党政権下の2012年の3党合意による5%の消費増税(おおよそ年々14兆円にもなる、労働者への追加重税)は、その80%(11・2兆円)が、破綻し、恐るべき結果を、国家財政の破産や国民経済の崩壊や国民生活の破壊をもたらしかねない国家破綻を回避すべく、財政再建のために、そしてその20%(2・8兆円)が膨張する社会保障――少子高齢化の中で、破綻の時代を迎えようとしている医療、介護、年金――の財源(国家補填のカネ)を捻出して行くために、そのためにのみ、使われるべきであると明確に決められたのであった。

 当時の民主党政権の消費増税に賛同した自公は、〝野党共闘〟ならぬ〝与野党共同〟で消費増税を成し遂げ、有卦(うけ)に入ったのである。

 三党による5%もの大幅な消費増税もまた、労働者を裏切り続けてきた民主党政権の、最後の裏切り、置き土産であった、というのは、こんな政治ばかり3年間もやっていた民主党は、その直後に崩壊して、安倍自民党に政権を奪われたからである。自業自得というしかない。

 そして5%の消費増税のうち、3%は14年に、残りの2%は15年にと、国民生活への影響を緩和するために2回に分けて行われると決められた。

 そして民主党政権の後を受けて、消費増税を実行に移した安倍政権は、2014年、最初の消費増税3%分、つまり8・4兆円の消費増税を実行したが、その結果かどうかは分からないが、安倍政権にいわせると、「経産省の役人に『大丈夫と言われて』消費増税をしたが、結果として『アベノミクスの腰を折られ』、アベノミクスの効果が表れるのを妨げられた」とぼやくような、経済の停滞や衰退が続き、さらに深化する時代を迎えてしまった。

 もちろんたまたま訪れた経済の不振や渋滞が、消費増税のためであるといった証拠はどこにもなかったのであり、そんな偽りの〝因果関係〟をやかましく言いはやしたのは、アベノミクスのありもしない〝効果〟を大げさに言いはやさなくてはならなかった、リフレ派学者や安倍政権そのものであったのだが。

 しかし安倍は15年、消費増税による消費の冷え込みや〝需要〟縮小による不況の再来や経済の停滞を極度に恐れ、「リーマン・ショック並みの」経済危機が迫っているといった、見え透いた虚偽の口実を持ちだして増税を延期し、またさらにもう一度、19年にまで延期することも辞さなかった。

 しかし悪党の安倍は、17衆院選では、すでに化けの皮がはがれて、薹(とう)の立ってきたアベノミクスに代わる、新たな〝社会改革〟の観念、「全世代型社会保障」といった、珍奇な、新しい策動を思い立ったのである。〝国難〟――と安倍は言いはやしたが――として現れてきた少子高齢化や、国家的衰退や、財政崩解や社会保障の危機に対処するべく、国民を幻惑する新政策、乳幼児教育無償化などの目くらまし政策を持ち出し、悩みの種の消費増税も実行して、そのための財源として「転用」し、バラまき政治も拡大し、「禍(わざわい)転じて福となす」といった策動を思い立ったというわけである。

 この新しい安倍の〝経済政策〟は、基本的に、限界と破綻が明らかになってきたアベノミクス、つまり〝異次元の〟金融緩和政策に代わる、無責任で、危険な野放図の、つまり自民党の得意とする、十八番(おはこ)の伝統的な政策、財政膨張政策(国債発行に、つまり借金に依存する、無政府主義的で、無責任な膨張政策、財政崩壊や国家経済の崩壊、労働者の生活破壊に行きつくしかない膨張政治)に移っていく――後退して行く――きっかけ、突破口になり、安倍政権の新しい国民瞞着、国民総愚民化による政権の延命を保障する確かな方途となるはずのものであった。

