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労働の解放をめざす労働者党機関紙『海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1364号 2019年11月3日
【一面トップ】野党は頭を切り替えよ――消費増税反対では闘えなかった
【1面サブ】読者からの熱烈なエール
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】即位式と天皇一家――自省することはないのか
【二面トップ】天皇制の本性とは――権力者らと常に「共に歩む」

※『海つばめ』PDF版見本

【1面トップ】

野党は頭を切り替えよ
消費増税反対では闘えなかった

 朝日新聞の「世論調査」は、消費増税を肯定する人々が54%もいるという結果が出たという。他方では、安倍政権の乳幼児教育無償化政策に反対もしくは怒りをすら抱く人々が62・5%、3分の2近くもいることが明らかになったのだ。野党共闘派は、消費税や消費増税反対、借金によって支えられる国の支出増大を――借金・バラまき政治さえも――支持すると言い、そんなご都合主義と無責任と無政府主義を振りまいて――我々は参院選の中では、野党の消費税反対等々の闘いでは、安倍政権に決して勝つことはできないと忠告したが――、こうしたアンケート等々の数字は、野党共闘の連中が真っ青になるほどの国民の意識変化の兆しを示唆しており、なぜ彼らが安倍自民党に決して勝てなかったばかりか、大敗せざるを得なかった〝秘密〟を暴露している。

 12年には三党合意で消費増税を決めていて、下野して野党に転落すると、今度は、消費税反対、消費増税反対をわめけば票になると思い込み、たちまち転向し、無節操の党であることをさらけ出したのだから、ますます労働者・働く者から軽蔑され、呆れられ、見捨てられて当然であった。

 そもそも労働者・働く者は、税負担もなく、借金を無制限に増やしながら、そんなカネをバラまくことによって、国民的な困難や社会保障や労働者・働く者の生活等々の問題が解決するのはもちろん、〝需要〟や〝消費〟――彼らにとって、神か仏といった存在――が拡大して、経済成長や景気回復や財政再建も思うがままで、「いいことづくめだ」と、与野党揃って叫ぶような〝うまい〟話が、お伽話が転がっていると信じなくなっているのである、そんな類の幻想を信じ、頼っていられる時代ではないと、自分たちの経験からしても、身に沁みて悟らざるを得ない時代になってきているのである。

そもそも野党共闘派の諸政党は、〝国民〟は一般に増税や消費増税には反対であって、したがって増税反対――とりわけ消費増税反対――を掲げて闘えば、仮に実際にはまじめに、真剣に闘わなくても票が増え、議席も増えると、捕らぬ狸の皮算用にふけってきた。

 しかし実際には、労働者・働く者はそんな野党の不精で、横着な精神と政治にうんざりし、反発し、野党共闘派よりも安倍政権を、その全世代型社会保障といった、〝画期的な〟政治を、乳幼児教育無償化等々のバラまき政策を支持し、ペテンにかけられ、篭絡されたのであった。つまり全世界――といっても、広大なアジアや南北アメリカ大陸や、アフリカの中南部等々を除外した〝世界〟ではあったのだが――を支配し、搾取し、寄生化したローマ帝国の支配層や、そんなろくでもない連中の国民総愚民化の政策、「パンとサーカス」(現代風にいうなら、バラまきとオリンピック)にコロリと騙され、野党よりはましと安倍政権を支持したのであった。

 実際、労働者・働く者の多くは、消費増税あるいは増税を一般的に否定し、反発してはいなかったのである。朝日のアンケートは、労働者・働く者はもちろん増税等々を、自らの生活に対する重圧として自覚し、そんな重税を好みはしなかったことは明らかだが、しかし少子高齢化の時代や社会の中で、社会保障の〝充実〟や、国家破綻の回避もまた重要であることを認識し、税金が本当に社会保障の「充実」のために、さらには本当に財政再建のために必要なら容認するのもやむを得ないと考えたのである。

 また実際、労働者・働く者も、どんな社会であれ、国家(共同体)の費用や社会保障の負担もまた必然であることを理解し、共同の負担が――それはブルジョア社会では、増税として現象するのだが――避けられないことを自覚したし、せざるを得なかったのである。

 とするなら、労働者・働く者にとって、消費税が、あるいは消費増税が本当に社会保障のために、乳幼児の育児と保育のために支出されるか、それとも支出されないで、安倍政権によって私物化され、乳幼児教育無償化等々の美名に隠れた、安倍と安倍政権のためのバラまきに転用されるかは、決定的に重要であり、その点において厳密な検討や追及がなされてしかるべきではなかったのか。

