WPLLトップページ E-メール


労働の解放をめざす労働者党機関紙『海つばめ』

◆毎週日曜日発行/A3版2ページ
一部50円(税込み54円)

定期購読料(送料込み)1年分
  開封 4000円
  密封 5000円

ご希望の方には、見本紙を1ヶ月間無料送付いたします。

◆電子版(テキストファイル)
メールに添付して送付します

定期購読料1年分
 電子版のみ 600円

A3版とのセット購読
  開封 4400円
  密封 5400円

●お申し込みは、全国社研社または各支部・会員まで。
E-メールでのお申し込みもできます。



郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
●お申し込みは、全国社研社
または各支部・会員まで。
E-メールでのお申し込みもできます。
「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
●お申し込みは、全国社研社
または各支部・会員まで。
E-メールでのお申し込みもできます。
「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1379号 2020年4月5日
【一面トップ】なぜ五輪中止でなく延期か――安倍やバッハのための半端な決定は有害
【1面サブ】余りに不謹慎――来年7月五輪強行を止めよ!
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】エンゲルスの〝恐慌論〟――「生産力と生産様式の衝突」
【二面トップ】人類史的意味を総括し、確認せよ――新たに危機の時代を迎えた資本主義
【御断り】

※『海つばめ』PDF版見本  
※注文フォームはこちら

【1面トップ】

なぜ五輪中止でなく延期か
安倍やバッハのための半端な決定は有害

 東京五輪は中止でなく、1年間の延期だという。一体、何のためか。コロナ肺炎の収束の目途がまだ立っておらず、今後も全世界的なパンデミックがまだ続き、拡大する展望下で、しかも無駄カネ食い虫の東京五輪――すでに当初予定のカネの数倍の3兆円にも膨れ上がった経費に加えて、1年後に開催され得る見通しもどんな確かな保障もなく、これから数千億円もの、つまりこれまでの経験から言えばさらに1兆円ものムダ金がさらに必要な五輪、そして最後に、安倍の日本の原発事故は「完全にアンダーコントロールの状態にある」という虚偽発言から始まったような、そして内外の五輪関係者の買収や供応等々の汚れ切り、腐敗まみれの五輪が、なぜ中止にならないで、延期なのか。

五輪に使うカネはない

 安倍は今になっても、「完全な状態」で五輪をやると豪語し、来年に延期の五輪はコロナ禍を退治した祝典にしようなどとはしゃぐが、そんなものは安倍の権力の維持の野望が抱かしめている空想や願望の類であって、コロナ肺炎の性格からいっても、その他の多くの「延期」にまつわる障害や不具合や困難から言っても、有り得ない幻想であろう。

 安倍はまた来年7月23日に、「人類が新型コロナウイルスに打ちかった証し」として五輪を開くというが、また開催の確かな保証も展望もないのに、こんな発言をするとは非常識にもほどがある。

 ただ五輪を開きたい、開くしかない、それ以外安倍が権力者として生き延びるすべがないというと願望と執念と野望に従ってのみ、すべてを考え、生きているとしか思われない。

 そもそも五輪には延期という選択も前例もないのであって、そんなお祭り行事や浪費を何が何でも強行しようとするなら、ありとあらゆる無理や困難や障害がぞろぞろと山と出てくるのであって、ただそれだけでも実際的に不可能ではないのか。

 きっぱりと中止にした方がはるかにすっきりするし、妥当、適切な選択であり、全世界の労働者の利益であるのは一見して明らかである。

 そもそも今は、コロナ禍の根絶と一掃に向けて、世界の諸国家が力を合わせて闘うべき時ではないのか。コロナ禍と闘うためには、医療体制の充実が重要なことは、それが崩壊して行った、中国やイタリアや、そして今後はアメリカ等々がパンデミック状態の一番危険な地域になりつつあることからも確認されよう。そして医療体制の充実のためには、巨額なカネと医療体制の強化が必要なことも明らかである。五輪について、その「完全な実行」についておしゃべりしている時ではないし、何兆円ものムダ金を誰が負担するかで醜悪な争いにふけっている時でもない。コロナ禍の一掃の後に、「完全な形」で五輪をするなどという前に、何はさておいてもコロナ禍の一掃のために、全力をあげようと言わなければおかしくはないのか。

