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ブルジョア社会の美化
教科書『現代社会』批判/小幡芳久
 マルクス主義同志会理論誌『プロメテウス』第49号所収

はじめに


ブルジョア民主政治の美化
(1)民主政治の「原理」の絶対化
(2)日本国憲法の美化
(3)議会制民主主義と国会・内閣・裁判所
(4)「市民の役割」を説教


ブルジョア経済(学)の美化
序、「規制緩和が日本を救う」
(1)市場(資本主義)経済のしくみ
(2)三つの「経済主体」
(3)景気変動と財政金融政策、
および戦後日本経済
(4)「小さな政府」か「大きな政府」か
(5)「消費者問題」「労働問題」「社会保障」
(6)国際経済


「主権国家」の絶対化と「国連」の美化


「文化」・宗教・観念論の美化
(1)文化の階級性を否定
(2)観念論哲学の美化
(3)宗教の美化と芸術の宗教化


科学技術への不信


抽象的な「青年期」論


現代社会とは何か

4、「文化」・宗教・観念論の美化 

 教科書は、「文化」・「宗教」・「哲学」などに関しても様々な空論を展開し、反動的なものを美化し、そうすることによって子どもたちをブルジョア的に洗脳する役割を果たしている。

(1)文化の階級性を否定

 「文化」については次のようにいう。「文化とは、……長い歴史をとおしてつくられてきた人間らしい生活のあり方の全体」であり、「集団の共有の財産」である、と。教科書は「文化」をこのように抽象的に定義し、そうすることによって反動的な文化をも美化している。ここでいう「人間らしい生活のあり方」とは、もちろん単に他の動物との違い以上の意味を、すなわち、「人間にとって価値あるものをつくり出す」という意味である。全ての「文化」がこの意味で本当に「人間らしい〜」などといえるのか? 非“人間的”な文化はいくらでもあったのではないか。歴史上の「文化」の多くは支配階級のものとしてあった。例えば封建社会におけるキリスト教文化や身分制的、男尊女卑的文化など、これらの「文化」の恩恵に浴したのは支配階級であって、被支配階級はそうした「文化」の中で抑圧されてきたのである。だから「文化」一般を「人間らしい」ものとか「集団の共有財産」などといって美化することは出来ない。もちろん支配階級によって独占されてきた「文化」(遺跡など)であろうと、現在の我々がそれを「共有財産」にすることに異存はない。だが、その場合でも、我々はそれぞれの「文化」の歴史性・階級性を吟味してそうするのであって、教科書のように「文化」一般を美化してそうするのではない。

 さて、教科書はいう、「人間は生活のあらゆる領域において、豊かな文化を築いてきたのであるが、……環境破壊が深刻になっている今日、あらためて文化とはなにかが問われている。……その(文化の)未確定性が、……地球環境そのものをおびやかしはじめたからである」と。環境破壊の原因を「人間」や「文化」一般の「未確定性」(ニーチェの言葉……小幡)に求め、「あらためて文化とはなにかが問われている」という。一方で「文化」一般を美化して定義したかと思ったら、他方でそれを環境破壊の原因に貶め、自らの定義に疑問をもつ。これは「文化」を抽象的にしか捉えることが出来ないブルジョア的な思考の粗雑さ・空疎さを反映している。

 次に、教科書は「文化の多様性」について語り、その根拠を「風土や歴史」の違いによって、というより主として「風土」の違いによって説明している。「文化の多様性は、世界のそれぞれの民族が、長い歴史をとおしてそれぞれに異なった風土の中で、人間としてよりよい生活を求めて文化をつくり、受け継いできたところに生じたものである」、「それぞれの文化は、それぞれに異なった風土の中で、……性格づけられてきた」云々と。そして和辻哲郎の「文化の類型」(モンスー型=受容的・忍従的、砂漠型=対抗的・忍従的、牧場型=自発的・合理的)を模範として押し出す。だが、「忍従的」「戦闘的」「合理的」などの性格は、どの地域にもありえたし歴史的な状況によっても違っていたのであって、「風土」との関係はあるにしてもそれは極めて相対的なものにすぎない。封建的な時代(というより階級的な抑圧がある社会)においては、アジアでもヨーロッパでもアラビア地域でも、人々は普段は「忍従的」であり、時に「戦闘的」になった。また資本主義が浸透していくにつれて、どの地域の「文化」も「合理的」(資本主義的)なものに支配されるようになり、「風土」によって性格づけられる面はますます少なくなってきた。だから、「文化の多様性」を「風土」によって説明することは、あまりに一面的といわざるを得ない。

