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労働の解放をめざす労働者党機関紙『海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1369号 2020年1月19日
【一面トップ】脱〝共産党宣言〟――語るに落ちた綱領改定
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】衆院選参加も検討――労働者党は闘いを継続する
【二面トップ】それは明示できるか――商品を生産する労働時間

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【1面トップ】

脱〝共産党宣言〟
語るに落ちた綱領改定

 共産党28回大会は、綱領を改定する。主な内容は、中国などを「社会主義」と呼んできたことを削除したことであり、さらに社会主義・共産主義の変革は発達した国の「大道」としたことである。志位は、綱領改定は一部の改定だが「綱領全体を生命力の一段と豊かに発展させる意義を持つものとなった」と自画自賛しているが、中国=社会主義の幻想の破綻と志位共産党の腐敗・堕落の一層の深化を暴露するものである。

中国=社会主義論の破綻

 綱領改定の中心は、中国についての評価の見直しである。綱領はこれまで、「第二次世界大戦後には、アジア、アフリカ、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義国からの離脱の道に踏みだした」と述べているが、現在では「社会主義をめざす」国ということは出来なくなったとして、これを削除する。

 その理由として、志位は、中国が軍備を増強し、東シナ海での領有権の拡大を図るなどの覇権主義的行動やウィグルや香港などでの人民、労働者の抑圧などを挙げている。これまでさんざん共産党は中国が社会主義をめざしている国だといって、社会主義にたいする間違ったイメージを労働者の間にもちこみ、ブルジョアが社会主義に対する不信や反感を広めるのを助け、労働者の階級意識を混乱させてきたのである。

 我々は、文化大革命以降の中国についてスターリンのソ連と同じように一種の資本主義=国家資本主義であり、覇権主義的行動はブルジョア帝国主義大国になりあがった結果だと批判してきた。ところが、共産党は、中国は社会主義を目指す過渡期の国家であり、社会主義へ到達するまでにはいろいろ誤りや試行錯誤があると言って、弁護してきたのである。ところが今になって、これまでの自らの主張についてなんの反省もなく、中国が「社会主義の国」とは言えないなどといって恥じないのである。

 大会では代議員から「賛成だが、もっと早ければよかった」という声が上がったが、中国は搾取のない社会主義の国だという共産党の主張が誰からも受け入れられなくなったこと、信用を失い破綻したことを暴露している。

 中国=社会主義という文言は綱領から削除されたが、覇権主義や労働者、人民を抑圧するする国家はいかなる体制の社会なのか。これに対して志位は、「どんな経済体制をとるかは、その国の自主的権利に属する問題であり、基本的に内政問題だ。……政党として特定の判断をすれば、内政への干渉になりうる問題となりえます。」と答えている。

 だが労働者政党なら、大国主義や覇権主義を推し進めている国家を徹底的に暴露し、闘うであろうし、闘わなくてはならない。そうでなくては大国主義や覇権主義への闘いは一貫しないし、それと闘うことにはならない。

 志位の経済・社会体制批判は、「内政干渉」になるから行わないというのは、大国主義や覇権主義は政策の問題であって、「誤った」政策を正せば解決といった日和見主義である。志位のこうした発言は、帝国主義は金融資本らの好んで用いる「政策」だといった、第二インターのカウツキーと結局は同様な立場である。カウツキーは帝国主義を政策に歪曲し、独占資本の体制の打倒という労働の革命的課題から関心をそらせ、労働者を裏切った。志位もまた中国の大国主義、覇権主義に対して、国家指導者の誤った政策に反対し、国家間の平和、協力関係を打ち立てようというプチブル平和主義に行きつくのである。

偽りの発達した資本主義での社会変革論

 また綱領改定では「発達した資本主義国での社会変革は,社会主義・共産主義への大道」という文言が新たに書き加えられた。志位はこの意味について、発達した資本主義では、「高度な生産力」、「経済を社会的に規制・管理するしくみ」、「自由と民主主義の諸制度」など社会主義・共産主義を建設するために必要な前提がすでに豊かなかたちで成熟しており、『豊かで壮大な可能性』が存在する」ということだと解説している。

