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ブルジョア社会の美化 教科書『現代社会』批判/小幡芳久 マルクス主義同志会理論誌『プロメテウス』第49号所収 |
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1、ブルジョア民主政治の美化 @民主政治の「原理」の絶対化 まず教科書は、「日本国憲法の骨組みとなっている(民主政治の)政治原理」について次のようにいう。この「原理」は「もともとヨーロッパにおいて形づくられた。近代以前のヨーロッパ社会は身分制社会であり、……支配するものと支配されるものとははっきり分かれ、不平等があたりまえの社会」であった。しかし、この「古い政治」は市民革命によって「新しい政治」=「民主政治」へと変わった。「民主政治は自由で平等な人間が互いに尊重しあうところに出発点があり、暴力で問題を処理しようとするような政治とはまったく異なった政治をめざすものである」と。教科書は、「民主政治」が歴史的に生み出されてきたものであることを一応は指摘する。だが、それはブルジョアジーにとって決して古くなることはなく、市民革命から200年以上経過した今もなお「新しい政治」の原理として、「身分制」的で「暴力」的な「古い政治」とは「まったく異なった」「新しい政治」を「めざす」ものであると位置づけられる。 ここにはブルジョア社会に対する巧みな美化がある。すなわち、ブルジョア社会は封建社会とは「まったく異なった」社会だという事によって、階級対立も暴力もない「自由で平等な」社会であると暗示する。だが、現実の社会がそうだと断言するわけではない。そういう社会を「めざす」というのだ。ブルジョア社会は確かに商品経済の発展を基にして「自由で平等な」人間(契約)関係を法的には実現した。だが、現実には(経済的には)「支配するものと支配されるもの」との対立が残った、あるいはブルジョアジーとプロレタリアートとの対立として新たな階級対立が形成された。つまり、階級社会であるという点では「身分制社会」と「まったく異なった」社会というわけではない。ブルジョア民主政治は、対立が存在する社会を、支配や搾取を、つまり“不自由で不平等な”人間関係が存在する社会を前提にしている。教科書が「自由で平等な人間」の関係を「めざす」と書き、そういう社会を当為(sollen)として要求しなくてはならないのはそのためであり、理由がある。だが、この「めざす」という表現は、人々の目を目標としての未来に向け、そうすることによって現実の階級対立が無いかの錯覚を与える働きをしている。また、教科書は「民主政治」を「暴力」と対置し、ブルジョア政治が「暴力」一般を否定するかに語っている。だが、実際に否定される暴力はブルジョア秩序を乱す暴力だけであり、それを守るための自らの階級暴力は決して否定しないのである。軍や警察といった暴力機関はそのためのものであるが、教科書はこの真実を隠している。 さて、「近代の政治」には「三つの基本原理」、すなわち「基本的人権の保障」「人民主権」「権力分立」があると教科書はいう。 まず、「基本的人権」とは「人間が生まれながれにしてもっている権利」であり、この「権利を守り、実現するのが政治の最も重要な課題」であるという。これは「フランス人権宣言」が「あらゆる政治的結合(国家)の目的」として謳ったものだが、そこでは、「人権とは、自由・所有権・安全および圧制への抵抗である」といわれている。もちろん当時の(旧制度下の)ブルジョアジーがこれらの「人権」を文字通り「生まれながらにしてもって」いたわけではない。逆に、彼らは聖職者や貴族に支配される「第三身分」として、それを「もって」いなかった、あるいは「もって」いたとしても絶えず脅かされていた。だからこそブルジョアジーは「自由・所有・安全」といった「権利」を、「もつ」べき要求概念として宣言したのである。革命後、支配階級となったブルジョアジーは確かに「生まれながらにして」一定の「所有権」を持つようになった。だが、被支配階級となったプロレタリアートは持っていない。