 ところで、「文化の多様性は、しばしば民族の対立としてもあらわれる」のだそうだ。「人間としてよりよい生活を求めて」つくられてきたはずの麗しき「文化の多様性」が、今度は否定すべき「民族の対立」の原因として語られるのだ。「文化の多様性」は「風土」の違いからくるというのだから、「民族の対立」は結局「風土」の違いに基づくということになる。「風土」の違いが一体なぜ「民族の対立」の原因になるのか、これでは全くわからない。教科書の“説明”は、「民族の対立」の背景にある社会的・経済的な問題を隠蔽する空論でなくて何であろう。もし、「文化の多様性」が、「しばしば民族の対立としてあらわれる」とすれば、それは、「多様」な「文化」の中には、我々が決して美化できない、忌まわしい「文化」もあるということを意味しているのではないか。

 無責任な教科書は、自らの主張をコロコロと変えながらもその矛盾に気付かない。「文化の多様性」を「民族の対立」の原因であるかに語っておきながら、今度は「文化の個性の尊重」を説教する。「世界の諸地域の文化は、それぞれの風土の中で長い歴史をとおしてつくりあげられてきたものである。それらはいずれも、そこに住む人々にとってはかけがえのないものであり、その文化の一つ一つが、人類全体にとってもかけがえのないものである」。だから、「それぞれの文化の個性を認め、異質な文化に対して寛容で」あれ、と。説教の背景には、異文化を支配・抑圧するエスノセントリズムへの警鐘や弱小民族の文化への共感などがあるのだが、「文化」の階級性に関する観点は皆無である。「文化の一つ一つが、人類全体にとってもかけがえのないもの」などと、本当にいえるのか? 封建的支配や身分的な差別に苦しむ人々にとって封建的な文化は「かけがえのない」ものか? すべてが「利潤」の奴隷になっているブルジョア文化を労働者は決して「かけがえのない」ものだとは思わない。すべての「文化」を「個性」として「尊重」するということは、異文化を支配・抑圧する文化をも「尊重」するということを意味するが、そんな説教をしていいのか?

 教科書は、「文化の個性の尊重」説を補強・正当化するために、「西洋中心主義」を批判し「文化に優劣はない」と主張したレヴィ−ストロースを紹介している。彼は、弱小民族を支配・従属させたブルジョア文明を批判しようとして、「西洋文明」一般にその矢を向け、「未開」と「文明」の区別や後者を「進歩」と見ることに異議を唱えた。だが、これらの概念的区別は本当に間違いなのか? 未だに割礼をして体を傷つけたり呪いによって病気を治そうとしたりしている「未開」に対して、現代の科学的な「文化・文明」を“より進歩的”とすることは、本当に「単なる幻想に過ぎない」のか? 両者を区別し「文明」の進歩性を認めることと、異文化を支配・抑圧するブルジョア文化・文明を批判することとは区別するべきであろう。