 だが、志位は、発達した資本主義国では社会主義を現実とする客観的条件があるともっともらしく語りながら、「多数派」を形成していかなければ社会主義に前進していくことが出来ないのに、「多数派」を形成する「困難」があると強調する。共産党は、「賃上げと安定した雇用、長時間労働の是正など、八時間働けばふつうにくらせる社会は、人間らしい生活をという希望にこたえ、持続的可能な経済社会に向かうために必要」とか、医療・介護・年金など社会保障切り下げを阻止し、「拡充」して「暮らしに希望が持てる政治改革」とか、「消費税5%減税で国民のくらしを守り日本経済を立て直す」とかいった運動をもちあげている。

 同時に、核兵器反対運動やジェンダー平等運動、温室効果ガス削減運動などもろもろの小ブルジョアの平和運動、社会運動を「多数派」形成の契機として持ち上げている。

 とりわけ重視しているのは野党共闘である。野党共闘を進める大会の決議案には日米安保条約の廃棄、憲法9条の完全実施(自衛隊の解消)、など党自身独自見解を持ち込まないと書かれ、志位は「この改正案は共産党に対する誤解、偏見を取り除くうえで、大きな力を発揮する」といっている。実際、志位は、国・民の玉木代表とも会談し、安保条約も自衛隊も天皇も認めると述べ、共闘を呼び掛けているのである。

 共産党は、資本主義の根本的変革ではなく、資本の支配の下でのもろもろの改良運動や平和運動を展開していけば多数派を形成することが可能になり、「民主的改良」を通じた経験は、将来の社会主義へ前進していく国民的「合意」を獲得していくことが可能になるというのである。

 だが、共産党がいう「資本主義経済の民主的改良」の下での「豊かな安定したした生活」にせよ、平和にせよ、男女平等にせよ、温室効果ガス削減にしろ、資本の支配を克服せずには何一つ根本的な解決はない。 にもかかわらず、共産党は共闘のためにと言ってこれまで自分の原則だと言ってきた安保条約破棄や自衛隊反対をとりさげ、天皇を認めるなどしているのである。「発達した資本主義国での社会変革は社会主義・共産主義の大道」という文言が新たに付け加えられたのは、社会主義のための闘いを放棄し、自らの改良主義・日和見主義を正当化するためである。いまや共産党は、西欧の共産党が共産主義の看板も投げ捨て、社会民主主義の党になったのと同じ道をたどっている。

     (田口)

   

       

【飛耳長目】

★共産党は綱領を改定し、中国について、「社会主義を目指す国」という規定を削除した★今ごろになって、やっとである。しかしこれは不破や志位らが、天下の大バカ者であることを白状したに等しい。というのは、今のロシアは言うまでもなくスターリン支配下の旧ソ連や、毛沢東の支配下の中国も、旧〝実権派〟の孫子(まごこ)の鄧小平や今の習近平らも、みなブルジョア的存在であり、すでに「社会主義」的存在でないばかりか、むしろ帝国主義的存在にさえ転落していることは周知のことである★我々は一貫して、ソ連や中国などを「市場経済型社会主義」と呼んで美化する共産党の連中に対して、そんなものは「幻想だ」と非難してきたし(我々の綱領の前文)、また中国等々は「生成期の社会主義」であるから、ありとあらゆる悪党がはびこり、苛斂誅求そのものの悪政が行われ、帝国主義政策さえ露骨に採用されようとやむを得ないと、スターリンや毛沢東や習近平らの専制権力や悪行を事実上正当化し、美化してきた宮本や不破らを労働者・働く者の裏切者、最悪の敵として告発し続けてきた★そして今回の共産党の綱領の手直しで、勝負はついたと言える。彼らはとっくの昔に破綻したスターリン主義の悪臭芬々たる汚物を垂れ流すだけの醜悪な存在であり、だからこそ我が労働者党が誕生し、闘いを開始したし、せざるを得なかったのである。(鵬)