 我々はすでに、労働者党を再建し、直ちに参加した17衆院選の時から、安倍のこの新手の政策に反対し、そんなものは労働者にとって有害である単なる思い付きのようなものであって、そんな新しいバラまき策動に反対し、粉砕するための闘いを呼びかけたが、そんな我々の闘いは偶然のものではなく、09年の民主党政権の時から顕著になってきた、卑しい半デマ・ポピュリズム政治の横溢する風潮に対する――その延長線上には、まちがいなく、ファシズム世界が大口を開けて待ち伏せている――、断固たる闘いを開始したのであり、我々の19参院選闘争は、直接にその延長戦として、一層深化させられて闘われたのであった。

 今では乳幼児教育無償化政策等々は、安倍政権の延命のため、選挙や当面の支持率のためにのみ、単なるバラまきということだけに持ち出されたものであって、労働者のためでも、少子高齢化という〝国難〟と闘うためでも、経済成長や財政再建のためでもないことがすっかり明らかになっている、というのは、そんな偽りの政策は、その反対の結果しかもたらさないことが暴露されてきてしまったからである。

 少子高齢化という〝国難〟と闘うというのだが、少子化を逆転させる結果には全くなっていないだけでなく、少子化は安倍政権7年間の後半になればなるほど、その傾向はますます進行しており、合計特殊出生率は1・42という最低水準にまで下がってきている。

 人口の高齢化に備える、といったことに全世代型社会保障が貢献しているなどということもあり得ない、というのは、そもそも安倍政権は最初から「シルバー民主主義」なる観念を持ち出し、今の社会では高齢者ばかりが優遇されていると、高齢者を侮辱し、辱め、軽視するように〝失礼な〟暴言を繰り返し、高齢者の社会保障を後退させるようなことばかりしてきたし、今もしているからである。

 高齢化社会で、医療や介護の費用が増えて行くのは当然であり、必然であって、今の世界は「シルバー民主主義」だ(高齢者をいつくしみ、敬い、大切にする社会はおかしいというのか)、そんな社会から〝全世代に〟社会保障を敷衍する社会に〝変革〟すべきだといった理屈を並べるのだが、また何という粗暴にして、野蛮な観念、「社会の余計者、邪魔者は消せ」といった、野蛮なファシズムに無限に接近して行くような観念ではなかったか。

 そもそも、乳幼児教育無償化といった政策が、なぜ、いかにして〝社会保障〟なのか。

 こうした政策は、働く労働者世帯や母子家庭が自らと後に続く世代――乳幼児等々――のために自ら働き、また一部は社会のために働く(例えば、税金を払う等々)ためであって、社会によって救済されるためではない、つまり本質的に社会保障の問題ではないし、あり得ない。労働者たちが、働く人々が自立した、社会の構成員として立派に生きて行く手助けをするためのものだから、社会保障とは別のものであって、労働支援に属するものである。

 実際、労働者が求めるのは国家や権力者による生活保障ではなく――自ら働き、自ら生活を成り立たせている、誇り高き労働者は、こじきでも、物乞いでもない、つまり被救恤民とは全く違った、社会的階級であり、階層である――、自らがまともに働くことのできる諸条件を、つまり生活するに必要な仕事や、十分な賃金や、健康に働き得る労働条件を手にすることにあって、安倍や政権の空人気や、目先の選挙のために、労働者の汗と膏(労働によって得たものという意味での汗やアブラ)の結晶であるカネを無駄に投げ与え、税金を浪費するところにあるのではない。

 安倍政権の乳幼児教育無償化政策がまともな労働者への支出ではなく、まさにバラまきであり、バラまき以上でないことを教える証拠や事実はいくらでもある。

 消費増税のうち、財政再建から「乳幼児教育無償化」という名のえせ社会保障に転用される8000億円のうち、0~2才の家庭の乳幼児のために支出されるカネはわずか1%である。

 3~5才の階層は、0~2才の階層の乳幼児――乳幼児を保育所に預けなくてはならない階層――に比べ、その必要性、切迫性がより小さい、比較的余裕のある家庭であり、しかも所得の大小を問わず費用を無償化するというのだから、より豊かな階層の方が利益が大きく、実際そうした世帯では乳幼児に浮いたカネで〝お稽古事〟とか、ピアノとか、水泳等々を習わせるというのだから、安倍政権の政策のバラまき的本性だけでなく、優れて階級的な性格もまた明らかである。

