![]() ![]() |
|
ブルジョア社会の美化 教科書『現代社会』批判/小幡芳久 マルクス主義同志会理論誌『プロメテウス』第49号所収 |
|
1 2 |
2、ブルジョア経済(学)の美化 序、「規制緩和が日本を救う」 「現代の経済と国民福祉」と題された経済に関する記述は、時の為政者の経済政策を美化することから始まっている。電話料金の大幅な値下げは「規制緩和の効用」であるとか、「日本はずし」現象が広がっている国際的な物流の世界で規制緩和が「迫られている」とかといって、「規制緩和が日本を救う」というのだ。資本主義社会では、「規制緩和」は基本的に資本の活動に対する規制の緩和であり、競争の激化であり、労働者に対する搾取の強化に帰着するのだが――実際、諸々の「規制緩和」政策の結果、大きな“格差社会”が生まれたのだが――、教科書はそんなことには全く無頓着だ。ただ、「安全や環境に関する」「必要な規制」もあると指摘するだけである。 @市場(資本主義)経済のしくみ 「わたしたちが営んでいる経済は社会主義経済に対比させて資本主義経済とよばれる。また、社会主義経済が政府による上からの計画によって運営される計画経済であるのに対して、資本主義経済は市場での自由な売買をとおして財やサービスが供給されまた消費されるところから、市場経済ともよばれる」。教科書は「産業革命によって資本主義経済とよばれる経済のしくみが確立した」とも書いているが、資本主義を歴史的な概念としてより「社会主義」との対比概念として押し出し、「自由」な=良い経済体制として印象付けようとしている。もちろん、ここでいう「社会主義」とは、「上からの計画」とか「「社会主義経済でもパンや牛乳などの生活必需品は価格をつけて販売される」などと書かれていることからもわかるように、旧ソ連などの国家資本主義のことである。ブルジョア教科書は、国家資本主義と私的所有が真に克服された社会主義とを区別することが出来ない。 さて教科書は、市場経済による「調和と発展」というスミスの教えを後生大事に信じ込んで、次のように書く。「市場経済では商品に対する需要量が供給量を上回ると価格が上昇し、反対の場合は下落する。しかも価格が上昇すれば生産者は供給量を増やそうとするし、低下すれば供給量を減らそうとする。こうして価格が上下に変動して自然に需要量と供給量が一致するしくみになっている」と。これは、ブルジョア経済学とこれを教える教科書の浅薄さを典型的に示す記述である。ブルジョアは「価格とは何か?」を決して科学的に説明することが出来ない。価格は需給によって、あるいは需給は価格によって決まるという循環論を唱えるだけである。どの教科書にも「需要曲線・供給曲線」などを掲げ、さも重要なことであるかに教え込むのだが、ペンが五十円で腕時計が五万円という価格の違いがなぜ生じるかの説明さえ出来ないのだ。価格は価値の貨幣表現なのだが、価値概念を持たないブルジョア経済学は、生徒に決して「価格」の真実――基本的には労働の量である「価値量」によって規定されているということ――を教えることが出来ない。それを教えることは商品の価値に含まれる剰余価値(労働)を、したがって搾取を認めることにならざるを得ない。だから、ブルジョアジーが価格の真実を知ろうとしない(教えられない)のは自らの階級的本能からなのだ。 資本主義は「利潤」の獲得を生産の推進動機としている。教科書も「企業の目的は利潤を獲得することである」と教えてはいる。だが、価値概念を持たないブルジョア経済学は当然のことながら「利潤」も科学的に説明することが出来ない。教科書は書いている、「利潤とは、生産物を販売して得られる販売収入から、人件費、原材料費、原価償却費などの諸経費(費用)を差し引いた残りの額のことである」と。利潤を「販売収入」マイナス「費用」で説明するのは小学校の算数と同じであって、高校の教科書としては同義反復にすぎない。ここでもブルジョアジーは、その源泉が剰余労働にあることを教えることができないので、これ以上は書けないのだ。 