 他方では、経済危機の問題も顕在化し、ますます先鋭な形を取りつつあるが、その責任はあげて、カネをバラまくような政治にうつつを抜かしてきて、経済危機などありえないかのでたらめで、無責任な政治にうつつを抜かしてきた、安倍やトランプらの責任でなくて何であろうか。

 安倍はコロナ禍を一掃して、経済回復に向かうなら、また経済繁栄も経済成長もやってくると言わなかったのか、それなのに、今、コロナ禍との闘いを疎かにしつつ、経済対策と言って、何と60兆円ものカネを(そのうちの20兆円は直接の財政負担であり、借金で埋めるという)バラまいて経済崩壊を、大恐慌の襲来を阻止するというが、矛盾しており、そんな場当たりの、対症療法で大丈夫なのか。

 そもそも安倍は、恐慌回避か、コロナ禍一掃か、五輪強行か、一体何をしたいのか、する気なのか、まず不要、不急の五輪を中止すべきであろう。

安倍の邪心こそ悲劇を招く

 そして安倍やブルジョアや学者・インテリらは、五輪をやれば、何兆円という消費や需要や「市場」が新しく生まれ、膨張して、経済が成長し、繁栄するなどと考え、言いふらし、一挙両得の幻想を振りまくのだが、そんな考えは根本から間違っており、幻想である。

 五輪は村や町のお祭りと違って、世界的な規模で行われるが、五輪と言っても、しょせんは祭りの一種であり、その限り資源や財貨や富の蕩尽、浪費であって、その生産でも増加でもない。それは町や村のお祭りが単なる富の消費や娯楽の一種であっても、生産的な経済活動や労働でないのと同様である。

 彼らはケインズに倣って、それもまた需要や消費である限り、経済活動であって、経済成長や景気の活性化に役に立つと考えるのだが、単に個々の経済主体や個別資本の観点から発言しているだけ、全体的な国民経済の観点から考え、ものを見るのを止めているだけである。

 確かにあれこれの個別資本の観点――とりわけ五輪関連産業や企業(不動産とかホテル・宿泊・交通などのサービス産業とか、特殊な五輪産業や企業)――から見れば、五輪は大きな儲けをもたらす〝特需〟である。そして頭の悪い経済学者は、その〝波及効果〟は何倍もあり、大きいなどと言いふらし、景気上昇の大きな機関車であるかの幻想をふりまく、しかし例えば太平洋戦争がいかに巨大なフル生産や完全雇用の体制を整えて膨大な生産物や〝富〟を生み出したとしても、そんなものは労働者の生活を豊かにするどころか、反対に、貧困と飢餓さえもたらしただけであったのは、我々が1世紀ほど前に骨身にしみて経験したことではなかったか。

 お祭りは個々の資本にとって、どんなに〝生産的に〟目に映ろうとも、全体の資本主義経済にとっては〝非生産的〟であり、そんなものに依存して経済成長や景気回復を期待するなら無駄であり、徒労に終るだけである。浪費は浪費であって、そんなものにカネを使うくらいなら、コロナ禍との闘いにこそ専心し、そのためにカネや資源や人を集中すべきである。

 安倍は五輪を自分の権力欲のためにどうしてもやりたいという邪心に生きているがゆえに、コロナ禍についても、経済危機についても、否、社会の全般的危機についても、決して正しい判断と対応を実行することかぎできず、ただうろうろと事態の後を追いかけ、希望的な観測にふけり、多くの間違った対応を、政治を繰り返して行ってきたし、今もしている。

