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●1397号 2021年2月28日 【一面トップ】歯止めなき借金財政――特別公債発行法改正案審議始まる 【1面特設】さん然と輝く闘いの軌跡――林紘義・労働者党代表死去のお知らせ 【コラム】飛耳長目 【二特集】 林紘義同志への追悼の辞 ◇人生に決定的影響を与えた、林さんとの出会い ◇徹底的に考え抜き、率先して行動する人 ◇真の女性解放の為に闘い抜いた革命家 ※『海つばめ』PDF版見本 【1面トップ】 歯止めなき借金財政 国の財政不足を補うために、赤字公債(国の借金)を今後5年間発行できるようにするために特別公債発行法改正の国会審議が国会で行われている。新型コロナウイルス対策や社会保障費など国家の借金は増える一方であるが、菅政権は返済する当てもなく借金を積み重ねようとしている。 ◇国の借金禁止した財政法は有名無実に 特別公債発行法改正にあたり、麻生財務相は「財政は新型コロナウイルス対応で厳しい状況にある。財政収支は著しく不均衡で、財政運営に必要な財源を確保しなければならない」と野党の協力を訴えた。 財政法は借金に頼った国の財政運営を原則禁止している。これは戦前、戦争遂行のために借金を乱発し国を破滅させた深刻な経験を踏まえたものである。しかし、例外的な措置として財政法4条は「公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し、又は借金をなすことができると」と規定されており、この規定に基づいて建設国債が発行できるとしている。 建設される公共施設は財産として後世にも残って国民に利用されるというのがその理由であり(とはいっても、返済が必要である借金であるのに変わりはないのだが)、道路や港湾など公共施設の場合、「建設国債」として発行できる。一方、財政赤字を補填するための国債は発行できないことになっている。 そのため、1965年、補正予算で特別に赤字国債を発行できるように法律が改正されてできたのが特別公債発行法である。初めは1年限りであった。これは国家財政の安易な借金依存を規制し、財政規律を守るためであった。その後、赤字国債は発行されなかったが、1975年に歳入不足から制定され1990年まで続いた。その後1994年から2012年まで赤字国債を発行するために毎年制定され続けられている。 しかし、東日本大震災による被災への事業を盛り込んだ予算が検討された2012年度からは被災への対応事業が多年にわたるということを理由に1年限りではなく15年度までの3年間とすることが、当時政権党であった民主(当時)党と野党自民、公明の3党合意で決められた。これを契機として安倍自民党政権のもとで16年度からは20年度までの5年間と赤字国債発行の承認期間が延長された。 特別公債の発行は予算事業と一体のものである。予算が単年度主義をとっているのに特別公債の発行が3年、5年と延長した形でだされるのは予算原則に反している。特別公債の発行が5年もの長期になってきたのは、政府が国会のチェックを受けないで借金をし続けられるようにするためだ。 ◇返済の目途もなく借金の山 現在、特別公債発行法の改正が問題になっているのは、2016年制定の特別公債発行の期限が2020年度で切れるため、今後の発行のために新たに国会の承認が必要になるからである。 今年度は、新型コロナの影響もあり税収が減少する一方で、コロナ対策、少子高齢化などで社会保障費増加などを反映して赤字国債の発行は前年度の約3倍の90兆円、建設国債などを含めた国債発行残高は、今年度末には990兆円(中央政府のみ)になる見通しである。これは国内総生産(GDP)の1・8倍にも相当する額である。つまり、国民が約2年間飲まず食わず働いてやっと借金を返せる(そんなことは実際には不可能なことであるが)額である。 安倍はカネを大量に市場に供給すれば物価が上がって、投資が活発化して、経済が活性化するといって、日銀による民間銀行等保有の国債購入、マイナスの超低金利策をとってきた。これは国家にとって都合のいいことであった。というのは、国債を発行(借金をするということ)しても日銀が買い取ってくれるし、超低金利で財政負担が少ないからだ。