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●1374号 2020年2月23日 【一面トップ】空洞化する議会制民主主義――与野党間、そして野党間のなれ合い政治を一掃せよ 【コラム】飛耳長目 【二面〈主張〉】「金融緩和政策の終焉――80兆注入しても通貨は増えず 【二面トップ】原則なしでいいのか――外国人労働者の〝導入〟 【読者よりの手紙】 【お知らせ】第1回中央『資本論』学習会延期のお知らせ 【前号の校正】 ※『海つばめ』PDF版見本 ※注文フォームはこちら 【1面トップ】 空洞化する議会制民主主義 一見して国会では首相と野党の派手な議論が続き、対立が深まっているかである。しかし実際には緊急の政治課題や政策についての、あるいは現実の世界と日本の政治経済の重要で根源的な問題や現状についての有意義で、内容のある諸政党や政府の議論や検討は皆無であり、諸政党と首相の空疎なやり取りが続くだけである。 「意味のない質問」? 最近も、政党を次々と変えるしか能のない、政界の典型的な尻軽女、立・民の辻元の「質問」に対し、安倍が「意味のない質問だよ」とヤジったのに対し、野党が反発し、散々もめた末、全く悪いとも思っていない安倍が形だけの、そっけない謝罪を国会でやって一件落着となった。 まるで安倍と与野党共演の茶番劇である。安倍は何も反省しなかったので、「罵詈雑言の連続だったからだ」と開き直っている。ここにあるのは与野党なれ合いの茶番劇だけである。 野党の闘いはせいぜいゲリラ戦、パルチザン戦のたぐいであって、国会での重要な闘いだというのに、安倍政権に致命的な打撃を与えるような、堂々たる正規戦を挑む気迫も内容も何もない。 安倍が弁護され得ないのは当然としても、すでにその本性や内容が完璧に明らかになっている問題を飽きもせず繰り返し、蒸し返して安倍政権を政治的というより、道徳的に批判するといっただけの、自らのナンセンス、空虚さを自覚できない、政治音痴で、無能、無益な野党なるものの存在も大問題ではないのか。 せっかく開催されている国会に、緊急で、重要な問題がないというならまだしも、今回の国会は予算案の検討という、国会が果たさなくてはならない決定的に重要な課題があるし、財政崩壊とバラまき政治全盛の時、この緊急の問題で安倍政権を批判し、追い詰める契機や材料にはこと欠かないのである。 資本主義経済の困難や危機が始まり、深化しようとしているこの決定的な時に、まさか安倍政権の責任を問うことがないはずもない。 アベノミクスとその破産する中、そのマイナスの後遺症が猛威を振るおうという時に、その後始末や尻拭いはどうするのか。財政の崩壊や金融のマヒの中で、いかにして対応し、対処するのか、今以上の「異次元の金融緩和」や「財政大膨張」をやるというのか、またやれるのか。 アベノミクスはまだ継続するのか、止めて、反転させるのか、消費増税を転用してまだ続けるという全世代型社会保障や乳幼児教育無償化の政策――すでにその反動性や無用性を暴露し、破綻しつつある――はどうするのか、止めるのか。 安倍政権と与野党が真剣に議論し、検討しなくてはならない重要問題、課題は山とあるのではないのか。 そんな現実を見ながら、民主主義を悪用して、つまらない、どうでもいいような議論、根本問題はそっちのけで枝葉の、どうでもいいような議論ばかりしている野党共闘派のクソ政党や質問者にも、「言論の府」を頽廃させ、破壊している責任がないと言えるのか。 つまらない質問に時間を浪費して、安倍政権となれ合い、助けている責任はないというのか。安倍のヤジに付き合って、票稼ぎのパフォーマンスに明け暮れていていいのか。 労働者から見れば、与野党が協力して、空っぽな議会遊びにふけり、議会制民主主義を冒とくし、腐敗させつつ、安倍と闘うのではなく、安倍専制を助け、ファシズムに道を広く開いているとしか見えない。 