   

【主張】

衆院選参加も検討
労働者党は闘いを継続する

 激動の年が明けました。

 安倍が解散・総選挙に、今年中に打って出るかどうかはまだはっきりしませんが、五輪後に勝負に出てくる可能性は大きく、そして勝てば、憲法改定や、さらなる政権の延命さえ見えてきて、来年9月の党総裁選で再び、三度、党の規約を変えて、4選さえ狙えるというわけです。

 安倍政権と闘うに、無力で、空虚な共闘路線に賭けるしか能のない野党や共産党、しかもそんな野党共闘の試みさえ野党はてんでバラバラ、自らのちんけな党の利害や沽券やメンツだけにこだわっている現状を目の当たりにして、小池新党に負けるのは必至と見られた17年の衆院選に、野党共闘の分裂、解体に助けられて大勝したひそみに倣い、安倍は、柳の下にまたどじょうがいるとばかりに、再び、三度、解散・総選挙を仕掛けて来る可能性が無しとは言えません。

 他方わが党は、飛躍を期した昨年の参院選で代表委員の二人が病に倒れ、中央体制が麻痺し、完全に党の闘いの勢いを失い、武運つたなく、れいわ新選組とかのえせ左翼ポピュリズム政党とか、N国などの右翼ポピュリズム政党の後塵を拝することになって議席獲得に至りませんでした。

 我々は安倍政権と闘う闘いを、消費増税とその転用に反対する闘いとして位置づけ、消費増税反対やその減税や廃止を謳う野党や共産党、れいわ新選組らと一線を画し、そんな政治闘争では安倍に大敗すると確信して闘いましたが、闘いを貫徹できず、挫折したのは残念無念至極でした。

 しかし我々の闘いは続くし、続けるべきと思います。

 来年安倍が延命をかけて解散・総選挙を仕掛けて来るなら、我々もまた闘うしかないという意思を代表委員会は持っています。昨年の参院選で手痛い敗北を喫し、財政的にも「長者の万灯より貧者の一灯」をスローガンに、4200万の供託金も4200人の労働者・働く者の皆さんの1万円カンパで確保するという方針も中途半端に終わり、「今回の選挙は借金なしでやる」と決定して闘ったのに、最後には、やむなくかなりの借金を余儀なくされ、改革路線の一つの柱である中央体制の拡充強化という方針も進んでいない状況ですが、17衆院選の神奈川11区のように象徴的闘いとしてやるなら、供託金も300万だけで済み、闘うことは十分可能です。

 私たちは、参院選の敗北を厳しく点検し、今後も闘いを継続し、いくつもの重要な改革を断固として実行し、七転び八起きの精神と不死鳥のごとき決意で、再挑戦することを大会で確認しました。

 参院選中に事実上解体した中央体制を再編・強化し、機関紙海つばめの週刊化や、インターネット・プロパガンダを有効に利用して、党と我々の闘いの発信力を強め、また思想闘争の柱としての『資本論』学習会も決定的に改革し、新しい形と内容でもって闘い抜くことも決めています。

 こうした闘いは、すでに年頭から実行に移され始めており、我々の集団的宣伝者や、共同した階級的な闘いへの呼びかけを広く行い、党への結集を呼びかける組織者でもある機関紙の週刊化も、今号から実行に移されました。労働者の、そして我が党の闘いの中心の手段でも核でもあり、また重要なシンボルの海つばめを労働者の中に広く浸透していく課題に、読者の皆さんのご協力をお願いします。

 そして今後は毎週、お手元に届く海つばめによって、我々の安倍政権や日和見主義派に対する闘いを確認され、共に闘ってください。

 我々は宣伝活動にも力を入れ、街宣活動やビラ配布闘争も貫徹する覚悟であり、そんな闘争も徐々に活発にして行きます。街角などで見かけましたら、どうか共に闘ってください。