自由競争に基づく「市場経済」の発展、あるいは「利潤」の獲得を目的とした企業活動は、その結果として「寡占化と独占化の傾向」や「公共財の供給不足」、「公害などの外部不経済の発生」をもたらすと指摘した上で、教科書(予備校のテキスト)は、こうした現象を「市場の失敗」という。資本主義的「市場経済」が必然的にもたらす諸現象を、なにか偶然の、やり方によっては避けることが出来る「失敗」であるかに、子どもたちに語るのである。 A三つの「経済主体」 教科書は、「収入と支出」の経済行為をしているという形式的な理由で「家計・企業・政府」の三つを「経済主体」と呼んで同列に扱っている。清水書院の『資料 現代社会』はこれを次のように説明している。「消費主体ともいえる家計は、企業には労働力・資本・土地という生産要素を提供して、賃金・配当・利子などの収入を得ている。そしてこれを消費や貯蓄に振り向けている。また生産主体ともいえる企業は、家計から上記の生産要素の提供を受けて、商品(財・サービス)を生産・販売して利潤を得ている。さらに政策主体ともいわれている政府は、租税をもとにさまざまな財政活動を行い、家計、企業の経済活動を調整している」と。かくして「経済主体」が相互に補完しあって麗しい「国民経済」が成り立っているというわけだ。 だが「家計」には、「労働力」以外に「提供」すべきものがなくそれを売って「賃金」を得ている労働者の「家計」と、労働をせずに「資本・土地」を「提供」して「配当・利子(そして地代)」などの「収入を得ている」、つまり労働者を搾取している階級の「家計」とがある。教科書では資本主義に最も本質的なこの区別は隠蔽され、ともに「家計」としてひと括りに扱われているのである。まるで全ての「家計」が「労働力・資本・土地」を「提供」して「賃金・配当・利子などの収入」を得ているかのように。 「企業」は、「利潤を獲得すること」を「目的」としているが、その「役目」は「人々の生活に役立つ財やサービスを生産する」ことである、と教科書は説明する。ここでは、「人々の生活に役立つ財やサービスを生産する」のは、労働者の労働によってというより「企業」の経済活動によってであること、企業の「利潤を獲得する」行為の結果であることが言われているのである。しかも、「人々の生活に役立つ財やサービス」あるいは「利潤」を、つまり価値あるいは剰余価値を生産するのは、労働者の労働であるというより「労働力・資本・土地という生産要素」であると説明されるのだ。こうして教科書は、労働者を搾取し「利潤を獲得する」企業の経済活動を正当化し美化するのである。また、資本や土地を労働力と同じように価値を生み出すものとして教えるのである。 他方で教科書はいう。「株や土地の売買によって利益をあげようとする企業が増え、経済の本来のあり方をゆがめてしまうこともあった」と。「株や土地の売買によって利益をあげる」ことはもちろん生産的ではない。だが、「利潤の獲得」を「目的」としている企業にとってそれは必ずしも「経済の本来のあり方」から離れている訳ではない。教科書は資本主義経済の「本来のあり方」を美化するためにのみ、その「ゆがみ」を指摘してみせる。そしてすぐその後で、「その一方で社会的責任を自覚し、メセナ(文化・芸術活動への支援)やフィランソロピー(社会的貢献や寄付活動)と呼ばれる社会的活動に力をそそぐ企業も増えている」と語る。これは、利潤を侵さない範囲内で行われる企業の文化的・慈善的活動の紹介であり、労働者を十二分に搾取して余裕のある企業の欺瞞的な活動の紹介なのだが、その“健全な活動”を紹介することで、資本主義の腐朽化を示す「ゆがみ」現象を小さく印象づけようとしているのである。 さて、「政府」の活動である。教科書は書く、「政府は公共目的のために財政活動をおこなうが、その目的は次の三つに大別される。第一の目的は資源配分の調整であり、市場機構に任せたのでは十分に供給することの出来ない社会的共通資本や医療・教育などのサービスを提供する。第二の目的は所得の再配分である。所得税に累進税率を適用したり、低所得者層のための支出を行ったりして、この目的を達成しようとする。第三の目的は景気の安定化である」と。