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労働の解放をめざす労働者党機関紙『海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1376号 2020年3月8日
【一面トップ】志位の『野党共闘論』批判特集
 次回衆院選が終焉の地――志位の『野党共闘』路線の行方
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】労働者の闘いの未来――市民派の1対99の幻想
【お知らせ】中央『資本論』学習会のお知らせ

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【1面トップ】

志位の『野党共闘論』批判特集
次回衆院選が終焉の地
志位の『野党共闘』路線の行方

 志位が野党共闘の〝バージョンアップ〟を求めて策動を強めている。並みの野党共闘で3回の国政選挙を闘い、野党共闘の躍進と、それに並行しての共産党議席の上積みを狙ったが、あぶはち取らずの結果で、野党共闘は負け戦ばかり積み重ねたばかりではない、16衆院選では野党共闘自体が解体し、間に合わせの野党共闘で体裁を取り繕うしかなく、このままでは野党共闘路線を叫んで来た志位の権威も権力も、春のうたかたの夢と消えてしまうしかなさそうである。事実上破綻した志位は、今や野党共闘による政権構想で突破口を開くしかないとばかり、共産党の参加する野党政権の幻想をふりまく以外ないのだが、12年に破綻した民主党政権に、共産党が参加するような形にしたとして、どれだけ代わり映えがするというのか。

一体いくつ統一戦線、連合政府が必要なのか

 しかしもともと野党共闘路線そのものが、スターリン主義の垢にまみれた、〝間違った〟戦術であり、1924年来の歴史の中で、理論的に、実践的に完全な破綻と失敗を暴露してきたのであって、そのことの総括も反省もなく、単に事実上挫折している野党共闘路線の延長線上に、その政権を持ち出したところで間違いの上塗りをする以外のどんな意義も獲得できないであろう。

 志位は今野党共闘路線にのめりこみ、その行き詰まりの中で、野党共闘派に政府の構想がないから野党共闘に国民の支持が集まらないのだ、政府構想を明らかにし、国民に示せば、国民も野党共闘派の「本気度」を信用し、投票率も上がり、野党共闘派は勝利すると、埒もないことを主張し、熱心に説いている。

 投票率が上がれば、〝野党〟――どの党派のことやら――に有利だなどと言う、カビの生えたような神話はさておくとして、野党共闘派の政府綱領を示せば、その内容がどんなものであり、国民が、労働者・働く者がおっとり刀で馳せ参じるといった観念は全くの幻影であって、労働者・働く者を愚弄するも甚だしい。内容も何もない、野党共闘派の政治や政権幻想には、労働者・働く者は増々愛想を尽かし、飽き飽きしているのである。

 頭でっかちで、観念論者で、独断主義者、独りよがりの志位は、野党連合政権に道を開くには、野党は「追求だけでなく、希望を」という〝姿勢〟を貫く必要がある、そのためにはこういう政権を作るということを明示して行くべきだ、そうすれば国民は嬉々として野党共闘派のもとに結集してくるだろうと捕らぬ狸の皮算用にふけるのである。

 そこで我々は、野党共闘派の政権構想を一瞥し、検討して見よう。

 志位は1月の大会の中で、野党諸党の中ですでに「安倍政権を倒し、政権を変え、立憲主義を取り戻すという方向は確認できた」と報告し、具体的には、「安倍政権の破壊してきた立憲主義、格差是正、多様性」を取り戻すことを目指して闘う、消費税を5%に戻すなどの政策で一致して闘う等々と報告した。

 しかし「立憲主義」(法治主義?)や「格差是正」(同一労働同一賃金?)や「多様性」(民族主義?)といった、抽象的で、それ自体無内容なものは、安倍政権でさえ口にし、謳い、政策目標にしているのであって、そんなことで争っても安倍政権に勝てるはずもない。