 0~2才までの世帯には、乳幼児教育無償化は所得の低い階層にのみ無償化が適用されるのであって、いかにも貧しい世帯を重視しているように見えるが、しかしそれで何で8000億のわずか1%だけなのか、という疑問はすぐに解消される。何のことはない、これらの階層には、すでに〝既成の〟社会保障の措置が適用されていて、すでに保育料等々の減免措置が行き渡っているからである。

 さらにバラまきの本性をさらけ出すのが、あらゆる世代を対象とする私的教育資本に大きな儲けを保障するところにも、顕著に、決定的に暴露されている。

 すでに私的な乳幼児施設(資本)に子供を預けている保護者の多くから、資本から保育料、入園料の値上げを通告されているという告発がある。資本は乳幼児教育無償化で保護者負担が減る、だからその分を資本が徴収するというのである。おまけに給食費を別に請求する資本もあり、乳幼児〝教育〟無償化は利用者にとって、実際には乳幼児〝教育〟(保育)の費用増加や不都合さの拡大に行きついている場合さえ出ている。

 朝日新聞は名古屋の30代の女性による、私立幼稚園の〝便乗値上げ〟に対する告発を掲載している。

 「(園からの通告は)これまでの授業料をトータルで、6500円値上げするというものだったが、何に使うのかと園に聞いても応じてくれない。『無償化で保護者負担が大幅に減るから文句はないだろう』と言わんばかりだった。園には約170人が通っており、今回の値上げで、園は毎年1300万以上の増収になる計算だ。女性は『限られた財源が、本当に必要な事業に回らず、経営者の懐に入ってしまうような使い方は許されない』と憤る」。

 全国の私立幼稚園だけでも、8000園が連合会に加盟している。どれほどのカネを多くの私立幼稚園が〝便乗値上げ〟でかすめ取り、どれくらいの〝上納金〟が自民党に〝還流される〟のかは知る由もないが、こうした事実もまた、まさに安倍の消費増税の全世代型社会保障のための「転用」政策の腐敗を暴露している。

 安倍の消費増税転用の政策すなわち全世代型社会保障路線は、私的教育資本――大学生が急減する中で、経営が行き詰まり、破綻に瀕する〝高等教育〟(どんな〝高等教育〟であるやら)もいくらでいる――の救済政策でもあり、さらには私的〝教育〟資本が暴利をむさぼる、絶好の機会を提供したということであり、こうした資本からの自民党と安倍政権に対する〝献金〟(わいろ)もまたうなぎ上りに増えるという仕組みでもある。

 労働者世帯、片親世帯にとっての、緊急の要求は乳幼児教育無償化ではなく、それ以前に、保育施設等々の完備充実であるという、切実な声や要求が全国で澎湃として湧き上がっている現実こそ、安倍政権の消費増税の全世代型社会保障への「転用」が労働者のための政策ではなく、安倍政権の卑しい動機による、税金の私物化であり、浪費であるという真実を明らかにしていないのか。 

 しかも今なお乳幼児のために、したがってまた自らが働き、働き続けることを真剣に、必死で願い、優先して、質量ともに充実した保育施設を期待し、欲している、何万、何十万にも達するとみられる、全国の多くの労働者世帯や女性にとっては、安倍政権の政策はトンチンカンで、的外れで、怒りの対象でしかない。

労働者の非難や怒りの嵐

 安倍が政権の目玉商品として、政権の看板政策として押し進めている乳幼児教育無償化政策に対する、当事者や対象者、否、国民全体の批判や怒りは、今やマスコミ紙上を覆いつくしている感さえある。

 参院選後、消費増税とその「転用」政策が実行に移されるやいなや、その矛盾や虚妄性、その反動性や有害性が、安倍と安倍政権のための財政の私物化とバラまき政策であるというその本性が、たちまち明らかになってきたからである。