だから「守る」べき「権利」は、ブルジョアにとっては現実的なものとしてあるが、プロレタリアにとってはない、ただ抽象的な、これから「実現する」べき概念としてあるにすぎない。ところで、「所有」するブルジョアジーの「権利」の「保障」(「所有権」の「自由」な行使)は、所有しない労働者の「権利」の侵害(搾取)を「保障」する。「基本的人権の保障」は、ブルジョアジーによるプロレタリアートに対する「権利」の侵害を再生産する。だからこの「原理」は「権利」を侵害する社会を前提にしているのだ。「人権」が全ての人間に本当に「保障」されている社会なら、「人権の保障」といった要求概念は必要が無いはずである。だから、「基本的人権の保障」を「政治原理」にしなければならないブルジョア社会は「人権侵害」が避けられない社会であることを示しているのである。 なお教科書は、「法の支配」が「基本的人権の保障にとって大切な原理である」と付け加えている。確かにブルジョア社会は「法の支配」を不可欠の契機にしている。これは「人」による恣意的な支配の排除を意味するが、だからといって「法」が全人民の「権利」を平等に保障するわけではない。ブルジョア社会の「法」が、国家権力による強制(暴力)を不可欠の契機にし、それによって何よりも「所有権」(私有財産権)を「保障」していることからもわかるように、「法の支配」もやはり階級分裂の社会を前提にしている概念である。「法」とは、支配階級の総意を“普遍”的なもの、または“正義”として正当化したものに他ならない。 次に「人民主権」について教科書は言う、「民主政治は人民が自らを統治するしくみである」と。「人民」は本来、王や君主といった統治者に対する被支配者の概念である。王政を倒した市民革命後は、ブルジョアジーによれば「支配するものと支配されるもの」との対立はなくなった社会のはずだ。すると「人民主権」という概念は、被支配者が「自らを統治する」とか平等な人間社会における「統治(支配)のしくみ」ということになる。これは形容矛盾であろう。この概念が意味を持つためには、王や君主の権力やその“影”が現実に存在するか、「人民」の中に「統治」(支配)関係がなければならない。実際にブルジョア社会には前近代的なもの(国王や天皇)が温存されているし階級支配もある。だからこそこの概念が意味を持って謳われているのである。この「原理」はブルジョアジーにとって好都合なものである。なぜなら、自らを前近代的な統治者に対する被支配者つまり「人民」であると位置づけることによって、労働者に対する支配者であることを隠蔽することが出来るからだ。「人民主権」は「国民主権」とも言われるが、教科書は「国民」について次のようにいう。「一口に国民といっても、それぞれの身体の能力や健康の状態などは異なっている」と。そして「子ども」「お年より」「病人」「身体に障害のある人」などを挙げている。「人民」や「国民」について具体的に語るときも、ブルジョア教科書は「身体の能力や健康の状態」について語るだけで、決して階級対立については語らない。 第三に「権力分立」の原理である。「人間は権力を握るとそれを乱用しがちであるところから、権力のにない手を立法、行政、司法などの役割や、中央と地方といった領域にしたがって分け、おのおのが暴走しないようにたがいに監視しあい、抑制し均衡するよう政府の組織を組み立てるようになった」。教科書は、権力の「乱用」や「暴走」を「人間」の本性から来るかに書き、その防止策として「権力分立」があるという。だが、そうではない。ブルジョア社会が利害対立と不信の体系であること、それゆえに権力の乱用や暴走が不可避であること、したがってその防止策が必要になることを「権力分立」の原理は示しているのだ。実際の政治権力は(「三権」とも)ブルジョアジーが独占しているのだが、この原理は独占の事実を隠蔽し、ブルジョア政治があたかも「分立」した権力の調和と均衡の上に成り立っているかの印象を与えるのに役立っている。 A日本国憲法の美化 教科書は、「日本国憲法」が如何に民主的なものであるかを強調し、そのことを子どもたちに教え込もうとしている。 まず、明治憲法との“違い”を強調することが現憲法を美化するための常套手段になっている。