 要するに野党共闘派の政策の根底は、志位の次のような立場に代表されているのであろうか、それでいいのであろうか。

 「増税で景気を悪化させ、景気対策のバラまきを行い、財政をさらに悪化させる。……この悪循環を断つ道は明瞭です。消費税を緊急に5%に減税し、社会保障充実・くらし応援に切り替える。財源は、空前の儲けをあげている、富裕層・大企業に応分の負担を求める。『消費税に頼らない別の道』でまかなう」(1月5日、党旗開きでの志位の挨拶)。

 増税で景気を悪化させ、景気対策のバラまきを行い、財政をさらに悪化させる」などと言う論理は――否、この引用文の全体も同様だが――、ただ志位のドグマの組み立ての中でのみ通用する、手前みその観念であって――ここでは論評は詳しくは展開しないが――、因果関係や客観性、したがってまた論理性はゼロの詭弁の一種である。

 12年の三党合意の5%の消費増税は、その内の4%を財政再建のために、1%はまさに「社会保障の充実」を銘打ち、そのためのものであった。

 それは現実的な課題であり、関係であって、頭の中のものではなかった。志位は事実上、消費税を5%に戻し、改めて、社会保障の充実を謳うのだが――財政再建は無視しつつ――、その財源とはただ志位の頭の中にだけあるものでしかなく、つまり純粋に観念上のもの、空想の産物であって、何とでもいえるのである。「空前の儲けをあげている富裕層・大企業に応分の負担を求める」というのだが、「応分の負担」とはどんな「負担」なのか、彼らが「求めても」拒否したらどうするかもはっきりしていない、つまり言葉だけの問題として、結局は空文句として終わるのである。

 立憲主義も回復するというが、法治主義とは区別された立憲主義、野党が言いはやしている「国民(ブルジョア)が自らの意思を、法的秩序として国家権力に強要する」権利といった意味での立憲主義なら、そんなものは18~19世紀のブルジョア革命の時代のイデオロギーであって――しかも旧権力(絶対王政)を革命的に打倒し、一掃するのではなく、旧権力と和合する立憲王政のイデオロギーであって――、そんな憶病なものを今頃もち出すのは、自らの極端な日和見主義と愚劣な時代錯誤を暴露するだけである。 

 15年の安保関連法(共産党の無概念の規定によれば〝戦争法〟)をなくすというのも、ピント外れな要求でしかなく、そんなものは――原発を一掃するといった要求も同じだが――、野党共闘派の共通の要求になるはずもないし、なったとしても、野党共闘政権がそんな政治を実行に移すことは100%ないと断言できる、というのは、野党共闘派の内部には、安保関連法や原発を肯定し、その活用を期待し、持論とする強力な勢力が、獅子身中の虫が盤踞しているからである。

 共産党が野党共闘派の共通の要求を何とかをまとめ、仮に野党共闘派の政権が生まれたとしても――そんなことはありそうにないが――、そんな政権は細川政権や鳩山政権、戦後の片山政権と同じ運命をたどるだけである、容易に1年もたたないうちに、決定的な脆さ、弱さや、無力や内部矛盾を暴露し、たちまち崩壊し、その反動として、より危険で、より悪質なブルジョア政権(例えば安倍政権)に、ファシズム的政権に(もし労働者・働く者が、そんな政権を労働者・働く者の権力に止揚しないなら、できないなら)席を譲るのが関の山、という結果に帰着するのである。

 それにしても共産党は、志位は一体いくつかの、違った性格と課題を持った野党共闘政権が必要だというのか。

 それぞれの時代や社会や闘いの段階があるのだから、それに対応した共闘の形があるのは当然のことだというのか。

 彼らはコミンテルンの初期には社共――共産党と、共産党に参加しなかった、第二インターから別れたブルジョア的社会主義者ら――との統一戦線を謳ったが、それはトロツキーらの大きな影響を受けて、スターリンらがヘゲモニーを握ってのことであった。

 しかし、その路線はすでに1920年代半ば、中国革命を致命的な敗北に導き、その反動として、スターリンは「社会党主要打撃論」というプチブル的な急進主義に走り、ファシズムの勝利を助けた後、今度はさらに日和見主義的路線に急転換し、ブルジョア勢力やプチブル勢力との協調路線――人民戦線政府論――の泥沼に転進し、フランスやスペインの革命――もちろん、あり得たかもしれない革命ではあるが――を敗北に導いた。

