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労働の解放をめざす労働者党機関紙『海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1373号 2020年2月16日
【一面トップ】税金の無駄使いこそ問題だ――与野党協賛のポピュリズム政治糾弾
【1面サブ】私は労働者党で彼は共産党員――昔の仲間に再会
【お知らせ】
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】「核の傘」の代償払え――米国の横暴か正当な要求か
【二面トップ】単純商品と資本主義的商品――交換価値(価値)とは何か  中央資本論学習会①

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【1面トップ】

税金の無駄使いこそ問題だ
与野党協賛のポピュリズム政治糾弾

 1月末、衆院予算委員会の初日、7時間の質疑が終わった後、安倍は麻生に、「予算委員会なのに、野党から予算についての質疑要求はなかったね」と語りかけ、麻生は「ということは、予算案は成立ということですな」と応じたという。これは一体何を意味し、いかに理解したらいいのだろうか。野党が議会で無意味なおしゃべりにふけってはいても、本気で安倍政権と闘っていないということではないのか。

偽りの政治闘争

 議会内では与野党の激しい政治闘争が行われ、与野党間の、しのぎを削り、相手の政治、政策を粉砕しようという真剣な、お互いの生死をかけたような政治闘争をしているかであるが、しかし実際にはそんなものは何一つなく、安倍も自民党も何一つ恐れることも、ビビることもなく、太平楽を決め込んでいる。 

 そんな真剣な闘いは必要がないと野党は考えており、与野党間のこの瞬間における政治的対立も存在せず、自民党=安倍政権と野党の〝休戦同盟〟が結ばれていて、そんな安倍の悪政が、ブルジョアたちのための政治や政策が天下御免でまかり通るし、通っているということである。

 国家の財政といえば、労働者とブルジョアの間の重要な、しかも先鋭な政治闘争であり、どんな歴史上の戦争や革命を取り上げてみても、財政問題が絡みつき、絡んでいたといえるのである。

 17世紀のイギリス革命しかり、18世紀のフランス革命やアメリカ革命しかり。

 果たして与野党が激突しなくてはならない、決定的に重要な政治闘争の焦点は、今開会中の国会には存在しないのだろうか。しかしそんなことは全くないのだ。

 予算案は、100兆円を超えていく借金膨張予算が組まれており、国債減額を見せかけながら、補正予算など組んで実際には昨年よりも数兆円もの借金を増やしており、軍事費も気前よく〝神域〟として増額するといった、国家破産に拍車を掛けるような予算案である。 実際、今年度の財政政策もまた安倍政権バラまきポピュリズム政治の典型的な見本であり、労働者・働く者の前で徹底的に暴露され、粉砕が叫ばれてしかるべきものである。

 しかし実際には、不正、不真面目な予算案を前にして、野党は安倍政権を告発し、闘い抜くべき絶好の機会なのに打倒を呼びかけて闘うという任務を放棄し、おしゃべりのような政治に終始し、事実上、闘わずして撤収するという破廉恥な裏切りを演じている。

 野党の持ち出す安倍政権の罪悪とは皆、マスコミや自由主義的世論が騒ぎ立てているような〝些細で〟、どうでもいいようなものばかり、政治の課題というより、桜を見る会の疑惑といった、せいぜい道徳問題のようなもの、あるいは森友学園事件といった、すでに過去の問題でしかなかった。

 そもそも野党は消費税反対とか、税金を取られる方ばかりは批判するが、その使い道には寛大で、バラまきポピュリズム政治にはほとんど無関心、無頓着であるが、なぜ税金の無駄遣いやバラまきポピュリズムに弱腰であり、かくも寛大なのか、寛大であっていいのか。

 12年の5%の消費増税は、最初から使い道を定めた、事実上の〝目的税〟であった。しかも民主党政権、つまり今の立・民や国・民に属する議員たちが、自分から実現した増税であった。

