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ブルジョア社会の美化
教科書『現代社会』批判/小幡芳久
 マルクス主義同志会理論誌『プロメテウス』第49号所収

はじめに


ブルジョア民主政治の美化
(1)民主政治の「原理」の絶対化
(2)日本国憲法の美化
(3)議会制民主主義と国会・内閣・裁判所
(4)「市民の役割」を説教


ブルジョア経済(学)の美化
序、「規制緩和が日本を救う」
(1)市場(資本主義)経済のしくみ
(2)三つの「経済主体」
(3)景気変動と財政金融政策、
および戦後日本経済
(4)「小さな政府」か「大きな政府」か
(5)「消費者問題」「労働問題」「社会保障」
(6)国際経済


「主権国家」の絶対化と「国連」の美化


「文化」・宗教・観念論の美化
(1)文化の階級性を否定
(2)観念論哲学の美化
(3)宗教の美化と芸術の宗教化


科学技術への不信


抽象的な「青年期」論


現代社会とは何か

6、抽象的な「青年期」論

 十年から十数年におよぶ「青年期」といったものは、生産力の発展に伴う一定の経済的な余裕と社会的準備学習の必要とを背景にして、ブルジョア社会になって一般化した。そのためもあってか、教科書は、「青年期」の心理や「生き方」について扱っている。だが、その扱い方は極めて抽象的・非社会的・非歴史的である。教科書は言う、「青年期」は「子どもから大人への過渡期」であり、この中間的な「立場」や「体に見られる変化」が「心のゆらぎ」や「フラストレーション」を引き起こす。また、「青年期の課題」は「自分らしさ探し」である、等々と。勿論こうした指摘それ自体は、抽象的ゆえに間違いではない。だが、「青年期」が現代に特徴的な期間であるならば、その心理や生き方についても現代社会すなわち資本主義の現実と結びつけてもっと具体的に論及するべきだろう。現代の青年の「心のゆらぎ」や「フラストレーション」は、単に「青年期」であること自体から生じる抽象的なものとしてあるのではない。能力主義的な競争や形骸化した教育、ブルジョア的で欺瞞的な大人社会など、ブルジョア社会の姿と不可分のものとして、具体的な内容を持ったものとしてあるからである。

 また、教科書は、「現代社会において、どういう生き方が大人の生き方であるかを語ることは、ますます難しくなってきているが、つぎの四つがその中に含まれることは確かなことといえる」といって、「経済的自立」「問題解決能力」「文化的な豊かさ」「コミュニケーションの能力と技能」を挙げ、これらを身につけることの必要を説く。資本による搾取が大手を振るっているこのブルジョア社会の中で「経済的に自立」したり「文化的な豊かさ」を享受したりすることがどんなに困難なことか、教科書はそんなことについては何も言及せず、ただ、この社会に適応していくための「能力」を身につけよと、青年たちを叱咤激励しているのである。更に教科書は、「現実の社会に目を向け、それへ積極的にかかわっていく意欲」をもてともいう。だが、私利を追求するブルジョア的な「現実の社会」を散々に美化しておきながら、そしてそれへの適応を要求しておきながら、それへどんな風に「積極的に」関わればいいというのか。教科書は、矮小に「ボランティア活動」などを例に挙げているが、反動的な活動に「積極的に関わる」ことはどうなのか? 「現実の社会」に対して具体的にどのように関わったらいいのか、したがって「どういう生き方が大人の生き方であるか」をブルジョアたちは具体的に語ることが出来ない。自信のない彼らは、青年に対してただ、形骸化した「勉強」を強要するか、社会への適応や「積極的な関わり」を抽象的に説教することしか出来ない。このことがまた、青年の「フラストレーション」を助長しているのであるが、彼らはそれに気付かない。

 とはいえ、教科書は第1章の冒頭で、「現代版おとぎ話」といわれる『フォレスト・ガンプ』を紹介し、ブルジョアにとっての「魅力」ある「生き方」について一定の具体的なイメージを与えている。――「学校ではいじめられ、厄介者扱いされてばかり」だった少年ガンプは、やがてスポーツで活躍、「ベトナム戦争では……勲章をもらい……。えびの養殖に成功、大金持ちになる……」。「運命にもてあそばれる彼であるが、一つひとつの偶然を、ありのままに受け入れていく」「誠実さや純粋さや思いやり」が大切だ、と。つまり、“アメリカンドリーム”を地でいくような人間がブルジョアにとっては理想的な生き方ということであろう。だが、「運命にもてあそばれ」「偶然をありのままに受け入れる」ような人間を、また帝国主義戦争に加担して「勲章」をもらったり、「大金持ち」になったりするような人間を、そしてそのための「誠実さや純粋さ……」を、労働者はどうして理想にできようか。

 われわれ労働者は、このようなブルジョア的な「生き方」をきっぱりと拒否し、矛盾に満ちたブルジョア社会の克服に向けて徹底的に学び活動せよと青年たちに呼びかけるであろう。歴史の目標を明確に示すことが出来ず、「自分らしさ探し」が「青年期の課題」であるなどと、気の抜けたようなことを言っているからこそ、今、さ迷える青年たち(「フリーター」や「ニート」など)が増えているのではないか。もし、労働者がこうした青年たちをマルクス主義の側に引き付けることができないならば、彼らは、さ迷い続けるか反動の側に「積極的な関わり」をもつようになるかしてしまうだろう。責任は「教科書」だけにあるのではない。


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