 このスターリニズムは、第二次世界大戦末期や、その後における激動の中で、世界の労働者の解放運動や、先進国の植民地に甘んじてきた多くの後進的国家の中に、澎湃として起こってきた民族解放運動――〝民主主義的な〟革命運動――に致命的な悪影響を及ぼし、破滅させた。

スターリン主義は日本の運動にも悪影響

 もちろん日本も例外ではなく、戦後の日本革命――その性格はさておくとしても――を流産させた責任は日本共産党にこそあるといって決して言い過ぎではない。

 そんな共産党は、今また〝超〟日和見主義をふりまいて、再び、三度、日本の労働者・働く者を裏切ろうと策動するのである。

 共産党は綱領では60年代初め、ようよう採択された悪名高い宮本綱領以来、当面する革命は民族民主革命であり、それを実現するのは民主連合政府であると謳ってきた。

 彼らによると、この政府は並みの統一戦線政府と違って、日米安保条約を廃棄するなどの「根本的な民主的変革」をする政府であり、これに反して、今問題にしている、野党連合政権は、「それよりずっと手前にある、直ぐに実行する緊急的課題をやる政権」だそうである。

 しかし我々には、直ちに多くの疑問が沸き上がる。

 共産党の綱領のいう、「根本的な民主的改革」とは何か、そしてなぜその内容がまず「日米安保条約の廃棄」かということである。

 民主的改革もしくは革命というからには、民族独立ということであるから、それが革命であるからには、日本は米国の植民地ということだが、日本はいつから米国の植民地になったのであろうか。敗戦後数年間は確かに米軍が日本に駐留し、軍政下におかれたが、それと日本の植民地化とは別のことだし、しかも米国の

軍政は一時的なものであって、その証拠に日本が施政権を返還されて主権を回復すると共に、米軍は基本的に日本から撤退している。

 沖縄に米軍の軍事基地は存在しているが、それは日本が米国の軍政下におかれている事とは別であり、しかも沖縄自体、70年代に入って、米国の施政権は日本に返還されている。

 そんな状態を日本の「植民地化」と誤解し、日本の独立が課題になっていると故意にいいはやし、民主(正確には、民族民主)革命を謳うのは正気の沙汰とも思われない、状況判断の間違いである。

 戦後の日本が〝民主革命〟の歴史的段階にある、というなら、日本はまだ民主国家ではなく、天皇制国家でもあると言いたいのか。

 しかし共産党自身、天皇制は憲法の下に従属する制度に変質しており、危険性のない天皇制だと自ら言って、その廃絶は謳わないことにしたのではないのか。「民主的」改革、根本的変革の内容のない、「民主革命」といったものは、共産党の腐敗した党官僚の頭の中以外どこにも存在しない幻影、蜃気楼ではないのか。

 また、今共産党が持ち出して大騒ぎしている政権は、「すぐに実行する緊急課題」だけをやる政権だというが、その「緊急課題」といっても、共産党がそう思っているだけで、歴史的、社会的、現実的な必然性のないものだとしたらどうするのか、「立憲主義の回復」であれ、「格差の是正」であれ、「多様性の実現」であれ、それが実現したら、野党共闘の政府はどうするのか、課題と使命が終わったとして自ら退陣するのか、あるいはまだその課題が解決しないとして――そしてこうした抽象的な3つの課題の解決といったものは、常にいかなる形で解決したか、しないかを判断し、結論することは至難の業であろう、それをいいことに、野党共闘の政権はいつまでたっても破廉恥に、横着に居座り続けようというのか――、あるいはより高い段階の連合政府に自動的に移行しようというのか(しかしそれは事実上、露骨な公約破り、事実上のクーデタを意味しないのか)。