しかし、安倍政権の下での経済成長率はわずか実質0・9%に終わり、国の借金は230兆円も増加した。 安倍の経済成長政策の「継承」を謳う菅政権も同様である。国家財政が借金まみれになっているにもかかわらず、コロナ対策として称して富裕層も含めた10万円のバラマキ、コロナ対策の膨張予算に便乗したコロナとは無関係の15兆円もの「国土強靭化」予算計上など、借金を重ねているのである。 これまで政府が約束してきた18年度の国と地方の基礎的財政収支(新規の借金なしでの国家財政の収入と支出のバランス)の黒字化目標は25年度に延期され、現在では黒字化目標自体が語られなくなっている。 日銀は2%の物価上昇を達成するため、株式の購入を行ってきたが、コロナ禍で景気が悪化する中、20年3月には、金融緩和策の強化に乗り出し、上場投資信託(ETF)の年間購入額の上限をそれまでの6兆円から12兆円に、上場不動産投資信託(REIT)購入上限を900億円から1800億円にそれぞれ倍増した。コロナ禍による株価急落時には日銀の1日の購入額は2000億円を超え、日銀は株価を下支えし、日本の株価は「官製相場」となっている。そして20年末のETF保有額は45兆円で国内最大の株保有者となっている。 現在日本の株価は、3万円を越し、かつてのバブル以来の高水準である。しかし、これは財政出動と金融緩和、そして日銀の株価下支えによってもたらされた結果であって、実体経済とは大きく乖離したバブルであり、いつ破裂してもおかしくない。 日銀の資産の構成を見ると国債535兆円、ETF35兆円とこの2つで国の借金の57%に相当する。株価のバブルが破裂しても、際限ない財政赤字に国内外の不信が強まっても、通貨円が信用を失い激しいインフレになる危機を孕んでいる。 だが、政府、日銀はなすすべもなく、借金による財政膨張を続けている。彼らにとって今を凌ぐことで精一杯であり、「後は野となれ山となれ」なのである。 (T) 【1面特設】 さん然と輝く闘いの軌跡 林紘義・労働者党代表死去のお知らせ 「労働の解放をめざす労働者党」の党代表であり、機関紙『海つばめ』などの編集責任者でもあった林紘義が去る2月10日、82歳で生涯の幕を閉じました。 林紘義は数多くの著作を残していますが、とりわけ若くして発表したソ連・中国=「国家資本主義」論や近年に発表した「『社会主義』における消費財の分配法則」の解明は、労働者の革命運動における大きな功績です。 最近、資本主義による「環境破壊」や「格差・貧困」を目の当たりにし、また「コロナ禍」による資本主義の矛盾を感じてか、「資本主義以後を語る」学者やインテリが目に付くようになりました。 「資本主義以後」と言っても、色々です。「反グローバル社会」を目指し、独占の規制や近隣諸国との「ブロック経済」を求める資本主義の修正論があり、情報経済社会に進むため「限界費用」(追加投資費用)がゼロになり、そのため価格が下がり利潤が極少になり、資本主義は「自然崩壊」するという議論もあります。 また、環境のためには「脱成長社会」による「コミュニズム」が必要だという論説も出て来ました。 これらの「資本主義以後」の社会を実現するための方法については、いろいろ言われていますが、共通していることは、改良的政策を積み上げていくというものです。 例えば、「市民」による投機金融への反抗であり、民主的な協働労働の場(生産協同組合など)を広げていくことであり、労働者の「経営関与」や労働組合による「労働力販売の独占」を実現し資本の「私的労働を緩和させる」などです。 こうした学者やインテリたちによるマルクス主義の改ざんや日和見主義は、ずっと前から続いており、林紘義は、若い時からこれらに断固反対し、労働者解放のために生涯をかけ、一貫して闘ってきました。私たちは林紘義の意志を継いで闘っていく決意です。今までと変わりないご支援を宜しくお願い致します。 【林紘義の略歴】 1938年 長野県上田市に生まれる、同県伊那谷出身。教師の父の異動に伴い、伊那谷の各地に転校、転居を繰り返す。3000メートルの雄大壮麗な西駒ヶ岳をこよなく愛し、その山麓に自己の性格を育む。