「日本国憲法は明治憲法と異なり、民主政治の原理に忠実な内容を持っている」というわけだ。 “違い”の第一は、天皇と国民の位置づけである。現憲法では天皇はその「大権」が否定され「日本国民の総意に基づく」「象徴」となった、「主権」は天皇にではなく「国民」にある云々と。天皇制自体が古代の遺物であり、それ自身が「法の下の平等」を規定した現憲法14条に反したものである。こんな非民主的なものを第一章で掲げていること自体、現憲法が「、民主政治の原理に忠実」ではないこと、民主主義の原理に矛盾した内容をもっていることを物語っている。しかし教科書(ブルジョアジー)はそんなことには全く頓着していない。天皇制は、支配者を権威づけ、支配を正当化し、階級対立を隠蔽し、国民を一つにまとめて支配するのに好都合な制度だからである。明治憲法下の天皇も今の「象徴天皇」もブルジョア支配の“道具”であった(ある)点ではどんな違いもない。教科書は、「主権」が「天皇」から「国民」に移ったという形式の転換を、さも大転換であるかに語って、現憲法の「民主性」を示そうとする。だが、「主権」の内容について言えば、明治憲法下においても実質的には「天皇」にあったというより、諸々の官僚や政治家、あるいは軍人など、要するにブルジョア階級の代弁者たちの手中にあったのであり、その限り現憲法下におけるそれと大差ないのである。 “違い”の第二は、「国民の権利」(「基本的人権」)の位置づけである。明治憲法下では、それは「法律の範囲内」で認められた「臣民の権利」でしかなかったが、現憲法においては「永久不可侵の権利」である、と。これも大層な“違い”であるかに語られるのだが、実際には現憲法においても「国民の権利」の制限規定はちゃんとある。曰く、「国民はこれ(権利)を濫用してはならない」(12条)とか「国民の権利については、公共の福祉に反しない限り……」(13条)と。平成14年度検定版教科書は「公共の福祉」を、「基本的人権」と「ほかの人々の権利や利益」とを「調整する原理」であると説明している。だが、同時に筆を滑らせて、「公共の福祉という言葉は、しばしば権利を制限するために乱用されたこともあり、その運用についてはじゅうぶんな注意を払う必要がある」などとも語り、権利の制限規定としてのこの概念の本質を暴露している。ブルジョア的な秩序を越えた「権利」の制限規定を盛り込んでいるという点では、(また「所有権」をはじめとした「自由権」など、一定のブルジョア的な「権利」を人々に認めているという点でも)、明治憲法と現憲法との間に教科書が言うほどの本質的な“違い”はないのである。 第三の、“違い”、というより「日本国憲法」の“特徴”または「原則」の一つとして美化されてきたのが「平和主義」である。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」、戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認を定めた、と。現実には「諸国民の公正と信義」を「信頼」できず、戦力(自衛隊)を保持してきたのに、教科書は、憲法違反のこの現実を真正面から取り上げて問題にすることは出来るだけ避け、抽象的な平和主義的理念を子どもたちに教え込む。こうして階級対立と国家対立の現実を隠蔽しているのである。 次に、現憲法が「基本的人権」を如何に広い範囲にわたって「保障」しているかを説いている。まずは「法のもとの平等」を保障し、「人種や信条、性別、社会的身分などによる差別を否定する」という。これは本来、封建的特権を否定する規定だが、今では特に経済的不平等から生じる差別の存在を前提にしており、だからこそ「すべての人間は平等に尊重されなければならない」という当為規定として意味を持ち続けるのである。“平等であるべき”というこの当為規定は、ブルジョア社会のままでも経済的不平等の現実を止揚し得るかの幻想を抱かせる役割を果たしている。 「自由権」についても同じことが言える。特に「経済活動の自由」について教科書が語るところを見てみよう。「人間の自由を現実のものにするためには、生きていくのに必要なものを獲得する権利がなければならない。ここに財産権の保障が必要になる。