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●1389号 2020年10月25日 【一面トップ】「学問の自由を守れ」で闘えるか――学術会議任命拒否で統制強める菅政権 【1面サブ】最高裁による非正規の格差是認――法衣をまとった資本家による新法の瀬踏み 【コラム】飛耳長目 【二面トップ】MMT学者らの屁理屈――「PB黒字化で悲劇」と歪曲も恥じず 【二面サブ】イスラム風刺画に斬首テロ――マクロンの「冒涜の自由」はヘイトだ ※『海つばめ』PDF版見本 ※注文フォームはこちら 【1面トップ】 「学問の自由を守れ」で闘えるか 菅政権は、これまでの慣例を破り、日本学術会議(以下学術会議)推薦の会員候補6人の任命を拒否した。これにたいして、市民派や野党共産党、立民らは「学問の自由を守れ」とか、「学術会議の独立を守れ」と叫んでいる。だが、こうした闘いで菅政権と闘いぬくことが出来るか、それが問題である。 ◆問答無用で反政府学者の排除 6人の任命拒否の理由について「総合的・俯瞰的」という抽象的な言葉を繰り返すだけで、何も理由を明らかにしようとしていない。判断の根拠も明らかにせず、学術会議会長との話し合いでも、すでに決定したことだから話すことはないと押し通した。こうした菅の態度は、政府の決定したことに学術会議や国民は口出しせず、それに従っていればいいという尊大で、強権的な菅政権の性格を明らかにしている。 菅が排除した理由は、6人の顔ぶれを見れば明らかである。彼らは安倍政権が強行した、自衛隊の海外派兵や歴代の政府が否定してきた集団的自衛権を合法化した安保関連法、沖縄辺野古基地建設、特定機密保護法など反動立法に反対してきた学者である。 菅は政府に異を唱える学者を学術会議会員から排除することによって、学術会議を政府に協力的な組織に変えていこうとしているのである。 ◆「学問の自由」が問題か 菅政権の会員任命拒否に対して、市民派や野党の立民、共産党らは憲法が謳う「学問の自由」を侵す「違憲」行為であり、政府からの「独立」を謳ってきた学術会議法に違反する「違法」行為だと反対している。 例えば、共産党は、学術会議法3条で「独立して」と書かれ、政治からの独立性、自律性を定めているのは、『学問の自由』を保障するため」であり、「任命拒否は、拒否された6人の研究者だけの問題だけでなく、日本学術会議への介入であり、日本国憲法23条の『学問の自由』への侵害です」(赤旗、10・15)と述べている。 1949年に制定された日本学術会議法が政府からの「独立」を謳ったのは、戦前、軍部ファシストによって国家への批判的思想、研究は弾圧され、科学者たちが帝国主義戦争、侵略戦争に協力させられたことへの「反省」が込められている。 学術会議法前文は学術会議の任務を「科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献する」と謳い、そのために政府からの「独立」を謳い会員も学術会議自身が選んでいた。 学術会議の役割は、科学政策について政府の諮問に応じることや提案を行うことなどであるが、政府の施策に対する影響力は60年代以降、殺がれた。50年代に毎年数件あった政府からの諮問は、62年度以降は毎年1件程度に減り、67年には諮問機関「学術審査会」が設置され、科学技術研究費の予算配分審査の役割も2004年には失った。 政府への影響力が後退したのは、戦争・軍事目的の研究を拒否する声明を1950年、67年に出すなど政府と対立したからである。政府は学術会議を「左翼的」とみなし、疎んじるようになった。 83年には、法改正が行われ、会員の決定は学術会議による選出から、学術会議が推薦した候補者を政府が任命する方式に変えられた。