 消費税課税や、消費増税の使い道の問題は、むしろ野党共闘派がわめきたてた消費税や消費増税よりも重要であり、大きな犯罪行為であったことは明らかである。少なくとも安倍政権によるバラまき政策よりも、つまり全世代型社会保障とか乳幼児教育無償化等々よりも、重要でなかったということには決してならないのである。消費税や消費増税が本当に労働者・働く者のために支出されるなら、少なくとも許容され得る余地はあるが、労働者の汗と膏(あぶら)の結晶である税金が、安倍によって私的に略奪され、私物化されて安倍の野心や政権略取や専制政治やその延命のために利用されるとするなら、そんな税金の略取は権力による窃盗であり、一つの刑事犯罪であって、どんな許容の余地もないからである。

 野党はなぜ安倍と安倍政権のこうした最も弱い政治的環に対して〝寛大にも〟批判と攻撃を集中して、参院選を利用して追い詰め、安倍政権を打倒しないのか、しようとしなかったのか、安倍政権にとっては〝痛くも痒くもないような〟消費増税反対など持ち出し、さらには消費税5%への引き下げや、消費税の撤廃などの空想的要求を掲げて、かえって安倍政権を助け、安倍の卑しい税金の私物化や無駄遣いを実際上容認したのであろうか。

 彼らは安倍政権と闘うことができなかったのである。

立・民も国・民も、12年に消費増税を自公と組んで決めた民主党の後継政党であって、野党になったからといって、今さらのように、消費増税反対だ、消費税の撤廃だと言っても、自民党や安倍から、消費税を容認したばかりか、自ら進んで12年に5%もの消費増税を決めたのは民主党ではなかったのか、今さら消費増税反対などといっても通る話ではない、破廉恥で、無節操だと攻撃されれば、反論し、反撃することもできず、面目を失い、スゴスゴと働く者の前から消えるしかなかったからである。

 彼らの耳には、「保育園落ちた、日本死ね!」と喝破した、保育世代の女性たちの怒りの言葉が届かないほどに、バラまきによって好景気を勝ち取ることに夢中だったのである、そんなことの方がはるかに重要だと愚かにも思い込んでいたのである、そんなものは、安倍政権やブルジョアやケインズ派やリフレ派が言いはやす、偽りの幻想であり、たわ言であることも知ることなしに。

それに野党共闘といっても、立・民を先頭に、身内に多くの消費増税賛成派や消費税そのものの容認派を抱えていて、最後まで闘うことができないのは最初から明らかだったのである。

 加えて野党共闘派の内部には共産党や、その盟友のれいわを始めとして、安倍自民党に負けず劣らず、借金をしてでも、財政危機があろうとなかろうと構うことなく、〝消費〟や〝需要〟を人為的に膨張させることによって――公党として、無責任の限りではないのか――、経済停滞やデフレ(経済不況?)や経済の衰退をなくすことや財政再建さえも可能になし得るといった現代のブルジョアたちのドグマもしくはおとぎ話、つまりケインズ主義や、ヤクザ経済学の信奉者のリフレ派の妄言を信じ、そんな愚説を政治の〝聖なる言葉〟とするような無知蒙昧の輩がうじゃうじゃといるのであって、彼らには、そんな政策で安倍政権と張り合う(脇から支え、助ける)ことはあっても、安倍の最悪の政治の一つ、全世代型社会保障とか、乳幼児教育無償化政策に正面から闘いを挑み、粉砕しなくてはならない動機や理由や必然性は何もなかったのである。

 かくして野党共闘派の有り難い、全面的ともいえる助けを借りて、自民党と安倍政権はやすやすと参院選に勝利し、その延命を勝ち取ることができたのである。

   

【1面サブ】

読者からの熱烈なエール

 10月23日、中央事務所に長年教科書裁判や部落差別などに取り組んできた『海つばめ』読者Yさんから傍線を引いた『海つばめ』1363号のファックスが送られてきました。

 そこには「労働者党の皆さん! 日々お疲れ様です。2019年10月21号を読みながら、フンフンしながら、ニヤリとしつつ『大いに異議なしじゃ!』と書き込みながら、タテの破線を引きながら読んだ」。「労働者の琴線を揺さぶる記述をしてくれてありがとう! 労働者階級の未来は明るいよ!(『れいわ』は要注意! よねえ! )」というメモが書かれています。

