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労働の解放をめざす労働者党機関紙『海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1368号 2019年12月29日
【一面トップ】民間試験活用の破綻――安倍政権と私的教育資本との癒着
【1面サブ】『資本論』学習会のための小冊子発行
《資本主義をトータルに理解するために》『資本論』を学び、『資本論』を超えよう!――いかなる観点で『資本論』学習会を組織するかの指針
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】破綻する安倍政権下の財政――「出る」をもって「入る」を図る財政
【二面トップ】資本主義のトータルな理解を――既存の資本論研究会を乗り越えよう
《お知らせ》『海つばめ』は来年から週刊となり、次号の発行日は1月19日です。

※『海つばめ』PDF版見本  
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【1面トップ】

民間試験活用の破綻
安倍政権と私的教育資本との癒着

 英語民間試験活用問題は、萩生田の「失言」もあって結局お流れになった。問題は「受験生のことが無視された」結果とか言われたが、責任は挙げて安倍政権にある。完璧に安倍政権によるお決まりの〝政治主導〟の強引、〝上意下達〟によって始まった〝教育改革〟の目玉商品、大学入試に英語民間検定を利用するという問題は、突然始まった時と同様、安倍政権の〝政治主導〟によって突然幕を閉じることになった。7年にもわたって既定方針として強引に押し占められてきた教育改革は一体何であったのか、その有害性と混乱と、そんなでたらめで、腐敗した安倍政権の政治に右往左往させられた若者たちへの責任はだれが負うというのか。安倍政権の責任以外ではない。そしてまた暮に来て、萩生田と同様な、安倍の腹心ともいえる悪党の秋元も収賄容疑で逮捕された。今や安倍政権は悪臭芬々たる腐れ肉同様の存在と化したのである。安倍政権の政治の本性でもある、英語民間試験の本質を暴露し、来年こそ、この政権の死命を制する闘いに決起するようによびかけて、今年最後の『海つばめ』を読者の手に届けんとする。

責任は安倍政権そのものにある

 萩生田は、「誰が悪いということではない」と語ったが、安倍政権も、歴代の文科相も、自分も、多すぎる政府や文科省の自民党などの会議や審議会や実行会議、その〝有識者〟や〝専門家〟たち―皮肉を言わせてもらえば、国民のありとあらゆることに関心を持ち、そのどんな不幸や難事にも広く「心を寄せられる」という天皇やその一家さえ含めて――、支配階級や権力者たちの誰にも、英語民間試験の活用という邪道の受験方法とその破綻という政治、政策に責任もないというから驚きである。

 天皇らには関係がないとは言えない、というのは、彼らは安倍政権のありとあらゆる悪事や、労働者・働く者の困難な生活等々に対して全く無関心で、それらを批判し、いくらかでもいい方向に向けようとする素振りさえなく、まるで無関心、無頓着を装っているだけである、「心を寄せる」云々は安倍政権に対してだけで、労働者・働く者に対しては、むしろ「心悪しき」、冷淡な欺瞞しかないように見えるからである。

 まるで15年戦争にも、太平洋戦争やその結果にも、東条や国家主義のファシストらや昭和天皇らも含めて、誰一人責任がなかったという「一億総責任論」を思い出すような、そんな支配階級の頽廃を想起させる現況である。

 彼らは戦争に勝っている時には、安倍政権と同様に、すべて自分の手柄にするのだが、風向きが変わり、具合が悪くなると、それは自分たちのかかわりないことだとして、常に他人のせいにし、責任を他に転嫁するのである。

露骨な下村とベネッセの結託

 そもそも大学入試の英語試験の〝改革〟が叫ばれ、「読む、聞く」の2技能しか測れないセンター試験に「話す、書く」の2技能を加えた形に変える〝改革〟が決まったのは、安倍政権が復活した直後の2013年の春のことであった。

 それを提案したのは、当時の文科相であった下村であって、彼は3月の産業競争力会議で、「使える英語力を高めるため、大学入試でのTОLなどの活用も飛躍的に拡大したい」と強調、そのためには「産業界・教育界が一丸になることが必要」とハッパをかけた。

