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労働の解放をめざす労働者党機関紙『海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1372号 2020年2月9日
【一面トップ】今こそ労働者党の闘いを――はびこる与野党のポピュリズム
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】始まったEUの解体――人類の類的統合は資本家にはできない
【二面トップ】学習会の全体的な展望――冒頭の「商品論」だけでも大変

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【1面トップ】

今こそ労働者党の闘いを
はびこる与野党のポピュリズム

 通常国会はいま来年度予算の審議という、重要で、深刻な問題が議論されているはずである。というのは、その最も重要な課題は来年度の予算という、現代のブルジョア社会の政治経済に大きな影響を及ぼす政争の焦点だからである。しかし国会では、野党はこの緊急にして重大な安倍政権との政治闘争に正面から、断固として立ち向かい、真剣に闘おうとしているであろうか、しようとしているだろうか。舞台は主として、まさにそうした闘争こそが客観的に要請され、貫徹されなくてはならない予算委員会である。

国会の様相

 国会における野党の批判的活動は、こうした課題に応えているであろうか。

 全く否である。

 衆院はともかく、参院の予算委員会の議論はお粗末で、無内容、空虚、まるでナンセンスで、労働者・働く者の期待に応えるような内容は全くない。

 例えば1月30日の参院予算委員会における〝質問者〟とその議論を見ると安倍予算案と〝アベノミクス〟――我々はこの語で、差し当たりバラまきこそその本性とする、安倍の財政経済政策と規定する――に対する批判や暴露はまさに皆無と言えるほどで、〝国民〟なるものの安易な支持を期待してか、野党も与党の自公や、準与党の維新とも歩調を合わせて、ゴーンの国外逃亡とか、新型肺炎とか、全世代型社会保障(ただしそれを美化するための〝質問〟)や防災減災とか、桜を見る会や、公文書管理といった問題を繰り返して非難、攻撃するだけである。

 その内容は批判的、階級的なものはなく、本質的に〝超階級的な〟、道徳的なものであって、安倍は聞き流し、口先だけでごまかせば済むようなもの、痛くもかゆくもないもの、安倍政権とその政治の根源を突く、厳しいもの、力強いものはほとんどない。国会の議論がつまらないもの、有名無実の〝宝の持ち腐れ〟にしかならないのは当然であり、必然である。

 議会制度も与野党の〝政党政治〟も、1920年、30年代の議会制度が崩壊して行く時と同じように、否、それ以上に、腐敗し、形骸化し、反動化し、腐り果ててしまっている。

政治闘争を堂々と貫徹せよ

 国家予算案が提出され、アベノミクスの根底が問われている時、野党は一体何を問題にし、批判するのか。なぜ予算案やアベノミクスに対し、正面から、正々堂々と対決し、批判を貫徹し、否定し、葬り去ろうとしないのか。

 それは野党が事実上、安倍の経済政策、財政政策で、安倍政権やアベノミクスと同様なブルジョア的立場――ただし現在の衰退し、寄生化して行く現代のブルジョアたちのであって、かつてのまだ多かれ少なかれ若く、〝健全で〟あった時代のブルジョアのではないのだが――に転落し、堕落してしまったから、安倍の隠れた応援隊にまで転落してしまったからである。

 例えば来年度の予算は昨年を上回り、100兆円を超えている。

 そして3年ぶりに数兆円の昨年度の補正予算を組んだが、これは前年度予算の〝後出し〟支出といってもいいほどのインチキであり、あるいは事実上、今年度の予算のようなものである。

 安倍は来年度予算では、予算規模を縮めたことを隠そうと、バラまき支出の多くを補正予算に移して、予算の本当の膨張的な性格を隠し、スマートに見せかけている。財政収入も増えたかに言い、借金も苦労して減らしたと自慢するが、前年度の剰余金も、決まりに反して、借金の返済にも、補正にさえも使わないで、予算の歳入に強引に押し込み、借金を小さく見せる策動にふけっただけでなく、税収でも税金も増えたかに言うが、そんな〝事実〟も直後に国の統計が出て、嘘であることがばれてしまった。