【2面トップ】

それは明示できるか
   商品を生産する労働時間

 我が労働者党は、現行綱領で、未来社会(普通には〝社会主義〟という言葉で表現される社会)の最も重要で、基礎的な契機として、「労働時間による分配」の実現を重視し、語ってきました。

 しかしさらにこの問題について議論し、深めた結果、現綱領の規定は便宜的な規定、「次善の策」(党内文書『通信』13号)であって、論理的にきちんとし、万人の認め得るものにしていくということを我が党は確認しています。

 改革された、新しい形の『資本論』学習会が全国的に始まろうとするとき、この問題をより明確にし、「(労働者、直接的生産者の)労働時間による(消費財の)分配」の法則(概念)を明らかにする重要性を我々は確認し、綱領改定の問題とは別に、新年初の『海つばめ』紙上でこの問題を論じることにします。

1人、2人なら問題は簡単

 社会が一人、二人なら、この理論問題は簡単に解決されます。

 マルクスは『資本論』冒頭で――と言っても1章の4節、ブルジョアたちの「物神崇拝」を論じた部分ですが――、初期資本主義の特徴と時代的雰囲気を代表したデフォーの小説の中で、ロビンソンの生活について言及し、この問題は簡単に解決され、自然発生的に行われている、彼は自分の1日の生活――とりわけ〝経済生活〟――において、生活のための時間を、生産財(この場合は単純な〝道具〟等々であって、複雑で、大規模な機械ではありませんが)やあれこれの消費財の獲得(すなどりつまり魚取りや、けもの狩りや、家具を作る等々)、あるいは余暇のためにさえ、一日の労働を、生活の時間を分割することを述べています。

 そしてマルクスは、ロビンソンの生活を支配する労働や活動と消費の関係は明確で、単純であり、資本主義経済の外皮をはぎ取った社会における〝社会主義〟、人々の労働や生産と、消費の関係でも適用できる、根本は同じだ、それが「自然の法則」だと言っています。

 しかしデフォーの小説では、ロビンソンの島に黒人のフライデーが漂着し、一人の世界が二人の世界になり、生産も消費も複数の人間の間の関係、少し複雑な関係になったことも描かれています。

 具体的に、どんな分業関係になったのか、ならなかったのかはすでに記憶していませんが、仮に生産財(道具など)と消費財(魚の確保で代表させます)という、最も基礎的な分業関係になったと想定しましょう(二人で共同して道具を作り、また共に仲良く魚取をしたこともあり得ると思いますが)。とりあえず能率と効率や、あれこれの都合のために、こうした分業関係が始まり、徹底して行ったと想定してください。

 手先の器用さや道具作りに長けていたフライデーが魚取の道具を作り、ロビンソンが魚取りに専念した結果として、獲得される魚は多くなったとしますが、分業による生産力の発展はこの際は無視します(生産力の大きな発展はあり得たとしても、我々の理論とは直接関係ないので、生産力は一定と仮定します)。

3人の場合

 しかし、3人にまでになると分業は広がりを持ち始め、まさに端緒的な〝社会的分業〟関係が生まれてきます。 

 3人の分業関係は、生産財のうちの労働手段A(機械等々)と労働対象B(原材料等々)の二人と、消費財を生産するCとします。3人の生産する財の労働時間は、それぞれ3とします(数字は労働時間の、一般的には時間の長さの単位です。10時間、100時間でも、日や週や年という単位を用いても構いません)。

 各人の生産物はそれぞれ3分の2は他の人と全面的に交換され、消費されるかし、残りの3分の1は自らが消費します。当然のことですが、A、Bの生産財は生産的に、Cの消費財は個人的に、ですが。この3者の交換関係を図示すれば次のようになります(図参照)。

 社会の総労働時間は9、各人の労働時間は3ずつ、従って図の3人の柱の中の3つの部分の労働時間は、各1ということになります。

 「自然的な有機的構成」は2(AとB)対1(C)です。

 つまり生産財の生産のための労働時間は全体の3分の2(AとB)の比重(6)を占め、その中でも、「生産財の生産ための生産財(A)」を生産するのはその半分(3)、したがってまた消費財を生産するための生産財Bは残りの半分(同3)になり、他方、消費財Cの生産のための労働時間も3ということになります。