 そんな野党が、安倍政権が実行しようとしたからと、その消費増税に反対して現れるとは、正気の沙汰とも見えない、余りに無責任、無節操な政治ではなかったか。

 消費増税だから駄目だというなら、12年の時、どうしてそう言わなかったのか。あるいは昨年の選挙の時、消費増税はダメだ、所得増税でやれとか、なぜ主張しなかったのか。労働者・働く者は一切の税負担をするな、しなくていいというのか。それなら、そうはっきり語るべきである。

 加えて、野党はいまも進行中の、消費増税とその転用の問題は全く触れようともしなかった、ということは、彼等はそれに実際上賛成だったがらである。

何でも国依存でいいのか

 しかしそれなら、一体いかにして、またどこから、そんな社会保障の費用を持ってくるかを、共産党は明らかにすべきである。

 野党は負担のことは抜きにして、国家が費用を担うべきだというが、国家といっても税金に依拠するか、それとも借金するしか財源がないのは誰でも知っている。

 ただ国家に依存すれば、何でも解決するなどと言うのは、労働者・働く者の思想でも考え方でもないことは明らかである。労働者・働く者の社会になった時、野党は国家に依存して、何でも解決するというのか。

 しかし労働者・働く者に向ってそんな思想を語るのは間違っており、自ら自分と子供らのために労働し、自ら立派に生きようとする、誇り高き、自立している労働者・働く者を愚弄し、侮辱するに等しいであろう。

 労働者・働く者の社会とは、労働者・働く者の自立した、自律的な社会であって、すでにどこに存在すかも分からない、〝国家〟なるものに依存することはないし、あり得ないのである。そんなものに人類の未来を託するとするなら、人類は永遠に理想とする社会に到達できないだろう。

 共産党を始めとする野党は、将来の階級の死滅する社会には、〝国家〟などと言う組織など存在する条件も理由もなくなるという、単純な事実さえ知らないのである。

 確かに共産党らは消費増税に反対はしたが、しかしそれも消費増税反対と言うより、消費税を5%に戻せとか、30年前に逆行して0にせよといった、実現することなど期待しないでただ〝恰好を付ける〟ためだけに、観念的な要求を、つまり空文句を謳って騒ぎ立てただけであった。

 野党は消費増税反対を謳ったが、有権者は誰一人その真剣さやまじめさを信じなかった、というのは、10%から5%の消費減税は立・民や国・民の議員たちは決して賛成せず、共産党や山本らが、そんな要求を持ち出すなら野党共闘は意思が一つにならず、瓦解するしかないからである。

 志位や山本はまた、消費増税に反対はしたが、その転用には反対する理由はなかったのである、というのは、安倍政権は消費増税を財政再建などに回す代わりに、社会保障に、しかも共産党などが要求している乳幼児教育無償化や大学教育の無償化等々に回すと主張したからである。

 安倍政権は共産党のいう空想的なやり方ではなく、現実的なやり方で、共産党の要求を実現するといったのだから、彼等は反対する振りをしながら、事実上、安倍政権の消費増税の転用政策に何一つ反対せず、かくして事実上、それに暗黙の支持を与えたのである。

 もし5%の消費増税が12年の野田政権のときに確認されたように、その5分の4が財政再建のために、つまり借金の縮小のために利用されたら、消費は何も増えないということになり、共産党の政治にとってはいいことは何もなかったが、しかしもし財政再建のためではなく、乳幼児教育無償化等々のために転用され、バラまかれるなら、それだけ消費は拡大し、デフレ脱却でも景気回復でも、経済成長でも思いのままだということになるのだから――実際にそうなるということはほとんどないのだが――、どうして共産党は安倍政権の政策に賛成しないでいられようか。

