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労働の解放をめざす労働者党機関紙『海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1403号 2021年5月23日
【一面トップ】 ちぐはぐな野党共闘派の憲法闘争――菅政権の狙いは〝強権国家〟への地ならし
【1面サブ】 名古屋市長選 憲法に対する盲信――横井を担ぎ河村落選を目論んだ無節操な共産党
【コラム】飛耳長目
【二面トップ】 マルクスは「脱成長」論者だったか――斎藤幸平によるマルクス主義の歪曲(上)
【二面サブ】 「脱成長」論にひそむ反労働者性――矛盾が露出するのは必然

※『海つばめ』PDF版見本

【1面トップ】

ちぐはぐな野党共闘派の憲法闘争
菅政権の狙いは〝強権国家〟への地ならし

 衆院を通過した国民投票法改定案は参院憲法審査会を19日に開催し、改定案趣旨説明のあと、憲法や国民投票法の諸課題について各会派から意見表明がなされた。共産ら憲法擁護派は改定案提出を「コロナ危機に乗じた〝火事場泥棒〟」と非難し、「『安倍・菅改憲』を市民と野党の力で阻止」と力んでいるが、まずしっかり〝火事場泥棒〟を退治すべきではないのか。

◇憲法闘争における慣れ合い

 朝日新聞は衆院憲法審査会で国民投票法改定案が採決された翌日、立・民安住国対委員長と共産穀田国対委員長が国会内で会談したことについて、「6日の衆院憲法審査会では、国民投票法改正案の採決をめぐり、両党の対応が分かれたが、『共闘』に影響がないことを演出した」(朝日デジタル5/7)と報じた。採決前に自民二階と立・民福山両幹事長が会談し、立・民修正案を自民が受け入れ、「今国会会期中に成立させる」と文書で合意。穀田は安住に「遺憾だ」と抗議していた。

 抗議に対し立・民は全く意に介さなかったのだから、共産がさらに強く批判すると思われたが穀田は、「自民党の改憲4項目の議論に入ることを阻んできた、この4年間は大きな意味がある。今後、改憲を許さないたたかいを起こし、総選挙で審判を下すことが大事だ」(赤旗5/8)と、これまでの慣れ合いをこれからも大事にしようと言ったのだ。安住は安住で、「それぞれの違いは理解しながら、武者小路実篤じゃないけど、『君は君、僕は僕、されど仲良き』ではないが、打倒自民党という点で連携していきたい」と、自民に慣れ合っておきながら厚かましく応えた(前出朝日)のだ。

 同紙は、志位委員長が6日の会見で、「立憲民主党と態度がわかれたのは残念」、「安倍・菅改憲には反対するという大きなところで一致がある」との発言も伝えている。つまり、立・民は〝火事場泥棒〟に手を貸したが、大きなところで一致があるから共闘していくというわけである。はたして「大きなところ」での一致というのは本当か。選挙区の候補者調整といった「小さなところ」での一致ではないのか。まして〝野党連合政権〟での一致ではあるまい。

◇国民投票法改定との闘い

 立・民は改定案の付則に、法施行後3年をめどに、CM規制などについて加え、必要な法制上の措置を講ずると、修正できたことで賛成に回ったが、付帯条件などは、法案を押し付けるごまかしの手段であり、実際に守られる保障はない。国民投票法改定に賛成した立・民の態度は、菅政権を助けるものだ。

 立・民は綱領で「未来志向の憲法議論」を謳い、共産らの〝憲法原理主義〟のような〝硬直した〟立場とは一線を画してきたが、ブルジョア憲法を現実的な状況に合ったものにする〝改良主義〟で、「安倍改憲には反対」という迷妄な立場であった。 しかし期日の迫る衆院選にむけて、改憲に消極的でないという姿勢をアピールし、〝保守層〟を取り込む狙いがあった。枝野代表は「早ければ6月解散、7月総選挙の可能性が残っている」と述べたが、大急ぎで共闘相手の国・民と足並みを揃える必要があった。

 改憲の最低基準といった重大な問題(投票率に関わらず、多数決で決まる)は置き去りにし、駅や商業施設などに「共通投票所」を設置することや、期日前投票時間の弾力化、海上投票の対象拡大などが改定の内容。参院憲法審査会においての審議が簡単に進む見通しはないにもかかわらず、自民らの改憲派は、改憲論議の主導権をとることで優位に立てると、コロナ禍を利用して策動している。

