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労働の解放をめざす労働者党機関紙『海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1381号 2020年6月28日
【一面トップ】都民全員に10万円のバラまき――れいわ山本は労働者の味方か
【1面サブ】鋭さ欠く市民派宇都宮――名ばかりの野党共闘で
【二面トップ】新知識人の反乱――反資本主義の運動は「コモン」だと
【二面サブ】赤旗の『ペスト』書評を読んで――人間賛歌でいいのか!

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【1面トップ】

都民全員に10万円のバラまき
れいわ山本は労働者の味方か

 都知事選が行われている。確たる信念もなく、思い付きと場当たり的都政に終始してきた小池再選に反対して、れいわ新選組(以下れいわ)の山本は、「苦しんでいる人たちに手を」と訴え、選挙戦に臨んでいる。だが、れいわ山本は、真に労働者・働く者のために闘っているのか、それが問題だ。

都民全員の「生活の底上げ」が課題か

 山本は、告示前の記者会見で立候補の理由について、「コロナ災害で多くの人々が生活困窮に陥っている。餓死する寸前の人、行き場を失った人たちがいる。次の衆院選挙で、もしも私たちが議席を増やせたとしても、いま目の前にいる人を救えるかといえば、無理」、しかし、都知事になれば「いままさに1400万人いる都民の生活を直接底上げできる、餓死する寸前だった人たちに対してすぐにでも手をうてる」と語ったように、コロナで困窮に陥った人々の救済を訴え、8つの緊急政策を公約として掲げた。

そのうちの中心と位置付けられているのが、「都民の生活の底あげ」のための都民全員に対する10万円の給付である。さらに、第2波のコロナ感染があった場合には、追加として10万円の給付も予定しているという。しかし、都民のすべてが困窮に陥っているわけではない。コロナによって大きな打撃を受けているのは自らの労働によって社会を支えている労働者である。リストラされたり、休業などで収入がなくなったりして生活困窮に陥った労働者にとって、月10万円程度の支援があったとしてもまったく足りない。働く人々の「困窮を救済」ためにというのであれば、こうした人々のための支援を重視すべきである。

 「都民生活の底上げ」のために全員に生活に困らない富裕層も含めて一律10万円の支給といったやり方は安倍政権のバラまきと同じである。山本は、生活困窮者への支援を口にしながら、、安倍政権と同じことをやろうとしているのである。

 富裕層にとって月10万円の支援などとるに足らない、はしたカネである。彼らは政府からもっと大きな支援を受けている。それは日銀による株式の買い支えである。コロナ感染によって経済活動が停滞し、日経平均株価は3月に大幅に下落したものの、前の水準にもどりつつある。実体経済がボロボロの状態であるにもかかわらず、それを反映すべき株価が落ち込まないのは日銀が上場投資信託(ETF)を買いまくっているからである。(もちろんこうした政策が株価と実体経済の乖離という矛盾を一層深化させ、将来より大きな経済破綻として爆発することを準備するものではあるが)。金持ち連中に支給するのはやめて、日々の生活にさえ困っている労働者にこそ支援すべきである。

すべては借金頼み

 失業や休業などによる生活困窮者について、山本は小池に対して、「何してんだ、これはどう考えても災害。国にもっとカネをよこせというべきだ」、都は自治体の先頭に立って国にカネを出せと迫るべきなのに努力をしてこなかったと非難する。

 しかし、労働者、働く者の困窮は、新型コロナウイルスによってはじめて問題となったことではない。コロナ感染が始まる以前に、世界的な不況によって失業者は増加していた。コロナ感染はそれをさらに促進したのである。

 自然災害と同じだから、国はもっとカネを出すべきだとか、小池は国に対してもっとカネを出せと要求すべきなのにしてこなかったという山本の主張には、リストラ、雇用止めなど労働に犠牲を転嫁している資本及びその政府に対する根本的な批判はないのである。