58~60年学生自治会役員及び東京都学連執行委員として、「勤務評定反対闘争」、「60年安保闘争」を闘う。以後、一貫して『社共』にも『新左翼』諸派にも批判的な、独自の社会主義路線を歩む。84年 社労党結成に参加(代表を務める)。労働者の階級的立場と政治を訴えて、国政選挙に数回立候補。02年 社労党からマルクス主義同志会への移行とともに、その会員(代表を務める)。17年 労働の解放をめざす労働者党(略称労働者党)結成に参加(党代表を務める)。19年 参院選に確認団体として参加し、比例区候補として闘う。21年2月永眠。 【飛耳長目】 ★かなり昔、某所で党主催のセミナーが行われた折、息抜きでソフトボール大会が行われたことがあった。当時現役であった私の緩急をつけた投球にバツターの林さんはあえなくピッチャーフライに打ち取られた。それが相当悔しかったらしく、会うたびに再戦を申し込まれた★残念ながら再戦は果たせなかったが、北海道に住む孫娘さんが当時部活でソフトのピッチャーをやられていて、その写真を私に見せながら話す姿は好々爺の笑顔のごとくであった★あるとき用事があって上京した際、林さん宅にお邪魔し夕食をご馳走になった。近くのスーパーへ買い物にでかけ、得意だという鳥料理を食べさせてもらった。案外うまく、東京に住む息子の所に泊まる予定だと言うと、息子のぶんまで作ってくれた。林さんはひとり暮らしなのに、部屋は整然としていて、よく整理されていた★林さんに最後に会ったのは、林さんが比例区候補として闘った19年の参議院選で、私は政党カー運転手として共に闘った。選挙戦最終日、都心を精力的に廻った後の夕刻、新宿駅頭で3時間にも及ぶ林さんの演説はまさに凄まじいものだった★我々は偉大な革命家を喪ったが、冥土に居る多くの同志の遺志と共に、林さんの遺志をも継いで、さらに前進していくだろう。 (是) 【2面特集】 林紘義同志への追悼の辞 ◇人生に決定的影響を与えた、林さんとの出会い 林紘義さんは、理論的にも実践的にも私たちの運動の中心的な存在で、常に先頭に立って労働者の解放のために闘ってきました。 私が林さんと一緒に運動を始めたのは1960年、第一次共産主義者同盟(ブンド)の解体の過程でした。当時共産党に代わる新たな革命政党を目指したブンドは、安保闘争の総括をめぐって、林さんも属していた「プロレタリア通信」派、「革命の通達」派などいくつかの党派に分裂し、「プロレタリア通信」派も、その中心となっていた清水丈夫らがなんの総括もなく突如革共同黒田派に乗り移り、それに反発した部分はブンド再建を目指すなど混迷状態に陥りました。 こうした中で、林さんは、新たな革命政党を目指したブンドも結局は急進的学生のプチプル運動でしかなかったとして、労働者階級に基礎を置く運動をつくりあげることを訴え、闘いを始めました。私もその訴えに賛同し、参加しました。この出会いが自分のその後の生き方を決めることになりました。 労働者階級に基礎を置いた労働の解放をめざす闘い、ということは林さんの揺るぎない信念であり、そのために生涯を尽くしました。ブンド崩壊後、革命運動から身を引いていった者は少なくなかったのですが、林さんは「生活保護以下」という状況に臆することなく信念を貫きました。 林さんには多くの著作がありますが、その代表と言えばスターリニスト共産党のソ連・中国=「国家資本主義」論、そして社会主義における分配論です。 ソ連や中国といえば、現在では「資本主義」であることは一般的に言われていますが、これもソ連解体後の事であって、共産党、社会党はじめ誰もが「社会主義」といっていた時代、1960年代後半、林さんは一種の資本主義=「国家資本主義」であることを明らかにしました(「スターリン体制から自由化へ」参照)。 当時トロツキストは「歪められた過渡期国家」と言い、トニークリフの「官僚制国家資本主義」などの議論はありましたが、科学的にスターリンの旧ソ連の体制を分析し、「国家資本主義」であることを明らかにしたのは林さんが初めてです。ソ連=社会主義の主張がどれほど労働者の目指す社会主義を歪め、労働者の闘いに害悪を与えてきたかは、世界の歴史の示す通りです。 