 しかし共産党はこの2つの他にも、いくらでも連合政権を持ち出し、準備しているのである。選挙管理内閣といったものは、何回も、常に連発して持ち出してきたし、また15年の安保関連法の成立した時には、ヒステリー状態になって、そんな危険な新法の廃止の一点だけで合意する「国民連合政府」を謳い、そんな政府を組織して、成立したばかりの安保法を直ちに廃絶しなければ大変なことになると騒ぎ立てた。

 そして今や、今回の野党共闘政権と、国民連合政府の関係すら、ろくに、説得的に説明されていない。一体共産党はどちらの政権を作るというのか、二つの政権は、本当は密接に関係する、一つの政権だというのか。ごまかしの説明や、詭弁の数々や、意味不明の言い訳のようなたわ言はもうたくさんである。

党の方針と野党共闘の方針は別?

 党の考えや方針と野党共闘で闘う場合の考えや方針は別のものであり、それで問題はないと志位はいとも安易に言いなさる。

 しかしそんな偽善や欺瞞的なやり方で、二枚舌で、労働者・働く者の党が、事実と真実に基づいてのみ闘う労働者・働く者の党が、一貫して、動揺もなく闘っていけるであろうか。ブルジョアやプチブルの党が、ますます事実と真実から離れていくしかないのに対し、労働者の党は全く反対であることこそ、労働者の政治の本性、特性であり、優越性である。だからこそ労働者・働く者の党は、その本性からして、権謀術数の政治やポピュリズムの政治に断固として、一貫して反対して闘うのである。

 志位は党の方針と、野党共闘の政権との思想的、政治的違いはあって当然、野党共闘やその政権のために、何の障害にならないと言い放っている。

 「日米安保は党の方針としては、(この条約は)米国従属の根源ですから、国民多数の合意で廃棄する〔いつ、どんな時に?…林〕、日米友好条約にしていく。これが私たちの大方針で変わりません。ただこの点は他の野党と一致しませんし〔本当か〕、政権に持ち込むことはしません〔なぜ〕。政権として、日米で改善すべき内容は、日米地位協定の改定、辺野古新基地建設を止めることの2つをやっただけで大改革だ。……

 それでは野党共闘連合政権は安保条約にどういう態度を取るのか。政権としては、『継続、維持』する。閣僚をもし共産党が送った場合は、その政府の方針に従う。……

 自衛隊についても、考え方は同じです。党としては、自衛隊は憲法9条と両立しない(と考えている…ママ)。しかし自衛隊違憲論は、他の党とは一致しません。他方では、集団自衛権の国家主義容認の『閣議決定』は撤回する。そして安保法制は廃止する」(2月24日、BS朝日、「激論! クロスファイア」)。

結論。「何事も始めが難しい」?

 志位は旧ソ連や中国の社会主義を今頃否定し――我々に遅れること、60年もして――、そして今厚かましくも、中国等を社会主義と呼ぶと、それだけであんなものが社会主義か、それなら社会主義は御断わりだとして労働者・働く者が社会主義を否定するようになるからよくないと言いながら――つまり彼らは100年近く、そんな良くないこと、反革命的な犯罪を続け、従事してきたことをようやく白状したということになる(アナ、恐ろしや)――、将来の社会主義の理想郷の実現について一般的に語るのを止めないのである、丁度この世での人類の解放を否定する宗教家が、ますます熱心に頭の中だけの空想的な理想郷を必死で説くのと同様に、である。

 そしてロシアや中国は後進国であって、社会主義の建設は困難ということが分かった、しかし日本や欧米の諸国は資本主義の先進国であって、マルクスも認め、強調しているように、社会主義の建設は容易である、と言いはやし始めている。危険な楽観論である、というのは高度資本主義は生産力を発展させてはいても、他方では資本主義として腐敗し、寄生性と頽廃を深め、労働者の一部を買収し、自らの支配の一部としており、ありとあらゆる腐敗や頽廃、汚物をも抱え込んでいるのであって、そんな社会における労働者階級の勝利は異常に困難な仕事になっているからである。

 しかし日米などの社会主義の勝利は困難ではあっても、それは最初だけの話であって、最初の第一歩がうまく行けば、後は困難なことは何もなく、寝ていても社会主義はやってくるかにいうのである。