 都民全員に10万円給付のほか大学や専門校の授業料1年間免除、すべての事業者にとりあえず100万円給付、中小零細・個人事業主に前年比収入減になった分の補償、低廉な家賃の住宅提供など総額15兆円もの緊急策の財源はどうするのか。

 山本は、都財政は公債比率(借金の収入に対する割合)僅か1・5%の超優良団体、だから都は国の許可なしに公債を発行できるから全額借金で賄うことが可能という。例え、それが実施できたとしても、現在の都の総予算(15・5兆円)に匹敵する巨額の借金を抱え込むことになり、そのツケは増税、行政サービスの削減等々労働者にしわ寄せされるのは必至ではないのか。

 山本=れいわは今流行のブルジョア新貨幣理論=MMT理論を盛んに言いふらしてきた。彼らによれば、日本の場合、国債はほとんど日銀が買い取るのだから借金を重ねてもインフレになる心配はない、カネが国民に行き渡れば需要が増加し景気が良くなり、税収が増え、借金を減らすことになるから心配することはないと。

 だが、「国債は国内で消化されるからインフレにならない」とは、第二次戦争中に、日本の軍部ファシスト政権が戦費調達のために戦時国債を国民に売りつけた謳い文句と同じである。帝国主義戦争継続のために国民はそれを信じこまされ、半ば強制的に国債を買わされた。その結果が、敗戦直後の激しいインフレである。インフレでなけなしのカネをはたいて買わされた国債は紙切れ同然となった。

 現在、すでに国の借金は今回の補正予算を入れて約1100兆円、国内総生産の2倍に相当する。いつ円の〝価値〟が大きく下落してもおかしくない状況である。インフレを恐れて海外の投資家が日本の国債への投資を避けるようになれば、円の信用は一気に失墜し、激しいインフレとなって爆発するだろう。インフレの最も大きな犠牲のしわ寄せは受けるのは労働者、働く者である。

今は「国難の時」で将来の事などかまっていられないとばかりに、巨額な国債を発行して(借金をして)カネをバラまいているのが安倍自民党であるが、れいわの山本は事実上これに同調しているのである。

なぜオリンピックに反対ではなく「中止」なのか

 山本は、来年のオリンピックについて「(政府や小池は)やれるやれる詐欺。どうやってやるんですか。ワクチンはいつできるんですか。特効薬は? 確定されていないものに対し、『もうすぐやれる』という空気を醸成するわけにはいかない」、「中止すべきだ、大会中止によって削減したコストや人的資源を別のところに回す」と主張している。

 山本は、ワクチンが出来るかどうかわからないにもかかわらず、やれるかのようにいうのは「詐欺」と同じ、不確かなことだからいっそ「中止」して、そのカネをコロナ対策に回すべきだとあいまいなことをいう。

 労働者にとっては、仮にコロナ感染が収束し、オリンピックが出来るようになったとしても反対である。オリンピックは「国際平和・友好」の祭典などと語られている。しかし、実際には、ブルジョア国家や資本にとっての4年に一度の国際的な諸国民を巻き込んだ巨大なイベントとなっている。国家にとっては国威発揚の場であり、また報道機関や会場設営に関連している資本やオリンピック開催の管理・運営を一手に握っているIOCをはじめとする組織関係者らにとっては、巨額の利益をもたらしている。ワクチンや特効薬が出来るかできないかに関わりなく、労働者、働く者にとってオリンピックは税金の無駄づかいであり、断固反対すべきなのだ。

ポピュリストに期待できない

 山本は、働く者のための政治を訴えている。しかし、その政治的な立場とは、「今政治に足りないのは、あなたへの愛とカネ」(選挙公報)との標語に象徴されるように、労働の搾取に立脚している資本の支配する社会に対する根本的な批判はなく、政治に足らないのは「愛」といった抽象的で無内容な言葉でしかなく、カネのバラまきで問題が解決するかのような幻想を振りまいているポヒュリズムである。