「言論の府壊す首相」だって? こうしたひどい国会の現状を見て、自由主義的マスコミは、「荒れる国会、浮かぶ国会軽視」とか、「『言論の府』壊す首相と与党」とか書き立てて、安倍と自民党を批判し、自らの任務を果たしているかに思い込んでいる。 朝日新聞等は今の野党と共犯であり、「『言論の府』を壊」し、それを空洞化し、反動とファシズムに道を開いているという点では、政府与党と同罪であることを知らないのであり、あるいは認めたくないのである。 というのは、朝日らマスコミは一貫して〝野党〟なるものに肩入れし、〝報道の中立〟〝客観的な真実性〟などを看板に掲げながら、野党の自由主義的、プチブル的なくだらない政治の応援部隊、事実上その翼賛的な機関紙の役割を自ら買って出てきたし、今もしているからである(民主党政治の完全な破綻を暴露した、09年から12年までの、幻滅に終わった3年間もの苦い経験があるにもかかわらずに、である)。 彼等マスコミ・リベラル派は、09年の民主党政権誕生の時には、とにかく今は「政権交代が大事」で、他のことは二の次で、どうでもいいかにはやし立て、全く無力で、いいかげんな本性をさらけ出していた民主党を政権に押し上げ、その結果、安倍政権という、最低の自民党長期政権に道を開き、最悪の反動政権の誕生に大いに貢献してきた。 我々は民主政治のインチキと空虚を明らかにし、そんな政権は1年と持たないと暴露したが、果たして鳩山政権は1年もたたないうちに自壊した。 民主党が3年持ったのは、単に総選挙がなかったからであって、2010年に総選挙をしたら、2年も早く安倍政権が復活したことは確かである。 立・民や国・民の本質が旧民主と全く変わっていないのに、またまた政権奪取の夢を託すとは、マスコミの面々は、すでに理性も正常な判断力もどこかに置き忘れてきたと結論するしかない。 そもそも今の国会を「言論の府」と呼べるのか。 今の国会では、実際に、真剣で、内容のある、重要な議論などほとんど、否、全くといえるほど行われていない。 というのは戦後の国会でも、敗戦までの旧国会さながらに、議員と政府(天皇制軍国主義のファシズム政府)との〝質疑応答〟が主として行わるにすぎないからである。 議会を構成する諸政党間の議論は基本的に行われないし、行われていない、つまり「言論の府」といったものは虚名でしかない。 「言論の府」といえるのか そもそも議論や論争が政府対諸政党の間でのみという歪んだ、矮小で、一面的な形でだけで行われ、諸政党もしくは諸議員、諸党の間で行われない時、一体どんな重要な議論が、政治闘争が行われ得るであろうか、どんな3権分立にふさわしい国会=議会が存在し得ようか。 日本の3権分立は「議院内閣制」と呼ばれている、つまり総理大臣は議会が選出し、彼が大臣を指名、任命し、政府を、つまり内閣を組織し、執行権力を握るという形である。 戦後の議会は憲法によって「国権の最高機関」と位置付けられ、「唯一の立法機関」とも規定されている。読みようによっては内閣を組織し、行政機関をも従属させているとも言える。 だからこそ、かつて不破哲三らは日本の憲法体制を称して、日本は3権分立の憲法体制ではない、議会は、国民の代表の機関であり、立法の権限を有し、政府までも組織できるのだから、議会優先の体制であり、議会で多数を占めるなら、政権を握ることができると解釈し、彼らの珍奇な〝平和革命論〟の理論的基礎付けをしたことがあった。 愚かな不破は、資本主義の支配する社会では、この憲法体制は安倍1強ともいえる半独裁国家に行き着くことに思いをはせることができなかったのである。偏狭で、視野の狭いプチブル党ほどに愚劣で、ナンセンスなものはないというべきか。 