 「文化の個性を認め、異質な文化に対して寛容であろうとすることは、……自分たちの伝統的な文化を誇りを持って尊ぶということでもある。わたしたちの場合、日本の文化を人類のかけがえのない文化の一つとして継承し、より豊かに創造していくことは……日本人に課せられた重要な努めであろう」。こういって教科書は改めて別の章を設けて「日本の文化と伝統」について語り、これの美化に努めている。日本人は、豊かな「自然風土」のもとで「自然の『おのずから』なる働き」や「清き明き心」や「和」を重んじた考え方・倫理を育み、外来文化を寛容に受容しつつ、「こまやかな感受性」や「美意識」をもった文化をつくってきた、云々と。だが、たとえば「和」の観念の中には村落共同体的な「一体感」を表わす側面があったと同時に、被支配者たちの自己規制や忍従、支配者への反抗を抑制する側面があった。だからこそ聖徳太子はこれを「貴し」とし「(天皇に)さからうこと」に対立させて説いたのである。以後、「和」の観念は“仲良く”といった道徳的な規範以上の意味を持って支配階級に奉仕してきた。「日本の文化」といっても、実際には貴族文化・武家文化・町人文化・農民文化などの形で現れたのであり、われわれはそれらのすべてをそのままの形で美化するわけにはいかない。それらを歴史の中で具体的に位づけ、その中の“よきもの”を「尊重し」し「継承」するであろう。だが、「日本の文化」のすべてを(例えば、迷信的なものや有閑階級の心情を反映したもの、あるいは教科書が美化して書いている「武士道」や天皇制等々を)「伝統」の名の下に「かけがえのないもの」などといって美化し、「尊重」することは出来ない。

 「国際化」の今日、「異文化との交流・相互理解が求められてくる……。しかし、同時にそこには、世界の諸地域の文化がそれぞれの個性を失い、一つまたは少数の文化で世界が統合されるおそれもないとはいえない。それだけに、互いに個性を尊重しあい……云々」と教科書はいう。確かに異文化が交流し融合すれば各々の「個性」は失われるだろう。しかし、われわれはこのことをなぜ「おそれる」必要があるのか。エスノセントリズムや異文化支配を恐れるあまり、文化の融合自体をも「おそれ」、「個性」を絶対化するとしたら、それは実際には、古い・支配階級の「文化」を「尊重」せよと説くことにつながり、反動的な民族主義や自らが否定するエスノセントリズムに陥ることになる。そしてまた、労働者の国際主義的な融合に背を向けることになる。

(2)観念論哲学の美化

 「伝統的な文化」を「尊重」せよとの説教は、結局、反動的なものの「尊重」に帰着せざるを得ない。実際、教科書は反動的な「哲学的伝統」を尊重・美化して次のように言う。「今日のわたしたちにつながる哲学的伝統には、西洋哲学と東洋哲学という二つの大きな流れがある。そしてこれらの源流となった思想が、前者では古代ギリシャのソクラテスの思想であり、後者では古代中国の孔子と老子の思想である。……これらの思想には、いわば時代をこえた永遠の真理が語られている……云々」。

 ソクラテスは、堕落したギリシャの「市民社会」に対する貴族的な建て直しの任に当たり、後期ソフィストを形式主義的・道徳的に批判した反動的な観念論哲学者にすぎない。ところが教科書は、こうした歴史的な内容についてはまったく触れずに、ソクラテスは、「善く生きること」や「無知の知」「知への愛」等々を説いたなどと、さも尊い教えを説いた賢人であるかに彼を紹介する。ソクラテスの「哲学」の中には自己の「無知」を知る前提となるべき、「愛す」べき「知」の内容は全くない。それはただ、利己主義に堕していった「市民社会」の落とし子たちを形式的=道徳的に批判しただけものである。だが、それゆえに既成秩序の維持に利益を感じる支配階級(現在ではブルジョアジー)にとっては好都合なものなのだ。

 孔子も同様の観念論的な思想家である。春秋の乱世を憂い、氏族制的(それゆえに「仁」)周室封建制の秩序(それゆえに「礼」)を回復しようとした。彼も既成の秩序からはみ出す(革命的な)ことを許さない「道」を説いた反動家であった。だからこそ、中国の歴代王朝や日本の徳川封建領主らがこれを重宝がり、階級支配のために存分に利用してきたのだ。「無為自然」を説いた老子の思想は孔子の思想に対する無力な貴族的反動にすぎない。こんなものを「時代をこえた永遠の真理」であるなどといって子どもたちに教え込むこと自体、教科書が、現代の支配階級(ブルジョアジー)の意を挺したものであることを示している。