 今や下村は、あたかも自分が関係ないかに言うのだが、しかし彼らが大学入試に〝民間〟の力を借り、彼らの介入のために〝奮闘〟したあらゆる証拠が残っている。 

 先ず言えることは、英語試験に〝民間〟の力を借りるといったことは、安倍政権の特徴である、利権や利害や、カネや権力維持という利害関係が、権力の私物化や悪用という低水準の問題さえも――森友・加計事件等々を見よ――深く関係しているということである。

 今や低俗マスコミの紙上では、下村等々のスキャンダル染みた、〝民間の〟教育産業――私学に始まり、〝塾〟産業まで含め、乳幼児〝教育〟にまで及ぶ――とのけがれた癒着に対する報道で満ちみちている。

 《発売中の週刊文春と週刊新潮によると、同社は下村博文元文科大臣と密接な関係にあるという。ベネッセ教育総合研究所の所長と理事だった人物が下村氏を支援する「博友会」のパーティーなどにたびたび出席。ベネッセの元社長・福島保氏も後援会名簿に名を連ね、「蜜月関係」にあるというのだ。文科省関係者が言う。

「ベネッセは2014年に、3500万件の個人情報漏れが発生。同社は受注していた高校の英語力調査をいったん停止されながら、すぐに再開が許された。下村氏の後ろ盾のおかげだともいわれました」(日刊ゲンダイDIGITAL 11・7)》等々。

 ベネッセと下村や文科省との「一心同体」ぶりは〝教育関係者〟の中では余りに明らかで、有名であって、知らない人はないほどだそうである。

偽りの英語教育改革

 話は変わって、そもそも「読む、聞く」の2技能に「話す、書く」の技能を加えるという〝英語教育〟改革にどれほどの意味があるのか。

 英語でもって自分の考えや意思や利害関係を外国人に伝え、自由に議論し、渡り合えなくては〝国際化〟し、激しい競争裡場である世界では生きて行けないというが、しかしそんなことは大多数の国民、とりわけ労働者・働く者にとってどうでもいいことである。

 実際、日本語でもってさえ、そんなことは困難であり、ほとんど実現していないという時に、まるでナンセンスな教育改革でしかない。まず日本語で「読む、聞く」に加えて、「話す、書く」の能力も高めることが先決ではないのか。

 中央教育審議会の会長として、こうした教育〝改革〟の先頭に立ってご奮戦なされて来た元慶應義塾長であった安西裕一郎は、これでは「日本の『教育鎖国』は続く」と憤慨して、次のようなアホなことをいっている。

 「論旨明確に考え、相手の立場を考慮し、世界の中で生きる日本の若い世代には決定的に必要なのだ」(朝日新聞12月18日)

 まず言われているようなことは、日本の国民の大多数にとって、どうでもいいことで、こんな口実で日本の教育の全体を牛耳り、左右しようなどといって通用する話ではないことは余りに明らかである。

 そして、仮に日本の若者が何らの理由で外国に行って――旅行であれ、留学であれ、あるいは就職して――、まず必要なことは、日本の歴史や国家についての正しい観念や知識であって、外国人と会話したり意思を伝えあうためには、安倍一派のような歴史観や外国への認識や知識であったら、〝歴史修正主義〟といった日本の中だけで、したがってまた日本人のごく少数だけが持って回っている〝歴史修正主義〟といったものであれば、世界中で通用しないという話になるだけである。

 こうした場合、まず必要なのは英語教育の〝技術問題〟以上に、日本と世界に対する正しい知識と知恵による、日本語による、まともな教育であることは自明である、立派な英語教育が問題になるのは、その後のことである。

 7年も続いて来た安倍政権は今や1日も早く打倒するしかない、というのは、1日だけでもそれが遅れると、1920年代、30年代にそうだったように、労働者・働く者は、不幸と悲劇と絶望の日本に誘導され、導かれ、連れていかれる可能性がそれだけ高くなるからである。

   

【1面サブ】

『資本論』学習会のための小冊子発行

《資本主義をトータルに理解するために》『資本論』を学び、『資本論』を超えよう!――いかなる観点で『資本論』学習会を組織するかの指針

 この小冊子は、陳腐な『資本論』学習会の指針とか案内書といったものではなく、『資本論』の、したがって資本主義の「トータルな」認識を目指し、また獲得するための学習会を組織していくための基本的な指針でありプログラムです。