これは政府に批判的な態度をとってきた学術会議に対して政府が介入していこうとする意志の表れであった。 しかし、何時までも学術会議が推薦した候補を政府が会員として任命するという方式に留まることはなかった。今回、政府が6名の任命を拒否したことに関して、菅政権は、2018年に内閣府は、学術会議の推薦のとおり、首相が任命すべき義務はない、首相は任命権者として、学術会議に人事を通じて一定の監督を行使できる、との見解を明らかにした文書を作成し、内閣法制局はこれを了承したと述べている。 政府が学術会議の会員決定に介入を強めだしたのは、安倍政権の下での軍国主義の進展と軌を一にしている。政府にとって学術会議が政府機関でありながら、政府から「独立」した存在でいることを看過しえなくなったのである。学術会議が総理大臣の「所轄」する組織であるならば、政府の監督はあって当然であり、その活動も政府に協力的であるべきだというのが政府の意見である。 市民派や野党共産党、立民などは政府の態度は、学術会議の「独立」を謳った法に反する行為だと反発している。だが、学術会議が政府機関である限り、政府の介入は多かれ少なかれ避けることはできない。 また彼らは学術会議の「独立」が侵されることは「学問の自由」が否定されることだと叫んでいる。しかし、国家から学術会議に支給されるのは会議の交通費,日当、国際会議の費用であって、学術会議会員は「特別職員」であるとしても、国家から〝報酬〟を得て生活しているわけではない。 学術会議への政府の介入によって、自主的な研究を行うことが困難になるというなら、そんな組織にしがみついていないで、独立の組織をつくって活動すべきである。こうした決意もなく、学術会議の政府からの「独立」を夢想し、政府の介入によって「学問の自由」がなくなるというのは学者インテリや小ブルジョアの泣き言でしかない。 ◆労働者の階級的反撃を 市民派、野党は「学問の自由」が圧殺されると悲鳴を上げているが、菅や右翼が唱えるような国家主義、軍国主義の反動的な「学問」でもいいのであろうか。 問題となっているのは、学術会議から政府に反対する学者を排除し、学術会議の活動を政府の意向に沿うような組織にしようとする策動である。 政府の統制を強化するという策動はすでに安倍政権の時から強められてきた。政府は内閣人事局を新設し、官邸が官僚幹部の人事権を握り、官僚を政府の意のままに動かしてきた。政府は内閣法制局長官の首をすげ替え、 法律解釈を恣意的に変え集団的自衛権を合法とする安保法制を強行した等々。菅は官房長官として、その中心的役割を担ってきたのである。 安倍政権の下で、国家主義、愛国主義を煽り、軍備を増強するなど日本の帝国主義化は一層進んだ。学術会議の会員選定問題は、強権政治の下で軍国主義を進める反動的政治の一環なのである。 市民派や野党共産党、立民らの「学問の自由」を守れといったブルジョア民主主義擁護の運動では「安倍政治の継承」を謳う菅政権と闘い抜くことは出来ない。菅政権に対する労働者・働く者の階級的反撃こそが、反動菅政権を打倒し、労働者の未来を切り開いていく道である。 (T) 【一面サブ】 最高裁による非正規の格差是認 今月13日、15日と続けて、最高裁で労働事件の判決が出された。メトロコマースで10年間駅の売店で働いた非正規労働者に退職金が支払われなかったことや大阪医科薬科大で秘書としてアルバイトで働いていた労働者に賞与が支払われなかったことに対しては、「不合理とまではいえない」と、経営者側の主張を支持した判決で、労働者の格差是正の期待を裏切った。 日本郵便の契約社員を対象とした裁判では、扶養手当や年末年始の勤務手当、有給の夏冬の休暇、病気休暇を支給しないのは「不合理」として、訴えていた労働者を喜ばす判決であった。 まとめて見れば、賞与・退職金での格差は是認、手当や休暇は格差是正すべしと結論が分かれた。 