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労働の解放をめざす労働者党機関紙『海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
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  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1371号 2020年2月2日
【一面トップ】空洞化した〝春闘〟――マスコミ知識人は饒舌にふけるだけ
【1面サブ】共産の子供騙しの〝戦術〟――他党をペテンにかけて社会主義へ?
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】資本のため働く――「賃上げで経済再建」論を糾弾する
【二面トップ】前々号の図表について――読者から「斜線」は何と質問
【二面サブ1】読者からの疑問に答えて――『海つばめ』1369号林論文
【二面サブ2】没落社民どこへ行く――前途多難な野党共闘

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【1面トップ】

空洞化した〝春闘〟
マスコミ知識人は饒舌にふけるだけ

 春闘たけなわである。と言っても、かつてのように、労働者の全体が曲がりなりにもストライキなど実力行使を構えて、企業やブルジョアに生活改善や向上を目指して闘うといった〝春闘〟ではなく、経営者と組合が〝平和的に〟会議し、談合して、賃上げ率や労働者の賃金形態はどんなものがいいのか、経済と企業の利益や成長のために話し合い、協力するための場にすっかり変質してしまっている。労働者の〝総がかりの〟階級的な闘いであり、行動であるといった面影はどこにも残っていない。

 28日、連合と経団連のトップ会談が開かれ、まるで春闘といったものが存在するかに、そしてそこで何か重大で意義あることが行われているかのマスコミの報道がなされている。

 しかし実際にあるのは、毎年なされる恒例の労使――労働組合のダラ幹と経営者――の、慣例的で、義務的ななれ合いのおしゃべりの報告だけである。

 しかし24日、毎日新聞は、経団連の春闘方針に「賃上げ回避が狙いなのか」と非難の声を上げている。経団連は、「春闘の意義そのものに疑問の声を上げた」が、間違っているというのである。毎日は、最近の春闘のあり様(よう)から話を始める。

「近年の春闘は、デフレ脱却を目ざし政府が経団側に積極的に賃上げを促す構図になってきた。

 13年以降、基本給を一律に引き上げるベースアップ(ベア)を含む2%台の賃上げが続いてきた。しかし『官製春闘』には限界があり、幅広い賃上げによる個人消費の活性化という好循環を実現していない」。

 毎日は力んでいるが、一体何を言いたいのか。

 『官製春闘』が掛け声だけで、実際的な意味を持たなかったというなら、それはその通りである。

 安倍政権の最初の何年間か、労働者・働く者の支持をかき集め、政権への幻想を広げるためにやられた賃上げキャンペーン(『官製春闘』)が、実際的な意味をほとんど持ち得ず、ダラ幹や共産党などの、「春闘賃上げ=デフレ脱却、景気回復、経済成長」といった、幻想や空虚なドグマを抱く連中を少々喜ばせただけの、つまらない空騒ぎに終わったのはごく当然のことであった。

 しかし毎日(マスコミインテリら)は、「幅広い賃上げによる個人消費の活性化という好循環」というブルジョアや共産党らの野党の「幅広い賃上げによるデフレ脱却」といった観念を繰り返しているが、そもそもそれがどんな観念かについては一言も語ってはいない。

 「デフレ脱却」のための賃上げとは、どんな賃上げか。

 広汎な中小零細企業の労働者や非正規の労働者を含めての賃上げということか。そんなものがいかにして、今可能なのか、誰によって、どこで組織され、実行に移されようとしているのか。

 さらにまた、広汎な賃上げによる「個人消費の活性化」とは何なのか。仮に労働者の派手な賃上げがあれば、消費が拡大して、デフレ脱却や経済成長がやって来て、「経済の好循環」が訪れ、日本の資本主義は万々歳だといった共産党ばりのたわけた幻想を、自由主義派のマスコミも共同し、信奉するというのか。