 単純な再生産――拡大再生産つまり膨張や拡大や、ブルジョアが大いに気にする、〝成長〟という契機のない社会――では、再生産のためには、各部門の生産財、消費財は図のように交換され、再配置され、生産的に、個人的に消費されます。

 すなわち、生産財A部門の生産財はBの生産財とCの消費財を生産するために配分され、Bもまた同様に、Aの生産財とCの消費財を生産するために転用され、Cの消費財はAとBの〝労働力〟を再生産するために――ブルジョア的な言い回しですが――、つまりCだけでなく、A、B部門の労働者が、自らの労働時間に対応する生産物(消費財)を個人的に消費し、享受するために配分されます。

 もちろん生産物を、各人が「労働時間によって配分する」と言っても、配分するのはそれぞれの生命の維持し、存続させるための消費財だけですから、問題は3人の場合、それがいかにして、どんな形でなされ得るか、その法則はどんなものかということです。

 それを見るためには、消費財を生産する場合の労働者について語るのが一番いいと思いますが、彼が1日3時間労働をして魚――獲得された魚は1匹と仮定して――をどう分配するかという問題を考えてみても、直接魚取りを行ったCが、魚1匹を自分の労働だけで占有できるかというと、そういうことにはなりません。1匹の魚獲得のために必要な労働時間は、合計すれば、想定によって3になるからです。

 Cの労働者は、自分の3の労働で3の消費財の全て生産しています、しかし他方では、3のうちの2は、価値規定によれば、AとBの労働者の生産した生産財の労働時間で、その部分はAとBの労働者の生産した使用価値としては生産財ですが、価値(労働時間)による規定としては消費財であり、だからこそCの消費財と交換されます。Aの労働者もBの労働者も、消費財の集積所に行って1という労働時間の証明書など提示して、もしくはそれと引き換えに、1の労働時間に匹敵する消費財を、自分の欲求を満たす消費財をめでたくゲットできます。

 3人の労働者が消費財を分配するといっても、Cが捕獲したのが3匹の魚なら1匹ずつですが、1匹だったら、各人は3分の1匹しか手にできません。

 そしてこうしたことは、価値規定でもはっきりします。魚は3匹であれ、1匹であれ、その労働時間はいずれも、2種類の生産財の労働時間と魚を獲得する労働時間の和であり、魚を捕獲する労働時間の3倍です。この関係は、他の生産財を生産する労働者でも同じです。

 つまり3人の労働者はみな、消費財獲得のための労働時間の3倍でなくては、消費財(魚)を手にすることができないということです。 

 広汎で、全般的な分業の中で、商品を生産し、価値が、そうした多くの分業の中で商品の価値規定が行われる場合には、消費財の価値規定は、したがってまた労働時間による消費財の分配は、消費財を獲得(生産)する労働時間に規定されて行われるしかないのですが、その労働時間は図からも明らかなように、1+1+1=3であって、1でも9でもないのです。

 したがってまた消費財の生産のための労働が、全体の総労働の3分の1であるのも当然であり、それが3分の1の労働時間(労働者)にではなく、全体の労働時間(労働者)によって分配されることになるのも当然結果となります。

 かくして、3人の労働者は等しく自分の労働時間を証明する証書でも書付でもいいのですが、そんなものを持って、社会の消費財の集積所に行って、自分の労働時間の枠内で、自らの要求や欲求に従って、好きなだけ、消費財を取得できるということになります。しかしそれは〝無条件〟でも〝無制限〟でもありません。というのは消費財の集積所には――巨大スーパーや、郊外の巨大ショッピング・モールといったものを想定してください――、無数の、無限ともいえる消費財があり、自分が欲しいと思う品物があり、容易に獲得できるのですが、しかしここでは生産物の「価値規定」――その消費財の生産に要した労働時間の表示(もちろん価格表示、定価表示というものとは全く別のものですが)――という〝障害〟が大手を広げて立ちふさがっています。