◇コロナ禍と改憲は別問題

 自民の反動派は、コロナ禍というような「緊急事態」に備えて、憲法に「権利・自由の制約」を明示した条項を盛り込んでおくべきだと主張し、新型コロナのような「大災害」には、人の移動制限や企業・商店などに対して営業の規制など思い切った措置をとることが必要だがそれは難しい、だから「権利・自由」の制約を謳う「緊急事態」条項を盛り込むよう憲法を改定する必要がある、だから国民投票法改定を行うというのだ。

 だが、コロナ禍と改憲は別の問題だ。コロナが蔓延したのは、政府が国民にマスクをせよとか「三密を避けよ」など、「自粛」「自助」を訴えるばかりで、収束のために真剣にコロナと向かい合い具体的な措置をとってこなかったからである。政府は3度の緊急事態宣言をやったが、PCRの徹底、医療体制の整備、ワクチン接種、職を失った人々への支援など何一つまともに取り組んでこなかった。政府の態度は経済、オリンピック優先であり、少し感染が弱まれば「GoToキャンペーン」を行ったり、規制を弱めたりした。こんなことの繰り返しで政府が緊急事態といっても誰も信用しなくなったし、感染が拡大し大阪などでは「医療崩壊」という事態に陥っているのである。

◇菅政権による改憲策動と強権政治への地ならし

 自民党の改憲案では、「緊急事態」時には、(1)行政権限を一時的に強化し、緊急政令で法律同様のルールを定める(2)選挙を行わずに議員の任期を延長できる、また、戦争などの時には、医師、看護師、建築、土木、運送業者を戦場に派遣したり、土地や物資の収用等が出来るように憲法に定めるとしている。

 先の菅・バイデン首脳会談では、日米同盟の更なる強化が謳われ、中国に対峙するために軍備増強を確認し合った。バイデンは、中国に対抗して、インド太平洋地域への軍隊増強を行いつつあるが、今後、日本に対してミサイル配備基地の提供、軍事基地の拡張などの要求を強めるだろう。日本もまた帝国主義国家として自衛隊を増強し、さらに増強しようとしている。

 政府自民党の「緊急事態」条項などを盛り込もうとする改憲策動は、腐朽する帝国主義国家としての日本の反動化を象徴している。

 労働者は、共産党や平和主義的市民派のように労働の搾取や私有財産を人権としていたり、法の前の平等の原則に反する天皇制を認めている現在の憲法を〝不磨の大典〟として絶対視するものではない。また、改憲反対を叫んでいれば平和が守れるといったことではない。労働者は強権政治を目指す菅政権の一切の策動に断固反対し、その粉砕のために闘っていくだろう。   (岩)

   

【1面サブ】

名古屋市長選 憲法に対する盲信

横井を担ぎ河村落選を目論んだ無節操な共産党

 名古屋市長選は全政党が相乗りで、「本籍地自民党、現在地ほぼ自民党の横井」を擁立するも河村に敗北!しかし市長選で横井に片思いし、報われぬ努力に散った共産党の政治から労働者は何を学ばなければならないであろうか。

 共産党は河村を落選させるために横井を支援候補者として決定し、共産党支持者に横井への投票を呼びかけた。結果はこれまでの市長選がダブルスコアに近い票差がついた事と比較すると「僅差」(大村知事)で横井は敗北し、河村が勝利した。

 市長選の結果は、河村39万8656票(51・68%)横井35万0711票(45・47%)。河村の得票はこれまでと比較して過去最低であり、リコール問題や無責任なコロナ対策に対する反発が最低の得票率になったことは明らかである。

 ポピュリスト=河村が「市民連合」対「全政党」の対決に市長選の構図を単純化し、リコールの不正に対しては、自分も被害者、「全く知らなんだ」とリコール運動の相棒=高須に「頼まれて」お付き合いしただけと無責任な言い訳に終始し(高須は河村にはめられた、「高須マネー」にたかられないように「絶交」)、二人三脚で大村リコール運動の首謀者が逃げを打った。

 共産党は、河村落選を唯一の目的とし横井への支援を呼びかけ、「『リコール不正で壊された民主主義を取り戻す』、『コロナ対策優先の市政を取り戻す』と訴える、よこい候補に共感が広がっています」(共産党愛知県委員会)と宣伝し、リコール運動と不正署名に対して、「表現の自由」に対する攻撃だ、「民主主義を破壊する行為」だと訴え、憲法で保証されている「民主主義的権利」を横井が守ると主張するから応援すると説明してきた。

 しかし憲法擁護であれば、自衛官入隊時の服務宣誓にも「憲法の遵守」が謳われている。共産党が暴露すべきは、リコール運動に貫かれている政治的立場であり思想でなければならなかった。

