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労働の解放をめざす労働者党機関紙『海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1377号 2020年3月15日
【一面トップ】「膨張」から「緊縮」へ――資本主義の法則と循環運動
【1面サブ】〝中産階級〟の立場の表れ――1対99という対決幻想
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】依然として小ブル民族主義――共産党は中国の評価を変えても
【二面トップ】資本との協調主義へ――志位の「多様性の中の統一」
【お知らせ】中央『資本論』学習会のお知らせ
【前号の校正】

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【1面トップ】

「膨張」から「緊縮」へ
資本主義の法則と循環運動

 コロナ肺炎という妖怪が世界中を徘徊し、席巻している。株価の低落は今や留めること知らないかである。3月10日現在、日本の株価は2万円をあっという間に割り、さらに低落しつつあり、アベノミクスや黒田らの金融緩和政策の7年間の偽りの成果をたちまちにして一掃しつつある。そして安倍政権は危機の深化に対して、金融緩和政策や財政膨張政策を使い果たしてしまっていて、今や無力と無能をかこつしかできないのである。

もちろん危機はコロナ肺炎が原因ではない

 それは単に現代資本主義に、日本資本主義に内在し、蓄積されて来た矛盾と危機の爆発であって、コロナ肺炎はただその顕在化の、激発のきっかけを提供したにすぎない。

 だからこそ現在深化しつつある経済危機は、1990年のバブル崩壊や、08年のリーマンショックにも比すべき深刻なものであり、大きな、そして長く続く影響を及ぼしかねないのである。

 今さらにように、巷では、「中央銀行や、そのバラまき政策や量的緩和政策、低利子政策等々は万能ではない」とか、「中央銀行への過度の依存は危険だ」とか、「金融緩和の危うさや暗部が明らかになった」とか言われ始めている。

 株式市場が、俗にいう「市場」が、政府や中央銀行の政策に一喜一憂し、変動する経済とは、一体何であろうか。不正常で、腐り、頽廃し、歪んでいるのは一見して明らかである。

 そして今では、黒田がどんなに切歯扼腕し、焦っても、市場が、国民の多くが、黒田のいうことなど全く信じなくなっているのである。

 黒田の「異次元の」金融緩和について、それは危機の時代のものだ、正常な時に、そんな政策を乱発し、継続したら、本当の危機の時代にどうするのだという警告はしばしば発せられてきた。

 しかし安倍政権は目先の利益にとらわれて、オオカミが来たと人々を繰り返し、住民をペテンにかけた少年よろしく、大した危機でもない経済の中で、黒田を日銀総裁に据え、金融緩和や、さらには財政膨張で政権の維持を図ってきた。

 そして今、その結果として、本当のオオカミがやってきたとき、少年はなすすべを失って呆然自失するしかないのである、今や本当のオオカミが襲ってきたとき、それと闘うべきために必要なカネも手段も残っていないことに気が付くのである。

 今や一世を風靡した、金融緩和や財政膨張が無条件にもてはやされた時代は過去のものとなりつつある。それが資本主義にとって救済や良薬ではなく、反対に資本主義の危機に拍車を掛け、一層深める危険で、ブルジョアたちにとってさえ、有害であり、毒物でさえあり得ることが暴露されて来たのである。

 かくして彼等は彼らなりに、〝健全な〟経済を求めるし、求めるしかないのである、もちろんそれを彼らが求めたからといって、それを手にすることができるということとは別であって、「求めよ、さらば与えられる」ということには、この場合にはならないのだが。

破産したブルジョアやプチブル

 ブルジョアたちやプチブル(インテリも含むプチブル)たちは今ようやくこの真実に目覚めるのだが、しかし我々は安倍政権が成立し、アベノミクスや日銀の「異次元の」金融緩和政策が派手に、絢爛豪華に行われ始めて1年もたっていない時に、すでに安倍や黒田のやっていることを糾弾し、その下品さと有害性や、労働者・働く者に何をもたらすかを明らかにし、「まさにアベノミクスとは『亡国の悪政』である」(後掲書7頁)と批判したのである。

 それは例えば、林氏の『アベノミクスを撃つ――カネをバラまくことで国も経済も救えない』に明らかであって、何人も我々のやってきた根底的で、全面的な批判的活動の意義と役割を否定することはできないのである(多くの労働者が今こそ、大きな意義をもつ、この著作を手に取って再読され、検討されるように呼びかける)。

 今や国民経済は、金融や財政は「緩和政策」ではなく、与党も野党も、国民が、つまり全ての階級が恐れ、蛇蝎の如く嫌う「緊縮経済」への転換が、移行が不可避であるように思われる。