 いま不況、貧富の格差の拡大、失業、貧困など資本主義の矛盾が深まる中で世界中にポピリズムが広がっている。それは〝左翼〟と呼ばれてきた共産党や社会党らが、腐敗、堕落を深めてきたことの反映である。ポピュリストは資本やその国家に対して激しく攻撃し、働く者の味方であるかに訴え、減税や国家による生活のための支援など様々な改良を約束するが、労働大衆を苦しめている資本の支配の根本的変革のための闘いの必要性、必然性については語らない。 労働者、働く者はポピュリストを信頼し、期待することは出来ない。労働者、働く者は自らの階級的立場を堅持し、闘いを前進させていくことこそが求められている。 (T)

   

【1面サブ】

鋭さ欠く市民派宇都宮

名ばかりの野党共闘で

 立憲・社民・共産支持の弁護士・宇都宮は、野党共闘の体をとっているが、「れいわ」山本の出馬や国民民主党の自主投票に見られるように、実態はキレイごとで候補になったわけではない。

 立憲・枝野は、小池対抗馬レースをリードしようと山本を野党統一候補にと動いていた。しかし「消費税5%減税」を条件とする山本に、党内を説得できないと答えて断られてしまい、宇都宮に乗るしかなかったのだ。6月中旬には山尾志桜里と須藤元気が執行部を批判して離党、「国政選挙並みに総力を」とアピールするが、野党第一党の存在感はない。

 共産党は政策的には山本に最も近い(昨年9月に志位との間で消費税廃止、9条改憲反対、野党連合政権他で合意)のだが、「市民と野党の共闘」にふさわしいのは無所属候補と決めてかかるからか、アクの強さに尻込みしたのか、無党派の宇都宮支持を決定した。

 小池の希望の党に合流した議員を多く抱える国民民主党は、玉木代表と馬淵は山本を、小沢と原口は宇都宮を支持し、党内はバラバラだ。支持母体である連合東京は、前回は自主投票だったが、原発政策で対立する野党共闘派と一線を画しており、連合組織内都議4名が小池与党の都民ファーストの会に所属していることからも、小池支持に回った。国民民主が八方丸く収めるには、自主投票しかなかったのである。

 多重債務者問題や貧困問題で弱者救済に長年取り組み、日弁連会長でもあった宇都宮は、世界一高い日本の選挙供託金を違憲とする訴訟の弁護団長を務め、労働者党党員も裁判傍聴などで支援していたが、人格的に信頼できることは確かだ。

 しかし野党共闘を重視する姿勢が弱点となり、小池都政と対決し、安倍政権に痛打を浴びせるべき都知事選の政策では、総花的で鋭さを欠いたものとなっている。

 主要紙がコロナ対策と五輪が争点だとするのに合わせたように、コロナ禍で弱者や医療従事者の「生存権が懸かった選挙だ」と言うが、小池や安倍政権、他候補との違いは鮮明ではない。五輪も招致反対運動に加わっていたのに、開催決定は尊重せざるを得ないとし、付け足しのように「専門家が困難と判断した場合は中止を働き掛け、浮いた予算をコロナ対策で都民の支援に回したい」と、言わずもがなのことしか言えない。

 「生存権が懸かっている」が本当なら、その本気度が問われるのであって、五輪を返上して、軍事を除けば国に匹敵する都の行政力財政力の全てを投入するぐらいの、決然とした政策提起があって当然だが、迫力に乏しく歯がゆいばかりだ。 (東京・YS)