安倍は大統領か、首相か もし今の日本の国会がいやしくも「言論の府」といえるなら、本当に言論の自由が保障されていなくてはならないが、そんなものは今の国会には影も形もない。 政府と諸政党の関係は〝言論〟の関係でも、自由な論戦の関係でもない、というのは内閣=政府に対する、一方的な〝質疑応答の〟関係、上級者と下級者の関係であって、。対等の議会構成者の間の対等で、自由な議論の関係ではないからである。 そもそもなぜ、諸政党間の、とりわけ諸野党間の議論や論戦がないのか。 野党共闘派は野党共闘を形成しているのだから、議論する必要はないと言うとしたら欺瞞である、彼らは常に根本的な意見の相違があり、だからこそ同じ政党ではないと言い張っているからである。 立・民と共産党の間でさえ――国・民のことは別としても――、政権構想ともなると、共産党と共に進めないというのが枝野の常日頃から言ってきたことである、ところが最近、共産党に媚びを売ってか、共同の政権についても議論しなくてはならないと言い始めている。 本気なのか、共産党の票ほしさの意地汚い、卑しい偽善ではないのか。 国会が、議会が全ての事実と真実について議論し、正義と公正と正しい政治を追求し、明らかにし、闘い取るための「言論の府」、真理追求の場だとするなら、つまり自覚した労働者にとっては階級闘争の一つの重要な場だというなら、政府や権力――行政権――から本当に自立する必要があるし、またその上で、自由で、徹底的な議論が行われなくてはならないし、政党同士の間でもタブーがあってはならない。 他の政党との非合理で、間違った政策や見解に対する相互批判のない諸野党などと言うものはそれ自体、インチキな関係であって、議会と議会の政治闘争や諸党間の関係を歪め、議会の腐敗の最も重要な契機となるであろう、というのは、それは野党間の関係が醜悪な取引や騙し合いやご都合主義や醜いなれ合い関係になるということだからである。 野党間のなれ合いは、一つの必然性としてブルジョア政党と野党のなれ合いに帰着するし、せざるを得ない、というのは野党の一部は不可避的にブルジョアやブルジョア政府となれ合うし、すでになれ合っているからである(かつての公明党や民社党、現在の国・民を見よ。立・民だって結局は同様である)。 【飛耳長目】 ★野党共闘の展望が少しも見えてこないのに焦ってか、志位が「魚心あれば、水心」でか、小沢に接近し始めた。自らが野党共闘のフィクサーになって、再び野党の政権遊びの中心で目立ちたい小沢のケチな野望と共鳴するからである★志位は「小沢一郎政治塾20周年記念」講演会に何と〝講師〟として出席し、熱弁の長広舌を振るった★野党共闘成功のカギは、単なる共闘ではなく、政権を目指す共闘であるべきで、その〝決意〟を明確にすれば国民も野党共闘の〝本気度〟を知り、嬉々として結集する、今や野党共闘のキイ・フレーズは政権問題で、野党諸党や市民派が「政治決断」することだ、小沢にそのために手を貸してほしいという訴えだ★相変わらず独りよがりの能天気をさらけ出すだけのたわ言だが、小沢や山本太郎などと一緒になって、ピエロの役割を果たすだけだ★志位はすでに小沢が、90年代の反自民・非自民で結集した細川政権の時も、09年の民主党政権の時も、同様な策士として策動し、陰で政権を操った――それこそがケチな権力主義者の小沢の生き甲斐だ――が、いずれもろくな結果に終わらず、自民党の反動攻勢を許し、安部の政権占拠と、隠蔽された、それゆえにファシズムなどの露骨で、野蛮な独裁に負けず劣らず、汚い〝独裁〟――日本の政治経済に計り知れない有害で、危険な結果をもたらした――に帰着したという反省もない。(鵬) 【主張】 金融緩和政策の終焉 黒田は2012年、安倍が政権に復帰すると、日銀総裁に抜擢され、いい気になってリフレ派経済学を地で行う「異次元の」金融緩和策にのめりこんでいった。 