 かくして野党の闘いは12年の時に自ら決めた消費増税に反対するという、おかしな闘いに終始し、ブルジョアや自民党政権がもたらす、バラまき政治の粉砕や、財政危機の解消や、財政破綻や国家の破産や解体に対して闘うことはできず、そうした無責任なポピュリズム政治――当初は調子がよすぎたが、最後は、最悪の国家破綻と労働者・働く者の大量虐殺をもたらした戦争と生活破壊に行き着いた、かつての太平洋戦争と同様に、労働者・働く者に災いと生活破壊をもたらすような無責任政治――を許容し、野放しにし、やがては自らも先頭に立って、そんなポピュリズム政治を強行し、泥沼に転落し、太平洋戦争とはいくらか違った形かもしれないが、同様に労働者・働く者を不幸と絶望の淵に沈めるような役割を果たすのである。

   

【1面サブ】

私は労働者党で彼は共産党員

昔の仲間に再会

 先日、私が工員をしていたころ同じく工員をしていた友人T君と40数年ぶりに名古屋駅で待ち合わせた。

 お互い歳を取っているため、顔がわかるか気がかりであったが、無事会う事が出来た。名駅の地下の飲食街でくつろいで、この40数年間のお互いの近況を語り合うことが出来た。

 私は労働者党に入っていること、彼は共産党の地区常任をしていることなどをはじめ、工場で活動していた10数人のその後について聞いたが、何しろ時がたって、20代のころの工員仲間はすでに70代以上になっており、共産党を辞めていった人や、今も残っている人とか、こもごも話が進み、共産党大会の様子も聞くことが出来た。内容はすでに「海つばめ」の記事通りであった。今は資本論学習会をしているという。私たちも月一回資本論学習会をしているので、来ないかと勧めた。根がまじめな彼ならば来てくれるものと思い、引き続き連絡を取っていこうと思う。

   (愛知、M)


   

【お知らせ】

 本号から隔週で、資本論中央学習会の林さんの報告要旨を掲載しますが、今回の一部のみで、全文は党のブログにあります。当日は、出席者に全文のプリントをお渡しします。


【飛耳長目】

★米国の大統領選挙戦もたけなわだが、民主党の左派候補、ご老体のサンダースが健闘している。社会民主主義を標榜している。浅学にして、現代の〝社民主義〟はいかなる政治理論か知らないが――日本の〝社民党〟も、その概念についてほとんど語っていないし、それを訴えて支持を広げ、議席を獲得しようという努力も全くやっていない――、公立大学の無償化を看板政策に、若者の支持を集めて意気軒高たるものがある。大統領候補はおろか、トランプを破って当選しかねない勢いだ★日本では共産党の東京選挙区候補が参院選で、同じく大学の授業料無償化をヒステリカルに叫んで、健闘したといえるかどうか分からないが、議席を何となく盗み取った★しかしなぜ〝左派〟が、大学の授業料の無償化か。そんなものが、なぜ左派の政策か。米国の学生は高額な奨学金の世話になるしか大学に行く手はないが、結果として借金地獄に陥って、必ずしも幸せな人生をゲットできない場合が多いからという★しかしそれなら、大学などに行かなければいいのだ。大学に行くしか豊かで、幸せな人生を歩めないというなら、そんな〝学歴〟社会がおかしいのであって、〝左派〟なる連中が学歴社会を、つまりは資本の支配する社会を、搾取社会を事実上正当化し、あおっていいのか★世界の〝左派〟なる、いかがわしい連中もみな、頽廃し、堕落したものではある。(鵬)

   

【主張】

「核の傘」の代償払え
米国の横暴か正当な要求か

 トランプは韓国でだけでなく、日本にも「米国が日本を守るための費用」を負担し、支払うように求める構えである。

 もちろん日韓にはそれぞれの歴史的経過や前提が異なり、〝思いやり予算〟の質的、量的な違いがあって、その負担の軽重は簡単にいえないが、韓国にはこれまでの5倍、日本には4倍の負担増を要求する予定だという。