さらに財産を獲得するために職業選択の自由と営業の自由が認められることになる」と。「自由」や「生きていく」ことのために、なぜ、「財産権」(私有財産)でなければならないのか? 私有財産のない共同体社会における「自由」や労働はブルジョアジーには考えられない。ブルジョア社会では労働は「職業」として固定され、その「選択の自由」は実際には極めて制限されたものである。また「営業の自由」は“労働者を搾取する自由”として機能している。こういうことについての反省は、もちろん教科書には全くない。 「平等権」や「自由権」は本来、封建的な差別や拘束に対するブルジョアジーの要求(アンチテーゼ)として出てきたものである。だが、「社会権」はブルジョア社会自体に根拠を持っている。「経済活動の自由」が労働者を搾取し失業者を生み出し、「平等」な人々の能力主義的競争が障害者を排除し、かくして「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことが出来ない社会的弱者を大量に生み出した。このことを放置して当初のように“ムチ”だけを頼りにブルジョア支配を維持しようとすれば階級闘争が発展してブルジョア社会自体の存続が危うくなる。だからこそブルジョアジーは「労働基本権」や「生存権」を“アメ”として認めたのである。彼らは今これを、社会的弱者を保護・救済するための「福祉」の概念と結び付けて美化している。だが、一方で「経済活動」から排除して「生存権」を脅かし、他方で「保護」を謳う「福祉」は、ブルジョア社会の欺瞞を表わして余りある。「労働基本権」や「生存権」はブルジョア社会が労働者を搾取し、社会的弱者を生み出す社会であることの反証である。 なお、「人間らしい生活を実現」するために「教育を受ける権利」があるかに教科書は書いている。だが、「教育権」はそのような抽象的な目的のためにあるのではなく、ブルジョア社会に適応した人材の養成がブルジョア支配にとっても労働者の搾取にとっても必要だからあるのだ。だからこそ、この「権利」は「子どもに教育を受けさせる義務」とセットになっている。「勤労の権利」が「義務」とセットになって謳われているのも同様である。――とはいえ、この「義務」を果たさないブルジョアどもがいる反面、労働者にとって「勤労」は「権利」とか「義務」などといわれる前に、生きていくために強制されている。あるいは「権利」を得られずに生きていけない者も大勢いる。「納税の義務」は、官僚機構や軍を維持したり「社会保障」といった形で国民を懐柔したりするために、つまりブルジョア支配を維持するために必要な「国民の義務」なのだが、教科書にはもちろんそんな“露骨な”ことは書いてない。別の教科書(教育出版)によれば、「税金は、……わたしたちの生活を支える『共同の営み』のための資金」である。 B議会制民主主義と国会・内閣・裁判所 憲法前文は謳う、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、……。 第一に、「国会における代表者」は本当に「正当に選挙された」者といえるのか? 確かに「平等」な選挙権・被選挙権を前提にしているという点で日本の選挙は形式的には「正当」性をもっている。だが、実際の内容は極めて制限的であり、決して「正当」ではない。代表に立候補するだけでも一定の経済力(膨大な「供託金」や運動資金など)が必要であり、労働者は最初から経済的に排除されている。また、選挙権をもつ国民の大多数は教育や文化、マスコミなどを通じてブルジョア的に洗脳されている。だからブルジョア社会では普通、その「代表者」はブルジョア的・小ブルジョア的な「国民」の中から、ブルジョア的な考えをもった「国民」によって「選挙」されるようになっているのだ。ブルジョア社会で「多数決原理」が採用されるのも、「国民」の多数がブルジョア的な考えを持っているからであり、その限りにおいてである。 教科書は「国会」を解説して言う、「日本の間接民主制の中心をなすのが、国会であり、憲法は国会を『国権の最高機関であって唯一の立法機関である』としている。こうした国会の地位の高さは、国会が主権者である国民と一体的で、直接的関係を持っているからである」と。