 コロナ禍の重要性を見逃し、最初はそんなものは日本には影響を及ぼしていないと装うために、かつて原発被害について、「アンダーコントロールにある」といって世界を偽り、五輪招致を勝ち取ったと同様、コロナ禍は日本には関係ない、安全であるかに偽るために、事実を隠し、トランプや習近平らとともに、〝初期対応〟を間違え、コロナ渦のパンデミックに責任を負っただけではない、さらには今もコロナ禍は対応のワクチンが来年に4月くらいにはでき上がるから――そんな確かなことや可能性はほとんどないにも関わらず――、来年春にでも「完全な形」で五輪がやれるかに空想し、そんな空想に基づいて、来年春にでもやれるというのだが、単に国民がそんな幻想に付き合わされて大迷惑を被ることなどどうでもいいだけのことである。

 そんな安倍の野望のために、カネが浪費され、引き回され、他の大事なことが、何よりもコロナ禍との闘いが疎かにされ、後回しにされて、労働者・働く者がさらに甚大な被害と迷惑を被るというなら、生活だけに留まらず命さえ脅かされるというなら、五輪の中止どころか、まさに安倍政権を直ちに打倒し、一掃するしかない。

   

【1面サブ】

余りに不謹慎

来年7月五輪強行を止めよ!

 来年7月23日の東京五輪開催の決定は破廉恥そのものであり、我々はその取り消しを要求する。

 安倍が「夏までの」五輪を決定するといったばかりだというのに、である。

 かつて「日本は神の国」発言で総理の地位を失った大会組織委の森会長は、そうした前歴にふさわしく、「神頼み」の決定だと無責任にも開き直っている。

 「総理が言ったように東京五輪を成功させることが、大変な事態を突破することの証になりたい。……神頼みのようなところはあるが、そうした思いは通じていくと思う」。

 要するに五輪を何が何でもやるしかない、もしやれなかったら安倍政権の浮揚もママならぬ、経済的矛盾や困難が襲う中で、アベノミクスも破綻し、政権も野垂れ死にするしかないという、安倍政権の利害関係と権力欲のためだけの五輪開催であり、強行である。

 追い詰められた安倍政権の、最後のあがきであり、暴走である。経済不況や困難などどうでもよく、経済崩壊や財政破綻を賭け、国民の健康や命までも犠牲にし、自分とその権力のため、五輪をやるというのである。

 来年の夏に強行するのが簡単に決まったのは、安倍やトランプやバッハらに代表される五輪組織委らのカネや権力欲にまみれた面々、さらには一部のアメリカ大資本ら――米国で五輪独占放映権を持ち、五輪組織の財政を支えるテレビ局NBC――等々の五輪強行に大きな利益を見出す腐敗した勢力のためである。

 安倍は100兆円余の予算が成立したばかりだというのに、何と60兆円もの巨額の金をバラまくという。国の支出は20兆円だというが、そんなカネがどこに眠っているというのか。国債を発行すれば、いくらでもカネなどあると、MMT派よろしく強弁するのだが、国債は国の借金であり、天から降ってくるものでなく返済されなくてはならないという、〝経済秩序〟の大原則、約束であることを忘れている。政府や国家が資本主義経済の根底を踏みにじって、いかにしてそんな社会が永続性や継続性を保証し得るというのか。自ら永続性な資本主義を、その原理原則を今、実際に否定するのはブルジョアや安倍政権であって、労働者でなかったことを彼らはしっかり記憶せよ。

 来年の夏開催が「決定」といったところで、どんな確かな保証もない〝奇跡〟のような話であり、そんなものを政治の世界に持ち込むとは、安倍政権も血迷ったというしかない。今ではブルジョアたちの世界には、合理性もまともな知性も、健全な常識さえも、国民の、労働者の本当の利益を考える責任感も何も無くなってしまっているのである。

 東京五輪が日本の、世界の景気回復や経済成長のためになる、だからこそ何が何でもやるというが、そんなものは幻想であり、間違っている。1990年のアテネ五輪のように、経済や財政の大きな負担になり、国庫財政の破綻、経済困難や後退につながった例はいくつもある。現在まで続く、ギリシャ国家の経済危機はアテネ五輪に端を発しているのである。

 お祭りはお祭りであり、単なる消費であって(悪い時には、浪費でさえある)、生産的な産業でもない。

 コロナ禍や経済危機が深化する中、東京五輪を直ちに、無条件で中止せよ。


   