 『資本論』の学習は、賃労働の廃止、つまり〝市場経済〟と資本主義、そして賃労働による分配法則の一掃(そして「労働時間による分配法則」の実現の必要性と必然性の自覚)という段階にまで進んで初めて、本当の意義と意味が明らかになるとさえ言えます。

 この「指針」は、そうした目的意識で一貫して書かれ、まとめられています。

 ご購読を。

林紘義著 全国社研社刊 A5版 定価200円


       

【飛耳長目】

★犬猿の仲の安倍と韓国の文大統領が、中国の古都成都で1年3ヵ月ぶりに会談した。米国の強い圧力の下でしぶしぶ会った二人が「輸出管理」や「元徴用工」の問題で、お互いに自分の言いたいことを言っただけというところか★安倍は例によって、1965年の「日韓請求権協定が守られなければ国と国との関係は成り立たない」と主張し、片や文は「輸出管理の厳格化」は「元徴用工」の問題の判決に対する報復であると不当性を訴えたが、議論は平行線をたどった★もちろん日韓が対立するのは日本の国家が安倍政権によって代表されているからで、もっとまともで、もっと理性と知性と良識のある政府だったら韓国の政府と対決し、対立や憎悪に迷い込むこともないのだ★安倍一派は結局、30数年にわたる韓国への植民地支配はなかった、それがあっても国際法的に〝合法的だ〟というのであり、また朝鮮を植民地として支配したのではなく、善意に基づく韓国のための支配であり、政治の民主化や経済の近代化、つまり朴政権以来の経済の急速な〝高度成長〟に道を開いたというのである★事実とも一致しない、こんな妄想を信じて韓国民に対し、安倍の〝パシリ〟河野のように、韓国大臣に「無礼者!」といった、まるでかつての宗主国日本の総督が植民地朝鮮の人々に対してのような傲慢で、粗野な口をきけるのである。卑しい日本人たちよ。(鵬)

   

【主張】

破綻する安倍政権下の財政
「出る」をもって「入る」を図る財政

 政府は20年度の当初予算案を閣議決定した。

 総額102・7兆円で、ここ数年増え続けてきたが、昨年に続き100兆円を超えた。しかも消費税を2%数兆円の増税をしたというのにである。

 基本的に安倍政権の浪費や乱費が過ぎるから、財政観念を喪失して、政権の維持だけに汲々としている結果に過ぎない。

 膨張する社会保障の費用のためというが、それは実際には虚偽である。というのは、本来の社会保障の費用は、20年度に後期高齢者になる年代が、敗戦の時期に生まれた世代であり、前後の世代に比べて少数なので、本来の社会保障の〝自然増〟が比較的抑えられ、当初の予定よりも1200億円も少なかった。にもかかわらず、統計上、社会保障費が5・1%で、前期よりも増えた予算の金額の4割も占めるのは、安倍が今年あらかじめ使い道が決まっていた、5兆円の使途を変更して、全世代型社会保障といった茶番のために、乳幼児教育無償化や高等教育の無償化等々のために、巨額の新しい支出を増やしたからである。

 しかし〝乳幼児教育〟なるものや高等教育の無償化が、なぜ社会保障に区別されるのかは「神のみぞ知る」である。教育の充実なら、まず第一に国民養育、義務教育から始められるべきであることは明確である。

 それとも安倍政権は国民教育がすでに十分〝充実〟しており、時代と国家・国民の要求にそったような形になっているとでも思っているのだろうか。

 そんなことがないのは、教育現場での教師不足や、それを身分も不安定、給料も雀の涙のよう非正規の教員に頼っている現状を見ただけでも、余りに的外れで、ナンセンスであるのは一目瞭然である。

 そんな折に、消費増税の財源を、財政再建ならまだしも、単なるバラまきや私学の支援や救済と区別がつかないような無駄な支出といえる、乳幼児教育とか高等教育の無償化に転用して――つまりは支持率のために、つまりは安倍の延命のために、である――恥じないのである。

