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ブルジョア社会の美化 教科書『現代社会』批判/小幡芳久 マルクス主義同志会理論誌『プロメテウス』第49号所収 |
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5、科学技術への不信 「近代のあり方を支えているもの」には「人間の尊厳」と「民主主義」という「考え方」のほかに「近代科学」があると教科書はいう。そしてまず「科学と哲学の相違」を問題にする。「科学は事実を問題にするのであって、価値の問題は原則として扱わない……。後者を扱うのは哲学である」とか、「科学は事実のいかにあるかを法則の形で明らかにするのであって、事実のなぜあるか、つまりその根拠は問題にしない……。後者を問題にするのは哲学である」などと。これは「事実」と「価値」とを二元論的に区別する新カント派的なバカ話である。「事実」の「根拠」を問わないような「科学」は「科学」の名に値しないし、「事実」(客観)に基づかない「価値」は主観的・観念的なものでしかない。だから、この区別は「科学」の矮小化であり「価値」の客観性を否定するものに他ならない。科学が「事実のなぜ(根拠)は問題にしない」などというのは全くのナンセンスだ。例えば激しい雷雨という「事実」の「なぜ」を問題にし、“寒冷前線の通過”といった「根拠」を示すではないか。吐血という「事実のなぜ」を問題にして“結核菌の感染”という「根拠」を示すではないか。教科書が、科学と哲学の二元論的な区別をする理由は、ブルジョアジー自身の観念論的な蒙昧にもよるが、一方で彼らが科学的な思考の徹底を恐れる“本能”をもつからであり、他方で観念論哲学の温存に利益を感じるからである。 「科学技術がわたしたちの生活をどれほど向上させ、豊かにしてきたかということについては、今さらいうまでもない……。(だが)今日……、この科学技術が、その自然に対する支配力を増大させるにつれて、光の側面だけでなく、また影の側面もあらわしはじめた」といって、教科書は「核兵器の脅威」「環境破壊」「生命倫理」の問題などを例に挙げている。これらの「影」の諸問題は、実際には科学技術を国益や資本の利益の下部にするブルジョア社会のあり方と関係しているのだが、教科書にはそんな認識は全くない。「科学技術がもたらすさまざまな問題」などといって、「さまざまな問題」の原因又は責任を「科学技術」自体に求める。そして「近代の科学的な見方の根本には、……自然を人間の支配下におこうとする技術的関心」、あるいは「自然全体を人間の支配、利用の対象、つまり資源とみなす態度」があるといい、「このような近代人の態度を端的にあらわしているのが、……ベーコンの『知は力なり』という考え方である」などという。現代の(プチ)ブルジョアはベーコンにまで批判の矢を向けて、自らの先輩を貶める。「自然」は人間生活の基盤であり、したがって「利用の対象」であり「資源」である。またそれを「知る」ことは人間生活の「力」になる。このこと自体は不可避なことであり、どうしていけないのか? 教科書も先に、「自然に能動的にかかわることによって、より豊かに生きるために、人間にとって価値あるものをつくりだすこと」が「文化」だといって、これを持ち上げていたではないか。ところが今度は、科学技術によって「自然に能動的にかかわること」が「自然を支配」(何という無概念!)することになるというのだ。ブルジョア社会の諸矛盾が「影」となって現れるようになった今日、ブルジョアたち、とりわけプチブル知識人たちは、自らが依拠してきた「近代科学の考え方」に不信感を抱き、浅知恵を働かせて、諸問題の原因を科学技術一般に求めるのである。このように問題を抽象化することで彼らは、利益のために乱開発をしたり化石燃料を大量に浪費したりして実際に「自然を支配」してきた大資本の「傲慢な」振舞いを免罪にしているのだ。 (教科書は別に「生活と環境」という章を設けて環境問題について改めて扱っている。そこには、「企業は利潤の追求を優先させ……」とか「国家の利害を優先させるのではなく……」という記述もあるが、全体としては環境破壊の原因を「人間」一般の活動に求めるトーンで書かれ、「(わたしたち)すべての人」が「加害者でもあるという自覚を持って……対処していかなければならない」などといった道徳論が展開されている。これもやはり問題の抽象化である)。 教科書は環境破壊に対するブルジョア社会の責任をあいまいにしているだけではない。「自然との共生」を説きつつ、「人間が自然の主人であるとする考えを捨て、自然を根底で支えているものの声に謙虚に耳を傾けるべきである」などと言う実存主義者のハイデッガーまで引っ張り出して、問題の神秘化にも努めているのである。科学技術への不信は神秘主義への道に通じている。 |
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