ここでは政府の財政活動は「公共目的」のためであり、とりわけ「低所得者層」に配慮した全国民のためにあるかの印象を与えている。だが、資本主義社会における「公共目的」とはブルジョア社会の安定ということだ。「第一の目的」は、何より資本が有効に機能できるようにするための「活動」であるといって過言ではない。「社会的共通資本」、例えば交通網の整備は資本の回転率を上げることと不可分であるし、「医療・教育などのサービス」は有能な労働力の確保と結びついている。また「第二の目的」は、所得を低所得層に「再配分」することによってこれらの人々の不満をやわらげる“アメ”または“保険”としての意義をもつ。「第三の目的」は、直接に資本の安定の問題であり、ブルジョアの財政活動としては最優先のことといっていい。労働者にとっても不景気は死活問題だが、景気が「安定」したからといって労働者の被搾取者としての立場が変わるわけではない。いずれにしても政府の財政活動は基本的にはブルジョア社会の安定のためにある。だからこそ政府の財政活動の中には階級支配を直接の目的とした“治安・防衛”活動があるのだが、教科書はこれを“第四の目的”として上げることを“忘れて”いる。 B景気変動と財政金融政策、および戦後日本経済 「経済にはかなり規則的な景気変動がみられる。景気変動とは好況、後退、不況、回復の四つの局面が周期をなして、好景気と不景気が交互に起こる現象のことである」。教科書は、「景気変動」を極めて現象論的に描き、なにか自然現象として起こるものであるかのような印象を与えている。「景気変動」がなぜ起こるのか、それは利潤の獲得を目的とした資本の無政府的な生産の結果であり、資本主義に固有の現象であるなどということは決して語らない。教科書は、一方で「景気変動」を“自然現象”として描きながら、他方で「景気を安定させる」ための財政・金融政策(特に不況対策)の必要性を説く。そして、その基本は「公共事業などの財政支出」つまり有効需要の創出策であり、「公定歩合操作・公開市場操作・預金準備率操作」といった金融政策であるという。要するに、ケインズ主義やマネタリズムの幻想を“正しい”ものとして生徒に教え込むのである。 さらに教科書は、戦後復興から高度経済成長を経てバブル崩壊に至る日本資本主義の経過を描写する。「バブル」が資本主義の腐朽化を表わしていることは語らず、「バブル崩壊後の不況」を指摘した後、教科書は「日本経済は今、戦後最大といっていいほどの転機にたたされている」といい、「日本経済の再建」の必要性を訴えている。そして、「根本からの経済改革」の例として「金融システムの安定化」うたい、「銀行の経営不安は金融システムを不安定にし、日本経済を動揺させかねない」といって、「公的資金」のつぎ込みによる銀行の救済政策を弁護・正当化している。 C「小さな政府」か「大きな政府」か さて、教科書は書く、「(スミスに基づく)『小さな政府』の市場経済は、現実には貧富の差を拡大し、過剰生産による経済の混乱を招くこともしばしばであった」と。「貧富の差」や「過剰生産による経済の混乱」を資本主義経済そのものの矛盾としてではなく「小さな政府」に起因する「資本主義経済の弊害(単なる「弊害」?!)」として語る。そして次のような展開をしている。 「資本主義経済の弊害を正すために、経済を部分的または全面的に国家の管理にゆだねるという考え方もあらわれた。たとえばマルクスは生産手段を社会的所有のもとにおき、国家が経済運営を行う社会主義をとなえ、彼の考え方はソ連その他の社会主義国家となって実現した」と。勿論マルクスは、「資本主義経済の弊害を正すため」といった矮小な「考え方」をしたり「国家が経済運営を行う社会主義」を唱えたりしたわけではない。また、「ソ連その他の社会主義国家」は「マルクスの考え方」が「実現した」ものでもない。教科書は、マルクス主義を、自らの矮小さに似せたりスターリン主義または国家資本主義と同一視したりすることによってこれを貶め、そうすることで資本主義を美化するのである。 「一方、ケインズは資本主義経済を基本とし市場経済の利点を生かしながら、政府が財政・金融政策によって経済に影響を与える修正資本主義の考え方を示した」といって教科書はケインズの修正資本主義の「考え方」を美化する。