 安倍はそんなカネを社会保障支出と呼ぶのだが、実際には本来の社会保障の対象である、本当に社会保障を必要としている人々の費用は減らすとか、自己負担を増やすというのである。これにまさる悪政が、果たしてあるであろうか、戦後これまで、日本にあったろうか。

 安倍は「全ての世代が安心できる社会保障制度を大胆に構築する」などと言っているが空文句であって、「すべの世代」が困惑し、不満を抱き、やがては反発し、安倍政権の打倒を決意するような予算案ではないのか。

 トランプが言うがままにほとんど無駄に終わるような、結局はアメリカのためか、日本のためか分からない〝高価な〟あれこれの武器を買って防衛費は5・3兆円にも膨張させ(戦後最大だ)、「経済対策などでさらに支出を積み上げ、挙句の果てには、増税したから経済の悪化が心配だとか(こうした心配のためには2兆円ほどが必要だ)、さらに補正予算だなんだかんだと言って、2兆円も3兆円も無駄金をバラまき、最後には国債発行は10年連続で減少だ、昨年よりも1000億円減らした――雀の涙だ――というが、それも虚偽であって、そんな借金減額を印象付け、労働者・働く者の目をごまかし、ペテンにかけつつ、色々な名目や口実を付けて予算膨張を企み、借金を、建設国債の何倍もの赤字国債を発行を増やし続けるのである。

 安倍は当初予算の枠内の「経済対策費」を十倍ほどの13兆円にも膨らませ、財政再建に心を砕いているかに見せかけながら、財政崩壊に向けて疾走を開始した。


【2面トップ】

資本主義のトータルな理解を
   既存の資本論研究会を乗り越えよう

 我々は再び国政選挙に捲土重来、参加し、勝利するために、参院選後の大会で、党の組織体制(とりわけ中央体制)の強化や、海つばめや単行本・プロメテウスなどの出版物や、『資本論』学習会の根底的な改革や、インターネット・ウェッブ等々の発信力の強化・充実を図る等々、徹底的で、全面的な改革、改善を行い、党の活動や闘いを強め、その活性化を図って、我が党の影響力の増大と、労働者党の力強い建設を勝ち取っていくことを決定、確認した。そうした改革の中でも、今最も先行的になされて実行に移されようとしているのは、これまでも全国的に組織され、行われて来た、『資本論』学習会の改革である。来年早々から『資本論』学習会は、これまでと大きく違って、『資本論』の全体、〝トータルな〟認識を得るということを課題にしつつ、『資本論』を最初から学習するという形で行うことになった。その意味と意義を明らかにする。

冒頭の「商品」の意味とその限界

 例えば、『資本論』は「商品」とその「交換価値」――経済的な意味での〝価値〟――の考察から始まっている。そしてその「商品」は資本家的に――資本主義的生産の下で――生産された商品ではなく、〝単純な〟商品であるとされている。

その意味は、『資本論』がまず分析するのは、封建社会の解体する中で生まれてきた小生産者的農民――独立した〝自作農〟等々を想定せよ――と、その生産する生産物(商品)についての論理であって、直接に賃金労働者の生産する商品、資本家的商品ではない。

 だから商品の交換価値も、単純な形で、現実的にも理解できる形で現れる、つまりそれを生産する「価値」――その〝実体〟は人間の「質的に同一で、ただ量的に異なる社会的な労働――であり、その大きさはその商品の生産に要した労働時間の大きさ(長さ)であるということだが、このことは商品を交換する当事者たちにとってごく自然のこととして認識され、経験的に明らかである。

 しかし資本主義的商品の場合は違っている。まず個々の生産物(商品)の価値(交換価値)が何であり、その大きさ(労働時間)が幾ばくであるか、直接には明らかではないし、経験的に理解される形もとってはいない。

 というのは、資本主義的商品には、実に多数の、多種多様な生産的労働が関係し、複雑に絡み合って支出されていて、個々の商品の「価値」の大きさ(労働時間)が実際的に自覚され、認識されることは困難であり、事実上不可能だからである。