判決の違いはあたかも事例や裁判官の判断の違いによるものと見えなくもないが、立て続けの判決には最高裁における一貫した意図があると考えるべきである。 今年4月から大企業に(中小企業は来年度から)適用されることとなった「短時間労働者及び有期雇用労働者の雇用管理の改善等に関する法律(通称「パート・有期法」)は、「短時間・有期雇用労働者の基本給、賞与その他の待遇のそれぞれについて」、「通常の労働者の待遇との間に」、「不合理と認められる相違を設けてはならない」と、不合理な格差を禁止しながらも、「待遇の性質及び当該待遇を行う目的に照らして適切と認められるものを考慮」せよとしている。この規定のあいまいさは、賃金について端的に示されている。 そこでは、「職務の内容、職務の成果、意欲、能力又は経験その他の就業の実態に関する事項を勘案し、その賃金(通勤手当その他の厚生労働省令で定めるものを除く)を決定するように努めるものとする」と規定しており、「基本給、賞与その他の待遇」という括りからすれば、退職金や賞与、諸手当は賃金なのだから、不合理な格差は禁止されるべきである。 にもかかわらず、「当該待遇の性質・目的に照らして」、メトロコマースの訴訟では、正社員は「エリアマネージャーに就くこともある」とか「仕事や度合いに一定の違いがある」という会社側の言い分を受け入れ、退職金不払いは差別とは認められないとした。大阪医科薬科大の場合は、「正社員は学術誌の編集や遺族対応もしていた」として、大学側の主張を認め、賞与不支給を是認。 日本郵便での手当是正判決は、会社側の正社員の継続雇用を確保するためという支給目的を「経営判断として尊重しうる」と会社側の屁理屈に理解を示しつつ、契約社員も「継続的な勤務が見込まれる」として、支給しないのは「不合理」とした。 労働実態についていろいろ言っているが、現場労働者は納得しておらず、現場軽視の裁判所の判断であり、賞与や退職金は不支給、少額の手当は支給と認めたのは、新法による格差是正の訴訟が頻発することになった場合に、資本の負担を大きくしたくないという意図があっての、結果ありきの判断だったと考えるのが正解であろう。いわば新法による影響を〝瀬踏み〟したのではないか。資本の利害に配慮し、資本におもねるというのが「法の番人」の正体なのだ。 (岩) 【飛耳長目】 ★「学術会議」の後始末についての密談(仮想ということにしておこう)。加藤官房長官「こんなに問題になるなら、全員承認しておけば良かったですかね。」杉田副官房長官「いや、2年前に学術会議を変えなけゃいかんと安倍さんと首相と私とで決めたことだから。」菅首相「とにかく再任命はなしだ。このまま押し通す。」加藤「はい、あと首相のイメージ低下、安倍さんの時のように防ぎましょう。」杉田「首相は関与なしで押し通します。最後は私が泥をかぶります。首相はあくまで99人で名簿を承認したと言い張って下さいね。」★菅「肝心の改革の方はどうなっとる?」杉田「下村(党政調会長)さんと河野大臣にお願いしてあります。下村さんには、税金を使ってるのに何も役立ってないという宣伝と党プロジェクトチームに、民間になるか、こっち側になるかの報告書を出させます。あと『規制改革』の方でも手をつけさせます。」菅「両方から攻めて、うまくやってくれ。」★菅「国会対策はどうなっとる?」杉田「野党には『総合的、俯瞰的に判断した』で十分でしょう。」加藤「あと『人事のことはコメントを控えたい』でいいですね。」菅「わかった。森友・加計も桜もうまくやったから、同じ手でやればいい。」 (是) 【2面トップ】 MMT学者らの屁理屈 アルゼンチンの首都ブエノスアイレスは、かつては南米の「パリ」と言われた。そうした形容詞が似合っていたアルゼンチン。この国で9度目となる債務不履行(デフォルト)が去る5月に起きた。