 志位は、1月の党大会で、日本などの先進国の「社会主義的変革の特別の困難性」についておしゃべりしつつも、しかしそんな〝困難〟も心配する必要はないと、次のように語った。

 我々はそんな労働者階級の最悪の裏切者の言葉を、汚い詭弁とごまかしの言葉を、永遠に記憶しておくべきである。

「一部綱領の改定案が、発達した資本主義国における社会主義的変革について、『豊かで、壮大な可能性』とともに、『特別の困難性』もつ事業だと言及した意味について述べておきたいと思います」。

 「ここでいう『特別の困難性』とは、発達した資本主義国において、多数者革命を『開始する』ことの困難性――日本の場合でいえば、国民の多数の合意のもとにまず民主主義革命を実現し、さらには国民の多数の合意で社会主義的変革に進む上での困難性ということであります」。

「そして多数者革命を『開始する』ことは困難であっても、民主主義革命を実現し、社会主義的変革の道に踏み出すならば、その先にははかりしれない『豊かで壮大な可能性』が存在する――これが日本における私たちの社会主義的変革の事業の展望であります」。

 まさに社会主義の実現など本気で考えたことなど全くない、共産党の党官僚が、プチブルの俗物が頭の中だけで考え出しただけの〝社会主義的変革〟の空疎な作文ではある。

 志位の言いたいことは、「民主的な」革命、いや違った、「民主的な」改革がいったんなし得るなら――今、野党共闘路線一つがうまく形成されないことを見ても分かるように、ここには「特別の困難」がある、しかしいったんそれが成立するなら――、後は「先進国革命」は容易になされ得るといった、たわいもない幻想である、いかにして、いつかは分からないが、その政権は次の段階の、より進化した「民主連合政府」に移行し――ここでも、いかにしてかは決して明らかにされないのだが、なし得ないのだが――、そしてその後には必ず社会主義の政権が「国民の合意」を得て成立し、かくして日本の、世界の労働者・働く者は労せずして、居ながらにして、めでたく社会主義の素晴らしいパラダイス郷を手にし、享受できるというのである。

 まさにつまらないスターリン主義の〝宗教〟であり、余りに愚劣で、最初から最後まで極端にナンセンスである。

 確かにこれは、プチブルらにとっては心躍らす、楽しいおとぎ話であり、夢想かもしれないが、労働者・働く者にとっての厳しい社会主義の勝利の道でも、闘いに勝ち抜くための展望でもない。       (林紘義)

(注 紙面の関係で林氏の本論文の一部(中見出しは『歴史の中で否定されたミルラン主義』と『共産党の力が必要?』の項を省略しました。全文は党ブログを参照して下さい。)

   

   

【飛耳長目】

★コロナ肺炎の広がりが止まらない。政府はここ2週間が山と位置付けたが、すでにその半ばが無為に過ぎた。安倍は新法が必要だなどとピント外れを言い出し、実際的な仕事をこなす代わりに、責任逃れや支持率のことばかり気にしている★彼が既成の特措法ではなく、実質的に新法にこだわるのは、オリンピックのため、その実態を隠そうとして来た立遅れを取り繕い、何事も安倍の主導でしっかりやってきたと見せかけたいだけで、そもそも対応なら12年に成立したインフル特措法で十分である★安倍は新法によって権力を集中し――安倍をトップとする「政府対策本部」を新しく設置し、「緊急事態」を宣言し、各市町村に指示を出す大権を握れる――、安倍が頑張って、新型肺炎を抑え込んだという印象を作り出したいだけである。安倍の関心は国民でなく、安倍とその権力の安泰だけである★枝野は安倍政権と協力して「是々非々」で振る舞うことを夢見(97年の与野党協調の〝成功体験〟にとらわれて)、共産党は共産党で「わが道をいく」とばかりに自惚れ、見せかけの左翼性を誇り、安倍政治に「反対」を叫ぶだけで、現行の特措法で早急に対処せよと安倍に迫ることもなく、大流行を阻止するために野党をまとめ、鋭く安倍政権に迫る指導性もない★新型肺炎という、ちゃちな危機に直面した時でさえ、与野党ともに無能で、何の役にも立たないお粗末政党である。(鵬)