 それは、労働者は自分の支出した、社会的労働時間の限度内でなければ、どんな消費財を手にすることができないということです。

 しかし〝困難〟はそればかりではありません。

 個々の消費財の労働時間表示は、その消費財のために支出された、直接の労働時間だけでなく、分業によって生産に関与している、生産財のための労働時間も加算されていることです。つまり労働者の労働時間の3倍の労働時間の〝正札〟がつくということです。

 生産物の集積所に行って、労働者がコメを手にしようとすれば、農業者の労働時間1に対してだけでなく、農機具や肥料等々のための労働時間2にも〝払わ〟なくてはコメを手に入れられません。乗用車を手にしようとする労働者も同様で、10の労働時間ではなく、30の労働時間を必要とするでしょう。

 労働時間による分配法則が、全く文字通りの意味で理解されるなら、大きな〝矛盾〟もしくは理論的な〝困難〟が存在します、というのは生産物(消費財)は、常に消費財の生産のために支出された労働時間を超えて、生産財の労働時間(農作物の場合についていえば、農機具とか肥料等々の生産に要する労働時間)も含んでいるからです。

さらに大きな 〝困難〟

 広汎な分業の中で生産が行われ、個々の生産物のための労働時間が確定されるのは発達した資本主義の時代では全く不可能に見えます。例えば、乗用車などは何百、何千の〝部品〟のかたまりのような消費財ですから。そんな数字の処理が可能になるのは、つまり無限に多種多様な多数の消費財の生産に必要な労働時間の大きさを確定することは、現在進行中の〝情報革命〟によってのみ、高度なコンピューター(量子コンピューター等々)やAI等々の技術に拠らなくてはならないでしょう。というか、そうした技術の深化もしくは労働生産性の大きな飛躍があってこそ、労働時間による分配も、つまり〝社会主義〟も可能になり、必然になるといえます。

 しかしもちろんそのことは、理論的に可能だということであり、現実的に可能ということとは別問題です。それが現実性に転化するためには、他の社会的な条件が整うことが必要十分条件であることは言うまでもありません。

 未来社会における、分配関係――つまりそこにおける人々の〝経済的〟関係の根底と、とりあえず言っておきます――は「個々人の労働とその時間的大きさ」によって基本的になされ、総括され、規定されるのですが、それはすなわち、商品生産社会(市場経済)も、資本主義経済も、つまり、搾取や差別も自由の抑圧も一切廃絶され、一掃され、階級関係も権力支配もどんな奴隷的存在も止揚され、痕跡さえも無くなって行くということです。

 「労働時間による分配」が可能になり、行われるようになって、ありがたい神のような存在だとスミス大明神が言われた「市場経済」や、搾取と抑圧の体制の資本主義のお世話になることもなく、また社会は、人類は、絶望やあきらめのために発狂して、搾取や差別や環境破壊や核戦争や経済不況や、狂暴で人類を奴隷状態に陥れる、専制権力や野蛮で凶悪なファシズム等々に逃げ込むこともなく、穏やかに、長く世代をつないでいくことができるでしょう。

我々の実践的な問題

 我々は現綱領では、消費財を生産する労働時間の3倍の労働時間でおおよそ分配が行われるとしましたが、結果はほぼ一致するにしても、〝次善の策〟、つまり便宜的の概念規定であって、厳密には正しい規定ではないと、我々はすでに総括しています。

 これこそ、我々が「労働時間による分配法則」という概念に即した形で、さらに点検し、展開する必要を確認した理由です。

 今我が党は、『資本論』学習会も新しい改革路線に沿って心機一転、再組織しようとしています。こうした問題意識をもって『資本論』学習会を組織し、取り組むことと、従来のやり方で漫然と行うことは、同じ『資本論』学習会をやるにしても天と地ほどの隔たりがあると考えます。

    (林紘義)


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