    【2面トップ】

新知識人の反乱
   反資本主義の運動は「コモン」だと

 「新自由主義」の挫折を見て、『資本論』から学んだという学者らが資本主義は終焉する時代に入った、反資本主義を掲げて社会運動に立ち上がれと呼びかけている。日本でその先頭に立ち論陣を張るのは、斎藤幸平・大阪市立大准教授である。彼が著名な知識人との議論をまとめたのが『資本主義の終わりか、人間の終焉か?――未来の大分岐』である。本書で登場する御方は、現代資本主義は一般的利潤率を低下させ、危機的状態に至っている。あるいは、IT革命によって「生産費はゼロに近づいている」、やがて資本は利潤を得ることができなくなる。その止めを刺すのが「コモン」だと言う。果たして彼らの観念は真理であり歓迎すべき内容を持っているのかを検討してみたい。

資本の危機と「コモン」

 対談の最初に登場したマイケル・ハート(米哲学者)は、次のように主張する。

 欧米の資本主義は既に70年代には資本蓄積の危機にあった、資本は利潤率低下に苦しみ新自由主義の政策を採用したがうまくいかず、資本の危機が差し迫っていると。

 資本主義において、一般的利潤率が低下傾向を持つとしても、生産力の発展は生産手段の価値を低下させるだけでなく、建物を持たないIT事業の勃興や本社機能の縮小や労働者の搾取強化などによって、利潤率低下の反転が日本では起きている。この解析については別のところで行いたい。

 マイケルは、新自由主義からの脱却を「自分たちの才能や能力を発揮するための手段を、より民主的かつ自律的な方法で管理する」ことで解決していくと主張する。

 なぜなら、この管理は国家からの介入や保護ではなく、自分達で生産手段と富を管理することであり、資本主義の根本原理と相容れないからだと言う。つまり、この民主的自主的管理で生産を行うことが「協働」であり、この「協働」が生み出す「社会的富」が「コモン」だと。

 マイケルの議論の核心はこれからだ。というのは、彼の定義する「コモン」や「共産主義」では、物質的労働は無くなっていき、「非物質的労働が主要な労働形態」になる、この非物質的労働こそが最も「先進的労働」であり、将来の鍵を握ると主張するからである。

 彼の言い分は次のようなものである。

 非物質的労働とは直接商品を生産する労働ではなく、ソフト開発やプログラミングのように「アイディアや知識や情報」を駆使する頭脳労働であり、さらに医師、看護師、教師、客室乗務員などの「感情の協調を生み出す労働」などである。

 現代資本主義は、これらの非物質的労働が主要な形態になっている、既に中国の巨大工場では、ITやロボットが隅々まで配置されていて世界の工場もこの様に変容していくと。

 そうなれば、資本と労働者の関係は違った様相になるというのである。

 今までの労働過程は、分割され労働内容が単純化されていて、労働者の自律性は無かった。しかし、ITが工場に浸透し、非物質的労働が支配的になれば、労働者は技術と知識の両方を持つようになり、あらゆる情報も管理できるようになる。反対に資本は労働者の知や洞察に依存するようになる、つまり、資本は労働者を制御できなくなり、労働者は資本の命令を拒否することができるようになるというのである。

 ここがロドス島だ、さあ飛べと言うわけだ。資本の支配をはねのけ、自律した労働を開始し、リーダーのいない水平的で民主的な管理に移していくことが出来れば、それは彼の構想する「コモン」の出現である。

非物資的労働は特別か

 ITやロボットが工場に導入されていくのは必然だ。資本にとっては、新技術を導入し、他社より先に新製品を市場に投入し、特別利潤を上げたいのは山々だからだ。

 ITやロボットの開発は、情報処理やメカトロニクスの技術を扱う労働者に多くを依存するが、彼らの労働は、新しい生産手段として結実する(開発仕様書や操作仕様書なども作成)。開発などを担う労働がどれだけ頭脳的であろうと、それは生産手段の価値を形成する追加労働に過ぎない。