 驚き慌て、呆然自失の体の共産党や野党やケインズ派のインテリたちは、こんなときに〝緊縮政策〟など持ち出すのか、そんなことをしたら、国民経済は完璧に破滅してしまう、今こそ緩和政策の重要性や意義やその役割が確認され、さらに大規模に実行されなくてはならないというのであろうか、そんなことがいえるのであろうか。

資本の社会の根源矛盾が明らかになってきた

 彼らは資本主義においては、経済収縮が、つまり不況や恐慌が必然であり、不可避であるのは、経済膨張が、好況や繁栄が必然であるからこそであるという法則――もちろん、「その逆もまた真実」なのだが――を知らないのである、忘れるのである。

 今バブルがはじけようとしているとするなら、資本主義経済の〝循環的な〟繁栄や「成長」―もちろん過剰生産を内包する――に加えて、そんな傾向が人為的に極端にまで推し進められ、煽り立てられたからであって、そうしたバブルに手を貸してきたような共産党や野党が、今さら、それを批判して、さらなるバラまきや「緩和政策」や財政膨張を云々することこそ許しがたいことであり、あくまで、最後まで、頽廃していくブルジョアの手先になって踊ると同様である。

 彼らは今、そんな政治、政策を必要とするような経済社会をもたらしてきた政治、ブルジョアや安倍政権と同じだった政治を、根底から反省することから始めるべきではないのか。

 今資本主義は歴史的な危機の時代に突入したかである。

 そんな時代と事態の下で、ブルジョア支配に融合し、迎合してきた、えせ共産党や諸野党やリベラルらがみな周章狼狽し、破綻して行くし、行かざるを得ないのは一つの必然である。

 労働者党の闘いのもとに結集し、資本主義の根底的な変革と止揚を目指す戦線に団結し、新しい闘いの道を切り開いていかなくてはならない時である。

   

【1面サブ】

〝中産階級〟の立場の表れ

1対99という対決幻想

 我々は海つばめ前号の『主張欄』で、日本の市民派や共産党の「国民の1%が富の(所得の)99%」を占有し、取得している、それを税金で取り立て、社会保障の原資とすれば、資本主義の下でも労働者・働く者の社会が、福祉国家が実現するといった考え――それが共産党(スターリン主義者)の思想か、民主社会主義(こうした連中とはどんな連中か)の思想か、社会主義者(どんな種類の社会主義者か、社会主義者にも色々ある)の思想かは知らないが――を幻想であり、正しくないと批判した。

 そしてこうした観念はまた、サンダースらのアメリカの〝左翼〟――志位らが、彼等を手放しに美化し、ほめ称えるのも決して偶然ではない――にも共通するものとして、その階級的、日和見主義的本性を明らかにした。

 彼らは1対99の対立というもっともらしい、硬直した観念を持ち出すことによって、自分たちの政治の階級的本性を暴露した、というより、それを隠したいのである。

 彼らの言うことは、こうである――現実の資本主義は深刻な「格差社会」であり、それは1対99という数字にも現われている、したがってこの格差をなくすことがまず先決であって、彼等に重税を課し、収奪して社会保障を充実することこそ重要である(搾取社会であることは二の次、三の次である)云々。

 しかし我々労働者党の主張は、何よりも資本による搾取社会を粉砕することによって、一切の差別の廃絶、解消を目指すのであり、この差別の一掃は当然、労働者の中における一切の差別――正規の労働者と非正規の労働者、男女労働者、大企業と中小零細企業、労働する人々と他人の労働に寄食する人々等々の間にある、ありとあらゆる差別――の一掃をも課題とし、またそれを完全に実現するということである。

 ところで共産党やサンダースの日和見主義者たち、改良主義者たちは、1対99の虚妄の対立を押し出すことによって、格差の根源である、あるいは最も重要である資本の搾取の問題をどうでもいいものとして、また本当の社会保障は金持ちだけの課題ではなく、働く者の全ての課題であるという、社会保障の本性を歪めることによって、資本による搾取社会の本質を覆い隠すのである。

 そればかりではない、問題は、「差別」を言いはやす共産党やサンダースの政治や政策が、非正規の労働者に対して正規の労働者、上層の小ブル化する労働者の支持をもかき集めようとするものとして、特有の政治的、階級的な意味を持っているということである。

 本来の小ブル層といえば、家族経営の小企業家や農漁民の、自らも小規模な生産手段を所有し、主として、家族単位で働く人々であったが、19世紀から20世紀にかけて、労働者の中に、高給や差別的地位と引き換えに、あるいは世界を搾取する帝国主義のおこぼれに与り、資本に買収された、広範な上層の、あるいは特権的な〝ブルジョア的〟労働者が現れた。