 だから生産者たちは「市場」で交換することによって――資本主義では、実際に商品を交換するのは、商品の所有者である資本家であって、労働者ではないが――、その交換比率のたえざる動揺の中で、事後的に、手探りで、結果として〝正しい〟(というより近似的な)交換比率が確定されているのである。アダム・スミスのいう、いわゆる「神の見えざる手」というやつである。マルクスが商品価格のたえざる動揺(「価値」ではなく、「交換価値」の絶えざる変動)を指して、資本主義の〝弱み〟というより〝強味〟であると称したメカニズムである。

 商品経済の価値概念の確定自体はそれほど困難ではなく、すでにマルクスによってでなく、古典派経済学(初期のブルジョア経済学)の雄であるリカードによって、抽象的な形であれ、また多くの本質的欠陥を有する形ではあれ――主要な欠陥は、単に価値の量的な側面に関心が行って、その〝質的な〟契機が無視されていることである――、明確に「個々の商品に含まれる(その商品の生産のために必要とされる)労働」であると明確に述べられ、規定されたのである。だからエンゲルスも「剰余価値」の概念の発見者はマルクスだとは語ったが、交換価値(価値)概念の発見者もしくは確定者はマルクスだと語っていない。

単純商品と資本家的商品の「価値規定」

 もう一つ重要な概念として「価値規定」というのがある。これは「価値」(〝価格〟等々として現象する交換価値)を「労働時間」として直接に規定し、表現するという意味である。

 例えば、社会主義における分配法則の問題で、あれこれの消費財の「価値」の大きさが問題になるとき、それを直接に労働時間によって規定し、その大小を明らかにし、比較するということである。

 あるいは資本主義的商品もまた、価値概念ともに、「価値規定」が可能かどうかという形でもいうことができる。もちろんこれ自体大問題であり、可能だということになれば――そして実際に可能であって、例えば耐久消費財の洗濯機やテレビやスマホ等々の「価値」が何十労働日の労働と等しいということになれば(もちろん搾取されないままの労働日で計算してであるが)――、労働者は何日もしくは何カ月の労働で洗濯機やスマホを〝買える〟(交換できる)かを知ることができるということになる。

 もっとも一般的な分業関係が現実になっている高度資本主義の社会の中で、諸商品の「価値規定」は、これまでの生産力の段階や科学技術のレベルでは、それほど容易ではないから、残念ながらとりあえずは、〝商品の価値規定は理論的には〟可能という条件付きで言うしかない。

 こうした可能性が現実性に転化するためには、現代の怒涛のような情報革命のさらなる深化や前進や、社会経済関係の社会主義的関係への転化や、生産的労働を根底とする社会関係への再編、再組織等々を前提するしかない。

両者の同一性と差別性

 話が大分それているが、要するに、冒頭の〝単なる〟商品(〝単純商品〟とも言われるが、同じ意味)の理解を全うするには、資本家的商品との同一性と差異性を自覚して学習を始めるべきということである。

 同一性というのは、両者とも労働生産物を商品として生産するという点である。

 資本主義もまた生産物を商品として生産する点で、単純商品社会と違いはない、というより生産物の全てを商品として生産する限り、資本主義こそ徹底した、〝完全な〟商品生産社会であると言える(ついでに言えば、労働者も自らの唯一の〝所有物〟である労働力を、資本家の貨幣=可変資本と交換して(売って)賃金をもらって生きて行くのだから、商品経済に丸ごと包摂されているのである。

 では両者の差異性はどこにあるのか。マルクスは単純な商品生産の社会の価値関係は簡単であるとして、孤島で一人で生活し、生きて行くロビンソンの「価値関係」について述べている。彼は生きて行くために、自分の一日の労働をいくつかの部分にただ分割するしかない。

 「彼とても色々な欲望を満足させなくてはならないのであり、したがって道具を作り(生産財)、家具をこしらえ、ラマを馴らし、漁猟をする(消費財)など、色々な種類の有用労働をしなくてはならないのである」、「彼の生産的諸機能は色々に違ってはいるが、彼は、それらの諸機能が、同じ彼の色々な活動形態でしかなく、従って人間労働の色々な仕方でしかないことを知っている。必要そのものに迫られて、彼は自分の時間を精確に自分の色々な機能の間に配分するようになる」、「彼と彼の自製の富をなしている諸物との間の一切の関係はここでは全く簡単明瞭なので、(誰でも)特に心を労することなく、理解することができるであろう。しかもなお、そのうちには〝価値〟の全ての本質的な規定が含まれているのである」(『資本論』1巻、全集102頁、原典91頁)。