   

【主張】

労働者の闘いの未来
市民派の1対99の幻想

 階級社会を何が何でも「格差社会」にすり替えようとする市民派や改良派あるいはインテリら(インテリ社会学者ら)は、「1%の富裕層と99%の国民」という観念的な図式もしくは機械的な世界観を持ちだしている。

 しかしこうした過度の抽象化、単純化は間違いであって、複雑な発展を遂げている高度資本主義社会の現実と真実を明らかにするものではない。

 現実にある階級は、所有資本家、機能資本家、それに寄生する様々な分野のエリート層、小所有階級、労働者階級等々である。

 賃金労働者の中でも、正規と非正規、大企業と中小企業の労働者や労働貴族、公務員、サービス業労働者等々、千差万別である。

 つまり階級闘争の現実を1対99に単純化することによっては、労働者は自らの闘いを複雑な状況の中で、最後まで一貫して遂行することはできないのである。

 ある統計はまた、1%の富裕者が20%の国民の所得を占有しているとも主張している。

 すでにこのことだけでも、1対99という〝差別〟の観念の抽象性、ナンセンスさは明らかである。

 日本の生産的労働者はおおよそ、生産的人口の何分の一かで、およそ2千万ほどである。国民の過半数はおろか、賃金労働者の中でも多数派ではない。

 社会主義の事業が、生産的な仕事に従事する人々によって主として担われ、成し遂げられることは確かだが、それがどんな具体的な形を取るかはあらかじめいうことは、今はできない。

 歴史の特殊な事情によって、国民の成人の大多数が、歪んだ形ではあったが、生産的な工場労働に就いた時代もあった。

 例えば国民的総力戦を遂行するために、太平洋戦争の末期には、軍部のファシズム権力によって、国民の大多数が兵器や食料の増産に大動員されたときである。

 従って、敗戦後の激動期、疾風怒濤の闘いの時期に、彼らの闘いによって、仮に社会主義が勝利し、組織されたとしたら、それは社会主義建設の決定的な、重大なきっかけになり得たかもしれなかった。

 もちろん不幸なことに、当時、日本の労働者階級は、左翼政党は、それを成し遂げる準備が全くできていなかったが、その責任を誰よりも、人民戦線というブルジョア協調主義――現在でなら、志位の野党共闘路線――に溺れて、牢獄やソ連などの〝安全地帯〟かどこかは知らないが、太平楽を決め込んで、抵抗と闘いを放棄していた宮本や志賀や野坂らを先頭とする共産党の連中にあったのである。

 そして我々が社会主義的生産を目指し、組織しようとするとき、まず問題にし、依拠しなくてはならないのは生産的な賃金労働者であって、賃金労働者一般ではない。彼らこそが、社会の富を生産するのであって、サービス労働者がそうするのではない。

 階級的存在が否定され、止揚され、消滅する、将来の共同体社会において、色々な形で、非生産的な労働者が不可欠だとしても、そうした労働は、労働者がみな生産的労働を担いつつ、また非生産的な仕事も担う――その実際のやり方は種々様々であり、工夫が凝らされるにしても――という形で〝解決〟され、そうした仕事が一部の人々の固有な〝職業的な〟任務や役割の形を取らないのである。

 社会の成員はみな、まず生産的労働者として、様々な〝公務〟の担い手として、あるいは教育者として、さらには文化や報道の仕事に従事する人として、芸術家やスポーツ選手としてさえ現れるだろう。

 肝心な点は、将来の社会では、生産的労働の担い手として、つまり自分と社会の日々、年々の生活を実際に担う人としてまず現れるし、現れなくてはならないということである。


【お知らせ】

中央『資本論』学習会再延期のお知らせ

 中央『資本論』学習会の日程については、3月22日とお知らせしましたが、変更するかもしれませんので、次号でご確認下さい。

   

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