 我々はリコール派の立場が愛国主義・国粋主義的立場に貫かれたファシズム運動にほかならないと暴露した。ところが共産党は横井や大村の政治的立場と大差がない民主主義的立場に留まっているがゆえに、独自候補擁立が反河村票の分散・利敵行為につながると愚かに判断し、横井との闘いを放棄した。

 労働者党は名古屋市長選に参加しなかった。参加する組織的力量もカネも全てが不足していたからであるが、市長選に参加することで労働者の闘いを鼓舞し発展させることができたであろう。

 労働者党の候補者は、河村のリコール運動は「愛国主義・国粋主義的立場に貫かれたファシズム運動にほかならない」と暴露し、コロナ禍に対する取り組みも科学的な知見と透明性に基づく政策を対置し、労働者党綱領に掲げる「☆長時間労働、殺人労働、非人間的労働に象徴される搾取労働と、大量の非正規労働者の存在に代表される差別労働の即時、無条件の廃止と一掃・・・☆女性差別をはじめとする一切の差別の即時廃止。☆憲法のブルジョア民主主義の歴史的な意義と限界の確認。自由主義派や共産党などのプチブル派による現行憲法の至上視や絶対視、観念インテリや、市民派、共産党らの“立憲主義”的妄想――憲法は「権力を縛るために存在する」云々――の克服」という「基本的な立場」への支持を呼びかけ、「名古屋市長を愛国主義・国粋主義の旗手から国際主義・労働の解放の旗手に置き換えよう」と呼びかけただろう。 (愛知 古川)


       

【飛耳長目】

★75歳以上の高齢者へのワクチン接種が始まった。私事だが、連休明けに義父の接種に付き添った。会場は体育館で、時間は午後1時~3時までのたったの2時間、医師たちの通常診察の休憩時間に接種しようという訳だ。これでは何人も接種できない★7日、菅総理は「高齢者接種の7月末完了」と「一日100万回の接種」を打ち出した。これは、全国的感染拡大への菅の焦りと、安倍時代から続く〝真実めかして人を騙す〟大言壮語の政治に他ならない★医療従事者への接種を先に完了すると言いながら、240万人のうち二度の接種完了率が15%、高齢者接種は4月からと言いながら、1ヶ月もずれ込み、その摂取率は3600万人のうちの0・07%、いずれも場当たり的なワクチン供給と接種計画に基づいている★86%の自治体が「7月末完了できる」と回答しているが、それは厚労省にせっつかれてのことであり、「会場や医療従事者の確保ができたとして」の条件付きである。「一日100万回」に至ってはインフルワクチンが最高60万回で、どこの病院でもいつでも打てての話で、配送や温度管理が特殊なコロナワクチンではせいぜいその十分の一がやっとであろう★菅総理は正直に「嘘は五輪と選挙と首相の座のためだ」と言うべきだ。  (是)

   

【2面トップ】

マルクスは「脱成長」論者だったか
   斎藤幸平によるマルクス主義の歪曲(上)

 新型コロナの蔓延、異常な気象変動などの中で、経済発展はほどほどにという「脱成長」論が流行りである。斎藤幸平によればマルクスは「脱成長」論者だった、「経済成長至上主義」で環境破壊している資本主義を克服しなくては人類の危機は救えない、マルクスも晩年にはこのことに気づいていたとマルクスを持ち出して「脱成長」を訴えている。だが、斎藤の主張は真実か。

◇マルクスの思想についての2つの「誤解」

 斎藤は、近代化による経済成長は地球環境を破壊し「人類は存続の危機」に直面している、「脱成長」を実現しなくては人類は滅亡すると叫んでいる。

 斎藤によれば、これまでマルクスは間違って理解されたきた、その一つは「『資本主義がもたらす近代化が、最終的には人類の解放をもたらす』と楽観的に考えていた」(=「生産力主義」)とするもので、2つ目は「生産力の高い西欧が、歴史のより高い段階にいる、それゆえ、ほかのあらゆる地域も西欧と同じように資本主義のもとでの近代化をすすめなくてならない」と考えていた(=「ヨーロッパ中心主義」)と見做すことであるという(「人新世の『資本論』」152~3頁)。そしてこの2つの「誤解」は、マルクスは若き時代の思想を晩年には改めたということを見逃しているためだ、というのである。