 そして、ITが工場に導入され商品が生産されるなら、工場の新設備を操作する労働は商品の価値を形成する労働である。

 マイケルは、このモノを作る価値形成的労働は主要な形態では無くなったと決めつけ、高級な頭脳労働が今や生産の主人公であるかに言う。

 しかし、生産財や消費財の生産に直接かかわる労働は依然として主要な形態であり、今後も大きな地位を占めることになるだろう。

 まして、開発者がいくら知識やアイディアを握っているとしても、資本から独立できる契機にはならないだろう。

限界費用がゼロに

 マイケルと同様に、情報技術社会は資本主義と共存できないと主張する知識人の1人がポール・メイソン(米ジャーナリスト)である。彼は、資本主義は過剰な生産力を持ち、「成熟」しているという。そして情報技術などの導入によって、資本主義は利潤率を低下させているが、他方でコストも低下させている、潤沢で格安な商品やサービスを供給できる社会(ポスト資本主義)がやってくると。

 メイソンは、情報技術によって資本主義は「限界費用」(1単位分を増やして生産するために追加的にかかる費用)をゼロにする、何故なら、「情報技術があれば追加的コストなしに、瞬時に完璧なコピーの生産ができるから」だと情報技術に多大な期待を寄せる。

 例に挙げているのが、音楽や新聞であり、3Dプリンタで作る住宅などである。そして、多くの商品価格は「限りなくゼロ」に近づき、利潤の源泉は枯渇して資本主義は成立しないとまで宣う。

 確かに音楽の場合、音源データをWebサーバーでネット販売すれば、CD製造と複写作業は不要になる。その限りでは彼の言う「限界費用」は小さくなる。しかし、高速大容量のサーバー設置と維持などの追加費用が発生するのであり、価格が「ゼロに近づく」ことは難しい。

 情報技術は農業から製造業まで浸透していくだろう。だが、食料品や自動車や建造物やその他の多くのモノは、音楽や映像のように、データをコピーして作るわけにはいかない。

 メイソンも利潤率の低下や利潤枯渇から資本主義の終わりを期待し、〝労働と趣味の区別が無い社会〟を受け皿に描いている。しかし、資本主義がますます矛盾に突き当たり、その困難を労働者に押し付けるようになるのは必至であり、資本と闘う場面は増えていくだろう。はっきり言えることは、労働者は、資本主義の自滅や自滅に追いやるという「コモン」に期待を寄せることはできないということだ。搾取の廃絶抜きに労働の解放を、つまり「労働時間による消費財の分配」を勝ち取ることはできず、さらに「喜びをもって自由に働き、必要に応じて取る」社会の実現もまた不可能なことを確認できるのである。  (W)


【二面サブ】

赤旗の『ペスト』書評を読んで
人間賛歌でいいのか!

 カミユの「ペスト」が評判である。もちろん現在のコロナショックによる都市封鎖と「ペスト」の内容がそっくりだからだ。共産党の赤旗(5月24日)が「ペスト」の書評を載せていると聞いたので、若い頃に読んだ「ペスト」を再読(ほとんど内容を忘れてしまっている)してみた。

 物語はアルジェリアの地方都市オランが、ペストに襲われたことに始まる。主要な登場人物は、主人公であり物語の語り部である医師のリウー、そして検察官の息子で、自ら保健隊を組織するが最後にペストで斃れるタルー、さらに本国に恋人を残してきたが、たまたまペストに遭遇しオラン脱出を図る個人主義者のランベール、その他、戦闘的なイエズス会士のバヌルー神父(やはりペストで死ぬ)、年寄りだが衛生隊の代表になるグラン、その彼に自殺を救われるが、最後に気が違って死んでしまうコタールなど、多彩である。これら様々の経歴や職業を持つ市民たちが、献身的にペストに立ち向かう、これが「ペスト」のテーマである。