 安倍政権は数兆円の補正予算を組んだが、そこでは建設国債の2兆円余だけではなく、赤字国債もまた2兆円余を予定するというのだから、つまり堂々と4兆円を超えていくような借金を新たに増やすというのであり、しかもそんなごまかしをしながら、国債も減らしたなどと公然と虚偽を語り、そのずうずうしさと破廉恥ぶりをさらけ出している。

 そして結局、消費増税が2%もあったというのに、事実上何兆円もの新しい借金を増やさなくては、来年度の予算案(最近の補正予算も含めてだが)の辻褄が合わないというからあきれた話である。世も末であり、今後日本が、日本の政治経済が、そして労働者・働く者の生活や人生がどんなものになって行くのか、空恐ろしい安倍政権下の現実である。労働者・働く者は、そんな安倍政権のでたらめや、借金・バラまき政治や、卑しき無責任を決して許すことができない。

 安倍政治はバラまき政治だけだ、最低だなど呼ぶのはとんでもない言いがかりだ、新規国債発行(国の借金)は10年続けて減額する、税収も順調で前年よりも1兆円も増える、社会保障費用が年に1兆円増えても何の問題もない、景気対策に1兆8千億円も使える、「経済再生なくして財政健全化なし、この基本方針を維持し、引き続き、2025年のプライマリーバランス(実現されても、国家の債務地獄の現状をないかに偽った、当年だけの見せかけの財政均衡化)を目指します」(安倍の1月20日の施政方針演説)というわけである。

 こうしたものは、まさに嘘と偽りに満ちた、そして安倍の本性を暴露する、国民の全体を瞞着するための、心卑しく、腹黒い演説である。

 つまり安倍政権は健全財政を継続し、アベノミクス(バラまき)政治に精を出し、財政再建や経済再建の道をひたすら歩んでいる、気にすること、今後のことを心配するものは何もないというのである。

 しかし全世代型社会保障などのたわ言をほざいて浮かれている安倍政権のもと、社会保障――医療も、介護も、年金等々――も、労働者・働く者の生活も、未来も、今や音を立てて崩壊しつつあるのが現実である。

野党共闘派に未来はない 

 そんな悪政にふけり、腐敗も極限まで来ている安倍政権を、なぜ野党共闘派は、衆院選でも参院選でも粉砕もできないばかりでなく、完敗を繰り返すのか。

 我々は17衆院選でも19参院選でも野党は決して安倍自民党に勝つことはできないと断言してきた。

 野党はなぜ、安倍政権が消費増税とその転用という政策を正面に据えて、野党共闘派に挑戦してきたとき、そんなものに毅然として反撃し、対決し、粉砕して、労働者・働く者の政治を対置し、労働者・働く者の未来を明らかにして闘えなかったのか、闘うことができなかったのか。

 野党共闘派が主張したこととは、単に消費増税に反対するとか、消費増税ではなく8%の消費税を5%へ引き下げろとか、さらには山本のように、まさに不真面目なポピュリズム政治そのものに消費税を0にせよ云々であった、つまり、自分たちのドグマや観念や思い込みを先行させた〝要求〟でしかなかった。

 こうした政治が、安倍政権を追い詰め、打倒して行く現実的政治闘争でなく、またそうなりえなかったのは当然であった、というのは、野党共闘はただ観念的な、独りよがりの、そして非現実的な要求や〝対案〟を掲げ、安倍政権の悪政に対する、道徳的な闘いを挑んだにすぎなかったからである。

 とするなら、安倍に聞き流されるだけ、鼻であしらわれ、敗北するのは闘う前から明らかであった。しかも野党共闘の〝積極的な〟政策とは、結局は、安倍政権や自民党政治と同様な、バラまき政治であり、その程度を争うといった程度の、現代のブルジョア政治の猿まねでしかなかったからである。

 そもそも、2012年に自ら5%から10%への消費増税をやった民主党の〝後継政党〟である野党共闘派が、その5年後の衆院選や、7年後の参院選で、安倍政権の12年の三党(政権の座にあった民主党と、当時野党だった自公)の合意を受けた消費増税に反対すること自体、何を考えているかと問われるような、途方もないことであって、政党としての自覚も、責任感も誠実さも一貫性も、自尊心も正当性も何もないことを暴露しており、ただそれだけでも、野党共闘派が安倍政治に反対して闘うことができないのは、誰が見ても余りに明らかではなかったのか。 