 我々が海つばめ(1362号、10月6日)で紹介し、その意義について触れた朝日新聞の9月末の「幼保無償化バラ色?」の記事は、そんなものの一つである。

 朝日新聞の「デジタル・アンケート」によれば、安倍の乳幼児教育無償化政策に対する反対は62・5%で、賛成の37・5%をはるかに上回ったことを明らかにし、同時に保育世代の多くの生の声を紹介している(9月29日朝日の特集記事もしくは海つばめ10月6日号参照)。

 朝日だけではない、毎日新聞も、「幼保無償化に不公平感」という記事を載せたが、その中で、切実に保育(施設)の充実を求めている、二人の女性の怒りを紹介している。

 「無償化は、保育ニーズの増加につながると指摘されている。今年の4月の待機児童数は約1万7000人以上に上り、『保育』に走り回る保護者らは複雑な思いを抱く。

 東京都江東区のある認可外施設は、3~5才児で無償化の上限を超える月2万3000円が保護者負担となる。長男(2)が認可保育所に入れず、この施設を利用する女性会社員(35)は不公平感を抱いている。来春には長女(4ヵ月)も保育施設に預けて復職するつもりだが、『今でさえ厳しい認可保育所への入所が絶望的になる』と憤る。

 さいたま市の女性会社員(30)は、長男(1才9ヵ月)が認可保育所に入れず、育児休業を延長した。しかし復職期限の12月が迫り、やむなく認可外施設の空きがある地域への転居を考えている。『保護者同士の競争が激しくなってしまう。待機児童をなくすための政策も同時に進めてほしい』と訴える」。

 彼女は「同時に」進めてほしいと控えめにいうが、本心は安倍政権の政策に対する不満や、その愚劣さや下劣さに対する怒りで心が煮えたぎっているのであろう。

 資本側とみなされる日経新聞にさえ、保育に苦労し、心身をすり減らす女性の憤怒の声が紹介されている。

 「東京都内に住む会社員の女性(35)は、1才半の子供の預け先が見つからない。今春、待機児童が比較的少ないと評判だった区に引っ越しまでしたが、申し込んだ7カ所の認可保育園全てで落選した。その後も1才児のクラスだけでも250人近くが申し込み、『待機順位は100番目と言われた』。『ズドンと奈落の底に突き落とされた。《女性活躍》と言いながら、こんなに行政が当てにならないなんて』

 復職の期限が迫り、転職も頭によぎるが、預け先がないと、それもできない。同時に始まる幼児教育・保育の無償化はとても遠いことのように感じられる」

 他の35才の自営業の女性も「『今まさに、入れなくて困っている人がいる。無償化よりも、保育園を作ることにお金をかけてほしい』と訴える」(9月7日)。

 これらの証言が明らかにすることは、安倍の全世代型社会保障の観念や、消費増税の使途変更による、乳幼児教育無償化の政策等々が労働者の多くによって支持されないばかりか、反発、不満、批判だけでなく、強い憎しみや怒りによってさえ迎えられているという事実であり、アベノミクスのみならず、全世代型社会保障という観念や、それに基づく政治や政策が今や、広汎な労働者から拒否されているという現実であり、安倍が消費増税を「転用」して増やす支出が、労働者にとって、間違った税金の使い方であり、浪費であって、安倍政権のために、否、安倍個人のために、税金が私物化され、私的に悪用されているという自覚が広がっているということである。

問題は野党であり、その闘いだった(略)

我々は不死鳥のように蘇る

 そんな現在の危機深める政治経済的情勢と状況の中で、我々は参院選に議席獲得を目的に、10名の候補を擁立して確認団体として参加したが、武運つたなく、目標獲得票の10%にも届かぬ得票で惨敗した。

 我々の闘いは、原則的であるとともに、優れて具体的な政治闘争として貫徹されたが、それは労働者階級の闘いは、そしてとりわけ政治闘争は抽象的で、啓蒙的で、〝理念的な〟ものであってはならず、根底において、具体的、現実的で、先鋭な階級的な闘争として闘われ、貫徹されなくてはならないという信念からであった。