デフレ退治の大義名分を掲げ――そもそもデフレ退治の意味も内容もはっきりできないままに――、大量に日銀券(通貨)を経済と流通に注ぎ込むことで、デフレと経済の停滞、後退と衰退を乗り越えられるというのである。2%の物価上昇を短期間(1年ほどと当初は豪語した)で達成し、デフレ脱却を実現するという話であった。 なぜ2%の物価上昇かという疑問には、どんなまともな答えもなかった。ただそんなみみっちい人工的インフレに神の恩恵があるといった、「溺れる者はワラをもつかむ」といった宗教世界の話、信仰のような話であった。 しかしそれからすでに7年もたとうとしているが、黒田司教のご託宣は今や全く色褪せ、黒田教の信者は見るかげもなく減ってしまった。 彼らの宗教もしくは観念論は、「異次元の」金融緩和を行い、日銀が年々80兆円もの長期国債を買って、お金をダブダブと金融市場に流し込めば、2%の物価上昇が可能になり、デフレ脱却が(つまり経済不振と停滞が?)嘘のようにたちまち解消し、消えてなくなるといった、嘘のような(実際にはペテン師的な虚言もしくはホラそのものの)ドグマ、おとぎ話であった。 「異次元の」金融緩和の結果は、日銀保有の国債(国家の借金の肥大化と同義である)が急速に増大し、黒田は今や膨脹した国債所有を維持するのか、減らすのか、維持しなくてはならないのか、それとも減らす方向に舵を切るのかの瀬戸際に立たされ、どんな金融政策をとったらいいのか、なすすべを知らないような立場に追い込まれている。 日銀保有の国債は少なくとも17年までは年々80兆円の規模で増えづけてきたが――年々そんな規模で通貨も増え続け、約5百兆円にもふくれ上がったというわけである(もっとも、このことは流通にそれだけの通貨が溢れたということではない、この二つのことは全く別のことである)――、しかし17年ころから日銀の国債購入額の減額が続くとともに、それに当然ながら合わせて、確実に減り始め、今では年額十兆円といったレベルに落ち込んでいる。 19年末の前年度比の国債増額はたったの16兆円、数年後には、0あるいはマイナスになろうとしている。 国債を買っても、年々償却しなくてはならない国債も今や数十兆円にも膨れ上がっており――20年度の国債の償還額は57兆にも達しており、その額は、今後もしばらくは増え続けようとている――、黒田はどうしたらこの困難な状態から、ジレンマから抜け出したらいいのか、自分でも見出し得ないのである。 こんな巨額な国債の償却をしながら、国債を80兆円も買いつづけることなど、さすがの金融緩和教の教祖黒田にしても、手に余る難事である。もはや驚天動地の手品か、魔法に頼るしかないかである。 黒田日銀の、またアベノミスクの破綻が迫っている。 カネをバラまけば経済の〝好循環〟が生まれ、デフレ脱却(2%の物価上昇?)はもちろん、経済成長や財政再建や経済繁栄は思うがままだ、ついでに、トリックル?ダウン効果で、労働者・働く者の雇用も劇的に改善し、生活も急上昇する等々のアベノミクスの幻想も、ついに剥げ落ちる時代がやってきたのだ。 【2面トップ】 原則なしでいいのか 安倍政権もようやく、平成の30年の〝経験〟を経て、外国の単純労働者の受け入れについて、「開国」か、「鎖国」かの問いに、何とか結論を出したかである。 「出したかである」というのは、昨年の「働き方改革」の一環として、単純労働者を含めての、外国人労働者の受容を一応確認したからだが、しかし安倍政権のやっていることは、原則は棚上げして、便宜的に、ブルジョアたちの利己的な要求や圧力に負けて、また進化する状況と時代の流れに押されて、しぶしぶ「開国」をいい加減に、場当たり的に認めるといったものであり、依然として、貧しい、弱い立場にある外国人労働者を無残に扱い、苛酷に搾取し、企業が外国人労働者を奴隷同然に扱うのを見て見ぬふりをするといった、野蛮で、恥知らずな態度はそのままである。 