 立・民や国・民の政治家連中が、3年間続いてみじめに破綻した民主党政権の経験や、野田政権の12年の消費増税の決定の反省や総括を自ら原則的にやり遂げた上で、今、自分のやった消費増税反対を主張するならまだしも――どう総括するのか、できるのかはさておくとして――、それもしないで、かつて自ら決定した消費増税に反対を叫ぶのは、余りにひどすぎる、政治的無節操と無原則ではなかったのか。

 さらにより重要であったのは、安倍政権のわめいていた消費増税の転用と、全世代型社会保障というインチキ政策――典型的なバラまき政策――の政治については、野党共闘派は、どんな原則的な反対も表明しなかったのである、つまりこれは、彼らは、衆院選や参院選における、安倍政権の政治と政策の目玉商品、中心の政策に、バラまき政治に、事実上賛成であったということではないのか。

 かくして野党共闘派は、安倍が憲法改定の野望を秘しつつ、労働者・働く者の歓心を買い、勝利するために持ち出した、安倍の半デマ・ポピュリズム政治と原則的に闘うことができなかったばかりか、簡単に敗北したのである。

 我々は野党共闘派の無力で、安倍政権と与党に勝るとも劣らない腐廃した政治に反対し、消費増税の転用とそのカネを使っての全世代型社会保障などのバラまき政治――それが貧しい、差別されている労働者のための政治でないこと、資本の支配のおこぼれに預かり、保守化する〝中産階級〟のためのポピュリズム政治であることは、乳幼児教育無償化政策等々によって、完全に明らかになったのだが――に反対して、衆院選、参院選を闘い抜いたのである。 

 全世代型社会保障とか乳幼児教育無償化の――もう少し、広い意味でも、教育無償化の政策は、主として貧しい労働者――とりわけ非正規の労働者――やそのペアのためにはほとんど利益がなく(彼らのための消費増税からのカネは、大まかにいって〝中産化〟した労働者もしくはそのペアにバラまかれたカネの50分の1ほどに過ぎなかった)、主として3~5才児の幼児を保育園や幼稚園に預ける階層の全員に、所得の差も設けないで、バラまかれたのであり(そんなカネも、消費に回るよりも、貯蓄として銀行に預けられたと評価された)、我々の「そんなカネがもしあるとするなら」まず乳幼児の子供たちを預ける、低所得の労働者やそのペアのために、優先して不足している保育施設を直ちに建設し、充実させるために支出されるべきであると強調したが、我々の主張の正当性は事実によって、客観的にも証明されたのである。

 果たしてこうした闘い方こそ、具体的に評価しても、労働者党の闘いとして有効であり、労働者・働く者の〝切実な〟要求に沿ったものではなかったか。

 そもそもその5分の4が財政再建のために、5分の1が社会保障制度の継続のために支出されると厳かに誓われたカネが、財政再建を無視して、安部が参院選を有利に闘い、勝利するために、バラまき政治に転用されたということについて、野党共闘派はみな一言も抗議しなかったし、批判もしなかった。

 そんな安倍のポピュリズム政治は、12年に決まっていた消費増税の強行よりも、はるかに犯罪的であり、陰険で、腹黒い悪政ではなかったのか。

 しかし野党共闘派は安倍のこうした悪政に目をつむり、〝あさってな〟観念的政治に熱中し、安部に「名を成さしめた」のである(彼は自慢たらたら、黄金期の巨人軍の9連覇にあやかって、選挙9連勝を語り、我が世の春を寿いだ)。

 野党共闘派には、そうしなくてはならなかった、決定的な理由があったのである。というのは、彼等は全世代型社会保障政治にしろ、乳幼児教育無償化にしろ、単に安倍政権の政策であっただけでなく、共産党も含めて、というより、共産党を先頭に、野党共闘派の政治であり、彼等は安倍政権の政治(つまり財政膨張と借金に依存し、バラまきに帰着するポピュリズム政治)に反対するより、事実上大賛成だったからである。