◇生産力発展の歴史的意義

 若きマルクスの「生産力至上主義」を表すものとして斎藤があげているのは「共産党宣言」(1848年)の次の文章である。

 「ブルジョアジーはその100年足らずの階級支配の間に、過去のすべての世代を合わせたようもはるかに大規模で巨大な生産力を作り出した。自然諸力の征服、機械の発明、工業と農業への化学の応用、蒸気船、鉄道、電信、いくつもの大陸の開墾、巨大運河の建設、地から湧き出たような膨大な住民群─これほど生産力が社会的労働の胎内に眠っていようとは、これまでのどの世紀が予想しただろうか」

 若きマルクスは、資本による生産力の発展が人類存在の基盤である自然環境の破壊をもたらし、人類の存続の危機に追い込むということを問題にしないで、生産力の発展の延長に人類の解放を考えていた。しかし、晩年になって資本による土地の疲弊化(「自然の収奪」)を論じたリービッヒの著作を読むなどして考えを変えたという。それは、マルクスの遺稿をもとにエンゲルスによって編纂された「資本論」第3巻、遺稿集などに示されているという。

 資本が利潤獲得のために自然を破壊していることは事実だとしても、斎藤のように生産力の発展の歴史的意義を否定することにはならない。

 例えば蒸気機関の発明は、水を熱すれば大きな力を持つ水蒸気を得られるという水の性質を認識した結果であるが、資本は、自然の諸法則を認識し、生産力を飛躍的に発展させ、生産の多様性をもたらした、また商品流通の発展は、民族の狭い枠を乗り越えて進んだ。マルクスは述べている。「これに比べると以前のすべての段階は、人類の局地的発展と自然崇拝として現れるにすぎない。自然は、初めて人間にとっての純粋な対象、純粋な有用物となった」「資本は、資本のうちに資本の傾向に従って、民族的な制限と変更を乗り越えてすすみ、また自然神化を乗り越え、さらに一定の限界のうちでの自給的な枠に閉じこもりがちの自給的な枠に閉じこめられた、ありきたりの仕方での現存の欲望の充足と旧時代の生活様式の再生産とを乗り越えて進む」。

 マルクスはこれを「資本の文明化作用」(高木編「経済学批判要綱」Ⅱ338頁)とよび、その歴史的意義を評価している。斎藤が問題にしている「共産党宣言」の言葉はこのことを示している。

 マルクスが晩年、資本が農地を疲弊させることを批判したリービッヒの著作を読み、自然破壊を論じたのは、利潤獲得を目的とする資本主義的生産の限界と矛盾を暴露し、資本の支配の克服の必然性、必要性を訴えるためであって、マルクスが考えを変えたというのは全くのでたらめである。

◇未来社会の基礎としての生産力発展

 そもそも、豊かな生産力の発展なしに労働者の目指す社会主義・共産主義はありえない。

 マルクスは、将来の社会について次のように述べている。長いが引用する。

 「……社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も…その生産性にかかっており、それが行われるための生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。

 じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は欲望を充たすために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。というのは欲望は拡大されるからである。しかし、また同時に、この欲望の発達につれて、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はただこの領域の中ではただ次のことがあり得るだけである。すなわち社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでの物質代謝を行うことである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本的条件である」(全集版、3巻1050~1頁)。

 人間は生きていくためには生活手段を生産しなくてはならないが、それは搾取のない社会主義・共産主義になっても同じである。マルクスはこれを「必然性の国」と呼んだ。これに対して「自由の国」とは、人間の行為がそれ自体として目的として行われるような状態を意味している。これは生命を維持するための労働以上の豊かな意義を持った人間の本質的な営みであり、「必然の国」を基礎として可能だという。それには高度の生産力の発展がなくてはならない。

 マルクスのこの考えは終始一貫していたし、このことをもってマルクスを「生産力至上主義」と呼ぶのは反動的である。「生産力主義」とは資本の体制の克服など問題にせず、生産力が発展すれば豊かになるというブルジョア思想のことであって、マルクスとは全く関係のないことである。  (T)


【2面サブ】

「脱成長」論にひそむ反労働者性
矛盾が露出するのは必然

 『海つばめ』1402号1面の「過熱する脱炭素競争――排出処理は『社会的再生産』の一環」について、北海道の読者から質問が寄せられた。それは、最後の段落にある「この矛盾した斎藤氏らの主張を実現するには、国家による強制か、市民によるファシズム的運動が必要となるが、そういうことか」と書かれているが、「市民によるファシズム的運動が必要となる」の「意味と論理展開」について説明して欲しいというものであった。この読者には既に返信済みであるが、紙面に掲載する意義が少なからずあると考え、少し手を加えて掲載することにした。