だが、これを絶対化することも出来ず、次に折衷に取り掛かる。「政府の経済的役割があまりに大きくなりすぎると(どれくらいの大きさなら良い?……小幡)かえって経済の効率性をそこなうことは、旧ソ連や東欧諸国などの例をみても明らかである。(「旧ソ連や東欧諸国などの例」は単なる“政府の大きさ”の問題か? また、これらの国々の“政府の大きさ”は国家資本主義の諸矛盾の大きさを反映していたのではないか。……小幡)しかし、政府の役割は小さければ小さいほどいいという市場万能の考え方も現代では現実性を欠いている(「市場万能の考え方」も矛盾を克服できないことを認めざるを得ない。……小幡)。「市場は限界を持っていることをはっきりと認識し、政府のなすべきこととなすべからざることとの境界をしっかり見きわめて、市場に出来ないことを政府の活動によって補っていくことが大切である」と。最後は、ケインズ主義と新自由主義の両方の政策を同時に正当化する折衷論的な空論である。同時にそれは、「市場の限界」という矮小化した概念で捕らえた資本主義の諸矛盾を如何に克服したらいいのか、ブルジョアがその方策に窮していることを暴露している。 D「消費者問題」「労働問題」「社会保障」 教科書は「消費者問題」を扱いながらいう、「民主国家の主権者」が「国民」であるのと同様に「市場経済の『主権者』は消費者」であり、ある商品を購入しようとすることはその商品に『円』という票を投じることだ」と。そして「賢明で合理的な消費者」になれと説教している。消費者の“主権”や“保護”を謳わなければいけないこと自体、企業の利益優先の下で消費者の“安全”や“利益”が二の次になっている社会の現実を示しているのだが、教科書はこれを、「『円』という票」の使い方次第で解決できる問題であるかに語っている。そもそも労働者はこの「票」(お金)を自由に使えるほど多く持っていないし、誇大広告や虚偽情報の海の中で、しかも商品情報の真偽を知りえない状況の中で生活している。労働者ほど安い、粗悪な商品をつかまされるのであって、「賢明で合理的な消費者」になるには限界があるのだ。教科書は、「消費者問題」が抱えるこうした本質的な問題を隠蔽する役割を果たしている。また教科書は、「森永ミルク事件」から「サリドマイド事件」「サラ金事件」等など、次々に起こる「消費者問題」を年表風に掲げている。これは、諸々の「消費者保護」法などの制定にもかかわらず、「消費者問題」が絶えることなく発生していることを示しているが、その責任は「賢明」な「投票」をしない消費者にあるとでも教科書はいうのだろうか。 「労働問題」については次のように書かれている。「資本主義経済では、労働者と企業の関係は労働力という商品の売り手と買い手の関係である。しかし両者の力関係はどうしても買い手である企業に有利に働きやすい」と。「労働者と企業の関係」について「売り手と買い手」という形式的に対等な関係だけを指摘し、搾取の関係という内容は問題にしない。そして「ほんらいなら対等であるはずのこの関係」(14年度検定版)が「企業に有利に働きやすい」という“傾向”を問題にするが、この“傾向”が本質的にはどこから生じるのかについては語らない。つまりそれは、「労働者と企業の関係」が決して「対等」ではなく資本主義的な搾取の関係に、階級対立の関係にあることに起因しているのだが、このことについては語らない。もちろん教科書は「労働三権」などについて説明し、これが労働者の闘いによって獲得されたものであることを紹介している。それだけでなく、「低成長の時代に入り」、「失業率は高まり労働時間と労働強度はむしろ増大する傾向にある。過労死やストレスなどの労働災害も目立つ」などと、一応は労働者の深刻な現状も指摘する。さらに労働組合の組織率が低下している現状を紹介しながら、「このような状況のもとで、だれが労働条件の改善のにない手になり、いかにして労働問題を解決していくかと言うことは大きな課題となっている」などと、まるでブルジョアジーの“余裕”とも“他人事”ともとれるような記述をしている。