 そうしたものとして我々の参院選の闘いは取り組まれ、闘われたのであったが、我々は参院選の闘いの焦点は、安倍が自らの最大の政治課題としてきた憲法改定でも、森友・加計事件に代表された政治腐敗でも、選挙前に大きな話題になった年金問題でもなく、衆院選から参院選に掛けて、「経済で争う」といって、安倍が正面に押し出してきた全世代型社会保障の観念と、その具体的な実践的な課題としての、消費増税を財源とする乳幼児教育無償化の看板政策に対する闘いとして、安倍政権との闘いを闘い抜いた。

 もちろん我々の闘いは得票に影響を及ぼすものとして浸透できなかったが、選挙後の、労働者の全世代型社会保障の観念や乳幼児教育無償化の政策に対する、拒絶反応の表面化は、我々の闘いが広汎な労働者の利害と要求に合致するもの、その意味では野党共闘派の闘いよりもはるかに正当であり、重要であったかを明らかにした。

 我々が安倍の半デマ・ポビュリズム政治に断固として、執拗に反対し、それを粉砕することを呼びけるのは、安倍の政治が続き、日本の隅々まで浸透し、勝利するなら、日本は戦前の天皇制軍国主義のファシズム国家が再現し、国民(や近隣諸国民)の奴隷化や、専制主義や独裁や戦争や、大なる悲劇や不幸や生活破壊や死さえ襲いかかる、地獄のような社会や時代――ブリューゲルの描いた「暗い絵」が示唆するような――がやってくると確信するからである。

 半デマ・ポビュリズム政治やそんな政治が流行する時代と社会の行く末は、労働者の闘いの敗北と、ファシズムの勝利であり、反対に、半デマ・ポビュリズム政治の打倒、つまり安倍政権の打倒と野党共闘派の粉砕の彼方にこそ、労働者の勝利と未来があるのである。

 議論の中で、代議員の多くは、全国で8万もの労働者が、他の野党ではなく、我々の訴えに反応し、支持して投票したのである、我々が闘いを止めたら、裏切られたと思い、絶望するだろうと語った。また選挙区や候補者による、有権者からの熱い支持や思いも紹介され、全体として党を維持し、強化してさらに引き続いて闘うべきという、代議員の全員の意思が明らかになって行った。

 我々の参院選は形としては完敗であったが、政治闘争の内容としては安倍政権を圧倒して勝ったのであり、そのことに誇りをもって確認する。そして我々の闘いはマルクス主義を思想的、実践的根拠とも基礎ともする、誇り高き労働者の党として、半デマ・ポビュリズム諸党と区別される、事実と真実を実践的な導きの糸として、正々堂々と闘う〝正規戦〟を安倍政権に挑むのであって、安倍政権と同様な、半デマ・ポピュリズム政治に迎合し、追随し、現(うつつ)を抜かすしか能のない、破廉恥な野党共闘派のゴミくず政党らと自らを〝区別する〟のである。

(全文は、労働者党ブログを参照してください。)

   

【飛耳長目】

★すでに三ヵ月にも及ぶ、香港の労働者や若者の粘り強い、果敢な闘いは、歴史的に巨大な意義と役割を獲得しつつある。直接には香港の民主的体制を防衛し、確かなものにする闘いだが、客観的には、ブルジョア大国に、また巨大で、膨張主義的な帝国主義国家に転化してきた中国共産党権力に対抗し、その支配を掘り崩す闘いとしての意義を持たざるを得ないからである★まさに獅子身中の虫で、中国共産党はこの虫を一ひねりで殺したいと熱望するのだが、しかし簡単に、国内の民主派やその闘いを野蛮に圧殺した天安門事件の二の舞とはいかない。とにもかくにも香港は「一国二制度」――半分は外国――という形で、〝高度の〟自主性をまだ確保しているからであり、軍隊を出し、民衆を野蛮に弾圧したら、中国もその有力な構成員であるグローバル世界で孤立してしまい、また困難な、台湾の〝平和的〟統合も台なしにしかねない。香港の民衆の闘いや、また台湾国民の〝独立〟を目指し、中国の体制と専制政治や帝国主義を拒否する闘いは、18~19世紀にかけて、ツアーリズムの敗北と解体につながった、欧州の民主化闘争や労働者の社会主義運動にも似た歴史的役割を果たすことができるだろう★日本の、そして世界の働く者は、こうした展望と期待をもって、香港の〝民衆〟の闘いに期待し、その将来に幸あれと願い、支持と連帯を宣言する。(鵬)