 経済の不況や衰退の原因を、勘違いし、間違って消費や需要不足から説明する〝経済学オンチ〟共産党や立・民や国・民などは、ケインズ主義を信奉する、現代のブルジョアや政府や安倍政権と同様に、消費や需要を人為的に膨らませ、金融や財政を通して、国の借金をどんなに膨張させようと気にすることなく、日銀によってカネをバラまき、政府によって財政支出を増やすことを望み、あと先も考えずに実行すれば、それがデフレ脱却――今では、安倍政権の目標として散々にいわれたのだが、この意味さえ曖昧になり、無概念にさえなって、今デフレ脱却がなされたのか、まだなのかは安倍自身にも分からないような有様になっているのだが――や、経済停滞や不況の克服や、経済成長や財政再建のためになり、政権を安定させ、維持するのに一番容易で、手っ取り早く、確かな手段だとする観点や政治に共鳴するからである。

 しかし誰よりも貧しい労働者・働く者の負担である消費増税や、膨大なものに膨れ上がっていく借金の使い道はどうでもいいことでは決してなく、今後ますます重要性を増す政治課題である。不埒で、不潔なポピュリズム政治との対決は、労働者・働く者にとって決定的なものとして登場しつつある。

 我々は与野党協賛による国家財政の膨張や、バラまき政治の横行、つまりポピュリズムの流行に抗議して闘った唯一の政党であったし、今後もそうであろう。

   

       

【飛耳長目】

★安倍が1月末、東京高検の黒川が63才になる直前、定年を8月7日まで延長した。8月に勇退する現検事総長の後釜に、安倍肝いりの黒川を据えるためである★首相を逮捕する権限を持ち、かつて田中角栄も苦汁を飲まされた検事総長の地位に、自分のロボットを据えるということは、安倍もいよいよ焼きが回って、逮捕されることまで恐れ始めたということか★安倍はこの7年間、多くの行政権を手中にして、安倍1強体制を固めることに熱中してきた。手始めは日銀の〝独立性〟を犯し、黒田を据えて〝異次元の〟金融緩和をやらせたが、気の毒なことに、結果は惨憺たるものであった★13年には〝法の番人〟と呼ばれていた内閣法制局長に、外務省の安倍の幇間のような男を持って来て、15年の安保関連法(戦争法)の閣議決定や国会通過の正当化を図った。小選挙区制や政党助成金制度も悪用し、自民党の議員たちを国会における陣笠に調教した。最高裁長官にも「慣例を破って」自分の意中の反動を持って来て、検察庁の覇権まで狙うのである。官僚を奴隷のように従がわせるために、高級官僚の任命権も手にしたが、その偉大な効果は森友・加計事件で十分発揮された★自衛隊も憲法何ほどのものかと、閣議決定や勝手な憲法解釈で、世界のどこにでも行けるようにした。最後に、検察権力まで握れば恐いものはなく、安倍権力は不滅となった?(鵬)

   

【主張】

始まったEUの解体
人類の類的統合は資本家にはできない

 EU(欧州連合)は英国の離脱によって、一つのエピソードとして歴史的な解体の過程に突入した。

 EC(欧州共同体)についても、国家という境界線を超えて、人類が一つの世界に集約され、結合する過程であるとか、〝世界連邦的な〟観点や視点や、国連等々の延長線上にある試みとか評価されてきたが、英国はさておくとしても、現代のEUの内部にさえ英国と同様の、あるいはそれ以上のえげつない、偏狭な国家主義や自国ファ―ストの情けない反動の嵐が吹きすさんでいる現状を見るなら、もはや国境を否定する運動としてのすてきな試みだったとか、国家連合や国連等々と同等だとか、世界国家に向けての一歩前進だとかいった饒舌は自由主義派の空虚な幻想であり、牧歌的独りよがりでしかなかったことが明かになった。

 ECもまた歴史的に、そして現在では、資本主義と階級関係の視点から評価され、位置づけられなくてはならないのであって、何か超歴史的な観念から位置づけようとしたら、どんな真実にも行きつけない。