社会主義における分配については、「労働に応じた分配」とマルクスは述べていますが、その内容は必ずしも明らかではなく、共産党はブルジョアに追随して、資本主義と同じく商品市場を通じてなされる(「市場社会主義」)と現在でも主張しています。これに対して、林さんは「労働に応じた分配」であることを理論的に明らかにしました。 「国家資本主義」論、社会主義における分配論は労働者の革命闘争にとって歴史的ともいえる大きな功績として、私たちは誇りを持っています。 実践の面でも、林さんは常に先頭になって奮闘してきました。私たちの機関紙は1960年代の「全国社研」の時代に発行された『火花』以来、『変革』、『労働者新聞』、そして現在の『海つばめ』と名称はかわりましたが、昨年4月に脳出血で倒れるまで(1378号まで)1号も欠号を出さず、そして毎号執筆してきました。 「新聞創刊以来1号も欠かしたことがない」と本人の自負するところでしたが、その間には機関誌、単行本の執筆、組織内文書の執筆等々まさに獅子奮迅の活動でした。 機関紙発送のために新聞を封筒に入れるのは面倒な仕事ですが、こうした単純な事務的な仕事も他人まかせにするのではなく自分も引き受けてやる、論争になれば他から見ればはらはらするような厳しい言葉も出ましたが、それも問題に真剣に向かい合った結果であり、偉ぶったことのない人でした。 林さんは2017年末には脳梗塞で入院、退院後スムースな歩行が困難になった中で参院選を闘い、どんなに疲れている時でもリハビリをして、体調を維持するために毎日深夜のランニングを欠かさず行うなど懸命に努力していました。林さんは、強い意思で困難を恐れず理想に向かって文字通り全生活を注いだといえると思います。 林さんは参院選の後、体調は思わしくはありませんでしたが、首都圏では自ら講師として「資本論講座」を行う計画を立て、準備に取り掛かるなど張り切っていました。そのことを思うと残念でたまりません。 (田口 騏一郎) ◇徹底的に考え抜き、率先して行動する人 代表委から送られてきた林さんの遺影を見て、こみ上げるものがあった。生前のあらゆる労苦から解放されたからか、安らかな寝顔だった。心から冥福を祈るのみである。振り返れば、林さんとの付き合いは50数年に及ぶ。 1960年代の半ばに上京した折り、池尾さん(故人)に連れられて東大農学部大学院の薄暗い部屋で会議開始前の林さんと会ったのが初対面だった。間もなく全国社研の前身、日本共産労働党の中央委員会が始まり、傍聴した。女性を含む委員たちと活発に議論していた林さんがおぼろげによみがえる。 林さんの組織名は栗木伸一で、同党の理論機関誌『共産主義の旗』創刊号(62年6月発行)に、栗木名の論文「スターリン的教条主義に基づく小ブル的思想と実践――日本共産党批判」がある。同誌の基調論文であり、当時から林さんは中心的論客だったことが分かる。 学生時代に一度、林さんを呼んで松本市で講演会を開いたことがあったが、終了後の懇親会では酒がほとんど飲めず、コンパには慣れていないようだったのが印象に残っている。 63年12月に「全国社研」が結成され、理論誌『科学的共産主義研究』が創刊された。信州大学でマルクス主義を学んでいた学生の多くはこぞって参加した。 私が大学を出て上京したのは66年で、当時はソ連の自由化が進行しており、ソ連の体制をどう評価するかが理論的実践的課題となっていた。例の薄暗い部屋でトロツキーの論文やトニー・クリフのソ連論などの研究会が開かれており、私もそれに参加した。その研究が結実したのが単行本『現代「社会主義」体制論・スターリン体制から「自由化」へ』(1972年4月)だった。 全国社研のメンバーは皆20代、30代で若く研究熱心だったから、当時の共産主義運動が直面していた理論的課題に果敢に挑戦し、『科学的共産主義研究』に執筆していった。特集テーマの設定や執筆の分担でいつも指導的役割を果たしたのは林さんだった。 ガリ版刷りだった『科共研』は、27号から活版化された。黒田哲学批判を特集した27号(70年5月刊行)は、委託販売先の神田のウニタ書舗で完売し増刷した。全国社研の出版物で増刷に至ったのは記憶では、後にも先にもこの号のみだった。当時は70年安保闘争の渦中で、急進派の間に広まっていた黒田哲学を〝「プロレタリア的」主観主義〟だと明確に批判した本誌は大きな反響を呼んだのである。 