 彼らは新〝中間層〟と呼ばれるようになったが、彼等がそう呼ばれるのは、家族や少数の被雇用者を擁して、独立の経済活動をするからではなく、本来の小ブルと同様に、政治的にブルジョアと労働者の間で、中間的な立場に立ち、両者の間で動揺するからである。

 彼らはもちろんブルジョア政権には反対ではないが、しかし他方では、1%の大資本や大富豪だけを攻撃する共産党やサンダースにも心を寄せるのである。だからこそ、サンダースも共産党も市民派も、小生産者の立場に立つだけでなく、多数派獲得を目指して、〝新〟中間層の立場も押し出し、1対99というドグマを愛好し、ひたすら搾取の廃絶よりも差別の一掃を、1%の連中への課税に期待するのだが、その結果、彼等は多くの、最も抑圧され、差別され、苛酷に搾取されている、大多数の労働者の本当の味方でないことも暴露するのである。

 彼等はすでに〝中産階級〟の党、小ブルの党派に堕落し、そうした党として階級的な政治闘争の中で存在し、機能するのである。

 我が党は、社会に共通な不可欠の費用や、その一部である社会保障の費用は、社会の成員の全てが、自分のための生産的な労働の一部から担うものであって、超富裕層や高所得者層のみが負担すべきだ(できる)といったような改良派の観念や

幻想に反対である、というのは、問題は搾取社会の一掃であり、搾取が一掃された社会では、他人の労働によって生きる、どんな階級も――したがってまた超富裕層も、どんな種類の〝ブルジョア〟も寄生階級も――いなくなるからである。       (林)


   

【飛耳長目】

★野党が本気で安倍政権を打倒しようとしているかを疑わせるでき事が起こった★野党は轡を並べて、最初は批判していた、安倍の苦し紛れの「緊急事態宣言」に賛成し、五輪ために決定的に立ち遅れ、ピンチに陥った安倍に手を差し伸べて、政権を握る覇気も能力もないことを暴露した★安倍の新法とは、ただ見かけだけは何か大層なことをやっていると見せかけるだけの空っぽな法案、思い付きで強行した公立学校の一斉休暇という愚行を、後から正当化しようというさもしい思い付きだ。この法案により「緊急事態宣言」を発令できるというが、今さらそんなものを発令したところで何になる★都道府県の長が「私権制限」を含む抑制措置を取れるとか、学校の施設の使用を制限できるなどと謳うが、今の状況では子供らのために、せめて運動場くらいは開放すべきだという不満さえ出ているという。新法は、現実に進行している事態さえ知らない観念論、安倍に迎合する愚物な官僚の作文でしかない★菅さえも憮然として「直ちに出すとは認識していない」というだから、安倍の言動は、大事な時に時間を浪費し、官僚をてんてこ舞いさせるだけの愚行だ★野党のやるべきことは、コロナ肺炎をきっかけに一気に顕在化した政治経済の危機を利用して、安倍政権を追い詰め、今や国民の悲願となっている、その一掃の道を切り開いて行くことではないのか。  (鵬)

   

【主張】

依然として小ブル民族主義
共産党は中国の評価を変えても

 新日米安保条約が成立して60年、その総括をするに十分な時間である。

 しかし最近、共産党は日米安保について、奇妙な主張を押し出している。日米安保が「日本の防衛」に貢献していない、といったものである。つまり建て前と本音が違っているから正せといった主張である。日米安保を日本の防衛という趣旨に沿ったものとして一貫させよというのだろうか。

 あるいは日米安保は日本の防衛のためのものではなく、アメリカの利益のためのもの、あるいは世界の良き〝秩序〟のためのもの、何かアメリカが世界の警察官(警察官ならぬ、「憲兵」)としての役割を果たすためのものだというなら、それをはっきりさせよと要求したいのか。

 しかしそれは共産党が偏狭なプチブル民族主義――自国だけが、自分だけが〝平和〟で、〝安全〟でありさえすればいい等々――にまで堕落して、労働者の国際主義的な立場を放棄した結果のたわ言ではないのか。

 もっぱら日本防衛のためのものなら、日米安保もいい、容認するが、世界の〝秩序〟ためのもの、その一部を担うための日米安保であり、そのための米軍の基地や駐留ならだめだといいたいのか。