 『海つばめ』では、19参院選で我々労働者党は安倍の消費増税の転用を暴露し闘ったこと、安倍や野党共闘派のような半デマ・ポピュリズムを粉砕することのかなたに労働者の未来があること、そして22参院選に向けての闘いを訴えていますが、Yさんはこうしたところにしっかりと傍線を引いています。

 例えば安倍政権の幼児教育・保育無償化について「全国の多くの労働者世帯や女性にとっては、安倍政権の政策はトンチカンで、的外れで、怒りの対象でしかない」と書かれているところについては「大いに異議ナシじゃ」とコメントしています。

 そのほか、コラムで香港デモについて日本、世界の働くものは「支持と連帯を宣言する」と書かれているところについても共感の傍線がつけられています。

 翌日には事務所に次のような『海つばめ』読者のОさんから、短いがちょっと興奮気味の留守電がありました。

 「21日発行の新聞よかったなぁ。

 『不死鳥のごとく』か、ええねー。(22参院選に)全国区で一人でもいいから(議員を)出せればいいんだよ。とにかく(世のなか)一気に変わってくる。それまで苦しいとは思うけれど頑張れ。」

 YさんやОさんからのエールは、私たちの訴えが共感をもって受け入れられつつあることの一つの証です。  (T)


       

【飛耳長目】

★文科省大臣に抜擢された萩生田の〝失言〟に批判が集中している。そもそもヤクザ一家の安倍親分に忠誠を尽くすことによってのみ大臣に成り上がった、安倍とうり二つのヤクザ人間に大臣職が務まるはずもない★彼は民間が請け負う大学入学共通テストで、都会の裕福な受験生が何回も予備テストを受けられるのに、地方の受験生は2回だけの本テストしか受けられず不公平ではないかと問われて、「身の丈に合わせて頑張れ」と言って、差別助長の罪で非難され、あたふたと謝罪した★この男は加計学園事件で、文科省が省内で調査した結果、安倍の意を受けて、「総理のご意向」とか言って、加計学園に決まるように権力をかさに圧力をかけたような、安倍の側近の中でも悪党中の悪党である★彼は結局、省内の誰かが彼の名を騙って、彼を陥れようとしたかの見え透いた嘘をついてごまかし、安倍と自分を窮地から救ったが、これまでしばしば安倍政権の足を引っ張った文科省官僚ににらみを利かせ、支配するために文科省に送り込まれたというわけだ。そしてその卑しい本性をさらけ出し、全国の学校行政を牛耳り、安倍政権や民間教育資本のため犬馬の労を取るのだ★彼ほど野蛮で、嘘つきで、良心などなく、大臣にふさわしくない人間はいない。安倍政権が権力を固め、教育までも牛耳ろうとするとき、日本の教育はそれだけ衰退し、死んでいく。 (鵬)

   

【主張】

即位式と天皇一家
自省することはないのか

 天皇一家も天皇一家であり、嬉々として、安倍の企みに乗っかり、〝古式豊かな〟即位式を160億円、否、警備費等々も含めれば、何百億円という莫大な無駄ガネを使って派手に行った。財政崩壊を目前に控えて、借金や増税でカネならいくらでもあるとばかりに、無神経に浪費に走る与野党協賛の政治は許されざるもの、犯罪的なものである。

 それにしても、新天皇のだらしなさはどうだろうか。彼らは安倍政権に完全に従属し、安倍の傀儡天皇として、今では権力主義者で、反動の悪党、安倍にいいように利用され、繰られているだけに見える(要するに、象徴天皇制の隠された〝秘密〟とは、それが戦後憲法の下、時の権力者の体のいい、利用可能な道具、ロボットに過ぎないということか)。

 戦後の〝民主主義の〟社会の中で、いくらかでも合理主義的な思考や言動の洗礼を受けた天皇夫妻にとって、安倍の手による、安倍のための即位式といったものに、違和感を抱かない方がおかしく、事実写真に映る即位式の二人の顔は一貫して陰鬱で、憂鬱そうであって、楽しそうな表情や雰囲気は全く感じられなかった。