 19世紀から20世紀にかけてブルジョア帝国主義の時代が訪れるや、欧州の資本家的大国は相互に生死をかけた大戦を繰り返し、その中でも主戦場となったドイツや仏国や英国は疲弊し、2流国、3流国に没落する危機に直面し、他方戦勝国としてあらゆる恩恵とメリットを独占した米国と、17年の偉大な革命を契機に、急速に強大な国家資本主義の大国に生まれ変わったロシア、つまりソ連邦の2大国が分割して世界を支配した時代、つまり〝冷戦〟の時代が訪れた。

 ECはまさにこうした歴史的状況の中で生き残りをかけた、欧州のブルジョアの利害と意思の結果として、最初から国家連合として登場したのであって、何らかの理念――国境は戦争の原因である、それを無くして欧州諸国が、世界が2分して争うような時代は永遠になくすべきだ等々の思想や理念が生んだものではない。

 その後、20世紀も終るころ、ソ連邦が解体し、中国が十何億という巨大人口という財産をひっ提げて、まず政治大国として、さらには経済大国として、そして促成の、野蛮な帝国主義国家としてさえ登場するや否や、EUは世界の強国のバランスオブパワー(権力政治)の中で、第三極として存在し、歴史的、現実的な存在意義を保持し、維持しようとしてきたのである。

 しかし今や英国までも何を血迷ったか、かつての繁栄の夢に溺れて、「世界に冠する帝国」の復活を夢想するような時代になると、EUの第三極としての力の神通力も色あせ、経済危機、政治危機の中で、流動する世界情勢の中で、ノリで張り合わせたような国家連合の輝きも消え失せ、夢も吹っ飛び、露骨な自国ファーストの諸国家の連合体として解体し始めざるを得なかったのである。

 それとともに、EUは、世界国家、世界連邦の出発点であり、そんなものの拡大や普遍化の彼方に、戦争のない人類世界があるといった、幻想も木っ端みじんに吹っ飛ぶしかなかった。

 仮に人類が類的存在として一つになる時代が訪れるとしても――それは必ずや訪れるし、訪れるしかない、というのは核兵器やIT兵器の時代の戦争がやって来るなら、それは人類とその文化の根底と、その存続可能性を危うくするし、しかねないからである――、それは、ただ資本の支配する世界を人類が克服し、一掃することなしには実現しないし、し得ないという真実を――それをいかにしてなし得るのかは誰も軽々しく断言し得ないような時代と世界になっているにしても――、それはただ国際主義に固く立脚する世界の労働者階級の課題でしかないという真実を、EUの解体と失敗は語っている。


【2面トップ】

学習会の全体的な展望
   冒頭の「商品論」だけでも大変

〝商品〟の円環的な存在

 いよいよ長丁場になると予想される、代表委員会主催の中央の『資本論』学習会の開始が、2週間後に迫りました。新しい『資本論』学習会の意義と趣旨について、今号で、その意義を一般的に、そして全体的に論じ、来週号では、第一回の報告要旨を、その後は、中央の『資本論』学習会がある場合には、前の週の『海つばめ』に報告要旨を掲載することにします。したがって、読者で『資本論』学習会に参加する方は、1週間前には報告要旨を手にし、必要ならしっかり〝予習〟をし、疑問の個所や理解できない個所をチェックし、備えることができます。その回の報告に関連する、『資本論』の対応個所や関係個所や、さらには必要ならその他の文献の案内をする場合もあります。

 第1期は取りあえず隔週ペースで半年、12回を予定しますが、第2期までは必ずやり、それ以降は未定ですが、様子を見て、第3期もあるかもしれません。

 第1期の12回で、何とか『資本論』の全体をカバーし、重要な内容や場所を正しく理解し、『資本論』そのものよりもはるかに『資本論』の本質と、決定的に重要な概念をすべてつかめて、『資本論』をカバーしたと自信を持てるようなものにしたいと思っています。我々が半世紀を超える、我々の『資本論』の学習や、喧々諤々の議論や論争の中でも明かになった、最先端の理論――新しく確認された、多くの真理、必ずしも重要でなくもない――もカバーし、説明します。これまで論争問題視されていて、我々が初めて解決した理論課題もあります。参加者のどんな疑問にも、時間が許す限り、議論し、解明し、答えることにします。解決されないことは、次の回に持ちこしてでも検討し、議論し、みんなが確認できるようにします。