 そうだとしたら、日本の自由主義的世論といったものも、ナンセンスで、空っぽで、内容のないものだと結論するしかない。

 個人消費の拡大が経済の好況、不況を左右するなどと言うのは、ケインズ派やスターリン主義派の唱えた、間違った観念であって、そもそも不況や恐慌が国民の〝過少消費〟が原因であるなどと言う論理は、とてもまともな経済理論と言えないようなしろものである。

 国民経済における個人消費が総生産=総消費の過半の比重を占めているからだなどというのはドグマであって、国民総生産(総売り上げ)から生産財の生産や売り上げや消費(生産的消費)を除外し、〝抹殺〟するといったナンセンスをやっているからにすぎない。もし生産財を問題にするなら、個人消費ではなく、生産的な消費こそが最大の比重を占め、したがってまた最大の〝需要〟を構成することがたちまち明らかになるのである。

 そもそもカネをバラまき、人為的に消費や需要を膨らませるといった、そんな場当たりで、姑息で、一時的な効果しか見込めないやり方で、仮にぐじぐじと委縮したインフレくらいならもたらし得るかもしれないが、経済困難や不況やデフレなるものを一掃し、景気回復や経済成長を可能にし得るなどというのはしょうもない幻想であろう。

 そんなことしか考えられない、愚鈍なブルジョアや安倍政権や共産党を先頭とする野党によっては、永遠に経済成長や経済のいくらかでも持続的な「好循環」など決してもたらし得ることはないのである、というのは、彼等は資本主義についても、その矛盾の根底についても何ごとも知ってはいないからである。

 発展した資本主義にあっては、どんな大恐慌でも、最もひどい打撃や被害を受け、最も後退が激しいのは、常に生産財の企業であり、産業であるのは、すべての統計が教えている。消費財産業では恐慌の打撃は比較的小さく、従って恐慌の回復もまた消費財産業から始まるのである。

 だが毎日はまだ主張する。 「だが春闘は今も非正規社員を含めた賃金全体の底上げを図る重要な意義を持っている」。

 そうしたことは、言うは易く、行うは難しである。商業マスコミ、ブルジョアマスコミは、いかにしたらそれが可能かを語るべきである。それができないなら、彼等は永遠に、有害無益で、無力な口舌の徒に留まるしかない。

   

【1面サブ】

共産の子供騙しの〝戦術〟

他党をペテンにかけて社会主義へ?

 志位共産党は野党共闘のために、ありとあらゆる原則を放棄し、立・民や国・民に追随し、思想的、実践的な裏切りに精を出しているが、最近、「多様性の中の統一」などと言って、ブルジョア的な「多様性」のドグマを振りまいている。

 しかしドグマ化された「多様性」のイデオロギーはまさに個人主義者のブルジョア的本性を暴露するたわ言ではないのか。 

 志位は最近の大会でも「多様性」についても大いに語っている(赤旗1月15日号)。

 「日本共産党は、日米安保条約、自衛隊、天皇制などで独自の政策を持っています〔「独自の政策」どころではない、労働者を裏切って、それらをすべて認め、肯定したのだ〕。資本主義を乗り越えて社会主義・共産主義に進むという展望をもっています〔ブルジョアと協調して、どんな展望を持てるというのだ〕。私たちは、これらの独自の政策や展望を大いに語ります〔ごまかしと詭弁なしに語れるならいいが、そんなものを信用する労働者は一人もいないだろう〕。同時に、それを共闘に押し付けることは決してありません〔自分の原則を語れないから、卑怯にも逃げているだけだ〕」。 志位共産党は、今は共闘のために語らないが、いつか社会主義に進むときには本心をあかす(それともその時も明かさない?)というのだ、今は要するに、野党共闘によって、立・民や国・民の愚か者をペテンにかけて、衆院選でも票と議席を増やそうというのである。