 伝統とか、歴史性とか、日本の国柄だとか、宗教(神道)のしきたりや決まりだ等々、〝古色蒼然とした〟即位式は、いくらかでも合理性をもって、宮廷内部の偏狭性や人間蔑視に抵抗し、「雅子の人間性を否定するものがあった」とまで述べて、その前近代的、非人間的な本性や実態を批判し、告発してきた二人にとって、苦痛ですらある即位式ではなかったのか。

 こんな即位式が、国民に「寄りそう」という天皇らの発言を裏切るもの、そんな姿勢と全く正反対のものであることは明らかである。

 しかし天皇家には、時の権力者と正面から闘い、逆らうことはできないのである。というのは、何ら実際的な力を持っていない、現世の天皇家には、自らの快適で、居心地のいい地位や環境を、自ら労働することなく優雅な生活を送れる、寄生的な社会的な特権を捨てることなど思いも及ばないから、自主独立の信念も意思も持ち合わせていないからであり、仮に一時そんな〝人間的な〟感情や理想を抱いたとしても、天皇制と宮廷生活と慣習と伝統の世界では窒息し、やがて消えてなくなり、〝ご立派で〟、理想的な天皇や皇后がご登場するという筋書き通りになるということなのか。

 「国民に寄り添う」などというのも欺瞞的な空文句である、天皇家の面々は宮廷の奥深くに座してはいたが、実際的、現実的に、「国民に寄り添った」ことは一度としてなかったし、「寄り添うこと」ができなかったからである。国民と隔絶された世界に気楽に安住し、働く者の生活や真実について、日々の営みについて何も知らず、同じ経験など全くしたことのない天皇一家が、いかにして働く者に、本当に「寄り添う」ことができるというのか。

 口先だけ、願望だけで「寄り添う」ことなら誰にでも、宗教家や安倍にさえできることであって、そんなものは実際的に働く者の本当の困難や苦悩に「寄り添う」ということとは全く別である。

 かくして国民に「寄り添う」という天皇や天皇一家は相変わらず自らの特権的地位にしがみつくだけではなく、客観的には、そこに安逸と優雅で、気楽な環境を見出し、快適や居心地の良さを享受するのであり、現実には何千万の働く者の本当の生活も人生も、したがってまたありとあらゆる困難や苦悩などの実際について、完全なる無知と無関心の中に安住し、さらに安倍一派とさえ共謀し、心を通わせつつ、手を取り合って、日本社会のファシズム社会への移行にせっせと励むことさえできるのである。


【2面トップ】

天皇制の本性とは
   権力者らと常に「共に歩む」

 安倍政権は今や天皇の即位式や行事を次々と並べ、天皇と天皇制の神格化に全力を挙げ、安倍も自ら先頭に立って天皇への〝臣下〟として恭順する茶番を演じ、天皇への深い忠誠を誓うかに、高御座に御座奉る天皇に向って、〝国民の代表として〟万歳三唱の音頭を取るようなことまでやっている。白々しいと言おうか、醜悪と言おうか、偽善と虚偽と破廉恥の首相と、保身に汲々とする皇室――共に今や〝国民の目〟をひどく恐れざるを得ない危うい立場におかれている――の共演のパフォーマンスであり、この21世紀にあって、時代錯誤とナンセンスと暗愚の最たるものである。

 まるで1945年までのほぼ半世紀にもわたる、日本の天皇制ファシズムの時代を見るかであり、安倍政権の下、すでにそんな社会が再来し、実現しているかである。

 かつて暗黒と死と恐怖が日常的に存在し、待ち伏せしていた時代(ほぼ20世紀前半の半世紀)、日本は国民は上げて、一斉に〝現人神〟であらせられる天皇に向って、常に「万歳、万歳」と叫びつつ、〝物言えぬ〟民として、一種の奴隷として、他ならぬ天皇のために闘い(そういう建て前だった)、何百万という若者らが死んでいった――2000万の無関係で、哀れなアジアの民まで道づれにし、犠牲を強要しつつ――のではなかったのか。