 しかし日本の〝安全〟も、世界の〝安全〟や〝平和〟と密接不可分だとするなら、共産党の立場もすぐに矛盾といい加減さを暴露し、破綻してしまう。

 そもそも日米安保は第二次大戦後、ドイツや日本のファシズム国家を粉砕するために共同して闘った、ブルジョア自由主義国家(とみなされ、公認された米英らの国家群)と〝社会主義国家〟(とみなされ、誤解された)ソ連が、たちまち世界を〝分割〟支配して対立したからであり、日本はアメリカを中心として〝自由主義〟国家に属したからこそ、米ソ対立の世界体制の中で、アメリカ側につき、したがってまたアメリカの軍事基地や軍事駐留を認めたのではなかったのか。

 日米安保がスターリンのソ連や中国の大国主義や帝国主義に対抗するためだったとしたら、米英の帝国主義政策は良くないが、ソ連や中国の帝国主義はいいといった評価のどこに、共産党のこれまでの立場の正当性が、そして今の立場の正当性があるといるのか。

 だからこそ、日本共産党は、社会主義国であり、したがってまた〝平和勢力〟であるソ連に対抗するアメリカ軍の基地や駐留は有害無益だとして、反対したのではなかったのか。

 そして今やスターリン主義の旧ソ連ばかりではなく、最近まで社会主義の国家、社会主義を「目指す」といって賛美していた中国共産党の支配する国家も、「覇権主義」に走り、国内の労働者・働く者や少数民族を奴隷のように扱い、搾取し、専制的に支配する反動国家であるというのである。

 中国共産党の国家が、「人権侵害」や「覇権主義」の国家だというが、ソ連がスターリンの支配する国家として、「人権侵害」や「覇権主義」をこととするようになったのは遅くとも1930年代以降であり、中国は21世紀初頭にはすでに「人権侵害」や「覇権主義」の国家として現れたのである。

 志位が偉そうにようやく2019年になって、そんなものを告発しても余りに遅すぎるのである。

 とするなら、共産党はよろしくトランプのアメリカや安倍政権の日本も、プーチンのロシアや習近平の中国も、等しくブルジョア帝国主義の国家として非難し、労働者の国際主義の立場に立つべきではないのか。

 しかし彼等はますます憶病で、利己的な民族主義のチッポケな穴の中に逃げ込むだけである。

 孔子なら言うだろう、曰く小人とプチブルは救いがたしと。


【2面トップ】

資本との協調主義へ
   志位の「多様性の中の統一」

「他の野党を本当に「リスペクト」できるのか

 志位は野党共闘路線を正当化するために、「多様性の中の統一」といった、まさにプチブルの俗物根性丸出しの、もっともらしい観念を持ち出し、おしゃべりにふけりながら、野党共闘路線という超日和見主義思想をふりまき、宣伝している。それは志位が1月の党大会で披露した、以下のような観念である。

 「(野党共闘路線をやるために重要なことは、『(安倍政権への)追及』をしっかりやることと、『(政権構想を明らかにして)希望』を持つことであり)第二に、野党がそれぞれの違いを大切にし、相互にリスペクト――敬意をもって接し、一致点で団結する――私たちは、『多様性の中の統一』と呼んでいますが、この姿勢を貫くことであります。共産党と、他の野党の方々とは、異なる政策や理念、世界観があります。違いがあるからこそ、別の政党を構成しています。しかしお互いの違いを認め合い、個性を尊重し合い、一致点ではしっかり団結する――これが政党間の協力・共闘の当たり前の姿ではないでしょうか。

 共産党は、日米安保、自衛隊、天皇の制度などで独自の政策を持っています。資本主義を乗り越えて社会主義・共産主義に進むという展望を持っています。私たちは、これらの政策や展望を大いに語ります。同時に、それを共闘に押し付けることは決してありません。こうした態度をお互いに 貫くことこそ、共闘を強くしなやかに発展させる最大の保証となるのではないでしょうか」。

 内容は全くない、日和見主義や経済主義や、ブルジョアやプチブルとの妥協主義 をペテン的屁理屈で正当化し、労働者・働く者をごまかすための、大した〝名演説”ではなか。

 志位はきれいごとを並べているが、立・民や国・民等々のブルジョア的政治家やプチブル政治家たちの汚い合同、なれ合い、癒着を美化し、正当化したいだけである。

 「多様性の中の統一」とは、立・民や国・民との多様性つまり違いのことであり、その中の統一とは、何かそんな連中と同じ要求を出して、一時の同盟を結ぼうという志向を、つまり日和見主義者とのなれ合いや妥協や協調、追随や屈服への転落である。

