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ブルジョア社会の美化
教科書『現代社会』批判/小幡芳久
 マルクス主義同志会理論誌『プロメテウス』第49号所収

はじめに


ブルジョア民主政治の美化
(1)民主政治の「原理」の絶対化
(2)日本国憲法の美化
(3)議会制民主主義と国会・内閣・裁判所
(4)「市民の役割」を説教


ブルジョア経済(学)の美化
序、「規制緩和が日本を救う」
(1)市場(資本主義)経済のしくみ
(2)三つの「経済主体」
(3)景気変動と財政金融政策、
および戦後日本経済
(4)「小さな政府」か「大きな政府」か
(5)「消費者問題」「労働問題」「社会保障」
(6)国際経済


「主権国家」の絶対化と「国連」の美化


「文化」・宗教・観念論の美化
(1)文化の階級性を否定
(2)観念論哲学の美化
(3)宗教の美化と芸術の宗教化


科学技術への不信


抽象的な「青年期」論


現代社会とは何か

3、「主権国家」の絶対化と「国連」の美化

 「国際社会は国家を基本的な単位として成立している」と教科書は指摘する。そして「主権国家からなる世界のしくみは、17世紀のヨーロッパで誕生した」と、その「誕生」については一応歴史的に語る。だが、ブルジョアジーは「主権国家からなる世界のしくみ」を不変のものであるかに絶対化する。将来の社会主義においては「主権国家」といったものが止揚され世界的な融合が実現する――なぜなら、「国家」は“階級支配の機関”であり、階級支配がなくなれば“死滅”するものだから――などという展望には思いも及ばない。「主権」を主張し「国益」(=ブルジョアジーの利益)を追求する排他的な「国家」を「基本的な単位」としている「世界のしくみ」の中では、国家間の利害衝突は避けられない――なぜなら、戦争は階級支配をその本質とする“政治(国家)の延長”だから――のだが、彼らは同時に、この「しくみ」のままで「平和と安全」を確保するという困難な「課題」に取り組まなければならない。そしてそれが可能であるかの幻想を抱くのである。

 「国際社会では、国家は、人口の多さや領土の広さ、経済的な豊かさなどにかかわりなく、主権を持つ等しく独立したメンバーとして平等に扱われる」と教科書はいう。これは明らかに“嘘”だ。190をこえる「主権国家」は、それぞれ決して「平等に扱われて」などいない。経済的・軍事的強国の意思が国際社会を牛耳っているのは明白な現実である。

 さて、教科書は、「戦争を防ぐ方策」として「勢力均衡の考え方」と「集団安全保障という考え方」を上げ、後者を美化して次のように言う。「勢力均衡政策をとると際限のない軍拡競争におちいり、しかも、軍拡競争の多くは戦争にまでいたった。」「こうした勢力均衡政策の欠陥を乗り越えようとしたのが集団安全保障という考え方である。これは、ある国が条約を破って武力で他国を侵略した場合に、集団安全保障条約に加入した残りのすべての国への攻撃とみなし、侵略国を制裁するしくみである。このしくみによって、いずれの国も勝利の見込みのない戦争を開始するはずはなく平和が維持されるというのがこの集団安全保障の考え方である」と。

 「集団安全保障政策は、第一次世界大戦後の国際連盟によって実現された。……しかし(それ)にもかかわらず、世界は第二次世界大戦に突入していく。その原因は国際連盟の持っていた欠陥から集団安全保障が有効に機能しなかった点にもある」といって、教科書は、米ソの不参加、日独伊の脱退、全会一致制など、「国際連盟の持っていた欠陥」をあげる。こうして第二次世界大戦の原因について、教科書は他にも原因(「点」)があるかに示唆しつつ、事実上、「国際連盟の……欠陥」にそれを求めている。現代の戦争の原因が、帝国主義的な市場争奪や過剰生産恐慌、そして深刻な失業問題など、資本主義経済に固有な矛盾と不可分であることに触れるのではなく、それを単に国際組織の「欠陥」に求めるとは、なんと浅薄な戦争原因論であることか!

 教科書はまた「国際連合」を美化して言う、それは「二度にわたる大戦への反省」と「国際連盟の持っていた欠陥」の克服とをしつつ、「世界全体が協力して平和を維持する機構として設立された」と。だが他方で、国連は「大国間の不一致」などのために有効に機能していないこと、「第二次世界大戦後だけで、こうした戦争(局地戦争)で3000万人もの人命が奪われている」現実があることなども事実として指摘せざるを得ない。これは、ブルジョア国家の連合にすぎない「国連」が平和の実現に対して如何に無力であるかを示しているのだが、教科書は決してそうはいわない。「国連改革の議論が活発になっている」といって国連への期待をつなぎとめようとしたり、「ゆるぎない信頼関係を広く国民の間で築き上げる努力が求められている」などという空論を唱えたりしているだけである。もちろん、たとえ「国連」が「平和の実現」にとって一定の役割を果たしたとしても、それはブルジョア国家連合にとっての「平和の実現」にすぎない。というより、実際には「国連」をも牛耳っているアメリカなどの帝国主義国家にとっての利益の実現に過ぎない。我々は「国連」による「平和の実現」に幻想を持つことはできないのだ。

 ところで、世界には「貧困と格差」「差別と抑圧」「民族紛争」などの問題があり、「主権国家」の連合体である「国連」をもってしてもそれらの解決は難しい。そこでブルジョアジーは、一方で「国家」を絶対化しつつも、他方で「国家以外の単位」の活動に一定の期待をよせる。これまで国際社会では「国家」が「唯一の主体」とされてきたが、「国連やその下部機関などの各種国際機構」、ASEANなどの「超国家的国際機構」、多国籍企業、NGOなど、「国家以外の主体も、今や不可欠の構成員として認められている」と。とりわけ「近年ますますその数を増やし、かつ、活動が活発になってきた」NGOは、「市民などの自発的な意志によって結成され、いかなる政府にもコントロールされずに、人権、環境、開発、福祉などの分野で国際的に活躍している」と。さらに、「国際組織(「国連難民高等弁務官事務所」)やNGOは、数カ国にまたがる環境問題や、第三世界の工業化のために置き忘れられた農村の開発、急激な都市化のために出現したスラムの問題など、一国家では解決できない問題や政府の手の届かない問題に積極的に取り組んでいる」などといって、教科書はこれらの組織とその活動を美化している。「国家以外の主体」といっても「その多くは、主権国家の代表からなる合議体」であるし、NGOといっても「いかなる政府にもコントロールされ」ないなどということはない。これらの組織は、「地球を舞台に」展開される、ブルジョアジーとその国家による数々の“悪行”に対する、ブルジョア的、プチブルジョア的な補完組織にすぎない。労働者はこんなものを美化することはできないのである。

 「国家以外の単位」の活動に期待しておきながら、教科書は最後に再び「日本」という国家による「貢献」の必要を説く。「平和憲法」をもち、「屈指の経済力」をもつ「日本は世界からそのもてる力を世界の平和と発展に貢献するよう求められている」と。今、日本のブルジョアジーは「国際貢献」の名で世界各国に自衛隊を派遣するまでになっている。これは、実際には世界中に進出して他国の労働者を搾取し、膨大な投資収益をあげている日本の資本を守るためであり、更に新たな権益を獲得するためであって、日本の帝国主義化を反映した行動である。「日本の貢献」を謳う教科書はこうした現実を隠蔽するだけでなく、「貢献」という美名のもとに帝国主義的な行動を正当化し、後押しする役割を果たしているのである。


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