 また志位は〝多様性〟についても、そんなプチブル的な、ありふれた、流行の観念を絶対化して、つまらないドグマを持ち出している。

「多様性を大切にする政治を目指す。そこに至る道も多様性を大事にする。……野党間で、多様性をお互いに尊重し合ってこそ、『多様性を大切にし、個人の尊厳を尊重する政治を築く』ことができる。これが私たちの確信であります」。

 志位は美辞麗句では政治をすることはできないということを、民主党の鳩山(政権)の失敗と挫折から学ばなかったのは残念なことではある。

 要するに志位は、「多様性」を大事にし、安倍政権であろうと、野党の立・民や国・民の日和見主義や裏切りであろうと大目に見て、〝キリスト者〟よろしく、「すべてを許す」とのたまうのだが――しかし今は階級社会である、ブルジョアや安倍らのような卑しい反動や日和見主義者を簡単に「許して」いいはずもない――、それが本当かどうかは、これからゆっくり見させてもらうとしよう。

 ただ立・民と国・民の間でさえ、多くの「互いに譲れないところ」があって、党的な統合ができなかったのだが、共産党なら大丈夫だと、どうして言えるのか。

 志位が問題にしているのは党的な統合ではなく、野党としての統合だと強弁しても無駄である。野党共闘が政治勢力としての統合であるなら、共産党と野党共闘派もしくは個々の野党共闘派の政党間でも起こらないと誰もいうことはできないからである、否、むしろ国・民と立・民の間で起こったことが繰り返されることは、ほとんど不可避であり、必然のように思われる。

 ただ共産党がお人よしを装って、いくらでも本心を隠して――まともな本心(真実への信念や尊重、帰依)さえないとするなら、隠す必要もないのだが――、妥協し、他党のいうがままにするなら、困難から逃れ得るかもしれないが、相手が3つも4つもあるとするなら、どうしようもない困難に行きつかないとどうしていえるのか。

 例えば、原発問題で、立・民と国・民が同じ立場で合意できることは難しく見えるが、共産党とはどの野党と結び、そして諸野党を一つの戦線にまとめることができるのか。我々はお手なみ拝見と行くことにしよう。

 哲学的に論じれば、類的存在があって個別性があり、個別の中に普遍があると同様に、統一性があってこそ、多様性がある。人類があって、個々の人間があり、したがって個々の人間はみな個人的存在として多様性である、つまり他人と区別される存在、多様な存在だが、それもまた類的存在としての人間という統一性の中でのことである。

 そもそも人間としての概念(統一性)がなければ、障碍者もまた個々の人間(多様性)として認められないという単純な真実を、なぜ多様性論者たちは簡単に忘れることができるのだろう。

 とどのつまりは、彼らがみなブルジョア社会における、醜悪な個人主義者、自己中心主義者であって、類の一員としての自覚を欠いているということでしかないのではないか。(林)


       

【飛耳長目】

★小泉進次郎が、国会で育児休暇を取って子育てに参加したことを得々と語っている。「風呂、おむつ、ミルク作り」をやったとか、「育児」は全く休みがない、「子供を育てる」ことは大仕事だ、と分かり切ったことを能天気に語っている★小泉はおままごとのような育児経験よりも、せめて乳幼児を抱え、差別賃金の下、悪戦苦闘している片親の家庭における子育てをやってみるべきではないのか★彼にとっては、育児休暇も育児の経験も、単なるパフォーマンスの一つでしかないのだが、それは彼の政治そのものがそうであるのと同様である。我々はすでに17総選挙において、神奈川11区で彼と正面から対決して闘った時に、彼のこうした不真面目で、軽率な本性を確認し、彼の掲げた「こども保険による幼児教育無償化」政策といった、意味不明の馬鹿げた政策や、安倍の受け売りの全世代型社会保障といったペテンに反対して立った★我々のこうした289小選挙区の中でも、唯一光り輝いていた闘いは不当にもマスコミらによって無視されてはきたが、安倍の全世代型社会保障政策といった、ペテンと典型的なバラまき政策との闘いとして、19参院選でも、その後の闘いでも赤い糸のように貫かれて来た。我々の神奈川の闘いは、その後に出版された、『我々はいかに闘ったか――安倍と小泉の政治に反対して』に全て報告されているから是非一読されたい。(鵬)