 日本の昨年度の〝思いやり予算〟は3900億円で、米軍の駐留費の8割をすでに負担していて、それ以上はあり得ないと、安倍政権はトランプを牽制している。

 第二次大戦後、ほとんど無傷で勝利国となり、戦後の資本主義的発展の成果と果実を独り占めしてきた米国は、世界の憲兵として〝自由主義〟世界の「平和と秩序」に責任を持ち、その中心として存在してきたが、その地位は大国中国の台頭もあり、揺るぎ始めているとはいえ、今なお旧〝社会主義〟圏の諸国までも抱合する世界の最強国として、世界のリーダーとして存在している。

 韓国に対する負担増の要求をみても、トランプは日韓やヨーロッパを防衛するから、「核の傘」の費用の負担も払えと言っているように見える。

 米国本土にある大陸間弾道ミサイルの費用は別としても、海外に展開する核弾頭や、それらを搭載する爆撃機、核ミサイルを積んだ原子力潜水艦、さらにはそれにとどまらず、空母やイージス艦、軍用機等々の費用も加算されるなら、トランプにはそんな恐ろしい巨額な費用の多くを日韓やEU諸国が分担するのは当然と見なすのである。

 もちろんこうした費用は巨額であり、没落していく米国の手に余るというなら分からないこともない。もはや世界の秩序や安全や平和を守る「憲兵」、いや、もう少し温和にいって「警察官」として行動する余裕もなく、費用の負担も重荷となっているのだから、恩恵を受ける同盟諸国も共に必要で、不可避な重荷を担うべきというのか。

 確かに国連といった、〝超〟国家的な機関もあるが、立場も明確ではないし、第一何の実際的力もなく、無力である。

 とするなら、その課題に応えるために、米国を中心に、志を同じくする諸国が共同で当たるのは当然ではないのか。

 しかしそもそも海外に展開する米国の軍事力は、世界のためのものではなくて、米国のため、米国の利益や安全のためではないのか、日米安保体制は日本のためというより、まず米国のためのものではないのか。

 そのように評価し、思っている政治家は自民党や保守の中にはいくらでもいる。石原の持論は日本が米国の〝めかけ〟の地位を脱却し、米国から自立し、「真の独立」を勝ち取るために、日本も断固核武装せよというものであったし、今もそうであろう。

 共産党も似たようなものである、ただ彼らは核武装ではなくて、米国とよく話し合い、納得づくで「真の独立」を勝ち取るし、勝ち取ることができるといった幼児並みの、空想的なおとぎ話をお信じなさっているようだが。

 大資本の国家同士の帝国主義的同盟について、どちらの利益であるか、損失であるかについて議論するのはナンセンスであり、労働者の立場ではない。

 労働者・働く者はブルジョア大国の帝国主義に、したがってまたその同盟関係に、世界の労働者の団結と連帯、共同の闘い――とりあえずは、精神的な、そして発展すれば様々な形の実際的な――を対置し、大資本の支配と彼らの帝国主義的政治と政策の粉砕と一掃を目指して闘い抜くのみである。 


【2面トップ】

単純商品と資本主義的商品
   交換価値(価値)とは何か
   中央資本論学習会①

1、問題の所在

 マルクス主義とか、「生産的な労働」とか言うと、古臭い、時代遅れだ、せいぜい19世紀の、150年も昔の、すでに賞味期限が切れ、忘れられ、放置された骨董品的理屈だと言わそうですが、果たしてそうでしょうか。

 しかし生産的な労働は、現世代の生活と生存を保障し、次世代につないでいくための、基本的な人類の社会的、個人的な活動の中心をなすものであって、マルクスもクーゲルマンへの手紙において、それを止めたら人類は3ヵ月といわず、3日も生きていられなくなるだろうとまで言っています。

 事実我々が毎日、衣食住のための多くの生産的な労働による、多種多様な消費財(商品)を買うことなしには、まともに生き、生活していくこともできませんし、次世代を担う子供たちも生み、育てていくこともできないのは全く明らかです。