ブルジョアジーは「民主主義」者として、労働者の組合運動までは容認するのである。 「社会保障」について教科書は次のように書いている。「資本主義経済は人々が働けることを前提とした経済であって、けがや病気や高齢のために働けなくなると人々は生活の手段を失ってしまう。……人々が働く能力や機会をなくしたとき、個人にかわって国が生活の保障を行う制度として発展してきたのが社会保障の制度である」と。この記述には「社会保障」制度そのものが持つ欺瞞と同様の欺瞞がある。まず、「資本主義経済は人々が働けることを前提とした経済」だというが、それは資本にとって不要な人々を常に排除する経済でもある以上、“働けなくなることを前提とした経済”だともいえる。そして、それだからこそ「社会保障」が必要となる「経済」なのだ。また「人々が働く能力や機会をなくしたとき」などといって、“働けない”原因が労働者の側にあるかに書いているが、労働者は一定の「働く能力」があっても、“非効率”や“合理化”を理由に、ブルジョアによって働く「機会」をしばしば奪われ排除されるのである。さらに、「国民の立場に立ち国民の生存権を保障する」のが「近代的な社会保障制度」であるなどと意義付けているが、むしろ「社会保障制度」は、“ブルジョアの立場”に立った制度というべきではないか。なぜなら「ビスマルクが成立させた社会保険制度」もニューディール政策下の社会保障制度も、また「ベバリッジ報告に基づいて制度化されたイギリスの社会保障制度」も、そして憲法25条で謳われている日本の社会保障制度も、その本質は「ブルジョア支配における“アメ”の制度であるであるからだ。勿論、この制度には社会的な支えあいの契機もある。だがブルジョア社会では、一方でブルジョア的な能力が欠ける人間(障害者、高齢者など)を生産の場から排除し、他方で“保障”や“福祉”(「国家による恩恵」)の対象とするのであり、その意味で極めて欺瞞的な制度と言うべきだろう。教科書はこのような欺瞞的な制度を美化し、「福祉国家(社会)」を「めざす」べきだというのである。 E国際経済 教科書は、「貿易が取引国の双方に利益を与えることは、イギリスの経済学者リカードによって理論的に示された」とか、「国際分業にもとづく自由貿易を説く彼の考え方は現代においても十分に通用する考え方だ」とかといって、リカードの「比較生産費説」を説明し、美化している。国際分業の利益を形式的に説明することによって教科書は、実際の「自由貿易」が先進国に有利にはたらく状況を、途上国が搾取される状況を固定する側面をもっていることを隠蔽している。(平成14年の検定版では、国際分業や自由貿易の発展が「経済摩擦や南北問題の一因」となり「必ずしも好ましい結果を生み出すとは限らない」などと指摘しているが)。 なお、教科書は、現在の経済活動が「国境をこえて」広まり深まっていることを指摘して、「先進国の協調と対立」「社会主義経済の変化」「多様化する南の世界」「経済の地域統合」等々について書いている。だが、こうした「協調と対立」や「変化」や「多様化」などを“資本の本性”と関連させて展開しているわけではないから、それらが資本とその国家の利害をめぐって展開されているという、国際社会の真の姿を生徒に理解させることが出来ない。例えば、「社会主義経済の変化」つまりソ連や中国の「自由化」や「市場経済化」は、実際には国家資本が抱えていた矛盾の発現なのだが、教科書は「社会主義」や「計画経済」の矛盾を示すものだと教える。これは資本主義を美化する恰好の材料になっている。また、「南の世界」の「多様化」の内容は、「先進国」との、また「途上国」間や「途上国」内部の「格差」の問題である。そしてこの「格差」は「先進国」や「途上国」内部の資本による搾取の問題と、あるいは「途上国」における資本主義の未発展の問題などと関連しているのだが、教科書はこのようには説明をしない。むしろ「先進国」による諸々の「援助」や「努力」にもかかわらず「格差の是正」が進まないかの書き方をしているのである。 |
previous ≪ 2 ≫ next ▲TOP |
|
![]() ![]() ![]() |