 そして孤島にもう一人の人間、フライデーが加わることになり、二人の共同体の社会になると、問題はいくらか複雑になるが、その場合でも分業関係はまだ単純であるから、〝価値〟の概念や価値規定の関係も容易に理解できるだろう。

 しかし現在の高度に発展した生産力や、無限ともいえる広がりを持つ分業社会においては――そこでは一つの生産物と言えども何千、何万人もの労働者の分業の結果であり、それらの分業関係も縦横に関係し、絡まっているとなると――、果たして個々の商品(もしくは社会的な性格の労働によって生産された諸物)の「価値規定」(〝価値〟物の労働時間による規定もしくは表現)は絶望的に不可能であるかに見える。

価値規定問題と「有用労働による価値移転」問題との絡み合い

 話は少しそれるが、我々の社会主義における消費財の価値規定は可能か、不可能かというスターリン主義者ら(共産党)との論争とは別に、それとある程度並行して、我々の内部で、ここ10年、20年にわたって、「有用労働による価値移転」問題に関して延々と続く論争があり、ようやく最近、それも社会主義おける分配問題という困難な問題の解決とほぼ時を同じくして決着した。

 そしてそれとともに、この二つの理論問題が、実際には深く関係していたことも明らかになったのである。

つまり「価値移転」論といったものが、資本主義についての、資本の運動についてのブルジョア的意識であり、その反映であり、理論的に不合理で、つまらない俗論であることが暴露され、否定されることによって、はじめて社会主義における分配法則の〝解〟が見出されたのであり、また反対に、その〝解〟が解けて初めて、「価値移転」論がナンセンスな空文句であることも最終的に確認されたのである。

 林らが価値移転論に対する批判を10年、20年ほど前に始めたきっかけはもう記憶していないほどだが、そんな立場を最後まで貫いたのは、社会主義における分配問題との関係を意識してのことではなく、「有用労働による価値移転」などと言い始めると、マルクス主義の〝労働価値説〟の根底が歪曲されて、その本質があいまいにされ、それとは全く別のものに転化して行くと、いわば〝直感〟したからであって、その〝直感〟の正しさは最終的に確証されたのだから、〝直感〟と言えども、場合によってはバカにすべきではないと言うことだ。

 黒田哲学の「〝プロレタリア的〟主体性」の観念論ではないが、労働者は自らの階級的な〝直感〟を信じ、そこから出発して頑張っていい場合はいくらでもあって、不合理、非合理のたわ言や非階級的な俗論を操り、平然と虚偽や暴言まで吐く、ブルジョアやプチブルらに反撃し、無条件に断固として闘うべきであろう。

 ただしいつも〝直感〟ばかりに頼って、その直感を理論的、思想的に高める努力をしなければ、〝直感〟はしばしば狭い意識と不可分であり、そんな段階の意識で満足し、そんな立場に留まるなら(アナーキストや、軽薄な〝直接行動主義者〟や左翼組合主義者、さらには新左翼諸派の愚か者たちのように)、有害な、間違った立場にたやすく、また不可避的に転落し、堕落することを決して忘れるべきでないのは勿論だが。

最後に

 我々の『資本論』の学習や『資本論』の諸部分に対する解釈の違いや理解の違いにおける議論は、ある意味で『資本論』を超える認識にまで進んだが、その中でも、この間に我々の達成した理論的な成果は決して小さいものではなかった。

 マルクスが『クーゲルマンへの手紙』で述べたように、「歴史的に種々に異なる諸状態のもとで変化し得るものは、かの諸法則が貫かれる形態のみです」と強調したように、あの「自然法則」が、すなわち社会主義の下での生産関係や分配関係が現われ、貫徹することが確認されるのである。      (林紘義)


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