アルゼンチンは長年にわたり、多大な債務を抱え続け、世界の経済危機や通貨危機の影響が及ぶと簡単に債務不履行に陥り、度々IMFなどの援助を受けてきた。そのアルゼンチンの破綻の原因は、PB(プライマリーバランス)が黒字であったからだとMMT派は言うが、果たしてそうなのか。またMMT派の「貨幣理論」である「政府の赤字は民間部門の黒字」だという理屈は、普遍的な理論なのか、それとも、あれこれの条件を加えた、今後も加える単なる形式的な屁理屈に過ぎないのかを問う。 ◆世界の富裕国から転落 今から100年程前の20世紀初頭、「国民一人当たりの所得」では、アルゼンチンは世界のトップ10に入っていた。土地は肥沃であり穀物や肉類などを欧米に輸出し、その外貨を使って土地整備や鉄道建設を行い、移民政策を積極的に進めて労働力を確保し、急速に経済成長した。当時は、今のような高インフレもなく、経済成長率もプラスであった。 そのアルゼンチン経済に急ブレーキが掛かったのは、第二次世界大戦後である。ペロン将軍が大統領に就き、終戦直後の経済の停滞を脱しようと、欧米並みの工業化と福祉社会の実現を目指して財政支出を急増させていった。雇用が増えるなど、経済は順調に回復したかに見えた。 だが、ペロンの工業化はうまく軌道に乗らず、輸出競争力を持った産業にまで育たず、逆に、主力であった農牧業の生産は下落した。その後のアルゼンチン政権は、基本的にペロン党(正義党)が牛耳り、幾度か他党の政権になったが、放漫な財政支出政策を引継いでいった。 60年代には、GDPが日本や韓国、ブラジルやチリにも追い抜かれてしまうなど、生産的産業が発展しないでサービス業が全産業の過半を占める半寄生的国家、欧米や日本からの資本輸入と海外の投資機関やIMFからの債務に依存する国家、そしてその債務を期限までに返せず、債務不履行を繰り返す国家に陥ってしまった。 ◆経済・財政破綻の原因はPB黒字にあると このアルゼンチンの債務不履行や経済破綻について、MMT派はPB黒字化の為だったと言う。例えば藤井聡・京大教授は、次の様に述べている。 「アルゼンチンは、1980年代、経済的混乱状態に陥ってしまったため、これを立て直すために、1990年代初頭にIMF(国際通貨基金)等に救済を依頼した。交渉の結果、彼らはめでたく大量の資金『融資』を受けることになった。ただしこの時IMFは、救済措置と引き替えに2003年度までにPBをゼロにすること、という要求をアルゼンチンに突きつけた。アルゼンチンはこれを了承。IMF等から借りたカネを返すべく、PBを黒字化させるために懸命に緊縮策(つまり、増税と財出カット)に取り組んだ。 その後、かれらはめでたく目標年次より2年早い、2001年にPB黒字化を達成した。しかし、その直後に悲劇は起こってしまった」(『プライマリー・バランス亡国論』27~28頁)。 しかし、藤井が言うようなPB(対GDP比ー藤井はギリシャのPBをこれで示している)は、94年に一時黒字になるが、それ以外は80年代も90年代も赤字である。 PBが黒字化していくのは、債務不履行が起こり、債務の一部が帳消しになっていく01年を過ぎてからである。 確かに、IMFに返済するために政府は努力したと思われるが、90年代の経済は好調であり、実質GDPは平均して年率5%にもなり、外貨を一定程度稼いでいたのであり、藤井が言うような無理やり財政を緊縮し、PBを黒字化していたという証拠は見つからない(世界銀行データにて)。しかも藤井は、ギリシャのPBデータを載せながら、アルゼンチンの同データは載せていないのである。姑息なことをするものよ。 さらに、政府の財政収支(対GDP比)を見ても、90年代はずっと赤字になっていたのであり、MMT理論の核心である「恒等式」(政府部門収支+民間部門収支=0)に照らすなら、なんら問題は無かったのではないのか。