   

【主張】

資本のため働く
「賃上げで経済再建」論を糾弾する

 共産党はいま、「賃上げ・減税で経済を立て直そう」と呼びかけて、様々な経済闘争、政治闘争を、つまり一言で言って〝現実的な〟闘争、改良闘争を闘っている(赤旗1月24日)。

 もちろん、現実的な闘いを闘い抜くことが悪いのではない、しかしそれ自体限界を持つ現実的な闘いを、労働者の究極的な目標、資本主義を克服する闘いと結びつけるのではなく、それ自体、完結する闘いとして闘うことが悪いのである、そしてそうした現実的な闘いを、何かそれを闘うことでいつか社会主義の闘いに転化するとか虚偽を振りまくことが悪いのである、偽りの〝左翼主義〟を装って、資本主義を克服する闘いであると位置づけたり、そんな幻想を広げることが悪いのであり、間違っているのである。

 日和見主義に凝り固まっている志位は、事実上、より〝高い〟目標と結びつけるのだが、それをもちろん社会主義のための闘いと結びつけてはいないし、そんなことは考えてもいない、しかし彼はそれを資本主義の「経済を立て直す」ための闘いであると宣言し、そんな闘いと結びつけるのである。

 我々はこうした愚劣蒙昧な志位の立場をいかに評価すべきであろうか。

 ベルンシュタインは「現実の闘争がすべてであって労働者には、それ以外どんな闘いもない」と主張し、社会主義に向けての労働者の闘いを否定し、消し去った。

 他方、〝最大限綱領主義者〟は――ある意味ではアナーキストも――、労働者の現実的闘い――それは労働者の社会的な地位と経済的な生産過程における位置から不可避的に生じて来るのだが――の必然性と必要性を理解せず、観念的な立場に陥って、労働者とその闘いから遊離したのである。

 それでは志位共産党は、どんな立場に立っているのだろうか。

 彼らは賃上げ闘争や減税闘争を闘うが、それは「経済を立て直す」ためだというのである。直接に社会主義を獲得するためだと観念的で、〝極左的な〟ことを言わないから益しだといった話ではない。

 彼らは資本主義経済において、「経済を立て直す」ということは、資本主義の「経済を立て直す」ということ以外ではないという、そんな簡単なことさえ理解しないし、できないのである。本当のアホというしかない。

 そもそも賃上げ等々と、「経済を立て直す」こととは全く異なった、2つのことだが、志位らは賃上げをすれば消費需要が拡大する、そして現在の不況や経済停滞や不況の原因は消費不足にあるのだから、賃上げが――もちろん賃上げは高ければ高いほどいい――実現すれば、経済停滞や不況は一掃されるというのである。

 そんな屁理屈や、ドグマが真実だというなら、今の賃金の2倍でも、5倍増でも勝ち取ってみればいいのだ、そんなことになったら賃上げで景気が回復する前に、中小企業はたちまち倒産だし、大企業でさえ持ちこたえることはできないだろう、つまり経済再建どころか経済の完全な瓦解だろう(もっとも賃金の5倍増といったことは、戦後のインフレ時代ならともかくありえないから、ブルジョア諸君も共産党の〝極左主義〟や〝恐怖の〟政治におびえ、心配することは何もない)。