自民と安倍政権の責任大 こんな現実は、まさに日本のブルジョアたちと安倍政権の、卑しいげす根性と本性を暴露し、特徴づけるものである。 こうした外国人労働者の〝導入〟問題の根底にあるのは、伝統的に自民党政権が、とりわけ民族主義と国粋主義に凝り固まる安倍政権が、依然として〝単一民族〟の神話的妄想や、ナチス張りの〝純潔民族〟といったドグマや反動観念に凝り固まっているということである。 日本の国家は、外国人と外国人労働者の日本への自由な移動や、定住や、〝移民〟を頑強に否定し、国際的な人の移動に対する鎖国や、難民に対する冷酷で無神経な卑しい立場を外国人労働者問題の根底に据えてきた。 その一つの象徴的なものが、〝難民〟や〝不法滞在〟の外国人に対する拒否反応であり、非人間的で冷酷な〝入管制度〟である。 日本がアメリカのような、そして1960年以降の西欧諸国――ドイツやフランス、さらにはイギリス――のような〝多民族国家〟に転化したら日本が汚れて日本ではなくなると外国人労働者には、一貫して否定的で、排除的な立場に固執してきた。 反動や自民党政権は、21世紀に入り、ブルジョアたちの要請も強まり、単純労働者の移入を認めるに当たっても、〝血統主義〟にこだわり、ブラジルの単純労働者の〝導入〟を計った時も、日系一世や二世等々、日本国籍を持つものに限って日本で働くことを許容するといった、矮小姑息な対応でお茶を濁してきた。 しかし日本が21世紀、本格的な少子高齢化の社会に堕すことが明らかになるにつれて、彼らも焦り始めたのである。例えば建設とか介護とか、一部の産業で労働者不足が顕在化し、安倍政権も建設現場では30年には56万人とか、介護職員も25年にも30万人も不足し、外国の労働者に依存しなくては如何ともしがたいと言い始め、「成長政策」を掲げる手前からしても、外国人労働者の移入は焦眉の課題となったのである。 しかし安倍政権は、外国人の単純労働者の〝導入〟に舵を切りながらも、依然としてこれまでの、ペテン的で、悪名高い搾取制度である、「技能実習生」の制度をわずかの改善と引き換えに温存し、悪用しようとしていることにも見られるように、へっぴり腰であり、必ずしも本気ではない。 外国人労働者の導入に転向したといっても、自らの人々の自由な出入国の意義を認めたわけではなく、決然として〝国粋主義〟や鎖国主義と決別し、外国人や外国人労働者に対する〝開放的な〟原則的立場や政策を明らかにし、実行するという姿勢は皆無である。 安倍政権は表面的には、あるいは言葉の上では、外国人労働者の〝導入〟を図るかであるが、合理的で、一貫したものは何もなく、建設資本が労働者不足を何とかしてくれと泣き言を口にすればそれに応じ、介護労働者が不足するといえばその種の労働者を移入するといった、ご都合的対応に終始するだけである。 安倍政権は数年前、〝日本再興戦略〟を謳い、「稼ぐ力の強化」を掲げた『成長戦略』の中で、その一環として「外国人材の活用」を謳った。外国人実習生制度の期間延長や対象職種の拡大、建設現場における「即戦力」人材の確保など、自国と、自国産業本位の得手勝手なものばかり、外国人労働者を単なる安倍の「成長政策」に好都合の道具としてしか見ていない本心をさらけ出していた。 とにかく、外国の若者に犠牲を強いつつ、日本に連れて来て、「技術の習得」などどこへやら、無責任に、非人間的に扱い、働かせ、搾取し、ただ苦しめるだけである。 そして不況や経済困難がやって来て、巷に失業者があふれるような時がやってくれば、企業も政府も、外国人労働者は経営の〝安全弁〟であるかに扱い、たちまちお役目ゴメンと首を切り、自国に帰れと迫るのである。 