この点も藤井は都合が悪いのか、全く論じていない。 ◆14年債務不履行もPB黒字が原因と言うのか? それでは、01年の次に債務不履行を起こした14年の場合はどうか。 02年から08年まで、PB(対GDP比)は、先に紹介した理由により黒字であったが、その後09年から14年の債務不履行まで、またそれ以降もずっと赤字であった。 17年の衆院選開票日(10月22日)に、当時安倍は、20年までにPBを黒字化するとの政府公約が絶望的になったことを受けて、「アルゼンチンはPBを無理やりに黒字化して、次の年にデフォルトになった」と言ったが、この発言は明らかに藤井らの影響を受けたものであった。白を黒と言いくるめるのは、安倍の得意技であるとは言え、当時マスコミは何ら反応しなかったが、それもまた奇妙なことであった。 ◆債務不履行に陥った直接の原因 01年にアルゼンチンが債務不履行に陥ったのは、直接的には、「ブレディ債」(80年代の通貨危機を救済するための先進国によるドル建て債券)の返済期限が来たからである。 アルゼンチン政府は、これを全て返すことは不可能であり、債権者に借換えを要求するつもりであったが、欧米などの投機筋は、「ブレディ債」の借換えは成功しないと読み、不履行になる前に、急いで国債などの債券を売り浴びせたのである。その結果、国債は暴落し、反対に金利は高騰した。 こうして、政府はハゲタカファンドなどの投機筋に翻弄され、債務不履行以外に選択する道は閉ざされたのである。その後、政府はIMFの援助を得ながらドル・ペッグ制(ペソをドルに連動させた固定為替制度で1ドル=1ペソにしていた)を廃止し、変動相場制に移行していくのであるが、それもアルゼンチンにとっては根本的な解決にはならなかった。01年の債務の帳消しに応じない債権者との交渉が決裂して、14年には再び不履行が表面化した。 その後、通貨ペソは急速に下落し、PBも財政収支も悪化し、外貨準備は大幅に減少し、19年の大統領選で勝利したフェルナンデス大統領は、「債務は返済できない」と宣言したのである。 ◆MMT派は自らの貨幣論を信用しない MMT派の貨幣論は、「貨幣とは政府の債務証書である」という事である(この批判は別稿にて行いたい)。この大前提に基づいて、次の恒等式を掲げる。 「政府部門収支+民間部門収支=0」である、海外部門を加えると「政府部門収支+民間部門収支+海外部門収支=0」であると。 この恒等式は、カネの出入りを示す会計恒等式を国内経済に適用した彼らの根底、つまりMMT派の基礎理論である。この恒等式の意味について、大御所のL・ランダル・レイは、『MMT(現代貨幣理論)』の中で大きなスペースを割いて展開しているが、一言でいえば、政府の赤字は民間の黒字だ、政府の赤字は正常だということである。 そうであるならば、アルゼンチンは、恒常的に財政赤字が続いてきたのに、なぜ破綻したのか。おかしいではないか、MMT派の諸君よ。 MMT派は、自分の理論にほころびを感じるのであろうか、この式は日本やアメリカには当てはまるが、EUには当てはまらないと言い出している。EU加盟国は自国通貨を放棄して、EU通貨を使っている、だからギリシャやイタリアは破産したと。 または、既に論じてきたように、アルゼンチンはPBを黒字化したから破綻したとか、固定相場制だったから破綻したと、明らかに真実とは違うことも言い出している。 しかし、カネ以外のあれこれの条件を言い出すならば、「MMT(現代貨幣理論)」の根幹である恒等式は引っ込めなければならない。なぜなら、会計恒等式は〝純粋に〟カネの出入り、または資産と負債を示す〝公式〟であって、他の条件は含まれないからである。 MMT理論(会計恒等式を国内経済へ適用)は不十分であり、あれやこれやの条件を加えたもの、あるいは国毎によって違ったものになると事実上言うのである。