【飛耳長目】

★0・9対11という二つの数字がある。後者はイタリアのコロナ患者と死亡者の比率、前者はドイツの数字である。つまりイタリアの死亡率がドイツの12倍も高いということである★患者数にはそれほど違いがないから、一言で言って、医療制度とその充実の差である。コロナ禍に侵される人はほぼ同じでも、死亡者数にこんなにも差が出るとするなら、我々も無関心でいるわけにはいかない★イタリアは周知のように、今や医療崩壊の代表ともいえる国で、死亡率の高さがそれを暴露している。さてイタリアの後を追うのは、米国か日本か。日本がドイツの後を追うとするなら、現今の最大の課題が、医療体制の崩壊回避である。カネも、そうした課題の解決のために、集中的に支出すべきであって、五輪のために使う余裕なカネなどないはずだ★しかし安倍は国民に自粛を求め、自宅に篭れ、出歩くな等々と国民に責任を転嫁し、渡航中止などの筋違いに走るだけ、関心は五輪を何が何でもやること、そのために3兆円に加えて、延期五輪のためにさらに1兆円ものカネを注入すること、安倍の経済政策による財政と経済の崩壊の尻拭いのために、何十兆円の金をバラまくことである★もし日本がイタリアの後を追って死者が急増するようになったら、責任が医療崩壊を招く安倍にあることは自明である。問題は罹患者の数でなく、死者の数なのだから。(鵬)

   

【主張】

エンゲルスの〝恐慌論〟
「生産力と生産様式の衝突」

 恐慌について語っている時、過剰生産恐慌という場合、「生産力と生産様式の衝突」という観念と、どういう関係にあるのかという質問を受けた。

 確かにこの観念は、「恐慌」について語るとき、何かそれが基本的な観念、一つの既定観念であるかの権威を持って語られるのだが、しかしその具体的な内容は必ずしもすっきりしてない。

 この観念が、権威をもって扱われてきたのは、それがエンゲルスのもの(『反デューリング論』)であり、スターリン主義によって一つの権威として扱われたことに関係があるのだが、その曖昧な観念を再検討してみる必要があるように思われる。

 エンゲルスは前掲の書で、「生産力と生産様式の衝突」について、次のように語っている。

 「大工業も、一層全面的な発展をとげるにつれて、それ〔生産力〕が押し込められている生産様式の枠と衝突するようになる」(前掲書、国民文庫版484頁)。

 しかし彼の言う「生産様式」とは、次のような独特なものである。

「生産手段と生産とは本質的に社会的なものとなった。だがそれらは、個々人の私的生産を前提とする取得形態、したがって各人が自分の生産物を所有し、それを市場にもちこむ場合の取得形態に従わせられる。生産様式は、このような取得形態の前提を廃止するにもかかわらず、この取得形態に従わせられるのである。この矛盾が新しい生産様式にその資本主義的性格を与えるのであるが(?…林)、この矛盾のうちに現代の衝突の全体がすでに萌芽として含まれている。取得の形式はもとのままであっても、取得の性格は、生産に劣らず変革される。……私が私自身の生産物を取得するか、それとも他人の生産物を取得するということは、もちろん二つの非常に違った種類の取得である」(同488頁)。

 かくて彼の結論は次のようなものになる。

 「恐慌においては、社会的生産と資本主義的取得との間の矛盾は暴力的に爆発する。……商品生産と商品流通の全ての法則が逆立ちする。経済的衝突がその頂点に達し、生産様式が交換様式に反逆し、生産力が、生産様式をこえて、この生産様式に反逆する」(同196頁)。

 一読して、何か「生産力」と「生産様式」という二つの観念を用いた、形而上学に感じられる。

 まず第1にいえることは、「取得」の概念の不明瞭さであり、歴史的・論理的規定性のあやふやさである。

 単純な商品生産者とブルジョアの「取得形態」が違うというが、しかし両者とも私的所有の法則に沿っている限り同じである。直接的生産者の立場から言えば違うというのだろうが、労働者はすでに〝無産者〟に転落しているのだから違って当たり前である。