 しかし日和見主義者との「統一」がなぜ大事なのか。必要なことは日和見主義者と手を握り合って、自らの手を縛ることではなく、彼等の階級的な基盤や本性を暴露し、労働者の幻想を一掃して、彼等から独立した、真に階級的な党と立場への結集と団結を呼びかけていくことではないのか。

 なぜ労働者の闘いの大義を裏切り、疎かにする日和見主義者の「違いを大切にし、リスペクト」するのか、しなくてはならないのか、こんな言葉は日和見主義の背教の可能性を否定し、その危険性から目を反らさせ、そんな連中に対する幻想を拡大する、裏切り的発言ではないのか。彼等を「リスペクト」せよとは、一体彼らの何を尊敬せよというのか。

 共産党は立・民らとは、日米安保、自衛隊、天皇制などについて「違った考えを持っています」という、しかし他方ではそうした立場を他の日和見主義党に押し付けないという、つまりそうした事実は少しも重要ではないと仰せられる。

第一に重要なことは、まず日和見主義ときっぱりと手を切ること

 しかし労働者にとって第一義的に重要なことは、革命的社会主義とブルジョア社会主義やプチブル社会主義と、つまり野党などのブルジョア反対派と自らを区切ることであり、まず分裂することであり、偽物と自らを仕切ることである。

 そうしてこそ、真の社会主義の旗のもとに、全労働者階級を結集することができるのである。

 志位は、共産党は「日米安保、自衛隊、天皇制」で立・民などと違った「独自の政策」を持っているという、つまりそれらが「憲法違反」であると評価し、反対するという。

 大いによろしい。

 しかし立・民など他の野党は、それらは憲法違反ではなく、反対しないとしたらどうなるのか、共産党はどう行動するのか。

 志位に言わせると、将来仮に野党共闘政権ができた場合、共産党は連合政権の1構成部隊としては、それらに賛成するが、しかし党としては反対するというのである。

 というのは、野党共闘路線は「一致する点」でのみ結集するのであって、一致しない点では、お互いにそんな不一致点は無視し、寛容にも違い大目に見るから反対して構わない、野党間で問題になることはないと請け合うのである。

 しかし政治の実践の中で、闘う過程で、例えば野党共闘派や政権が、安保や自衛隊に対する態度をはっきりさせなくてはならないことが出て来たらどうするのか。

 出てきたら、そして各野党がそんな違いにこだわって一致しないなら、野党共闘派や野党共闘政府はたちまち仲間割れをして分解して行くしかないのではないのか、過去の日本の、世界の歴史の中の、似たような政権――1930年代のフランスやスペインの「人民戦線」政府がそうであったように、あるいは日本の戦後の片山内閣や細川政権や、多くの〝革新自治体〟――がそうだったように、である。

 志位は頭の中で考えて好きな理屈を考え出すことができるが、問題は現実であり、現実の闘いである。党としては、自衛隊は憲法違反であり、軍拡主義には反対して闘うが、野党共闘や、その政府としては闘わないなどといって、労働者・働く者が納得するとでも思っているのか。

 野党共闘派は、1990年代、自民党などと〝野党連合〟し、自民党などに妥協して、安保体制や自民党を認めるなど変節した社会党の村山社会党の経験を忘れたのか。

 社会党はその後村山政権を組織したが、いくばくもたたない間に、自民党からも袖にされ、結果として〝背教の徒〟となりはてた。そして社会党が、その次の総選挙で労働者・働く者に見捨てられて大敗し、党として消滅した経験は、今後の共産党の行く末を余りに明白に示唆していないのか。

 そもそも野党共闘の枠内に入って、野党共闘の政治や政策に縛られていて、党としては安倍政権の反動や軍拡主義に反対だと強がってみても、本気で、一貫して闘えるはずもないのである。野党共闘の政策や立場を重視すれば、それだけ党の方針は軽視し、なおざりにされるのは必然の道である。

 世の中で、そんなサーカスの軽業師のようなことが、道化師の手品師のような器用で、ごまかしのやり方が通用すると、志位や小池らは本気で思っているのか。

 かくして共産党の詭弁は、その政治は、ますますこの党をブルジョア協調主義の泥沼に、つまりブルジョア支配への屈服に導いていくのであり、そうなるしかないのである。       (林)


【お知らせ】

中央『資本論』学習会のお知らせ

 中央『資本論』学習会の日程については、3月22日を中止し(会場も休館)、4月も飛ばして5月にやることにしました。詳細は改めてお知らせします。


【前号の校正】

 一面 リード 4行 16衆院選→17衆院選

 二面 2パラ 5行 追求→追及


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