組織はその後、いくつもの変遷をたどったが、林さんは常に闘いの先頭に立ち、理論的実践的な指導者として組織を牽引してきた。 脳梗塞で倒れた後でさえ、林さんの闘志は衰えることなく、19参院選闘争も比例区候補として闘い抜いた。 林さんは、既成の観念やドグマ(とりわけスターリン的教条主義)に疑問を呈し、徹底的に考え抜き、批判を深め正しい道を見いだしていった。たとえ同志であっても間違った理論や方針に固執していれば、林さんの批判を免れることはできず、それに耐えられず離脱していった人も少なからずいた。林さんの容赦ない批判は、同志であっても間違った道に固執すれば、日和見主義や急進主義に堕することを直感していたからだろう。 問題を深く掘り下げ、正しい理論的到達点を見いだそうとする不屈の精神から、林さんは、エンゲルスの『家族、私有財産及び国家の起源』の限界を指摘し、アジア的生産様式や古代社会に関する新たな見解に到達した。『資本論』第2巻のエンゲルス編集も批判を免れなかった。 『資本論』におけるいわゆる「価値移転」論にも疑問を呈し、社会主義における分配法則を明確にしようと苦闘を重ねた。新たな観点から「『資本論』を学び、『資本論』を超えよう」という連続講義を企画していた。道半ばに倒れた林さんの無念を思うと胸が痛む。 林さんの抜けた穴を埋めることは誰にもできないが、林さんは多くの著作を残した。それを学び、考え抜き、真理を見いだし実践へと活かしていくことが、残された者の課題だろう。 (鈴木 研一) ◇真の女性解放の為に闘い抜いた革命家 女性解放と言う言葉は、ある意味ひと昔前のものです。今や労働者の半数は女性であり、人々の消費財は男性労働者と共に女性労働者が生産しています。女性労働者がいなければ、この社会は維持できなくなってしまいます。 女性が夫や家族の為の家事・育児に縛り付けられ、夫に扶養されるだけで社会的生産から疎外された存在であったのは、資本主義社会の機械化と共に急速に変化しました。 しかし、女性は社会的生産を担う一方で、家事・育児の中心的役割からから解放されることはありませんでした。 共働き夫婦の多くが、家事・育児は女性の役割であり、男性はあくまでも補助者でしかないかの風潮・考えは大勢を占めています。夫婦共稼ぎであろうとも、家事・育児を中心になって担うのは女性であり、長時間労働を強いられる男性は補助者に留まっています。 労働可能なすべての女性が、家事・育児から解放され、社会的労働に全面的に――計画にも直接的な生産にも――参加できて初めて真の女性解放があると、林さんは常々訴えられました。 他政党のように、家事・育児も女性の立派な仕事であると主婦を持ち上げたり、女性の敵は男性であると言ったウーマン・リヴ運動とは一線を画した、女性の真の解放を唱えました。そして生活においても、人一倍多忙であるにも拘らず、買い物・料理・掃除・洗濯など全てを担っておられました。 党大会でご自宅にお邪魔した時も、土曜日の安売りには、自転車で一週間分の食料を買いに行かれ、ご馳走になった夕食や朝食は本当においしく食事においても味を極めておられたことに驚いたものです。 林さんは理論的にも組織的にも曖昧さを嫌われましたが、活動の為の細やかな指導を貫かれました。東京で活動されていたので、西日本の同志やシンパを充分に把握できなかったので、「○○さんはどういった人なの?」と聞いて来られたこともありました。 永遠の眠りにつかれた今、目的遂行のスケジュールに追い立てられる日々から解放されて、故郷の長野県飯田を空の上からゆっくりと見ておられるかも分かりません。それとも残された同志の党活動を危なっかしく思われているでしょうか。 長年のご活躍、本当にお疲れ様でした。どうかゆっくりとお休み下さい。林さんの意思は残された我々が引き継ぎ、必ずや「労働の解放」の実現の為に、闘い続けます。ご安心ください。 (伊藤 惠子) <お知らせ> 労働者党HPにて、林紘義が若くして発表した「国家資本主義」論や、近年発表した「『社会主義』における消費財の分配法則」を紹介しています。 |
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