 ちなみに教科書は、「偏見や差別」の原因は「心」にあるなどといいつつ、“自分だけは差別とは無関係だと思い込むその心”を問題にした実存主義者のサルトルを紹介したり、「近代日本における最も独創的な哲学者」だといって反動的観念論者の西田幾多郎を持ち上げたりしている。

(3)宗教の美化と芸術の宗教化

 教科書は、「人間の持っている精神的文化の最も基礎的なもののひとつ」として「宗教」を美化する。宗教は、「有限で無力な存在」であることを自覚し、「絶対的なもの、永遠的なものとの結びつきを願うわたしたちの心に答えを与えてくれるもの」だというのだ。いったいどんな「答え」を宗教は「与えてくれる」というのか?

 勃興期の啓蒙的なブルジョアたちは宗教的蒙昧を“無知の産物”として否定した。しかし、今のブルジョアジーにはそんな勇気はなく、彼らは再び宗教を肯定的にとらえ直そうとしている。確かに宗教は、「死」や「有限で無力な存在」であることの「自覚」や「絶対的なもの、永遠的なものとの結びつきを願う……心」や「無知」といったものを契機にしている。だが、このような契機が「宗教」という明確な形をとるようになった背景には階級社会における諸矛盾がある。仏教がカースト社会の苦悩を、キリスト教がユダヤ民族の苦難や奴隷たちの無力を、そしてイスラム教がアラビア交易都市における貧富の差を反映して生まれたように、「世界宗教」はいずれも階級社会の矛盾に苦しむ「有限で無力な存在」の苦悩(“悩めるもののため息”)を反映している。そしてそのいずれもが、その苦悩からの「救済」を、つまり「絶対的なもの……との結びつき」を説く。ところがこの「救済」はただ「天国」や「彼岸」においてのみ可能であり、現実の世界での救済に執着することは「罪」であり「我執」であるとして否定される。かくして宗教が我々に「与えてくれる」「答え」とは、ただ「心に」のみ作用する非現実的なもの、つまり幻想に他ならない。幻想によって現実の苦悩を麻痺させる宗教は、支配者にとって被支配階級の反抗を抑えるための恰好の道具であった。だから「世界宗教」はみな支配者によって利用されてきた。仏教は、アショカ王やカニシカ王によって保護・布教されたし、日本に伝わって以降は周知のように聖徳太子や聖武天皇をはじめ多くの支配者によって統治のために利用されてきた。キリスト教も4世紀に皇帝によって公認されて以降、中世ヨーロッパでは自らが絶大な権力として君臨してきた。イスラム教もカリフ制度のもとでイスラム王朝や帝国を形成し、他民族や非イスラム教徒を支配・抑圧してきた。こんなものを現代のブルジョアジーは後生大事に「尊重」するのだが、それも彼らが支配階級だからである。

 芸術については次のような解説がなされている。「偉大な芸術作品を深く味わうならば、矛盾、苦悩に満ちたこの世界も、根本においては生きるに値するすばらしい世界であることも予感できよう。この意味において芸術は、宗教の救済にも似た働きをもっている」と。これは芸術に対する何という観念的な意義付けであろう。「偉大な芸術」に対する冒涜であるといってもいい。「偉大な芸術作品」は、その手法の多様性にもかかわらず、みな現実をリアルに映し出している。「苦悩に満ちたこの世界」を「すばらしい世界」であるように描いている作品があるとすれば、それは虚偽であり、支配者にとっては「偉大な作品」と言えても被支配者にとっては決してそうではない。われわれはミレーやベートーベンの作品の中に「偉大さ」をみるとしても、そこに漂う宗教的なものはむしろ彼らの“限界”として評価するのである。


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