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ブルジョア社会の美化 教科書『現代社会』批判/小幡芳久 マルクス主義同志会理論誌『プロメテウス』第49号所収 |
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7、現代社会とは何か 教科書は、「現代社会の特質」として「情報化」、「国際化」、「少子・高齢化」などの問題を挙げている。加えて「大衆社会」「管理社会」を挙げる教科書もある。それぞれ簡単に見てみよう。 まず、「大衆社会」について。14年検定版の教科書には次のように書かれている。「人々の生活や意識が平均化・画一化したり、人と人の接触が希薄になって人間関係が匿名化したりする現象を大衆化といい、このような特色を持つ『大量』の人々によって構成される社会を大衆社会という」と。そしてさらに、「大衆社会では、特定の階層に属する人々ではなく、広く大衆が政治や社会の中心にいるという意味では積極的な面をもっている。大衆化の特徴である生活の平均化や画一化は、以前の社会に比べてより平等な社会が出現したという意味でもある」と。これは明らかに、「現代社会」つまり資本主義社会の美化であろう。確かに現代は「大衆」が普通選挙権を獲得し、その限りで形式的には「広く大衆が政治や社会の中心にいる」。だが実質的に「政治や社会の中心にいる」のは経済力のあるブルジョアジーである。また、「生活の平均化や画一化」は労働者大衆について見れば言えるのであって、ブルジョア階級の生活と労働者階級の生活とを比較してみれば、その格差は「以前の社会に比べて」より大きなものになっている。「人々の……意識が平均化・画一化」しているとすれば、それは能力主義に徹した国民教育の成果であって、皆がブルジョア的に洗脳されているということに他ならない。 次に「情報化社会」について。「かつての社会が、モノの流通や人々の移動をもとに成り立っていたのに対して、現代社会は情報でつながった社会であり、情報化社会とよばれている」と教科書はいう。確かに現代社会は通信技術の発達と高度化によって「情報」の働きが大きな意味を持つようになった。だが、これをもって「社会・経済の中心がモノの生産・消費から情報の生産・消費へと移行し」、「脱工業化社会」になったなどという(予備校の『現代社会』テキスト)としたら、言い過ぎだろう。「モノの流通や人々の移動」あるいは「モノの生産・消費」といったことはどんな社会にあってもその基礎にあるからだ。 14年検定版教科書は、「今日の情報化社会のなかで大きな影響力をもっている」マスメディアについて語り、「マスメディアの大半は営利企業であるため、商業主義にもとづくセンセーショナルな情報提供がおこなわれたり、文化の低俗化を招いたりする危険がないとはいえない」などと指摘している。また「データやプログラムの改ざんや破壊、コンピュータ侵入者による情報のかく乱」など「インターネット社会」の危険についても触れている。もちろんこうした危険は、「ないとはいえない」どころではなく、現実に満ち満ちている。そこで教科書は「情報化社会の課題」として、「プライバシーの保護」や(「情報の公開」――9年検定版)「知的所有権」の保護など、「情報の発信、利用、受信などの各場面におけるルールや情報倫理を確立すること」の必要性を説いている。だがプライバシーの侵害や情報の独占・「かく乱」などは、情報を私的に所有し私利を追求する社会を、そしてまた階級支配を前提にしているからこそ起こる問題である。にもかかわらずブルジョアどもは、一方で情報の私的所有を「権利」として尊重しながら、他方でそれの「侵害」や「独占」等だけを問題にするのである。さらに教科書は、「わたしたち一人ひとりが……情報の真偽や価値を主体的に判断できることが大切」などといっている。情報が私的に所有され、営利のために使われている今日、そしてそれが「権利」として正当化されている社会の中で、「ルール」や「倫理」、個人の「主体的」な「判断」力などというものが、どんなに限界のある、無力なものか、教科書はわかっているのだろうか? さて、「少子・高齢化」それ自体は決して悪いことではない。「高齢化」は教科書が指摘するように、「平和」や「栄養状態の改善」「医療の進歩」などを背景にしており、人類の夢であった長寿の実現だからである。「少子化」も、百年前には現在の二分の一から三分の一にすぎなかった日本の、また世界の人口からみれば、更に、急増して“定員オーバー”の現在の地球人口からみれば、決して大騒ぎすることではないからだ。(もちろん、「少子化」がブルジョア社会の劣悪な育児環境の反映である点は問題にしなければならない)。だが、資本にとっては大問題である。「少子化」は搾取対象としての、あるいは徴税対象としての労働者の減少を意味するし、「高齢化」は“不生産的”で“お荷物”でしかない人口の増加だからである。だから教科書はいう、「少子化が進むと15〜64歳の生産年齢人口の割合が減少して経済成長率が低下する」とか「高齢化の進行にともない、社会保障や租税負担の増大や社会の活力の低下など……。また、家族の介護にかかわる負担も高まる……」(14年度検定版)とか、と。 「管理社会とは、組織の巨大化に伴って社会全体が官僚制化し能率・効率が追求されることにより、人間の主体性・自立性が失われていく社会のことをいう」(予備校の『現代社会』テキスト)。「官僚制」は、「組織の巨大化」や「管理」の必要自体によって生み出されたものではない。絶対王政の時代に封建勢力に対抗するための組織として生まれ、ブルジョアジーによって受け継がれ労働者支配のために機能してきたことからもわかるとおり、それはブルジョアジーの支配機構として存在するのである。その中で「人間の主体性・自立性が失われていく」とすれば、それは「能率・効率」が優先されるブルジョア的な管理が行われているからである。 「国際化」について14年度検定版教科書はいう、「一国の社会や人々の生活が国際的な諸関係の中におかれることを国際化とよんでいる」と。そして経済的・人的交流の拡大や相互依存の進展とともに「摩擦」や「誤解」も生じるなどと指摘し、「異なる文化の理解」が必要だなどと説いている。だが、現実の「国際化」は、漠然と「一国の社会や人々の生活が国際的な諸関係の中におかれる」とか「異文化と出会う」とかといったことではなく、“資本の本性”に基づいて、資本主義的な経済や文化が世界的に浸透するという形でおこなわれている。だからこそ、さまざまな資本主義的な「摩擦」が生じるし、ブルジョア文化の“押し付け”による「あつれき」なども生じるのだ。とはいえ「国際化」の進展は人々を閉鎖的な分離社会から解放することであり、人々を地球規模で結びつけることであり、進歩的なことである。「国家」として総括されている資本(ブルジョアジー)には決してそれを徹底させることができないが、労働者にはそれができる。なぜなら「国際化」は、世界の労働者が資本の下に包摂され支配されることを意味し、その利害は世界的に共通なものとなり、したがって「万国の労働者を団結」させる契機をつくりだすからである。「国際化」の真の意義はここにこそあるのであり、教科書がいうように単に「異文化」との「出会い」とか「共生」といったことにあるのではない。 かくして、教科書が「現代社会の特質」として挙げているものはすべてブルジョア社会の「特質」である。つまり「現代社会」とはブルジョア社会、資本主義社会のことである。しかも、市民革命時の生気を失った、帝国主義的・反動的な資本主義である。これは、教科書がいうような、「多様化」して「複雑な」社会、「見直しが必要な」社会といった無概念的なものではなく、すでに歴史的な限界に来て、社会主義社会に向けて止揚されるべき社会なのである。 |
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