 「『8時間働けば楽に暮らせる社会』を築くことは、個人消費を活発にして日本経済を立て直す上でも喫緊な国民的課題です」。

 8時間労働制の社会とは現在の資本主義のことではないのか、「国民的」課題のために働くとは、ブルジョアとの協調主義ではないのか。

 もうたくさんだ。共産党の裏切りとブルジョア根性は余りに明白である。


【2面トップ】

前々号の図表について
   読者から「斜線」は何と質問

 『海つばめ』前々号の2面記事、「それは明示できるのか」の図表について、図表の斜線部分は何を意味するのかという質問を2、3の読者から受けました。質問自体に応えるのは簡単ですが、図表には間違った観念を与えるところもあり、棒線は削除し、なかったことにしてもいいと思いますが、もし直すとしたら、新しい今回の図表として確認していただきたいと思います。

 まず前提として頂きたいことは、この図表がマルクスの『資本論』第二部の単純再生産の図表と似てしまったので――それは勿論、一定の理由はあります――、色々余計な憶測が生まれることになったと思いますが、その課題や解決すべき理論問題としては、全く別のものです。

 マルクスの図表は、第一部門(生産財部門)と、第二部門(消費財部門)との、流通を通しての、次の再生産のための部門間の価値の側面と使用価値の側面の2側面における相互的置換と再配置を説明することを理論課題としています――そしてマルクスは資本主義社会を前提としていますから、当然に可変資本(労賃)と剰余価値の再配置や〝消費〟関係も含みます――が、私の図表の課題や解決すべき理論問題は、資本主義を止揚した社会における消費財の価値規定問題、つまりその価格表現ではなく、労働時間による表現という困難な問題です。(当然の若干の抽象、例えば搾取関係を捨象する等々を行えば、資本主義においても理論的に可能な問題でもあります)。

 マルクスの表式と、消費財と生産財の置換という点を取れば共通の要素はありますが、我々の場合は相互置換が課題ではなく、基本的に消費財の分配法則の問題であり、したがってまた社会的な3人の労働の分業の問題がカギであるという点で根本的に区別されているのです。根底にある問題は、生産物の価値規定=生産物を生産した労働とその大きさ(労働時間)の概念規定です。

 我々の表式が、マルクスの再生産表式と酷似したものになったのは偶然ですが、しかしこの酷似にも一つの必然性がありました。というのは、資本の有機性にも2つがあるとマルクスは語っています。つまり資本家的な意味での有機的構成――不変資本と可変資本の比率――と、もう一つ彼が〝技術的な〟意味での有機的構成――生産財に支出された労働と消費財のための労働の比率――があり、両者の関係は、前者が根底的には後者によって規定され、また反映されることだと主張しています。

 マルクスの再生産表式は前者の立場からのものであり、我々の表式は後者の観点からのものであることを確認してください。

 また有機的構成が両方とも2対1になっているのも、マルクスの場合は、総生産を前提にして、そう仮定したのであるのに対し、我々は、消費財の分配法則を追求し、1人の場合、2人の場合から、さらに3人の場合と進んだ結果です。つまり消費財の分配を最も簡単な、分かりやすい方法を考えたからであって、そこから全社会的な分配法則が推定できるにしても、当然の結果として、そのものとしては全社会的な分配法則の理論ではありません。

 我々の図表が明らかにすることは、消費財の価値(労働時間)は、確かに3ですが、しかしそれは実際には、生産財を生産した2人の1ずつの労働の賜物でもあり、したがってまた消費財の3分の1ずつ、彼等に「分配」されるし、されなくてはならないということです。

 消費財の総価値は3ですから、3人の労働者はみな3分の1ずつの消費財を「分配」され、すべてが「丸く収まる」という結果になるだけで、「市場経済」とか、私有財産とか、資本=労働者の階級関係とか、「万人の、万人による、万人のための」競争社会や搾取・差別関係がのさばり、はびこる必要も必然性もなくなります。

 我々の〝新しい社会主義〟観の、従来のそれ――生産財の共有化(国有化等々)とか、単なる搾取労働の一掃等々――と、区別されるのは、それが労働の搾取の廃絶に留まらず、資本主義的生産の根源の矛盾つまり〝市場経済〟そのものに伏在する〝疎外された〟労働という矛盾に迫り、それ自体、それを暴露しているということ、「労働の解放」――そればかりか、全人類の生産的労働の疎外と、搾取と階級の存在する社会からの究極的な解放――という、我々の党名が意味する理想をも明示し、語っているということです。(林)