 つまりこの学習会を真理を追求する殿堂とするということです。

 とにかく『資本論』は私が前にも述べていますが、〝円環的な〟構造をしており、冒頭の単純な商品の概念を深く理解するには『資本論』の全体を理解する必要があり、反対に資本主義のより進んだ概念を正しく理解するには、冒頭の商品論をしっかり検討しておく必要があり――さもないと、「有用労働による価値移転」といった、とんでもドグマに足をすくわれるといったとになりかねません――、その面では、冒頭の商品論を学ぶことも結構大変で、注意深く、多方面から位置づけ、検討し、理解しなくてはならないということになります。

労働価値説と価値(交換価値)

 第一回の範囲に属することを、いくらか先取りして説明します。「労働価値説」は、最も基礎的な課題ということです。

 そもそも私が『資本論』から最初に学んだことは労働価値説であり、衝撃的でした。長野県ののんびりした伊那北高校――兄の道義の言うところでは、県下の二流高――から大学に進学した私は、田舎出の学生のご多聞にもれず、生粋のノンポリ学生で、ジグザグデモを強要する自治会の役員――当時の共産党員――の指導する学生運動に当初は激しく反発し、同じクラスの自治会派の活動家に、服部信二という悪い奴、私が冗談で「ハッタリ信じましょう」とあだ名をつけた位の奴がいたこともあって、学生運動とは一線を画していたのですが、柔道や野球部を転々としてスポーツに生き甲斐を見出そうとしている自分を深く反省するところがあり、これではいけない、ハッタリ君がどうあろうと、個人的なことばかりにかまけているのではなく、社会的な問題にもかかわりを持ち、考えて生きて行くべきと決意し、自治会室の扉をノックして、当時自治会の書記長格であった、かの坂野潤治君に直接、「常任委員になって、自治会の仕事を手伝いたい」と談判をし、めでたく常任委員としても、まじめな私は寝食を忘れて働くことになりました。そして、見事新入生を迎えた学生運動の〝春闘〟であった、米英の原水爆実験反対、日教組のもとに組織されていた教員への勤務評定反対――この二つのスローガンが並列して、いかなる内的な因果関係にあって闘争スローガンになったかは、神のみぞ知るでしたが――を掲げた5・15闘争を見事勝利に導き、いい気分になっていたところを、見込みがあると思われてか、かの有名な青木昌彦君などから共産党入党を勧められ、何も分からないまま、どうせ一生、こうした社会運動と関わると決めたからには、拒否する理由もないと安直に入党しました。

 そして初めて、『資本論』とその冒頭に書かれている「労働価値説」を知ることになりました。何の知識もないままに、商品の交換価値の真実は「価値」である、つまり交換価値の内容と、その大きさを規定し、決定しているのは「人間の労働とその時間的な長さ」であるということを説明されて、深い感銘を受けました。

 その驚きと感銘は、夏休みに長野県の田舎に帰省した折、6才下と9才下の(13才と10才の小中学生の)二人の妹に、必死になって労働価値説を説いたところにも表れていたと思います。

 しかしそんな感心な「双葉より芳(かんば)し」の早熟ぶりを見せた私も、『資本論』の出発点であり、基礎である労働価値説の、したがってまた冒頭の商品の深い謎と含意を理解できるようになったのは、それから60年近くもたった、つい最近のことだと白状するしかないのですから、むしろあきらめが遅すぎる私の根性や、「大器晩成」ぶりの方がはるかに見事だということになります。

 しかしそれほどに、労働価値説など簡単と考えて軽率に扱うと、大けがをしかねないかもしれませんから、ふんどしを締め直して『資本論』学習会に参加してほしいと思います。

 「叩けよ、さらば開かれん」とは、キリストの言葉と言われていますが、目が開かれるのは「神への信仰」か、「資本主義社会の――したがってまた資本主義を止揚した後の共同体社会の――真実や真理」かはさておくとして、まず勇気をもって、資本主義社会の真実に至る第一歩を踏み出していただきたいと思います。

 最後に一言。一連の講義において、最初から最後まで「価値規定」という概念がしばしば、講義全体を貫くキーワードのように使われるかもしれませんが、その意味は、「商品価値を規定し、表現する労働とその長さ」ということですから、しっかり確認しておいてください。(林)


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