日本の国会は、かつて自由民権運動の成果として生まれたとはいえ、実際には民衆運動の革命的な爆発を防ぐ避雷針=“おしゃべりの機関”としての、そしてまた、成長してきたブルジョア階級の利益確保の機関としての役割を果たしてきた。戦後も基本的には同じであり、ブルジョアジーに買収された「代表者」(金権政治家)たちによるブルジョアジーのための「立法機関」であった。この意味で「国会」はブルジョアジーと「一体」的であったが、労働者階級にとっては「一体」感を装う欺瞞的な機関に他ならなかった。 「国会は衆議院、参議院の二院からなっている。……二院制は慎重な審議を行うために必要である……」と教科書は説明する。現在の「参議院」が選挙の洗礼をうけた「代表者」によって構成されていて戦前の「貴族院」と違うとはいえ、フランス革命時の政治家アベ=シェイエスの次の指摘は今も通用する。「貴族院が代議院に反対すれば有害であり、一致すれば無用である」と。事実、“55年体制”の下で「参議院」は長い間「衆議院のカーボンコピー」と言われてきた。二院制は「慎重」を装いつつ、基本的には労働者的なもの、革命的なものを“チェック”し、ブルジョアジーの意思を貫くための制度としてその存在意義を持ってきたのである。 日本は「議院内閣制」である。つまり「行政を担当する内閣」は「国会に対して連帯して責任を負い」、「国権の最高機関」である「国会」によって「民主的統制」を受ける。この制度は、かつてイギリスで国王の専制を制限するために生まれたのだが、今では「行政」の“独走をチェック”する制度だとされる。この麗しい民主的な形式は、王権の専制を前提にして生まれたと同様に、今ではブルジョアジーの“専制”を前提にしている。もしも「行政」にどんな専制もないのなら、どうしてそれを「統制」する必要があろうか。「行政」(官僚)によるあからさまなブルジョア支配(専制)を「統制」し、実質的なブルジョア支配を正当化・貫徹させるためにこの形式が必要なのである。実際、日本の「内閣」制度(行政機関)は、1890年の「国会」開設に対抗して、それに5年先立って創られた、そして“専制政治”を行ってきた。戦後も「民主的統制」の形式の下であれ、予算案や法律案の提案者として、また行政執行機関として、さらに諸々の情報や許認可権の独占者として、大きな権限を振るってきた。実質的には「内閣」こそ「国権の最高機関」として(「行政国家」として)機能してきたのである。 さて、「裁判所」は「国民の権利を保障し、『法の支配』を実現する役割」を持ったものと説明される。また「権利の保障が慎重になされる」ために「三審制」があり、「公正な裁判」のために「司法権の独立」が規定されている、さらに国民には「国民審査」の機会があり、二重三重に今の裁判制度は民主的にできているという説明が加わる。だが、裁判の基準になる「法」と「公正」とが私有財産制を基礎としたブルジョア社会の秩序維持にあるのだから、ここで実質的に「保障」される「国民の権利」とはブルジョアジーの権利のことである。また、多くの判例は、上級審にいくほど国家秩序の維持が「国民の権利」より優先されてきたことを示しているが、これは「三審制」の本当の意義がどこにあるかを物語っている。さらに、「国民審査」によって罷免された裁判官が一人もいないという事実は、この制度が「国民」を欺瞞するためにのみあることを物語っている。 C「市民の役割」を説教 「政治」には、「秩序の維持」「正義の実現」「外からの侵略を防ぐ」、さらに「公共の利益の実現」といった役割があり、「市民」はこうした政治によって「便益を享受している」のだから、「一定の責任」を果たさなくてはならないと教科書はいう。その「責任」「役割」とは、「納税の義務」などの他に、「政治腐敗や権力の独占」などが起こらないよう常に政治を監視し、「公共の精神」をもって「選挙」参加し、「社会や政治の問題に……発言していく」ことである、等々。要するに教科書は、ブルジョア政治への参加を「市民の役割」として生徒たちに説教するのである。 |
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