 おそらく「資本主義的生産様式は、商品生産者、個人的生産者の中に割り込んでいった」(同489頁)という彼の歴史観と深く関係しているのだろうが、ここではさらに展開する紙面的余裕がない。

 我々はすでに彼の「唯物史観」には根本的な欠陥があることを確認、多くの批判を行ってきたが、恐慌の観念においても、それが現れているということである。

 彼には、人類社会の歴史を、それぞれの特有の生産様式(したがってまた特有の階級関係)として理解し、位置づけるより、小商品生産の発展と、そこにおける資本主義との関係から評価するという偏向があるように思われるが、それはもちろん彼がもたらしたマルクス主義の豊饒さや、世界の労働者階級の闘いの発展における偉大な貢献から見れば〝些細な〟ものであったことも明確にし、確認しておくべきである。         (林) 


【2面トップ】

人類史的意味を総括し、確認せよ
   新たに危機の時代を迎えた資本主義

恐慌は資本主義の必然性

 私たちはここ何号かの『海つばめ』紙上で、世界資本主義の歴史的な危機の時代が訪れたことを明白に語り、世界と日本の労働者に、そして若者たちに今こそ真実の闘いに備え、結集し、団結するように呼びかけてきた。1929年の大恐慌以来、そしてとりわけ第二次大戦以来、資本主義は大恐慌など決定的な経済崩壊をもたらす要因はなくなったし、また人類は賢くなって、そんな危機を克服する〝経済的な〟手段や方法を手にした――ケインズ主義の〝経済理論〟を見よ――と主張し、また信じ込んできた。

 ただ我々のみはそんな見解をブルジョアのたわ言として信じず、資本主義の根本的な矛盾や困難は解消されず、ただ内向しつつ深化し、拡大し、ただその矛盾の爆発は一時的に引き延ばされて来たにすぎないという立場を堅持し、したがってまたマルクス主義と労働者の階級的な立場に立って闘いを継続してきた。

 そして1929年代恐慌以来、ほぼ100年たって、再び、三たび資本主義の決定的な、歴史的な危機の時代――多かれ少なかれ、世界的な規模の大戦争を除いて――を迎えるに至ったのである。

 その現実は今、我々の面前で日々展開されている。パニック(経済的パニック、つまり大恐慌)は現実のものであって、平均株価はものすごい勢いで崩落しつつ、その程度は大恐慌の時代の到来を明らかにした1929年秋をすでに超えつつあり、さらに深化しようとしている。

経済危機の原因はコロナ禍ではない

 3月中旬のテレビ報道によれば、アメリカの株価はさらに1000ドル近くも崩落し、ついに1万8000ドルほどにまで低落したが、まだ〝底値〟の感覚はないという。もちろん日本も、他の世界中のブルジョア国家――〝途上国〟も含めて――も同様である。

 ブルジョア世界の恐慌の歴史についていえば、ほぼ10年の決まった期間を置いて、イギリス資本主義主導の世界恐慌が――と言っても、基本的に西ヨーロッパ中心とアメリカの資本主義の先進国中心であったが――勃発した19世紀初頭から半ば過ぎまで生じたが、すでに資本主義が――英国を先頭とするヨーロッパの先進資本主義国家が〝自由競争〟の時代から独占資本主義の時代、〝帝国主義〟の時代に差し掛かる19世紀後半ごろから20世紀にかけて、資本主義も恐慌の形も変わった、もう激しいパニックという形を取った恐慌はなくなり、代わりに慢性的にだらだら続く不況や停滞の時代に入ったということがやかましく言われるようになり、事実1914年から続いた第一次世界戦争――しかしこの戦争にアメリカや日本も参加したが、基本的にロシアも含めたヨーロッパの何か国かの帝国主義国家間の戦争であったのだか――を挟んで、1929年の世界恐慌までの数十年間は、資本主義の根底までも脅かす激烈な経済的な破綻という意味での恐慌はなかったといえる。