これだけ見ただけでも既にMMTは破産している。 (W) 【二面サブ】 イスラム風刺画に斬首テロ ◆コラム記事に寄せて 前号の「飛耳長目」でムハマンド風刺画について書いたYです。 今度は凄惨なテロが起きてしまった。 マクロン仏大統領は、「我々の存在をかけた闘いだ」と非難する一方、「表現の自由」について「フランスには冒涜の自由がある」と発言した。 これは「自由、平等、博愛、人権擁護」のブルジョア社会の精神――この限りイスラム的価値観よりはるかに進歩的であるが――さえ逸脱し、人種や宗教、出自による憎悪や差別を容認する紛れもないヘイトである。 死亡した教師は、事前に風刺画についての討論を予告し、ムスリムに配慮して風刺画を見なくても、欠席してもよいと伝え、挑発の意図はなく、宗教対立解消の良き意図があったと思われるが、マクロンの「冒涜の自由」には、イスラム系移民の憤激の根源を理解しないばかりか、傲慢な優越感と悪意しかない。 テロといった手段は擁護しないが、イスラム世界が中世的価値観に閉じこもる背景には、現代にも引き継がれる欧米帝国主義の支配・抑圧があり、移民がこの価値観から抜け出せないのも、資本の搾取・抑圧の体制の最下層に放置され、西洋的価値観を享受する条件にないが故の絶望的憤激だ。 コラムでは字数が限られ、中世から現代まで、900年以上に及ぶ遺恨が残るイスラム世界と西欧世界の対立を、宗教戦争としてではなく階級闘争の問題として論じ切るには不十分だった。特に最後の十字軍への言及は中途半端で、対立解消の展望に明快さを欠いた。 マクロンが口にするフランスの価値観とは、資本の支配に適合した、階級社会の搾取と抑圧を正当化し擁護するイデオロギーであり、欧米諸国や日本も共有するこの価値観が擁護する普遍的権利とされる人権も、階級的差別を前提にしたものに過ぎない。 エリート階級出身のマクロンが露骨に宗教差別を公言、不動産王のトランプが白人至上主義を否定しないのも当然なのだ。 それでも、第二次大戦後の欧米諸国の発展は後発国を魅了し、必ずしも成功したわけではないがその価値観を受け入れて〝世俗化〟する後発国もあったし、豊かな生活を求める移民を、搾取材料として受け入れる先発国もあった。 しかし現代の欧米諸国は、宗教絶対主義からの解放を促進するに足る魅力や活力を喪失させ、移民の貧困と差別を放置し、反啓蒙主義との非難も西欧諸国による支配と抑圧の歴史を美化するだけの説教に堕している。これではイスラム原理主義に追いやるだけで、イスラム世界の開明化や民主主義的課題の実現から遠ざかるばかりである。 フランスの労働者階級と移民労働者は、資本の搾取・抑圧という同じ境遇にあり、日本の正規と非正規の労働者がそうであるように、共同の闘いこそ追求されるべきである。2年前、フランス労働者は生活費の高騰や税制改革に反対して、黄色いベストを着てマクロンと対決したように、「冒涜の自由」の扇動を糾弾し、イスラム系移民のコロナ禍で増す困窮を我がこととして手を差し伸べる時、両者の溝は埋まり、宗教の違いは絶対的なものでなくなっていくに違いない。 この共同の闘いの発展こそ、イスラム世界の宗教的呪縛からの解放という課題の解決の援助にも起爆剤にもなるだろう。 コラムの最後の「十字軍は勝利することはなかったけれど、対立解消の道は、搾取・抑圧の資本の体制の克服と階級的解放のための共同がベストだが、困難でもそこに進むしかない」は、「十字軍は勝利することはなかった。対立解消の道は……」と訂正し、この記事と合わせて、両世界の体制の革命的変革に向けた共同こそ進むべき道であると理解していただきたい。 (Y) |
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