◇資本主義に対する無知

 本題に入る前に、斎藤幸平の資本主義的生産に対する理解を紹介する。

 斎藤は、資本主義は物を「希少化」することによって利潤を獲得する「システム」と考えている。資本主義の初期に、水を使った機械が発展せず、また水の落下や水流圧を利用した水力発電を考えなかったのは、資本が水を独占できなかったからだと言う。つまり、水を独占することが出来れば、「希少化」して価格を吊上げ高利潤を生み出す(斎藤の「価値増殖」の根底)ことは可能だが、世界のどこにもある水では独占できないと。

 産業革命の前までは、人々は田畑に水を引き麦や稲を育て、収穫後には水車(風力も)を使って脱穀していたように、水資源は常に共同体的存在であり、誰かが独占できる性質を有していなかった。しかし、産業革命以降の資本主義は、水力を動力に使わずに、石炭火力で水を沸騰させ羽車を回す原動機を発明した。なぜなら、資本は石炭を独占することができ、独占による石炭の「希少化」を作りだすことによって価格を引き上げ、高利潤を獲得できたからだと言う。発電において、水力式ではなく石炭火力式が中心になったのも同じ理由だとか。

 現代の焦眉の課題であるCO2を削減するためには、火力発電を太陽光発電に替える必要がある、なぜ太陽光発電かと言えば、太陽光なら誰でもどこでも利用でき、これなら「地産地消」をめざす市民による「市民営化」(国営ではなく)が可能になる、つまり資本の独占を阻止することが可能であるからだと述べている。そうすれば、CO2を排出しなくて済み、かつ不当な高価格を阻止でき、安くて豊富な電力を供給できるのだと。

 国営がダメだと言うのは、「ソ連社会主義」による国有化策が国家独占を生み、かつスターリン主義を生み出したからだと言う。斎藤の公的、社会化と言う意味は、大規模な生産ではない「地産地消」的な生産を行うための「市民」所有のことである。具体的には市民による「協同組合」所有を指す。

 だから、労働者がめざす搾取の廃絶と生産手段・教育・福祉等の社会化を基礎にした共同体社会とは根本的に相容れないと、斎藤は対立させて考えている。要するに、反独占=反希少化=地産地消=潤沢が、斎藤の抱く反資本主義の観念であり、この観念は斎藤のコミュニズムの根底に位置づけられているのである。

◇「大規模な国家改造」と生産・生活の「レベルダウン」

 このような基本観念の上に立って、斎藤はCO2削減に向けた「大規模な国家改造」を国家に要求する。つまり、太陽光発電やEV自動車などにどんどん切り替え、同時に国家による「大胆な財政出動」(増税か国債発行によるかは問わない)も要求する。続いて、斎藤はCO2削減のためには「脱成長(=スローダウン)」が必須であり、具体的には「70年代後半」(その理由は不明)のレベルにまで生産や生活を引き戻すべきだと主張している。

 要するに、斎藤はCO2削減のための「大規模な国家改造」とこれを担保する「大胆な財政出動」を説き、他方で生産と生活レベルのダウンや欲望の抑制を主張している。しかし、社会保障についてはダウンさせないと言う。

 誰が見ても矛盾したことを言っているのは明らかだ。生産と生活のレベルダウンをしながら「大胆な財政出動」を進めるなら、国家の「大胆な」国債発行に依存するしかない。それは将来に増税やインフレとして先送りするだけであり、後年の労働者に大きな犠牲を転嫁することを意味する。

 他方、生産と生活のレベルダウンが必須であるとするなら、生産縮小による過剰資本・過剰生産の顕在化や物価上昇や労働者の失業増大もまた必然であろう。

 こうした矛盾の発現を封じて斎藤の政策を断固として実現させるためには、国家による強制か、斎藤が信頼し依拠する「市民」運動体による相当な介入が必要となってくる。生活ダウンや生活苦に反対する労働者の闘いが燃え広がるなら、この「市民」運動体による介入は、労働者を抑圧するファシズム的な運動に転化する危険性を孕むのだ。

 斎藤の気候温暖化に対する危機意識は多くの人の意識でもあり、一定の支持者はいるだろう。しかし、斎藤の〝価値論〟は最初に紹介したように「モノの希少性」を価値(また価格)の基準に据える高橋洋一(アベノミクスを支えた御用学者)等と同じである。言わば、「労働価値説」に反対するブルジョア学徒の一人であり、新装した修正資本主義論者として登場しているのだ。 (W)

   

    【校正とお知らせ】

1402号2面 5段2パラ7行目

 100ドル→100万ドル
 ※なお、こちらの電子版では既に校正したものを掲載しています。

『海つばめ』次号は6月13日発行

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