 したがって、どんな社会であれ、社会と個々人の生存と世代交代を根底的に支える生産的な労働と、その比重と重要性と意義がなくなったり、後退することは決してありません。

2、困難な資本家的商品の価値規定

 交換価値(価値)の概念を理解し、受け入れた私にとって、最初から、疑問に思うというか、漠然としてであれ、分からないという感覚が残ったのは、価値の実体がその商品のために支出された、社会的に必要な人間労働であるというのはいいとしても――そして、それは〝単純商品〟の場合は、容易に理解できるとしても――、資本主義的に生産された商品の「価値規定」――労働時間による価値表現――はいくらであるかということは分かるのだろうか、分かるとするなら、いかにしてであろうか、ということでした。

 マルクスは色々なところで、それについて語ってはいますが、しかしそれは抽象的に、しかも主として消費財について、さらにその分配法則に関連してだけでした。

 『資本論』の冒頭の4節のロビンソン・クルーソーの例についても、孤島に暮らすたった一人の場合について論じ、1日の生活時間、労働時間をいくつかに分割して生活し、生きていく事実を上げ、こうした法則は人間社会において一般的であり、将来の社会主義社会においても適用でき、同様だと述べ、また『ゴータ綱領批判』では、「彼は自分が一つの形で社会に与えたのと同じ労働量を、別の形で返してもらうのである」、「個人的消費財が個々の生産者の間に分配されるときには、商品等価物の交換の時と同じ原則が支配し、一つの形の労働が、他の形の等しい労働の量と交換される」というだけです。

 しかし、こうしたマルクスの言葉を合理的に理解し、資本主義的商品の価値規定を、その法則を少なくとも理論的に理解することは困難であり、至難の業に見えました。

 その正しい解決――商品の価値規定、とりわけそれに基づく消費財の分配法則――を明らかにすることこそ、そしてそれを深めることこそ、代表委員会による『資本論』学習会の最大の意義であり、課題です。この課題は、今回の第一回から最後の第12回までを貫く、学習会の基調音であり、主旋律であるといえます。

3、2つの「価値論」

 しかしその答えを語るのは、今回の課題ではありません。

 我々はまず単純商品と資本主義的商品の同一性と違いを明らかにしなくてはなりません。すでに戦前から国内外のブルジョア学者を先頭に、『資本論』の第1巻と3巻の「矛盾」という形でやかましく論じられてきました。

 彼らが〝大発見〟であるかに大喜び、はしゃいで語った「矛盾」とは、マルクスは1巻では、商品の「価値通りの」交換を説きながら、3巻では資本家的商品の価値通りではない、それから偏倚し、違った商品の交換(不等価交換)を語っている、論理を首尾させ得なかった、マルクスの労働価値説は破綻した等々の幼稚な批判であって、単に資本主義では商品は、「費用価格+平均利潤」の価格――マルクスはこの価値の修正形態を「生産価格」と名で総括しました――で売買されるということを理解しない、ブルジョアやブルジョア学者たちの無学や愚昧を暴露しただけでした。

 元来、商品の「価値説」――交換価値(俗にいえば、「価格」と理解してください)を規定し、決定するものについての理論――には、基本的に2つの理論があります。

 もちろん、それは2つどころか、実際にはブルジョア的なもの、プチブル的なもの、訳の分からないようなもの等々、無数にあります。

 たとえば最も俗受けするが、徹底的に無内容なものに〝需給説〟――需要と供給の状態、状況によって、それらの相互関係、相互作用によって「価格」が決まるといったもの――や、〝効用価値〟説――商品の買い手の使用価値(効用)に対する欲求や、偏愛さえによって、またその程度によって決まるなど枚挙にいとまありません――かの悪名高い宇野理論も、結局は需給説や〝効用説〟の亜種、俗種といったものでしょう――が、基本的にブルジョア的な「価値構成説」(以後、構成説と略称)と、マルクス主義つまり労働者的な理論のとしての「労働価値説」(〝価値分割説〟、以後分割説と仮に呼ばせてもらいます)があります。