再発した大恐慌の歴史的意味

 そして嵐のような階級闘争、政治闘争の30年代と第二次大戦を経て、70余年の2020年、再び資本主義の矛盾の固有な現れである、激烈な恐慌が再び人類を襲おうとしている。

 資本主義に固有の矛盾――周期的な過剰生産の累積と、その矛盾の集中的な爆発――がかなりの長期間存在せず、消えたたかに見えた理由の一つには、ブルジョアたちが、それに対する、様々な防護手段、予防手段を開発し、利用してきたことは別としても、二つの世界戦争が資本主義世界の恐ろしい過剰生産の矛盾をある程度、解消し、緩和し得たということもあったかもしれない。

 とするなら、我々は今回の新たな世界的な規模での大恐慌の始まりの意義を、人類史的な観点から総括し、反省する必要があるだろう。

 資本主義の歴史における〝恐慌〟――もちろんその中心は産業資本の周期的な、必然的に勃発する恐慌であり、それに伴う信用崩壊と金融恐慌であったのだが――と、その歴史的な意味を、我々は検討し、確認しておくべきであろう。

 19世紀の前半の、ほぼ10年周期で資本主義世界を根底から揺さぶり、労働者階級の激しい闘いや革命さえももたらした恐慌について、マルクスはそれを資本主義的生産の固有の、基本的な矛盾の表れとして注目し、その矛盾が労働者階級の革命の重要な契機になると評価し、その意味でも重視し、注目した。

 そして1840年代の革命については、その終了後は、次の革命は次の恐慌と共にやってくるだろうと宣言し、理論研究に、『資本論』の仕事に専念する理由の一つにさえしていたほどである。

 そして19世紀の後半から、10年周期の恐慌ではなく、慢性的な、しつこく続く経済不況に対しても、資本主義の変容と共に、資本主義の歴史的な役割が終焉に近づいた、一つの証拠として評価し、労働者階級の勝利の接近として重視し、期待したのであった。

 とするなら、20世紀前半の大恐慌に次ぐ、21世紀の大恐慌の持つ歴史的な意義はまた自ずから明らかであろう。それは、20世紀後半、いわゆる〝社会主義〟国家――我々が「国家資本主義(スターリン主義)国家」として、歴史的な規定し、評価した社会――が解体し、もう一つのかつての〝共産主義〟国家と評価された〝中共〟が、今ではブルジョア以上のブルジョア国家(帝国主義国家)としてさえ登場し、完全に欧米や日本などのえせ自由主義諸国家と融合し、一つのグローバルな世界を形成している中で勃発してきたのである。

 とするなら、新しい世界恐慌の持つ歴史的な意義は限りなく大きい。

 1930年代の階級闘争と政治闘争の総括が、労働者・働く者の闘いの敗北や挫折や、ヨーロッパにおけるファシズムの勝利や、アジアにおける日本の天皇制軍部のファシズム的勢力の勝利や、さらにはそこにおけるスターリン主義共産党――〝社会党〟や〝社会民主主義者〟やいわゆる〝トロツキスト=第4インター〟らは言うまでもないが――の犯罪的で、裏切り的な日和見主義や、反動的な役割や歴史の真実の検討が、特別に重視され、反省されなくてはならないゆえんである(差し当たり、この時代の闘いを総括し、詳しく明らかにした、我々の『国際共産主義労働運動史――その苦悩と闘いの歴史(万国の労働者団結せよ!)』等々を参照されたい。1971年刊)。(林)


【御断り】

 『海つばめ』購読の皆さん。変わりない御購読、ありがとうございます。

 実は『海つばめ』は現在コロナ禍がますます猛威を振るう中、感染の恐れのため、数週間発行の中断を余儀なくされる状況にありますので、ご了承お願いします。

 我々の深刻で、鋭い時評は引き続き、労働者党のホームページ欄にて、ほぼ毎日掲載して行く予定ですので、しばらくはそこにて我々の批判的な時評をチェックし、安倍政権に対する、日和見主義党派に対する怒りや憤懣を発散させ、留飲を下げて下さるようにお願いします。

 再開の折は、またご連絡させていただきます。

  2020年4月2日  労働者党 代表委員会

ページTOP