【2面サブ1】

読者からの疑問に答えて
『海つばめ』1369号林論文

 ――以下は代表委員会の党内文書『通信』に掲載された回答です。上記の論文に関係ありますので『海つばめ』に少々文章を補充、修正して転載します――

 

 Sさんの意見は、最初から意味不明のものとして提出されています。

 「A、B、Cの3人の労働による社会的分業という前提を考慮すれば、総消費財3は使用価値的には(あるいは有用労働的には)Aの労働によって作られていることは言えるにしても価値規定としては、A、B、Cの各1の労働(の合計)からなっていると考えなければ合理的には理解できません」。

 SさんはCの消費財を――消費財だけではなく、生産財(A、B)までも――「価値移転」という、空虚な立場から勝手に、間違って理解し、つまり誤解して批判しているだけであって、まともな批判になっていません。

 だから「使用価値的には」3であっても、「価値規定としては1」云々はナンセンスな、何の合理性もないたわごとしか、言えません。

「総消費財3」は最初からCの労働によって「作られており」、したがってまたその価値規定(労働時間)は1でなく3です。ただその価値規定はA(3)、B(3)の労働時間の一部(各1)によっても規定されており、したがってまたCは自分の労働時間の3によっては消費財の全体に対して権利を持つことはできず、ただその3分1だけを〝買う〟ことができるにすぎません。このことは、A、Bの場合も同じです。

 そもそも消費財3は、「使用価値的にはAによって作られている」などといえるはずがありません、というのは、Cは最初から消費財であるいうことは前提されているからです。

 Sさんが林の表式をまるで理解していないことが暴露されています。Sさんは誰と〝論戦している〟のですか。論戦するにも、相手の言っていることを正しく読み取り、理解してからにすべきではないですか。

 Sさんは「社会的な分業を前提している」と最初に断りますが、実際にはマルクスの再生産表式を前提に、しかもそれを「価値移転論」やケインズ学派流の産業連関表で味付けして、すでに我々の内部では完全に克服され、否定された迷妄な観念を振りまいているだけで、実践的にも有害で、迷惑なだけです。

 マルクスの再生産表式と我々の3人の分業の表式の違いを理解するのは、ロビンソンという1人の場合から、フライデーを加えた2人の場合を経て、さらに3人の関係も分業関係として論理展開をしているのは明らかなのに、マルクスの再生産表式が基礎だなどと考えるのは、もはや正常ではなく、合理的な思考を失っているとしか思われません。

 問題は3人の社会的分業による総労働であり、それが、「価値規定」と「分配」にいかに関係するかと言うことです。Mさんを最後として、我が党は「価値移転論」とか、産業連関表とかいった、ブルジョアやケインズ派やスターリン主義者らのごった煮と永久に決別したのです。 

       (林)

   

【2面サブ2】

没落社民どこへ行く
前途多難な野党共闘

 社民党が立憲への合流をためらった末、判断を先延ばしした。枝野と立憲の思い上がりや傲慢が他党に嫌われている。そんな面からも、野党共闘の前途多難を思わせる。

 社民も今や没落政党としてお先真っ暗で、合同を望む党員も多いが、他方では「社会民主主義」としてやるべきと強がってみても、本人にさえその概念がはっきりしていないというなら、社民党として未来があるなどと到底考えられない。

 「社会民主主義の政権樹立を目標に議論をして、意思を一致しよう」などと言っても、立憲と考えや政策が似ていると言っているようでは、社会民主主義が泣くというものである。

 しかも彼らは最近までは共産党と一番気が合い、共産党に奴隷的に追随し、政策も似ていたのではなかったか。

   

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