   

【主張】

共産党とはどんな党か
概念規定とレッテルの違い

 海つばめが、野党、その中でもとりわけ共産党の政治的立場を批判して、「観念的、スターリン主義的、形而上学的」という言葉を用いたため、難しい言葉であって〝普通の〟働く者に理解される言葉ではない、誰を対象にして文章を書いているのか、働く者の中に浸透し、彼らを組織して行くという意欲や意思があるのかと疑われる、党の〝路線〟が根本から間違っている、という批判を、参院選総括の議論の中で受けた。

 批判者はたまたま見かけた海つばめの評論を見ての、批判のための批判であって、我々がことさらに、我々の文章の中で〝気取って〟難しい用語や概念を持ち出していることを論証することはできなかったし、しようともしなかったのだが――もちろん我々の文章は簡明で、分かりやすい文章で書かれている――、しかし「形而上学的」という言葉はさておくにしても、「共産党は観念的、スターリン主義的」という言葉もしくは概念は少しも難解でもなく、普通に使われ、理解されているものであり、共産党の実践的、思想的な立場を明らかにし、概念規定する言葉として正しく、正当であって、そうした概念規定に反対する批判者は、共産党の政治をどう批判し、規定するのか、すればいいというのか。

 もちろん言葉は対象の概念であり、あるいはしばしばレッテルである。

 言葉が概念であるか、そうではなくてレッテルにとどまるかは、言葉が対象を正しく理解し、表現しているかにかかわるのであり、正しく表現していれば、それは事実であり、真実であり、さもなければ言葉は単なる空虚なレッテルや誹謗のたぐいに堕す。

 我々は大会においても、安倍政権や野党共闘派の諸党の〝与野党協賛の〟半デマ・ポピュリズム政党の腐敗した政治に反対し、事実と、そして真実を根底におく政治的闘いを擁護し、我々の闘いの思想的、実践的原則を高らかに宣言したが、共産党の政治の、その根底にある、「観念的で、スターリン主義的で、形而上学的」な思想的、実践的な契機に対する批判と暴露は重要なものであって、多くの意識的な労働者が共産党への幻想から解放され、ますます我々の戦線に馳せ参じる上で大きな契機と意義と役割を持つであろう。

 共産党の政治への批判は特有の困難がある、つまりこの党は、単純に階級的な概念規定に還元し、帰着することができない、〝スターリン主義〟のドグマにがんじがらめにされ、スターリン主義の圧倒的な影響のもとで生まれ、育ち、〝闘ってきた〟――労働者の闘いに夾雑物を、つまり〝スターリン主義〟的汚物やがらくたを山ほど持ち込んできた――前歴があり、闘いを混乱させ、多くの避けられた敗北の原因にすらなってきたからである。

 この党に対する、困難な概念規定は、我々の綱領の2章7項や、6章の6項に、正しい、そして丁寧な概念規定があるが、それはもちろんレッテルといったものとは全く違った、歴史的、社会的な存在としての共産党に対する概念的で、したがってまた科学的規定である。

 党大会における批判者は、概念とレッテルを混同して発言したが、では共産党を、あるいは立・民や国・民、れいわ等々をどう評価し、どう闘っていくのか――それとも協調するのか――について、何一つ語ることができなかった。

 多くの階級意識ある労働者が共産党幻想から一日も早く解放され、我々の戦線に馳せ参じることを期待し、願って止まない。  (林)