 今またそんな時代がやってきたかの天皇制や、それを悪用する安倍政権の現実は、1945年までの天皇制絶対主義や軍部ファシズムの暗黒時代を彷彿とさせる。

 無神経な安倍は、今、何百万の無念と恨みを残して戦没した若者たちに対して、「敬意と感謝の念を捧げます」などと、ぬけぬけと言うほどに厚かましい。

 反動的で、無益で、野蛮で、悲劇でしかないような、〝無謀な〟、ばくちのような戦争をやり、遠い異国で、広大な太平洋の島々で、野蛮な銃器によってだけでなく、飢えや病気で無為に死んでいかなくてはならなかった若者たちに、そんな戦争を美化する連中が、何のため、誰のために、どんな「敬意や感謝の念」について語るのか、口にできるのか、もう一度国民を、老若男女を、労働者・働く者を大資本や権力者や国家主義や天皇らのための侵略戦争や、覇権主義戦争や帝国主義戦争に向けて動員し、駆り立て、大量に殺したいのか。

 安倍らはなぜ天皇と天皇制の神格化を演出し、実行しなくてはならないのか。戦前の軍部ファシズムのように、半ば本気で天皇の神格性を信じているならいくらか可愛気もあり、まだしもだが、安倍一派はそんなことを一切信じていないのだから、彼らのやっていることは時代錯誤の茶番であるだけでなく、一層不気味であり、腹黒い企みであり――安倍の表裏ある態度や腹黒さと比べれば、敗戦までの天皇制主義者(例えば東条英樹等々)の方がはるかに単純であり、陰険・陰湿でなかったとさえ思えるほどである――、直接に暗黒・無慈悲・非人間性の支配するファシズム社会へ向かって驀進しつつあるかに思われる。

 安倍一派は何のために、自ら茶坊主の役割まで先頭に立って引き受け、天皇と天皇制の神格化のためにあくせく策動するのか、しなくてはならないのか。

 それは言うまでもなく、1945年までそうだったように、天皇制を神格化し、国民の全体を批判を許さない偽りの絶対的権威と権力の前に膝まづかせ、従属させ、〝物言わぬ民〟に転落させ、自分たちの専制的ファシズム体制を築き、完成させるためである。

 天皇の神格化は、同時に安倍と安倍政権の絶対化、〝神聖化〟であるのは、1945年の敗戦まで、天皇と天皇制の絶対化、〝神格化〟が軍部ファシズム勢力の絶対化、〝神聖化〟と同じであったのと同様である。

腐敗する安倍政権は、天皇制を絶対化し、その陰に隠れることを望むのであり、そんな姑息で、有害なやり方で、自己の権力の延命と、永遠化を願望し、希求するのである。

 時代錯誤の骨董品の天皇や天皇制――延々と続いて来たかに言いはやすが、実際には高々150年ほど前の明治維新の時代に、藩閥専制政府が自らの支配の安定と永続化を策して、自らの貧弱な文明意識や歴史意識に従ってでっちあげた、優れて現代的な〝王政〟であって、〝古式は豊か〟に見えるものも実は、大部分はその時代の藩閥政府の権力者の偏見や狭量性を反映しつつ、天皇の神格性を高唱し、天皇のありもしない権威を高めるためにでっち上げられたものすぎず、そんなガラクタを、何百、何千年と続いた伝統だとか、歴史的な遺産だとか称してありがたがっているのは余りにナンセンスであり、無知蒙昧の輩と断ずるしかない。

 日本の古代王朝が、歴史的に進歩的で、存在意義を仮に持ったとしても、そんな時代は遅くとも千年ほど前に終わっているのであって、それ以降は日本的王政も歴史的に反動的で、寄生的で、有害なものにさえ転落してきたのである。

 一つの血筋が千数百年続いたから貴重で、珍しいというが、なぜ祖先の血筋が続けばありがたいのか、全ての人間は生命体として延々として世代を継いできた限り、みな千年や2千年といわず、数千年、数万年も世代を延々と継いできたのであって――さもければ、誰であれ、現在生存していない――、天皇家だけがそうだというわけではない。

 しかも天皇家の男系の一貫した継承ということ自体、景行天皇の時、5代先の天皇からの血をはるばる近江の地から探し出してきた、いかがわしい人物を持って来て天皇にしたといった話があることからも明らかに、確かなものではないし、あり得ないのである。

 現在も天皇家の血が絶えるということで、敗戦と共に〝断絶〟した、今から数百年も前の天皇直系の血を〝復活〟させて正統の〝皇統〟とするといったバカ話も自民党の反動政治家の中では大真面目に議論されている。〝どこの馬の骨〟かも分からない、無学で、野望だけは大きい男たちである。そんな数百年の昔からの〝正統〟と見られる人間を求めて天皇の地位に据えても、何の重たさも権威も何もない、というのはそんなありがたい血もいくらでも薄められ、希薄になっているからである。稀薄でもいいと言うなら、日本には天皇にふさわしい血筋の人間は何十万、何百万といることになるが、そんなに多くの天皇ということになるなら、つまり日本人の全体が天皇といえるということになるなら、天皇といっても何の意味もないということになるだけである。