 構成説がブルジョアの価値論(実際には〝価格論〟)だというのは、彼らが資本の〝人格的な〟存在として、日常的な経済活動に従事する限り、彼らにとって不可避の、自然の意識として生じるものだからです。

 そもそもブルジョアの経済活動の目的は資本の増殖です、100万円の資本を投じて、商品を生産して110万で売ることによって利潤を確保するためです。

 そのために彼は市場から生産財(不変資本の形態転化したもの)を買い、他方では労働力の対価として、賃金(可変資本の形態転化したもの)を労働者に払って雇い、働かせます。もちろん資本家の可変資本は賃金に転化しますが、その賃金は労働者にとっては収入であり、所得であって、消費財の対価として支出されます。

 しかし〝労働力〟(精神的、肉体的な力、能力)以外、何も売るべき〝経済財〟を所有しない〝無産の〟労働者は、賃金でもってブルジョアから消費財を買う(交換する)しかありません(この場合、消費財を生産するのもブルジョアであると想定します)。 

 かくして賃金は、再び可変資本としてブルジョアの手元に還流しました。このことは可変資本とは事実上、ブルジョアが所有し、資本によって――否、直接生産者(労働者)によって――資本として再生産される、労働者の消費財だということです。

 かくしてブルジョアにとっての費用は資本だということです。素材的にいうなら、不変資本(生産財つまり機械や工場等々の労働手段と、原材料等々の労働対象に分かれますが)及び可変資本(消費財)です。

 ブルジョアはこうした資本(一般的には資本としての貨幣、つまり貨幣資本)をもって経済活動を始め、もしくは継続し、利潤(剰余価値)――実際には平均利潤――を得て、その循環を終えます。

 だからブルジョアにとっては、差し当たりは経済活動の循環を保障するもの、つまり不変資本と可変資本の合計が〝費用〟として現象し、それが商品の交換価値を規定し、左右し、決定するものに見えます。これがブルジョアにとっての「商品価格」です。

 しかし現実には商品は費用価格だけでなく、利潤も含めて、つまり費用価格+平均利潤(前に述べた生産価格)で売られ(交換され)ます。

 したがってまたブルジョアにとっても、後者の意味での費用価格(説)こそが真実であり、労働価値説に対置されるということです。我々は、後者の意味での費用価格によって議論することにします。したがってまた、ブルジョアの費用価値説を批判する場合も、後者の観念についてのものになります。

 この理論がブルジョア的な「構成説」と呼ばれるのは商品の「価値」(商品の価格)を、生産に要した諸契機の価格の合計、算術和として提示するからです。つまりこれがブルジョアたちの実際の経験に基づく〝価値論〟なのです。

 商品の価値(価格)は不変資本(機械、工場等々)の価格と、可変資本(労働力の価格、つまり賃金)と利潤(剰余価値つまり労働者が生み出した資本価値を超える超過分)の合計から〝構成される〟という話になります。商品の価値は、そのものとしてまずある――そしてその後に、不変資本や可変資本に分かれ、さらに利潤が加わる――のではなく、ブルジョアにとっての諸費用(諸価格)の総計としてあるということです。

 これに反して、マルクスの労働価値説はそもそも交換価値を分析してと、その結果として価値概念に到達したものですから、まず商品に結晶した人間労働は、量的には異なるが、質的には全く同質のものとして、一つの大きさであり、だからこそそれは資本価値や労賃や利潤として分解され、分割され得るのです。

ブルジョア社会における、「価値」に関する、二つの基本的な理論をしっかり区別することは、マルクス主義的理論を学ぶ上で第一義的に重要です。

    林 紘義


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