没階級と人間愛

 しかし奇妙なのは、これらの人物の中に、明らかに資産家とか企業経営者と思われる人物や労働者や貧民など下層階級が描かれていないのである。主人公のリウーも貧しい労働者の出というだけで、特に階級意識を持った人間ではない。また時代の設定が、20世紀半ばのフランス植民地の一都市であるにもかかわらず、オランはフランス本国の都市と何ら変わらず、本国の支配や住民の反抗など、植民地支配を感じさせる描写もない。何か「ガリバー旅行記」の架空の国や都市といった現実感のなさが付きまとうのである。

 オラン市民は連帯してペストに立ち向かうのだ。その動機をカミユはリユーに対するタルーの問いかけで答えている。タルー「なぜあなたは、そんなに献身的にやるんですか、神を信じていないのに?」リウー「さしあたり、大勢の病人があり、それを直してやらねばならないんです。ただそれだけです。ぼくがこころをひかれるのは、人間であるということだ。」タルー「そうさ、僕たちは同じものを求めているんだ。」ここで明らかなように、リウーやタルー(そしてカミユ)が求めているのは、普遍的な人間性であり、ヒューマニズムなのである。

永遠に続く不条理への反抗

 カミユは、歴史に意味を認めないと言い、そのことを悟った者が自由を獲得するという。しかし歴史の中に存在しない自由といったものは、自由の抽象であり、理念に過ぎない。また彼は、マルクス主義をイデオロギーであり観念であるとして反対するが、しかしヒューマニズムも歴史的な刻印を押された、イデオロギーに過ぎない。歴史を無視し、ヒューマニズムに基ずくカミユの不条理に対する反抗が、抽象的な反抗であり、ニヒリズムに陥るのは当然である。人間は不条理一般と闘うわけではない。災害や偶然、死といった不条理は、どれも具体的なものであり、人間は個々の不条理を解明して具体的に闘うのである。カミユは、人間の不条理に対する反抗を、ギリシャのシーシュポスの神話に譬えて、人類の永遠の苦行であるとし、リウーをして「際限なく続く敗北です」と言わしめている。これこそ救いのないニヒリズムである(ニーチェと同じだ)。

同じ不条理の作家にサルトルがいるが、しかしサルトルは歴史やその時々の社会状況にコミットしており、カミユの歴史無視の態度とは対照的である(「革命か反抗か」の論争で両者が喧嘩別れした理由もここにある)。

共産党と「ペスト」(カミュ)は市民主義とヒューマニズムで同じ!

 赤旗の書評士は、「ペスト」について、「生、死、幸福、別離といった人間存在の条件をめぐる哲学的な問いや、他者との関係において人はどう行動すべきか、という倫理的な問題をも取り上げている。」と紹介する。また「具体的な幸福」を追求する新聞記者のランベールや「職務の追求」を神聖な義務と考える医師のリウーの言葉を紹介して、暗黙の支持を与えている。そして最後に評者は、作中人物たちは、「疫病の科す試練の中で推移し、変貌し、自己発見していく。『ペスト』は人間をどんな本質にも固定せず、あくまで『開かれた存在』として描いている。」とまとめている。

市民の連帯ではなく働く者の階級的連帯を!

 「生、死、幸福、別離といった人間存在の条件」や「他者との関係における人の行動」は、歴史的社会的条件の中で初めて具体的な条件や行動となって現れるのであり、そうした条件を無視した「哲学的な問い」や「倫理的な問題」は無意味であり、無駄なおしゃべりに過ぎない。つまり評者は、階級社会における人間存在は、階級的存在として現れ、階級存在を否定すれば、抽象的な人間存在、つまりブルジョア的人間にしかならないことが分かっていないのである。評者とカミユの立場は完全に一致する。評者は、カミユの社会的義務や共感や連帯等を支持するが、これこそ共産党の没階級主義、市民主義、人間主義そのものである。コロナショックは、資本主義社会のあらゆる矛盾が資本主義そのものにあることを明らかにした。コロナショックを人間性礼賛の階級協調主義にしてはならず、資本主義打倒のための出発点にしていかねばならない。 (K)


   
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