 つまり天皇の血筋といったことほどに、そんなものを貴重で、掛け替えのないもの、唯一無二のものであるかに考え、持ち上げ、珍重し、国民の〝象徴〟だなどと言いはやすような国家がろくでもない国家であり、ただそのことだけでも滅亡に値する――滅亡せざるを得ない――ことほどの真実があるだろうか。

 戦後の民主主義憲法の下で、アナクロニズムの、歴史的骨董品の天皇制といったものを珍重し、君主として押し出せは押し出すほど、「憲法上の疑義が生じる」のは当然のことであって、ただこの矛盾と困難は天皇制を一掃し、廃絶することによってのみ最終的に解決されるのである。

 そもそも敗戦後、マッカーサーがただ戦後日本の〝秩序〟を再建するための政治的必要性から天皇を残し、しかも戦前の神性を帯びた、超越的な天皇はダメだとしたので、便宜的、ご都合的にあってもなくてもいいような、社会的に存在の必要性も必然性のないもの、歴史的、社会的、政治的にさえ無用なもの、余計なものを残したために、日本国民は改めて天皇とは何か、象徴天皇とは何か、その存在意義や役割を考えなくてはならなくなったのである。

 必要性があって、制度が生まれたのではなく、反対に、何の必要性もないのに天皇制が残されたために、今度はそんな無用なものの意義とか役割とかを無理に考えなくてはならなくなったというわけである。

 そんな厄介なことをなくすために、憲法はご親切にも、天皇がやるべきこと、やっていいこと、やっていけないことを〝厳密に〟規定したのである。

 だが天皇一家や、反動派や、安倍一派は、そんな社会の余計者、寄生的なこぶみたいな存在の天皇制ではやがて国民から無視され、自然消滅し、自然死するしかないことを悟り、恐れるようになったのである、そこで戦後2代目の天皇、つまり平成天皇以来、象徴天皇制とは何か、その存在意義は何かを追求し、明らかにし、生き延びることを真剣に考え、実行に移してきたのだ、そんな思いつきがつまり国民に〝寄り添い〟、その安寧や幸福を願い、祈ることに、〝公的行為〟を担い、実践することに求めたのだが、それが象徴天皇制のあり方であり、本性であるといったことになるはずもなかったのである。

 そんなものは平成天皇が勝手に考え、思い込んだこと、天皇家の独りよがりであって、どんな真実性もない独断に過ぎない。単なる天皇一家が生き延びるための下品な策動であり、平成天皇らの主観的な思い込み、観念論であり、憲法違反でもあり得る独断にすぎない。

 今では平成天皇らの「公的任務」は立派に政治的性格を持つようになっており、ますますそうなっている。

 それどころか、最近の天皇や天皇制の安倍政権による派手で、露骨な政治利用や、そんな安倍の策動に天皇や天皇一家がいそいそと、進んで協力しているのを見ると、〝天皇制〟は敗戦後1世紀近く経て、今や立派に政治的存在に転化したし、ますます転化しつつあり、かつての天皇制のような〝危険な〟存在に化しつつあると結論するしかない。

 天皇制が、昭和天皇が大きな責任を有した敗戦にもかかわらず、廃絶されないでマッカーサーの鶴の一声によって残された結果、その内在的な矛盾はなくなるどころか増々大きくなり、いまや天皇制はそんな矛盾によって廃絶されるか、天皇制ファシズム体制の柱石として生き残るかの岐路に立たされているかに見える。

 天皇は「国民と共に歩む」とか、歩もうとしているとか美化されるが、昭和天皇は軍部ファシズムと共に「歩まれた」し、今また徳仁天皇は、立派な名前にもかかわらず、もっぱら安倍政権と共に歩こうとしているようにしか見えない。

 天皇制の改革について、あるいはその「安定性の確保」のため等々の、多くの雑多な、思い付きのような見解があふれているが、どれをとっても混乱した、解決不能のものばかりであって、時代遅れで、ただ安倍政権のような反動の悪党が利用するだけの、自己矛盾そのものの天皇制の〝解決〟は、ただそれを廃止することによって可能だということである。