アジアの隣人ではなく、単なる搾取材料や、企業経営のための〝安全弁〟としてしか考えていないのである、だから肉親や連れ合いを呼び寄せることや、定住や〝移民〟を認める気持ちなど全くない。外国人労働者は単なる消耗品であり、ケガとか病気にでもなれば、たちまちポイ捨ての運命が待っているのである。 労働者党の立場と政策 自由主義派や野党は、能天気に、外国人や外国人労働者の日本社会への移住や参入に対して、共生だとか、多様化だとか持ち上げ、そんなものがスポーツ界の外国人の働きや活躍を見ても分かるように、日本を強くするなどと言いはやしている。 しかし西欧の経験をちょっと見ただけでも、現実は、そんなに安易なものでないのは明らかである。西欧諸国は60年代の高度経済成長の時代、トルコや東欧から多くの〝移民〟を半ば意識して、半ば自然発生的に受け入れた。 移民の多くはイスラム教徒でもあり、宗教的な違いもあって、イスラム系移住者と〝近代的〟文化、文明の西欧世界との対立や摩擦や差別をもたらし、その後遺症はフランスやベルギーにおける2010年代半ばの「パリ同時テロ」の時代までも尾を引いたのである。 もちろん国境を越えての人々の移動や生活の選択に反対することは、労働者党の立場でも政策でもない。労働者党はそうした移動や生き方の選択のどんな規制や障害にも反対し、また世界中の労働者はみな兄弟姉妹であり、対等であって、さらに資本の支配に反対し、労働者の未来のために共同し、協力する同志として連帯するだろう、つまり労働者の国際主義の立場に立って発言し、行動するだろう。 にもかかわらず、労働者党は、多様性や共生とか、「移民は異民にあらず」とかいった自由主義派の――それに追随する野党なる連中の――空文句や偽善に同調せず、一定の意味での国民への〝統合〟を弁護し、新しい国民に(したがってまた、ありとあらゆる宗教を信仰する、どんな人々にも)、例えば政治や公的な場所や立場で、断固として〝政教分離〟の原則を遵守するよう要求し、適応するように説得するだろう。 というのは、政治的にはそれは正しい立場であり、全ての国民と政党も従うべき、正しい原則、それなくして全住民の共同体的な生活と利益守り、維持し得ない最低の原則の一つだからである。 そしてこうした原則は、定住者が、新国民が、個人的生活や立場において、自らのどんな文化的、宗教的な違いや独立性を保持することが許容されることと、対立したり、矛盾することは何もないのである。 こうした政策によってのみ、ニューカマーの労働者・働く者と、既存の労働者・働く者との融合や統一や、共同の闘いが、一層よく勝ち取られ得るのである。 林紘義 【読者よりの手紙】 寒中お見舞い申し上げます。御年賀状ありがとうございます。『海つばめ』折々拝読、日共批判(1/19付)殊に面白く読みました。 毎日新聞T 【お知らせ】 第1回中央『資本論』学習会延期のお知らせ 読者には既に「はがき」でお知らせしましたが、2月24日(月・祝日)予定の第1回学習会をとりあえず3月8日(日)に延期します。8日の会場と時間は、「サンライフ練馬」(西武池袋線中村橋駅より徒歩3分)にて14時から3時間を予定です。8日も含めて、今後のことは新型肺炎の状況にて決めますので、党のブログや『海つばめ』の記事で確認してください。 一面コラム 最終行 「世界」で終わっていますが、以下の文が脱落していました。申し訳ありませんでした。→世界の〝左派〟なる、いかがわしい連中もみな、退廃し、堕落したものである。(鵬) 二面 下から4段目1行 首尾させ→首尾一貫させ 下から1段目4パラ3行 分析してと→分析して 二面 下から4段目1行 首尾させ→首尾一貫させ 下から1段目4パラ3行 分析してと→分析して |
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